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去年の今頃はシリーズ(6) 名古屋城現場見学会2016

さて、ちょっと変わって名古屋城。ちょうど年明けすぐに、
名古屋城の見学会募集をやっていたので、参加してきました。
併せて、タウンミーティングもあったんですけども・・・

2017年になって今のゴタゴタ具合を考えると、
どれだけ汲んでもらえているのか?ということを考えると、
正直やって尾張・・・じゃない終わり、という感じは拭えません。

ということで、タウンミーティングは割愛して、前日の見学会を
記録に残しておこうかと思います。

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◆天守の現状◆

ポイントとして、56年経って老朽化した部分として、
挙げられるのは・・・

電気設備など
コンクリートそのもの(後40年)
被熱した石の脆弱化
石垣の孕み
天守の耐震性能

ということ。石垣に関しては、ケーソン基礎4本が別にあるため、
石垣そのものの保護とは別に天守は考えてよさそうということですが、
やはり、コンクリートの劣化とそれに起因する耐震性能。

ここでちょっと調べてみたのですが、コンクリートの劣化、
と一口に言ってみても、それがどうして起こるのか?ということ。
この現場見学会前の解説では、中性化と言われていました。

鉄筋コンクリートは、コンクリートは実はアルカリ性で、
セメントに含まれる水酸化カルシウムが高いアルカリ状態に保ち、
内部の鉄筋に不導体被膜という薄い酸化化合物の皮膜を
つくらせるのだそう。これで、酸化つまり錆を防止しているわけ。

ところが、空気中の二酸化炭素に反応して
炭酸カルシウムになってしまうことで、PHが中性に傾き、
防錆効果が無くなってしまう・・・というのが、「劣化」なんですな。
(参考:テクノクリート施工研究会Web

あと40年は持つだろうということでしたが、
名古屋城の現天守の非破壊再生は不可能なくらいに
進んでいるのでしょうか?改めてメモを振り返っていて、
その点、気になるところです。

あと気になった点と言えば、DVD上映では、
史実に忠実な再建が可能な、「唯一」のという表現が。
まぁ、名古屋城に適う天守は他にはないのだけども、実際。

また改めて振り返っておきたい文化庁の見解。
地元の自治体がどのような整備をするのかを決めるのが第一、
復元する場合は、材料等は同時代のものを使うなどが原則。
ただし、それ以外の可能性を排除するものではない、と。

名古屋城の場合は、史料が豊富なため、史実に忠実な
再建を目指すべきという見解が復元検討委員会で
総意となる可能性が極めて高い、とも。

ここで読み取れるのは、

・文化庁は復元に当たってイニシアチブは取らない
・原則は木造再建、ただし価値が認められる場合はその他の選択肢も
・木造再建以外の可能性を最初から排除はしない

ということ。何度か書いていますが、この文化庁が
イニチアチブを取らないという点は、非常に引っかかる点なのです。
この点については、後述。

ちなみに、インターネットで募集した意見(H25年)では、
500人の公募による名古屋市民の意見。

70%以上が現状維持、つまり現天守の維持を求める
意見が多かったとのこと。これはこれで意見として、
受け止めるべきでしょうが、

・文化庁の許可がないと、RC天守再建は不可
・解体せずに現RC天守を存続できる方法があるのか?

について、どれだけ理解されてるのでしょうかね?
当時から4年経ったわけですが、このアンケートに対して、
ちゃんと上記のフィードバックを名古屋市は市民にしたのでしょうか?
市議会でのどんな議論もあまり詳しくは説明されず・・・

40年もつといわれる現天守の耐震補強ですが、
そもそもどういう仕組みで補強するのか?
それによって、40年後はどうするのか?という点について、
議論が進んでいるとはいえず、結局市のごり押しが目立つだけ
といわざるを得ない、というのが改めて振り返った感想。

耐震補強後、40年後に木造建て替えよりも、
今やるべきだという調査結果ももっと議論されるべきだと思うんですが…

耐震改修しても40年程度はもつらしいけど、
それって問題の先送りでしかないんですよね。
木造再建を諦めるなら、名古屋城天守はいつなくなっても
もう諦めるくらいの覚悟を持ってるんでしょうか??

以前より、城郭建築の再建が日本各地で起こっていることにつき、
各地がバラバラに再建運動を進める危険性を考えています。

つまり、単独でみれば数百億単位の財源があれば
再建可能ではあるものの、江戸城、名古屋城、小田原城はじめ、
図面や雛形など再建に足る史料が揃っている天守が
同時に再建が進むと、大径木の材が不足するのではないか?

そもそも、長い年月を経た大径木の材は数が限られ、
また当然ながら百年程度では、材はそこまで成長しません。
このジレンマをどう解決するか?は、中央の所轄官庁である
文化庁がイニシアチブを取るべきではないかと思うのです。

もう少し強い調子で言うならば、名古屋市民の判断だけで、
名古屋城の再建にGoを出していいのか、ということ。
それは、他の天守やその他歴史的建造物の木造再建を
妨げるかもしれないわけです。

わたしが最後に質問をさせていただきましたが、
他城でも再建計画が持ち上がっているが、
材料調達可能か?という質問に対し、40年先ではなく、
今やるべきだというのは、まさに今材料を確保しないと
材がなくなってしまうという、いわば早い者勝ちだということ。
極論すると、こういった材の先物取引も起こりかねないのでは…

外国材にするか、あるいはヒノキから材を変更するか?
という検討も他城郭と連係して考えるべきだろうと思うのです…

今やるべきでないだろう、まずが櫓からだ、
大手馬出の復元からだという意見もありますが、
やはり、早い者勝ちの材のために、天守からやるべき
というようにも聞こえました。

かえすがえすも、議論が深まっていない1年だったと思うと
残念でならないですね・・・・

◆現地見学・天守編◆

さ、気を取り直して、現地見学。
そういえば、あまり気にしてこなかったこの部分。

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これ、明かり取りなんですね。明かり取りというと、
江戸城寛永度天守にも、同様の部分が描かれていますが、
これくらいのビッグな天守になると、必要になってくるみたいで。

てっきり、江戸城天守がその戦闘性を失っていく中での
明かり取りなのかと思っていたのですが、ぜんぜん戦う気の
名古屋城であっても、明かり取りは必要なんだと。
明かり取りとはいえ、狭間としてつかえるもんねぇ。

天守台北側。ここの部分ってちょうど熱田台地の北端で
その先にある御深井丸は沼地だったんですって。
ということで、どうも北側の地盤が緩みがち…てことで、
宝暦年間に修理されてるんだけど、また石垣が孕んでる。

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そういえば、宝暦修理の際も石垣が落ち込み、
天守がこちら側に傾いてたわけで…
天守再建するにもこの石垣を積み直すのかどうか、
後記にも影響あって、議論の分かれるところかも。

ただ、ケーソン基礎があるとはいえ、石垣のためには
(全荷重を掛けるべきではないにせよ)天守の荷重
をある程度かけた方がいいんですよね。本来。

そんな崩れやすいからかどうか・・・天守台北側には、
この孕んだ石垣には危機を察知するある仕組みがあるとか!

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正解はこれ!瓶が石垣の間に挟まってます!

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割れやすい瓶を挟んでおくことで、わずかな石垣の動きを
察知しようとする仕組みなんだそうです。
アナログですが、効果ありそうですね。

ひとつじゃなく、いくつかありました。

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手前の樋の上部がかつては企画されていた天守入口跡。

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わかります?拡大してみると・・・
そういやちょっと石垣の積み方が違うような・・・??

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名古屋城は築城過程で縄張図がけっこう変わるのですが、
初期の縄張図には、空堀内に櫓を建てて、
そこから大天守内に入るプラン
だったことがわかります。

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さて、大天守台と小天守台をつなぐ橋台。
ここに汚れたようにみえる茶色の部分は、
焼夷弾(ナパーム弾)の跡ではないかといわれてるそう。

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小天守があるあたり。鵜の首からみた感じ。
どうもこのあたり、濃尾地震で石垣が崩れていて、
その際に積み直しをした跡。

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一方で大天守は濃尾地震で崩れていない・・・
ということを考えると、やはり上から(ある程度の)重石が
あったほうが、耐震には有利に働くのだなと感じますね。

本丸枡形の鏡石。大きな石の回りに小さい石を
並べるのを「笑い積み」というそうだが・・

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・・・ということで、天守はここまで。
続いて、御殿編。割と行かないことが多いんですが(汗)
今回はジックリと見学。

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奥が公開されたばかり?ということで、
新たに公開された部分と車寄部分とで
杮葺の屋根の色が違いますな。

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そういや、名古屋城の本丸御殿、奥がないんですって。
というのも、名古屋城ができて、すぐ大坂の陣に出陣、
そして勝った・・・ということで、将軍の上洛殿に
なってしまったので奥がないと。

まぁ、ずっと本丸そのものは尾張藩主は普段使わず、
わずかな藩主の見回りのときくらいにしか、
入らなかったといいますからね・・・

車寄からすぐの天井。そういえばここが一番略式・・・
すぐ格天井のほうに目が行くけども、天井にも格の差が
あると思うと、ここも興味深く見えますな。

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釘隠しマニア(笑)としては、かならず撮りますね。

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どうしても御殿のほうは、こう・・・
美術品鑑賞の感覚になりますね。

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そういや、柱が四角いのが当たり前に思えますが、
襖で部屋を仕切るようになってはじめて、
柱が四角くなるんですってね。

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そういや室町~戦国あたりの屋敷って、仕切られてなくて
円かった気がしないでもない・・・

名古屋城本丸御殿の復元で、けっこうポイント高いのは
襖絵がわからないところは、無理に描かないという点。

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一面、ただの金箔押というところも。

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むしろここまで来ると清清しいですが、
わからないものは勝手な想定で復元しないという
意思の表れと思え、好感持てますね。

上段の間。松の木がバックにあるところは、
江戸城、二条城と共通。ってことは、やはり将軍の居所
ということなんでしょうかねぇ。

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帳台構や違い棚も瓜二つ。やっぱし二条城が
ベースなんだろうなぁ。

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格天井からの折上格天井。天井にも格式が、
のわかりやすいところ。折上格天井は上段の間。
・・・ちなみに、江戸城には二重折上格天井がありました。

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ということで、わりとさっくりと御殿見学終了。
退出する頃には日も落ちかかり。

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昨年夏にもう対面所の公開されてるんですよね~
まだ行ってないけども(笑)このときはまだ1月だから・・・

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個人的に好きな西南隅櫓。なかなか公開しないんだよな…
ものすごく天守的な要素があって、興味深いのです。

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割と公開されてる東南隅櫓。御殿が完全公開になったら
ここからの天守+御殿の眺めはすばらしいだろうねぇ。

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夕陽を浴びる大天守が素敵。

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名古屋城正門前の門松。これ何気ないように見えて、
名古屋城の記録「金城温古録」を参考に
作られた名古屋城式門松だとさ!細かい!

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・・・また今年も、何かイベントありますかね?
耐震不安から入城を控えさせるような話もあったりと、
なんだかいいように向かってはいないようにも・・・

名古屋城大天守は、史料が最も豊富で
最も史実に近づける天守。
だからこそ、皆に歓迎されて木造再建ができるように、
機運を醸成する丁寧な運営手腕が求められると思うのです。

誰かのごり押しで精巧で忠実な天守が建っても、
そのごり押しが歴史にちゃんと残るのです。
せっかくすばらしい天守に、そんな汚点を残してどうするのか。
天守が再建と成るプロセスもまた歴史なのですよ?

名古屋市民でなくとも、その価値に深く感じ入る
城好きとして、いいように向かうことを祈念するばかりです。

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去年の今頃はシリーズ(5) 西宮鷲林寺・信玄公墓

さて、その勢いで神戸まで。串カツ日光なるお店を
見つけたらそりゃ行きたくなりますわな(笑)

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日光が神戸串カツ日光でチーズミルフィーユカツ。
串カツ屋さんらしい。安くて美味い。アリアリ。

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さて、目的は・・・鷲林寺。絶対うそやん!と思うのですが、
「信玄公墓」なる石塔があるということで・・・
西宮駅から阪神バス乗車、「鷲林寺」下車 徒歩20分という、
わりと行くのに面倒なところなのですが(笑)

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割と山手で山城でもありそうなところをずんずんと進んでいくと。

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小さなお堂。往時は伽藍があったようですが、
織田の兵火で焼失して以降、再建されることなく
長く放置され、最近になって再興され始めたとか・・・

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そしてその向かって右手に石塔群。

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ひときわ目立つ七重石塔が信玄公墓・・?

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どうも創建年代は鎌倉時代に比定されているらしく、
その点からも信玄公の生きた時代との関連は考えにくいですね。

鷲林寺は淳和天皇の天長10(833)年、
弘法大師が開基の寺。荒木村重の叛乱とその討伐に
来襲した織田軍の兵火で本尊などを除き、伽藍など焼失。
・・・ということも、あまり武田との関連を考えにくい。

しかし、地元には、

鷲林寺近くに住む人の話によると、七重塔の下には信玄の遺髪や爪が納められていると子どもの頃に祖父から聞いていたそうです。その大昔からの言い伝えが現在まで伝わり「武田信玄の墓」と言われている

という伝承が残されているらしく、また鷲林寺にある
お墓には、花菱紋のお家や武田姓の方までいらっしゃいました。

住職のお作りになっているWebの解説によると、

当山麓の鷲林寺村には甲斐姓が多い。これについて、戦国時代、信玄公の末もしくは家来が当地に逃げ延びて寺の周りに集落を構えた。そして鷲林寺境内にあった七重石塔を信玄公墓として崇拝したという説。

というものがあるそうなのですね。得度をこの寺で得た・・・
というのはさすがにないでしょうけど、尼崎の善念寺のように、
武田勝親が逃れてきた
ような話もあるわけです。

東にだけでなく、西のほうにも遺臣が逃れてきて、
この一体に集落を構え、精神的支柱として元ある石塔を
信玄公墓として、祈りをささげた・・・とは理解のできる話。

いずれにしても、西宮で『信玄公』なる敬称が
見られるのは興味深いと思うんですよね。うん。

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さて、お寺さんのお参りもせねば。
かわゆすぎる「ようおまいり」。

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現拝殿は昭和5年落慶とのこと。わりと最近ってホント。

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「鷲」林寺だけに・・・??

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この塔は立派だーすごいな!
ちょっと小さなお寺には、違和感のあるくらい。

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このお不動さん、織田の兵火から逃れた像なのかな。
どうだろうか・・・・にしても、不動明王が安置されてるだけで、
どうしても武田的な何かを連想したくなる(笑)

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ということで、まぁわざわざなかなか行かんだろう、
という武田史跡のご紹介でした(笑)

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去年の今頃はシリーズ(4) 徳川家霊台・奥の院信玄公・勝頼公・馬場美濃守供養塔

さて、徳川家霊台にも。てか、高野山にあるんだ、
というくらいのうっすい印象でごめんなさい・・・

入ってすぐ枡形虎口でびっくり。そいや、日光東照宮や、
久能山東照宮でもこういう枡形の部分があったかなぁ・・・・

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家康廟。瑞鳳殿や大鋒寺の信之廟に割りと近い、
江戸時代初期の霊廟建築の標準的なスタイルに思えます。

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色は褪せるがままの状態というのも廟としては
けっこう珍しかったりしませんかね。

葵紋も初期の葉の茎が長いタイプ。
高野山ですから、一度も焼失することなく、
また部材が交換されることもなく、ずっとあるのでしょう。

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隣は秀忠廟。江戸は空襲で焼失したし、
日光には家光つくってくれないし(笑)・・・
何気に貴重かも秀忠廟。

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戻り道で差し掛かって、「井」の字を発見。
井伊家縁なのでしょうね、福智院。

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そして、お昼。あんまり実は食べるところがないんだな、
と知ったわけですが、こんな暖簾見ると、
入らないといけないですよね?ね?ね?

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が、天皇陛下がご参詣される際にお食事を供される
ほどの高級店でびっくり!バッテラでやっとでした・・・
おいしいですけどね!武田菱ありますけどね(違)

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さて、奥の院までの道。いろんな歴史上有名な武将たち、
江戸時代の藩主などの墓が立ち並びます。

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立花宗茂供養塔。 形式は先の真田信幸と同じですね。

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拡大。割と読みやすい宗茂さんです。

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筑之後州柳川城主前飛州太守
従四位源宗茂公追□也
奉爲大圓院殿松隠宗茂大居士
成三菩提也
嗣子立花左近将監従四位下
源忠茂朝臣建立之

だいたい文言はみな共通の形式をとるもんなんでしょうね。
しかし、このペースで見ていると、いつまで経っても
先に進めないではないかぁ!ということでペースアップ。

最上家親供養塔。最上氏は彼だけだったような。
やはり大名格でないと、供養塔建立は難しいのか・・・

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家信造立之、とあって家信って誰よ?と思ったら、
義俊の初名が家信だったそうで。「家」を避けたのかなぁ。

島津家供養塔。このあたりは江戸時代半ばから幕末あたり。

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島津重年。「薩隅日三國主兼領琉球國」にビビる。
「領琉球國」って堂々と書いちゃうんだと・・・

Cbecmyhviaagkik

小田原北條氏。どれどれ・・・

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弘化というと幕末の元号。ということはこれは、
大阪狭山の狭山北條氏・・・
河州狭山舘北條相模守氏久 爲父氏喬建立之とあります。

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拡大。

Cbeianusaeydvy

しかし、氏喬は最終的には遠江守になっていて、
氏喬も、これを建てた氏久も最初の任官が相模守、
ということになにやら感慨深く思ったりするわけです。

そして、狭山北條氏とは書かず、あくまで小田原北條氏。
「小田原」北條氏と敢えて書いた意図はわかりませんけども、
プライドみたいなものを感じたりしますよね。勝手ですけど。

そして・・・久方ぶりの、わが御屋形様と勝頼公。
まずは御屋形様。恵林寺殿俗名武田信玄とハッキリ読めます。

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天正元癸酉年四月十二日逝去
天正乙亥年三月六日建立

とあります。

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乙亥年とは天正三年、長篠合戦の直前ということになりますが、
実は、これ成慶院の『武田家過去帳』における建立日が合致。
この日、『武田家過去帳』によれば、山縣昌景が高野山を
訪れていることがわかっているんですよね!
まさしく当時に建てられた供養塔なんでしょうね・・・

さらに、高野山にも分骨されているということから考えると、
実際に、この供養塔に御骨が埋葬されていて、
いわゆる墓といってもいいのかもしれませんね・・・・

そして、妙心寺供養塔と同様、天正元年四月十二日であり
ここでも「未来年号」がつかわれている点にも注目。

続いて勝頼公。こちらも俗名勝頼、
法泉院殿、としっかり判読することが可能。

P1170785

残念ながら、建立日と没年の確認は失念・・・・
妙心寺の首塚から分骨されたりしているのか、
そもそも建立の経緯は・・というのも気になります。

ま、このときは御屋形様のことが知れたことで
いっぱいいっぱいだったのですがね(笑)
また宿坊にも泊まりたいので、そのときもう一度確認します(汗)

さて、まだ重要なお方が残っております・・・
信翁乾忠大居士、さてだーれだ!

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馬場美濃守なんです!信翁乾忠大居士、
信州真木嶋城主 馬場美濃守信房とあります。
これも、甲州日牌帳と戒名が一致。

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甲州真木嶋城主 馬場美濃守源信房
天正三乙亥・・・後は読めないです。
しかし、真木嶋城は牧ノ島城で信州だと思うのですが、
どうしても甲州と読めるんですよね・・・

左右には、子息と思われる人物。
右手には、蓮華院照山慈源大居士、
馬場民部少輔信忠とあります。信州於深師死、
という部分はよくわかりません・・・深志城にて討死、
と伝えているのかもしれません。

左手には、知門院紹勇躰生居士、
馬場左近房義とあります。民部少輔の弟でしょうか。

丸島和洋先生の「甲陽雑記 ー ○高野山調査・冬の陣(1)
では、この両名はまだよく誰だか判明していない様子。

その他、榊原康政・本多忠勝・島津家久(忠恒)らの
供養塔を見て回りました。

興味深かったのが、遠州掛川北條家・・・どこそれ?

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どうも、これ北条氏重といい、北条綱成の子氏勝に
保科正直の四男だった氏重が養子入りして、
玉縄北條氏を継いでいたのだそうです・・・

碑文。

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遠州懸川城主北條出羽守
平朝臣氏重公後室造立之
證心院殿自安□
妙體大□逆修
杦原耆伯守息女
寄萬治二己亥夭七月□日

どうも万治元(1658)年に氏重が没しているので、
時期的にはいいのですが、「逆修」の意味するところと、
「氏重公後室造立之」という関係がちょっと不明。
逆修であるならば、生前供養なので時期的に合わないので…

ということで、高野山はこれにて終了。
なかなか得がたい経験と情報をたっぷりいただけましたな。

おまけ。なんばまで戻ってくると、階段が真田丸。
けっこう早くに無くなってしまったようなので、
撮っといたのは貴重かも。ふふふ。

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去年の今頃はシリーズ(3) 武田家宿坊・持明院/櫻池院、真田家宿坊・蓮華定院

さて、例によって時系列は前後しますけども・・・
流れで高野山話。以前から行きたかった高野山宿坊。

江戸時代に統合されてしまいましたが、武田家の宿坊であった
引導院と統合した持明院に泊まったのが昨年2月。

◆持明院◆

持明院というと、勝頼・信勝・北条夫人寿像や、
武田晴信寿像の保有元
としても知られておりますが、
檀家は何も武田家独占というわけでもなく、
伊達家や京極家とも檀家関係を結んでいます。

高野山までの道すがら、南海電車の真田丸仕様車を発見。
もっとも後に乗ることになるのですが・・・それはまた後の話。

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高野下からケーブルカー、ひいてはバスでゆらゆら~っと。
着きました。持明院。

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いきなり間違えて、勝手口から入ろうとした不届き者は
わたくしであります・・・・申し訳ありません。

宿坊の堂宇は、明治期の大火の後の再建ではありますが、
立派な風格のあるもの。

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そして、花菱センサー発動(笑)
あちらこちらに花菱があります・・・・火災で史料に乏しく、
ハッキリしたことはわかりにくいようですが、武田家由来でしょうね。

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湯飲みにも・・・尤も、花菱だけではなく、
京極家の四つ目結も描かれてあるんですが、
写真に撮ってないという(笑)

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お夕飯。精進料理と聞くと、さぞかし味気のない…
とかって想像してましたが、とんでもない!

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高野豆腐はさすが、鍋物の出汁が最高。
お出汁をうまく使った料理はありがたいですね・・・

お風呂では外国人の方と遭遇。この日だけか・・と思ったら
けっこう外国人の方が多いらしく、持明院でも
お一人英語に堪能な方がおられるようでしてね。

確かに日本的なものの体験にはなりますよねぇ。
って、日本人にとってもなかなか体験できないことですけど。

ま、消灯も早いわけですが、ツイ廃しなければ(笑)
特にほかにやることもなく、本を持ち込んで
本を読み込むのもいいかもしれませんよ。

このときは、高野山の武田家宿坊に関するコラムを
読んだりしてましたかねぇ・・・

翌朝。お勤めに参加します。けっこうわたしギリで、
お堂に向かったんですが、しまった・・・・!!

P1170672

というのも、暗い向こうにかすかにご位牌が見えましてね・・・
しまったぁぁぁぁ、ご位牌拝見する時間ねぇぇぇぇぇ!!

まもなくお勤め開始。あぁ・・・
まぁ、また泊まりに来ればいいんだと思い直し、
手を合わせます。般若心経の部分がわかるのがうれしい。

この日は特別に護摩祈祷をされてる日だったので、
合わせて拝見させていただきました。

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朝ごはん前にうろうろしていると、
とあるお部屋に、浅井長政像と市像(たぶん複製)を発見。
持明院、この両像もお持ちだったんですね。

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ほかなんかないかな~とうろうろしてますと!
金物の水差しに花菱発見!これ・・・なんかゆかりあるか!?

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引導院には勝頼遺品が奉納されたとあるから、
その中のひとつじゃないかなーなんて想像。

ということで、短い時間ではありましたが、
なかなか堪能できました。ご位牌の件だけでなく、
写経の申し込みを忘れていたのが心残り。
次回は絶対忘れないように・・・!!

こちらのお札もまた・・・(花菱に目が行く)

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◆成慶院◆

ということで、翌朝持明院を出てテクテク・・・
と向かったのは、櫻池院。
櫻池院自体は、武田と関係は本来はないのですが、
明治以降、武田家のもうひとつの宿坊・成慶院を
こちらが管理されているのです。

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こちらには割菱が配されていますね。
櫻池院と武田家の所縁の新しさゆえでしょうか。

成慶院の碑もあります。「武田信玄公菩提所」

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成慶院も、もちろん武田専属ではなくって、
信濃や上総・下総あたりと師檀関係を結んでいる様子。
他に目立つところでは、会津藩(保科・松平氏)、
大和郡山藩(柳澤氏)あたりとも関係があって、
このあたりは武田所縁というところに、関心が向きますね(笑)

とはいえ、お泊りしないと中は詳しく入れないので、
やはりここも機を改めて、来ないといけませんな。

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成慶院はこんな感じ・・・えらく現代的な、
見たところ鉄筋コンクリート造です。
往時の建物は焼失でもしたのでしょうか・・・・

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とはいえ、甲斐国供養帳や信玄公ゆかりの文物や
ご位牌は残されてますので、うまく難を逃れたのでしょうか。

続いて、蓮華定院。ここも有名になりましたかね、
真田家と師檀契約を結ぶ宿坊。

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とはいえ、泊まっているわけではないので、
信之・信政の供養塔にだけ、手を合わせに行こうかと。

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真田丸では、描写が省かれましたが、
第二次上田合戦・関が原合戦後、昌幸・信繁一行は、
まずこの蓮華定院に入ったのだそうですね。

裏手にある供養塔。向かって右手が信之。

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左手が信政。

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まわりは梵字で守られております。

P1170727

特に、信幸供養塔の刻印が興味深いんですよ。

奉為信州埴科郡松城之城主
従五位下前真田伊豆守
滋野朝臣信公道諱
大鋒院殿徹巖一當大居士
一周忌追善也

大施主真田右衛門殿爲祖父造建之
□萬治二歳巳亥十月十七日

そう・・・信幸、と関が原以前の諱で記されてるんです。
尤も、一度「信之」にしてからわずかな期間「信幸」に
戻した時期はあるそうなのですが、これは信之死後に、
後を継いだ孫で、信政の子である幸道が建てているのです。

が。

幸道は当時2歳。改名時期はわかっていませんが、
元服後、当初の諱は信房だったともいいます。

とすると、幸道本人の意思ではなく、誰か後見する立場、
もしくは家老クラスの指示によるものと考えるのが自然でしょう。
なぜ「幸」の字にしたのか、後に幸道と改名し、
後に続く、通字が「信」から「幸」に戻っていくことと関連するかも?

ちなみに、信政のほうはこうあります。

奉爲信州埴科郡松城之城主
前真田内記従五位下
滋野朝臣信政公道諱
圓陽院殿威良一中大居士
一周忌追福也

大壇主□子真田右衛門殿造立之
□萬治二歳次巳亥二月五日

なかなか興味深いですね。こういう謎を解けなくとも、
見つけるだけでもなんだかわくわくする、それもまた歴史の楽しみ。

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去年の今頃はシリーズ(2) 妙心寺玉鳳院@2016年

さて、正月に続き、去年の今頃はシリーズ(笑)
今ちょうど、甲府と上田に来てまったりしておりますが、
昨年は・・・名古屋城の見学会と京都へ。

今まで、京の冬の旅というJRの企画には
あまり惹かれてこなかったので、これに合わせて、
京都に出かけるってことは、あまりなかったように思うんですけど、
ふと目に付いたのが、玉鳳院。

いつもこの時期に公開されているわけでもないようで、
これはチャンスということで、このためだけに京都へ。

P1170600

ちなみに、今年は維新150年ということで、
幕末維新にゆかりのあるお寺が中心のようです。

妙心寺というのは、武田家とも縁の深い京の寺院で、
恵林寺を信玄公が再興し、菩提所に定めた際に
円覚寺派から妙心寺派になったんですね。

ということで、妙心寺とのツナガリは即ち、
信玄公とのツナガリの始まりということでもあるわけです。

仏殿を抜けて、玉鳳院に向かいます。

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法堂の角を右に曲がります。

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唐破風の門、向唐門。

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こちら、平唐門。
開山堂前の門じゃ珍しい正面(桁側)ではなく、
向かって左右、つまり妻側に唐破風があるんですよね。

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後小松帝時代の御所の門だそう。
後小松帝というと、南北朝末北朝の最後の天皇で、
神話時代も含めて、ちょうど第100代天皇。

ということは、応仁の乱などの度重なる大火にも
耐えてきたものすごく貴重な門ってことだ。。。!!

さ、貴重な内部に入らせていただきます。
よ、よめにゃい・・・

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玉鳳院。こちらは明暦2(1656)年の再建。

P1170611

とりあえず、花菱センサーが引っかかりました(笑)

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そして・・・・信玄公、勝頼公、信勝公、典厩信豊殿の
供養塔にお参りをいたします。撮禁なので、写真はありません。

まず、信玄公ですが御自ら妙心寺派とお定めになったこともあり、
御遺骨の一部が妙心寺にも分骨されてるそうで、
この供養塔は、いわゆる御骨のある墓所といえるかもしれません。

また、同時に高野山にも分骨なされているそうですが、
高野山の過去帳、および高野山信玄公供養塔の御戒名とも
一致していて、「恵林寺殿機山玄公大居士」とありました。

お参りしたときは、「法性院殿機山玄公大居士」という、
甲府市岩窪の火葬塚にある戒名を思い出したので、あれれ・・・
と思っていたのですが、「恵林寺殿」が正しいのですね。

ということで、あの岩窪の石棺は怪しいとか何とか・・・
ま、あれはあれで地元で長く弔われてきた供養塔ですからね。

そして、勝頼公。当時妙心寺五十八世の南化玄興師は、
恵林寺の快川国師はじめ、武田家に縁のある高僧と親交が深く、
また、信玄公と同じく勝頼公の御代にも続いていた様子。

京で、勝頼公の御首が晒されたと知るや、信長に嘆願して貰い受け、
妙心寺に葬ったとされるわけです。南化玄興師は信長からも、
信用を得ていたそうなので、首を貰い受けられたとか。

というわけで、ここにはいわゆるいずれの皆様もその御遺体が
お眠りになっている墓所、ということになるのでしょう。

特に、勝頼公は真田丸でちょうど大きな反響と関心を呼び、
勝頼公復権元年になろうとしていた時期。
勝頼公はどのように、この趨勢を黄泉からお感じになっているでしょう?

少し気になったのは、仁科薩摩守信盛の供養塔はないんですよね。
仁科殿はどちらでお眠りなのでしょうか・・・

戒名は次のとおり。

武田信玄公:恵林寺殿機山玄公大居士
武田勝頼公:法泉寺殿玉山龍公大居士
武田信勝公:春山花公居士
武田信豊殿:英叟知雄居士

信豊殿の戒名が特に気になりました。
英叟知雄、勝頼に特に近しく、頼りにされていた副将。
父の古典厩信繁と比べると、どこか影が薄いようにも思いますが、
その勇猛ぶりが想像できる文字が並んでいますね。

ちなみに、信玄公の供養塔のみハッキリと年号を
読み取ることができました。

『天正元年四月十二日』とあります。当時は元号が替わったら
バックデートして年全体がかわるのかな?本来は、元亀四年なのに、
と思っていたのですが、後に丸島和洋先生から、
「未来年号」という概念があるよ、と教えていただきました。

つまり、明らかな偽作の場合だけでなく、「未来年号は比較的
近接した時期に、過去を回想して遡った日付で書かれた場合」に
おき得るということが、服部英雄氏のWebで言及がありました。

信玄公の本葬儀を経て、妙心寺に分骨ということであれば
三回忌の頃ですから、このケースに当てはまりそうですね。
そんな発見もあったお参りでありました。

そして、普通はまずこちらに関心が行くのでしょうけど、
織田信長・信忠供養塔もあるんですよね。
何の因果か・・・とも思いますが、南化玄興師と信長の関係を
考えれば、等しく関係の深かった人物を葬るということなのでしょう。
死ねばみな等しい・・・のでしょうな。

今年はだめですが、また玉鳳院の公開があれば、
今後はぜひ継続的に行くようにしたいと思った次第であります。

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謹賀新年2016-2017 (西日本三城と安居神社)

皆様、明けましておめでとうございます。
例年正月には更新しないのですが・・・・ちょっと気まぐれに。

これが2016年のネタの初回という、今何年だっけ?
というハナシなんですがね・・・

昨年も今年も初詣は京都。木屋町で飲んでから、
その足で・・・というのがここ数年の定番化。

2016年。

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2017年。

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まぁ・・・・撮ってる写真の代わり映えのしないことよ(笑)

しかし、ここからが違いました。昨年は、
「元日・JR西日本乗り放題きっぷ2016」というきっぷで、
無駄に(笑)福岡・広島・岡山を1日で行ってきました・・・

◆2016年◆

が、これもうしないな・・・お城行くくらいならいいんですが、
モトをとろうと無理しちゃうと、何しに行ったんだっけ?
になりかねないキケン(笑)なきっぷです。

■福岡城■

ということで、下の橋御門。

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続いて、松ノ木坂御門。現況・古写真・スケッチ。
武具櫓が期待第一なんですが、松ノ木坂御門も
もし復元できたら素敵だなーと思う櫓門。

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福岡城って、円い石の石垣がけっこう特徴だと思うんですよね。
ということで、一度気づいてからついつい注目しちゃうポイント。

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本丸裏御門と古時打櫓台石垣。古時打櫓とは、
現・伝潮見櫓。御門復元はともかく現位置に移動だけでも
してほしいものですのぅ。そのほうが近くで見られますしね。

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この櫓ですね。赤丸印。

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天守台裏、鉄炮櫓下桝形。ここそういや
ちゃんと今まで見てなかったですが、
枡形の袋叩き感が満載で、けっこう萌えポイントかも!

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鉄炮櫓跡に上がってみると・・・まさに鉄砲の餌食間違いなし!

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鉄炮櫓というだけあって、鉄砲が保管されていたのでしょうけど、
やはりここに保管されているというのは、即戦力になる
防御ポイントだからというのもあるんでしょうなぁ。

天守台の南西に当たる鉄炮櫓から南側に抜けると
最も注目(わたしだけ?)されている武具櫓跡。
ちょうど天守台の真南に当たります。

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武具櫓石垣。正確に姿が判明していて、
かつ見栄えのする櫓って、武具櫓だと思うんですよ。
福岡城もよくわかんない天守天守と言わなければ、
気持ちよく整備計画に賛同できるのですが…

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武具櫓の曲輪からの大小天守台。

P1170324

城ファンからは怨嗟の声が上がった天守台の梯子。
まぁ、一応石段に保護シートを付けてコンクリ基礎を付けていて
遺構は保護されてはあるのですが・・・もやっとしますな。

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先ほどの鉄炮櫓下の枡形を小天守側から。
袋叩き感がすごいよね。ひー!

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大天守台穴蔵。なぜだかこの日は中国語に
囲まれる福岡城でしたね・・・

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ここの天守台は穴蔵の規模を堪能するに限りますねぇ。
建っていたかはともかく、相当な規模。
穴蔵の大きさ比較とかちゃんとやったら興味深いだろうね…

本丸裏御門と古時打櫓台石垣を天守台から。
今の下ノ橋御門そばより、映えると思うんだが…

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天守台下。鉄御門と埋門の間の桝形構造。

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さて戻ります・・・個人的に復原希望の扇坂御門。
門を抜けた扇状の階段をね…中津城にもあるし、
なんとなく黒田家らしさの出るポイントではないかと思いません?

P1170345

東御門桝形。あれ天端石崩れてる?

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東御門桝形イラスト。門の前が完全な
枡形になっていなくて、門を抜けると枡形になってるの、
どういう発想からなんだろうなぁ。

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きわめて広島城に酷似した(笑)福岡城天守想像図。
かっこいいんだけどね・・・かっこいいんだけどね・・・
でも、想像なんだよなー・・・根拠ないんだよなー・・・

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わたしがなぜか1000億円くらい手にすることになって、
お城でも造ったるわい!ということになったら、
天守はこれで行きたいと思いますけども(苦笑)

石垣整備完了した上ノ橋大手門。
桝形素晴らしくなって、けっこう見所になったはず、
なんだけど誰も見に来ない。今年はどうだろう?

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きれいに枡形が復元されているのですが、その先には
簡易裁判所に遮られて、ここから城内に入れないというのが
ちょっと難点ではありますね・・・・

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さてお昼。けっこう探した記憶がありますが、
無事にモツ鍋おビールセット☆

P1170366

そして、その足で広島へGo!

■広島城■

広島城は、廣島護国神社があるためか、かなりの人出。

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ほら・・・やっぱり想像上の福岡城天守=広島城天守じゃないか!

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さて、天守内の展示をさくっと見ていきます。なかなかいい展示。

P1170367

とりあえず、気になったお城を列挙・・・吉田郡山城、五龍城、小倉山城、
日山城、吉川元春館、新高山城、頭崎城、佐東銀山城、
鳥籠山城、相方城、比熊山城、一乗山城、亀居城。

まずもって、吉田郡山城はキッチリみたいですよね。
それと武田ツナガリで安芸武田の本城、佐東銀山城あたり。

展示はよかったんですが、肝心の広島城は着いた時には
けっこう時間が遅かったので、大して遺構をみるわけでもなく、
広島城天守かっこいい、広島城天守かっこいい・・・!!
と写真撮るだけで終わってしまった広島滞在(苦笑)

しかし、お堀ですが、きれいに藻を掃除したら、
ドライスーツ着て壕底探索できそうな?くらい、
わりと透明度がある印象。なかなか藻の掃除大変でしょうが。

P1170397

■岡山城■

さて、そんなこんなで夜の岡山城に移動。
岡山・・といえばここ数年、通っている小豆島ラーメンへ。

P1170406

小豆島といえば、醤油ですからね・・・(極私的には)

さて、岡山城はもはやライトアップ撮るだけ。
だけなんですが、岡山城好きすぎてですね・・・・
撮るだけでも至福なのですよ。

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最後の一枚なんて、入母屋部分が暗く隠れているから、
望楼型天守らしさがわかってなかなかいいなーと自画自賛してみたり。

しかし、角度を変えるごとに違ったフォルムを見せてくれる面白さが
何より楽しいのと、やはりライトアップのときの、
漆黒の引き締まったカッコよさが何倍にも増幅するのがもう・・・!!

広島城天守、岡山城天守が現存していないのとが
ホントに悔しくてなりません。

◆2017年◆

さて今年は、昨年真田丸でフィーバーしたこともあって、
安居天神にきてみました。わりと高校が近くって、
行こうと思えば何時でも行けたはずなんですが、
大阪に住んでいたときは、行こうともしなかった・・・・

のまえに、茶臼山陣城跡。もちろんここも初。

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茶臼山そのものよりも、レーダーで見つかった?
丸馬出のほうが気になるわたし。

こちらの復元図によると、ここが丸馬出の内側にある
壕跡に相当するようです。高低差もありますし、
降りてみても壕感がかなり残っていますよね。

P1260028

P1260030

残念ながら丸馬出感はちょっと感じることは難しいですが、
復元されたらいいんだけども・・・無理か。

そして、近くの安居神社。ここもね・・・初なんですよね・・・
まだまだ戦えそうな感じの幸村さんですな(笑)

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P1260035

先の真田丸総評でも書いたように、やはり真田信繁という人物に
興味を持てなかったからこそ、来ていなかったわけで、
映像の力ってのは大きいもんですな。
堺信繁の最期を想いながら、お参りしました。

銅像の寄進者の中に、信綱寺や真田姓の皆さんが
ちらほらいらっしゃるのも気になりましたね。
ただ、いわゆる仙台真田家のよく出てくる系図にある方々では
なかったので、この真田さんはどういう・・と調べると。

ひとつ調べあたったのは、真田大助の子孫の名乗る方
ほう・・・大助の子が・・・まぁ・・・いいんじゃない・・でしょか?

それよりも気になるのは、北面・西面の深い落ち込み。
南からは一心寺からなだらかに安居神社まで
つながっていますので、ここも城域だった時代があるのかもしれません。

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ということで、16年は天守、17年は陣城とある意味、
二年続けてお城だった元日でした。

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2015年棒道踏査 … 湯川砦編~大門峠

さて、湯川砦周辺。砦に向かう前にお茶清水をば・・・
ここはお茶を点てる水を汲んだというトコ。

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今となっては完全に否定されている信玄公像なのは
まぁ・・・深く触れないでおきましょう。

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それでも信玄「公」なんだよね。

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中の棒道沿いにあります。一応信玄棒道を辿る、
という観点から中の棒道は外していますけども。

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流れのないところは淀んでいてアレでしたけども・・・

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流れのあるところはきれいな澄んだ水。

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ボトルに汲んで持って帰って、ウイスキー用の
チェイサーにしました(笑)

この透明度できれいさがわかっていただけるのでは!

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さすがに煮沸したけど!

ということで、案内板へ。湯川砦は枡形城という
本丸に当たる部分と原の城という外郭に相当する
部分があったらしい。枡形城には丸馬出つき。

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・・・ということで、湯川砦。眼前の高台になったところが
原の城一帯。先ほどの図によると実際の車道よりも
手前に土塁を割って、大手道があった・・の??

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原の城。縄張りは正直ようわかんないんだけど・・・・
このへこんだあたりがどうも大手道らしい。

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原の城東の壕。単独で見る分にはでけーすげーなんですけど、
自然地形のように見えなくもなくて、けっこう謎。
でも10mはありそうな壮大な壕ではあります。

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ちなみに夏に行くと藪ってて規模感が
サッパリわかりません!(笑)

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これ以外は特に障壁もなく・・・ちょっと城として
どうなんだろう・・・という気はしました。
あくまで駐屯地ということならまぁ、という気もしますが。

一応こちらのWeb(想像含む)ですと、
四方を大きな壕で囲まれた平地が広がる感じの様子。

ホント駐屯地という感じですねぇ。
川中島が最前線で北信濃を除く信濃全域を
手中に収めていた時期なら、堅固な城は不要なのかも。

そして、その先には枡形城。川と沢という
天然の堀に囲まれた地形の東側に堀と
丸馬出を備えて単郭の城へ。

P1160259r

奥に見えるのは朝倉山城。さすがにこのときはパス。
一度行ってはおきたい山城です。

P1120596

このくいっと道が曲がったあたりが丸馬出?ぽい?
想像するしかないね・・・畑にしてしまうまでは
残っていたんだろうか、丸馬出。

P1120595

砦の沢と呼ばれる南側の沢。沢という割には
わりと深い壕をなしていて、しっかり桝形城と原の城を
隔てて、守っている。

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北側と東側の川縁もかなり急な断崖。

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単郭の城としてはなかなかすごい壕ですよね。
ここが本陣だったんだろうなぁ・・・丸馬出があればもっと、
せめて壕部分がもう少し刈られていたら、
すごさがわかりやすいのに・・・

さて、前回の湯殿の坂まで一旦引き返して、
ここからは大門街道を進んでいきます。
道筋としては少し古道筋があるところ以外は、
国道152号線をひたすら北上します。

P1120571

大門街道にはずっとこの信玄公印があります(笑)
これもあの信玄公像モチーフかな?

P1120572

朝倉山城の入り口。塩沢城というのは
在地国衆の塩沢氏から取ったものでしょうな。

P1120634

興味のない人にとってはただの車道・・・
だがこれも棒道の一部と考えると、感慨深いものなんです。

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おっとー!数少ないランチやってるお店を発見!
ありがたやー・・・飲まず食わずにならずにすんだ☆

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柏原交差点近くの「おさい家」さん。
ちょうどここから旧道に入る手前に当たります。
旧道といっても舗装はされておりますがね…

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ただ、それでもなんとなく旧道を彷彿させる
ものがあるだけでもいいんです。すっかり古道マニアちっくに…(笑)

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ちょっと振り返ると、山々の間に
大門街道が通じている感じがすごくよくわかりますね。

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旧道を過ぎてまた車道に戻ると、音無川が
見えてくるんですが、川沿いの道がどうしても見つからない…

少し降りられそうなところはあったんですが、
川を渡るのか・・・みたいな。そんな準備はしていないので
泣く泣く諦めます・・割と流れも急でしたしね。

P1120641

たしかに渡った先には道が通じているような気もしたんで、
いわゆる棒道っぽい道が連なってるのかもしれません。
夏に長靴を用意して来ないといけませんね。

ということで車道に上がって音無川沿いに歩きます。
音無川の看板。この近辺で軍議をして
なかなか意見がまとまらず、川の瀬音がうるさくて
なんと信玄公が「五月蝿い!鎮まれ!」と一喝すると、
瀬音がやんで軍議がまとまったとか…んなアホな(笑)

P1120644

ということで「音無川」と呼ぶとか何とか。
まぁ、以前聞いた高僧が奇跡を起こす式の伝説が
甲斐では信玄公に仮託される
、という話が
パッと思い浮かびますね。

この話ができうる点に信玄公の時間を越えた影響力を感じます。
で、その「うるさい!」の原因になったかもしれない?
音無の滝です。確かにちょろちょろ・・・信玄公の一喝が
まだ影響している!?(笑)

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ここまでくればもう・・・白樺湖です。
湖自体は当時はありません(人造湖)が、
景観上はなかなかよろしい(天気は・・・)

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湖のそばに「古屋敷」なる場所があり・・なになに?
信玄公の軍勢の宿営地で?1691年の幕府への口上書に
『武田信玄御時代に両角右近なる人物が
茶屋を建てた屋敷跡がある』ですとーーーー!!

P1120664

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湯川砦が宿営地だとしたら、現代人のワタシでさえ、
半日もすれば歩けるわけで、宿営地つくるかねぇ・・・という感じは
正直あるのですが、まぁそこはそれで。

てか、両角姓ににやりとしますよね。ふひひ。

もうひとつ、信玄公スポットとしては「御座岩」
またしても例の信玄公像ですけども。

P1120671

遠巻きに。岩の上に信玄公、
その下々に重臣方が・・なんて想像中。

P1120679

こんな感じの岩です。うーん…信玄公、
ココの座ったのならけっこう大変じゃないのかな…

P1120674

せっかくなので座ってみます(笑)

P1120676

信玄公目線。

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まぁ・・・火のないところに煙は立たないといいますが、
御座岩ひとつとっても、そんな話が生まれるというところに
関心がいきますねぇ。

さて、湖から逸れて大門街道を先にまだ進みます。
長和町に入りまーす。

P1120682

この長和町、もとは長門町と和田村でその一字を
とって長和町なんですけど、その長門町も
「長久保」と「大門」の一時をとったみたいで・・・

つまりは元の地名を辿ると、「長久保(長窪)」。
この地にあった長窪城こそ、大井貞隆が守る城で
落城後は晴信時代初期の北信濃に進出拠点になります。
まぁ今回はそんなところまではいけませんが・・・

で、ちょっと歩くと峠の頂点。ここが大門峠です。

P1120683

あとはひたすら下り下り。

P1120685

この日は実はウイスキービアキャンプ2015をやっていて
それにかけて、棒道歩きを計画したんですよね。

大門街道の大門追分までが街道の到達地点、
そこから会場の「ブランシュたかやまスキーリゾート」まで
てくてくてく・・・会場到着!32000歩歩いた後の
ビールと美味だれ焼き鳥はうまい!

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もちろんウイスキーも有料試飲があれこれ・・・
感想はメモってないので、飲むに任せるのみです(笑)

P1120709

おおお!はじめて見た竹鶴21年マデイラフィニッシュ!
これ海外にしか出てないからなかなか
お目にかからないのですよね・・・もちろんいただき!

P1120689

P1120688

んが・・・正直、ポートウッドフィニッシュのほうが
うまいかなぁ・・・という印象。一度飲めてとりあえずはよかった。

キャンプファイヤー。見るのいつ振りくらいだろう…

P1120691

P1120694

またここから歩いて帰ったのですが、
まぁ疲れて突っ伏して寝ましたよね(笑)

P1120696

翌日は生憎お天気に恵まれず、
二日連続でウイスキービアフェスに参加。

P1120711

そして帰りのバスで大門街道を車で通過・・・
あぁ、ここを歩き通したかったということで
最初は歩くつもりだったんですよね。
会場だと雨はなんとかもちそうだったので・・・

が!途中で雨降ってきてずぶ濡れになるし、
バスは通過したのに素通りするし・・・
(手を上げなかったから・・って日本でそんなバスあるか!?)

ようやく「長門温泉やすらぎの湯」にたどり着いて
ひとっ風呂浴びてさっぱりして、なんとか上田に到着・・・
という散々な一日でした!いつかリベンジしなくては…!!

というわけで、ようやく2015年の棒道踏査が終了。
これちょうど1年前くらいだよなぁ・・・汗。

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2015年棒道踏査 … 甲六川~芹ヶ沢・湯川砦編(3)八ヶ岳美術館~芹ヶ沢

間空いちゃいましたね・・・(いつものこと)

さて、2日目。ここから大門街道の入り口である湯川砦まで。
これがけっこう・・・というか棒道の道筋が断片的にしか
残っていなくて、点で残っているところを少しづつ押さえる感じ。

Map

赤が想定棒道ライン、青が実際の踏破ライン。
見て判ると思うんですが、かなり残っていなくて相当回り道を
しないといけない、見所が少ない割にはアップ続きで
歩くのは苦しい・・・という難関コース。

①八ヶ岳自然文化園~中央農業実践大学校

このあたりは割りと多めで、自然文化園に行くまでの
別荘地の一部に棒道と思われる古道があったりだとか、
小川との交差点である「二子清水」あたりが痕跡。

②上川支流渡河地点

ここには関守伝十の石碑があるらしいのですが、
どうにも見つからず・・・ただ、渡河地点がココかな?というのは
わかってなかなか興味深いものはありました。

③泣き石

石そのものの謂れには直接棒道は関係ないのですけど、
ここも棒道との交点(ということは棒道そのものと
現在の道が異なることを示唆)ということで目印の一。

ということで、スタート。八ヶ岳美術館の棒道看板を
前日とは逆の左手に進んでいきます。

P1110572

P1110573

昨日とは違ってきれい過ぎてホント?
と思っちゃいますが・・・

P1110577

P1110579

P1110580

一応、信玄棒道で合ってるっぽい。

P1110581

5分もいくと切れてしまいますが・・・

P1110583

県道484号線を挟んで続いています。

P1110584

P1110585

県道484号線を渡った先がどうにも盛り上がった幹事なんだけど、
県道通したときに削ったのかなぁ?

P1110586

このあたりを過ぎると別荘地になりますが、
特定のエリアが棒道の痕跡になるものがあり・・・

P1110587

ここは下見の時にはいけなかったので、秋の本番にて。
溝こそないものの、割とこれまでの棒道感があって!
せっかく通るならぜひ見ておきたいスポット。
しらかば平V-22付近です。

P1160164

P1160169

ただ、ほんの数十メートル程度でその先は
行き止まりではありましたが。。。

P1160167

もうひとつ、この先に出てくる看板なのですが、
二子清水の看板に「笹出丘を右に見て二子の清水に達し、
雀ヶ森を左にして・・・・・。」というその笹出丘がありました。

P1160175f

ここも別荘地しらかば平のP29に相当。
別荘地の地図と照らし合わせて考えると、その位置が
よく想像できますね。

P1160163

さて、このまま棒道沿いに進むことはできないので、
自然文化園に一旦入ってから回り道をして
二子清水に向かいます。文化園の中も割りと棒道的?
に見えてきたりするから不思議です(ルートは全然違うけど)

P1110588

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P1110592

おっと!棒道通過点!位置がわかるだけでもありがたい…
のですけど、想定棒道ラインと今の位置がどこか?
というのを示してくれるといいんですけどねぇ。

P1110596

あれーどっちに行けば・・・

P1110599

これだ!

P1110600

ということで、二子清水看板。
もう少し先に行くと。「五厘口」という江戸時代の遺構が。

P1110601

P1110604

江戸時代の遺構が関係有るの?って幹事なんですけど
上の棒道が通っていた「から」この位置に分水口を設けて、
汐番や汐の補修にも都合がよかった、ということだそう。

上の棒道が通ってたとすると、武田軍もここで休息して
喉を潤してたりしたのかなぁ?

P1110606

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この「西の清水」ってのが皆目わからんかったなぁ。どこ?
たぶん東西にあって、それで「二子」なんでしょうけども。

P1110609

下見のときはちょうど真夏で、もうものすごく暑かったので、
ごくごく飲みたいところなんですが、さすがに生水は…
てことでタオルに浸してみました。ひゃっこーい!

P1110613

これがですねぇ・・秋に行くとビックリ!涸れてますやん…

P1160172

P1160174

五厘口のほうはなんとか水量ありましたが、
落ち葉で塞がれていてるあたり、やはり少ないのでしょう。

P1160177

P1160182

いずれにしてももう少し案内があるとよいのになぁ
という感じは否めませんね。どれだけの方が訪れるか判りませんが…

さて、気を取り直して農業実践大学校の校舎を
抜けていきます。

P1160186

門があってもビビらない。ちゃんと開いています。

P1110621

山々の稜線が美しい・・・

P1110622

P1110623

秋は秋で趣きあってよいですぞ。

P1160187

ここも棒道交点の目印。もう少し詳しく…

P1110624

このまま農業大学校をつっきります。だ、だいじょうぶかな?
とは思ったんですけど、入るべからずとはなかったので・・・

P1110625

囲まれてる感・・・どこかから鉄砲狭間
出てこないだろうな?(笑)

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秋は収穫の時期、美味しそうな南京が・・・

P1160190

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この校舎を潜るところもどうも棒道想定ルートみたい。

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ここを抜けると、御柱街道と交差します。

P1110631

御柱祭のスタート地点「綱置場」付近なんですよね。

P1110632

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下見のときに撮り忘れた「綱置場」の碑。

P1160197

さて、ここからは大きく迂回して史跡のないところを往きます…
つらいつらい。その前に農業実践大学校でブレイク。
牛さんがぞろぞろいらっしゃいます。

P1110641

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下見の時にはアイスでクールダウン☆

P1110642

本番のときはここで食料調達。棒道踏査の
重要拠点ですね(笑)

P1160237

さて、迂回路。遮るものが何もないので
直射日光が強いのなんの・・・日光が日光に苦しむ(苦笑)
こうして後から見ると、景色はいいんですが(爆)

P1110644

P1110648

P1160199

ようやく1.5kmほど歩いたところで、横道に逸れることができ。
でもこれが本道、牧草地で分断されてた棒道に
ようやく戻ることができたわけです!!!

P1110649

道の両側は森が広がり、舗装さえしなければ
いい感じの古道だったかも・・と思わせる雰囲気です。

P1110651

一部だけですが、土塁様の土盛りや溝があったりして
これまで見てきた古道として特徴かな?というところもあります。

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P1110658

さて・・・そろそろ②に差し掛かってきましたが、
どうしても関守伝十の碑が見つかりません・・・
ということで橋を渡って、向こう岸へ。

あ、向こう岸で農道を辿って・・・とあるな?
農道ってどこだ??

P1110665

この写真撮った目の前に見えてるんですけどね・・・
下見したときは、水分が足りてなくて(1リットル飲み干し)、
水を探してばっかりだったので、気づかなかったようで。

P1110664

おお、ここだ・・・たぶんここだ・・・
そして、ココが渡河地点に違いない・・・!!

P1160213

ただ、立ち入り禁止の表示があったため、
泣く泣くストップ・・・ううう。

このあたり、ずっと庚申塚や仏様が並んでいて、
いつの頃かはさておき、古い道ではあるんだなという
感覚を抱かせてくれます。

P1160216

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その中に、西股先生が見つけられたこの碑。
なになに・・・南無妙法蓮華経・・・

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武田信玄公之霊、武田□一族の霊・・・!?!?

P1160221f

ど、どういうことだこれは・・しかも、大法山安立寺
日應という日蓮宗の僧が建てたのか?
しかも昭和55年て・・・あたらし!

P1160222

P1160224

これ、調べてみますとどうも松本城の近くに
大法山安立寺なる日蓮宗のお寺があるようです。
次に松本行く際には、ちょっとお寺の方に
聞いてみてもいいかもしれません。なぜだ・・・!!

そのほか新しいものも多いんですが、撮っていて飽きませんね。

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P1160230

ただ、下見のときは一切撮っていない・・・
それだけ水を求めていたわけで、
夏になんて行くもんじゃないすね(汗)

こちらのお店で弊店間際に駆け込んで、の、のみものを・・・
と懇願(笑)弊店間際ですけどドリンクだけなら
いいですよ!とありがたいお言葉をいただき、生き返りました。
スープス ヤツガタケさん。ちゃんとスープもいただきたい…

P1110669

ねこさま「ふん、命拾いしたな。感謝しな」

P1110668

さて、また棒道ルートから離れてまた合流する地点が「泣き石」
ここも信玄公や棒道そのものとは関係はないのですが、
棒道との交点とされているところです。

Map

ちょうど八ヶ岳美術館と芹ヶ沢交差点を直線で結ぶと、
現代の道路との交点にちょうど「泣き石」が来るんですよね、確かに。

そして確かに目立つ岩ではある「泣き石」
餓鬼石との謂れもあるようで。

P1110672

P1160233

ただし、棒道に関する解説はなし・・・

さらに進んでハッピードリンクショップを見つけます。
あぁ・・・下見の時には神のオアシスに見えましたよね。
一気に1リットルのスポーツドリンクを(笑)

P1110674_2

本番はこの先の小さなお社前の公園でお昼。
おべんとタイムです。いい年こいた大人が公園で
揃ってお弁当を食べているのは、さぞかし・・(自主規制)

P1160238

ちょうどいい具合に紅葉もしていて、いい環境。

P1160235

さぁ、あとはてくてくと芹ヶ沢交差点・湯川砦を目指すのみ。
ホムズ技研を過ぎたこの道を棒道と推定。

P1110676

少し歩くと視界が開けてきます。あの山々を越えるには
大門街道を上って歩いてゆかねばならんのです!

P1110679

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このあたりに信玄休み石なる石があるはずだが・・・・
どこにもそんなものはない・・・ということで、
関守伝十の碑に続いて、この休み石も見つけられず。

P1110685

代わりといっちゃなんですが、保科の角九曜が…
保科さんってあの保科さん!? 飯野藩主の保科家とは
また別系統でしょうか…気になりますッ!

P1110693

ってことで、芹ヶ沢交差点。一応下見のときは
ココがゴールなんです。

P1110695

近くには湯殿の坂という信玄公にまつわるとされる
地名があったりして、湯殿があったり、
湯殿の湯にする温泉を汲んで上がった坂だとか?

P1110698

交差点の手前にあるお寺は、「硫黄山」など
なにやら温泉の雰囲気のする名前がちらほら・・・

P1160242

P1160244

実際、芹ヶ沢温泉という温泉が沸いていて、
車でポリタンクをもってくれば持って帰ることだって可能。

P1120570

近くの湯川砦を武田軍の中継基地としていたわけですが、
温泉を重要視する武田軍にとって、願ってもない
拠点だったのかも・・・しかし、信玄公は温泉の話題がよく出る(笑)

ということで、一旦ココで切ります。棒道オフとしては、
この後少し、お茶清水や湯川砦も見ていきますけれども、
日を改めて単騎駆けで、大門峠まで歩き通しました…1年前に(ボソッ)

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2015年棒道踏査 … 甲六川~芹ヶ沢・湯川砦編(2)逸見道分岐~八ヶ岳美術館

さて、この緑ルートで参ります。
実はこれもある意味、棒道といえば棒道なんですよね。

Bunki_3

あまりしっかりなぞってないので、逸れているかもしれないですが、
棒道には上の棒道・中の棒道・下の棒道とあって、
信玄公時代の上の棒道のほか、江戸時代諏訪藩が迂回させた
中の棒道とある程度、リンクしているルート。

中の棒道が戦国時代にあったかどうかははっきりしませんが、
高榮寺がそのルート上にあることを考えると、
上の棒道の支線として、宿舎である高榮寺とを結ぶルートに
なっていたのかもしれないね?と想像すると、割と棒道踏査の一環
ともいえるかもしれないなって思うわけですよ。

逸見道を進むと、右手にミニゴルフ場。
ここ、ヨドバシカメラの研修施設で一応一般にも
開放しているようです。紅葉がキレイ☆

P1160079

P1160082

なんでしょう・・廃寺跡?

P1160083

成田山から不動明王を勧請したお不動さんが
あったのでしょうかね?

P1160086

途中にある稗之底古村址の碑。
あまりに生計を立てるのがこんなんだったがゆえに、
放棄されてしまった地。文献にもわずかに見られるのみ。

P1160088

幕末に著された「諏訪郡諸村並旧蹟年代記」に
引用される天正十八年の検地帳に出てくるそうですが、
戦国時代武田家の領国下での動きはわからないのだろうな…

さて、少しくねくねとしながらも、進んでいくと高榮寺。
なかなかの大きなお寺さんです。

P1160092

立岸山高榮寺、創建は、永禄二(1559)年
信玄公によってとされています。第四次川中島合戦の二年前で、
ちょうど、剃髪して徳栄軒信玄と号した年。

信濃の大半をほぼ手中に収め、川中島四郡の
支配権確立に向けた時期。海津城に向かう
武田軍の宿営地として、また行軍前の戦勝祈願寺として
建立されたのかもしれませんな。

いつの時代の石垣かはわかりませんが、山門も
立派なもの。創建当時はどんな姿だったんだろう?

P1160098

ここもそういう武田家との関わりを示す由来があるせいか、
掲げる紋も武田菱。ただここでは四つ花菱。

P1160093

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P1160104

P1160108

後年、柳澤氏が四つ花菱をつかっているのが知られてますが、
なぜここは四つ花菱なのか?人影は見ることはできませんでしたが、
一度、こちらの方にお尋ねしてみたいものですの。

古そうな灯籠ですが、残念ながら文字は判読できず・・・
他にも仏さまがたくさんおられたり。文字判読できる何かを
探してみるというのもいいかもしれません。

P1160096

高榮寺の扁額。権大僧正祐英書とあります。
残念ながらどういう方かわからず・・・

P1160109

本堂もそれなりの(ただ400年とかではなさげ)歴史が
ありそうで、どのような歴史を辿ったのか知りたいところです。

P1160111

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しかし、菱紋があればにやにやできるわたしには
格好の休憩スポットになりましたね(笑)

P1160120

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目敏く通常版花菱も発見。

P1160123

さて、お寺の一角でお昼ご飯休憩を取ったら、
立場川の渡河地点に向かいます。
青い想定棒道ルートの最後の青点のトコ。

Bunki2

高榮寺のお隣の蔵に珍しい屋根飾り・・・
西股先生によると、この地方には割りと見られるとか。

P1160094

P1160095

こちらの蔵にも絵がたくさんあってたのしい。
こういう変化に富んだのがあると、蔵めぐりもしたくなります。

P1160126

さて、ここからまた下見時の画像も交えながら。
キャンプ場への道から渡河想定地点に向かいます。

P1110488

実は棒道が連なってくるのはかなり高い崖上からなんですよね。
向かって左手が立場川、諏訪方面で右手には
こうした切岸のような急な斜面。ゴルフ場から繋がってきてます。

P1110490

立場川キャンプ場、下見のときはまだキャンプシーズン。
これ、写真撮るだけで金かかるんか・・・とおっかなびっくり。

P1110492

ただ、一応事情を説明したらOKいただきました。
下見に来ましたと・・・(ただしキャンプの下見ではない。笑。)

渡河地点を説明する看板。
割と昔からありそうな感じですね。

P1110494

おお、これは確かに大軍勢でも渡河できそうなところです。
にゃるほどにゃるほど。

P1110510

もちろん、秋にも来ましたよ。

P1160127

川を渡った向こう側の森は富士見町を離れ、原村に。
一度、川を渡る準備をして渡河地点を
向こう岸にもちょっと近づいてみたいものではあります。

P1110517

秋口のそれほど寒くはなく、ある程度葉が落ちたくらいほうが
渡ってみるのにはいいかもしれませんね。

P1160131

そしてこの渡河地点に来るまでのところなんですけど、
なかなかこれは判別しづらい。案内板らしきものはあるんですけど
字が潰れてもうなにがなんだか・・・・(笑)

P1110497

辛うじて「信玄棒道」であろうことは読めるが、
その下が皆目わからない(笑)

P1110503

キャンプ場をそのまま突っ切るのはNGの様子。

P1110499

振り返って。たぶんキャンプ場内のこの道は棒道の一部
だと思うんだけどもな。

P1110500

秋口に行ったときに、ココから先行けませんよ?
の手前に先ほど右手は切岸状で・・といった部分に
上がれる道を発見しました!複数人で行くと違いますな!

P1160134

往時はどうだったかわかりませんが、今は一部崩れたのか、
木で橋を渡している箇所がいくつかありました。

P1160135

P1160136

上がったところ。割と急な坂を上って出たところは、
広いスペースになっていました。
手前のくぼみ部分が渡河地点に向けて下る坂、
高台の向こうに見える森が、渡河した先の原村の森。

P1160137

ちょうどこのあたりは、ゴルフ場を過ぎて、
富士見高原の別荘が並ぶところでその裏手に当たります。
下見ルートの鉢巻道路沿いに行くと、別荘エリアに
入ってはいけるので(多少怪しいですが)ルート探索してみるのも
いいかもしれません・・・と次の課題ができました(笑)

にしても、もうちょい案内ほしいなぁ・・・(汗)

P1160141

さて、鉢巻道路沿いを歩いて迂回して原村へ。
八ヶ岳美術館を目指します。(青ルート)

Hara_bou

そして、立場川を渡河して上がってきた先の棒道を
逆向きに進んで渡河地点の向こう側の裏手に
出るようにして、棒道を歩いてみます。(赤ルート)

ただこれ、歩いてみてそう斜めに進んでいない
感覚ではあるのですけど、渡河想定地点からは
ちょっとズレている気がするんですよね・・・

ま、それはさておき原村です。

P1110518

美術館の駐車場脇から棒道に入っていきます。

P1110521

原村は(笑)わりと案内がしっかりしてて、
痕跡を追うのはなかなか難しい地点の割には、
わかりやすいですよね。ありがたい。

P1110522

P1110532

ここが棒道と交差するところ。右手に行くと、
先ほどの立場川の方面へ、左手に行くと大門街道方面。

P1110533

もちろん右手のほうにまず進みます。

P1110534

一応案内はあるので、道としての痕跡はかなり・・・
狭い範囲なのですが、まぁ迷うことはないでしょう。

P1110535

実際このあたりは、諏訪大社の「神の森」だったわけで、
そこに棒道をブチ通したんですね(汗)
というわけか、あまりこれまでの棒道のような土塁などは
見当たらないのですよね。

P1110536

ただ、しっかり道としては残ってはいます。
原村の皆様が道として整備して下さっているおかげでしょう。

P1110537

P1110538

もちろん、秋口のほうが歩きやすいは歩きやすいですが、
ここまで徒歩で来ると、相当時間は経っていますので
日没時間が気になってきますね。

P1160143

ところどころに沢がありますので、注意!

P1110548

途中で車道と交差するところ。ここでも標識あり。
この先行き止まり、とあるように渡河地点には
降りられないことになっています。

P1110549

ずんずんずん。

P1110551

P1110552

ここで沢にしては大きな、小川・・くらいのところに
ぶつかります。この先いけるかな?

P1110557

P1110558

ちょっと夏場は茂りすぎてて、足場に不安があったので
下見ではココまでとしましたが、秋のオフ会では
もう少し先に進みましたよーん。えいっ(足場)

P1160144

小川の先に渡ってみました。

P1160145

この先はかなり整地されてしまっていて、
棒道としての痕跡は失われているような感じ。

P1160147

P1160148

少し東に向かって、渡河地点の浅瀬に近づいて
いろいろ探し回ったんですが、視界も悪くて川が見えません。

痕跡はやはり探せず・・・ただ東に向かう際に、
こうした土塁のような(たぶん自然地形)部分があって、
渡河してから、西に少し進んでから、先ほどきた
細い棒道を北に向かうように、進んでいったんだろうとは
実際の地形を見て感じはしました。

左手が立場川方面、この写真の右手には・・・

P1160149

こんな感じで小さな丘のように迫ってきます。
ここを川沿いに西に進んだのかな?と。

P1160150

いずれにしても、一度渡河して近づくなりしてみないと
ちょっとここの接続を考えるのは難しい感じ。
ここもこれからの踏査課題になりますか。

ということで、下見・オフ会ともにここまでで
2015年の棒道踏査一日目は終わりであります。

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2015年棒道踏査 … 甲六川~芹ヶ沢・湯川砦編(1)甲六川~逸見道分岐

さて、2015年のネタもあと少し・・・のハズなんですが、
強烈に重いネタを残してしまっているんで、
当面終わりそうもありません・・といってると、2017年がきてしまう!

2016年のネタ、まだひとつも書いてないのに!
やばい!やばい!と言っても始まらないので、粛々と書き進めまする…

ということで、昨年の7月にまず下見に行ったのと、
これを10/31-11/1に2人のフォロワーさんと一昨年に引き続き、
城郭研究家の西股総生先生にもご参加いただきまして。
下見と本番を織り交ぜながら、初夏と晩秋の棒道をお届けします☆

下見は、小淵沢駅を降りて、2014年のオフ会の終着点まで
徒歩でテクテク。ちょっとここは遺構ではないので、
本番では飛ばしましたけど、割とそれっぽい石垣。なんだったんだろ。

P1110372

P1110373

7月なんで冠雪のない富士山ですが、夏の富士山は
こうして霞んだくらいに見えるのが美しくていいですの。

P1110374

額紫陽花。7月も半ばでしたがまだキレイキレイ。

P1110376

これ意外と距離あったんだ・・・と改めて認識。
体力もったいないので、タクが良策だな。

P1110379

さて、甲信国境の甲六川手前に到達。
夏はフレッシュな草色、秋は土からして秋づいた色合い。

なつ。
P1110385

あき。
P1160057

甲六川。ここをわたれば信濃国ですよ。
夏秋では、やはり繁り具合がぜんぜん違いますな。

夏は渡る前。

P1110387

秋は渡って振り返りざまに。

P1160059

川を渡って鉢巻道路の高さまで上がると、
富士見町の看板。富士見町の指定史跡になっています。
そういや、山梨県側は史跡指定されてるのかな?

P1110388

ここまでの山梨県側と同様、長野県側にも
古道らしい雰囲気がよく残っています。

P1110395

P1160062

右手には鉢巻道路が併走しているのですけど、
これが土塁のようにみえます。

P1110392

実際は鉢巻道路が作られるときに盛られたのか、
それとも往時の土塁を流用して、その上に道路を通したのか?
というのはよくわかりませんが、なんとなく土塁の上に・・
と妄想しておきたいと思います(笑)

P1110397

ハイキングコースとしては、そう広くないですが
石がごろごろしているところも往時は
棒道として使われていたとしたら、かなり広い道。
武田軍の大軍勢もなんなく通過できたことでしょう。

P1110394

ホント歩いていて、清々しい道。

P1110398

少し行くと、棒道と垂直に土塁痕がみえます。

P1160064

気になる西股先生が土塁のほうへ・・・
後世の境界土塁ではない折曲がりなどがあって、
もしや城?と思わせる土塁です。

P1160066

結局どうなのか、謎のまま・・・棒道ができる以前、
諏訪氏(頼満とか)の対武田防塁とかだったりとか、
適当なことを言ってみる(笑)

ところどころこうした案内板があります。
まぁ、一本道(だからこそ棒道)なので迷いはしないのですが、
「信玄棒道」と書かれてあるとうれしいですよね。

P1110403

P1110406

このあたりは土塁が見事。わざわざ近代的な道路を
通すのにこのような土塁はつくらないだろうから・・
この土塁は往時からのものだったらいいなぁ。

P1110413

逆の向かって左手には、山梨県側でもあった壕状の遺構も。

P1110420

というのを見ながら、約2km程度の道がこのような
いかにも古道!という雰囲気で残っています。

B641

さて、ずんずん進みます。

P1110423

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少し道が細くなって上りになり始めると、この雰囲気の棒道の終わり。

P1110425

P1110427

道が切れていて、この看板。どっちいったらええの?

P1110430

左脇にはこの看板・・・むーん。

P1110431

これ、ここの左脇の道から入っていくのが正解。
往時は鉢巻道路がないですから、ここを緩やかに
左折するようになっていたんではないでしょうかね?

P1110432

このあたりはペンション街。ここを棒道が突っ切っていきます。

P1110434

正解のしるし。てか、あの看板わかりにくいわ(笑)

P1110435

周りの雰囲気で棒道を脳内補完。
棒道沿いの宿場町的なイメージで・・・

P1110440

このあたりは人が来るからか、オフ会本番時は
紅葉がキレイでしたよー。

P1160072

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ペンション街を抜けてもう少し、舗装路が続きます。

P1110441

カタカナの宿場がたくさん(笑)

P1110442

ここの土塁もすごいけど、これはどうだろ(苦笑)

P1110444

この先右に出てしまうと、鉢巻道路に出てしまうので、
奥の細い道に進みます。ここが棒道。

P1160074

これこれ。

P1110445

看板もあります。

P1110446

また先ほどのような、古道マニア?にはウケそうな道に。

P1110447

ココからすぐ近くに「仏供石(ぶつくいし)」があります。

P1110451

ただ解説板は、鉢巻道路のほうに出ないとない・・・
ま、普通はそちらのほうにしか人目が付かないからな(汗)

P1110453

これ、昨年の棒道歩きで通りかかった法性寺の方角を向いて
仏様の彫られた舟形石碑があり、これを「仏供石」と呼んでるよう。

この大きな岩の上に・・・

P1110456

仏様が・・・ちょこっとしか見えない!

P1110454

で、秋にはちょいと岩の上に上がらせていただき、
仏様の御尊顔をば。特に何か文字が彫ってあることはなく・・・

P1160077

裏も文字はなし。

P1160076

さて、ココを過ぎてまだまだ歩きます。

P1110457

P1110458

ここの河原を渡ったあたりがちょっと曲者。初掛沢というそう。
どこをわたれば・・あわわわ。

P1110459

ここを右手に行くと、こんなポールがあるから正解?
と思いきや、どうも棒道から外れるっぽい。

P1110461

P1110462

右に行かずに、左の道に進むと・・・あ、棒道っぽい。

P1110471

多少アップダウンはありますが、道としての連続性があります。

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さて、また鉢巻道路に近づいてきました。

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相変わらず、ざっくりな棒道案内板。
振り返って撮ったところで、右手の道がココまで
歩いてきた道で、左手がさっき間違ってた?と思った道。

ここでそのまままっすぐ向かうと、棒道からは外れて、
近世になって開かれた産業道路『逸見道』に入っていきます。

このあたりには、八峯苑鹿の湯というホテルがあります。
ちょっと一昨年・昨年のオフ会では、位置的に
微妙だったので使わなかったのですが・・・

甲斐小泉からの棒道歩きを続けて、ここまで歩いてくると
ちょうど全長7km弱のイイトコだけを歩くコース。
ここで泊まるもよし、ひとっ風呂浴びてここからの
リゾートバスで帰るもよし。

・・・うまく使うと、いい棒道オフ企画が
できそうかなと思ってます。

ま、それはさておき。鉢巻道路のほうへ上がっていくのが、
棒道としては正解。ただ、結局ゴルフ場にぶつかって消失するので、
棒道踏査としては、なかなか迷いどころ。

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上がったところには、富士見町の看板。
ここまでが富士見町の史跡指定されている範囲。

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ということで、下見の際には、このまま鉢巻道路沿いに進んで
立場川に進んでいくルート、オフ会の際には
逸見道を進んで、武田軍の宿舎としても使われた?
高榮寺を見てぐるっと、迂回して立場川に差し掛かるルートへ。

青が想定棒道ルート。赤が下見で鉢巻道路に沿って進んだ
現在の最短ルート。緑がオフ会時の高榮寺によっていくルートです。

Bunki_2

・・・とその前に、消失して入れないゴルフ場内に、
棒道の痕跡となる一ツ石なるものがあって、
その解説板だけ見ていきましょう。

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ゴルフしないのでね・・・ゴルフ場に入ることはないのだけど、
見させてくれたりはしないのかな・・・

さて、赤の道は特におもしろくもないですし、
青の想定棒道は進めないので、緑の高榮寺道を追ってきましょう。
ここから立場川キャンプ場内の渡河地点、
その後、回りこんで原村内の棒道に進んでいきますよ。

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