イベントレポート

城フェス 2015・・・5!? 後編 武田の城?徳川の城?

さて、後半戦・・・の前にブレイクがてらに
フォトコンテストなんていうのもありましたねぇ。

奥月さんはじめ、知ってる皆さんの写真がノミネート。

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個人的にこれいいなぁ。なかなか高松城は再建難しいだろうし、
やりたい気持ちはよくわかりますなぁ。

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撮るでぇとやる気むき出しな城メグさん@熊本城も素敵(笑)

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夕暮れ×天守って、やっぱり鉄板ですね!

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雪の竹田城。わたしもみたことがない・・・
でも、もう怖くて竹田城行けないよなぁ・・・

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フォロワーさん・しんさんの竹田城のお写真。
娘さんと竹田城の一枚。グランプリに輝きました!
超超今更ですが、おめでとうございます(笑)

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竹田城、12月に初めて行ったきりなので、
このような新緑の竹田城みたことないよなぁ・・・あぁ。

・・・ということで、フォトコンの後は、
レポート・高天神城と小笠山砦と加藤先生の講演
「徳川の城・武田の城」という内容。

(1) レポート・高天神城と小笠山砦

小笠山砦とは、武田の高天神城を落とすための
徳川城砦群の代表的な陣城だとか。
高天神城は行っておりますが、小笠山砦は未訪問。

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小笠山砦からみた高天神城。目と鼻の先ですの。

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位置関係。高天神城も北側に向かって、
U字に曲輪が開いているのに対して、
小笠山砦も南側に鶴翼の陣。

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縄張図。高天神城の北に位置し、
南側に対して、鶴翼の陣を構えるような印象を受けます。

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そして、中井先生の解説にあるように、
曲輪がほとんどなく、横堀・堀切を多用して、
武田方からの反撃を遮断することにのみ特化した塹壕的な。

このあたりは特殊な礫層で、高い断崖絶壁でも崩れないそう。
なので、土の城をつくるうえではかなり有利な地質なんですねぇ。
(敵味方両方に、だけど)

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ぐるっと伸びる横堀。

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エッジの効いた土橋。いいねこれ!

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しかし、すごい崖・・・次、高天神城行くことがあったら、
拠ってみたいですね・・って拠ってどうする(笑)

高天神城。

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中井先生が、「別城一郭」という表現をされていましたが、
元々は本丸のある東側のみで、武田が入ることで
井戸曲輪以西の尾根も城に取り込んだのではないか?と
いう見解を出されておられました。

確かに西の曲輪は、ぐるっと西側に濠が配されていて、
丸子城のような感じは受けますし、尾根を切断した堀切は
ダイナミック・・・である一方、東側はわりと単純な感じはしますもの。

本丸で土器?を確認する中井先生。
後ろで顔出しで遊んどる・・・という加藤先生とのdisりあいは
聞いてて楽しいです(笑)

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大河内政局捕らえらたといわれる石窟ですが、
岩盤の崩落を気に調査すると、その伝承通り遺構が
見つかったそうで。。意外と伝承馬鹿にできないよ?という話。

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結局、伝承が伝承のままなのは、証明ができないからであって、
嘘だ、間違っているというわけではないのですよね。

火のないところに煙は立たない・・・式の考え方で、
確かではないにしても、何かにシグナルかも?というようには
考えるようにしたいものですね。

西の曲輪の横堀。防御の意味だけでなく、
テリトリー意識の発露として、ここまでが城郭だいう
線引きでもあるかも、ということでおもしろい。

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尾根を遮断した堀切。

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(2) 徳川の城・武田の城

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てことで、徳川と武田の城@駿河・遠江の話。
というか、丸馬出の武田から徳川への系譜のお話、
といったほうがいいかもしれません。

常々、加藤先生はいわゆる丸馬出=武田ではないよ!
ということで、諏訪原城はじめ徳川が入った以降に、
大規模な丸馬出を建造していると比定される城も多いのです。

駿河田中城。外郭に4つ、内郭に2つの丸馬出が
あったわけですが、どうも徳川ではないか?と言われてると。
この様子は江戸時代の田中城の再現。

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駿河丸子城。大鑪(おおだたら)曲輪が丸馬出、
その他いくつか丸馬出、と言えなくもない箇所があります。

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大きすぎる・凝りすぎているという点から、
中井先生・加藤先生は天正十年以降、小牧長久手に
備えた徳川の防備という捉え方をされているようです。ふむ。

ただ、具体的な発掘などは行われていない、
ということですから、確定的とまではいえないようですなぁ。

にしても、横堀の途中あるいは終端に丸馬出がある
というのがちょっと丸馬出というのは、
形状は同じでもちょっと使い道が違うように思うんですよね。

同じ、横堀の途中にという意味で共通するのが
遠江犬居城。

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横堀の途中に丸馬出状の小さな曲輪が
確かに確認できます。

小長谷城。北側の曲輪は完全に破壊されてしまって
いるのですが、残存している部分に丸馬出が
重ねて配置されているのがわかります。

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破壊された部分ですが、こちらのblogによりますと、
昭和10年当時の「小長井城略圖」に
小学校となった北側の東側に弧状の堀が描かれているようです。

つまり、本曲輪の左右(南北)対称的に、
重ねた丸馬出が設置されてあったと推測できそうです。

そして、丸馬出といえば!の諏訪原城。

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諏訪原城は発掘調査がされているそうなのですが、
本曲輪では、武田期の焼けた遺構面と徳川期の遺構面が出てるとか。

そしてその焼けた武田期の面を整地して、徳川期に曲輪を
整備しているのですが、おもしろいことに徳川期の虎口土塁の下
からも武田期の遺構面が出ているのだそう!

じゃ、この土塁って徳川期とするならば、どこから
土を持ってきた?と考えると徳川期に大きく壕を掘っている
という風に考えるのが自然というわけです。

なるほど・・・諏訪原城の丸馬出は徳川というのは
可能性が高いことがよくわかります。

規模の比較。
高天神城の横堀と諏訪原城の横壕比較。

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同じく丸馬出、確実に武田と言える興国寺城の丸馬出と
徳川と推察される諏訪原城の丸馬出。

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確かに規模の大きさは一目瞭然ですよね・・・

いずれにしても、なんでもかんでも武田武田と言い張るよりも、
武田的なモノが伝わってることの方に価値を感じたい、
という思いがお話を聞いていて強まってきました。

武田から徳川に変遷していくなかで、丸馬出が
どう伝えられていくのか。形状は同じでも使われ方はどうか?
徳川時代に発展的に変貌していくのでは?などと
考えると、興味は尽きませんね。

また、近日加藤先生の丸馬出のお話を
ちょうど聞くことになっているので、その意味でも
1年半前のイベントですが、非常によい振り返りになりました。
(いい感じの言い訳)

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城フェス 2015・・・5!? 前編

さて、いよいよ最後。タイトルが紛らわしいですね、
2015ですよ!2015(笑)

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盛りだくさんの4時間オーバーの企画ですので、
(というのとズボラ根性もあって)二つに分けまする。

城ラマ・上田城。平山先生説とは異なって、
百間濠のある北東方向に天守相当の三階櫓がありますな。

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こちらはご存知、長篠城。
武田風に丸馬出が置かれている点が◎
長篠城を武田が改修した後ですね。

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こちらはある意味、武田の命運を決定付けた、
とも言える高天神城。

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城ラマおつくりの方が武田に関心が高い方なので
わりと武田にゆかりのあるお城が多いんですね。
ありがたや、ありがたや・・・

というわけで、城フェス始まりです。
かみゆ代表の滝沢氏に、中井均・加藤理文両先生、
そして城メグリスト・萩原さちこさんのいつもの(?)メンバー。

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(1)韮山城・天ヶ岳レポート
(2)中井先生・安土以前の石垣の城
(3)フォトコンテスト

の前半三本をまず。あまりに前のことなので、
記録とってる中から、個人的に気になること残しておきたい
という点に絞らざるを得ないのはご承知置き頂きたく…

(1)韮山城・天ヶ岳レポート

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韮山城を目の前に・・・山城は高ければいいってもんではない!
っていう話。領域を支配する範囲を見渡しうる一番低い山でいい
ということ、考えてみればそれが一番効率的ですわな。

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一国を支配する戦国大名レベルになると、徒歩1時間程度
国衆クラスであれば徒歩30分程度の比高と考えるのがよいと…
というと、韮山城であればこの程度が妥当と。

そこに豊臣軍が攻め込んでくるという事態になって、
初めてより高い裏山(天ヶ岳)を取り込む必要が出てきたのではと。

必要以上に高いと防御や領域監視はいいのでしょうけど、
やはり行き来が大変だったり、水の問題があったりと
いいことばかりではないですからね。必要に応じた適切なバランスで
城が築かれる対象になる山が決まっているのは、ナットクです。

10分~15分と縄張図を見ながら、検討する先生方。

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やっぱり、最低限縄張図をしっかり見ながら歩くってのは大事。
しかし、縄張り図を持っていっても、実質その場ではじめて見る
だったり、同行する方のコピーを当てにしているというのが
今までだったな・・と反省。

まぁ、数を行こうとするとどうしてもそうなるわけですけど、
事前に縄張図を見ながらある程度予習して、
どういう点を見たいのか?をハッキリさせて見に行きたいもんですな。

加藤先生がおっしゃっている看板をデジカメで撮って、
それを見ながら遺構を歩くっていうのは、わたしもよくやる
一番お手軽な方法ですよね。

とりあえず主曲輪に行ってみて、それから降っていくと
判りよいというのもなるほどなるほど。主曲輪に解説があったり
っていうことも多いですよね。

この三の丸権現曲輪に差し掛かる枡形虎口を目の前にして…

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何かを確認しに、どわぁぁぁぁと確認しに行かれる中井先生(笑)
それを見守る城メグさん。

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二の丸切岸。なんかすごいらしい。
やっぱり行かんとあかんよね。

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ここからより中枢部に入るという、仕切り的な機能が変わる
という意味もあったんじゃないかと。なるほどね・・・
躑躅が崎の表と裏(裏が少し高くなっている)を思い出します。

せせり立つなぁ・・・

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にこやかに登るおふたり。

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城山の上から景色を見て、街道や川、味方の城・敵の城の位置
などの立地条件を本曲輪から見るという楽しみ。

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これもある意味、予習が欠かせないなーと思いました。
というのも、本曲輪からこっち方面に何が見えるって解説が
仮にあったにせよ、街道や他の城がとかは充分にないことが多い・・・

だからこそ、自分の問題意識にしたがって、周りに何があるのか?
を調べていったほうが間違いなくいいんでしょうね。

左から右へ、韮山城籠城守備兵には山中城へ向かう豊臣の大軍が
見えたでしょうね・・なんて会話をしながらの城攻め、
そりゃぁ、楽しいですよねぃ。

豊臣側に土塁が盛られているってという話。
必要のないところには盛らないってことなんですけども…

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これは駿河丸子城で感じたことですね。
今川時代と武田時代では、仮想的の方向が違っていて、
結果的に防備の向きが違うんですよね。

もちろん土木量の違いもあるわけですが、
決して今川時代のほうには武田時代の大規模な
土塁や堀はないわけでして。

焔硝蔵があったのでは?とも目されている塩蔵。
土塁で万が一の爆発にも耐えられる構造。

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天ヶ岳。背後にあるより高い比高の城。

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こんな感じで本丸見下ろせちゃうんだなー。

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ふむふむ。知り合いの山城好きな人はほとんど
行ってられるのかもしれないですけど、魅力はよくわかりますね。

最初からココに作っておけばよかった?のかもだけど、
最初は必要がなく、豊臣軍が迫って初めてという流れも興味深い。

(2)中井先生・安土以前の石垣の城

ひたすら写真だけを眺めるだけの講演でしたが、
それでも非常におもしろい内容でした。(改めて聴き直しても)

長年、安土城が最初の石垣の城といわれ、いや観音寺城が先
いやいや信長だってその前にも・・というところですが、
もっと広範囲、16世紀前半(1500年代前半)あたりから
石垣の城が見られまっせという話ですね。

■松本平周辺■
ひとつの地域が、松本平周辺。
虚空蔵山城、一説に滋野一族の会田氏の城とも。

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鏡石のような大き目の石に、顎出といわれる
少し突き出たような構造をもってます。

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こちらは林小城、守護小笠原氏の城。

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ちょっと調べがつかないのだけど・・・
はぎはら城なる城。段築して二段構造にしてます。

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山家(やまべ)城。ここも4m程度の石垣・・・
というか、石壁。ここまでで共通なのはいずれもほぼ垂直で、
いわゆる切岸の垂直さをより追求した結果であり、
後世の石垣の上に構造物を形成するものではないという点。

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これって、他の周辺地域には伝わらないんですね・・
特にこのあたりは武田が制圧していくわけで、
もし武田が価値を見出していたとするならば、吸収していてもいいはず。

しかし、勝頼期末期の要害山城・熊城修築や
おそらく同時期であろう躑躅が崎館の土塁増強で土留めとして
石積みは使われていますが、切岸の代用としての用例は
武田領国にはないと思われますね・・・

もう一度確認は要りますが、中井先生のいうような、
切岸を重要視する考え方は、武田にはなかったのかもしれません。

■近江■

続いては近江。まずは観音寺城。

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矢穴がある!ということは、見れば判るんですが、
石を割るという発想が武士ではなく、寺の発想というご指摘。

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五輪塔や石仏をつくる過程で、石材加工技術が蓄積され、
どうもそのお寺の関係者が技術指導してそうだということなんだとか。
一方、20年後の安土城には矢穴はない・・・
こういうところから、石材加工の伝播経路を辿るのも楽しそうです。

麓の伝御屋形。守護六角氏の屋形跡とされています。
普段は鬱蒼としているそうで・・・??

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隅石。近世の算木積ではない未熟さが興味をそそります。

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文献によると、1556年。ちょうど信玄公が信濃攻略に邁進すべく
甲相駿三国同盟を結んだあたりでしょうか。

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この辺の矢穴はすごいな、二回も石を割ってますぞ。
同じく六角氏の三雲城。

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こちらも算木積が未熟。加工はできても、
積み方ってのは、試行錯誤だったんでしょうかねぇ。

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小谷城山王丸石垣。この辺が浅井のよう。

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信長の野望をやってると、近江は南北別になってましたが、
石垣技術も南近江とは違い、同時代比較すると、
未熟なんですね・・こういう比較と気づきはなかなか素人だけ
ではできず、ありがたいご指摘です。

チョット飛んで、播磨へ。

■播磨~安芸~九州■

赤松氏の置塩城。垂直に土塁の代替としての石垣
という意味で、先ほどの松本平周辺との共通性を感じますね。

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こちらは・・・行きたいと思いながらずっと
行っていないままの吉田郡山城。

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どうも総石垣であったようですが、島原の乱後に
大規模な城破があったよう。

佐賀・勝尾城。段築して二段に築かれた石垣。
ここも建物を建てるのではなく、バリケードとしての城壁
としての役割なんでしょうかね。

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加工せずに石を使ってどう、城に生かすか?
を考えたとき、地域性はあまりなくて互いに繋がりはなくとも、
同じような結論に達するのかもしれません。
扁平な石を選んで、というのも松本と共通してるしね。

これはわたしも行った、長岩城の登り石垣。

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石積櫓。

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自分がオフ会に参加したときは、ずいぶんと珍しい積み方、
石の選び方だと思ったものですが、実は同年代と目される石垣遺構で
比較すると、割と共通しているのかも。

城ではないのですが、周防大内氏の凌雲寺。
ここの石塁をご紹介いただきました。観音寺城の門にソックリ!

P1100578

垂直な感じ。お寺ですから何も理由がなければ、
塀のように垂直に立てますよね。それが、何らかの過程で、
山城の防備に使えるやん!と築きがあったのでしょうか!?

ということで、1年半後に見返しても(爆)
ちゃんと自分にとってのメモとして、残しとくべきだー!
と思える貴重なお話でしたっ。

さて、後半に続く。

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倭城でないと!~平成の役~ 201【5】

さて、実質的に残っている最後の2015年ネタ。
えーっと・・・・2016年も10月が終わる・・・
ってことは、8割方終わっている・・・なのに2015年・・・
# 武田関連講演は2016年分とまとめようかと思っています

あまりの2016年記事の溜まり様に、茫然自失・・・
ですが、こつこつ記憶を手繰り寄せて書いていくしかありません。
やっぱり、こうなっても記録に残したいって気持ちが強いのでね。

ということで、2015年の6月末。ちょうど2015年城フェスの前日に
(2016年の城フェス@可児も終わったよなぁ・・・汗)
倭城のお話をば、カルカルにて拝聴の巻であります。

なんと、よく知るお二人がプレゼンされるというわけでね・・・
お一人はもうお世話によくなっているサイガさん(新津竜一氏)、
そして、こちらももうお世話になりまくりの夕里さん。

夕里さんとはじめてお会いしたのは、2012年岡山にて。

本当にあのときに、しみじみとお城が好きだったけど、
こうしてお城の話ができるなんて・・・と誰にも城好きを明かさずに
来たことを話してられたのが遠い記憶のように思えます。

そして、倭城を知り、あっという間にその魅力に魅せられて
韓国に住んでしまうという・・・割とわたしも行動力のあるほうだと
それなりには自負していましたが、度肝を抜かれましたよね。

そんな夕里さんがどうされてこられたのかを知るいい機会でした。
司会はカルカルといえば・・のテリー植田さんと
城郭研究家の本岡勇一さん。

プレゼン前半は夕里さん、後半は、同じく城郭研究されている
堀口健弐氏とサイガさん。かなり関西色の強い面々でございますな。

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■チョアヨ、倭城(好きです、倭城):夕里さん

姫路城的な滴水瓦。いや、再建されたとはいえ、
むしろこっちが本場だから姫路城の元になった・・・か?

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そもそも倭城とは?という話。会場の人は大体知ってる
ような気はしますけども、まぁ念のためって感じかな。

名高い西生浦(ソセンポ)城の登り石垣。
え?なんすかこれ?なテリーさんのコメントがおもしろいですね(笑)

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こちらを見なかったら、倭城にハマってなかったであろう、
と夕里さんに言わしめた登り石垣。ふむ、これは確かにすごい。

機張(キジャン)城本丸から。

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そんな夕里さん、一度見てこれはすごいと思ったら、
毎日見たい、毎日見るにはどうしたらいいか・・・住めばいい!
とド直球なお答え(笑)

仲間内でも「えええええ」なことですが、こうして
イベントで話されてもそのすごみが全く損なわれないインパクト。

ワーホリかぁ。もはやもうわたしには関係ないですが、
知ってればどこかに行ってたかなぁ・・・

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今しかない
文字しかないスライドなのに、なんですかこの衝撃(笑)

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わたしも割と好きだぁぁぁぁといえるもの、たくさんありますが
ここまで割り切って好きなもののために、
生活を変えられるパワーなかった…
お隣の甲府に住むのもなかなかだもんね、アタクシ。

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なんといいますか、石橋を叩いて叩き割りまではしないけど
ヒビ行かせる位はやりかねないわたしには、
ちょっと発想が・・・改めて、すごい(語彙力のなさ)

ということで、ワーホリ中韓国で倭城を案内する夕里さん。
知ってる人が好きで活躍している様子を拝見するのは
なんともうれしいものですよねぇ。

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韓国人でも比較的に日本に関心のある皆さん方も
多く参加されているみたいで。ほうほう。

ということで、一度も倭城に行かれたことのない(このときまでは?)
鎖国を続ける本岡さんへ開国を迫る黒船プレゼン・・・
列車とバスで行く、プサン2泊3日の旅。

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韓国の電車・バス。SuicaみたいなICカードがあるみたいで
バスは割とハングル読めなくても、割と何とかなるみたい。

電車は漢字や日本語のアナウンスもあったりするみたいだけど
ちょっと近くまでは行けないようですの。

最初は蔚山(ウルサン)城。
ただの公園になってるのですが、登り石垣。
当たり前のように佇むけども。

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ダイナミック。やっぱり日本の城だよなぁ。
しかも、このような石垣が海から見え、
近づく者に威圧感があったんでしょうなぁ。

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晩ご飯は、ティッコギ@プサン。
キムチも焼くと美味しいの!?

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翌日は西生浦(ソセンポ)城。知ってはいるけども
いいねぇ、いいねぇ。知らないと日本の城跡。

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こんな住めそうな石垣の上にお家があるあるトコも(笑)

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倭城に住むには、ここを攻略するしかない!?(笑)

機張(キジャン)に移動してかにかに。
かにが有名なんだそう。かに&かにチャーハン。
土塁っぽい?(笑)

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その後は、機張城。ここも登り石垣。

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天守台から。誰かだかわかる人にはわかる(笑)

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定番スポットらしい。

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サイガさんのお写真で横から。
補強のための追加石垣のようでっせ。

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続いて、機張邑城。城壁で囲んだある意味
中国の影響を受けた朝鮮の城。
日本だと同じく中国の影響が強いグスクに近いかな?

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日本の石垣にはあまりない、カーブするところが
特徴ですかねぇ。ただ朝鮮式の城の石垣でも、
こんな鏡石のようなデッカイ石も使われているんだぁ。

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最後に、梁山(ヤンサン)城。以前少しだけ、
韓国の仕事に関わったときの担当者が梁(ヤン)さんだったので
ププッとしたのを思い出しましたよ(笑)

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この石垣いいよねぇ。麓の居館跡の石垣だそう。

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この辺、お墓多いらしいですね。
まぁ、夕里さん同様わたしもあまり気にしませんけど。

最後の韓国のお食事、デジクッパ。
とんこつにそうめん?みたいな感じだとか???

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■倭城の構造:堀口健弐氏

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最初にオッと思ったのは、いわゆる倭城が最初からできたわけでなく、
初期段階では、朝鮮の城を日本的に改修するというのも
あったんだということですね。邑城の中に日本的な石垣が残るところ。

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それでも、軍事的な必要性から、橋頭堡として
あるべき姿に進化していく、それがいわゆる倭城として知られる
日本の城の姿なんですね。ふむふむ。

西生浦(ソセンポ)城の縄張と日本時代の測量図。

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これ、やっぱり朝鮮の城はこんなところにできないわなぁと。
上陸地点としての拠点にするには、こういう位置に
城が必要なのがすごいわかるよね。ふむ。

一方朝鮮式の城にも、邑城と違った防衛意識のある城も。
盆山城の例。これ、どーみてもグスクの石垣ですよねぇ。
日本と違って、多段的に防備はなさそう。

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こちらは丹波・周山城。朝鮮出兵以前の織豊城郭に
見られる登り石垣。この頃から登り石垣が万里長城のような、
線で防御するものではなく、空間を囲い込むパーツとして、
意識されていたということができそうな例。

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これが朝鮮出兵という今までにない戦争のなかで、
橋頭堡形成に使える技術として発展したのでしょうな。

あと特に気になったのは、順天(スンチョン)城。

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現在は積み直されているそうですが、
少し前はこんな様子で天守台が、
当時の石垣が崩れながらも残存していたようで。

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天守台を少し引いて。左奥から手前に進み、
右に折れて、天守台下に到達する縄張りになっています。

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この上に建っていた天守が「征倭紀功図巻」という
史料に残されているようで・・・まさにこれ、層塔型天守。

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絵図、しかも外国の・・・だからというのはあって、
正確さはちょっとアレかもしれませんが、
天守の中層が膨れている南蛮造なのもポイント。

同じく城門。形状こそどこか中華風な感じがしますけど、
折れたところに櫓門を配するあたり、日本式の様子が
よく表現されていますな。この絵図で現地確認するのもいいか?

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南海城にも、天守の絵図が。ほんとに飾りじゃなく、
実戦用のパーツとして、見られていたからこそ
天守までキッチリつくられていたんだろうな。

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天守アップ。こちらは望楼型かもしれませんぞ?

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■地形を見れば倭城がわかる:サイガさん

サイガさんの地形論。よくよくお城に行く際にも
ご一緒させていただいて、お話いただいていますが、
こちらでもよくわかる築城の必然性についてお話いただきました。

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釜山城。母城と子城があって、サイガさんは
一体の城として捉えてられて、当時の海岸線に対して
拠点を確保するとともに、より高い山から攻め立てられることを
想定して、その手前の山に城を構えたというわけですね。

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梁山城。これも興味深い・・・
八千の兵を千五百で黒田官兵衛が撃退した城。

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梁山城周辺の航空写真を見ると・・・当時は、
西側には大河、東にも川があって、
北側に山手が延びているものの、梁山城周辺は
低地でおそらく湿地帯だったのではないかとのこと。

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ただオレンジの線の引いてあるところが微高地になっていて
梁山城を攻めるにはこのルートしかないだろうと想定。
実際に少し高くなっているのが、今でもわかるみたいです。

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ということで、改めて梁山城の縄張りを見ると、
このオレンジのラインから攻められることを想定した縄張りに。

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最後は、泗川城。島津義弘公の守った城ですな。

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ここでも地形から南北の低地に挟まれた台地の東から
攻め寄せることを想定した縄張りになってると。

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自然地形をうまく利用しながら、台地に通じる点に
土塁と濠で防御性能を向上させると・・・
実際の写真(2005年前後)を見ても、
高低差があるのがわかりやすいっ・・・

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というわけで、相変わらず地形でわかるお城の話には
1年半経って改めて確認してもおもしろいですなぁ・・・・

ネタを寝かしすぎて、新たに講演を聞いたような感じになりましたが、
基本的な倭城くらいは行ってもいいかなと改めて思いました。
今年は武田と真田丸で忙しかったし、2019年は甲府関連で
忙しくなると思うので、来年か再来年までには・・・

翌日は、城フェスのお話。くれぐれも2015年のお話なんで
お間違えのないように・・(苦笑)

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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」④

さて、非常に面白かったこの講演ですが、
本論から脱線した項目もおもしろかった…

(脱線1)油川信恵と穴山信君
穴山信君は長らく「あなやまのぶきみ」と
呼ばれていましたが、臨済寺の僧で甲斐生まれの
鉄山宗鈍が残した「鉄山集」に「ノブタダ」と
ルビが振ってあったのだそう。

この鉄山集、仏前で個人の徳を称える香語が
延々と記録されているそうなんですが、
たまたま鉄山集の写真を見てられたときに、
穴山梅雪とその家臣の項にあったんだそう・・・

これ、先日拝読した「穴山武田氏」の時には
ご存じなくて、出版されている「鉄山集」には、
そのルビまでは収録されていなかったとか。

原本を当たる大切さ・・・ですが、
素人的には古文書や古書を読み解く難しさを
目の当たりにした気がいたしました。

・・・ということで、油川信恵についても、
のぶさと・のぶよしと二つ説があって、
読み方は確定していないそうです。
人の名前の読み方は難しい・・・

(脱線2)親子の官途受領の引き継がれ方

信昌は刑部少輔(ぎょうぶのしょう)、
信縄も官途不明、信虎は左京大夫後に陸奥守。

信虎は、当時の強敵北条右京大夫氏綱に
対抗する意味もあって、より格上の左京大夫への
補任を室町幕府に対し申請し認められています。

なぜ「左京大夫」なのか、そしてなぜ幕府への申請が
認められたのかを考えると、信虎の幕府における
存在感と中央での評判が見えてくる気がしますよね。

ちなみに信玄は、足利義晴から「晴」の字の偏諱を
受けて晴信として元服する際に、左京大夫を称し
その官途を受け継いでいます。

しかし、後に大膳大夫に遷任。これは父との決別
という意味のほか、幕府に近しい若狭武田家当主が
歴代名乗った官途であり、中央を睨んだ選択
といえるのかもしれません。

一方、勝頼は私称ではありますが「大膳大夫」を
名乗っていますから、少なくとも対外的には
「正当なる信玄の後継者」をアピールする狙いが
あったのではないかと思いますね。

名乗る官途受領で見える親子の人間関係が
わかっておもしろいですね。

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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」③

さて、長々と経緯を追ってきましたが、
その背景を考察していきます。

◆信虎追放の背景①:言論統制◆

ここまでの状況だけだとものすごい順風満帆に
聞こえるような気がします。敵だらけの状況から一転、
東の強敵は北条に絞込め、かつ信濃にも領国を
広げられる余地を残す同盟関係ですからね。

しかし、内に何を抱えていたか。

信虎以前~事件までの経緯を追うと、

①信虎が家督を継いで以降、ほぼ常に戦闘状態。
 家臣団、領民とも疲弊。
②さらに躑躅が崎移転、新城の築城で疲弊進む。
③外交路線での家臣団との軋轢。
④反対意見には徹底弾圧。

①はわかっていたことですが、②がやはり
ターニングポイントのひとつかもしれません。

②のタイミングでこれより苛政と指摘されるのは重要。
もちろん集住したくないという立場もあるのでしょうが、
異論は一切言わせない、異論を持つ者は
成敗や追放が待っているという含みを感じます。

府中移転だけでなく、外交戦略に戦略的合理性を
少なくとも降った者たちに理解できず、
理解されないまま、戦争を重ねていたということ。

先方からオファーの会った上杉朝興との連携も
結果的に危機を救うことにはなりましたが、
飯富らの反発もあり、家中での納得感のない
行為だったのでしょう。

宗家権力が瓦解した地点からスタートした
反動からか、家臣の言うことはいっさい聴かず、
諫言した者には誅殺追放して、一切妥協せず
自分の考え方を押し通す信虎。

この納得感のなさということが武力で服属させられても、
服属させ続けられなかったコトに
つながるんだなぁと感じるわけですね。

いくら強くてその傘の下に降ったとしても、
意味がわからない、納得できないまま遂行する
というのは、かなり人間にとって苦しいことと思います。

◆信虎追放の背景②:大飢饉と台風◆

しかしこれだけでクーデタが起こったわけではなく…
追放劇が起こった前年天文9年(1540年)の
巨大台風の襲撃、そして翌41年の大飢饉が重なります。

ちょうど佐久への侵攻を進めた頃。
しかしその頃のこととして『勝山記』には、
人も馬も死ぬものが後を絶たず、百年のうちにも
こんな災害はない、まさに生ける者は千死に一生だと。

記録にも関東から関西にかけて建物は軒並み倒壊、
地形が変わるほどの災害だったと残っていて、
甲斐にも甚大な被害があったそうで。

『勝山記』に「晴信欲済万民愁(中略)即位保国々、
人民悉含快楽咲」とありました。

親を追放するということに正当性を持たせる
タイミングでの追放劇。実際、晴信を親不孝者と謗る者は
甲斐にはなかったのです。上手いタイミング。

平山先生は、ここで代変わりの徳政を
打ったのではないかとのご推察もありました。

◆信虎追放の背景③:晴信廃嫡の危機◆

これはよく指摘されることであって、
敢えて言うことでもないのですが、信虎が駿河に向けての
出立の極秘性が晴信廃嫡と絡んでくる可能性も考えられそう。

重臣駒井高白斎あたりは晴信に近しいと
思われていたのかまるで知らされてなく、
最低板垣、甘利、小山田、飯富の最重臣と
晴信・信繁だけだった可能性もあるようです。
(甲陽軍鑑)

しかも、しかも出立時晴信は甘利邸へ移され、
逆に信繁は躑躅が崎へ。極秘に晴信廃嫡の準備を
進めていて、義元に何か支援を求めるつもりだったのかも。

こうして家臣団は長年の圧迫と不満、
領民は負担の重さと災害で生命の危機、
晴信は廃嫡の危機と三者の利害が一致して、
歴史上稀に見る無血クーデタが敢行。

よくある家臣団の分裂もなく、処刑者や死人が出ておらず、
領内に反乱も起きていない。義元は事件後即座に
信虎隠居の詳細を詰めるため、太原雪斎を派遣していて、
迅速ながら、その段取りの周到さが読み取れます。

◆晴信が得たもの、学んだもの◆

ここからはわたしが感じることですけど、
単に追放して晴信が国主の座についた
というわけでなく、多くのものを
晴信は引き継いでいますよね、というのをいくつか。

直接的に得たものとしては、

・甲斐統一という確固たる基盤
・今川義元との同盟関係
・反信虎を契機に結束した家臣団

甲斐自体は豊かとはいえませんが、国内情勢が安定し、
信頼に足る強国を味方につけたところから
スタートできたのは、恵まれた環境ですかね。

これに加えて、後年の晴信の家臣団統制などから考えると、

①武田宗家と国衆とのパワーバランス維持
②戦略的な同盟関係の構築と破棄
③甲斐の生産力向上

という必要性を学んだのかなと思いました。

①武田宗家と国衆とのパワーバランス維持

強すぎても弱すぎてもダメということで、絶妙なバランスを
維持していたのが信玄時代の武田家という印象。
子飼いの家臣団の育成や先方衆の取り込みや
納得感が出るまで話し合わせるところは、信虎時代の
ある意味反動の産物なんだろうなぁという気がしました。

②戦略的な同盟関係の構築と破棄

同盟を使いこなすことが勝利への近道という点。
二度の敗北を喫する前まではイケイケな感じもするのですが、
同盟は道具と割り切り必要なら結び
要らなくなったら切るというのを徹底し、戦わずして勝つ
という点も信虎時代からの反面教師としたのかもしれません。

③甲斐の生産力向上

天文9年の巨大台風があったことが信玄堤の築造にも
影響しているんだろうなと感じます。甲斐を豊かにせねば
国が成り立たないという実用的な意味のほか、
疲弊させてきた信虎時代とは違うという演出
という観点もあったかなと想像します。

◆信虎と勝頼◆

ここから見える武田信虎像ですが・・・ ・
家督を継いだ時点の無理ゲー感を打ち破る
圧倒的な戦才は誰もが認めるとことでしょう。

そして、家臣の話を聴かず権力確立を目指す「強すぎる大将」
これ誰かに似てませんか…そう、勝頼です。
置かれた時代背景もまた、性格的なところも違いますが、
得手不得手はものすごく似ている気がします。

しかし、こう考えると晴信による武田家の飛躍のためには
欠かせない大事業だったはずなのに、追放されざるを
得なかった信虎こそ、悲運の猛将かもしれません。

14歳で家督を継いで戦わねば死ぬ環境で
権力を確保した猛将に人を使いこなすことを
求めるのはちょっと酷な気がするのです。

この日は時間があれば、義信事件との相違性にも
言及される予定があったそうですが、
時間が押していてなし。またその観点でもお聴きしたい。

信虎と勝頼をよく理解・比較することで浮かび上がる
武田信玄像というのも興味深くなってきました。

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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」②

さて、甲斐統一三十年戦争の続き。

ROUND 3 VS 栗原信友・大井信達・今井信是
(1519年~1520年)

ようやく一門を下し今川の脅威を撥ね退けた直後
川田館を廃して、躑躅が崎に移る計画をぶち上げます。
これが1519年。翌年20年、これに北東の栗原、
南西の大井、北西の今井が一斉に蜂起。

移転反対!というよりも権力強化を図り集住を
求めたことに対しての意味合いが強いように思いますね。
特に今井は、1519年の新府中の鍬立直前にも
戦っていますので、一度降伏してなおまだ承服せざる
ところがあったのでしょうね。

さてこの三方からの蜂起に対し、足軽衆を派遣して
それぞれの軍勢を撃破。同時に三方から囲まれて
すべて撃破するというのは、国衆相手とはいえ
瞬時に動かせる相当の軍事力を保持していた証左。

これは、「東国武将たちの戦国史」でも
解説されていたように傭兵集団だった
ということと見られています。
そう考えると、相当な経済力も蓄えていた
ということにもなるでしょう。

結局、栗原信友は秩父に逃亡、大井・今井氏は
信虎に屈服することになります。

信虎は方針は全くそのままで、6月には
積翠寺丸山に詰めの城を築くこととしています。
いわゆる要害山城です。

興味深いのが塩山の向嶽寺に伝わる
「塩山向嶽禅庵小年代記」にはこれより以後、
苛政が始まると記していることです。

この時期から考えると、躑躅が崎館と要害山城の
普請による重課がかなり重かったのでしょうか。

ROUND 4 VS 今川氏親
(1521年~1522年)

新府中への移転と家臣団集住、詰めの城の築城は
大きな反発を生みましたが、来る今川との決戦を意図した
ものだったのかもしれません。

元号が変わって大永元(1521)になると、
本格的に今川軍が侵攻してきます。
まず今川軍が穴山領河内に進入、従五位下左京大夫に
任官された感に浸ってる間もなく、河内を総攻撃。

どうやら穴山が親武田と親今川双方で分裂、
これに今川軍が介入したところに、武田軍も介入した様子。
ただ一度は今川軍を破るものの、甲斐大島で敗北。

国中への進入を許し、現南アルプス市の南
富田城を落とし、新府中まで今川軍が迫ります。

これは一大事と下した大井信達の娘・大井夫人を
できたばかりの要害山城まで逃がし、
自身は軍を立て直し決戦へ・・・

飯田河原合戦(10月)、上条河原合戦(11月)の
二度の会戦で福島(くしま)正成率いる今川軍に大勝。
翌年には残存兵が残る富田城も降伏し、またもや
今川による危機を乗り切ることができました。

この飯田河原合戦と上条河原合戦の間に
要害山城で生まれたのが、勝千代。
言わずもがなですが、後の武田信玄その人です。
一応『甲陽軍鑑』には、この勝利にちなんで
「勝」千代と名づけられたことになっています。

この後、1523年に湯村山城を1524年には
一条小山砦(後の甲府城域)の築城に取り掛かり、
甲府の守りを強固にしています。

ROUND 5 VS 北条氏綱
(1524年~)

今川の脅威が去った後には断続的に北条と戦。
一時期和睦を結ぶもじきに破れ、
断続的に交戦状態が続く状態のままです。

ROUND 6 VS 諏訪頼満
(1525年~32年)

この頃、諏訪下社大祝の金刺昌春の亡命を
受け入れて甲府に住まわせ(1525年)、
下社に帰還させる名目で諏訪に侵攻(1528年)

しかし、諏訪頼満も歴戦の名将、
甲信国境の境川で激突、敗北します。
懐刀であった萩原備中が討死するなど手痛い敗北。

そんな中、扇谷上杉朝興が信虎の支援を求め、
前関東管領上杉憲房未亡人を側室に差出、
これを信虎が了承したことに家臣・飯富兵部が反発、
甲府を退去してしまいます(1530年)

新府中の移転に反対した栗原信友や今井信是の子、
信元も加わって、更に訪頼満に援軍を求めて
大規模に反旗を翻します(1531年)。

反信虎連合軍と河原辺(韮崎)で合戦し、
ここで勝利を収め、諏訪を駆逐し飯富・栗原ら降伏。

唯一、今井が獅子吼城
籠もって抵抗しますが、翌32年には降伏開城。

ここにようやく甲斐統一三十年戦争(25年ですが)
が終結することになります。

この時点での外交関係を振り返っておくと、

①反信昌派の残党
 … 油川信恵・岩手縄美 → 滅亡
②有力国人衆
 … a)郡内小山田氏、b)穴山氏、c)大井氏、D)栗原氏
  → いずれも服属
③国外有力大名
 A)後北条氏 … 敵対、交戦状態
 B)今川氏  … 敵対、小康状態
 C)諏訪氏  … 敵対、小康状態
 D)扇谷上杉氏… 友好

ということで、甲斐国内は統一されましたが、
諸国とは敵対状態。唯一扇谷上杉氏のみ友好的関係。

◆信虎の外交政策の転換◆

(武田ー諏訪同盟の成立)
要約敵だらけの状況を脱し、信虎が同盟関係を模索し
はじめるのが甲斐統一後。あくまで先方からの
希望があってのことですが、扇谷上杉氏とは良好な関係。

それが同盟関係として生きたのが、1535年。
先ほどの周り敵だらけにも関わらず、駿河に侵攻を開始。

これに対して、今川・北条の連動して軍を動かし、
北条氏綱は今川氏輝を支援すべく、甲駿国境万沢口で
合戦している信虎の側面から衝いて、郡内に侵攻。

慌てて弟の勝沼信友と小山田軍で防戦するも敗戦。
信友は討死、あわや甲府にまでまた攻め寄せられるか?
というところで、北条と敵対している扇谷上杉朝興が
小田原に向けて進軍との報に接して軍を引き、
大事に至らずに済んだのですね。

ここで情勢が不利と悟った信虎は初めて同盟を構築。
信虎、最初の同盟でした。

(甲駿同盟の成立)
ついで、翌年1536年、嫡男太郎が元服
将軍義晴の偏諱を受け武田晴信と称し、
左京大夫に任官。信虎は陸奥守に遷任します。

その直後、今川氏輝が弟彦五郎とともに変死。
栴岳承芳(せんがくしょうほう)が足利義晴の偏記
氏輝の跡目を巡り、どちらも出家していた弟である
栴岳承芳と玄広恵探が争う花倉の乱が勃発。

この際に、北条氏綱とともに信虎は栴岳承芳を支援。
なんで?という話なんですが、玄広恵探の母が
信虎を苦しめた福島正成の一族だったというのが
背景にあるようなんですね。

そしてなんと、義元は武田と同盟。
晴信姉定恵院が義元に嫁ぎます。
また義元は、上杉朝興の娘を亡くしていた
晴信に京の三条家から正室を斡旋。

これで氏綱は激怒。ここで今川と北条が
激突する河東一乱が幕開けします。

 A)後北条氏 … 敵対
 B)今川氏  … 敵対→同盟
 C)諏訪氏  … 敵対→同盟
 D)扇谷上杉氏… 友好

こうみると、諏訪で背後を固めつつ、
扇谷上杉と今川と手を携えて、北条と対抗する構図。
敵だらけからようやく脱し、有利な状況。

さてその後、相変わらず北条と小競り合いが
続く状況でしたが、1540年。
信州佐久における親武田派の伴野氏の手引きもあり、
板垣信方を大将に佐久郡へ侵攻させています。

この年に諏訪頼満の孫(頼隆の子)頼重に禰禰を嫁がせ、
頼重が甲府へ、そして信虎も諏訪へ相互訪問。
この関係があってこその佐久郡侵攻かもしれませんね。

そして運命の天文10(1541)年。
同盟国諏訪頼重に村上義清も加えた連合軍で
小県郡海野棟綱を攻略、上野に追い落としに成功。
これが信虎最後の合戦でした。
その帰国の直後・・・・あの事件が起こります。

このときに後に晴信の幕下につく真田幸綱も居て
同じく上野に逃れていましたね。

さてここまで信虎追放前夜まで見てきました。
なぜ、信虎は追放されてしまったのか、
という講演の山場、考察タイムに入っていきます。

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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」①

続いては、8月に遡って・・・甲府での
山梨文化学園歴史文化教室の講座。
信虎追放事件についての講座でした。

信虎追放事件そのものだけというよりも、
信虎が甲斐を統一する過程、あるいは
元服直後の信虎の置かれた環境や
そこにまで至った経緯を更に二代遡って
学ぶことによって、自然と理解できたという
方が正しい・・・いやそうでないと理解できない
といった内容だったかと思います。

◆信虎家督相続まで◆

武田氏ほど一族・親子の内訌の多い家はない
というもの。

×第16代当主:信昌
  長子:信縄(のぶつな)
  次子:油川信恵(のぶさと・のぶよし)

○第17代当主:信縄
  長子:信直(後に信虎)
  次子:勝沼信友

×第18代当主:信直(信虎)
  長子:晴信
  次子:信繁

×第19代当主:晴信(信玄)
  長子:義信
  次子:勝頼

こうしてみますと、16代以降父と長子が
うまく行ったのは信縄・信直親子のみであって、
これも信縄が若死に(享年37)したことも
その理由かもしれません。

さて、武田家中興の祖・信昌ですが・・・
もう少し遡って理解を深めます。

上杉禅秀の乱に上杉方として13代信満が参戦して、
敗死して以降、幕府・鎌倉府それぞれの
誰を甲斐に国主につけるかという思いが衝突、
甲斐は内乱状態でした。

高野山から甲斐に戻った14代信重は信濃守護
小笠原政康の後援と守護代として付けられた跡部氏
の支援もあって甲斐国主の座に継ぐものの、
信重とその次代15代信守は、跡部氏の専横に苦しみます。

その跡部氏を排斥し(1465年)武田家の権力基盤を
再興したのが16代信昌でした。
信満敗死が1418年ですので、実に47年後。

しかし、信昌自身が今度は武田家の承継問題を
つくってしまいます。

第16代当主:信昌
  長子:信縄(のぶつな)
  次子:油川信恵(のぶさと・のぶよし)

長子である信縄は、一説に跡部氏の娘とされ、
武田家の外戚として権力を握るために
いわば押し付けられたという娘を母に持ち、
また、彼自身が病弱だったようなのです。

信恵は、山梨郡油川に拠り油川姓を名乗りますが
母は不明。その信恵に17代当主の座を譲ろうとし、
ここで再び武田家の跡目争いが勃発。

当時、有力国衆らが自立的な動きを顕在化させており、
それぞれが両武田家陣営に付いて争いを激化させます。

結局1498(明応7)年に和睦をし、信縄の当主が
認められます。この年の8月に中世最大とも言われる
明応大地震が発生したことが理由では?と。

実は、鎌倉大仏はかつて大仏殿があったそうで
その大地震で大仏殿が倒壊したらしいのです。
そのくらいものすごい破壊力だったそう。

この7年後、1505年信昌が没し(享年59)さらに
その2年後に体の弱かった信縄が没(享年37)
まだ信昌・信縄の和睦から間もなく、わだかまりも
あったであろう中で、若干14歳の少年信虎が
不安定な当主の座につくわけです。

最も信虎の生年は1494年が通説ですが、
最近は異説もあってもう少し後との考えもあるそう。
とすると、さらに若いことになります。

◆甲斐統一三十年戦争◆

信虎が置かれた状況を理解するには、
信虎を取り囲む勢力をいくつかのグループに
分けることととその階層構造を捉える必要があります。
ちなみに、信虎は初名信直で甲斐統一後に
信虎に改名しますが、ここでは信虎でまとめます。

①反信昌派の残党
 … 油川信恵・岩手縄美
②有力国人衆
 … a)郡内小山田氏、b)穴山氏、c)大井氏、D)栗原氏
③国外有力大名
 … A)後北条氏、B)今川氏、C)諏訪氏、D)扇谷上杉氏
④幕府と堀越公方

①~③の関係ですが、まず①と②のうちの小山田氏が
姻戚関係でつながっています。

また、②の各氏は③の大文字の同アルファベットの
周辺大名とも関係が深く連動して行動します。

この時期の当主は・・・
小山田氏は小山田弥三郎信隆から越中守信有、
穴山氏は穴山信懸入道道義から甲斐守信風、
北条氏は伊勢宗瑞最晩期から北条氏綱、
今川氏は氏親、氏輝から義元。

そして、④の幕府と堀越公方。ここをしっかりと
押さえないといけないでしょう。

【堀越公方と武田家】
前史として、武田家の内訌と幕府と堀越公方の関係から。
信昌と信縄が争っていた頃、堀越公方足利政知(義政弟)が
亡くなって、義政の後を継いで将軍になった
足利義視が没し、その後継に政知の子が選ばれます。
これが11代将軍・足利義澄。

このとき、幕府公認の堀越公方次代として、
政知の子で義澄同母弟の潤童子がいましたが、
政知から素行不良で廃嫡されていた異母兄の茶々丸が
これを不服とし、潤童子とその母円満院を殺害。
実力で堀越公方となってしまいました。

そこで、将軍の母と弟を殺害した謀反人として、
今川氏親・伊勢宗瑞に追討され1493年に宗瑞に敗北、
一旦伊豆大島に逃れながらも、武田信縄のもとに
逃げ込んできました。

というのも、今川氏親・伊勢宗瑞を味方に引き入れて
いた信昌ですから、信昌と対決していた信縄に
逃げ込むというのも素直にうなずけます。

こうして、信縄・信虎は大国今川家と新興勢力の
伊勢宗瑞、そして北条家を敵に回すことになるのです。

さぁ、そんな中周り中敵だらけのハードすぎる
戦いが始まるのです・・・!!!

ROUND 1 VS 油川信恵・小山田信隆
(1508年~1510年)

さて、信虎が家督を継いだ翌年1508年、
早速油川信恵が襲い掛かってきますが、
いきなり撃破して信恵以下討死、油川一族もろとも
叩き潰します・・・ひえぇぇ。

ただ、信虎に与した油川一族もいて、
後に油川夫人を出す系統。
江戸期も旗本として残っていくそうですが、
諱は信友とも信守とも言われ、よくわからないっぽい。

そして2ヵ月後には郡内の小山田弥太郎信隆が
侵攻してきますがこれも撃退、弥太郎討死。

さらに勢いに乗って翌年秋に郡内に侵攻、
更に翌年1510年に討死した弥太郎の子、
越中守信有と和睦(実質的には従属同盟)成立。

・・・強すぎませんか、のっけから。
初陣で相手の大将以下有力な部将を討死させるとは
すさまじい戦ヤロウです(笑)

ROUND 2 VS 大井信達・今川氏親
(1513年~1518年)

もちろん、信虎の戦上手もあるのでしょうが、
信虎にも数少ない味方がいました。穴山信懸です。
信縄時代から一貫して武田方を支援した人物。

華々しい信恵撃破には、信懸の支援も有効に
効いたのでしょうか。

今川氏輝とは先に記したように幕府からの足利茶々丸
追討の命令があった関係から、その茶々丸を
匿った信縄そして信虎とは敵対関係にあったわけで、
今川から侵攻を受ける可能性はたぶんにあったはず。

しかし、武田の一族(宗家14代信重の孫)であり、
かつ今川とも縁が深い信懸が緩衝役となって
今川を食い止めていたわけですね。

しかし、その信懸が小山田との和睦が成った
三年後に子息清五郎に殺害され、さらに清五郎は
兄弟の穴山信風(信綱)に殺害され、
ショッキングな当主交代劇がありました。
その直後、今川軍が甲州に進軍してきたのです。

おそらく穴山家中で親武田派と親今川派の対立があり、
今川軍の甲州侵攻を阻む親武田派の信懸が
親今川派から暗殺されたのではないかということですね。

今川軍に呼応して南巨摩の大井信達が反旗。
信虎は大井氏館を囲むが敗北、逆に万力まで攻め込まれ
ここでも敗北して、恵林寺に逃げ込むまでに。

今川軍は勝山城(と言っても都留の勝山城ではなく、
甲斐国八代郡、つまり甲府市上曾根の元油川氏の城)
を占領しますが、次第に孤立化。

小山田軍が補給線上の都留郡の今川軍が籠もる
吉田城を攻撃、個別に小山田と今川が和睦したことを
契機に連歌師宗長を仲介役に和睦が成立。
これで勝山城の今川軍が撤兵し、危機は去りました。

・・・ということでここいら一旦切りましょうかね。

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平成27年度武田神社崇敬者大会講演 ~ 「武田氏館の変遷と発掘調査からわかったこと」

さて、昨年10月の武田神社崇敬会大会。

Kimg2709

甲府の信玄公火葬塚に行くまでの道すがら、
ちょうど護国神社の手前でしたかねぇ・・・・
武田神社崇敬会入会案内がポロリと落ちてたんです。

前々から興味はあって、入会案内をもらうかどうか
逡巡していたのですが、これはもう入れ!との
お屋形さまからの思し召しだろう(笑)と解釈して、
入会したのが5年ほど前。

入会してから行きたいとは思ってましたが、
この大会は平日開催であることから、
行けないでいたんですよね・・しかし!

このたびの講演内容が「武田氏館の発掘調査」
についてなんでこれは・・・!!ということで
ムリクリ休みを取って参上した次第。
武田氏館の講演ってなかなかないように思いましてね。

この日の講師は、甲府市教育委員会の佐々木満氏。

◆移転前夜◆

1519年、8月15日に鍬立の後翌日には
信虎自身が現地視察、その約4ヵ月後の
12月20日には石和の川田館から移っています。

当時は飢饉の真っ最中、しかも内乱を終息させ
つつある時期であり、この時期に新居造営の
人夫動員はかなりの負担になったようで。

おもしろいのは造営当時から、甲斐府中ではなく、
略して「甲府」と呼ばれていたこと。
まもなく開府五百年に成ろうかという甲府ですが、
その名称もまた五百年の歴史があるわけですな。

◆発掘調査◆

①土塁の変遷

発掘調査は、ちょうど現武田神社参道の石垣が
傷んできたことにより、平成10(1998)年頃に修復され
その際に併せて行われたそうです。

石垣の石を外したところで、本曲輪南土塁の地層が
露わになってくるのですが、今の土塁の半分程度の高さの
土塁痕が出てきたんだそうです。

そして土塁の幅半分くらいから基底部の土留めとして
使われていたであろう石積が見つかり、
信虎築城当時から土留めとして石積が使われていたこと、
また、高さだけではなく幅も約半分程度だったと
推定できる発掘内容だったそうです。

②本曲輪内の発掘状況

本曲輪南には、現在能舞台のある手前の芝生のあたりに
石が立てて並べて島を表現してあった跡、更に南側寄りには
頁岩(けつがん)・花崗岩の玉石を敷き詰めた
庭園の池の州浜だったと思われる跡が見つかっているそう。

そして池の部分と石が立てて並べた島の部分には
高低差があり、池を見下ろすようなカタチに
なっていたんだそう。この池は武田滅亡後には
曲輪内の堀に使われた形跡も。

後悔しているとおっしゃっていたのは、
池の中の土のサンプルを取っていなかったこと・・・
池のまわりにどんな植物が植わっていたか?
がわかったのに、と。

甲陽軍鑑にも信勝さんが彼が名前を付けて
大事に育てていた松の木があったり・・・なんて、
記述があるそうですが、それを実証できた?
かもしれないなーっと。むむ・・・

また今天守台のあるような辺りは、奥として
更に高い位置にあり、庭園・表・奥の三空間が
段差で区切られていたらしいのですね。

今の地面がちょうど表の地面の位置で
拝殿前から能舞台のある芝生広場辺りが相当。
そこから2.5~3m下、本曲輪の南側が
庭園のあった地面の位置。

そして、拝殿から奥はさらに高くなっていて、
残された絵図にも二階廊下と書かれているそうです。

この絵図は狩野文庫蔵「武田信玄甲府之御屋形作之図」。
書かれた時期は江戸時代ではありますが、
発掘調査からわかる地形の様子とほぼほぼ符合し、
一定の信頼性はあるように判断されているようでした。

160206_1908_001

そして平成17~8年くらいの大手整備時期の様子も
拝見できました。三日月壕の跡・・・これ、
再現してほしかったよなぁ。石塁ねぇ・・・(がっくり)

これ当初の土塁の低い時代としては規模的にも
合わないので、現在見られる規模の土塁になった時期と
同期して造られたのではとの推定。

・・・ということは、今見られる土塁も新府移転以前の
勝頼期のものと言えるのではないかということでした。
壕の深さについても同様のようです。

おもしろいのは、段差が付いた水路遺構。
木で堰き止めて水を貯めておけるような構造。
飲料水を汲む場か、あるいは水洗トイレか。。。。

水洗トイレだとすると、甲陽軍鑑に出てくる
巻第十二・品第三十三に出てくる水洗トイレの記述を
示すことになりますね!

全般的に信玄公までの館は、守護大名から上がった
戦国大名らしい雅で室町を意識したつくり。
危機感迫る長篠敗戦から新府造営までに
戦闘的になっていく・・・という感じでしょうか。

新府は新府でよいのですが、要害山城もあることだし
甲府に留まってほしかったなぁという思いも。


③その他曲輪の発掘状況

1551年に義信座所として増築された西曲輪。
現在、館としての趣を色濃く残す場ですけれども、
北側の虎口はキレイに整備されて見所になっています。

通路の脇を発掘したところ、門の礎石が発見。
門の形状までわかるくらいの好い状況。
ただ現在復元されている石垣と重なっていて、
また石垣の下1cmくらいに火災の跡の層があるそう。

武田時代にはこの石垣はなくて土塁に門が据えられ、
新府移転の際に火を掛けられたときの火事の層の上に、
武田時代の後の石垣があったのだろうと。ふむふむ。

今南側の虎口の整備が進められていますけども、
ちょうどその規模は北虎口の倍の規模、
南側が正面に当たるんでしょうね。

北虎口前の広場には、蔵の跡とその焼け落ちた痕跡も
わかっているそうですし、昔藤村記念館のあった段と
その下の段とは階段で結ばれるとともに、
土塁痕もあったそうで、空間的に区切られていたそう。

更に本曲輪と同じく立石や水路、さらには
築山のような部分も見つかっていたそうでして、
その見つかった位置的にも(曲輪南)西曲輪にも、
同様の庭園があったのでは?と思わせるものがあるそう。

ここはこれから発掘を進める計画があるそうで、
その成果が期待されますね・・・!!

そして、味噌曲輪の調査内容。
土塁痕だけでなく、脇に片側三つの礎石や砂利を
敷き詰めた跡が発見され、土塁内にあった
四脚門形式の門の跡と推定。
やはり、ここにも石積跡も。ふむふむ。

◆武田以後の館の変遷◆

信長公記によると、この館のどこかに仮御殿を
つくったらしいのですが、それは発掘調査からは
よくわからないそう。

家康入府を経て秀吉時代に天守台が築造。
野面積みの石垣、もう少し見えるとよいのだけど…

おもしろいのは、天守あたりだけでなく
出土した土器から金の粒が見つかっているそうで。
天守台からは銀も発見。おそらく天守があって、
豊臣らしい金銀を豊富に使った天守だったんでしょうね。

大手石塁もこの時代のもの。ただ石塁は低いので、
その上に何らかの櫓門等など何らかの構造物が
あったのだろうとは推測できますが、
あまりよくわかっていないようで・・・

その前の広場から出てきた柱跡からは
どうも厩だったそう。

もうひとつは、梅翁曲輪。このあたりも整備が
進むらしいですけど、曲輪を囲む松木堀を築く際に
掘った堀のラインがキレイに出ているそうで、
直下に厚い火災層が出てきているらしく、
武田時代と比定されているようです。

◆これからの整備◆

大手側はほぼ整備は完了とのことで、
現在は西曲輪南虎口の最終整備段階。
同時並行で梅翁曲輪の発掘が進んでますが、
あのあたりに武田氏館と武田の歴史を
紹介する施設を立てることが計画中。

ちょうど2019年の甲府開府五百年、武田神社鎮座
百年記念事業に合わせてのことみたいですね。

躑躅が崎の歴史館ができたら、躑躅が崎館の
詳しい変遷をしっかり解説してほしいし、
発掘成果を基にした今想定できうる限りの正確な
武田時代の曲輪の様子をジオラマ再現希望です!

しかし、2019年は甲府開府五百年、
2021年は信玄公御生誕五百年、
2023年は信玄公没後四百五十年と、
甲府にとって、節目の年が続きますよね…!!

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2015年のウイスキーイベント…ウイスキーフェスティバル東京2015。

さて、ウイスキーイベントの最後を飾るのは
11月末のウイスキーフェス。

印象に残ったのが、まずは駒ヶ根ですね。

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バーショーボトルはちょっと…という
感じだったんですけども、これはいい!!!
ということで、すでに半分くらい飲んでしまっています(笑)

以前美味しかったInvergordon。
今回はタンニンが結構出ていて、紅茶の雰囲気。
まだ買ったボトルは開けていませんが、いずれまた。

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買えはしませんが、長熟グラッサは
美味いはず…という先入観。実際よかったですね。

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なつかしいBrora 35年。もはやみることは
ないかと思ってましたが・・・

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そして、やっぱりあれば飲んじゃう、
シグネット。一本ぐらいまた買うかねぇ・・・

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ここでホントに気になるのは、数種くらいのもの。
あれもこれも・・・と気になるのが、
たくさんあるのはもうしばらくなさそうです。

大きなポイントは、公式ブースがまるで
魅力がなかったこと。ニッカにしても
サントリーにしても・・・

キリンも変わらず17年モルト25年グレーンで
目新しさはなく、イチローさんとこは、
まだあるほうでしたけれども。

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さて、あれやこれやと飲んだくれた後の・・
静岡蒸留所セミナー。

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ガイアフローはどちらかというと、
Brackadderはまぁいいとして、どちらかというと
ニッチなところを扱う代理店さんというイメージ。

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個人的にはマクミラを取り扱っていただいて
よかったなぁという印象。一時期は台湾しかなくて
向こうでたくさん買い込みましたからねぇ。

さて、そんな代理店のガイアフローが
蒸留所を持とうという話。もちろん小規模の
クラフトディスティラリーに分類される規模です。

いろいろ指針はあるようですが・・・

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要は小規模で独立資本ということ。
秩父なんかもそう。

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年間40万リットル程度。江井ヶ島やマルスが
1日1仕込で年間10万リットル、仮にフル稼働で
3仕込やって30万リットル。

今、日本蒸留所というと、この9蒸留所が
思い浮かぶと思うのですが…

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今どんどん増えようとしているのは、
ウイスキーラバーの間では有名な話ですよね。

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公開はしていない笹の川なんかもありますが、
厚岸、岡山の宮下酒造なんかはわたしも知ってます。
笹の川って、新たに設備導入してウイスキー造るんだ!
木内酒造というのは初めて聴いたなぁ。
10月にはもう製造免許取得しているそうですね。

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秩父は一仕込みは500kg以下にもかかわらず、
年間通して稼動しているので、クラフトの中では
多いほう、ついでマルス。

新潟で???となっているところでも
計画があるとか?ほほぅ…
そのほかに、鹿児島でも・・楽しみですの。

そんななかで、2016年静岡でも産声を上げる
蒸留所があります。

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決断したのは2012年6月。

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代表の中村大航氏がスコットランドに赴き、
最後にキルホーマン蒸留所を訪問されたとき。

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確かにGoogle Mapでみると、小さい…

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しかも、ローテクでつくっているというのが
インパクトの合ったことだったそうで、
これだったら俺でもできるんじゃ!と思われたのが
きっかけなんですね!!

そして後で気づいた中村氏とスコットランドの縁。
帝国海軍の技術者だった祖父中村萬次郎氏が
スコットランドに視察に行っているんだそうで!

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日清・日露を戦った日本軍艦はグラスゴー製。
世界の工場たるスコットランドに研修に行くのは、
至極当然のことだったとか。

現代のスコットランド。けっこう1930年代と
変わっていないですよね・・・

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不変性、世界市場の確立、日本のウイスキーの評価、
製造メーカーが限られている…ということで、
チャンスがあるというのは判る気がします。

そこでまず製造前に販売網を整備しようという考えから
インポーターとして事業を開始。
てっきり、新しいインポーターだと思ってた…

「静岡」を前面に出していく戦略みたいですね!

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敷地は、静岡から真北に行った所。
静岡から北にバスで60分程度。

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建設予定地。元々は山に沿って蛇行していた川を
20年ほど前に山の尾根を削って埋め立て、
川の流れをまっすぐにしたそう。

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周りはお茶畑に囲まれているってのも、
静岡らしい環境ですよね。

蒸留所に必要な条件。水はキレイだけでなく、
水量も大事。硬度は79だそうで、
山崎にちょっと近い硬度かな?

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現在の建設予定地。もうすでに更地に
なっているみたい。一つある建物は
気象庁の地震観測施設だそう(笑)
蒸留所ができても、そのままになるそうですよ。

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コンセプト。ワクワクしますねー。
最初から、工場に来る人をイメージしているのが
いいですよね。一度じゃなく変化を楽しめそう。

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最終的な開発のひとつの案。

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お客さんからどう見えるか、日の入り方まで
計算しながらあーでもないこーでもないと議論中。

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物販や飲食もあって、一日寛げそうな感じ。
インポーターもされてるから、施設ができたら
すぐにウイスキーも並びますね!

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地元の食べものなんかもたくさん並びそうだなー!

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蒸留所の集客ランキング。これ2013年版。
それでも余市がトップで28万人。

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2015年は80万人らしいそうですからね・・・
そんなところを目指して行きたいと。

わたしも行った軽井沢の最終日。

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1975年頃の新しいポットスチルは使えそう、と。
古い1950年代のは残念ながらダメ。
でも蒸留所内に展示してほしいよな~

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軽井沢のモルトミル。これだけでも
新品で買うと500万くらいするそうですけど、
それくらいのお値段でBit。ってことはお買い得?

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ハイブリッドスチル。こちらは主にスピリッツ向け。

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ウイスキーのスチル。バルジ型になるそう。

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加熱方式はハイブリッド加熱、スチーム+直火。
つまりスチームパイプはつながっていて、
最初はスチームを利用し、熱が上がると直火に
切り替えるというスプリングバンクの初溜釜と同じタイプ。

地鎮祭。東照宮(久能山?)から神主さんがお越し。
ものすごいウイスキー詳しいんですって!
家康公どう思ってられるでしょうね!

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基礎工事中。

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テイスティングコーナーの一本モノの材。
これすげぇね!

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竣工は16年5月予定、蒸留開始は来年後半。
19年と言わず、ニューポットも出してほしいな♪

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期待してます!静岡蒸留所!

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ということで、それなりに美味しいウイスキーも見つけられ
静岡の可能性も感じられたフェスでありました。

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2015年のウイスキーイベント…柏ウイスキーフォーラム。

さて、こちらは気軽に参加できる柏ウイスキーフォーラム。
まぁ、知ってるオフィシャル銘柄ばかりですからね。
飲むウイスキーはアレですが、やはりこのグラスは
買いに行く価値はあるでしょう!

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今回はカクテルコンペ、最初から見ました。
カクテルって見た目というか、色の美しさは楽しみの
一つですよね・・・うむ。

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お食事もよかった。柏産の鶏が美味くて、
なんどもお代わりです☆

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登壇された佐久間さんがなんだかリラックスして
楽しまれていたようでよかったです。
いつもイベントの時は質問攻めに
遭われていたでしょうし(笑)

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そして、久光取締役も来られてましてね。
けっこう久光さんとお話できたのがうれしかったなー。
お話し上手ですし、取締役に上がられても、
接してくださる態度が変わらずフレンドリー。

竹鶴威相談役のお別れ会以来でしたが、
もっと気軽にお会いできるといいのですが・・・
次期ニッカ社長にご昇進されないかな・・と、
余計なことを考えたりもします(笑)

お帰りの際は、久光さんと佐久間さん並んで
お帰りでしたので、この後どこかで一杯・・
とかあったのかもしれませんね!

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