イベントレポート

去年の今頃はシリーズ(8-2) 講演:恵林寺講座 平山優先生に聞く武田信玄公 品第一

さて、後半です。

◆武田四天王について◆
<なぜあの人選?>
武田四天王にしても、二十四将にしても、
後世の人たちが言い始めたものではありますけれども・・・

まずは、諱の話から。武田好きにはもはや当たり前の感はありますが、

馬場信房 → 信春
山県昌景 → ○
内藤昌豊 → 昌秀
高坂昌信 → 春日(香坂)虎綱

ですよね。

ちなみに春日虎綱が養子入りした香坂家とは
元は佐久の国衆、転じて筑摩郡牧ノ島に居を構えました。
現在は、牧ノ島城跡になっています。

ちなみに、「高坂」とあるのは上杉景勝から
北条景広への書状で、当て字として「高坂」とされている
と思われる、ということだそうです。

まぁ、四天王も二十四将も人気投票だったんだ
というのが実際のところなんでしょうね。
その中でもTOP4がこの四名だったんでしょうかね。

石川数正が豊臣方に出奔して後、信玄・勝頼時代の
軍制に関わる資料を提出させて、武田流の編成に
したことなどもあって、甲陽軍鑑が江戸時代通じて刊行が
ずっと認められてきて、ベストセラーになります。

そこで、いろんな人がカタチあるものとして見たいと
絵師に注文をつけ、誰々は入れてほしい・・・のなかで、
必ず登場するのがこの4人、というところから呼ばれたのでしょうね。

<四天王の地位>

さて、この四人、そういった後世の人気投票で
決まったのだとすると、当時の地位・職位とは
まったく関係ないわけです。ふむ。

地位が最も高いのが、山県昌景で
それに次ぐのが内藤昌秀。そして春日虎綱、
最後にくるのが、馬場信春。

譜代家老衆の家であるのは、山県家。
実は(武田家もそうですが)この時代の武田の嫡流は
安芸、継いで若狭だったそうです。

もともと甲斐源氏とはいいながらも、南北朝時代に
武田信武の子の信成と氏信(信頼)がいて、
信成が甲斐を、氏信が安芸を継承しているんですが、
氏信が嫡流というのが、最近の考え方のよう。

このとき以来の譜代に山県氏があり、安芸だけでなく、
若狭、甲斐と山県氏が譜代にいるんですね。
ただ、このときには甲斐山県氏は断絶していて、
その名跡を飯富昌景が継ぐことで、この四人で一番の家格
に位置することになるわけですね。ほうほう。

石和の百姓の子といわれる虎綱。信玄公に非常に目をかけられ、
どんどんと出世していくのですが、やはり当初の地位が低かった
というのは事実。それは、諱に秘密があるそうです。

「信」 … 武田家の通り字、家臣のうち嫡男に与えられる
「昌」 … 武田信昌の「昌」の字、次男以降に与えられる
「虎」 … 武田信虎の「虎」の字、地位のより低い家臣に与えられる

というルールがどうもあったらしいんですね。ということで、
当初(元服時点で)どういう立場だったかというのがわかります。

しかし、そこからこの四人がどういう出世ルートを辿ったかで、
見えてくることもあります。

武田家中のエリートコースといわれるのは、
小姓→近習→御使番→奉行→侍大将→城代・・・
と続いていくわけで、昌景、虎綱、
それに真田昌幸もこのルートで出世をしています。

昌景は江尻城代から駿河郡司、虎綱は海津城代から川中島郡司、
昌幸も西上野郡代になっています。が、信春の場合は
いきなり侍大将に抜擢、牧ノ島城代にまでなっています。

内藤昌秀はちょっと変則的で、小姓・近習時代は確認できない
そうなのですが、奉行からスタートして・・・後は同じ。
最終的には、箕輪城代から西上野郡司になっていますね。

このエリートコースを辿るには、文武両道、正確に言うと、
武勇に秀でるだけでなく、官僚としての能力と経験が求められます。

そこで実績を積んでいくことで、郡代という行政・警察権をもつ存在へと
出世をしていくわけですけれども、信春の場合、
その軍事指揮を買われて侍大将にはなっていますが、
行政経験がありません。したがって、城代止まりなんですよね。
ただ、信春は特定の部門(軍事のスペシャリスト)として、
活躍するタイプの人材だったのでしょう。

身分としてはやや低いわけですが、会社でも
そういうスペシャリストで生きる人もいれば、
エリートコースで出世していく人もいますよね。うんうん。

◆戦国時代の甲斐の経済について◆

朝鮮出兵の話。朝鮮から陶工を連行してきた
のは有名な話ですが、学者も朝鮮から連行してるんですって。
その学者のひとりが、甲斐について記述を残しているそうです。

曰く、田より畑が多く、馬の産地。中の下程度。
ということで、そこまで最貧国とまでは行かなくても、
それでもあまり豊かではなかった、ということになりましょう。

朝鮮出兵後、ということを考えると、武田家が滅びて
20年ほど経った後。ということは、信玄公が家督を継いだ頃は
もっと貧しくて、その中で豊かにしてきてようやく・・なんでしょうね。

甲斐では、吉田を除き二毛作が普及。山林資源が豊富。
これに関する史料も多いそうです。
水害の多いのは、周知の通りではありますね。

「甲陽軍鑑」には、別の観点で甲斐が豊かだった、
と記しているようです・・・それは、敵に
甲斐の地を踏ませなかったから。略奪されないわけです。

そして、どの軍もやっていた(黙認されていた)乱捕りで、
あらゆる動産を分捕ってくるわけですよね。そうして領国が豊か・・・と。
それは生産性を上げるという、長い目で見て成果が上がる
なんて、そんな悠長なことばかりではいかんわけですな。

戦国時代とは、気候不順と飢饉と災害が頻発し、
食うための戦の時代だったという側面があるのだそうですね。

ちょうど大きなタイムスパンで考えると、室町から氷河が発達し、
戦国の終わりごろから、暖かくなり始めて海面が上昇する、
という時期でもあって、これが寒冷期であったんですね。

それによって、作物が取れにくくなるでしょうし、
そんな中で台風がよく来襲したりもしたわけで・・・大変。

領国内生産性を上げながらも、その一方でなりふり構わず
略奪させて兵が豊かになり、さらに他国を侵略して領国を広げる。
そのためには、他国とあるときは手を結び、あるときは手を切り・・・

現代的な感覚で、見誤りますよね。
これが常態化しているということが、「戦国」という、
不安定な時代とも言え、その環境下にあって、
甲斐を豊かにするという自負があったのかもしれません。
そのためには、敵は利用するものだと・・・・そんなように
思いました。まぁ、かなり好意的に解釈して、ですけど(笑)

◆文書の解読◆

元は女性の名前はなかなかわからない、
そして女性の文書(北条夫人願文)の鑑定も、
比較対象が少ないので困難、という話だったんですけれども。

一方で、信玄公や勝頼さんだったらね・・・というところから。
本人はほぼ書状は書かず、花押のみというのがほとんど、
あとは右筆というのは、歴史好きなら知ってることかもしれません。

鑑定するとき、年号が特定できていれば、
その前後の証明済の文書と徹底的に比較して、
その筆跡から、どれか同じもの、つまり右筆の誰かと筆跡が
一致するはずではないか?という比較の仕方をするんですね。

本人書状の場合は、本人のクセ字を押さえておく
というのがポイントになるそう。信玄公の場合は「入」「事」。
後に武田二十四将展を見ると、確かにクセあるなーと思ってました(笑)

あとは墨継ぎね(笑)筆跡を真似ようとしても、
なかなかこれがマネのできない落とし穴。

普通だったら文章のキリのいいところで、
自然と次の文章を考えて筆が止まって墨継ぎするわけですが、
偽物つくってると、筆跡真似るのに精一杯。
墨継ぎが、文章の切れ目と合ってこなくなるんですってね。
信玄公の場合は、けち臭いんでしたよね(笑)
それはまた追って・・・

ということで、ここから怒涛の武田講座の2016年・3月4月5月が
始まったのでした・・・・つづく。

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去年の今頃はシリーズ(8-1) 講演:恵林寺講座 平山優先生に聞く武田信玄公 品第一

さて、昨年のお話にビューンと戻ります(笑)
昨年の今頃は、初めての恵林寺講座でした。

P1170957

品第一、ということで法華経や甲陽軍鑑なども
章構成をこのような表現していますよね。

『今後平山先生には迷惑なんですが、
ずーっと生きてる限りやっていただきたく』

『平山先生、今の拍手聞きました?』

小野正文・信玄公宝物館長のブッコミ具合に苦笑。
というのも、山梨県埋蔵文化財センター時代の、
平山先生の元上司であられるそうで…ナルホド(笑)

平山先生がアタマが上がらない小野館長との
やりとりおもしろかった・・・

って、本題。このような恵林寺の中で、
講座をやっていただけるのは素敵ですよね・・・・

P1170959

P1170962

今回は、事前に参加者から質問を集め、
その中からピックアップして、平山先生が話を広げてくださる、
という新しいスタイルでした。講師側としては、シンドイだろうな…

◆信玄公の若い頃の話◆

信玄公の生まれた頃や若い頃の話、というのは
一次史料では「高白斎記」に出てくるようで、
蟇目役(ひきめやく)の話から始まりました。

蟇目役、とは貴人の出産や病気のときに、
邪気をはらうために蟇目を射る役

とあります。

このお役目、曾根三河守という重臣が仰せつかったそう。
当時は曾根三河守昌長。後代信玄期の偏諱ではなくって、
まさしく武田刑部大輔信昌の「昌」ですね。

曾根氏は、甲府の南、曽根丘陵のあたりを領した一族。
一説に、昌長は武田信重の曾孫ともいい、
書状では、姓を省いて単に「三河守」と記され、
武田の名乗りと待遇を許されていたようです。

そして縄長、虎長・・・と宗家当主の偏諱が続き、
虎長の子が勝長、すなわち内匠助、のち下野守昌世。
後に信玄公にわが目と称されたもうひとりですね。

同じく、「下」曾根家も姓を省かれるようなので、
武田一族待遇だったのでしょう。
乳母は不明、守り役は板垣駿河ですね。
でも、甲陽軍鑑を見る限り、という状況推測に過ぎず、
甲陽軍鑑に明示的に「守り役」とは書いてないんですって!
最初に「守り役」と記したのは、実は「甲斐国志」。

エピソードは甲陽軍鑑でしかわからないのですが、
駿河から届いた貝を数えさせ、過大評価
しちゃいがちと勝千代君の話や、ウツケを演じた話など。

そのウツケが晴信の作為によるもの、と見抜いたのは
わずか四人だったと伝わります。

板垣駿河、甘利備前、小山田備中、飯富兵部。
板垣、甘利、飯富はよく知られていますが、
小山田備中はイマイチ?かもしれません。

後に、小県~川中島戦線の責任者として、
真田弾正らを率いて活躍する小山田備中守虎満。
信玄からの全面的な信頼を受けているのも、
この頃からの信頼があったのでしょうか。

さて、勝千代、太郎、晴信は、慎重かつ冷静沈着。
こうした子供時代の性格は、天下に聞こえる大大名に
躍進してからも、変わらずにいたような気はしますね。

そんな幼き太郎がいかなる教育を受けたのか?
ということについて、直接的に解る史料はないのだそうですが、
信繁家訓九十九箇条に、ものすごい中国古典から
その論拠・典拠を示していることが知られていて、
現代に伝わらない古典からも、典籍からも幅広い引用。

信繁ですらそうなのですから、況や信玄をやであります。
信玄公のご兄弟だけでなく、武田家の一族、
特に信玄公母方の大井氏は、文化人を輩出しており、
甲斐国守護の家として、高い文化水準の教育を
受ける環境があり、信玄公ご本人の漢籍への興味関心も
あいまって、ものすごく吸収され消化されていったんでしょう。

ここからはわたしの推測ですが、信虎自身は14歳で
家督を継いで戦いに明け暮れる半生でしたが、
京との関係を非常に重視してましたから、
守護家たる武田家の教育とは、どうあるべきか関心が
あったのでしょうか。

性格面では反りが合わなかったであろう太郎ですが、
本人にその素養があるかはさておき、結果的に
その教育への関心が、後の武田信玄をつくった…のかも。

こう考えると、義信・勝頼両氏のことへ関心が向いてしまいます。
おそらく信玄公のことですから、義信さんへの教育は
手厚くされたんでしょうと想像できることと、
早くから諏訪家入りが決まっていた勝頼さんが、
そのような中国や日本の歴史から、大将かくあるべき…
ということを学ぶ機会がなかったのかもしれません。

ホントに遠い遠い遠すぎる遠因かもしれませんが、
勝頼さんのそういう教育環境も後の結果に
つながったのかな・・・などと想像。
確か勝頼さんも和歌の会は催していたように思いますが…

さて、話を戻します。信玄公の受けた教育、
という観点には、臨済宗との関係は切っても切れません。
臨済宗は当時の天下の教養人を相当輩出。

信玄公のバックボーンには、そんな臨済宗の思想が
深く刻まれているわけですね。

「信玄」という法名もまた、師であった岐秀元伯から、
臨済宗にあって高名な関山慧玄の関山派の高僧、
関山慧玄の「玄」の字を頂いたわけで。

ここから信玄公のバランス感覚の話に進みます。

余談ですが、このバランス感覚、ひいては、
物事の全体を見て、局所的に重きを置かないというのは、
わたしも非常に大事にしていることだったりします。

その一端として、一向宗の保護が話に上がりました。
隣国である北条、上杉では浄土真宗を堅く禁じましたが、
信玄公は領国に宗徒を迎え入れ、保護しました。

実はこの保護が遠い先、武田家の命脈が保たれる重要な鍵に
なるとは、信玄公も思ってもみなかったでしょう。
信玄公が保護し、一向宗の寺長延寺(現光沢寺)を開いた
実了師慶は、次男武田竜宝の子を弟子にしています。

そして、武田滅亡の折、この実了が信濃飯山に
弟子にしていた武田竜宝の子、すなわち還俗して
武田信道を匿って、命脈を保つことになるのです・・・・

すべての宗派を受け入れ、保護し、自由な布教を許した
信玄公ですが、法論だけは堅く禁じました。

法論とは、仏教各派の教義の解釈についての議論のことなんですが、
往々にして、各宗派の主張の押し付けと相手の主張を無視し、
相手を論破するだけでなく、法論に破れた者に改宗を迫るというような、
揉め事の原因となることが多かったようです。

これ・・・領国内の秩序が乱れる原因になるわけですね。
法論とは僧同士の決闘のみならず、各派につく信者も巻き込んだ
争いになるわけでして・・・互いの宗派は
おのおの互いを尊重すべし、これが信玄公の考え方です。

この禁を破ったのが、あの鬼美濃こと原美濃守虎胤。
日蓮宗信者なんですが、法論に首をつっこんで、
北条に追放されていました(後に呼び戻されて帰参)

ここからわかることとして、信玄公が仏教をどう捉えていたか、
の一端がわかるとともに、信玄公の基本的な考え方が
現れているようにも思います。

◆信玄公の肖像画の話◆

まぁ、よく知られた話ではあります。
いわゆる成慶院の伝・武田信玄像が畠山義続と思われること、
真像といえば、持明院蔵や浄真寺蔵の吉良義康像
ではないの?ってことですよね。

信玄公じゃないのでは、というのは20年前くらいから
言われているそうですね。でも、成慶院蔵がなぜ違うのか???
について、しっかりと振り返ってみるのもよさそうです。

(1) 家紋の違い … 花菱ではなく二引両紋
通常の人物像とは違い、烏帽子を被らず、
素襖で寛いだ格好ですが、素襖には家紋が一切ない
刀と脇差の柄の部分に二引両紋が・・・

(2) 等伯の落款

長谷川等伯の落款があるので、彼の筆によるのは確かなのですが、
彼が故郷の七尾にいた頃のものであって、信玄公が亡くなる
少し前、信玄公の西上作戦があった、元亀三年(1572年)に上洛。
ということは、元亀三年以前でないと辻褄が合いませんね。

一方、この伝・武田信玄像を見ると、髷があるのがわかります。
ということは、描かれた人物は出家していないことになってしまいます。
信玄公が出家したのは、第四次川中島合戦の少し前の
永禄元年(1558年)。永禄年間の初期・・・だと、
長谷川等伯の事実と矛盾してしまいます。

また、信玄公が出家した時期とその年齢を考えると、
ちょっと描かれる人物が老けて見えるというのも気になる点。

これらを総合すると、信玄公ではなくって、二引両紋を使える身分で、
等伯がいた元亀三年以前に能登七尾に居る人物・・・
ということで、畠山義続ということになるわけです。

さて、武田家の遺品が納められた、高野山成慶院・持明院。
勝頼が自分とともに武田家の遺品が滅びるのは
惜しいと甲州慈眼寺の尊長に託し、それらが高野聖の手によって、
高野山に伝わることになるわけですけれども。

現在、高野山成慶院には、ここで信玄像ではないとされた
伝・武田信玄像のほか、勝頼・信勝・北条夫人三人の像、
持明院には、信玄公が若い頃、出家前の、
武田晴信寿像が伝わっています。

高野山の記録には、他にも信玄公寿像があったとされていますが、
実はこの寿像、現代には伝わっていません。

信玄公の本葬は、武田氏館で長篠合戦の翌年、
天正四年(1576年)に執り行われた後、
信玄公の遺品を勝頼さんが高野山に送ったことがわかっています。

この中に信玄公寿像(=生前描かれた像)が含まれていた
というわけですね。つまり、勝頼らの三人の像や晴信画像が
高野山に伝わったのとは、別の経緯で高野山に伝わったわけです。
描いたのは、武田逍遙軒信綱。

この模本と思われる像が四点あります。

(1) 山梨県立博物館蔵
(2) 浄真寺蔵
(3) 東京大学史料編纂所模写
(4) 個人蔵(長浜市長浜城歴史博物館寄託)

このうち(4)は当日紹介されていなかったのですが、
少し前に東京で行われていた、そして現在京都で行われている
戦国時代展で展示されていて、おそらく(3)と同一なのでは
という気がしますが、寛政年間の写しだそうです。

以下、Wikipediaリンクと戦国時代展図録から転載。

(1) 山梨県立博物館蔵

(2) 浄真寺蔵

(4) 個人蔵(長浜市長浜城歴史博物館寄託)

170122_1518_002

おそらく髷があることから、出家直前の三十代前半くらいでは
ということですね。山梨県立博物館蔵、
浄真寺蔵については、写された時期は判明していませんが、
浄真寺蔵はかなり古い段階で、原本に近いとされているようです。

しかし、個人的には、東京大学史料編纂所模写の個人蔵の
信玄公像が一番丁寧な仕事をしている気がしていて、
その信玄公の甲冑姿を一番よく伝えているのではないか、と思います。

というのも、晴信画像を見る限り割と面長であるように思え、
浄真寺蔵では頭が丸く描かれているのに違和感がありましてね。

そもそも頭の形はそう変わらないでしょうが、年代比定も
出家直前と考えるならば、晴信画像が描かれてから、
10年は経っていないくらいなわけで、ちょっと晴信画像とは
異質な気がするんですよね。。。というわけで、
個人的には、(3)(4)推しです、はい(笑)

◆武田家中の酔っ払い・穴山蟠龍斎◆

さて、続いて食べ物・飲み物の話。残念ながら、
信玄公には、食べ物や飲み物のエピソードはないらしく、
どういう好みだったかはよくわからないようなのです。

その代わりっちゃなんですが、酔っ払いエピのあるのが、
穴山伊豆守信友、号して蟠龍斎。

・・・と言ってもなかなかわかりませんが、息子が信君(梅雪)
というとあぁ、とわかる人も多いでしょう。梅雪の父ちゃん。

村上との和睦交渉でも、酒飲んでおじゃんにしてしまい
晴信公曰く「いつものことだけどしょうがない」・・・

しかも、冷泉家への信玄公からの歌の会のお誘いには、
先般の非礼をお詫びしたいと穴山が言っているとし、
今、禁酒をしているともあるそうです。相当やっちゃったんだな・・・

これを聴いてから、わたしもこれから酒の席で失敗して、
蟠龍斎と呼ばれないように、気をつけたいと思います(笑)

◆信玄公の後継策と勝頼評◆

これは気になる、信玄公が後継者育成をどう考えていたかって質問。
また、勝頼さんの評価について。

まずご指摘されたのは、隠居をしないことによる権力移譲・分掌をし、
スムーズに移行することができなかった。。。

壮年期にあって、隠居せずに死ぬまで当主の座にいたのは、
信玄公と謙信公。そして、両者とも権力移譲に
失敗しているわけですね。

義信事件も最も直接的な原因は、対今川家の考え方の相違
ということなんでしょうが、信玄公がなかなか義信さんに
家督を譲らなかったこと、そして勝頼さんが高遠諏訪家を相続し、
しっかり領国経営をやってたとしたら、自分は何も任されず・・・
という焦りや不満があった、とするのは自然なことだと思いますね。

北条、今川、織田、それぞれの例を見ても、やはりきちんと
隠居していて、特に北条の世代交代のスムーズさは
特筆すべきものがあります。

ではなぜ、家督を譲らなかったのか。遠因として内紛続きの
武田家にあってなかなか踏ん切りがつかないのもあるかもですが…

鶏と卵の関係になっちゃいますが、今川家問題で意見を異にし
この状態では家督は譲れないという状況、あるいは、
もっと根本的に、当主としてあるべき心構えがなっていない、
というように、信玄公が義信さんを見ていた可能性もあるかな、
と個人的には感じているところがあります。

義信事件の前に、今川家にべったりで困っているというような
心情を信玄公は吐露していますが、後に本格的に
今川家を追い落とす際に、信玄公は氏真がいかに当主不適格か
をあげつらっている文書があったかと思います。

もちろん、武田が駿河を領有する正当性を主張する目的が
強いとは思われますが、氏真もまた信玄公からすると、
あるべき当主・大将像に適わぬ人物である認識があったような感じ。

つまり、信玄公が当主としてかくあるべしという理想像が強すぎた
という側面もあるように思います。まずは家督を譲ったうえで、
方向付けをするということもできたかもしれないのに。。。

実際、信玄公自身が当主のあるべき像をすごい意識していて、
そうなるように修養を重ねようとお考えだった節は、
すごく感じていますので・・・個人的には理想が強すぎた、
という点も問題点だったのではないか、と思っています。

さて、勝頼さん。もちろん勝頼さんだって、同じように
なかなか家督を譲ってくれない問題に直面します。
重臣が列する軍議にも参加できていないですし・・・

信玄公は勝頼さんを「おっちょこちょいだ」と評しています。
例の蒲原城を落とした際の書状なのですけども、
一軍の大将が前線に出て行って、戦いに出てしまって、
しかもそれを「例式」としていて、それでも自慢げに語ってる。

それは、大将としてというよりは、一部将としての活躍、
と捉えた上でのことのようにも思えます。

そうそう、勝頼さんが高遠から甲府に呼び戻されたのは、
元亀に入ってから、ということは1570年。
義信さんが没して3年後。そして、そのさらに3年後に
信玄公は亡くなるわけです。

それまで長く諏訪勝頼として、高遠を治め、
突如甲府に呼び戻されて「武田」勝頼となって、
わずか3年の時間しか残されていなかったのですね・・・

自身の死期について、予想し得なかったのかもしれませんが、
もしそうだとしても、また勝頼さんを公式的に後嗣と
言いにくい事情があったにせよ、リスクヘッジが甘いとは
言わざるを得ないでしょう・・とは思います。

◆信玄公の死因とご遺骨について◆

これも長らく語られてきたことですが、結核説というのが
あったかと思います。この根拠は、御宿監物友綱の
小山田信茂宛書状によるもの。

御宿監物は、葛山氏元の甥で氏元養子となった
信玄公六男・信貞の後見を務めた人物。
医者でもあり、信玄公の治療にも当たったとされます。

そこには、「肺肝」をその死の原因としています。
この「肺肝」を結核と解釈したのが、結核説。
しかし、これは内臓の病の総称。

しかも、御宿監物文書は偽文書だということらしく、
これを根拠に信玄公の死を語ることができなくなる・・・
となると、甲陽軍鑑しか手がかりがありません。

甲陽軍鑑には、「膈」とされていて、その病に冒された
様子が記述されています。曰く、心身くたびれ果てていて、
神経をすり減らしていた、よくなったり悪くなったりを繰り返す、
亡くなる直前は、口臭がひどく歯が抜けたと・・・

これをとある番組の一環で、医学史に詳しい
順天堂大学名誉教授、酒井シヅ博士に鑑定を依頼したそう。
そうすると・・・ストレス性食道がん、もしくは胃がんとのこと。

口臭が内臓が冒され腐敗臭がし、歯槽膿漏で歯にできものが
できたのではないか、ということなんだそうです。

信玄公が人を育て、その才覚を見抜くということは、
それだけ我慢強く、気を遣いすぎる人でもありました。

さらに信玄公が置かれた環境は、ある種自分で招いたところも
ありはしますが、義信との対立と死に追いやってしまったこと、
北条を敵に回して窮地に立たされたこと、
織田との全面対決に突入していくこと・・・ストレスの連続。

ご遺骨ですが、おそらく長岳寺から遺骨が出てきた?
というのは伝承であり、しばらく甕に入れられて保存された後、
甲府で荼毘に付されたのは、天正玄公仏事法語からも確実。

で、まだ蓋然性があるとされていたのは、龍雲寺の遺骨。
北高全祝は信玄公はもとより、信虎の葬儀にも参列していて、
後でわかった(武田二十四将展)ことですが、
逍遙軒信綱の逆修供養(生前供養)も行っていますし、
真田昌幸は信綱寺に信玄公廟を造るにあたって、
佐久龍雲寺領を信綱寺に寄進するといっています。

信濃のお寺ではあるのですが、何かと武田家の
仏事には深く関わっているんですよね。

龍雲寺には北高禅師が信玄公を荼毘に付して
埋葬したという内容の記録もあるそう
ですが、
さすがにそれは、天正玄公仏事法語から否定されるとしても、
参列した北高禅師が分骨された遺骨を持ち帰り、
龍雲寺に埋葬したというのは、十分にありえることではあります。

DNA鑑定でもすればいいんでしょうが、何を以って
信玄公のご遺骨かを判定・照合すればいいかがないわけで・・・
恵林寺には埋葬されたのでしょうが、百回忌の際に建てたれた
現在ある信玄公墓より以前、どうなっていたかまるでわからず。

織田の兵が墓を暴いていても、おかしくはないわけですよね・・・
ただ、墓石のみを倒して破壊しただけという可能性もあり、
そこのところは闇に包まれたまま、ということでしょうか。

ということで、前半終了です。盛りだくさん過ぎる・・・(笑)

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講演:第86期「歴史文化教室」 武田勝頼の滅亡と景徳院 … 景徳院 武田勝頼・信勝・北条夫人供養塔の研究成果

景徳院といえば、武田勝頼の墓(供養塔)があり、
家康が勝頼の菩提を弔うよう、建てさせた寺院。
勝頼が自刃したとその命日に、景徳院についての講演を
聴いてまいりました。

勝頼親子の供養塔の調査ができたのも、
と関係があるというところから。
景徳院から修理の申し出があったところ、合併を待って、
合併した甲州市の予算で行えたとか・・・・

大和村のままでは調査されることなく、傾いた塔も
そのままだったかもと考えると、市町村合併の影響が
こういうところにも出るんだな、と実感。

・・・てことは置いといて本題。

◆文書の残らぬ景徳院◆

この供養塔、勝頼宝篋印塔に

「二百年遠忌 安永四年 十一世要導」

とあり、二百年遠忌に際し、当時の住職要導により
建立されたことがわかると。

ただし、弘化二年(1845年)・明治二十七年(1894年)と
二度の火災で諸堂焼失、このの火災で勝頼ほか供養塔も塔身が焼損。
現地に行った際にも確かに法号など読めなかったのだけど、
こういうことなんですね・・・おいたわしい・・・

恵林寺の信玄供養塔と霊屋が百回遠忌に建てられていて、
その際に遺臣に寄付を求めたことが奉加帳の記録から解るんだけど、
この火災の際に史料が焼けちゃったのでしょうか・・・

しかし、塩山の向嶽寺の記録(向嶽寺史)に供養塔が
建立された安永四年(1775年)に近い、
天明四年(1784年)の景徳院の様子をうかがう記述があるそうです。

曰く、向嶽寺の開山抜隊得勝の四百年遠忌の際、
経を読む僧が多数来山し、恵林寺から57人、
景徳院から55人の僧が訪れていると。

ここから、今の規模からは想像つかない、
恵林寺にも匹敵する大寺院だった可能性もあるようです。
そしてその寺を支える寺領を安堵されていたわけですね。

それくらいの規模だとしたら、同じように武田遺臣の浄財を
募ることはできそうですが、江戸時代後期に入っても
まだ武田遺臣ネットワークがあったのかなかったのか、こ
の時期における勝頼に対する捉え方などがわかったかもしれません・・・

景徳院創建には、小幡勘兵衛、つまりあの甲陽軍鑑の再編した
小幡景憲も関わっているから、その縁起など
詳しく解ったらよかったのに・・・

ということで、供養塔が建てられた時期は大寺院
だったかもしれないのですが、その後廃れ住職も居ない時代もあって、
今の住職さんもお父上の代からだそうですが、まだ短いんですね。

◆発掘成果 … 供養塔と経石から◆

さて、発掘が開始されたのが平成18年(2006年)。
ここから平成21年にかけて丹念に石の洗浄、
経文解読、整理や周辺の発掘調査が行われました。

昨年の武田二十四将展でもあった経のかかれた石が
大量に発見されたのがこのときですね。
野球のホームベースのような石に勝頼・信勝・北条夫人の戒名が
書かれた経石は三人の供養塔の左右にある
「殉難者供養塔」から発見されました。

これを皮切りに勝頼・信勝・北条夫人の供養塔の下からも
大量に見つかり、すべてあわせて5,000点を超える経石。
興味深い点は、左右の「殉難者供養塔」下と
中央の「勝頼・信勝・北条夫人供養塔下」とで
明らかな相違があるんですよね。ふむ。

①経石を収めるスペースの広さと構造。
  左右のほうは三段になっている基壇の上段にのみ
  経石が入る構造である一方、中央のほうは下段から
  中段までの広いスペースに経石がぎっしり。

  底がの盛土の厚さの違いから、向かって左側から右側にかけて、
  経石の入るスペースが異なっている。
  さらに重層的に経石が敷き詰められ、その層の厚さ16層。

②中央の経石には安永三年(1774年)八月銘、
  左右の経石には安永九年(1780年)銘。

③中央からはほぼ書かれているのが法華経である一方、
左右の経石は四種の異なる経文が記載。筆跡も異なる。

これらから考えを進めると、わかること・・・

まず第一に、勝頼・信勝・北条夫人の供養塔と
殉難者供養塔の創建年代について。
中央経石への経文と左右経石への経文記述の年代が違う、
という点から、「殉難者供養塔」も勝頼二百年遠忌後の安永九年に
建てられたかどうか?という話。

講師の飯島氏は、中央・左右の基壇は同時期に造成され、
左右の基壇には経石だけ後に入れられたのではないかと推定。
というのも、左右基壇のほうには、後から経石を入れられるよう、
左右基壇三段目の裏側の石が抜けるようになってるんだとか・・・!!

第二に、中央基壇上の各供養塔の並びの考察。
興味深いのは、勝頼・信勝・北条夫人の各供養塔の今の並びと
その下に収められている経石埋納数の比較。

現在、供養塔向かって左から、

殉難者供養塔(左)
武田信勝供養塔(五輪塔)
武田勝頼供養塔(宝篋印塔)
北条夫人供養塔(五輪塔)
殉難者供養塔(右)

の順で並んでいるのですが、同じ順で経石数を並べると、

殉難者供養塔(左) …224点
武田信勝供養塔(五輪塔) …2,498点
武田勝頼供養塔(宝篋印塔) …1,451点
北条夫人供養塔(五輪塔) …761点
殉難者供養塔(右) …321点

と、信勝が圧倒的に多いんですね。
これは経石が入るスペースの広さにも関係していて、
向かって中央基壇の左が一番広く取られているんですよ。

しかし、供養塔が勝頼がひときわ大きく、
北条夫人・信勝が同程度の高さ(しかも勝頼は宝篋印塔、
北条夫人・信勝は五輪塔)と考えると違和感が残ります。

もうひとつは、供養塔の焼損具合。
これを焼損のひどい順に並べていくとこうなります。

殉難者供養塔(左)
武田勝頼供養塔(宝篋印塔)
北条夫人供養塔(五輪塔)
武田信勝供養塔(五輪塔)
殉難者供養塔(右)

・・・・あれっ!そうなんです。焼損のひどい
殉難者供養塔(左)と勝頼供養塔に挟まれた、
信勝供養塔だけが、ほぼ無傷の状態なんです。

てことは?もとは

殉難者供養塔(左)
武田勝頼供養塔(宝篋印塔)
北条夫人供養塔(五輪塔)
武田信勝供養塔(五輪塔)
殉難者供養塔(右)

の並びだったと考えると、経石の埋納数や
焼損具合とも矛盾なく考えることができますよね。
ある時期(明治の焼損後?)に並び替えられたのでしょうか…

第三に、勝頼二百年遠忌の執り行った記録と比較して
わかることもあるみたいです。

さらに、塩山の旧家に伝わる「保坂家文書」「勝沼古事記」に、
勝頼二百年遠忌についての記録があって、
安永八年(1779年)に執り行われてることが確認できるそう。
「保坂家文書」にはさらに詳しく、

一 武田公様田野御法事弐百年御忌、
   三月八日より十四日迄と被仰出候所、御停止ニ付延引、
   十五日より廿一日迄御法要有之候事、
   西の丸様御遠行十四日迄御停止二候事

一 御焼香ニ罷出候、去年秋為知之御使僧来ル事、
   市兵衛殿御道候

   三月十六日参詣、はさみ箱ぞうり取候事、上下ニ而御焼香候、
   はかま羽折ニ而玄関迄参ル事、自分当日帰り、
   市兵衛殿詰居詰番勤被申、喜三郎殿も被参、
   市兵衛殿替被申廿一日迄詰居被申候事・・・
   □々敷御佛事御物入御用沙汰ニ候事

・・・とあります。

これらを時系列に並べると、

安永三年八月 中央経石への経文記述
安永四年三月 勝頼・信勝・北条夫人供養塔落成
安永八年三月 勝頼二百年遠忌
安永九年 左右経石への経文記述

という流れになります。遠忌前に中央経石を納めたあと、
遠忌を執り行った後、翌年に経石を納めています。

飯島氏の説のように、そもそも最初から左右経石は
後から入れることになっていた、ということや、
左右経石からは、経だけではなくって、
仏事で僧が唱える文言に三氏の戒名があるってことは、
遠忌で唱えられた内容・経が書かれてあるのかもしれませんね。

さらに、「保坂家文書」において、
個人的にここで気になるのが、「西の丸様」。

本来勝頼命日の前後の8日~14日で
二百年遠忌を執り行うところ、「御停止ニ付延引」、
とりやめで延期になって、15日から21日になってるんですね。

延期をさせる原因となった「西の丸様」が誰なのか・・・
人物比定されていませんが、西の丸というと、江戸城西の丸。

将軍の世継もしくは隠居した大御所の居所。
しかも、西の丸老中という世継付の老中という御役目があるそう。

安永八年当時、将軍徳川家治の時代。世
嗣として徳川家基がいましたが、有能で将来を嘱望されながら、
同年2月24日急死、享年18(満16歳没)。

そして、この時期西の丸老中をしているのは、阿部正允。
明和六年(1769年)8月18日から
安永八年(1779年)4月16日まで。(以上、Wikipediaから)

本来、「西の丸様」と場所で呼ばれるのは
直前に亡くなった家基でしょうが、あるいは西の丸老中をしていた
阿部正允の可能性もあります。
あるいは江戸城ではない別の「西の丸」なのか・・・

なんとなく、家基急死により西丸老中・阿部正允の都合が
つかなくなり、延期されたのかもしれません。
しかし、阿部正允あるいは徳川家基との
勝頼の関係はわかりませんが・・・・謎。

いずれにしても、「様」付けされる人物が、勝頼二百年遠忌に
参加している、あるいはその都合で日程を命日からズラしている
という点で、並々ならぬ関係性を伺わせます。

当時の勝頼の位置づけや捉え方を考える上で、
この「西の丸様」の人物比定は、重要かもしれません。

もうひとつ重要なことは、「はかま羽折ニ而玄関迄参ル事」とあり、
正装をもって参列しているということがわかりますね。

◆発掘成果 … 甲将殿周辺◆

その後、平成20年度には、景徳院(田野寺)創建時から
あるという、甲将殿周辺の発掘調査。

そもそも、今ある勝頼供養塔が二百回御忌による創建だとしたら、
それまでの景徳院はどうだったのでしょう。

当時甲府城主だった柳澤吉保の命で、荻生徂徠が
宝永三年(1706年)に甲州に赴いており、その際の記録、
「峡中紀行」に記述があるようです。

これに依りますと、後主(=勝頼)の廟に謁し、
そこには後主、郎君(=信勝)夫人の影像があり、
皆、新しく造ったものだったようです。

徂徠が墓の所在を尋ねると、景徳院の僧が言うには、
勝頼が亡くなった後、勝頼滅亡を聞きつけた
石和の広厳院七世拈橋が当地に駆けつけたそうです。

自刃から七日過ぎ、遺体には血が滴っており、
誰が君(勝頼)か臣かわからぬ有様であったため、
穴を掘って、一様に葬ったその場所に廟を建てたとあります。
これこそが、今甲将殿と呼ばれる御霊屋になるわけ。

しかし、この甲将殿のまわりを発掘すると、意外なことが
わかってきたのです。

甲将殿の中央付近は一様な土の層がある一方で、
甲将殿南北からは、表層の土から下に厚い砂礫層を発見。
甲将殿から離れるほど、深く落ち込んでいることが解りました。

おそらく、甲将殿の中央付近を頂点として東西に落ち込んだ
尾根上の地形をしていたところに、砂礫と土砂を埋めて
平坦な場所を造成しているというわけです。

そして、現在の甲将殿(明治に再建)の規模からすると、
明らかに平坦地が足りません。仮に二百年遠忌が行われた時の
甲将殿も同一の規模だとするならば、それ以前、
荻生徂徠が見たときの廟はもっと小さなものであったかもしれません。

二百年遠忌に当たって、土地造成を大規模に行って、
甲将殿を大規模に建て替え、さらに経を記した石を埋納して
供養塔を建立という大事業を行ったのかもしれません。

荻生徂徠がみたときの甲将殿は、尊像を安置した、
三人の墓そのものだったといえるのでしょう。

個人的には、この規模の大事業と「西の丸様」の都合伺い、
というのはすごく自然なことと思えました。

甲将殿の近くも発掘したらしいのですが、甲将殿そのものの
柱が危なくなりそうでやめたそうなのですが、
ひょっとしたら、そのまま掘り進めると、数十人単位の
遺骨が眠っているのかもしれませんね・・・

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講演:日本の木造建築技術の至高・江戸城天守復元

土曜日ですが、また性懲りもなく江戸城天守のお話を
聴いてまいりました。三浦先生のお話は好きですからね・・・
建築講座「火鉢を囲んで建築の歴史」の第4回。

調査報告書出版記念とやや重なるところもありますが
その点、ご容赦ください。

◆「重」と「階」

直接江戸城は関係ないのですが、興味深かったので。
よく天守を「○重○階」という言い方しますが、
○層○階とかも言ったりもするし・・・

実は現代の学術用語として使われる言い方と、
創建当時の言い方では微妙に異なる点に注意が必要みたい。

学術用語としては、屋根の数を「重」、
階数を「階」で表現する決まりだそう。
つまり、「層」は使わないってことなんですね。ほうほう。

ただ、この「重」「階」の使い方について、屋根の数なのか、
階数なのか混同されている例もあるそう。
つまり、屋根の数を「階」と表現したりもして、けっこう曖昧。

その例として挙げられるのが、関東以北に多い「御三階櫓」。
あれ、実際は三重櫓なんですよね。三重櫓だからといって、
三階とは限らないわけですね・・・鶴ヶ城御三階も確かにそうだ!

「階」を屋根の数として表現する例の逆、
「重」を階数で表現してしまったと思われるのは、
蒲生氏郷時代の鶴ヶ城の記述。一般に七重天守といわれていますが、
内部構造が七階建てであって、実際は五重七階の天守?とのこと。
会津若松でいっぱい見たあの黒天守のイラストあかんやん・・・

ちなみに・・・天守の高さと「重」「階」は無関係。
姫路城天守は六階建てだけど、江戸城天守の五階建てのほうが
高いわけですよね。つまり階高が違うわけですね。

◆天守の起源論◆

(岐阜城)
天守の起源をどこに見出すか割りと意見が分かれるところですが、
三浦先生の今回の講演では、まずは岐阜城天主でした。

ルイスフロイスの記録によると、三重四階の御殿を「天主」としたそうで、
一階が信長の御殿、二階が帰蝶と侍女の御殿、三階が屋根裏、
四階が物見なんだそうです。

現代の感覚だと最上階に信長・・・?と思うんですけど、
そうじゃないんですね。基本的に日本は二階以上の
山門などの建物はなく(例外有)、天皇や貴族を見下ろす
不敬を避けてきたという歴史がある。
しかし、信長はその考え方を変えてしまったと・・・

(安土城)
続いて安土城天主。五重六階地下一階で
これが先例となり、五重以上の、つまり屋根の重なりが
五つ以上の天主(天守)は一例を除き、ありません。

その一例とは本当に五重を超えたのは駿府城天守とか。
ソースは明かされませんでしたが、六重七階の天守だったとのこと。
実際三浦研究室のページを確認しますと、七重になっていますね。

(大坂城)

続いて天下人の天守として挙げられるのが豊臣大坂城天守。
五層は間違いないだろうとしつつも、内部構造は不明。
おそらく六階地下一階ではないか?
規模としては安土城天主とほぼ同じ。

ここまで見てきた岐阜城天主、安土城天主、大坂城天守は
皆御殿造りという点が特徴。秀吉は信長同様
(坂本城、姫路城、北ノ庄城など)家臣の豊臣大名にも
天守を築かせますが、どれも内部構造は御殿造りではなく、
内部は簡素化されたものになっていきます。

(織豊期の天下人天守のあり方)
ここまでで解ることは、御殿が重層化して天守(天主)が生まれ、
それが家臣に伝播していく過程で御殿性が失われていく
という流れがあるわけですね。現存はしていませんが、岡山城天守や
広島城天守などの構造は確かに御殿ではなく、
櫓化しているように思えます。

ここでの三浦先生の考え方の肝は、軍事的な大櫓から
天守へ移行していくのではなく、まず御殿があって
それが櫓化していくという流れで捉えられていることですね。
つまり、そもそもが非軍事的な存在。

そう考えると講演では触れられていませんでしたが、
金森長近の飛騨高山城天守は興味深い存在かもしれません。
天守曲輪をもつ連立天守ですが、御殿の一部が重層化して
天守になる過程を古い形態の天守を伝えている例、
といえるかもしれません。

(関が原以降の天守)
これが関が原以降に建てられた天守が二つの道をたどります。
ひとつは対豊臣を意識した軍事化した天守。もうひとつは
当初と同じ非軍事的な政治的な圧力を加える天守。

ただ後者の場合も利用のされ方は信長・秀吉と同じですが、
もはや内部構造が御殿のようにつくられることは次第になくなっていき、
大きさと外観で圧倒していくことになります。

が、後述のように慶長天守は御殿造りだったと三浦先生は
考えられており、秀忠、家光の江戸城天守や
駿府城天守と比較すると、ある意味過渡期というか、
織豊期といえるのかもしれません。

(慶長期江戸城天守)
家康は豊臣時代には天守を立てず、
関が原以降に初めて天守を建造。豊臣時代においては
大坂城を超える天守は建てられず、また大阪城以下の規模の天守は
天下に豊臣に下った象徴となることで、天守そのもののをつくらない
という選択肢を選んだのではないかとのこと。

そこで関が原後に建てられた慶長天守。三浦先生の推測だと
名古屋城天守と同規模程度ではないか?とのこと。
雪山のようということで、鉛瓦だったとされているのは
よく知られていますよね。このときまでは御殿造りだったということで、
三浦先生が説明される天下人の天守の系譜を
受け継いでいるというわけですね。

昨今松江で発見された「江戸始図」については、それまで
知られていた「慶長江戸絵図」についての言及のようにも思え、
しっかり質問しておくべきでした。。。。

おもしろかったのは、名古屋城天守が
一階・二階が重箱櫓状になっていることを
「家康の好み」と伝わっている点との関連。

このことから、家康の慶長天守もそうだったのでは?という推測。
三浦研究室の復元案もそうなってますね!

(元和期江戸城天守)
元和になって秀忠が建てた天守。
ほとんど寛永の家光天守と同じなんですが、
四層部分が唐破風ではなく千鳥破風になっている点が相違。
ただ指図は簡略的で正確な再現は困難。

(寛永期江戸城天守)
寛永天守は外観を変えて建てますが、あまりに工期(4ヶ月)が
短いため、構造はそのままで外装だけをかえたと推測。
関わった大工延べ281,763.5人(手伝いは0.5人換算)
今建てようとシミュレーションをすると4年・・・・その差・・・

江戸城天守は壁も屋根も銅板で
防火対策はされているはず・・・なんですが、
ソースは明かされませんでしたが、とある記録によると
本丸御殿が類焼するなかで竜巻が発生(火災旋風)して、
跳ね上げ式の銅板の扉が開いてしまって、
火の粉が入り炎上したということなんですね。

留め金がしてあったかどうかわかりませんが、
竜巻状の強さの風に耐え切れたか?
という問題はあるかもしれません。

焼失後、前田綱紀によって万治年間に
天守台が再建されるわけですが、
よく指摘される高さの低さ。

そもそもの話として、天守台まわりの本丸の高さが
少し盛ってあり低くなっているようですが、
それ以外にも明確な理由があります。

実は何度か講演を聞く中で知ってはいたんですが、
このたびソースを知ることができました。加賀藩にあって
天守再建を指揮した奥村家に伝わった日記
「江府天守台修築日記」がそれ。

ここに、家光が寛永天守を見たときに、石垣が多門櫓の上に
少し見えるのがよろしくないと嘆いたことを受け、
(当時家光はもう亡くなってますが)家光好みに一間低くした
という故事によるものなんですね。
これは江戸城再建にあたっての調査報告にも詳しく記述があります。

さらにもう一点、寛永期と万治期で天守台を比較すると、
三尺一寸(93cm)天守台が外側に広いのだそう(犬走り)。

他の天守から20~30cm、彦根城天守で50cm程度、
宇和島城天守で1m程度ということで、天守に対して寸法上
余裕のある天守台というのは実例はあるようで、
ぴっちりに建てられた元和・寛永よりも余裕のある
天守台にしようとしたようです。

ということで、天守台寛永天守を再建しつつ、
もっと理想どおりに建てるための天守台だったのかもしれません。

◆寛永度天守を伝える図面◆

(図面検証:江府御天守図)
さて、図面の検証の概略。東京都立中央図書館に
寄託されている江府御天守図
(江戸城御本丸御天守百分之一建地割)
大棟梁甲良豊前控とあり、正本ではなく副本であることがわかります。

甲良家は作事方のトップ御大工頭(中井家など)に次ぐ
大棟梁の地位にありました。

甲良豊前とは、甲良豊前守宗賀でしょうか。
江戸城寛永度天守は、戦国から江戸時代に活躍した
初代甲良豊後守宗広の孫で、宗広の子宗次が早世後
甲良家を継ぎます。

江戸城寛永度天守や日光東照宮は
宗広の最晩期の作品に当たるので、
まだ若年だった宗賀が今後のために
副本をとったのでしょうか。

これが寛永期と断定する根拠になるのが、
天守台高さが七間とあること。
また立柱の年号に寛永十五年とあります。
わりと知られていて、展示にも割と出ている史料なのですが、
あまり詳しく検証されてこなかったとのこと。

ポイントとしては実測図ではなく設計図であること、
方眼の縮尺が記述と違うこと。

天守の総高がわからないというのが設計図ってこと。
一重目では「軒高サ石場ヨリ桁上場迄弐条八尺六寸」とあり、
さらにそこから屋根の勾配が「高配五寸四分」とあります。

この繰り返しで各重の高さと屋根の勾配から総高が
やっとわかるという仕組み。
ちょうど計算すると144尺(43.63m)。

縮尺の違いについては、そもそも百分の一なんて書き方を
江戸時代にはしないのだそう。筆跡鑑定をするとどうも
図面のほかの文字と違っている・・・

図面をよく見ると、柱と柱の間を「七尺」と描いてあるんですが、
実際は「六分五厘」。普通描きやすくするには、
七尺の1/100とするならば方眼を「七分」にするはずなんですが、
どうも「六分五厘」の方眼に「七分」方眼に描かれた原図を
書き写したのでは???

七尺を六分五厘でかく・・・ということは1/107.69という
中途半端な縮尺。六分五厘の方眼が
甲良家にたくさんあったのでしょうか。
通常は、一間を六尺五寸とする場合が多い・・
と考えると、わかるような気がします。

この前提で書かれている寸法を見直して、
ようやく正確な高さがわかったとか・・・
じゃぁ、縮尺違うんだったら柱の太さって
正しいの?どうなの?という話。

でも、割と書き分けられているみたい。ということはここに
描かれていない材の太さの寸法は実測図から
比例計算してもよさそうだと判断されています。

(図面検証:江戸城御本丸御天守閣外面之図)

もうひとつの図面。こちらも東京都中央図書館蔵

天守台が七間とあるので、寛永の図といわれています。
これ江戸城本丸の売店に掲げられてある図ですね。
寸法としては甲良家文書の江府御天守図とぴったり合致。

ただいくつかおかしいと思われる点・・・

1)犬走りの存在
天守台に犬走りが見られるということ。先ほどあったように、
犬走りは万治年間に再建した現天守台に
寛永期天守を載せると犬走りができるのであって、
寛永期の作図であれば犬走りはないはず。

犬走りができる万治年間の現天守台の高さは
六間ですので、矛盾します。

2)入り口にひさしがあること
先の江府御天守図にも、この後出てくる江戸城
御天守絵図にもありません。名古屋城にもちなみにありません。

3)斜めから書く図法
江戸時代には製図された図面としてはほぼないとか?

4)タイトルが「江戸城御本丸御天守閣外面之図」。
筆跡としては他の文字と同じ。しかし江戸時代に
幕府や藩の公式記録として、天守「閣」とは書かないハズ。

以上の指摘から、甲良家の誰かが明治期になって、
家に伝わる江府御天守図を元に西洋画法で
江戸城天守の図面を起こしたもの、というように推測されています。

(図面検証:江戸城御天守絵図)

続いて、概観がわかる二つの図。東京都立図書館蔵の
江戸御城御殿守正面之図」と
国立公文書館蔵の「江戸城御天守絵図

両方とも正徳年間とされているそうです。
(国立公文書館蔵のほうは万治説もあり)

東京都立図書館蔵は建築図面としては
ちょっと使えない絵師が書いたもののようですが、
国立公文書館蔵は割と正確。「石垣高六間」とあり、
現天守台であることがわかります。

先ほどの「江戸城御本丸御天守閣外面之図」において、
指摘された犬走りが描かれていないという点はありますが、
名古屋城天守との共通性として、各層の屋根端や最上重の
入母屋破風端の反りの強さが挙げられます。

個人的に気になったのは破風の反り。
絵師のほうはやや強いように思え、ちょっと違和感がありますね。

国立公文書館に残されている史料は他にもあり、
内部構造がわかるものもあるそうで、江府御天守図にないものとしては、
階段の位置があります。入り口入って左側と右側に階段。
復元図面にも以下のように反映されています。

151115_00dfef
(調査報告書出版記念講演史料再掲)

同じ高さでも右側が段数が多く、勾配も低く
将軍用の御成階段と思われます。これも名古屋城と同じかな?

さらに名古屋城や姫路城など、
大型の天守の場合階段がL字型になることがありますが、
各階の高さがあまりに高い江戸城の場合、
コの字型に折れ曲がっているというのも興味深い点。

これらの史料からできた復元図面を眺めてみると、
おもしろい特徴がわかります。

◆復元図面から◆

まず、通し柱の話。二階から三階(十字)、
三階から四階(ロの字)、四階から五階(十字)にあります。

一方名古屋城の場合、一階と二階ということで、
通し柱の使い方が異なってるそう。
江戸城の場合は、強風対策で上層部に
揺れ止めをしていたのではないか、とのことで・・・
そもそも通し柱は使わないほうが、
耐震性能は強いらしいんですけどね。

もうひとつ、江戸城の特徴として挙げられることは、
非常にシンメトリー(左右対称)で
整然とした美しさがあること。

まず、柱は最上階から一階まで柱の位置が
縦方向に整然と合致していること。

151115_0004_002
(調査報告書出版記念講演史料再掲)

必ず各階の各面の中心に柱が来るようにし、
その柱を中心に左右に半間の窓をつけ、
一間の壁、半間×2+柱、一間の壁・・・が続いていきます。
確かに言われると、すっごいキレイな構造をしています。
理系的な美しさですよね。

Edo1

Edo2
(調査報告書出版記念講演史料再掲)

色が黒くて見難いですが、よく窓の位置と
その対称性をご確認ください・・・

これ、床面積が偶数間という点も関係しています。
江戸城寛永天守の一階は18間×16間。
上記のような、左右対称に窓をつけようとすると
偶数であることが必要なんですね。

18間×16間って、大きさばかりに目が行きますが、
そんな美しさの由来にもなってるのか・・・

こういった整然さ、一旦望楼型天守で
きれいに揃うようになった(姫路城)らしいのですが、
層塔型に進化する過程でまたズレてしまい、
また揃った(揃える余裕があった?)のが
江戸城天守なんだそうですね。

細かいですが、長押形が各階付いている、
というのも、江戸城の特徴のようです。

また、各階の階高が五階から四階まで
一定の割合で低くなっていきます。
普通は高くなったり、低くなったりするものだそうで。

・・・こうなってくると、いわゆる城好きとしてよりも
建物好きとしての好奇心をそそられますね。
こういう余裕がまた平時の天守としての魅力なのかも。

今回も貴重で楽しいお話でありました・・・
三浦先生、ありがとうございました。

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「作曲家 植松伸夫の創作の軌跡」

昨日、聴いてきたNHKカルチャーの「作曲家 植松伸夫の創作の軌跡」。

いわずと知れたFFの多くの楽曲の生みの親である
植松伸夫さん(以下ノビヨ師匠)の物語。

単純にノビヨ師匠だからというだけでなく、人が人生を振り返って
自伝的に語るというおもしろさを改めて感じた次第。

個人的にはFF時代よりも、FFができるまでの前史としての
幼稚園から冬の時代(プータロー)までがおもしろかったかなぁ。
FF好きと歴史好きの遺伝子が同時に反応しましたね(笑)

想像(妄想)力が豊かで、好奇心が旺盛。
想像力と好奇心って、いわゆるオトナになる過程で磨耗していくのだけど、
いい感じで残ってられるのが素敵。

そして大きなものを動かすより、ゼロからイチを、
着実につくってく方が好きというのが、
バック宙をできるようになってく過程に現れてて、
すごくコドモからオトナへ断裂がないなーという印象でした。

そうか、ノビヨ師匠はシンプルで美しいもの、がお好きなんだ。
すっごいわかるな、そういうところがずっとFFの音楽を
好きでいられる根っこにあるのかも、とも感じたり。

あと、すっごいわかるー!ってのが「文系なのに機械が好き」ってやつね。
まさにこれわたしです。文系のガジェット好きに通じる感覚よね。
ゲルマニウムラジオは知らなかったけど・・・(笑)

あと、中学生、高校生、大学生とその時々に影響を受けた、
気になる楽曲を流してくださるのだけど・・・

なんとなーく、なんとなーくなんですけど、FFにつながる要素が、
それもカタマリとしてではなく、元素レベルであるような
そんな感覚(伝わるかなぁ)

ノビヨ師匠が上げてられた楽曲名を挙げておきます。
なんでしょうね、逆説的だけど、すごくRPG的に聴こえるんですよね。
オーケストラも楽曲が物語的ではあるんだけど・・・

◆中学生◆
ホット・バター ”ポップコーン”
エマーソンレイク・パーマー ”タルカス”

◆大学生・冬の時代◆
マウロ・パガーニ”ヨーロッパの曙” 原題”Europa Minor”
喜多郎「シルクロードのテーマ」

そして、どれも割りと好きな曲なんだわ・・・
ポップコーンは聴いたことはあったけど、
タイトルは知らなかったし、その他は初めて聴いたんだけど、
「わ、これ好きだわ」という感覚で。
FFを通じて植松チックな音楽感覚があるからでしょうか、
どうもそう思えてならなかったんですよね。

大学生からバイト時代のノビヨ師匠、
バンドを止めた理由やCM音楽が自分のやることじゃないな、
と思われた経過もおもしろいんですよね。

バンドに音楽だけでなく、パフォーマーの要素を嗅ぎ取り、
俺は音楽を作りたいんだ、ちょっと違うなと。

CM音楽は、ちょっと尖がった感性がいる、
要はインパクトがいるってコトなんでしょうけど、
ジックリ聞かせて感動させる方向性とが違うな、とか。

このジックリ・・というのは、すぎやまこういち先生がよくおっしゃる
繰り返し聴いて聴き飽きない音楽こそ、RPGに必要
というのとすこし似たような印象を持ちました。

実は、すぎやま先生ってCM曲もたくさん
作曲されてきたはず。そんなご経歴をお持ちなのに、
RPGに向きあったときに、どのような楽曲が適するかを考えて、
ズバッと「繰り返し聴いて聴き飽きない曲=クラシック」
にいきつかれるのは、さすが・・・ですよね。

ポスト・スクウェア時代のお話では、ミーティングばっかりで、
他の人の給料の話とかしないといけない管理職になっちゃって、
作曲ができないから辞めちゃったってトコで、ドキッとしたわけですが(笑)
本をお書きになりたいとおっしゃってられたのが、また楽しみですね。

また原稿を出版社を渡り歩いて・・・・って、
バック宙のようにゼロからひとつひとつ積み重ねていく
楽しみがいいなと。FFは誇りでありうれしいことだけども、
今やあまりに広く、あまりに大きくなってしまった。
もはや受け止められない・・・とも。

ご自分でもおっしゃってましたが、この言葉に
ノビヨ師匠の子供時代からの変わらなさだけでなくて、
ご自分の関心の向く方向に敏感なんだなと思いましたね。

わたしも好奇心を強くするだけでなく、
好奇心そのものを見つめていたい気持ちを持っています。

最後の質問のやりたいことのなかで出たコメントから。
ちょっと走り書きのメモからなので、文言違ったらすみません。

自分が好きなものに嘘はつかないようにしている
流行ってるから学ばねばならない、
皆が知ってるから知らなければならない、
そんなことは一切ない、好きなことだけ追いかけ行けばいい。

自分で歯止めをかけないように、「~でなければならない」
「~すべきだ」とか、他人が思っていることに過ぎない。
何を好きか、美しいと思うか、何に涙を流したか。
自分の中にある絶対的指針が糧になる

・・・すごーくいい時間になりました。
ノビヨ師匠ありがとうございました。
BRA★BRA、楽しみにしておりますぞー!

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城フェス 2015・・・5!? 後編 武田の城?徳川の城?

さて、後半戦・・・の前にブレイクがてらに
フォトコンテストなんていうのもありましたねぇ。

奥月さんはじめ、知ってる皆さんの写真がノミネート。

P1100604

個人的にこれいいなぁ。なかなか高松城は再建難しいだろうし、
やりたい気持ちはよくわかりますなぁ。

P1100605

撮るでぇとやる気むき出しな城メグさん@熊本城も素敵(笑)

P1100607

夕暮れ×天守って、やっぱり鉄板ですね!

P1100611

雪の竹田城。わたしもみたことがない・・・
でも、もう怖くて竹田城行けないよなぁ・・・

P1100615

フォロワーさん・しんさんの竹田城のお写真。
娘さんと竹田城の一枚。グランプリに輝きました!
超超今更ですが、おめでとうございます(笑)

P1100616

竹田城、12月に初めて行ったきりなので、
このような新緑の竹田城みたことないよなぁ・・・あぁ。

・・・ということで、フォトコンの後は、
レポート・高天神城と小笠山砦と加藤先生の講演
「徳川の城・武田の城」という内容。

(1) レポート・高天神城と小笠山砦

小笠山砦とは、武田の高天神城を落とすための
徳川城砦群の代表的な陣城だとか。
高天神城は行っておりますが、小笠山砦は未訪問。

P1100621

小笠山砦からみた高天神城。目と鼻の先ですの。

P1100623

位置関係。高天神城も北側に向かって、
U字に曲輪が開いているのに対して、
小笠山砦も南側に鶴翼の陣。

P1100622

縄張図。高天神城の北に位置し、
南側に対して、鶴翼の陣を構えるような印象を受けます。

P1100624

そして、中井先生の解説にあるように、
曲輪がほとんどなく、横堀・堀切を多用して、
武田方からの反撃を遮断することにのみ特化した塹壕的な。

このあたりは特殊な礫層で、高い断崖絶壁でも崩れないそう。
なので、土の城をつくるうえではかなり有利な地質なんですねぇ。
(敵味方両方に、だけど)

P1100625

ぐるっと伸びる横堀。

P1100626

エッジの効いた土橋。いいねこれ!

P1100635

しかし、すごい崖・・・次、高天神城行くことがあったら、
拠ってみたいですね・・って拠ってどうする(笑)

高天神城。

P1100637

中井先生が、「別城一郭」という表現をされていましたが、
元々は本丸のある東側のみで、武田が入ることで
井戸曲輪以西の尾根も城に取り込んだのではないか?と
いう見解を出されておられました。

確かに西の曲輪は、ぐるっと西側に濠が配されていて、
丸子城のような感じは受けますし、尾根を切断した堀切は
ダイナミック・・・である一方、東側はわりと単純な感じはしますもの。

本丸で土器?を確認する中井先生。
後ろで顔出しで遊んどる・・・という加藤先生とのdisりあいは
聞いてて楽しいです(笑)

P1100639

大河内政局捕らえらたといわれる石窟ですが、
岩盤の崩落を気に調査すると、その伝承通り遺構が
見つかったそうで。。意外と伝承馬鹿にできないよ?という話。

P1100640

結局、伝承が伝承のままなのは、証明ができないからであって、
嘘だ、間違っているというわけではないのですよね。

火のないところに煙は立たない・・・式の考え方で、
確かではないにしても、何かにシグナルかも?というようには
考えるようにしたいものですね。

西の曲輪の横堀。防御の意味だけでなく、
テリトリー意識の発露として、ここまでが城郭だいう
線引きでもあるかも、ということでおもしろい。

P1100643

尾根を遮断した堀切。

P1100645

(2) 徳川の城・武田の城

P1100647

てことで、徳川と武田の城@駿河・遠江の話。
というか、丸馬出の武田から徳川への系譜のお話、
といったほうがいいかもしれません。

常々、加藤先生はいわゆる丸馬出=武田ではないよ!
ということで、諏訪原城はじめ徳川が入った以降に、
大規模な丸馬出を建造していると比定される城も多いのです。

駿河田中城。外郭に4つ、内郭に2つの丸馬出が
あったわけですが、どうも徳川ではないか?と言われてると。
この様子は江戸時代の田中城の再現。

P1100649

駿河丸子城。大鑪(おおだたら)曲輪が丸馬出、
その他いくつか丸馬出、と言えなくもない箇所があります。

P1100652

大きすぎる・凝りすぎているという点から、
中井先生・加藤先生は天正十年以降、小牧長久手に
備えた徳川の防備という捉え方をされているようです。ふむ。

ただ、具体的な発掘などは行われていない、
ということですから、確定的とまではいえないようですなぁ。

にしても、横堀の途中あるいは終端に丸馬出がある
というのがちょっと丸馬出というのは、
形状は同じでもちょっと使い道が違うように思うんですよね。

同じ、横堀の途中にという意味で共通するのが
遠江犬居城。

P1100653

横堀の途中に丸馬出状の小さな曲輪が
確かに確認できます。

小長谷城。北側の曲輪は完全に破壊されてしまって
いるのですが、残存している部分に丸馬出が
重ねて配置されているのがわかります。

P1100654

破壊された部分ですが、こちらのblogによりますと、
昭和10年当時の「小長井城略圖」に
小学校となった北側の東側に弧状の堀が描かれているようです。

つまり、本曲輪の左右(南北)対称的に、
重ねた丸馬出が設置されてあったと推測できそうです。

そして、丸馬出といえば!の諏訪原城。

P1100659

諏訪原城は発掘調査がされているそうなのですが、
本曲輪では、武田期の焼けた遺構面と徳川期の遺構面が出てるとか。

そしてその焼けた武田期の面を整地して、徳川期に曲輪を
整備しているのですが、おもしろいことに徳川期の虎口土塁の下
からも武田期の遺構面が出ているのだそう!

じゃ、この土塁って徳川期とするならば、どこから
土を持ってきた?と考えると徳川期に大きく壕を掘っている
という風に考えるのが自然というわけです。

なるほど・・・諏訪原城の丸馬出は徳川というのは
可能性が高いことがよくわかります。

規模の比較。
高天神城の横堀と諏訪原城の横壕比較。

P1100660

P1100661

同じく丸馬出、確実に武田と言える興国寺城の丸馬出と
徳川と推察される諏訪原城の丸馬出。

P1100671

P1100666

確かに規模の大きさは一目瞭然ですよね・・・

いずれにしても、なんでもかんでも武田武田と言い張るよりも、
武田的なモノが伝わってることの方に価値を感じたい、
という思いがお話を聞いていて強まってきました。

武田から徳川に変遷していくなかで、丸馬出が
どう伝えられていくのか。形状は同じでも使われ方はどうか?
徳川時代に発展的に変貌していくのでは?などと
考えると、興味は尽きませんね。

また、近日加藤先生の丸馬出のお話を
ちょうど聞くことになっているので、その意味でも
1年半前のイベントですが、非常によい振り返りになりました。
(いい感じの言い訳)

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城フェス 2015・・・5!? 前編

さて、いよいよ最後。タイトルが紛らわしいですね、
2015ですよ!2015(笑)

P1100453

盛りだくさんの4時間オーバーの企画ですので、
(というのとズボラ根性もあって)二つに分けまする。

城ラマ・上田城。平山先生説とは異なって、
百間濠のある北東方向に天守相当の三階櫓がありますな。

P1100454

こちらはご存知、長篠城。
武田風に丸馬出が置かれている点が◎
長篠城を武田が改修した後ですね。

P1100456

こちらはある意味、武田の命運を決定付けた、
とも言える高天神城。

P1100455

城ラマおつくりの方が武田に関心が高い方なので
わりと武田にゆかりのあるお城が多いんですね。
ありがたや、ありがたや・・・

というわけで、城フェス始まりです。
かみゆ代表の滝沢氏に、中井均・加藤理文両先生、
そして城メグリスト・萩原さちこさんのいつもの(?)メンバー。

P1100473

(1)韮山城・天ヶ岳レポート
(2)中井先生・安土以前の石垣の城
(3)フォトコンテスト

の前半三本をまず。あまりに前のことなので、
記録とってる中から、個人的に気になること残しておきたい
という点に絞らざるを得ないのはご承知置き頂きたく…

(1)韮山城・天ヶ岳レポート

P1100477

韮山城を目の前に・・・山城は高ければいいってもんではない!
っていう話。領域を支配する範囲を見渡しうる一番低い山でいい
ということ、考えてみればそれが一番効率的ですわな。

P1100478

一国を支配する戦国大名レベルになると、徒歩1時間程度
国衆クラスであれば徒歩30分程度の比高と考えるのがよいと…
というと、韮山城であればこの程度が妥当と。

そこに豊臣軍が攻め込んでくるという事態になって、
初めてより高い裏山(天ヶ岳)を取り込む必要が出てきたのではと。

必要以上に高いと防御や領域監視はいいのでしょうけど、
やはり行き来が大変だったり、水の問題があったりと
いいことばかりではないですからね。必要に応じた適切なバランスで
城が築かれる対象になる山が決まっているのは、ナットクです。

10分~15分と縄張図を見ながら、検討する先生方。

P1100481

やっぱり、最低限縄張図をしっかり見ながら歩くってのは大事。
しかし、縄張り図を持っていっても、実質その場ではじめて見る
だったり、同行する方のコピーを当てにしているというのが
今までだったな・・と反省。

まぁ、数を行こうとするとどうしてもそうなるわけですけど、
事前に縄張図を見ながらある程度予習して、
どういう点を見たいのか?をハッキリさせて見に行きたいもんですな。

加藤先生がおっしゃっている看板をデジカメで撮って、
それを見ながら遺構を歩くっていうのは、わたしもよくやる
一番お手軽な方法ですよね。

とりあえず主曲輪に行ってみて、それから降っていくと
判りよいというのもなるほどなるほど。主曲輪に解説があったり
っていうことも多いですよね。

この三の丸権現曲輪に差し掛かる枡形虎口を目の前にして…

P1100484

何かを確認しに、どわぁぁぁぁと確認しに行かれる中井先生(笑)
それを見守る城メグさん。

P1100486

二の丸切岸。なんかすごいらしい。
やっぱり行かんとあかんよね。

P1100489

ここからより中枢部に入るという、仕切り的な機能が変わる
という意味もあったんじゃないかと。なるほどね・・・
躑躅が崎の表と裏(裏が少し高くなっている)を思い出します。

せせり立つなぁ・・・

P1100497

にこやかに登るおふたり。

P1100494

城山の上から景色を見て、街道や川、味方の城・敵の城の位置
などの立地条件を本曲輪から見るという楽しみ。

P1100498

これもある意味、予習が欠かせないなーと思いました。
というのも、本曲輪からこっち方面に何が見えるって解説が
仮にあったにせよ、街道や他の城がとかは充分にないことが多い・・・

だからこそ、自分の問題意識にしたがって、周りに何があるのか?
を調べていったほうが間違いなくいいんでしょうね。

左から右へ、韮山城籠城守備兵には山中城へ向かう豊臣の大軍が
見えたでしょうね・・なんて会話をしながらの城攻め、
そりゃぁ、楽しいですよねぃ。

豊臣側に土塁が盛られているってという話。
必要のないところには盛らないってことなんですけども…

P1100501

これは駿河丸子城で感じたことですね。
今川時代と武田時代では、仮想的の方向が違っていて、
結果的に防備の向きが違うんですよね。

もちろん土木量の違いもあるわけですが、
決して今川時代のほうには武田時代の大規模な
土塁や堀はないわけでして。

焔硝蔵があったのでは?とも目されている塩蔵。
土塁で万が一の爆発にも耐えられる構造。

P1100502

天ヶ岳。背後にあるより高い比高の城。

P1100504

こんな感じで本丸見下ろせちゃうんだなー。

P1100516

ふむふむ。知り合いの山城好きな人はほとんど
行ってられるのかもしれないですけど、魅力はよくわかりますね。

最初からココに作っておけばよかった?のかもだけど、
最初は必要がなく、豊臣軍が迫って初めてという流れも興味深い。

(2)中井先生・安土以前の石垣の城

ひたすら写真だけを眺めるだけの講演でしたが、
それでも非常におもしろい内容でした。(改めて聴き直しても)

長年、安土城が最初の石垣の城といわれ、いや観音寺城が先
いやいや信長だってその前にも・・というところですが、
もっと広範囲、16世紀前半(1500年代前半)あたりから
石垣の城が見られまっせという話ですね。

■松本平周辺■
ひとつの地域が、松本平周辺。
虚空蔵山城、一説に滋野一族の会田氏の城とも。

P1100518

鏡石のような大き目の石に、顎出といわれる
少し突き出たような構造をもってます。

P1100521

こちらは林小城、守護小笠原氏の城。

P1100523

ちょっと調べがつかないのだけど・・・
はぎはら城なる城。段築して二段構造にしてます。

P1100524

P1100526

山家(やまべ)城。ここも4m程度の石垣・・・
というか、石壁。ここまでで共通なのはいずれもほぼ垂直で、
いわゆる切岸の垂直さをより追求した結果であり、
後世の石垣の上に構造物を形成するものではないという点。

P1100528

P1100529

これって、他の周辺地域には伝わらないんですね・・
特にこのあたりは武田が制圧していくわけで、
もし武田が価値を見出していたとするならば、吸収していてもいいはず。

しかし、勝頼期末期の要害山城・熊城修築や
おそらく同時期であろう躑躅が崎館の土塁増強で土留めとして
石積みは使われていますが、切岸の代用としての用例は
武田領国にはないと思われますね・・・

もう一度確認は要りますが、中井先生のいうような、
切岸を重要視する考え方は、武田にはなかったのかもしれません。

■近江■

続いては近江。まずは観音寺城。

P1100530

矢穴がある!ということは、見れば判るんですが、
石を割るという発想が武士ではなく、寺の発想というご指摘。

P1100534

五輪塔や石仏をつくる過程で、石材加工技術が蓄積され、
どうもそのお寺の関係者が技術指導してそうだということなんだとか。
一方、20年後の安土城には矢穴はない・・・
こういうところから、石材加工の伝播経路を辿るのも楽しそうです。

麓の伝御屋形。守護六角氏の屋形跡とされています。
普段は鬱蒼としているそうで・・・??

P1100537

隅石。近世の算木積ではない未熟さが興味をそそります。

P1100540

文献によると、1556年。ちょうど信玄公が信濃攻略に邁進すべく
甲相駿三国同盟を結んだあたりでしょうか。

P1100542

この辺の矢穴はすごいな、二回も石を割ってますぞ。
同じく六角氏の三雲城。

P1100546

こちらも算木積が未熟。加工はできても、
積み方ってのは、試行錯誤だったんでしょうかねぇ。

P1100552

小谷城山王丸石垣。この辺が浅井のよう。

P1100553

信長の野望をやってると、近江は南北別になってましたが、
石垣技術も南近江とは違い、同時代比較すると、
未熟なんですね・・こういう比較と気づきはなかなか素人だけ
ではできず、ありがたいご指摘です。

チョット飛んで、播磨へ。

■播磨~安芸~九州■

赤松氏の置塩城。垂直に土塁の代替としての石垣
という意味で、先ほどの松本平周辺との共通性を感じますね。

P1100564

こちらは・・・行きたいと思いながらずっと
行っていないままの吉田郡山城。

P1100565

どうも総石垣であったようですが、島原の乱後に
大規模な城破があったよう。

佐賀・勝尾城。段築して二段に築かれた石垣。
ここも建物を建てるのではなく、バリケードとしての城壁
としての役割なんでしょうかね。

P1100573

加工せずに石を使ってどう、城に生かすか?
を考えたとき、地域性はあまりなくて互いに繋がりはなくとも、
同じような結論に達するのかもしれません。
扁平な石を選んで、というのも松本と共通してるしね。

これはわたしも行った、長岩城の登り石垣。

P1100574

石積櫓。

P1100576

自分がオフ会に参加したときは、ずいぶんと珍しい積み方、
石の選び方だと思ったものですが、実は同年代と目される石垣遺構で
比較すると、割と共通しているのかも。

城ではないのですが、周防大内氏の凌雲寺。
ここの石塁をご紹介いただきました。観音寺城の門にソックリ!

P1100578

垂直な感じ。お寺ですから何も理由がなければ、
塀のように垂直に立てますよね。それが、何らかの過程で、
山城の防備に使えるやん!と築きがあったのでしょうか!?

ということで、1年半後に見返しても(爆)
ちゃんと自分にとってのメモとして、残しとくべきだー!
と思える貴重なお話でしたっ。

さて、後半に続く。

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倭城でないと!~平成の役~ 201【5】

さて、実質的に残っている最後の2015年ネタ。
えーっと・・・・2016年も10月が終わる・・・
ってことは、8割方終わっている・・・なのに2015年・・・
# 武田関連講演は2016年分とまとめようかと思っています

あまりの2016年記事の溜まり様に、茫然自失・・・
ですが、こつこつ記憶を手繰り寄せて書いていくしかありません。
やっぱり、こうなっても記録に残したいって気持ちが強いのでね。

ということで、2015年の6月末。ちょうど2015年城フェスの前日に
(2016年の城フェス@可児も終わったよなぁ・・・汗)
倭城のお話をば、カルカルにて拝聴の巻であります。

なんと、よく知るお二人がプレゼンされるというわけでね・・・
お一人はもうお世話によくなっているサイガさん(新津竜一氏)、
そして、こちらももうお世話になりまくりの夕里さん。

夕里さんとはじめてお会いしたのは、2012年岡山にて。

本当にあのときに、しみじみとお城が好きだったけど、
こうしてお城の話ができるなんて・・・と誰にも城好きを明かさずに
来たことを話してられたのが遠い記憶のように思えます。

そして、倭城を知り、あっという間にその魅力に魅せられて
韓国に住んでしまうという・・・割とわたしも行動力のあるほうだと
それなりには自負していましたが、度肝を抜かれましたよね。

そんな夕里さんがどうされてこられたのかを知るいい機会でした。
司会はカルカルといえば・・のテリー植田さんと
城郭研究家の本岡勇一さん。

プレゼン前半は夕里さん、後半は、同じく城郭研究されている
堀口健弐氏とサイガさん。かなり関西色の強い面々でございますな。

P1100304

■チョアヨ、倭城(好きです、倭城):夕里さん

姫路城的な滴水瓦。いや、再建されたとはいえ、
むしろこっちが本場だから姫路城の元になった・・・か?

P1100310

そもそも倭城とは?という話。会場の人は大体知ってる
ような気はしますけども、まぁ念のためって感じかな。

名高い西生浦(ソセンポ)城の登り石垣。
え?なんすかこれ?なテリーさんのコメントがおもしろいですね(笑)

P1100312

こちらを見なかったら、倭城にハマってなかったであろう、
と夕里さんに言わしめた登り石垣。ふむ、これは確かにすごい。

機張(キジャン)城本丸から。

P1100314

そんな夕里さん、一度見てこれはすごいと思ったら、
毎日見たい、毎日見るにはどうしたらいいか・・・住めばいい!
とド直球なお答え(笑)

仲間内でも「えええええ」なことですが、こうして
イベントで話されてもそのすごみが全く損なわれないインパクト。

ワーホリかぁ。もはやもうわたしには関係ないですが、
知ってればどこかに行ってたかなぁ・・・

P1100315

今しかない
文字しかないスライドなのに、なんですかこの衝撃(笑)

P1100316

わたしも割と好きだぁぁぁぁといえるもの、たくさんありますが
ここまで割り切って好きなもののために、
生活を変えられるパワーなかった…
お隣の甲府に住むのもなかなかだもんね、アタクシ。

P1100318

なんといいますか、石橋を叩いて叩き割りまではしないけど
ヒビ行かせる位はやりかねないわたしには、
ちょっと発想が・・・改めて、すごい(語彙力のなさ)

ということで、ワーホリ中韓国で倭城を案内する夕里さん。
知ってる人が好きで活躍している様子を拝見するのは
なんともうれしいものですよねぇ。

P1100319

P1100320

韓国人でも比較的に日本に関心のある皆さん方も
多く参加されているみたいで。ほうほう。

ということで、一度も倭城に行かれたことのない(このときまでは?)
鎖国を続ける本岡さんへ開国を迫る黒船プレゼン・・・
列車とバスで行く、プサン2泊3日の旅。

P1100322

韓国の電車・バス。SuicaみたいなICカードがあるみたいで
バスは割とハングル読めなくても、割と何とかなるみたい。

電車は漢字や日本語のアナウンスもあったりするみたいだけど
ちょっと近くまでは行けないようですの。

最初は蔚山(ウルサン)城。
ただの公園になってるのですが、登り石垣。
当たり前のように佇むけども。

P1100325

ダイナミック。やっぱり日本の城だよなぁ。
しかも、このような石垣が海から見え、
近づく者に威圧感があったんでしょうなぁ。

P1100326

P1100327

晩ご飯は、ティッコギ@プサン。
キムチも焼くと美味しいの!?

P1100328

P1100330

翌日は西生浦(ソセンポ)城。知ってはいるけども
いいねぇ、いいねぇ。知らないと日本の城跡。

P1100332

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P1100335

こんな住めそうな石垣の上にお家があるあるトコも(笑)

P1100363

倭城に住むには、ここを攻略するしかない!?(笑)

機張(キジャン)に移動してかにかに。
かにが有名なんだそう。かに&かにチャーハン。
土塁っぽい?(笑)

P1100336

P1100337

その後は、機張城。ここも登り石垣。

P1100340

天守台から。誰かだかわかる人にはわかる(笑)

P1100341

定番スポットらしい。

P1100342

サイガさんのお写真で横から。
補強のための追加石垣のようでっせ。

P1100343

続いて、機張邑城。城壁で囲んだある意味
中国の影響を受けた朝鮮の城。
日本だと同じく中国の影響が強いグスクに近いかな?

P1100346

日本の石垣にはあまりない、カーブするところが
特徴ですかねぇ。ただ朝鮮式の城の石垣でも、
こんな鏡石のようなデッカイ石も使われているんだぁ。

P1100348

最後に、梁山(ヤンサン)城。以前少しだけ、
韓国の仕事に関わったときの担当者が梁(ヤン)さんだったので
ププッとしたのを思い出しましたよ(笑)

P1100352

P1100353

この石垣いいよねぇ。麓の居館跡の石垣だそう。

P1100354

この辺、お墓多いらしいですね。
まぁ、夕里さん同様わたしもあまり気にしませんけど。

最後の韓国のお食事、デジクッパ。
とんこつにそうめん?みたいな感じだとか???

P1100355

■倭城の構造:堀口健弐氏

P1100370

最初にオッと思ったのは、いわゆる倭城が最初からできたわけでなく、
初期段階では、朝鮮の城を日本的に改修するというのも
あったんだということですね。邑城の中に日本的な石垣が残るところ。

P1100372

それでも、軍事的な必要性から、橋頭堡として
あるべき姿に進化していく、それがいわゆる倭城として知られる
日本の城の姿なんですね。ふむふむ。

西生浦(ソセンポ)城の縄張と日本時代の測量図。

P1100373

P1100374

これ、やっぱり朝鮮の城はこんなところにできないわなぁと。
上陸地点としての拠点にするには、こういう位置に
城が必要なのがすごいわかるよね。ふむ。

一方朝鮮式の城にも、邑城と違った防衛意識のある城も。
盆山城の例。これ、どーみてもグスクの石垣ですよねぇ。
日本と違って、多段的に防備はなさそう。

P1100376

こちらは丹波・周山城。朝鮮出兵以前の織豊城郭に
見られる登り石垣。この頃から登り石垣が万里長城のような、
線で防御するものではなく、空間を囲い込むパーツとして、
意識されていたということができそうな例。

P1100378

これが朝鮮出兵という今までにない戦争のなかで、
橋頭堡形成に使える技術として発展したのでしょうな。

あと特に気になったのは、順天(スンチョン)城。

P1100386

現在は積み直されているそうですが、
少し前はこんな様子で天守台が、
当時の石垣が崩れながらも残存していたようで。

P1100391

P1100392

天守台を少し引いて。左奥から手前に進み、
右に折れて、天守台下に到達する縄張りになっています。

P1100395

この上に建っていた天守が「征倭紀功図巻」という
史料に残されているようで・・・まさにこれ、層塔型天守。

P1100398

絵図、しかも外国の・・・だからというのはあって、
正確さはちょっとアレかもしれませんが、
天守の中層が膨れている南蛮造なのもポイント。

同じく城門。形状こそどこか中華風な感じがしますけど、
折れたところに櫓門を配するあたり、日本式の様子が
よく表現されていますな。この絵図で現地確認するのもいいか?

P1100399

南海城にも、天守の絵図が。ほんとに飾りじゃなく、
実戦用のパーツとして、見られていたからこそ
天守までキッチリつくられていたんだろうな。

P1100400

P1100403

天守アップ。こちらは望楼型かもしれませんぞ?

P1100404

■地形を見れば倭城がわかる:サイガさん

サイガさんの地形論。よくよくお城に行く際にも
ご一緒させていただいて、お話いただいていますが、
こちらでもよくわかる築城の必然性についてお話いただきました。

P1100411

釜山城。母城と子城があって、サイガさんは
一体の城として捉えてられて、当時の海岸線に対して
拠点を確保するとともに、より高い山から攻め立てられることを
想定して、その手前の山に城を構えたというわけですね。

P1100417

梁山城。これも興味深い・・・
八千の兵を千五百で黒田官兵衛が撃退した城。

P1100425

梁山城周辺の航空写真を見ると・・・当時は、
西側には大河、東にも川があって、
北側に山手が延びているものの、梁山城周辺は
低地でおそらく湿地帯だったのではないかとのこと。

P1100428

ただオレンジの線の引いてあるところが微高地になっていて
梁山城を攻めるにはこのルートしかないだろうと想定。
実際に少し高くなっているのが、今でもわかるみたいです。

P1100429

ということで、改めて梁山城の縄張りを見ると、
このオレンジのラインから攻められることを想定した縄張りに。

P1100430

最後は、泗川城。島津義弘公の守った城ですな。

P1100438

ここでも地形から南北の低地に挟まれた台地の東から
攻め寄せることを想定した縄張りになってると。

P1100440

自然地形をうまく利用しながら、台地に通じる点に
土塁と濠で防御性能を向上させると・・・
実際の写真(2005年前後)を見ても、
高低差があるのがわかりやすいっ・・・

P1100442

というわけで、相変わらず地形でわかるお城の話には
1年半経って改めて確認してもおもしろいですなぁ・・・・

ネタを寝かしすぎて、新たに講演を聞いたような感じになりましたが、
基本的な倭城くらいは行ってもいいかなと改めて思いました。
今年は武田と真田丸で忙しかったし、2019年は甲府関連で
忙しくなると思うので、来年か再来年までには・・・

翌日は、城フェスのお話。くれぐれも2015年のお話なんで
お間違えのないように・・(苦笑)

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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」④

さて、非常に面白かったこの講演ですが、
本論から脱線した項目もおもしろかった…

(脱線1)油川信恵と穴山信君
穴山信君は長らく「あなやまのぶきみ」と
呼ばれていましたが、臨済寺の僧で甲斐生まれの
鉄山宗鈍が残した「鉄山集」に「ノブタダ」と
ルビが振ってあったのだそう。

この鉄山集、仏前で個人の徳を称える香語が
延々と記録されているそうなんですが、
たまたま鉄山集の写真を見てられたときに、
穴山梅雪とその家臣の項にあったんだそう・・・

これ、先日拝読した「穴山武田氏」の時には
ご存じなくて、出版されている「鉄山集」には、
そのルビまでは収録されていなかったとか。

原本を当たる大切さ・・・ですが、
素人的には古文書や古書を読み解く難しさを
目の当たりにした気がいたしました。

・・・ということで、油川信恵についても、
のぶさと・のぶよしと二つ説があって、
読み方は確定していないそうです。
人の名前の読み方は難しい・・・

(脱線2)親子の官途受領の引き継がれ方

信昌は刑部少輔(ぎょうぶのしょう)、
信縄も官途不明、信虎は左京大夫後に陸奥守。

信虎は、当時の強敵北条右京大夫氏綱に
対抗する意味もあって、より格上の左京大夫への
補任を室町幕府に対し申請し認められています。

なぜ「左京大夫」なのか、そしてなぜ幕府への申請が
認められたのかを考えると、信虎の幕府における
存在感と中央での評判が見えてくる気がしますよね。

ちなみに信玄は、足利義晴から「晴」の字の偏諱を
受けて晴信として元服する際に、左京大夫を称し
その官途を受け継いでいます。

しかし、後に大膳大夫に遷任。これは父との決別
という意味のほか、幕府に近しい若狭武田家当主が
歴代名乗った官途であり、中央を睨んだ選択
といえるのかもしれません。

一方、勝頼は私称ではありますが「大膳大夫」を
名乗っていますから、少なくとも対外的には
「正当なる信玄の後継者」をアピールする狙いが
あったのではないかと思いますね。

名乗る官途受領で見える親子の人間関係が
わかっておもしろいですね。

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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」③

さて、長々と経緯を追ってきましたが、
その背景を考察していきます。

◆信虎追放の背景①:言論統制◆

ここまでの状況だけだとものすごい順風満帆に
聞こえるような気がします。敵だらけの状況から一転、
東の強敵は北条に絞込め、かつ信濃にも領国を
広げられる余地を残す同盟関係ですからね。

しかし、内に何を抱えていたか。

信虎以前~事件までの経緯を追うと、

①信虎が家督を継いで以降、ほぼ常に戦闘状態。
 家臣団、領民とも疲弊。
②さらに躑躅が崎移転、新城の築城で疲弊進む。
③外交路線での家臣団との軋轢。
④反対意見には徹底弾圧。

①はわかっていたことですが、②がやはり
ターニングポイントのひとつかもしれません。

②のタイミングでこれより苛政と指摘されるのは重要。
もちろん集住したくないという立場もあるのでしょうが、
異論は一切言わせない、異論を持つ者は
成敗や追放が待っているという含みを感じます。

府中移転だけでなく、外交戦略に戦略的合理性を
少なくとも降った者たちに理解できず、
理解されないまま、戦争を重ねていたということ。

先方からオファーの会った上杉朝興との連携も
結果的に危機を救うことにはなりましたが、
飯富らの反発もあり、家中での納得感のない
行為だったのでしょう。

宗家権力が瓦解した地点からスタートした
反動からか、家臣の言うことはいっさい聴かず、
諫言した者には誅殺追放して、一切妥協せず
自分の考え方を押し通す信虎。

この納得感のなさということが武力で服属させられても、
服属させ続けられなかったコトに
つながるんだなぁと感じるわけですね。

いくら強くてその傘の下に降ったとしても、
意味がわからない、納得できないまま遂行する
というのは、かなり人間にとって苦しいことと思います。

◆信虎追放の背景②:大飢饉と台風◆

しかしこれだけでクーデタが起こったわけではなく…
追放劇が起こった前年天文9年(1540年)の
巨大台風の襲撃、そして翌41年の大飢饉が重なります。

ちょうど佐久への侵攻を進めた頃。
しかしその頃のこととして『勝山記』には、
人も馬も死ぬものが後を絶たず、百年のうちにも
こんな災害はない、まさに生ける者は千死に一生だと。

記録にも関東から関西にかけて建物は軒並み倒壊、
地形が変わるほどの災害だったと残っていて、
甲斐にも甚大な被害があったそうで。

『勝山記』に「晴信欲済万民愁(中略)即位保国々、
人民悉含快楽咲」とありました。

親を追放するということに正当性を持たせる
タイミングでの追放劇。実際、晴信を親不孝者と謗る者は
甲斐にはなかったのです。上手いタイミング。

平山先生は、ここで代変わりの徳政を
打ったのではないかとのご推察もありました。

◆信虎追放の背景③:晴信廃嫡の危機◆

これはよく指摘されることであって、
敢えて言うことでもないのですが、信虎が駿河に向けての
出立の極秘性が晴信廃嫡と絡んでくる可能性も考えられそう。

重臣駒井高白斎あたりは晴信に近しいと
思われていたのかまるで知らされてなく、
最低板垣、甘利、小山田、飯富の最重臣と
晴信・信繁だけだった可能性もあるようです。
(甲陽軍鑑)

しかも、しかも出立時晴信は甘利邸へ移され、
逆に信繁は躑躅が崎へ。極秘に晴信廃嫡の準備を
進めていて、義元に何か支援を求めるつもりだったのかも。

こうして家臣団は長年の圧迫と不満、
領民は負担の重さと災害で生命の危機、
晴信は廃嫡の危機と三者の利害が一致して、
歴史上稀に見る無血クーデタが敢行。

よくある家臣団の分裂もなく、処刑者や死人が出ておらず、
領内に反乱も起きていない。義元は事件後即座に
信虎隠居の詳細を詰めるため、太原雪斎を派遣していて、
迅速ながら、その段取りの周到さが読み取れます。

◆晴信が得たもの、学んだもの◆

ここからはわたしが感じることですけど、
単に追放して晴信が国主の座についた
というわけでなく、多くのものを
晴信は引き継いでいますよね、というのをいくつか。

直接的に得たものとしては、

・甲斐統一という確固たる基盤
・今川義元との同盟関係
・反信虎を契機に結束した家臣団

甲斐自体は豊かとはいえませんが、国内情勢が安定し、
信頼に足る強国を味方につけたところから
スタートできたのは、恵まれた環境ですかね。

これに加えて、後年の晴信の家臣団統制などから考えると、

①武田宗家と国衆とのパワーバランス維持
②戦略的な同盟関係の構築と破棄
③甲斐の生産力向上

という必要性を学んだのかなと思いました。

①武田宗家と国衆とのパワーバランス維持

強すぎても弱すぎてもダメということで、絶妙なバランスを
維持していたのが信玄時代の武田家という印象。
子飼いの家臣団の育成や先方衆の取り込みや
納得感が出るまで話し合わせるところは、信虎時代の
ある意味反動の産物なんだろうなぁという気がしました。

②戦略的な同盟関係の構築と破棄

同盟を使いこなすことが勝利への近道という点。
二度の敗北を喫する前まではイケイケな感じもするのですが、
同盟は道具と割り切り必要なら結び
要らなくなったら切るというのを徹底し、戦わずして勝つ
という点も信虎時代からの反面教師としたのかもしれません。

③甲斐の生産力向上

天文9年の巨大台風があったことが信玄堤の築造にも
影響しているんだろうなと感じます。甲斐を豊かにせねば
国が成り立たないという実用的な意味のほか、
疲弊させてきた信虎時代とは違うという演出
という観点もあったかなと想像します。

◆信虎と勝頼◆

ここから見える武田信虎像ですが・・・ ・
家督を継いだ時点の無理ゲー感を打ち破る
圧倒的な戦才は誰もが認めるとことでしょう。

そして、家臣の話を聴かず権力確立を目指す「強すぎる大将」
これ誰かに似てませんか…そう、勝頼です。
置かれた時代背景もまた、性格的なところも違いますが、
得手不得手はものすごく似ている気がします。

しかし、こう考えると晴信による武田家の飛躍のためには
欠かせない大事業だったはずなのに、追放されざるを
得なかった信虎こそ、悲運の猛将かもしれません。

14歳で家督を継いで戦わねば死ぬ環境で
権力を確保した猛将に人を使いこなすことを
求めるのはちょっと酷な気がするのです。

この日は時間があれば、義信事件との相違性にも
言及される予定があったそうですが、
時間が押していてなし。またその観点でもお聴きしたい。

信虎と勝頼をよく理解・比較することで浮かび上がる
武田信玄像というのも興味深くなってきました。

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