日本史

去年の今頃はシリーズ(7) 山梨文化学園第84期『武田氏と真田氏』

さて、去年の今頃はシリーズ。
このテーマ、平山先生のお話として、
先日(2017年)もこの武田と真田の話を聴いてきた訳で、
さらに去年だって、武田神社でも聞いているわけですけども・・・・

ま、なんつーか骨格は同じ話なんですけども、
言及される点が少しずつ違ったりなんかして、何度聴いても
なかなかおもしろいものです。

このときは2時間あったので、お話の幅も広かったように
思いますね。3時間でも4時間でもお話聴いていたいですけど(笑)

ということで、気になった点だけ記録に残しておきましょうか。

◆真田嫡流について◆

良泉寺とは、矢沢城に程近い矢沢氏の菩提寺。
矢沢氏とはもちろん、矢沢綱頼・頼幸親子のあの矢沢氏。
真田幸綱の系統を探る上で、ここに残された
「矢沢氏系図」が非常に大きな価値があるようです。

つまり、真田幸綱が海野棟綱の子、あるいは男系の孫ではなく、
真田右馬助頼昌の子であって海野棟綱の娘婿であった
可能性を示す根拠のひとつということ。

どうもこの系図には、幸綱本人のことが書かれているわけではなく、
綱頼の事跡が書かれてあるんですね。

右馬佐頼昌三男の真田源之助が、諏訪氏の系統であった
矢沢氏を相続することで、真田氏との関係ができるようになったと。
そもそも、諏訪は海野平の合戦で、滋野一族を追いやった
武田・村上の同盟軍であって、本来対立構造にあったのでしょうけどね。

矢沢綱頼が真田幸綱の弟であることは明確ですから、
間接的に、真田頼昌こそ幸綱の父でもあるってことになりますな。
しかし・・・松代藩はこの頼昌の存在は、幸綱から以降、
近世松代の記録まで、消されていたわけです。

そして、もうひとつ。頼昌嫡男の存在。これも後に丸島和洋先生の
「真田一族と家臣団」ですとか、長野県立博「川中島合戦と真田」の
展示でも確認ができて、すごく興味深いのですけど。

2013年・・・ですからわずか4年前に、上田の生島足島神社で、
義信事件後の起請文群をみたときに、海野衆の中にいる
「真田綱吉」って誰やねんこいつ・・・と思っていたら、
その人物こそ、本来の真田の嫡流の人だったんですねぇ。

てことは、幸綱は次男ってことになりますよね。
これは先ほどの矢澤系図に「右馬助頼昌三男真田源之助=綱頼」
ということとも、合致してきます。その推測の根拠のひとつとして、
この綱吉の官途名が「右馬助」であること。
官途名を嫡流が受け継いでいくというのはありますものねぇ。

この右馬助綱吉、真田を離れて佐久郡北方衆として分離。
真田惣領の地位は、幸綱が継いだようです。
右馬助を綱吉が名乗っていたとすると、そもそもは綱吉が
真田嫡流だったものが、その知略を信玄に買われて、
どんどんと出世していく中で、実権が奪われていったのでしょうか。

しかし、日向畑遺跡の真田氏墓を復元せずに、
系図の改竄を進めてきた幸綱系統の真田氏・・・も、
矢沢の系図までは、チェックが漏れていたのですかねぇ(笑)
さてこの綱吉の系統もおもしろいんですが、それはまた今度にして。

佐久郡の統括は、元上原氏の小山田備中(虎満)。
甲府の上石田あたりを本貫地としていました。
幸綱もこの小山田の相備衆として重きをなしていくわけですが、
有力な相備衆として、信玄に重用されていく弟を
綱吉はどうみていたんでしょうねぇ。

ちなみに、この小山田備中守虎満。子の備中守昌成は
高遠城の仁科信盛救援に駆けつけ、そのまま族滅していますが、
ある伝承によると、武田の滅亡後に郡内小山田氏、
いわゆる越前守信茂系統と混同されることを嫌い、
「小」の字を削って、「山田」と称してこの上石田に住まうように
なったんだとか・・・・

そして、郡内小山田氏の分流であり、松代真田の家老として
存続した境小山田氏(茂誠・之知)の系統も、
この備中守虎満の系統だと主張している点がおもしろいですよね。

◆昌幸の人質に出された時期◆

幸綱が、一説に村上方に着いていた矢沢綱頼を調略に使い、
砥石城を乗っ取ってまもなく旧領を回復したのが、
天文22(1553)年。

この年に、幼い昌幸(満6歳)を人質に出したことを信玄が賞し、
上田秋和の地350貫文を与えたということですが・・・・
ということは?昌幸の生まれた天文16(1547)年は、
幸綱が武田に着く決心をした頃でしょうか。

と考えると、伝え聞いていたにせよ、武田と真田が敵対していた
頃のことはまったく知らず、生まれながらにして恩ある武田・・
だったのが、昌幸の幼い頃だと思うと感慨深いものがあります。

◆甲府・二十四将屋敷跡設置の経緯◆

今となっては、甲府駅北口の武田通り沿いから武田神社の周辺、
二十四将の屋敷跡の看板があって、われわれさも当然のように
眺めているわけですけれども・・・これ、大河「風林火山」の頃に
平山先生が、看板立てようぜ~って嗾けたそうで(笑)

ちょうど大河「風林火山」が決まった頃、講演会に
市の助役、市議会議長や議員さんが来てられていて・・・
平山先生はおっしゃいました。

みんな武田神社に行って帰っちゃう、でも二十四将と
謳われた人たちがどこに屋敷を構えていたのか、
誰も教えてくれないし、わからない・・・と思っていませんか?と。

・・・わかるんです!(川平慈英調)

今ではわかりにくくなっていますが、その昔はどこの地名にも
「字名」がありましたね。そう・・・典厩信繁の屋敷跡は「字典厩」、
横田備中の屋敷跡は「字横田」、土屋昌続屋敷は「字土屋敷」
逍遙軒信綱は「字遙軒屋敷」。

さらに、江戸時代初期の貞享年間(1684~1687)に
作成された、武田遺臣の屋敷跡を記した古府中村の絵図。
これらを元に・・・・石碑など仰々しいものはなくていい、
看板立てればいいじゃん!とご提案されたんだそうです。
動かせるし、古くなればとっかえればいい。

ホントね・・・平山先生こういうところがすばらしいのですよね。
そりゃぁ、ファン増えるわと。

もちろん研究の世界では、批判上等掛かってきやがれなんですけども、
歴史が好きという一般人に何を発信するかをすごく考えてられて、
また、手持ちのどんな史料・史実をどんなコンテンツとして
発信すれば、心をつかめるのかをすごく熟知されている・・・

さてさて。真田との関係で言うと、いい位置にあるよね、
両真田の屋敷跡ってことなんですけども。

◆第四次川中島以後の上杉防備◆

上杉を撃退して後、武田方は海津城の北に
元島津氏の長沼城を修築し、対上杉の防衛最前線としたそう…
なんですが、ちょっと調べてみますと縄張図が、
上田の岡城とそっくりでして、川の断崖を背景に、
丸馬出で防ぐという典型的な武田の城の構造をしているんですね。

あと、個人的に謎な丸馬出を三方向につくっている
という点も岡城と共通した構造。三方向に丸馬出をつくる、
というのが武田のセオリーにあったのかどうか?
ものすごく興味をそそられるお城ですね・・・

また時期的にも、香坂氏館を増築してつくられた
牧ノ島城とも重なる点が気になります。
やはり、駿河侵攻以降の南西に戦線が広がっていく時代、
対上杉防備の防衛ラインを海津城を中心に、
東の牧ノ島城、北の長沼城だったのかな・・などと・・・・ううむ。

◆長谷寺の昌幸墓◆

九度山に流され亡くなった昌幸はそこで荼毘に付された
ようなのですが、遺骨の一部はどうも上田に戻されたらしく、
そう考えると、幸綱の墓の横にある昌幸供養塔にも、
ご遺骨があるのかもしれない・・・という話。

墓自体が動いているいう話もあるらしいので、
なかなか実態把握は難しいのでしょうけども・・・ううむ。

◆織田方の長篠合戦首帳にある信綱◆

長篠合戦で真田源太左衛門こと真田信綱は
討死するのですけど、織田方の首帳に真田源太左衛門って
出てくるらしいのですね。

しかし・・・よく知られている通り、信綱の首は白川兄弟が
青江の大太刀とともに持ち帰って、信綱寺に埋葬されているはず?
ということは、これは誰だ・・・という話。

首がこれは誰だ?というのは、捕虜として生け捕った
一般兵卒に確認して首帳として記録していくそうなんですが、
これがけっこう人間違いがあるそうで。

もちろん、織田・徳川方が具に武田家中の面々の顔を
知っているはずもなく・・・ってことで、どうやらこれ、
真田兵部丞昌輝(の誤り)ではないか?とのこと。にゃるほど。

◆高天神城の生き残り◆

勝頼滅亡の直接的な契機となった高天神上落城。
この中で数少ない生き残った者として、横田備中守高松の孫、
横田甚五郎尹松(ただとし)は自分の中では有名なのですが、
それ以外に、西尾仁左衛門宗次がいたそうな。

・・・それだけだと、ふーんなんですが、この西尾氏、
なんと後年、真田信繁を討ち取ったあの西尾なんですよ。
武田滅亡後は牢人の末、結城秀康に仕えていました。

信繁の最期は、武田VS武田だった・・・ということなんですけども、
なんとも因縁深いものだと思いますね・・・
しかも、西尾は直接信繁の顔を知らず、討ち取った後
結局その人が真田左衛門佐とわからなかったそうなのですが、
とある人が、西尾の元に陣中見舞いに来たそうです。

花形市左衛門と縫殿之丞。彼らは武田の遺臣であり、
さらに一時期真田家にも仕えていたのだそうで、
だからこそ彼らは、信繁を知っていた・・・だからわかったのですね。

真田信綱と弟・昌輝の首の混同と同じく、
大将首の認識のされ方っていうのが、なんとも興味深い。

◆新府城の屋敷のありなし◆

新府共選場の裏側の字名が「隠岐殿」という名前だそう。
ここを発掘した結果、焦土が出てきて・・・という流れ。
つまり、ここが加津野隠岐こと、真田信尹屋敷跡と比定されてるアレ。

武田二十四将展でも出ていた陶磁器などがここから出たわけですね。
今は、農道になっていて遺構は埋設保存中。

信尹が屋敷を持ってるんだとすると、昌幸だって屋敷あったでしょうね…
昌幸の屋敷だってあるとわかるといいんですけども。

おもしろいのが、甲府から屋敷を移したのとそうでない差。
真田丸では、我らが本拠地・・などと穴山梅雪が言ってましたが(汗)
穴山梅雪だって、武田逍遙軒だって移してないんですね。

新府に居を移したのは、勝頼に近しい面々のみ。
そう考えれば、昌幸もあったと思いたいですね・・・

武田信虎の石和から甲府への移転よろしく、
伝統ある武田にあって、本拠移転はなかなか難しいわけです。
決定的に武田家中が分裂しちゃったんですね・・・新府城築城。

◆顕了道快の逃避行◆

これ、「大いなる謎真田一族」にも記載があるのですけど、
後に第一次上田合戦後、更なる対徳川対策として、
信玄の子たる武田竜芳が生きていて、上杉に匿われている、
と偽情報を流し、徳川配下の武田遺臣の動揺を狙うのですが…

このとき、本当に生き延びていたのは竜芳の子、顕了道快。
後に還俗して、武田信道となります。今に続く武田宗家の祖。
武田竜芳墓所のある入明寺には、犬飼村に逃げたと記録があり
ずっと信濃国安曇郡犬飼村に匿われていたとされていました。

が、実はどうも安曇ではなく、飯山の犬飼村らしく、
浄土真宗の牙城だったところだとか。
飯山の犬飼村というと、信濃国高井郡。
相当な上杉領に近いところであります。

浄土真宗は武田とも縁が深く、三条夫人を通じて、
信玄と顕如は義兄弟に当たる間柄ですし、
武田滅亡後は上杉に通じ、織田方に一向一揆が起こり、
また三河一向一揆や石山戦争の生き残りを匿うなど、
反織田の機運が高い地域。

この匿われた顕了道快、甲府長延寺
(現東本願寺甲府別院光澤寺)で信玄の御伽衆の
一人であった実了師慶の下で出家するわけですが、
この犬飼村は長延寺の知行地だったとか。

信玄と浄土真宗のつながり、そして顕了道快が
出家した経緯とそのつながり、かの地の気風と長延寺のつながり。
なぜ顕了道快が逃げ遂せたのかがわかるような気がしますよね。

・・・というわけで、興味深いお話いっぱいの2時間。
やー、ちゃんと振り返るに値する深い内容。

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VR作品「江戸城の天守」

凸版印刷のVRがまた江戸城を取り上げたということで、
早速行ってまいりました、「江戸城の天守」

Scan001

Scan002

結論から言って、すごくよくできた内容です!
ナビゲーターの女性があれこれ説明してくださるのですけど、
江戸城天守をいくつかの切り口でわかりやすく説明。

以前「江戸城~本丸御殿と天守」というVRもありましたが、
どちらかというと本丸御殿中心だったこともあり、今回は
かなりマニアックに天守のほうに力が入ってましたね。

1) 徳川家光
2) 石垣
3) 骨組み
4) 銅板葺
5) 金物
6) 鯱

の6点から解説されています。

1) 徳川家光

そもそも徳川家光って知ってますか?というところから
忠長を偏愛する江に愛されずに、廃嫡されようと
されていたのを家康が処断し、跡継ぎの宣言をしたことで、
家光に家康への尊敬が生まれたというくだり。

直接江戸城とは関係はありませんけど、とにかく荘厳に
華麗に・・という家光の好みは日光東照宮の壮観さにも現れ、
それが家康への敬念の表れとするなら、天守にも
その意向がある程度反映されているという理解もでき、
その意味で、悪くない説明かなという感じ。

2)石垣

すごいなーと思ったのは、ちゃんと現天守台との違いの解説をするとこ。
伊豆石をつかった当時の天守台の再現、その伊豆石を切り出す
石丁場から江戸城への持ち込みの解説まで。

さらには中雀門などに江戸城寛永度天守台の石垣が
転用されてる話なども盛り込まれていて、そうそれそれそれそれ!
とニヤニヤしながら聴いておりました(笑)

そしてVRでも天守台は真っ黒の天守台。瓦は後述するように、
黒チャンが剥がれた後想定の緑色なんだけれども、
石垣から壁と瓦の銅板+黒チャンの黒が映えると、
ホントに真っ黒の天守でかっこいいなーと実感できます☆

3) 骨組み

ここもしっかり史料に基づいた解説。
東京都立図書館蔵「江戸城御本丸御天守百分之一建地割
をベースに、柱をずらーっと据えつけていくさまをVRで実験。

こうやって柱が立っていくのね、という実感ができ、
また三浦先生が復元調査報告書で解説されていた、
御天守百分之一建地割の正確さを改めて感じた次第。

4) 銅板葺

ここでは、日光東照宮陽明門や寛永寺五重塔などを例に、
その作り方や仕組みなどを詳しく解説。
実際の日光東照宮の銅板をお持ちいただいて、触ったりできる
というのも新しかったかも。薄いのに頑丈ということで耐久性中心の説明。

個人的には、本瓦葺よりも総重量が軽量化できる点、
また江戸城クラスの大天守ならばこその軽量化の必要性、
という点にも言及いただけたらよかったかなぁ。

5) 金物

二条城はじめ、多くの歴史建造物の金物を手がけている工房
からその打ち出しの技法を解説。意匠参照としては
やはり二条城二の丸御殿が参考にされていましたね。

ただ、国立公文書館蔵の「江戸城御天守絵図」はかなり
正確な意匠を反映しているので、ここへの言及はほしかった…

しかし、意匠自体はこちらとも矛盾のないよくできたもの。
どアップで千鳥破風が映って、細かい意匠がハッキリ見えるのは圧巻。

6) 鯱

こちらもどアップ。参考は名古屋城天守とのことで、
まぁ妥当なところでしょう。

そして、シアター前にその金物や鯱のVRを起こしたときの
設計図面の一部や金物のサンプルがあって、萌え萌え(笑)

銅板葺の鬼瓦がこんなに緻密な仕事でできてんだぜ・・・

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鯱。

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P1260255

釘隠しには花菱だぁぁぁぁぁと頭の悪いコメントが
頭を渦巻いていました(笑)

P1260263

・・・これ、前作のように、DVDないしBlu-rayになったら
間違いなく買いですね・・・つくってくれないかなぁ。

3月31日まで上映なので、気になる方はぜひ!
城郭建築好きさんはもちろんのこと、広く和建築が好きな人にも
楽しめる内容なんじゃないかと思いました。

わたしもあと数回通いたいと思います!

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武田ヲタクの極私的真田丸総評。

真田丸、終わってしまいましたね。
なかなか2016年のblog記事を書いていませんでしたが、
2016年の心に占めるかなりの部分を真田丸がもっていきました。

ってことで、今のうちに思ったことを・・・
ちなみに、武田家好きということでかなり偏ってるのはご愛嬌(笑)
例によって、各位敬称略にて。

■信玄への憧憬 - 真田昌幸

武田家に強い関心があって、特に武田家滅亡以降の旧臣、
旧民の抱き続ける武田家への思いの強さと息の長さ、
という点に最近興味が強かったのですよね。

その点を1年通じて、個人的にタイミングよく映像化
されたということは、ほんとうに武田家に関心を持つ者として、
幸運というよりほかありませんでした。

真田丸、実はそれほどには期待していませんでした。

それは、三谷幸喜だからというわけではなく、
単純に真田幸村を描くからということだからでした。

このあたりは署名運動をして盛り上げていた
上田市の方には申し訳ないのだけど、昌幸をスルーして
上田にほぼいなかった幸村ばかりが注目されているのを
いつも苦々しく思っていただけに、そういう展開なら
ちょっと・・・と思っていて。

とはいえ、幸村の活躍する場面だけでは
尺が余るのは目に見えていて、昌幸も描くであろう、
それであれば武田家が描かれればいいな、くらいの感覚。

だからこそ、真田丸の発表直後、川中島の昌幸初陣や
長篠合戦あたりから描いてほしいというように思っていて、
滅亡直前からということでまぁ・・・しょうがないかと思って
第1話を見るわけですよ。

まぁ、信玄公信玄公って出てきますよね。わぁぁぁぁですよ、もう。
信玄の霊が出て、そして劇的な勝頼自刃。
あぁ、これはもう武田丸だった、もうこれで救われた・・・と思ったら。

ストーリーが進むにつれ、要所要所で信玄の影が
出てくるじゃないですか。同時期に出た平山先生はじめとする
関連書籍で、信玄と昌幸の師弟関係とも言える
関係の深さを新しく知るということと連動し、
昌幸に通底する忠誠心が、映像の力を借りて
深く深く心に突き刺さっていきました。

単に真田を大河ドラマにするなら、武田家を描いてほしい、
ならば強い武田家の時代を描いてくれなければ
と思っていた、何たる浅はかさ。川中島や長篠がなくても、
これほどまでに存在感強く武田家が描けるのかと。

天正壬午の乱では、ころころ変わる昌幸に
表裏比興を地でいくように見えながら、
真田を守ることと信玄への憧憬を軸にすることで
筋の通った昌幸も見せていく。

この大切なもののためには、何でもする、
何を謗られようとかまわないという姿勢。
良くも悪くも信玄そのものです。
信玄も戦国を勝ち抜くために背負う罪業は
すべて自分が背負うのだという覚悟を持った大将でした。

信玄から軍略を学び、そして信玄の覚えもめでたかった昌幸。
武田家の家臣から一国の大将と立場が変わっていく中で、
大将として持たねばならない覚悟を、あの信玄を象徴する
太刀と向き合うなかで培っていったような気がして、
そんなさままで見ることができるとは思ってもみなかった衝撃でした。

そして信玄の時代を、領国を、記憶を取り戻そうとする昌幸は
この一転についてどこまでも真摯。九度山で亡くなるときだけでなく、
大坂の陣でも、堀田作兵衛が語るなど、何度も何度も描かれ、
そのたびに涙するのでありました。

昌幸がほぼ中心ではありますが、出浦昌相・室賀正武・春日信達ら、
武田家の旧臣らも武田家を懐かしみ、誇りに思い、ただそれでも
消えてしまった武田家の記憶は胸に仕舞って、
各々の道を生きているという武田家の記憶の広がりを感じます。

対立し、謀殺し(これに関しては後述)部下になるなど、
昌幸との立場はそれぞれですが、しかし同じあの武田家の時代を
すごした一員という共通した時代を生きた感。

出浦については、史実でも書状でそのような
「同じ武田家のもとにあった仲じゃないか」という説得をしてたり、
というのをするのを知るとさらに感慨深くなります。

■勝頼の挑戦と挫折 - 武田勝頼

そしてもうひとつ、勝頼。あの儚げで美しい平勝頼の名演には
心を打たれた方も多かったでしょう。
わたしも信玄の幻を見、自分の至らなさを詫びて
信玄の元へ逝こうとする勝頼を見て、
ただただ声を上げて哭くことしかできなかったのでした。

しかし、事前に「武田勝頼と長篠合戦」など勝頼本を読んでいると
もう少し違ったように見えてくるのです。
勝頼は信玄が設定した人生のレールに従わず、
自分の力で人生を切り開こうとした人でした。

信玄や梅雪ら一門、重臣たちは当然、信玄の後継策、
つまり陣代という当主ではない中継ぎとして、
武田家を支える役目こそ勝頼の道と思っていた
とわたしは感じているので、それは衝突はあったでしょう。

信玄は勝頼が当主になれば、その血筋や立場からいって、
ひょっとするとその性格や資質の面からも、
衝突が起こると見越していただろうと思っています。

しかしそれと対決してでも、勝頼は自身の力を恃み、
武田信玄の子ではなく、武田勝頼という大将として生きたいという
強い意志があったと思います。

その勝頼の挑戦があったからこその、あの滅亡直前の達観した様子、
父上がおられたらとつい零してしまう様子、
そして四郎をたっぷりと叱ってやってくださいませ、
と悔いる勝頼の姿をより鮮烈に記憶に残すことになったのです。

偉大な父をもつ二代目のコンプレックスがテーマのひとつにある
ということですが、乗り越えようとした場面を直截的に描かなくても
感じられる、そこがあの勝頼のすばらしいところだったのではないか、
と思えてなりません。

少なくとも、あの勝頼がかわいそう、すべて信玄のせいだというような
そんな単純に割り切れるものではないでしょう。

■武田家を飲み込んだ包容力 - 徳川家康

家康。稀に見るといっていいほど、人間臭く、
またそれゆえの包容力のある描き方。
要所要所で見せられる、下につくものを引き付ける魅力。

天正壬午の乱あたりは、昌幸に翻弄されながらも、この大将ならば、
武田亡き世に主として、命を託すことのできる人物だと思うだろうな・・・と
武田遺臣の気持ちになって、視聴していました(笑)

滅亡した勝頼を武田家中以外で高く評価したのは、家康でしたし、
まさに滅亡する直前で見せた北条氏政への説得、
死した太閤へささげた祈りなど、敵方への真摯な態度というのは、
やはり視ていていい気分になれます。

とはいえ、第一次上田合戦で命を落とす多くの兵は甲州勢だったり
するわけで、微妙な気持ちにもなるのですが・・・

実は、甲陽軍鑑でもある時期から家康は大絶賛されます。
それはもちろん家康に召抱えられたからという側面は
絶対にあるわけですが・・・・

それでも、武田で生きてきた人たちと家康との親和性を感じ、
その一端が今回の内野家康に見て取ることができたように思います。

■描写への不満が残る -小山田信茂&春日信達

物語の大筋にはそう関与はしないものの、不満の残ったのがこの二人。
信茂は第1回からそうなのですが、重臣の地位にありながら、
非常に小物感があり、最期の最期まで小物としての描かれ方。

穴山梅雪の堂々たるさまと裏切る際の苦渋を見せる顔など、
非常にしっかり描かれてあっただけに、その対比になるようキャラ付けを
されてしまったのでしょうか。

信茂には信茂の理屈と大義名分があり、また武田家存続も
図っていました。あそこまで、浅はかに描く必要があったのか?
という点は疑問を感じざるを得ません。

穴山、小山田両氏とも「穴山武田氏」「郡内小山田氏」を読んで
その実際の歴史を読み込んでいくと、なおさらそう思いました。

春日信達はその人となりではなく、事件展開。
史実とは違って、昌幸の指示で信達調略を図り、
しかも信尹に暗殺させるという展開。

単純に信達の殺めて上杉の力を殺いだだけ・・・・で、
信繁・信尹の関係性や信繁の成長の一環を
描くに使われただけ、に思えました。

信達の父・香坂弾正と昌幸との関係を知っているだけに、
そんな仲でも殺めねばならないこともあるでしょうが、
その必然性よりも、信繁の成長を「描く都合」にあわせた
感じを受けてしまい、その点は興醒めでした。

■0から1へ - 真田信繁

主人公である真田信繁については、幸村であろうと信繁であろうと、
実はそんなに関心はなかったのですよね。
勝手ながら、武田家あっての真田という視点からは、
どうしてもこれまで関心をもてなくて。

信繁名の由来だって、確固たる証拠はないわけですし、
あったとしても昌幸の意思であり、信繁がどう考えたか
ということではないわけです。

しかし、あのような昌幸をみてきた信繁であれば、
武田的な何かを生かして、大坂で輝くのだろうという思いを
持たせてくれました。そしてそれは実現しました。

三方が原の思い出を語る昌幸に、
「武藤喜兵衛!その話大好きです!」と応える信繁が、
後に武田の武勇の証の赤備えを出してきたあたり、
昌幸が終生誇りにした武田の欠片の、
わずかでも持っていてくれてうれしかった・・・

それもやはり、よく知られた「真田幸村」としてだけではなく、
真田信繁として、昌幸を中心に生き残った真田家の物語を
描いてくれたからこそだったと思います。

■一般人として歴史とどう向き合うのか

今回の真田丸では、時代考証陣の先生方とドラマとの
しあわせなコラボ、ということが話題になったと思います。

すべてのスタッフの皆様がこれだけ同じ目的を正しく共有し、
1+1が2にも3にもなるような各々の力を存分に生かせる作品になった
という各々のチームワークがまた素敵だったりします。

考証陣の先生もおっしゃっていた、厳しいが気持ちよく
仕事ができたというご感想がなによりそれを表していましたね。

それだからこそ、各関係者のいろんな視点で見る真田丸、
を楽しめたわけで、特にそもそも歴史が好きな人間にとっては、
歴史を専門に研究される方の解説とともに、映像で理解を深めていく
という流れがとても新鮮に思えました。

これまで歴史に興味があったとして、本を読んだりする、あっても
展示会に行く、講演会を聴くくらいのことだったのが、
その講演会・展示会もものすごい充実振り、さらには
SNS等を通じて、歴史を研究している専門家の考え方、
大事にしていること、常識、あるいは歴史研究の問題点…
などなど学ぶことができました。

一方、ドラマはドラマで、必ずしも史実だけというわけではありません。
とはいえ、たとえ史実ではなくとも、史実と史実をフィクションで繋ぐ、
その繋ぎ方の妙で、却ってその史実が引き立つということもありました。

そして、演じる俳優陣の思い、それに先祖を
描かれることになる末裔の方々。
さらにTwitterで流れてくる実にドラマを読み込んだ感想の数々。
それぞれにこの真田の物語への思いの寄せ方があって・・・

歴史について、こういう理解の深め方をしていくというのは
なかなかできることではなく、心から真田丸のある時代に生きて、
そして恙無く鑑賞できたことを有り難く思うばかりです。

そこで、一人の歴史に関心のある者として、
どうしていきたいのか、ただ好きだったり、知識を得たり・・・だけでは
済まなくなってきたという気持ちが真田丸によって、
高ぶってきた感があります。

わたしは信玄を中心に武田家に関心があるわけですけれど、
ただの趣味レベルとはいえ、ストーリーをもって知識や
自分なりの考えを組みたてていけたらいいなと思います。
そして、何らかのアウトプットを出したいという欲。
大河ドラマの影響力を改めて強烈に感じましたね。

完璧ではないかもしれないけど、すごく物語のロジックが
ハッキリしていて、キレイな組み立てだったと思うのですけども、
これって、数寄物語りにも欠かせないなと。

・・・真田丸、思っていた以上にわたしにとって、
偉大な作品になりました。武田家に関心があるにもかかわらず、
風林火山を超えそうなくらいの印象を残した真田丸。

極私的にも2016年は、とんでもなくすばらしいことも、
とんでもなく悲しく、つらいこともそのパワーが桁外れでありました。

本当に精神的に厳しい出来事に向き合っていくための、
大きな力を真田丸からいただいた思いでいます。
真田丸にかかわったすべての皆様に、改めて感謝申し上げたいですね。

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「東国武将たちの戦国史」を読む。

今更感満載なのですけど、西股総生先生の
「東国武将たちの戦国史」を拝読。

詳しくない扇谷・山内両上杉の抗争から
次第に伊勢宗瑞~北條氏綱に侵食されていくさま、
そして北條家のシステマチックな組織体制には、
(普段読まないだけに)非常に発見がありましたね。

ただ、武田に関してはこれまでいくつかの講演を聴いたり
本を読んだりする過程で、その根拠と論旨を
自分なりに理解したことを踏まえると、ちょっと違うな?
てな感想も自分の中で出てきたので、主に自分のために(笑)
考えたことを整理しておきたいと思います。

例によって贔屓なしで書く努力をしたいので
皆様敬称略にて。

◆武田信虎の戦略とその限界

・信虎追放
西股先生の論は追放劇については晴信の即断即決、
今川との共謀の線は薄く領国経営の失策ではなく、
信虎の容赦ない敵対者への徹底報復と周囲に諮らず、
独断専行で進めた当主権力の集中を図った反動という見解。

ただ、どの反動の主体を晴信個人に帰するのはちょっと
難しいように思います。平山先生も指摘されていた
誰の刑死や追放、討死も起こっていない無血クーデタを
実行するには、やはり家臣団との利害の一致
という側面は見逃せないでしょう。

廃嫡の恐れをもった晴信が、独断専行の恐怖政治に抗して
結束した家臣団の利害をよく汲んだのだろうと。
そしてこの利害一致が、追放後の武田家体制を規定し、
晴信~信玄時代に形成されていく合議体制の下地になると
考えています。ある意味、信虎の恐怖政治の下地が
あってこそともいえるのだと思います。

◆信虎の領国経営
領国経営には問題なく、あくまで信虎個人の猜疑心や圧力が
問題で、権力集中についてへの反発ではないとの見解。

ただ、信虎時代の当主権力は強化というより、
信昌ー信縄の抗争から信虎家督相続の間に
失われた権力を再構築していく過程。

この地位を継承した晴信もこの権力を維持はしているけれど、
宗家権力・権威の構築と独断専行志向というのは、
独立して考えるべきで、この独断専行の追求も領国経営の一環
と捉えれば、統一戦には不可欠かもしれないけれど、
維持し続けるべきものではなかったように思います。

当主権力を形成したステージのまま、独断専行スタイルを
継続した点はある種の経営の失敗ではないかなと。

幼くして血みどろの中を勝ち抜いてきた人間の思考回路が
そうそう組織の成長段階に応じて
変えられるものではないでしょうけど。。。

外征の連続による軍役負担も追放劇の理由として
考えにくく、信玄時代も多かったはずとあるけれども、
これも部将や領民それぞれが持つ納得感の有無
なんじゃないかと思うんですよね。
これによって、心理的な負担の度合いは変わってくるはず。

ただそう考え詰めると、武田家の権力を再確立させた
功労者にも関わらず、さらなる武田家飛躍のために
放逐されなくてはならなかった信虎が、
非常に損な役回りを演じざるをえなかったといえ、
一抹の無念さを感じざるを得ませんね・・・

◆山本勘助(菅助)の虚実

・正規か非正規か
基本的な論旨は才能を見出されて信玄の密命を受け
情報収集や調略を任務とする立場と。

ここまではいいのだけど、一貫して足軽大将=大名家中の
「正規」構成員ではないという立場なのが
正直よくわからなかったんですよね。

論点は、①菅助を銭で報酬を得る傭兵の立場だったか?
というところと②信虎時代の強力な軍事力を形成した傭兵と
連続性のある存在なのかどうか?というところ。

①については、真下家所蔵文書から上田原合戦敗北後の
伊那衆の動揺を見事押さえ込んだ功績として、
黒駒の関銭百貫文という銭で支払われているという点が根拠。

ただ、最後まで銭だったわけではなく、甲斐に知行地を
与えられているわけで、当時は新参者に簡単に
知行を与えてはならないという慣習があったようですね。

というところから、菅助をあくまでカネでつながった
傭兵というドライな立場で・・というのは説得性に欠けます。
正規・非正規という現代の会社員の立場に比するなら、
最初は契約社員から正社員になったという表現が相当かな。

また②信虎時代の傭兵活用との連続性の是非ですけど、
信虎が当主直属の旗本衆として傭兵を雇い
一門衆を迅速に討伐できたのは確かなのだけど、
信玄の旗本形成の考え方とは大きく違うように思うのです。

信玄旗本を形成する足軽大将は、家中の身分を問わず、
信玄の目利きで登用し足軽大将としていくのが常道で、
いわゆる即戦力の傭兵とは性格が違うんじゃないかと・・・

また甲陽軍鑑の成立経緯は、小幡景憲の恣意が
入っている向きは否定されていて、
城郭研究の成果との齟齬は少なくとも
景憲に帰することはできないわけでして。

・菅助は川中島の作戦ミスのスケープゴート?
菅助が常任の軍事参謀という立場ではなく、
軍配者という当時の将兵に与えるような、
心理的な効果に通じた人物ではないか、という点は同意。

・・・なのだけど、「家中外の傭兵」たる菅助の作戦ミス
ということにして、信玄の作戦ミスのスケープゴート、
というくだりもちょっと個人的には「?」なんですよ。

四次川中島の経緯はよくわからないのだけど、
甲陽軍鑑の筋書き通りだと仮定しても、間違いなく判断責任は
最終決定者である信玄にあるはずだし、甲陽軍鑑も
菅助の戦略ミスを批判はしてなかったように
思うんですけどね。

◆武田勝頼の苦闘

・勝頼の武田家家督相続について
勝頼の誕生。「高白斎記」にも誕生の記事が見えず、
幼名も伝わらない勝頼。序盤にあるこの指摘は
記録がないことで逆説的にその扱いがわかってしまう、
数少ない勝頼の幼少期なんだろうな、と実感。

多感な時期に信玄の手をかけられた形跡がみられないことは、
信玄没後に「信玄的なるもの」を否定し
乗り越えようとしたこととつながる気がしました。

勝頼が無位無官なのはやむなしだとしても、
通字に「信」を据えた改名をしていない点についての言及。

勝頼が後継者として誰の目にも明らかであるにもかかわらず、
信玄が家督継承者として勝頼を盛り立てることに
あまりに不熱心じゃない?と西股先生は書かれていたけど、
そもそも信玄は勝頼に家督は継承させるつもりはさらさらない、
のが正確なんじゃないかと思うんですよね。そもそもない。

諏訪に関するモノ、諏訪法性兜や大の字の使用は許し、
孫氏旗の使用を許さないのもその現われのように思えます。

だから勝頼の家督継承喧伝は、武田家当主を強く自認する
勝頼自身、もしくは武田家宗家を握ることで
権力を握ることを志向した諏訪・高遠衆による、
武田家家督「簒奪」と一門衆や譜代家臣には見えたのだろう、
という気がしてきます。信玄の意思でもないし。

信玄は勝頼の軍事的才能は高く買っていたものの、
家督は相続させられないと考え、信玄以来の家臣団の
中心的存在だった馬場、山縣、香坂、内藤らは
信玄の方針に賛同してたんじゃないかな。

一方、「高遠組」として諏訪勝頼に付いた
長坂虎房(光堅)や諏訪・高遠衆は当然、
勝頼が「武田家」当主になるべきと考えたであろうと想像。
そこで、勝頼が武田家を「簒奪」すれば、
両者の対立が現れるのは自明の理だと思われますね。
そして、たぶん信玄はそれを不協和を想像していたでしょう。

しかし、反信玄の意思を腹の底に隠して
決して出さなかった勝頼とそれを見抜けなかった信玄。

勝頼と諏訪衆は、信虎追放劇や義信事件を反面教師に
したのかもしれません。

・長篠での判断
長篠敗因については、家康のみを叩く戦力だった武田軍が
信長が長篠に戦力投入できることを想定しえなかった
という点に尽きるというのは、以前学んだとおり。

信長の進軍の巧妙さと勝頼の油断、そして判断のための
情報が決定的に欠けていた間違いない。
しかし決戦前日の軍議過程への疑義はちょっとどうだろう。

前日の武田家中において、信長の軍勢を正確に把握
できてはいなかったかもしれないけれども、
宿老衆で意見が割れた、つまり甲陽軍鑑の記述を否
とみるにはちょっと難しい気がするんです。

というのも、宿老衆は信玄の軍配に近い考え方と思われ、
すなわち想定外(=信長本隊出陣)の勝てるかどうかの戦に
その場の判断で全力でぶつかるという思想はないのでは
と思うんですよね。

一方、高遠衆と勝頼は、ここで勝って、あわよくば
信長の首級でもあげようものなら、信玄カラーを一掃出来る
チャンスと見えたというほうがわたしには自然です。
(結局そうはなってしまいますけども)

甲陽軍鑑の起源が、信玄の強さの源流をを改めて
勝頼に知ってもらいたいという「諫言の書」から始まっている
という説に立つと、軍鑑が勝頼と高遠衆に
敗戦の責任を負わせたというより、甲陽軍鑑が
信玄流の強さの秘訣を支持する立場から、
勝頼と高遠衆の判断を批判しているのだろうと思えました。

いずれにしても、指摘通り勝頼と馬場・内藤・山縣との
信頼関係がなかったのは否定しがたい事実。
この重要な戦局において、軍議で西股先生が指摘するような
「明確な意見がいえず」議論がなされぬまま、
あるいは意見を言えない空気感が
軍議の場を支配していたとしたら。

そして勝ちを重ねて油断し、また信長の巧妙な作戦を
見抜けなあった勝頼のリーダーシップで
方針が決まったのだとすると、宿老にとって
「武田軍の強さの源泉」のひとつだったであろう、
議論の末の納得感が絶たれたことを意味したように思います。

ただ、それでも勝てるチャンスがなくはなかった。
平山先生の決して無謀な突撃ではないという指摘について
本書は決定的に否定しえてはいないように思えます。

この差については失敗から学習した信長と成功体験しかなく
失敗不足の勝頼という点は間違いないでしょうが、
勝頼と意思疎通できなかった宿老に単純に責を
負わせるべきとは思えません。

信玄時代の合議体制と勝頼の集権化が対立して
勝頼側が当面の戦果を得たことで優勢になって、
肝心の場面で議論して納得感を持って望めなかった。

そして、失敗不足の勝頼の判断に従わざるを得なかった
宿老の立場の斟酌もすべきではないのかな、と。

この長篠で勝頼にとっての目の上のたんこぶが一掃はされ、
その結果、勝頼は信玄カラーがもたらした強さを
捨てた代償として、新たに勝頼自身のリーダーシップで
武田軍の強さを形成できる、ある意味では
歓迎すべき環境になったわけなんでしょう。

◆御館の乱
次のターニングポイントである御館の乱。西股説は
本来は景虎を支援すべき勝頼が、景虎勝利によって
実質的に上杉が北條に飲み込まれ、パワーバランスが
傾くことを恐れたというのは説得力がありますよね。

決定的に織田徳川と対立した環境において、
武田を凌駕するかもしれない北條か、いずれが勝利するにせよ
内戦で戦力が低下した上杉かどちらを味方に
しておくべきかを考えると、頼りにならない上杉よりも
立場は苦しくなるかもしれないけれど、
やはり北條との同盟を堅持すべきだったとわたしも思います。

対北條では、真田昌幸の采配で武田側に有利に
進められたとはいえ(昌幸にとっては不本意でしょう)
景虎が勝利していれば、対上野越後には最低限の兵力を残し、
昌幸も対徳川戦線に投入できたはず。

しかし、現実は落城寸前の高天神城への後詰も
派遣できない苦境に追い込まれ、その落城で
国境国衆の反旗を招き、滅亡へとつながっていく。

西に織田、東に北條。そして国衆の離反。
北には動きの鈍い頼りにならない援軍の上杉。

誰と同盟し、誰と決戦すべきか。個人的には
信玄流の強みを活かすべきだったのではないの?
と思うわけですが、それでも信玄流を否定し
勝頼の新たな武田軍の強さを構築するチャンスはあったはず。

景勝支援に回って北條を敵に回すべきでなかったという点が
致命的に思えます。高天神城落城による動揺も
織田と北條を同時に敵に回したツケではないでしょうかね。
ここは西股先生と意見が合うところですな。

◆武田滅亡の責任
ただこのツケについて、独り勝頼にだけ
課するのも正当ではないけれども、信玄にだけ責任を
負わせるというのもまたフェアではないように思います。

勝頼の責任については、信玄が築いた武田軍の強みを
敢えて活かすことをせず、長篠で瓦解させてしまったこと。
直接の滅亡の原因ではないにせよ、戦闘力を大きく
落としてしまったのは事実のようです。

そして弱体化した武田軍を再構築を果たす際に、
外交戦略を見誤り、二方面作戦を強いられた点。
ここに限定されるべきですね。

一方、信玄の責任については、西股先生が指摘する
後継体制のまずさ・・からもう少し深堀して考えたいんです。

①義信の取り扱い
確かに北條家と比べると北條家権力の継承が磐石で、
武田家の拙さが目立つのは否めないのですが、
その拙さの所以のひとつとしてまず、
信玄が後継者たる義信の思想共有ができなかった点
ではないかと気がしています。

躑躅が崎館に西曲輪を義信のために増設してることからも
当初(1550年代は)義信に大いに期待していたであろう
と思われる一方で、思想的な齟齬が出来てしまった。

これは奥近習が信玄による思想教育がなされ
ベクトルが一致していたのとは対照的。
信玄の根本理念を後継者と共有できなかった点は、
間違いなく失策といわざるを言えると思います。

西股先生は、三国同盟の破棄に後継体制の破綻の因と
されているんだけども、義信がそこまで今川家に
与する意図を測りかねるんですよね。性格の不一致(笑)
かもしれないけど、それに帰するのはあまりに単純だし。

外交に関してはわだかまりなく、状況に応じて
有利な相手と組むためには手段を選ばないというのが
外交における信玄イズムだと思うんですけど、
義信に叩き込めなかったわけですよね。

むしろ後年、昌幸が真似するくらいであっても
よさそうなものなんですが、そうは行かず。

三国同盟破棄と駿河侵攻も北條を一時的に敵に回し、
苦境には陥りはしますけど北條を再度味方に引き入れ、
かつ駿河領有と三河・遠江の足がかりを得た信玄の外交政策は
結果間違ってはいないと思うんですね。迷走とは思えなくて。

②養子政策
子息を残らず制圧地対策で養子に入れてしまい、
嫡男義信と対立したときに有力候補となる後継者を
擁立できなかった点も厳しい点。

次男以下を養子に出して戦略上の手駒に使うのは
どの戦国大名もやっている常套手段ではありますが、
次男信親以下皆養子に出していて、義信の代替がいなかった。
だからこそ、一旦家を出た勝頼を呼び戻すしかなかった。

逆に代替をつくることは、後継者争いで家中分裂の火種となる
原因にもなるわけですけど、信繁・信廉のような
存在はいてもよかったんではないかと思ったんですね。

勝頼も、当初から武田勝頼であれば、氏康のように
早くに一旦身を引きつつ権力継承を漸次進める方法も
取れたでしょうけど、生まれながらにして
格下の制圧地の家を継ぐことを目されていた
「諏訪」勝頼を呼び戻さざるを得なかったところが
後継者政策の行き詰まりを見せているように思います。

この他家の人間が武田宗家を継ぐ反発というのは、
奇しくも信虎の項で、信玄死後に信虎と勝頼が
対面した際に勝頼の母が諏訪氏であることに不快感を
顕にしたという本書記述からも、
一定の推測が付くように思いました。

③次善策「陣代」の破綻
そんな中で信玄が活路を見出したのが「陣代」。
諏訪家としての家格のまま、実質的に武田家をリードさせつつ、
制圧地の家が宗家を継ぐ不協和音を抑える次善策。

ただこの次善策は、更なる心理的負担を
勝頼に強いることになったでしょうし、
陣代たる地位を承服するほど、信玄と勝頼の関係性は
強固ではなかったように思います。

そして、信玄死後に勝頼はあっさりとしかも、
死の直後から覆されてしまい、勝頼は「諏訪」勝頼ではなく
「武田」勝頼としての道を歩んでいくわけです。

反信玄の意思を出さなかった勝頼、そして
見抜けなかった信玄。信玄死去後の「簒奪」の動きは
実に早く、周到に計画された感じがします。

勝頼に典厩信繁のような一歩下がった発想や、
これまで支えてきた家臣団を誰かに譲り、
きっちりと武田家領袖という立場とも高遠・諏訪衆を
率いる立場を分けることができれば・・・
また違った武田家の歴史ができたのでしょう。

あまり詳しく理解していないので、簡単に
引き合いに出すべきではないのかもしれませんけど
毛利両川の吉川・小早川のような形で
武田諏訪の関係構築ができればよかったのでしょうか…

とはいえ、戦国の雄たる諸家において、
権力継承がうまく進んだ例はそう多くはないと思います。

織田はうまく行ってましたが後継者ごと失いますし、
豊臣は周知の通り。謙信の突然の死で上杉も苦しみますし…

その点、北條家の順当さは特筆すべきなのは確かで、
武田遺臣だけではなく、北條遺臣も取り込んで関東統治に
当たった家康は、ひょっとしたら権力継承の手法も
北條家の事例を学んだのかもしれないですね。

ちなみに・・・本論からは外れますが、武田典厩信繁が
諏訪郡代だったってのは初耳。勝頼の高遠城入りを
諏訪郡代だった信繁の討死を契機とあるんだけども。

高遠城主は諏訪郡代ではなく、伊那郡代のはずだし、
諏訪郡代は板垣信方、長坂虎房、武田信廉(信綱)と続き、
高遠城主は秋山虎繁、諏訪勝頼、武田信廉、仁科盛信。
信繁は制圧地の郡代にはなってなかったような
気がするんだけどなぁ。どうだろう。

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いやいや、じっくり拝読していろいろ考える
きっかけになりましたよ。おもしろい本でした。

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歴史人 No.61 【戦国最強家臣団の合戦力】の個人的感想まとめ。

歴史雑誌「歴史人」に非常に興味深い記事があって、
雑誌ですが結構読み込んだつもりです。

元々武田信玄公に興味を持ったのも、戦いの強さというよりも
その人心を掴み強固な結束力をもった組織を
つくりあげた思想への興味が原点。

他の家臣団と比較することでいろいろ見えてくるだろうなぁ、
と思ってはいたのですが、なかなかまとまったものがなく。

必ずしもここでの記載が正というわけではないでしょうが、
一旦所与の内容として踏まえて、比較してみました。
毛利と島津は論点がちょっとずれる気がしたので除外。

例によって、客観的な立場から書いてみたいので、
以降敬称略で書き進めます。

■武田信玄
信玄は部将の能力を見極め、能力に応じた役割を与えながらも、高い能力の片鱗のある人材を自ら育てる点が特筆。奥近習「信玄塾」卒業生を要職につける。香坂虎綱、山県昌景、真田昌幸等々。自ら人材育成することで大将と部将の基本思想の刷り合わせ・共有化を図る一方、各部将に論戦させ「決まるまでは徹底議論、決まったら従わせる」ことで戦略決定の納得感、一体感を生む。人材登用は非門閥主義だが、原則甲斐出身の有力者に服属国衆を付けた軍団編成。

■武田勝頼
一方、勝頼は自らの将としての能力の自負から信玄が用意した「武田家生き残り策」とを捨て、信玄の用意周到な「勝てる戦いしかしない」戦略と人材の育成・組織統治戦略を転換。中央集権と戦争に勝ち続け、領土広げて先方衆に報いることで、諏訪家の負い目を払拭。高遠・諏訪衆と甲斐古参衆の軋轢を纏め上げようとする。しかし長篠敗北を機に勝ち続ける戦略が崩壊。組織的な戦闘ノウハウの継承が途絶え戦闘力の低下を招く。

■織田信長
能力で評価するというより、実力に応じて使える人間を使えるだけ程度だけ、使い倒す主義。裏切っても許すが使えなくなったらそこまで。適材適所という点では信玄とも共通するが、能力観について自助努力か自ら介入するかの相違点。自助努力で伸びてきた人材は引き上げ、経済的に報いるドライな関係。組織は官僚・旗本を除くと、後継者信忠を含めた統率力のある人材を新たにヘッドに据えて、地縁から切り離して再編成。登用特徴としては非門閥主義だけでなく、地縁からの切り離すということと、各方面の大将や旗本など横のツナガリが薄い印象。

■豊臣秀吉

一から家臣団を急成長するスピードにあわせてつくりあげる必要性から、能力の高い人材を取り込むも、織田の一地方軍から大将格となっても他勢力の比べ組織化が今一歩。多くの外様大名を従え、圧倒的な財力・軍事力を傘下に収めても、豊臣家臣団自体は個々の秀吉に対する忠誠心のみで組織が構成。家臣の横のツナガリが希薄というかもしくはムラがある印象。さらに秀吉本人も豊臣家臣団も「秀吉逝去後」についてのビジョンに乏しく、家康の台頭を許す。

■徳川家康 

今川家の重圧に耐えるという苦しみの共有から生まれる家康を中心とした結束と忠誠心が能力を育てた。地縁的にも三河武士を重用し敵対したものの、武田家の結束ロジックとの共通性・親和性が感じられる。後に武田遺臣を多く抱えるが、土木・潅漑・鉱山開発という技術力や高い戦闘力もさることながら、この結束ロジックプロセスの共通性もあるのでは。事実武田遺臣でも忠義に厚い将を評価している。秀吉との大きな相違はステージに応じ組織改革を行えた点。信長軍閥と外様大名を従えたのみで統治組織として未分離なままで全国統一した秀吉に対し、地方軍閥ながら統治組織への脱皮を果たし、さらにこれを次代に託さず、創業者カリスマがなくても機能する道筋をつけることを創業者自身がやり遂げる目処をつけた点が特筆。

■伊達政宗
信玄と同じく門閥に捕われず優秀な人材の抜擢しつつも、積極派の若手と慎重派の古参の合議体制を敷き、政宗だけのリーダーシップだけではない結束力が政宗初期段階から見られる。合議体制は信玄軍団同様だが、前代当主の流れを汲む古参と政宗と年代の近い積極派が合議を介して結合できている点が信玄とは違う特質。また家康と同じく、初期の戦闘性に向いた体制から、より合議体制の側面が強化された集団指導体制に伊達家臣団を変革していく点は、徳川家臣団との共通性が見られる。武田・徳川のそれぞれの強みをバランスよく配合し、しかも時流にあわせて組織を変化させる柔軟性。

論点としては、

①ヨコの結束力=
組織のヨコの結束力の如何で組織の継続性に影響。これを生み出すのは、ひとつは意思決定プロセスへの参画による一体感や体験の共有。ヨコの結束力がないとがタテ(当代主君と各家臣)のツナガリが切れた途端にと組織が崩壊する。

②人材登用=
一旦出自問わず能力で引き出してから、再編成するのは有力大名の共通項。武田・織田・豊臣は大将の目利きで個人個人を登用する一方、家康は武田遺臣をその家中の特質ごと取り込む集団登用が特異。やはり敵同士とはいえ、価値観の近しさがあったのだろうか?基本は能力を買うのが主流だが、君主自らの能力を伸ばすプロセスを経るのは信玄に特異かも?

③組織の成長ステージに応じた組織改革=

秀吉にできず、家康・政宗が成しえた君主がいないと崩壊しない集団指導体制への移行。逆に勝頼は信玄の合議体制を否定し、むしろ信長に近い中央集権化を求めるも、却って立場を苦しくした。諏訪家の事情など勝頼の言い分もあるだろうが、個人のリーダーシップが発揮される局面と合議を経るべき局面を見誤ったような所感。特筆すべきは家康の長い寿命。長い寿命は次代・次々代のレールまで敷いてしまう強さ。真田信之にも通じるか。

の3点。

①②③を満足するのは、勝ち残った徳川や伊達
なんだなということにも気付かされます。

伊達の古参と若手の合議体制なんて
すごくよくできたシステム。
これは大将たる政宗と古参の懐の広さが必須ですね。

武田でも、陣代として戦闘力の高い勝頼が
戦線をリードしつつ、信玄重臣と諏訪衆の合議も
維持しながら、納得感のある家中運営の可能性が
なかったのかなぁ・・・と想いを馳せてしまいます。

それにしても、奥近習「信玄塾」に入りたいですね・・
そして、「決まるまでは徹底議論、決まったら皆従う」
という戦略決定の納得感、一体感。

これって現代のビジネスにも通じると思うんですよね。
こういう職場で働けたら、シアワセだと思うのです・・・・・

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「甲陽軍鑑」を知る・・・②

さて、これほどまでに影響力を得るようになった
甲陽軍鑑がなぜ広まったのか、という話。

④『甲陽軍鑑』刊行と流布

【流布前夜】

小幡景憲が手に入れた原本を小幡自身が整理した本が
今日伝わる甲陽軍鑑の原点なのですが、
香坂の記した原本とともに火災で焼失・・・
でも、小幡自筆で書写し進呈しているみたいなんですね。

ここで言及されていたのは、最古の版である
毛利秀元に渡された写本や岡本本といわれる
井伊家家臣・岡本半助宣就に伝えられた本など。

毛利秀元が甲陽軍鑑を読んでいた・・・
と考えると感慨深いですね。どのような感慨を
もったのか、秀元本人に伺ったみたいものです。

岡本半助宣就は岡本家の記録と交換で、
甲陽軍鑑を手に入れたのだそう。
調べてみると、岡本宣就は武田遺臣のよう・・・
ということは山県昌景配下だったのでしょうか?

やはりその出自ゆえに甲陽軍鑑を求めたのか、
また交換で小幡が手に入れた岡本家の記録とは何か?
というのも非常に気になるところではあります。

①で言及した「本阿弥光悦行状記」のなかの、

これなど板におこして、廣く武士たる人に見せたき書なり。

とあることを考えても、当時はまだ版本にはならず、
書写本が流布するのみだったのでしょうな。

・・・ということで、江戸初期までは。
ごく限られたルートでしか広まっていなかったんですね。

【転機・無刊期十行本】

それが突然版本として元和から寛永にかけて刊行
されるのですが、これを「無刊期十行本」と呼びます。

無刊期とは刊行した期の記録が無いもの、ということ
十行本とは一頁十行書かれていたことを意味します。

これがけっこう曰くつきみたいで・・・
急いで刊行されたのか誤記・誤写がいい加減、
それなのに美しい装丁。

香坂弾正の間違いない口述筆記だと指摘された
先の酒井博士はその刊行された目的を謎とされていましたが、
群馬大学の高野修氏がその謎を解き明かされてるとのこと。

「玉露証話」巻十四に、稲垣摂津守という大名が
甲陽軍鑑を書写することを熱望し、
小姓にそれを写し取らせることを望み、小幡も同意の上
写し取ったそうですが、小姓がその後牢人して
勝手に刊行してしまったんですって!

後に小幡が気付いてお貸しした甲陽軍鑑が
広まっているようだが、
と稲垣摂津に問い合わせたそうな。稲垣摂津は小幡に詫び、
小姓は切腹、絶版とさせるといったそうですが、
小幡は世上にこれを普及させたい・・・
と思っていたところだからそのまま捨て置きください、
という経緯で世に広まったのだと・・ドラマだ。

稲垣摂津に仕えた小姓・・宇佐美勝興。
「翁物語後集」という景憲の弟子・小早川能久が
記した中に出てくるようで、宇佐美がこっそり自分用にも
書写しつつ、甲陽軍鑑を手直しし北条や上杉のことも
取り入れて改変した可能性があるみたい。

ただ学術的にその是非は検証されていないそうで
今後の研究が待たれるところではあります・・・

が、この宇佐美勝興、宇佐美定満の子孫と称し、
子の定祐が越後流軍学を創始するのですが、
「北越軍記」はホントに誤りが多いみたいで・・・
宇佐美家文書なるものもあるんですが、
虫食いを偽造したりしたりまでしているとか(汗)

そんな上杉の家臣の末裔を騙る宇佐美が
武田の軍記を出すことになるとはね・・
こんな曰くつきで。むむむ。

【とばっちりを食う三代目山本勘助】

甲陽軍鑑の「山本勘助」が確かに真下家所蔵文書
山本菅助と同一人物だという決め手になった興味深い史料。

近藤忠重なる水戸徳川家家臣が、三代目山本菅助に
水戸家への誘いをしている文書です。これがまた面白い!

というのも、藩主徳川頼房が甲陽軍鑑を読み、
ここに出てくる山本勘助なる人物に興味を持って、
子孫がいたなら召抱えたいといったそうで、
これを聞いた近藤が、三代目山本菅助に初代勘助の孫だろ、
水戸家に仕える気はないか?って言ってるんですね。

もちろん、頼房が甲陽軍鑑を読んでたというのも
興味深いのですが、それ以上になぜ近藤が三代目山本菅助を
知っていたのか?ということが気になります。

水戸徳川家の家臣団は、その7割が穴山梅雪の旧家臣。
穴山梅雪→穴山勝千代→武田万千代(信吉)【家康五男】
と続いているのだそう。

そして、2~3世代くらいの間は誰の子孫がどこにいたか?
を武田遺臣同士でネットワークがあったそうで、
仕官する際に助け合う相互扶助が行われていたそうで!

殿様が山本菅助に興味をもたれた…あ、甲斐で
孫が牢人してんじゃん!ってわかって、
誘いをもちかけたんですね。

これ、信玄公百回忌で集まるネットワークに通じるものが
あるよなぁ・・武田遺臣というつながりで相互扶助が
できちゃうなんて。ものすごい影響力ですよね。
武田ってなんなの・・信玄公って・・素敵過ぎますね。

で。

結局、三代目山本菅助は水戸家には仕えず仕舞いなんですが
どうもこれが甲陽軍鑑を勝手に刊行した宇佐美勝興と
関係があるみたいで。

同時期に宇佐美が水戸家にいたそうなんですが、
宇佐美の子孫ならウチで!とご本家上杉景勝が申し出てきた
のだそうですよ。そして景勝が調べさせたところ、
宇佐美駿河は子孫がいなかったはず・・との証言で、
真っ赤な嘘とバレてしまい、水戸家を出て行ったそう。

その影響を受けて、三代目菅助も沙汰止みになったのでは…
という推測もあるようですね。事実だとしたらホント
迷惑な話や・・・・(爆)

【甲陽軍鑑がつなぐ初代と四代】

さて、残念だった三代目のつぎ四代目の時代。
おもしろいことに小幡景憲が四代目山本菅助に甲州流兵法の
印可状を与えているんですね。

つまり、山本菅助家には兵法や縄張術は伝承されておらず
改めて小幡景憲から甲陽軍鑑から学んでいるという・・・
その後も四代目が景憲の病床を見舞っていたり、
深い交流があったようです。

⑤おわりに

甲陽軍鑑、まだまだいろいろな史料と照合・検証を
進めることで未知なことが含まれている可能性を感じますね。
わたしも新しい研究成果を絶えず学ばねば。

最後、平山先生が面白い話をされていました。
甲陽軍鑑で間違ってないこと。それは親族関係だと。
先ほどの思い出話で甲陽軍鑑ができている、
ということを重ね合わせると、さもありなん・・・
かもしれませんね。

噛めば噛むほどおもしろみが増す信玄公と家臣団、
そしてその欠片を宿す人々。もっともっと、
知りたいと思いました・・!!

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「甲陽軍鑑」を知る・・・①

さて、だいぶん経ってしまいましたが、
下諏訪の明治蔵美術館で開催されました甲陽軍鑑に
ついての平山優先生の講演についてです。

もう4月11日なんで4ヶ月も前というね・・・・
ホントなら仕事ほっぽり出して書きたいくらい。

150801_2019_001

下諏訪駅。上諏訪はよく行くほうなんですが、
下諏訪は初めて降りたかもしれません。
信玄公の甲冑のある下諏訪町博物館にも、
上諏訪から行ったもんなぁ・・・

駅前に温泉。あたたかーい・・というか熱い!
この日は少し冷えたのでありがたいのですが、
熱すぎてあまり手を漬けてれらず(汗)

P1080703

会場には武田菱がいっぱーい❖

P1080706

屋根にも❖

P1080708

これ、実は会場になっている武井医院さまの家紋、
丸に武田菱。この武井家も武田旧臣の家柄なんだそうです。

P1080708_2

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脇に回ると立派な薬医門。

P1080732

もちろんしっかり武田菱であります。

P1080734

P1080737

さて・・そんな武田ゆかりの会場で、
武田家の歴史研究といえば!で真っ先にお名前が
上がるであろう平山優先生の甲陽軍鑑のお話。
例によって、以下敬称略です。

①「甲陽軍鑑」とは

甲陽軍鑑とは、武田信玄、勝頼の二代の事跡や
信玄の言動、ものの考え方について、
重臣春日(香坂)弾正虎綱の口述を書きとめた
体裁でまとめられた書物です。

「甲」とは甲斐、「陽」は国、「軍」は戦、
「鑑」は物語を意味し、その名の通り、
甲斐国の戦についての物語、という意味になるそうです。

江戸時代は持て囃され、明治以降は貶められ、
そしてごく最近まで嘘ばかりと言われてきた
紆余曲折のある書物なんですよね。

本編20巻、全59本、末書2巻、計22巻で構成。
それぞれ巻末には著者が記してあり、
いくつかのパターンがあるのですが、
「天正三年乙亥六月吉日、高坂弾正記之」あるいは
これに類する記述がかなり多いことがわかります。

天正三年は1575年。ちょうど5月に長篠で
手痛い敗戦をしたばかりという時期に当たります。
ただすべてがこの時期というわけではなく、
ほとんどが天正三年~五年以降に記されています。

巻20と末書は天正12~15年に成立。
たとえば、巻20には

天正拾三年(1585年)乙酉三月三日
高坂弾正内春日惣次郎書之、
天正拾四年(1586年)丙戌五月吉日書之

とあり、香坂弾正の甥の春日惣次郎が
書き継いでいることがわかります。
初期の頃には宛名があり、長坂長閑、跡部大炊に
手渡していることも判っているとか。

・・・つまり、甲陽軍鑑のそもそもの成立は
香坂弾正が、先代信玄がどのように家中をまとめ、
家臣を登用した事跡をこと細かく記すことで
勝頼とその側近に対する諫言の書、歎異の書として
であったということなんですね(上野晴郎氏説)

ただ、巻20には次のような記述があって
筆者が代わっていることがわかります。

 其年(1578年)三月より、高坂弾正かくを煩、
 ぞんめいふぢやうなり、さるにつき、是より以後ハ
 弾正てゝかたのおひ春日宗次郎、是をかきつくなり

かくとは内臓の病(癌?)だそうで、意識がない状況
ということなんですね。亡くなるのはこの年の5月ですので、
少なくとも2ヶ月くらい意識もなく朦朧と
この世を彷徨っていたのでしょう。

さて、この春日惣次郎とはいかなる人物か。
そのためには、香坂弾正の生い立ちを探る必要があります。

【春日源五郎と春日惣次郎】

香坂弾正は百姓の出・・といわれますが、
石和の百姓・春日大隅の子・源五郎として生まれました。

実は生まれたときには、姉がすでに惣右衛門
という男に嫁いでおり、この婿養子に
財産を継がせることになってしまっていました。

若くして父・春日大隅が亡くなった後
姉夫婦は源五郎に冷たく、武田家に裁判を申し出ます。
結果、その裁判としては敗訴するのですが、
晴信がこの源五郎見所ありとして、近習に取り立てます。

当時、家中には相当やっかみがあったそうですが、
実績を積み重ねることで、晴信の目に狂いがないことを
実証しようと努力したそうな。

時は流れ、惣右衛門も姉も亡くなりその子(甥)の
惣次郎が継ぐことになりました。
その後、百姓経営失敗し無一文になった惣次郎を
虎綱は救い、自らの家来として引き取ったのだそうです。

その恩に報いるため、虎綱が残した甲陽軍鑑を
彼が書き継いで行ったのですね・・・

ちなみに、甲陽軍鑑には「高坂弾正」と出てきますが、
実際は、信濃の香坂氏の養子になっていて「香坂」が正解。
その後すぐに本人は香坂の名乗りを止めているのですが、
どうやら家中や諸国では「香坂弾正」と呼ばれていたとか。

御館の乱の際に、上杉景勝が勝頼に同盟を申し入れる際、
武田方で対応に当たったのは、典厩信豊と香坂弾正。
その上杉方からの書状に「高坂弾正」との記述。
現在残っている史料ではこれが唯一「高坂」の例。

さて、閑話休題。その後。どのように小幡景憲が
どのように甲陽軍鑑が手に入れたか、です。

【編者に渡るまで・・】

甲陽軍鑑のなかに、小幡景憲が手を加えていることが
記されています。主に分冊化したり、彼が手に入れた時点で
読めない部分を整理するなどしているようです。

つまり、彼が入手した時点ではかなり傷んでおり、
現在に伝わっていない内容もあるんですね。

書き継いだ春日惣次郎ですが、甲陽軍鑑本編跋文から
次のようなことが読み取れます。天正13年(1585年)。

この軍鑑を書き続けた者は、春日惣次郎という。
川中島海津城に在城した武田の皆は、武田滅亡後に
上杉景勝に召しだされたが、越中への援軍に参加しており、
景勝に召しだされる中から外れてしまい、
佐渡にわたって書き継ぎ、39歳の頃病に罹り翌年亡くなる。

しかし、一方で平山先生は、高坂弾正の子でそのまま
海津城主を務めた春日信達との関連を指摘されます。

すなわち、信達は一旦は上杉に抱えられますが、
北信を狙う北条に寝返ろうとしたことが露見して、
景勝に誅殺されてしまいます。その縁者である
惣次郎が上杉に仕官できなかったのではないか?というもの。

しかも、惣次郎がわたった佐渡は当時上杉領ではないそう。
上杉領になるのは1587年の直江兼続による仕置きを
待たねばならないのだそうですね。ふむふむ。

そして、惣次郎は死期を悟ったのか自ら、
三月に死ぬとの記述を残します。

この後ですが、甲陽軍鑑に家康が甲府にて、
勝頼の旧臣についてあーだこーだ批評してたり、
家康が武田以来の仕組みを上手く取り入れて、
甲斐を纏め上げた・・・とかって書いてある箇所。

この最後にこれらのことは、小幡下野、外記孫八郎、
西条治部の三人から聞いた、下野は以前山城(守)を
名乗っていたが、直江山城とかぶるので下野にしたとの由。
これが天正14年(1586年)です。

何らかの事情で、春日惣次郎の死後に佐渡に残された
甲陽軍鑑原本がこの三人の手に渡ったのではないか・・・
と平山先生は推測されています。

そうすると、編者である小幡景憲へ小幡下野(守光盛)から
どうわたったのか?が焦点になります。

小幡光盛についてですが、小幡虎盛の弟で海津城番、
武田滅亡後は森長可、本能寺の変後は上杉を頼るそうで、
上杉家の「御家中略系譜」に慶長元年(1597年)に死去。

一方の小幡景憲は、虎盛の孫に当たります。
(虎盛の子、昌盛の子)そして。修行のため文禄四年
(1595年)から諸国遍歴をしているそう・・・

そして光盛と景憲が出会うことができるのは、
光盛が亡くなるまでの1597年まで。この2年の間に、
何らかの事情で縁者同士である二人が海津城で出会い、
景憲に託されたのではないか、と推察できます。

なんというドラマティックな流れ・・・ホントに
奇跡と奇跡が重なってようやく小幡景憲に伝わったのですね。
そりゃ・・欠損部分もあるだろうなぁ・・・

②「甲陽軍鑑」の影響力 - 豊臣~江戸時代

近世初頭から高い影響力を持って、今日に至るまで
武田信玄像を伝えてきた甲陽軍鑑。佐渡で書き継がれ、
人から人へと渡っていた豊臣時代には、すでに
名将・武田信玄が人々の記憶から忘れられようとしていた、
という証言があります。

史料は「本阿弥光悦行状記」。本阿弥光悦というと
戦国に生まれ、江戸初期まで生きた著名な芸術家。
彼の残した記録の中に武田三代についての言及があります。

その内容については、武田滅亡の起因を信玄にあるという
点について個人的には承服しがたい内容なのですが、
長篠合戦以降の記述に興味深い点があります。

漸く信州河中島在城に高坂一人生残り、
諫言申上げるといへども、長坂跡部がさゝへにより
忠言も言上給はず。甚だ是を残念がり、弾正甲陽軍鑑と
いへる書をえらみ、死後勝頼公へ上よと遺言、
甚だ古代の物にて、俗書ながらあつぱれ忠義の武士なり。
まゝ武家方にて見申事也。これなど板におこして、
廣く武士たる人に見せたき書なり。
竝(ならびに)信玄公の御舎弟信繁公至ての賢者也。
惜しむらくは世人知事稀也。

武田家のことが忘れられていたというこの事態を
考えると仮に何らかの事情で、甲陽軍鑑が世に伝わらないと
武田信玄はじめ武田家のかなりのことが現代に伝わらないまま
周辺諸国の文献から辛うじてわかる程度に留まっていた、
ということも考えられるわけです・・・

その甲陽軍鑑。徳川家康生涯の危機のひとつである
三方ヶ原合戦を真正面から扱っているのに
発禁処分にもされていないし、絶版にもなっていない
江戸時代きってのベストセラーといっていいのでしょうね。
演劇や浮世絵にも強い影響も与えました。

武田二十四将図も甲陽軍鑑の影響を強いようで、
注文者が絵師に誰々を入れてくれという結果、
よくカウントされる武将が二十四将と言われるようになった
いわば、当時のAKB総選挙のようなもんですね(笑)

よく悪ふざけで「TKD24」なんて言ったりしますが、
あながち当たっていたのかもしれません(笑)

三方ヶ原の敗戦を真正面から描けているのも
興味深い事実で、小幡景憲が幕府に重用されていたこと、
石川数正が出奔した1585年以降、武田流に軍制改革を
していることも知られていますしね。

小牧長久手は1584年ですから、軍制改革の影響は不明。
その後は関が原まで大合戦はないですしね・・・

ただ、軍制改革時に信玄・勝頼が書き残した
軍法に関する内容を全部提出しろと遺臣に命じたほどですから
武田軍の強さを否定すると、徳川軍を否定しかねない・・・
ということもあったのかも知れませんね。
なかなか具体的なことが判らないのが歯がゆいですけど。

そして、近世軍学者の第一人者として、
この「甲陽軍鑑」によって地位を確立できた小幡景憲。
その権威を経て、今度は武田遺臣の末裔を救います。

武田ブランドはあったとしても、その末裔たる証明
活躍の証拠になる感状などの証文が必要ですが、
武田滅亡と以降の動乱で無くした末裔も多かったんですね。
小幡景憲自身も、祖父虎盛、父昌盛が信虎・信玄・勝頼から
拝領した膨大な文書を失ったと残しているそう。

そんな中、甲陽軍鑑のここにこう書いてあります
という指摘は、格好の父祖の戦功証明。
これがきっかけで牢人から仕官に結びついた例もあるみたい。

③「甲陽軍鑑」の影響力 - 明治以後

明治以降、近代歴史学で歴史認識が一変すると、
田中義成博士の「甲陽軍鑑考」にて、
その価値を完全否定されてしまいます・・・が、
実は長らくその「甲陽軍鑑考」自体の検証など
不可侵とされてきたようです。

平山先生の参考資料に添付頂いていたのですが、
驚くべき短さなんですよね。また主張の論拠や
検証プロセスもよくわかりませんが、権威というのは
恐ろしいものですね・・・・以後100年間、
甲陽軍鑑は偽書なり、と言われつづけて来たのです。

1967年に有馬成甫博士が「甲陽軍鑑論」、
翌年「甲陽軍鑑と甲州流兵法」にて初めて甲陽軍鑑の復権を
提示したのだそうですが、直後にお亡くなりになったそう…

続いて、酒井憲ニ博士が精力的に甲陽軍鑑の復権に
努力されたそうで、1977年に発表されて10年以上に
渡って論文を出し続けられ、94年に「甲陽軍鑑大成」として
その研究成果がまとめられました。

酒井博士のご専門は国文学。つまり、記述されている
ことばや仮名遣い(甲斐や信濃のことば)や文章の作られ方
(口述筆記)から、間違いなく江戸時代初期の人物が、
香坂弾正を騙って創作できるものではない、
という「科学的分析」をされたのですね・・・

特に香坂は百姓の出ですから、庶民が多用するスラングも多く
まさしく香坂の出自と矛盾しない文章だと。

しかしこれ、94年ですよ。わたし高校生。
つい最近のことじゃないですか・・・
甲陽軍鑑は偽書なりとする呪縛の強さはすごいですね・・・

2000年代になってさらに研究が進み、
わたしも江戸城講座で江戸城天守のお話を興味深く
拝聴した黒田日出男先生が今年興味深い本を出されています。

その名も『甲陽軍鑑』の史料論―武田信玄の国家構想』。
この中で黒田先生は、間違いが多いのも確かだけども、
それは武将ひとりひとりの回顧談であり、
思い出話であるからだというご指摘。

それをそのまま口述筆記でしている甲陽軍鑑には、
そりゃあ間違いは含まれるよね、と。

思い出話には美化や尾ひれは付きものですよね。
なぜ間違いがあるのか、それはどういう動機によるものか?
武将の心理にまで入っていく研究が必要なんですね。

甲陽軍鑑から、武田家の思想は十分に読み取れるわけです。
武田家の皆さまが、そして信玄その人が何を考え、
何を大事にしていたかが一番の関心なので・・・
この黒田先生の著書もぜひ読まないと思う次第です。

さて、ちょっと長くなりましたのでここいらで切りますか。
続いては、甲陽軍鑑の刊行の過程で突然流布するに至った謎と
山本菅助末裔との関係に迫ります!

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人神(ひとがみ)信仰の諸相と信玄公の祭祀。

時系列に前後してばっかりなんですが、4/4に
武田家旧温会総会出させて頂いた際
に、
成城大学民俗学研究所の及川祥平さんの講演を
聴くことができましたので、その内容と個人的な気付きを。

ちょうど博士号を取られたばかりということで、
お年もわたしの弟くらいの年で、わ、わかい・・・・!!
というのが最初の印象なのですが(笑)
民俗学の文脈であまり信玄公の話題が出る事例を知らず、
ものすごく興味を持って、拝聴できました。

及川さんのご関心は、民俗学の観点から
信玄公亡き後の後代の人々が「武田信玄」という人間を
どう捉え、信玄公の歴史にどのような価値を
見出してきたのか?ということだそう。むむ…興味ある!

そのフィールドワークの一環として、武田家および
武田家家臣の末裔がその出自に誇りを持って構成する
武田家旧温会がとても関心のある対象なのだそうですね。

以降、本blogの慣例に従い、学術的文脈での記事になるので、
歴史上の人物はすべて敬称略とさせていただきます。

■人神(ひとがみ)信仰とは?
なかなか聴きなれないことばですが、要は宗教的施設で
現実の人物を敬礼・崇拝の対象とする宗教的行為を
学術的に定義したことば。

けっこうアジア特有かな?という印象をもっていたのですが、
考えてみえば、カトリックの聖人崇拝なんかも確かにそう。
洋の東西(他アフリカなどでもあるらしい)に超えて
共通して見られる信仰のあり方のようですね。

お隣中国だと、三国志好きのわたしは真っ先に関羽信仰を
思い浮かべてしまいます。

■日本におけるパターン

人神信仰ですが、いくつかのパターンがあるとのご指摘。
怨霊は確かに代表格ですよね。

(1)怨霊信仰
 … 例:菅原道真、平将門、崇徳院、山家公頼

災いが発生し、その原因として不遇の死を遂げた
死者の怨霊を想定。その怨霊を鎮めることで
災いの鎮静化を狙う過程で発生する信仰。

災害を起こす力の大きさを、祭祀で転じて幸せを
もたらす力とできるという信仰ともセット。
 
(2)現世利益
 … 例:ねずみ小僧

怨霊信仰も「喉元過ぎれば熱さを忘れ」てしまうために、
特定の「ご利益」をセットに信仰を継続させようとする試み。

怨霊信仰をすっ飛ばし、最初から現世利益を希求して
神格化されるケースも。

(3)権威権力の演出
  … 例:楠木正成、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康

現世の高位の人物の非凡さを宗教上の高次な存在との
関連で説明すること。要はナントカの申し子とか
化身的な「現人神演出」ですな。

上杉謙信は言うに及ばずなんですが、武将よりも
高位の僧の誕生秘話によく見られるパターンなんですね。
(空海・親鸞の例がそうみたいです)

次のステップとして、その誕生秘話をモデルに自身が
優れた存在としての補完するストーリーとして作り出す・・・
という日輪受胎伝説(豊臣秀吉)や、仮託する
高位の存在が消え、権力者が自らが神そのものとなる
という、豊国大明神や東照大権現の例も。

(4)偉業・顕彰の手段
  … 例:武田信玄

基本は天皇中心に据える思想統制のなかで、
歴史人物の政治利用の一環で、天皇家に忠節を
誓った(とされる)人物を都合よく思想統制に
組み込んでいく・・というパターンが主流。

残念ながら、武田神社もこの流れと無縁とは言えませんが、
旧藩主・旧領主を祭る神社は、個人的にはちょっと明治政府の
思想統制とは離れて純粋に旧主を敬うという文脈のほうが
強いような気はしましたけれども。

武田神社がこの政府の思想統制の流れで捉えられうるのは、
明治天皇が信玄の敬神・崇仏の事跡に感銘し
保存金を出したこと(明治13年)
や民政の功績評価も
加わって、大正期に従三位が贈位されたという
天皇・政府との関連で武田神社創設に至るという
歴史的な経緯によるものでしょうね。

ただ、及川さんは少なくとも信玄に関しては、
突拍子もなく単純に民心掌握に信玄を利用したわけではなく
下地となった連綿と続く『信玄信仰』があった
と指摘されます。

■山梨県下の庶民伝説における「信玄公」

いろいろ個別の事例も興味深いのですが、以下の3パターンで
ご説明くださいました。

・奇跡を起す「信玄公」

割石峠八房梅の事例を出されていましたが、宗教的な高位の存在が信玄に置き換わる事例が
甲斐の伝説には多く見られるんだそうですね。

これをそれは信玄と関係ない!と言うのも野暮な話で、
確かに甲斐民衆の信玄の捉え方の一側面を
示すものであり、また、江戸時代以降も連綿と
信玄「信仰」が続いてきた傍証、
と見るほうが建設的だといえるでしょうね。

信玄が出家して(形式上は)権大僧正だったとはうえ、
高僧の位置が統治者に置き変わるというのは、興味深いです。
統治手段のひとつとして、宗教政策にも重点を
置いていた名残とも捉えられるかもしれないですね。

・木を植える「信玄公」

寺社の樹木の「お手植え率:の高い信玄ですが、
これも寺社がその歴史性や格式を説くための材料として、
信玄を持ち出している(事実はさておき)ということからも、
やはり、ある種の宗教的な存在としての
「武田信玄」像が浮かんできます。

ただ、奇跡にしてもお手植えにしても、なぜ宗教的な
位置づけを得るに至ったかについて、
詳しく知りたくなりました。今すぐ判るのかはさておき。

・信玄起源神話

歴史学的には関連のない俗説も多いが、とにかくなんでも
信玄に絡めたがる・・・のが甲斐国・山梨県の特徴
というのは、わたしですら感じるところ(笑)

ですが、関連を持ち出そうとする心性に注目したいですよね。
江戸時代の甲州三法(甲州枡・甲州金・大小切税法)を
定めたのが信玄であるというのも、史実かどうかというと…

ただ、廃止を目論む幕府に対して民衆の反論ロジックは

「信玄公が定めたものだから!!」

存続決定後に法要が盛大化するという現象が
文献史料から確認できるですってね!

宗教・文化専門紙「中外日報」に掲載されている
先ほどもリンクつけた及川さんの記事では、
「信玄公忌一国本願記録」と「甲斐国見聞日記」の例が
上がっていて、その「信玄信仰」の強さを肌身で
感じるとともに、武田牢人たちにとっての信玄、
というまた別の側面も見えるのです。

仕官叶わず、あるいは自ら進んで帰農してはいるけれど、
名字帯刀を認められ、武田家家臣の末裔たる由緒を
誇りにしていた武田牢人たちが、「信玄の法要に積極的に
関わることで末裔者たることを示し、また関わることを
名誉としていた」というくだりです。

何がそこまで、彼らに誇りを持たせるのか?
武田信玄にこれだけ関心を持ってきたわたしでさえ、
そう思わせられるほどの連綿たる敬愛の心。

先日、恵林寺蔵の武田信玄百回忌奉加帳の件で、
グダグダと書きましたが(苦笑)
これよく見ると、牢人していても金一封を献ずる
遺臣たちがいるんですよね・・・

150801_2022_0012

苦しいであろう家計から寄付をしたであろう
彼らの想いとどこかつながるものを感じてしまいます。

なぜ「武田信玄」はにここまで連綿と彼らの心の中に
生き続けられるのか?ということや、江戸時代の旧武田遺臣を
抱えた諸藩士・旗本で捉え方に相違・相似があったのか?
ということが今すごく関心の高いことなのもので、

新たに江戸時代の甲斐の農民(帰農層含む)の
信玄の捉え方についてのこの日のお話はすごくビビッドに
わたしに響いてきました。

いずれにしても、甲斐の歴史における「武田信玄」の
その圧倒的な存在感とその息の長さには、
舌を巻くしかありません。

■人神信仰の今日的課題

最後に、こんなことも。

人神信仰、その時代の思想状況や歴史認識を如実に反映し
いわゆる「都合よく利用されうる」ものであるというご指摘。

いわばそれは、その時代を代表するある種の価値観による
「善」の達成・遂行ために利用されるということであって、
天皇中心の政治思想だったり、軍国主義の礼賛だったり。
現代的な問題で言えば、経済主義や観光主義になるのでしょう。

思想や経済ではなく、郷土への愛情や矜持を
育む手段として生かしていけないか?ということを
今日的課題として挙げられていました。

ですが、わたしは山梨にも武田家にも、
本質的なゆかりがありませんが、ものすごく関心を
引かれ続けています。それは何か。

抽象的に言うと・・・人が結合力を発揮し、それが
何百年にもわたってその記憶が受け継がれている
仕組みとプロセス。そこをしっかり理解したい。

直接的に経緯がつながるわけではないですが、
子孫の皆様で構成される「武田家旧温会」のような組織体が
他ならぬ武田家だからこそ、成立するような気がして。

江戸時代の武田遺臣の話を知れば知るほど、
どうしても「武田家旧温会」につながってくる
ような・・・・気がするんですよね。

さて、通常モードに。改めて戦国当時についても
もっと知りたい気持ちはありますが、
「江戸時代の武田信玄」にまつわるエピソードも
もっとたくさん知って、自分なりに理解を整理できたら
と想うのでした。

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敗者の日本史「長篠合戦と武田勝頼」②長篠合戦をつぶさに観る

さて、長篠合戦に関してです。

■長篠合戦以前

信玄薨去直後は、家康の攻撃に防戦一方だった勝頼。
領地安堵の縺れから、奥平定能・信昌が離反したことを契機に
長篠城が陥落しますが、翌年から反撃に出ます。

大きな成果が、東美濃の攻略と高天神城の奪取。
高天神城はなぜ猛攻をかけて奪取したのか・・・
と思ってましたが、すでに信玄時代に
一度下っているのだそうですね。
信玄薨去の間に離反したのを再度制圧したにすぎない、と。

書中でも言及されていますが、信玄が落とせなかった
というのはどうも誤りのようです。

これらの戦果について、敵対する信長や謙信は
改めて勝頼侮りがたしの認識を持つとともに、
家中でも評判が上がったといいます。

一方、山縣や馬場など宿将は力攻めの勝頼に危惧を持つなど
評価が分かれていますね。この勝頼の力攻めの背景に
権力基盤の強化があったとすると、合議体制の信玄時代から
中央集権的に変化する端緒を宿将たちは感じていたかな。

これを織田徳川からの攻撃への反攻であり、
信玄の対外戦争を戒める内容と符合するか?というと
いささか違和感のあるのも事実ですね。

特に信長に対しては、勝頼を侮っていたのを
この一連の作戦で見方を変えて、勝頼侮りがたしと
見方を変えているわけですよね。

信玄薨去直後の家康の攻撃はあったにせよ、
戦力を温存し、状況を見定める
というのとはちょっと違う気も・・・

■長篠合戦評価の歴史と検証

意外と通説の歴史って浅いんだな・・・というのが、
大きな驚きでした。1938年の著作、さかのぼったとしても、
1903年の陸軍参謀本部編纂の「日本戦史・長篠役」だそう。

ここでは、武田軍の騎馬による戦闘方法の検証と
織田軍の鉄砲隊が行われていますが、いわゆる定説では
こう言われているが実は・・・式の説も実は違っていて、
という点がおもしろかったですね。

特に三千挺の鉄砲真偽と三段の意味。
三段の意味には開眼させられましたね!なるほど!

そして武田軍の騎馬対突撃作戦の真偽。
ずっと騎馬軍団は架空で軍馬は移動用と思ってましたが、
それはそれで違うという説が展開されています。

しっかりと史料を紐解きながら、武田軍
(だけでなく他国にも)騎馬隊が存在していて、
なおかつ鉄砲隊を突き崩す戦法として、定石だったとか・・・!!

史料を丹念に参照されているので、非常に
素直に頭に入ってきますね。また、軍鑑から読み取れる
武田軍の騎馬隊の戦法もよくわかります。

何より規律が整ってないと、機能しないだろうなと
感じられ、武田軍の規律の高さにも思いを馳せた次第。

直接関係はないのですが、永禄10年以前の武田軍は
軍装がまちまちで信玄が統一化を推し進めた
というのも興味深いです。無駄に武田=赤備えって
思っている人もいるからね・・・

しかも、騎馬鉄砲隊が武田軍に存在した可能性もあるそう。
伊達で有名な騎馬鉄砲に先駆けて武田にあったかも!
とか、ものすごく興味そそられますよね!

■長篠合戦を紐解く

長篠合戦はそもそも信玄薨去の後、
長篠城が徳川の手に落ち、徳川に離反した
奥平信昌が籠るその長篠城を奪回に向かったことが
起因しているということなんですよね。

ただその背景には、信玄の三回忌を済ませて即、
対外積極策に出、徳川の岡崎衆と浜松衆との間の
亀裂の目を察知し、これを好機と見て三河へ出陣。

当初岡崎城を攻める予定だったが、岡崎衆の謀反が
未然に露見したため、吉田城(豊橋市)攻略に切り替え。

家康の籠る吉田城を落とせなかった勝頼は
照準を長篠城に切り替えたわけですね・・・
その長篠城の攻略途中に織田軍が来襲するわけです。

つまり、長篠合戦は勝頼が起こしているということ、
また徳川軍のみを照準とし、織田軍の後援は
想定されていなかったようなんですね。

勝頼の兵力は、1万5千。信玄の西上作戦が
2万5千くらいの兵力を率いていますので、
徳川を単独で討つならまだしも・・・
織田軍が、しかも信長本人が来ていたとしたら、
決定的に兵力が足らないのことは自明ですね。

信玄の三回忌までも、防戦というにはちょっと?
という気もしますが、三回忌が終わった途端のハナシ。

一応、信玄の命には従ってはいるものの、
とにかく性急に三河・遠江を制圧したい、
徳川を席巻したいとものすごく前のめりすぎる感じが
なんだか不自然なんですよね・・・・

これも勝頼の権力基盤の脆弱さから説明がつくのかも、
ですが、軍を頻繁に引き連れまわしてるのは、
やっぱり、すごく無理をしている感じがするんです・・

しかも、信玄の西上作戦は外交戦で信長の動きを
広範囲にわたって封じ、信玄に割ける織田兵を
最小限にする工夫がされていますが、
この時には、すでに浅井朝倉はなく相当数の兵を
武田に当たらせる環境にあったわけですね。
畿内に向けた軍も早々に引き上げる段取りをしている信長。

そもそも、家康と当たる際に織田方の動向には
配らないといけないわけですが・・・甘い。甘すぎる。

信玄在世中でも、信長と本気で一大決戦をするのは
一か八かの大勝負だったわけですからね・・・
そして、織田軍の援軍しかも、信長本人が出陣との報。

そこで有名な決戦か撤退かの激論ですよね。
撤退せずとも、馬場美濃が長篠城を力攻めにして
籠城するなど別案を出すも拒否。あくまで決戦。

議論はあれど、決断するのは勝頼。
この決断はやはり謎のまま。

平山先生が推論されているのは・・残された書状から。
今福長閑斎宛の書状や側室と思われる女性への書状から、
やはり、勝頼が織田徳川の動きを捉えられておらず、
また完全に信長を見くびっている・・と記されています。

これは、安土の展示で観た史料でわたしも感じたことで、
兵力が劣っていて、なおかつ正しく状況が理解できていなくて
さらに相手を舐めて掛かっている・・・
負ける要素しかないですよね。

ここに前記事で言及した勝頼の生い立ちと
武田家における位置づけを重ね合わせると・・・・
はっきりはわからず推測の域は出ませんが、
勝頼の責は重いといわざるを得ないでしょうね・・・

あの安土で見た勝頼観がもっと肉付けされて
形成されたような・・そんな感覚です。
決して凡将ではない。ただ父を超えて強くなろうと
したことが、視野を狭めてしまったのでしょうかね。

なんだか、悲しいというか侘しい気持ちになりました。

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敗者の日本史「長篠合戦と武田勝頼」①勝頼の人物評

普段、忙しさにかまけてなかなか本を読めず、
買っても積読が多い有様・・・

以前から武田勝頼という人物も知らないと、
武田信玄その人をよく知ることはできないなと思っていて、
やはり武田家の最期をきっちり知っておきたい
という気持ちもあるので、
コチラの本を手にとってみました。

結論として、わたしが抱いていた勝頼像に近い実像が、
史料から推論できるんだなという印象です。

以下、わたしなりに読後感をまとめてみたいと思います。
歴史上の人物を客観的に扱いたいことから、
以下、敬称略で書き進めてまいります。

平山先生がご指摘のように、結果論として長篠敗戦から
勝頼を評価するのではなく、彼の生い立ちと
家督継承までの流れから捉えていくべきというのは、
至極全うな議論だと思います。

■信玄の後継者指名とその問題点

やはり、勝頼は本来的には武田家を継ぐ人間ではなかった。
だからこそ、信玄も苦慮したのだろうなと
漠然と思っていました。ただ本書で新たに加味すると、
その苦慮がはっきりとしたような気がしました。

というのも、義信存命中の勝頼の位置づけと
武田家継承までのくだり勝頼の扱いが解説されてあってですね。

1567年(永禄10年) 義信自害
1569年(永禄12年) 勝頼、駿河侵攻作戦・対北條戦従軍
1570年(元亀元年) 信玄、将軍義昭に勝頼への官位任官要請
1571年(元亀二年) 勝頼、信玄の命で高遠から甲府へ帰還
1573年(元亀四年) 信玄薨去

実に義信が自害してから、信玄薨去まで6年しかなく、
その間に慌てて信玄が後継者として勝頼を
仕立てようとしてるな・・・という印象を強くしました。

義信存命時は、伊那郡代・高遠城主であるとともに
出陣時は頻繁に甲府留守居を申し付けられるなど、
戦術に長けた勝頼にはちょっとおもしろくなかったかも?

・・・ですが、すでに他の一門衆から抜きん出て、
(「諏訪」勝頼であるにも関わらず)信玄・義信に次ぐ
地位であるのは、興味深いですね。

そして、永禄12年以降、駿河攻略作戦に従軍するわけですが、
非常に信玄の覚えめでたく、駿河蒲原城の攻略時に、
一門にも家臣(真田信綱)にも言及していないのに、
他国宛の書状で、勝頼の武勇を宣伝しているんですね・・・

しかも、この武勇はいつものことであるとともに、
信玄が非常に自慢げに語っているという文脈。

元亀元年には、勝頼に官位と一字拝領を求めるものの、
うまくいかず、信玄もあまり拘泥することなく流れてしまう。
翌年、いよいよ甲府に呼び寄せるわけですが・・・

このドタバタ感、少なくとも義信存命中に勝頼を据える
意思はなかったのかなということと、勝頼の位置づけの考え方
信玄自身もあまり考えがまとまっていなくて、
「走りながら考える」印象が強いですね。

義信に対しては、ものすごく教育を施して帝王学を
学ばせていた一方で、勝頼には諏訪と武田の橋渡し役として
生まれながら期待されていたわけであって・・・

しかも、今が一番大事というときですから、
ジックリ大将としての心構えを説いている場合でもない。

この微妙さ加減は武田家中にも伝わっていたんでしょう。
やっぱり諏訪の出である勝頼が後継になっていく・・・
なかでの家中の違和感。

それが、後の勝頼と信玄旧臣との軋轢にもつながるはずで、
何より、人で持つ武田にとって、一番マズイ・・・・
信玄自身がそれを感じ取っていたはず。

そう考えると、

・武王丸(後の信勝)が成人したら速やかに家督を譲る
・勝頼に孫子旗など武田家当主を象徴する軍旗の使用を禁ずる
・「大」(諏訪大明神の「大」を意味する)の軍旗は可
・諏訪法性兜の着用も可

との甲陽軍鑑における信玄の遺言が、難題に直面した
信玄の精一杯の打開策として、読み取れるんですよね。
うまく話の辻褄が合って、わぉーという感じです。

勝頼の改名に信玄がこだわらなかったこととも符合しますし、
最初は勝頼を武田家の嫡子として
扱うつもりだったかもですが、嫡孫武王丸を擁立する意図に
途中から変わったのかも知れません。

いずれにしても、あくまでも諏訪家としての扱い。
「大」の旗や諏訪法性兜にしても、
諏訪絡みだから認められているというわけで。

これについて、信玄自身が勝頼が陣代に過ぎないという意識を
決定的にしてしまったと捉えることもできはするのですが、
それが勝頼にとって、望まざることだったに違いない。

勝頼を持ち上げるあまり、信玄の後継政策が拙いと
評されることもありますが、信玄にとって
義信の異常なまでの(当時としては)妻の実家への
コダワリには、理解を超えるものだったというのは、
容易に想像できます。

事実、弘治元年(1555年)付けの信玄書状で、
義信は今川家を重んじるあまり、父子の関係を忘れ
困惑しているという記述があるそうです。

困惑・・・元の表現までは分かりませんが、
この困惑という表現こそ、信玄の心中を
よく表していると思います。

義信の死去に際しては、自害か信玄が切腹を命じたか
は分かっていないことになっていますが、
状況から考えるに、最後まで義信が心を入れ替えることを
信玄は望んでいたと想像します。

だからこそ、勝頼に対して後継として育てる時間がなかった。
さっさと義信を見限っていればとも思いますが、
それができない信玄もまたわたしにとっては魅力的です。

・義信に最後まで賭けていたが、自害されてしまい
 急遽、後継者を考え直さざるを得なくなった
・次男信親、三男・信之は夭折のため、
 四男・勝頼にせざるを得ない
・諏訪家との関係と家中の結束を維持する観点から
 勝頼は陣代として後を継がせ、後見人として影響力を持たせ
 信勝を当主とすることで後継問題と諏訪家の問題を一挙解決
・幸い、勝頼は武勇に優れた後見には申し分ない(はず)

というのが、信玄の考え方でしょうか。
しかし、不幸なことにそうならなかった。

もし軍鑑の書いている通り、これが病床での遺言だとすると、
もっと早く伝えるべきだった、もっと重臣たちと
協議してわだかまりないようにしておくべきだった。
信玄の失策はそこに尽きるように思います。

■権力志向の違い … 信玄 vs 勝頼

ただ勝頼としては、承服しがたいことだったのでしょう。
俺が当主だという気概に溢れていたのではないでしょうか。

信玄の遺言として、死の三年間の秘匿と守備に徹せよ、
とのメッセージがクローズアップされがちですが、
実は信玄の西上作戦の延長線上にあって信玄死後三年間は、
積極的な対外侵攻というより、織田徳川への反撃と
捉えられる動きをしているようですね。
そこは追って感想を書くとして・・・・

むしろ、あくまで諏訪家出身の立場として、当主代理である
という自覚を持てという信玄のメッセージのほうは、
全く聞き入られることはなかったように思います。

甲斐二宮美和神社に収められた勝頼願文の紹介もありましたが
勝利を重ね武名を天下に轟かせる…など、主体的な意思に
満ち溢れていますよね。

甲陽軍鑑に記されている家を滅ぼす大将の例として、
「強すぎたる大将」が挙げられていて、これが勝頼とされています。

曰く、主体的で強い信念があって機転も利き、
ハキハキしゃべり、知恵者。だから慎重論を遠ざける嫌い。
勇敢な意見ばかりが取り上げられ、また意見を言いにくい空気が形成。
反論しても論破されるので、ますます意見が言いにくい・・・

そして、死なずともよいところで強いものから死んでいき、
国力が疲弊し、ついには家を滅ぼすことになる・・・
ものすごく主体的に当主たる気概があったんでしょうね。

つまりは、部下の特徴を理解し、また議論をさせることを
軍団の底上げを図ることも重視した信玄に対し、
自ら得意とする武勇でその当主の風格を示さんとする
軍事的な中央集権化を目指したのかもしれません。

それは当然、旧来の重臣との軋轢を生むことになるし、
媚びた一派ができることも不思議ではない。
だからこそ、あの内藤昌秀の起請文が意味を持つわけで・・・

その意味では、義信も勝頼も自分の立場は置いておいて、
武田家としてどうあるべきかを考えられていれば、
少しは未来が変わったかもしれないな、と思うわけですよ。

そして、組織論としての関心が武田信玄という人物への
関心の発端であったことを考えると、武田勝頼とは、
やはり距離を置かざるを得ない、
という感覚を新たにしました。

ということで、長篠合戦編へ・・・

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