2017.06.03

武田氏館西曲輪発掘調査現地見学会 + 桃と桜と信玄公 3/18

もう話が前後しまくり・・・書きやすいところから書いていくの術。
ということで、2ヶ月ほど前の武田氏館西曲輪の話。

もういつ行ってもブルーシートが掛けられているだけ、
なんですけども、現地説明会の予定が
Twitterで流れてきて、これは行かねばと・・・・!!

◆武田氏館発掘調査現地見学会◆

まずは、梅翁曲輪から。実はこの現説あったのも
知っていたんですけど、武田滅亡遺構の増設だからいいか…
とパスしていたんですよね。

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梅翁曲輪の南にある大きな堀を松木堀といい、
ここに通路を通して、堀や曲輪の整備を進めていくとのこと。

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土塁の内側には、土留めのようにも見える石積。
後世の時代のものかもしれません。

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そして、この赤丸で囲った部分が南側の虎口。

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真田丸でも話題になった浅野家文書にある
甲州古府中の図でもしっかり描かれてあります。赤丸。

Asa

航空写真だとこんな感じ。同じく赤丸。

Bai

実は青い部分のお土産物屋のかぶとやさんの
真南の広場が集合場所だったんですが、
ちょうどここが東側の虎口の枡形から堀に相当した部分。
浅野家文書、航空写真ともに青で囲ったあたり。

ちょっと今のままでは、史跡としてはわかりにくい感じですけど、
どう2019年に向けて、整備されていくのか楽しみです。

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こちらが西側の虎口?今は堀底から坂があって虎口になってますが、
実際はなくって、外側へ木橋が架かってあっただろうという推測。
ただ、浅野家文書の縄張りとは合わず、考察が要りそう。

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さて、本題の西曲輪へ。

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いまはちょっと見づらくなっていますが、
左手には愛宕山、右手には湯村山が見えて、
また扇状地の奥に位置しているため、
南側には非常に開けていて、よく見渡せたはず。

愛宕山方面。

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湯村山方面。

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当時はまだ今川からの脅威も去っていない時代ですし、
今川に備えた立地でもあったのでしょうな。

そして南側の虎口の。。。ここ!ここよ!
大きな石の下に石が埋まっていますよ・・・!!

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これ、実は武田氏時代の門の礎石だそうです。
徳川・豊臣時代の石垣の下にあるということは、
武田氏時代の土塁に被さって、石垣が積まれている、
ということがよくわかりますね・・・・

ただ、西側は側溝ができたときに外されたと思われるそうで、
残念ではありますけれども・・・

今回の発掘は西曲輪の中段から下段にかけて。
今回発掘して以降南側は、後世の造成が入っており、
発掘してもあまり成果はなかったようです。

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拡大。

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以前、武田神社の講演会でも聴いたように、
扇状地の地形を活かした構造になっていて、本曲輪は
三段のひな壇構造になっていた
ことを知りましたが、
西曲輪も三段になっていたようです。

ただし、上段は極めて狭く居住スペースを
取るには難しいと思われ、倉庫などの利用がなされていて、
中段が義信の住まいだったと想定されているようです。

今回中段近辺で遺構が出てきましたが、下段はどうも
武田神社創建時に外苑として位置づけられ、
何らかの手が入ったのではないか、ということでした。

ただ、写真1と示されているあたりから、
何らかの建物の礎石と思われる遺構、さらには、
細かな石敷きの遺構が発見。

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ハッキリとはわからないものの、西曲輪にも本曲輪同様、
下段には庭園があった可能性があるとのこと。

石敷き遺構の石を拡大。青いきれいな色をしています。
この石は甲府周辺からは取れず、おそらく塩川あたりから採ってきた
と考えられていて、本曲輪の庭園跡からも検出。

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その奥にも石積み遺構が・・・

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さて、ちょうど中段から下段にかけてのところに、
モッコリと盛り土がしてあって、土の坂になっている中から
中段と下段を分かつ石積が出てきました。

どうやらこれも、武田神社の神社としての造成時によるもの
ではないかと考えられます。神社をつくるのに、
派手に遺構を破壊か・・・と思うと、ちょっとやるせないですけど、
中段の石垣遺構は土盛して、残されたのはまだよかったですかね。

図面に写真2とある部分。

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拡大。手前に側溝があり、その上に石積、
さらに通路があって、その奥向かって左手から回り込んで、
中段に入っていくような構造になっているよう。

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石積み拡大。土留めというよりは、見せる石積、
という感じがすごくしますよね。

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非常に残りがいいですよね・・・これが幕末明治期まで
残っていたのでしょうね。大正時代の武田神社創建以前の、
館跡の古写真とかないでしょうか・・・嗚呼。

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側溝部分。

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中段の内側のほう、石積と石積の間の築地の痕跡。

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手前が内側(中段側)奥が外側(下段側)。
盛り土の量の多さもありますが、現在は緩やかな坂であるのが、
往時は、相当な高さの土塁と石積で区切られていたことがわかります。

この土塁の頂上部分には築地塀などあったのでしょうかね。

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そのお隣の部分。ずっと石積が続いているのが解りますね。

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もうひとつ東隣の現場。写真左真ん中のチョコケーキ
みたいなカタマリの大きさ・深さの量の土で、
この部分が埋められてしまっていましたわけですね。

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しかし・・・埋めてしまうよりも、この石積をうまく使った方が
絶対いいのにな・・・わずか100年程度の昔ですが、
価値観は大きく違っているのだな、と思わずにはいられません。

おや、さらに深く掘ってる部分がありますね?

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どうやらここには、天文24(1555)年に義信居館として、
西曲輪が造成される前、この位置に
堀があった痕跡があるのだそう。信虎期、もしくは晴信期初期に
現在の西曲輪の北側に曲輪があって、その南を守る堀、
という解釈になりましょうか。

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反対側から。そこがなかなかこちらからでは
撮れないのですが、ちょくちょく石が挟まっているのが気になります。
これも遺構を構成していた一部が無造作に埋められているのか・・・

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一番東側の発掘現場でも、古い時代の堀の検出があるようです。

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こちら。少し水を含んでいます。まぁ、本曲輪と西曲輪の堀も、
空堀部分でも少し水が滲み出してますから、
掘れば水分は出てくるところなのでしょうけれども。

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このあたりはあまり、石積の遺構の残りはよくなさそうです。

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資料にもあるように、堀は現曲輪に平行しておらず、
少し北西から南東にかけて斜めになっているようです。ふむ。

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よく見ると、堀の延長線上に等高線が乱れている部分があって、
ここが堀として、つながっている可能性があるのではとのこと。
特に東側が等高線が少しくぼんでいますね。

ということで、今ではもうブルーシートが被されていて
再び見ることはできないのですが、この成果を
19年にできるという武田氏館の解説がなされるという
資料館で見られるといいですよね・・・

◆山梨県立博物館◆

この後は、山梨県立博物館で「桃と桜と信玄公」展示。
桃と桜は皆目見ず(笑)、信玄公関連の展示ばかりじろじろ。

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せっかくなんでブータン展も一緒に見てきましたけどね。

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もともとは、清水寺(せいすいじ)に伝わる勝軍地蔵を見に
行くために、県立博に来たわけですけども。
武田不動尊や円光院蔵勝軍地蔵・刀八毘沙門天像
の作者である康清の作であります。

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博物館内・・・あれあれ?畠山義続さんがいますよ?
(いぢわるな言い方)

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しかし、勝軍地蔵よりも気になったのがやはり信玄公御屋形図。
武田神社の現地看板にもありますけど、やはりここから
読み取れることはたくさんありましたね・・・

<信玄公御屋形図>

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まず、東の大手から進んできて、向かって右手、
つまり北側に「是地形高シ」「此地形高シ」とあるんですね
(赤で囲った部分)

1

ここは信玄公の奥、つまり信玄公の座間・座所や台所、
そして不動堂・毘沙門堂がある上段。
つまり、本曲輪が三段になっていたその中段と上段の高低差
を指しているというわけです。

奥と不動堂・毘沙門堂の行き来ができたか?までは
この図からは読み取れませんが、いずれにしても
西曲輪発掘の様子から考えると、2~3m程度の高さが
あったのではないかと想像します。

さらに黄の丸印には「二階廊下」とあります。てことは、
プライベート空間に行くたび階段上り下り・・・
ということで、狩野文庫蔵「武田信玄甲府之御屋形作之図」
にあるのと同じ内容が描かれてあります。

二階廊下になるくらいだから、やっぱり高さありますよね。
しかし、エライお方が毎度毎度階段を行き来・・・
信玄公は苦にならなかったのでしょうか?

さて、中段。ここはいわゆる表御殿。

2

主殿に入ると、脇に奏者の間、さらに「御香所」という部分
(赤四角)があります。これ・・・香をつけてから、
主殿に入れってことなの?

どうも朝廷や幕府には、「御香所」があったようなので、
これも京を意識する武田ならでは・・・なのかも。

オレンジの四角部分は、右の手前から主殿、
穴焼の間、本主殿とあります。穴焼ってなんだ・・・?
読み違いか・・・(オペラグラスで見たかった)

本主殿には「上様是ニ」とあるので、信玄公の座所なのでしょう。
江戸城で言うところの上段の間。

穴焼の間には格天井、矢天井、皆コシシヤウシとあります。
コシシヤウシはどうも「腰障子」と読むべきでしょう。
障子戸の下部に腰板を据えたもの。
こんなことまで解るんですね・・・御殿の様子が想像しやすい。

本主殿にはフスマシヤウシとあります。襖障子でしょう。
ここでも信玄公の御座所と家臣の間との差別化が
図られていることが読み取れますよね。

表の奥(ややこしいな)には、常御対面所(緑)看経の間(水色)。

3

本主殿を江戸城大広間とするならば、
常御対面所は白書院・黒書院のような位置づけの、
私的な対面所ということになりましょうか。
やはり、こういう間取りからも中央を意識した感じがしますよね。

看経の間は・・・平山先生の「大いなる謎真田一族」で
紹介されていた、あの看経所のはず・・・

信玄公は武田軍の兵卒のために、仁王般若経の一節を
ここで唱えるのが日課だったといい、続いて有能で将来を担う
春日虎綱や若き真田昌幸のために、祈りを捧げ、
不動明王の呪文を繰り返し唱え・・・
その話に差し掛かって、虎綱と昌幸が昔話の途中で
泣いちゃうやつ。その場所だ・・・・

その看経の間を過ぎて庫裏を経た先は、風呂場(青)
西曲輪と接続する通路のすぐ北側。

信玄公=お風呂大好きイメージなだけに、どれだけ使ってた?
とか、お湯はやっぱり志摩の湯(湯村温泉)から
運ばせたりしてたの?とかいろいろと気になりますね!

近くに御旗屋(赤)があります。アケシトミとあります。
蔀戸というのもどこか京風・・・

信玄公御屋形図、江戸時代の成立らしいのですが、
創作するにしてもあまりに細かくて、そう丸々創作できるものでも
ないでしょう・・・なんらかの事情で信玄公時代のことを
知っている人物の知識が受け継がれてきたのかも。

・・・真田昌幸なんかよく知ってるだろうから、
絵図の一枚でも描いて、信幸に伝えてれば、
松代真田家に残っただろうに・・ぶつぶつ(笑)

<柳沢文庫>

壁に印刷してあった、柳沢文庫「甲府城下絵図」も楽しい。
柳澤吉保・吉里が甲府を納めた時代の甲府の絵図なんですが、
甲府城はまったく見ずに古府中をガン見(笑)

今は廃寺になっている永慶寺のそばに、現在信玄公火葬塚
とされているところに「信玄公御火葬場」と記載あり。
当時からちゃんとそう認識されてたのね。

実はこれいろいろカラクリがあります。現在信玄公の墓のひとつ、
とされていますが、そもそものきっかけは、安永八(1779)年、
「法性院機山信玄大居士・天正元年癸四月十二日薨」と書かれた
石棺が見つかったということから始まります。

当時の甲府代官、中井清太夫が再度埋葬し、
幕府に届けたうえで、信玄公の墓と定めたというもの。
このときの石棺の銘の拓本が武田神社にありますけど、
どうもあやしいらしい・・・

一方、柳沢吉保の子、吉里が甲斐を出たのは享保九(1724)のこと。
そして火葬塚から石棺が出てきたのが、安永8年(1779年)ですから、
「石棺」発掘以前は荼毘に付された地であり、墓とは認識されては
いなかったということになりますよね。

<甲州文庫>

他にもおもしろかったのは、甲州文庫から。

古府中絵図は、今の屋敷跡看板の元ネタのひとつと思われる、
字名として残る屋敷跡の位置がわかる絵図。

看板がある皆さんはいいんですが、看板にはなっていない
曾根下野守昌世の屋敷跡や、「長閑畠」なんてのもあり、
二十四将に数えられなくても、全部看板置こうよ!
と一人で興奮していました(笑)

さらに、大泉寺信虎画像、法泉寺勝頼画像の刷物。
勝頼画像は250回忌の際に、信虎画像は大泉寺でも行われた
機山公祭の際に、参詣者向けに刷られたかもとのこと。

正直、原典と比べると精度は落ちるんですけど、
刷って頒布されてるってことがすごいよね。

最後、武田晴信信玄像模本。これなかなか珍しい、
僧の姿をした、そして剃髪後の信玄公。
甲冑姿、直垂姿はありますけど、
袈裟を身につけた信玄公は珍しい気がします。

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全身を描いたものもあるんですが、いずれにせよ、
武田逍遙軒が描いた原本を安富元実なる人物が
安永4年(1857年)に写し、さらに狩野雅信が模写したとか。

個人的に信玄公のお顔の特徴として、
面長、頬骨が出てる印象があるので、ちょっと目つきは・・・
という気はするのですが、この時代の画風として、
写実性を求めてもアレなんでまぁ・・・と。似てません?

Haru1

Haru2

いずれも髷があるので、入道以前であって、
この甲州文庫のほうは入道後、ひょっとするとかなり晩年かも、
とすると年代がかなり離れていますよね。

全身像のほうは、スケッチ的で簡略的に描かれてはいるんですけど、
これまた今に他では伝わっていない、入道後の姿で、
法衣を身にまとっています。

やはり胸像と同じく眼光鋭く、下唇をかむ不動明王スタイル。
髭は短く、法衣と刀拵に武田菱。法衣の襟の辺りに花菱。
右手に閉じた武田菱入り扇子、左手に数珠。

❖9/10追記❖
実は、この史料(甲州文庫)申し込めば史料の撮影が
できることを後に知って、撮影を申し込みました。
全身像がこちら。

New_shingen

逍遙軒・・・・そんないっぱい御屋形様の像を描いてたのね。
原本伝わってないかなぁ。「あの」諏訪法性兜のヤツばかりじゃなくて、
江戸時代にだって、こういう信玄公像が描かれていた、
と思うと興味深いですよね。

ということで、非常に楽しい3/18のお話でした。

短期展示なので、図録がないのが惜しいところです。
特に信玄公像はもう一度、しっかり見たいです・・・・

また展示してくんないかな。ていうか、収蔵史料の
即日閲覧の対象に甲州文庫入ってるな。
これ、すぐ行けば見せてくれるってことじゃない・・・
今度見てこよう。申請すれば、blog用に掲載できたりする?
とにかく、また山梨県立博物館行かなくちゃ。

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2017.05.20

2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津⑤ 御薬園・会津武家屋敷 with 絵ろうそく

さて、間が開きましたが・・・・日が暮れて、御薬園に戻ります。
ほっほー!こりゃステキだぁ。

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しかし、もはや暖かいから、あっちーになりつつある今日、
雪の画像は見た目には涼しくていいですな(笑)

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基本的にろうそくが織り成す赤い光ってすごく好きで、
それだけでもいい気分になれるのですけど、庭園に雪に
ろうそくライトアップ。最高ですよ!

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陰翳礼讃・・・じゃないですが、白いひかりのもとで
生活する方が何かと便利だったりはするのですけども、
陰翳がもたらす精神的な作用みたいなものが
あるんじゃないかなぁ、って思うんですよね。

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華やかな現代的なライトアップも好きですが、
こういう落ち着きも捨てがたく。
以前は鶴ヶ城だけで終わってましたけども、
周辺も回ってみて大正解でした。

さて、続いては会津武家屋敷。こちらでも
ろうそくのひかりを楽しみます。

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会津まつりでもそうだと思うのですが、
わりと会津にいくと、会津藩や会津戦争ばかり・・・・
というわけでもなく、蘆名から取り上げようという雰囲気があり、
わたしが好感のもてるところだったりします。

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では、ひとしきり、武家屋敷の明かりをご堪能ください。

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そして、飯盛山。これがまぁ・・・かなりのハードルの高さ!
つるっつるで山登るのが大変でしたよ・・・!!

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麓は明るいんですが・・・

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これ。くらっ・・・!!!

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白虎隊の皆様のお墓までこの調子。
暗くてちょっと怖いけども、手を合わせて下山します。

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くだりがさらに怖い。。。

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さて、おそばにこづゆ。

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会津葵発見!

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こづゆはいいですねぇ・・・
酒のあてに常備したいもんですよ。

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で、呑んで食べたらおふろ。
こういう景色を見ながら、お風呂はいるのほんと素敵。
これからできる限り、東山温泉にしよかな。

瀧の湯、とはこゆこと。

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政宗所縁のさいかちの大木があります。

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こんな情景を眺めてお風呂とは、まぁ最高なわけだ。
ふふふー♪

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というわけで、この日は終わり。
翌日は、特に決まった予定もなくまったりと会津徘徊。

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2017.05.06

2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津④ 吹雪の会津若松を彷徨う

さて、翌日。やることやったんで、この日は夕方以降の
絵ろうそくまでは特に差し迫った予定もなく、
ゆーるゆると行動。

お宿の朝食、取り皿が保科の並び九曜紋を
模したお皿になっててすっごい素敵。いいよこれ。

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保科家の紋。これね。

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そして甲冑もあったりして。会津藩の侍大将
斎藤碑久右衛門所用の甲冑。色はくすんでるけど、
赤備えだよな・・・赤備えというとすぐ武田にひっつけたがるマン。

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今回、初めて東山温泉にしてみたんですが、
まぁ、いいところでしたホント。

ちょっと交通の便は・・というのはありますけれども、
なんとかはなります。会津の街中をガッツリ観光して、
BARもいってあれこれ・・・というのでなく、
ゆったりしたーいというのがコンセプトだったので、
ちょうど合っていましたね。これからも選択肢に入れてこう。

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寒いけど、寒いのはわりと平気なので、
こういう雪景色を見ながらの露天風呂はホント最高。

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どうしてもつららは見たら撮りたくなる。。。

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この日の午前中は、御薬園。会津藩松平氏の
各種薬草を栽培する薬草園であることがその名の由来。
会津藩保科・松平氏二代、保科正経時代より。

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ですが、もともとは室町中期に蘆名盛久が
この地に別荘を建てたのが発祥なんだそうですね。
割と歴史のある庭園なのですね。しらなんだ。

明かりが灯ったらキレイだろうな。夕方また来ますけど。

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しかし、雪多し。会津ってこんなもんでしょうか?
10年前に雪なし絵ろうそくを経験したからか、
会津ってそんなに降らないイメージでこのときいたもので・・・

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三層の塔。これ蘆名時代からのものなんだって!
鎌倉以来っていうけど。。別荘建てたときに、
もってきたのでしょうかねぇ。

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池までは凍らず。

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石灯籠。ここで騒ぐとあーはいはいと呆れられるやつ。

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どこ撮っても絵になって、カメラ持ってると非常に楽しい。

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真ん中にある御亭は楽寿亭というそうな。
がっつり刀傷跡。

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刀ってよりも、ハンマーか何かでぶっ叩いたような。。。

またもやつらら撮るマン。なんで惹かれるんだろ。

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お昼は会津醤油らーめん・家元こまめやさん。

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吟粋。なかなか好みでした。醤油好きには◎
極撰も気になってはいたので、一通り食べたいですね。

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さて、また雪が吹雪く中、鶴ヶ城にやってまいりました。

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大手北出丸西虎口。

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あれに見ゆるは伏兵曲輪。。。皆殺し丸。。。

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虎口の内側には石垣を置かず、内郭からの
枡形に向けてできるような構造になってるところは、
江戸城との共通性を感じますね。

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石垣上から。丸馬出だったとして、両袖に枡形があれば、
それこそ新府城と同じだよなぁ、とか思いながら。

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こんなに雪積もってるところ、誰も来ませんけどね・・(苦笑)

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北出丸石垣上から。

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あれ、天守がアタマひょっこり。

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石垣上をずんずん。

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しかしずいぶんと堀も広いよな。。。。
土塁のときはどのくらいの規模だったのだろう。。

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武徳殿もまっしろ。

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つららが規則正しすぎて笑うなど(笑)

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北出丸西虎口桝形。
こちらも城内側は石垣なく、城内側から射撃できる構造。

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西出丸の本丸に通じる通路。なんかこれみても、
丸く土塁で形成されている土の城に、
あとから石垣で増築しました!みたいな、
江戸城でいうと、外桜田門的な感じがするよね!?

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逆側から。こう・・・なんか不自然さがあるのよ。

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本丸側はずっと鉢巻石垣が続きます。

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干飯櫓。吹雪いてて前が見えないよ・・・ひぃ!

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ちょっとこれは退散だ・・・てことで、末廣酒造さんへGo!

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ウイスキーラバー的には、この蒸溜(ふかしだめ)に超ウケる(笑)

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昔の住まわれていたお部屋の中に、あるものを発見す。。。

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會津若松名城 鶴ヶ城天守閣落成記念。
皆さん喜んでられたんだろうな。。

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でも、若松城址は国指定史跡。
おそらく現天守がダメになった後、再建は叶わないでしょう。
それまでに内部構造がわかる史料が発見され、
木造で再建できればいいけど。。こここそ、現RC天守を
なんとしてでも持ちこたえてもらわないといけないよね・・・

こちらには松平容保公と徳川慶喜公の書も並んでます。
並んでるとなんだか・・・落ち着かない・・・(苦笑)

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出た!おはらしょうすけさん!
朝寝、朝酒、朝湯大好きです!(ダメフラグ)

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あれ、これ偶然だけど、日光家の家紋と同じ・・・!!

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氏郷公。氏郷推しで会津来たので買ってかえりたいところだけど、
割と値段したので諦めた。。。

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今回も熟成酒を。いいんですこれ。
そんなに高くもないんですよ、こんな年数なのに。

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さて、また鶴ヶ城に戻ります・・・雪もやんできたし。

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なんと。。。。鶴ヶ城に真田父子が!(白雪みみさま @MimiShirayuki )
しかも昇梯子昌幸に、最終形態赤備え幸村!ほっほー!
(お二人をお伺いせんと戻ったわけですが)

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甲冑つくられるのすごいよね・・・尊敬尊敬。
完全に着る専門だもん。。

後もう少し、会津葵シルクロード文明館さんで、
日が落ちるのをゆったり待ちます。

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さて、いよいよ。ろうそくの明かりが
主役になる時間が近づいてきますよ。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津③ 鶴ヶ城縄張考察・・・武田と丸馬出を求めて

さてと、会津で買った資料から考えるあれこれ。
普通は幕末あたりが売れるんでしょうけど、
蒲生氏郷推しで資料購入(笑)

それは、真田信尹、曾根昌世の会津での
事跡をもっと知りたいから、というのと丸馬出との関連。
ざっと眼を通して解ったことをメモ書きしておこうと思います。

◆真田信尹&曾根昌世コンビと鶴ヶ城◆

①氏郷が会津拝領にあたり、有能な人材の雇用を
  秀吉に願い出ていること、
②曾根昌世が鶴ヶ城に関わったとする記録の詳細。

①については、『会津旧事雑考』という書物に出てきます。
氏郷の会津移封天正18年8月ですから、
人材登用の話もこの時期といえるでしょうね。

②については、『新編会津風土記』(1809年成立)に記載あり。

文禄元(1592)年に曾根内匠に命じ、甲州流の縄張り等を用いて
内外の郭を築き・・・とあるよう。曾根の登用については、
少なくとも九戸政実の乱の直前になる天正十九(1591)年3月以前に
京都で召抱えられた、ということだそうです。

一方、盛岡藩の記録である信直記によりますと、
曾根昌世と真田信尹両名が、天正18年に召抱えられ、
九戸政実の乱へ氏郷配下として出陣している記録があります。

そうです。ということは、少なくとも九戸政実の乱開始前に

ということは、

①氏郷が会津入府に当たって人材を探していた
②その氏郷に、昌世・信尹が応じて出仕(どちらが持ちかけたか不明)
③九戸政実の乱に出陣した後、少なくとも昌世は
  氏郷から鶴ヶ城増築の命を受けている

という流れになりそうです。武田氏家臣団人名辞典によれば、
曾根昌世は、知行三千石、のち六千石。
加津野昌春こと真田信尹は、このとき真田に復姓し、
知行五千石、のち六千石。

ほぼほぼ同格の扱いということですね。

会津に入府するまで、もちろん真田昌幸との関係から、
互いに既知の間柄だったでしょうが、それ以前、
依田信蕃とともに、加津野昌春に対して、
真田昌幸の徳川内通を成功させた謝意を
伝えているそうですから、かなり見知った仲といえそう。

ということは、行動を共にし、おそらく二人セットで
召抱えられたのかもしれないと思うと、
真田信尹が鶴ヶ城の縄張普請に関わった可能性を
ちょっと想像したくなりますね。

◆北出丸・西出丸の変遷◆

また、馬出についてですが、以前現地看板に、
甲州流の丸馬出・・・とあったのですが、
新しく看板が替えられた際に、その文言が消えています。

個人的には、曾根昌世が普請した鶴ヶ城には
丸馬出があった・・・といいたいところなんですけど、どんなもんか?

実際のところ、蒲生氏郷時代の縄張り図はなくて、
蘆名時代、蒲生忠郷時代(再蒲生時代)以降であって、
氏郷時代がぽっかり抜けていることと、図面に加藤嘉明時代の
馬出の出丸化と混在して描かれてあって、なかなか難しい。

ということで、蒲生忠郷時代の縄張図をば。
文政七年(1824年)に写された蒲生忠郷支配帳より。

170506_1615_001

この頃には、北出丸・西出丸という呼称はなく、
いずれも三の丸の飛び地という扱いになっています。
脇に「馬出」とあるので、そう認識されていたのでしょう。

両者比較してみると、

①北馬出は土塁、西馬出は石垣という明瞭な差がある
②西馬出は、いわゆる左右対称な武田の丸馬出、
  もしくは、佐倉城や篠山城の角馬出とは異なる歪な形をしている

ということがわかります。

北馬出拡大。「土井」という文字が見えます。

170506_1615_0012

西馬出拡大。石垣とあります。

170506_1615_0011

また、西馬出はちょうど北部分が欠けてしまったような
形状をしています。

『新編会津風土記』に、西出丸は小さな郭だったとあり、
蒲生氏郷死後、上杉時代もしくは秀行・忠郷時代、
加藤時代の大改修を待たずに増築された小曲輪であり、
これが加藤明成によって、馬出化する、
というように、考えるのがいいかもしれません。

そういえば、と思うのは西出丸は馬出奥の通路が
中央になくてずれているんですよね。

そう考えると、本来の(氏郷時代に昌世が設計したであろう)
縄張は北出丸の方向に、土の馬出をつくった、
ということになろうかと思います。

馬出が角か、丸かという点については、
武田の築城術で特に角を否定はしていませんで、
甲陽軍鑑(末書下巻下)にも角馬出の例が出てきます。

170108_1809_002

理由はさておき、当初は丸で途中で角に作り変えられたか、
当初から角だったか、これについては決め手がありませんね。

個人的には、全般的に角ばらずに、曲線をつかって
横矢を掛けやすいという構造をしていることを考えても、
やはり、武田が得意とした丸だった、のではないか
と思いたいな、という気持ちにはなります。

さて、「会津若松市史・4 城下町の誕生」に
このようなことが書かれています。

曰く、蒲生時代は天寧寺町口から廊下橋門に到る
方向が大手筋、甲賀町口から北出丸方向を大手とするのは、
加藤嘉明の子、明成の時代。

さあ、なかなかややこしいことになります。
会津若松市史・4城下町の誕生から、
蒲生時代の鶴ヶ城縄張復元を見てみましょう。

Aizu2

非常に不思議です。やはり、大手を東側とするならば、
馬出の位置に違和感があります。というのも、
武田家の丸馬出は大手方向に防御正面を限定させて、
その正面に馬出(通例は丸型)を置く方法を取ります。

セオリー通りなら、三の丸方向に馬出がないと辻褄が合いません。
あるいは、加藤時代ではなく、蒲生時代に北馬出を
増築すると同時に大手として付け替えたと考えるのなら、
自然であるように思われます。

しかし、よくよく蒲生時代図面を見ると、答えが書いてありました。
馬出も含めて「三の丸」という扱いになっていて、
二の丸は、主曲輪の西側に位置するように書かれています。
すなわちこれは、蒲生時代から大手は北馬出方面に
あったのではないか?と思わせる手がかりになります。

従来の連郭式城郭の大手方向を付け替えて、
本曲輪に直接丸馬出をつけて、そちらを
大手としている例としては、小長谷城がそうではないかと。
類例としては、ありますのでね・・・

蘆名時代は西側に大手が合ったようだとということから、
蘆名時代の西から東に延びる連郭式の城に、
氏郷入府後、北側(対伊達)を仮想敵として
北側に丸、または角の土塁による馬出を増築、これを大手に。

西側には、北の大手馬出を補完する曲輪を
氏郷在世時より後の時代に、曲輪として増築され、
加藤氏時代に、北馬出同等の出丸として拡張整備された、
と考えておきたいと思います。

ただ、引っかかるのがこの丸印。ここ伏兵曲輪だと思うのですが、
外部に向けて虎口があるんですよね。

Aizu2

一方、加藤明成時代の大規模改築の際の図面です。
現在と同じように伏兵曲輪は閉じられています。
おそらく加藤時代の改変なのでしょう。

とすると、蒲生時代の伏兵曲輪にあたる部分は
どう理解すればいいのか・・・これはちょっとアイデアが出ないです。
もうしばらく悩んでみようと思います。

上空からの鶴ヶ城の写真。公式ガイドより。
やーっぱり、馬出が有る以上はこの方向が大手・・だよなぁ。

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ということで、どこまで鶴ヶ城が武田氏の丸馬出のセオリーで
築城されているかはもう少し考察が要りそうです。むむ。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津② 絵ろうそくまつり@鶴ヶ城~

さて、最近できました八重さん像にご挨拶して、
城内(二の丸)へ入ってまいります。

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廊下橋の堀は全面結氷。

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鶴ヶ城の縄張りは伏兵曲輪から北出丸大手が特に好き。
雪まみれになりながらも、やっぱり行っちゃう。二の丸から。

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伏兵曲輪。

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伏兵曲輪から北出丸の東虎口を背後から
襲う構え。これが凶悪・・・

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こんな風に狙われることになるのです。

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まま、この辺のことは後ほど。やってきました天守。
天守は黒!と常々言うわたしも鶴ヶ城は
やっぱりいつ見ても素敵だなぁ、と思うわけです。

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来場者も点灯式後に蝋燭で灯を点せるってことで、
スタンバイ。鶴ヶ城天守の蝋燭は点灯式用。

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式が終わった後に、チャッカマンを頂き、点灯!

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ライトオーン☆

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いくらでもつけていいようなので、いくつか点火。
天守をバックに。

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雪まみれになりながらも、夕暮れの天守を。
茶壷櫓跡近くからの眺めが好き。

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しばらくすると妖しくうす紫色にライトアップ。

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赤瓦とこのライトアップの色が非常に合いますねぇ。
ライトアップの色、というかホワイトバランスって
けっこう大事かもしれませんよね。

降りてみて。いい具合の光の当たり具合。
お城を別としても、こういうの好きです。

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なんじゃろこれ?って、ちゃんと絵になってるはず。
天守の上から確認してみましょう。

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あ、いまこっちから入場するのね。

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ついつい白い牙って思っちゃうFF脳(笑)

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天守内、割と変わっていたんですが、
個人的には、斗南藩の領有地の地図に、
余市が書かれてあったことかな!マッサーン!(笑)

鶴ヶ城外郭ラインの全容を映す床の写真。
内郭が南に置かれて、やはり南からの進軍は困難とし、
猪苗代湖方面から入って北から迫る、というのを想定してそう。

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さっきの灯かりは・・・起き上がり小法師でした。

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北方面に向くと、鉄門。ここが会津戦争で砲撃から
一番安全な場所だったらしいんだよね。

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東側ではいい光の当たり具合で、瓦と木々の共演。

P1270252

お土産所では、会津若松市史・近世1会津近世の開幕、
鶴ヶ城公式ガイド、天守再建50周年記念の蒲生氏郷図録をば。
なんで、こんなに蒲生推しなのか・・

それは真田信尹・曾根昌世の事跡の理解につながらないかな?
と思ったからなんですが、割と断片的ではあるものの、
いろいろ解ったような気がします。それは後述ということで。

お土産屋さんの奥には、「八重の桜」での容保公陣羽織、
八重さんの服が飾ってありましたよ。

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容保公の緋の衣の陣羽織に武田菱がぁぁぁ
とかいつもの病気を出してしまったりしましたが(爆)

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八重さんは会津戦争での三郎くんの遺装で。

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城の壁に彫った歌の再現もありました。

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天守を出たら、水玉~

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と思ったらすぐ消えた!?

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しばし、ここから絵ろうそくにデザインされた銅板や竹筒を
組み合わせた灯かりのアートをどうぞ。
こういうの、いつまででも撮ってられる・・・・

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篝火をみて、武田菱だ!とかいつもの病気を
発生させていたら、友人(るるぷぅさん @rurupu_aizu)
からお呼び出し。

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何度もお世話になっている丸忠さんへ。
桜肉の焼肉を頂きに!

P1270291

もっと気軽に食べられるとよいのですけども。
桜肉、焼肉にもすべきだと思うんだよなー!

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ここ、容保公とマッサン…じゃない山川大蔵さんも
撮影のときに来られていたらしいですよ?

人気のお店なので、要予約。

ということで、1日目終わり。
2日目は御薬園などのお城以外のろうそくの様子などなど。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津① 武田遺臣と要略会津藩諸士系譜~

さて、2月の会津話。絵ろうそくまつり狙いで
行ったわけですが、会津藩士のことや鶴ヶ城の縄張りも
再確認しておきたい気持ちもあって。

しかし、調べてみると以前に絵ろうそくまつりに行ったの、
実に10年も前だったんですよこれが。えええ。
しかも、雪がなかったという・・・

会津自体は、仙台と並んでわりと頻繁に来るところなんですが、
そんなに来てなかったとは・・・・今読んでみて、
前回はかなりアッサリした記録だなぁと思う一方、
なんだか年月を重ねるにつれ、記録の密度が高いというか、
いろいろ関心が増えて、記録したいことも増えてきたんだろうなと。

着いてまず、お昼。会津酒楽館。
早速呑む気マンマンです(笑)

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ささまさむね特別純米。

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・・とそば。そば屋ではないですけど、
そばで酒を呑むっていいですよね。

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日本酒の好きな飲み方のひとつ。
そして、そばも酒も抜群にうまかった。

このあと、鶴ヶ城へ。周遊バスに乗って・・・
最近どうも会津は蒲生氏郷を積極的に推しているらしく、
周遊バスもこのような諏訪原寛幸先生のかっこいい
蒲生氏郷と漆黒の七重天守があしらってありました。

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ただ、三浦正幸先生のご説明によれば、
この「七重」とは、「重」を階数で表現してしまったための誤りで、
内部構造が七階建てであって、実際は五重七階の天守
ということらしいのですよね。

時代を考えると、下見板だったでしょうから、
外観のデザインは近いのかもしれませんが、七重ではない・・・
ま、そこは細かいことは目をつぶりましょうか(笑)

せっかく蒲生氏郷を推すのであれば、真田丸にのっかって、
真田信尹、ひいては曾根昌世を推して頂いても・・・
これからに期待であります(笑)

そして、降り立っ「要略 会津藩諸士系譜」を読みふけるなど…

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もともと武田遺臣が多いということで、知ってそうな方いるかな?
というレベルの関心だったんですが、まー出てくる出てくる…

◆赤羽氏◆

最初に注目したのは、赤羽氏。

というのも、「要略会津藩諸士系譜」を知ったきっかけでもあるのです。
2015年にとあるWebニュースに、余市で初めて林檎を実らせた
赤羽源八なる旧会津藩士が、どうやら高遠以来の家臣であること、
それが「要略会津藩諸士系譜」で判明したというくだり。

会津藩と林檎のかかわりは、個人的な関心として
ニッカウヰスキーと武田家を結ぶ重要(笑)な所でありまして、
そこから会津藩士における武田遺臣をちょっと深堀したいなと思い…

いくつか会津藩に赤羽家はあるものの、系譜をたどると伝右衛門俊邦
を祖とする家が古くから保科家と関わりがありそうです。

天正十年、透光様高遠之城御乗取被成候節
軍功有之其後同年八月伊那郡御攻之時茂軍功有之候、

とあります。

この透光様とは・・・建福寺殿天関透光大居士、
つまり保科弾正忠正直。槍弾正として武田にあって
名を馳せた正俊の嫡子であり、武田の四名臣・内藤修理亮昌秀の
養嫡子・内藤大和守昌月の実兄。

実はこれに関しては、おもしろい事実があります。
天正十年高遠城落城に際し、保科正俊・正直は昌月を頼り、
一旦上州に逃れます。武田家滅亡の後、天正壬午の乱にあっては、
北条家に降って、正直が昌月から兵を借り高遠城を奪取。

昌月は武田家の要職(郡司)として強大な動員権限を
持っていたはずで、真田昌幸同様、武田家滅亡直後であっても、
一定の動員ができたでしょう。

おそらく、「透光様高遠之城御乗取被成候節」とは、
このことを指していると思われます。
ということは、赤羽氏、活躍してるじゃないか…!!

源八との関連で見ると、仮名に「源」がつくあたりから
赤羽源次右衛門俊弘という人物が、赤羽源八と関係がありそう?
文政六年(1823)年で53歳。その子として、源八郎俊政。
丸に釘抜紋で、伝右衛門俊邦に始まる家と同じ家紋でした。

元和八年道義様御小姓、とある点に注目。
道義様とは、保科肥後守正光。正直の嫡子ですね。

武兵衛茂礼と伝右衛門俊邦との系譜関係はわかりませんが、
小姓に抜擢されるということは、「高遠之城御乗取被成候節」に
功績のあった源次右衛門俊弘の一族だったのか?などと想像。

なかなか評価された一族だったのでしょうね・・・おもしろい。

◆秋山氏◆

花菱紋。文政六年時点で、万次郎義敬とあります。
本姓源氏、本国甲斐。保科・松平家に出仕はじめ不詳。
秋山良意道味から始まる6代目。

江戸時代のどこか、半ばくらいでで会津藩に仕官したのでしょうか。
秋山伯耆との関係が気になりますが、本来の秋山なら
三階菱のような気もします。

◆土屋氏◆

丸九曜を紋とし、本姓源氏本国甲斐。土屋右衛門尉昌続の子、
五郎右衛門直村の長男次郎兵衛尉清直に始まるとか・・・

直村・・・そんな人知らない・・・と思ったのですが、
八王子にあって代々五郎右衛門を名乗り、
当人は家康からの誘いを固辞し続けたものの、
家康が関東に移った後の天正十九年、関東一円の紺の買い付けを
許される紺屋頭として、転身していた土屋五郎右衛門が
どうもこの、土屋五郎右衛門直村に当たるらしいです。

召出は寛永二十(1643)年、最上御知行二百石とありますから
保科正之が会津に移る直前に仕えたのでしょう。
長男かはさておき、この土屋五郎右衛門の一族が何らかの
経緯で、保科正之に仕えたのでしょうか。

◆内藤氏◆

当時は介右衛門信全、家紋は割り菱。御知行二千石と破格。
さすが家老。仮名は慎次郎、代々内藤家は召抱えられた
源助(昌秀の曾孫)直卓以来、代々「源助」を名乗っていたよう…

信全はどうも違うよう?彼自身も養子のようで
昌月の血脈ではなさそう。会津藩士二代は、武川姓を名乗っており
(武川源助自洪)、この三男が別家を興す(三百石)。

尚、こちらも婿養子を取っている家(武川信福)もあり、
また別系統はそのまま続いているよう?(武川信自)

・・・ということで、よくある徳川/松平や、細川/長岡、
といったような同じ祖先を持ちながら宗家と分家で姓を分ける
ということを、会津藩内藤氏はやっていたようです。

武川衆だった馬場美濃ならともかく、内藤、保科の縁の分家が
なぜ「武川」なんだろうね、という点は気になります。

◆望月氏◆

本氏滋野、本国信濃。

信濃望月布引之城主望月相模守定朝之孫、
望月三清入道安光嫡男新兵衛安勝

から始まるとしてます。滋野三家の本来の望月氏の誰か?

◆有泉氏◆

文政六年には有泉大学勝尹、御知行四百石。
有泉五兵衛重治に始まり、新左衛門忠吉・・と続きます。
召出は慶長十八(1597)年三月、
七歳二而御小姓之御奉公とあります。

年代的に保科正光の小姓でしょうか。「大学」というのが
有泉大学助昌輔を想起させます。梅雪・勝千代に仕えた人。

有泉大学助昌輔は、穴山衆でも地位が高かったようですが、
天正十一年以降、穴山氏からの史料から消すとのことで、
(武田氏家臣団人名辞典)以後、上総で没するほか詳細不明。

ここから・・・・高遠、最上、会津につながるかな?

◆小山田氏◆

本姓平氏、本国甲斐ということは、平姓小山田氏につながる
(ことになっている)郡内小山田氏系でしょうか。

召出は寛文五(1665)年。亀甲内釼花菱紋というのは謎。
小山田多門貞重に始まり、伝四郎盛信、忠左衛門重好、
忠左衛門重友、伝四郎盛陽、多門盛雄、主馬盛知。

縁のありそうな名前がポンポン出てくるのは、ホント楽しいですね・・・
同じ感覚で、彦根藩(山県衆)や尾張藩、米沢藩(川中島四郡関連)
を読んでいくと面白そうです。特に米沢藩はなんと言っても、
信玄七男・武田信清がいますからね。

で、博物館そのものは、藤原泰衝vs源頼朝の阿津賀志防塁模型。
くらいしかちゃんと見てないという・・・(笑)
二重堀の迫力あるジオラマ。

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さて、このあと鶴ヶ城の気になる縄張りを見回りながら、
武田(また武田か!)に思いを馳せていきます。

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2017.05.05

2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 1/27-29 要害・積翠寺・要害山城 ~

さて、要害さんの話。要害と言っても温泉旅館のほう。
1月末で閉館してしまう、というニュースにがっかりした方も
多かったのではないでしょうか?

わたしもいてもたってもいられず、特段予定はなかったのですが、
予約を入れて、最後の要害の夜を楽しむことにしました。

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・・・というついでに新府城行って、前記事に書いたとおり、
すっごいよい環境で丸馬出見られたんですけど。

あああ・・・今見る方がなんかしんみりするなぁ。
これを撮ったときには、あまり実感なかったですけれど。

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ロビーや廊下も名残惜しくて、写真に収めちゃいました。

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ニジマスの甘露煮・・・もうお土産はSold Outでした。
ざーんねーん。

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前社長、知事さんだったのね。。。

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多くの人に愛されてきた証ですねぇ。

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「隠し」かどうかは別にして、湯村とともに近いですし、
温泉の活用はしていたんでしょうね、信玄公。

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成分表まで撮っちゃう。笑。

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そして、新府から戻った1日目の夜景。
ちょっと時間があって、贅沢をするお宿ですからね。
信玄公祭りに出演した際の宿として、特に印象深いです。

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そそ、座布団が花菱なんですよ。
武田菱センサーが反応(笑)

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お隣の文様はなんだろう。。。

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さて、要害さんでの最後の晩餐。

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なんといっても甘露煮。これがうまいんだ。
どこかでほかにないものか・・・(あったら要害名物にならんわな)

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もう1日は平山先生と飲みに出かけて、お夕飯はなし(笑)
でも、ゆっくり温泉をなんども入れて・・至福のときでした。

ということで、要害からみる甲府盆地フォトコレクション。

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明るい間は、積翠寺の屋根が見えるんですよね。
武田菱が見えてしあわせ。そしてこの地形の妙がなんとも楽しい。

日が傾き。。。

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空が紅に染まる。

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まちに明かりが灯り始める。

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あのあたりは、熊城の一部になるんだろうか?

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さて、この日は温泉ほかほかで甲府市街地へ。
偶然、平山優先生が甲府におられ、
ありがたくも飲みのお誘いに。まぁ、よっぱツイートですわ。

さて、最後の朝。前日朝に露天風呂入った折、
カメラで露天風呂からの眺めなど撮影されていた方がいたので、
わたしも早起きして、誰もいない間隙を縫ってぱしゃり。

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なかなか贅沢な空間だったのです。湯に浸かりながら、
甲府盆地を見下ろせるわけですから。

この温泉成分のついた中身の刳り貫かれた木、
ずっと現役でいくのでしょうかね。

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やっぱり、熊城っぽい。

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さて・・・最後の朝ごはん。

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のあとは、チェックアウトまで積翠寺へ。
何気に積翠寺お初なんです・・・ボソッ

脇に、要害さんの送迎バス。
百鬼丸さんの切り絵信玄公が光ります!

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歩いてものの数分も歩けば、積翠寺。
ま、露天風呂から見えてますからね。

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基本的に新しいお堂ですし、サラッと見る感じですが…
境内は行ってすぐに、信玄公像が。

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ま・・・あれですね・・・畠山さんですね・・・
甲府でご苦労様です(爆)

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つか、畠山信玄公そのものが観音様扱いでした(驚)

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由緒。わっからんよ。。。新しい看板ぷりーず。

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奥までぐるーっと回って見つけました、信玄公産湯井戸。
車道ができたときに涸れてしまったそうですが。。Oh

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あの蔵には何が入ってるのだろう。。。
とりあえず武田菱付いてるけど。

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さて、チェックアウトして、でも荷物だけはお預かり頂き、
要害山城へ。要害さんという拠点がなくなると、
ここも行きにくくなるなぁ・・・・

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最後は要害さんの送迎バスにて甲府駅まで。
お世話になりました。もうこれにも乗ることはないか。。うう。

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122年もの間、長きにわたる営業お疲れさまでした。
4月から新たな施設として生まれ変わるとのこと、
もう順調に進んでいるものと思います。

新たな事業活動が堅調に事運びますよう、お祈りいたします。
ありがとうございました。

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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 1/27 新府城 ~

ということで、また甲斐です。また・・・また甲斐か!
と真田丸家康ボイスが再生された方も多いでしょうけども(笑)

今回はもともとは行く予定にはしていなかったんですが、
積翠寺温泉・要害さんが閉館するというのを、
そのリミット1ヶ月くらい前に聞いたもので、すわ一大事!
ということで、何の予定もなく予約をつっこんだのでありました。

まー・・・とりあえず、新府城行っとく?とここ最近、
高まっている丸馬出への関心から、訪れることにしてみました。

とにかく気づいたことは、武田家が好んだ丸馬出を
存分に活かす構造になってるな!と改めて気づいたこと。

あくまで軍鑑ベースになってしまいますが、山本勘助→馬場信春、
と続く武田流城取が長篠以後もきちんと伝わってるんだ、
という気にさせてくれたことですね。

16年12月(まだ起こしてない)の諏訪原城の丸馬出講演会以来、
丸馬出ってこう使うのでは、というのが自分なりに捉えられて
きたように思うことも相まって、このタイミングに来たのがホントによかった。

ということで、じゃーん。丸馬出・三日月堀本体だけでなく、
その堀前の部分もかなりきれいに刈られているんです。

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こうしてみると、堀前の部分が土橋状に見えるほど、
極めて限られたスペースしかないことがわかり、
大手筋から進入しようとすると、長く急な斜面を登りきって、
丸馬出が見えた途端、攻め手は行き場を失うわけです・・・

別角度から。

P1260773

前後2列にながーく馬出前に並ぶのがやっと、
ここで馬出から射撃を食らって斜面に転がろうものなら、
後続の兵にもダメージが出てしまいます。

上り切った直後を想定して、少し斜面を下って丸馬出を。
もともとかなりの大きさがありますが、下がってみると、
その存在感がさらに増しますね。。。どどーん!

P1260882

測量図に線を加えてみました。

0127

赤い線に沿って急な斜面が展開されていて、
緑色の部分が土橋上に見えた、馬出前のわずかな平地。
ここに降り立ってしまうと、射撃され放題ですので、
左右の虎口を狙う青いルートを直接攻めることになりそう。

ただ、それでも狭まっていますからそう一度には攻めかかれない・・・
東側の斜面からも上ってくることは可能ですが、
いずれにせよ、虎口で渋滞せざるを得ませんね。

逆にどちらかの虎口から逆襲されようものなら、
押し倒された自軍の兵が転がり落ちた下敷きになって、
自滅していきそうな勢いの構造。。。

その斜面について。

P1260753

P1260770

丸馬出下よりも、馬出土塁上から見た方が、
いいかもしれません。敵兵が上ってくるのが一目瞭然。
やもしたら、三日月堀前に上がる前に、
矢や鉄砲で一定数は撃退することができるかもしれません。

P1260796

P1260797

P1260799

そして、実際に斜面を降りてみました。割と降りれなくもなく
傾斜はキツイですが、上れなくはないです。

P1260845

ちょっと途中から大きな段差が。ここは当時からあったのかどうか。

P1260848

P1260851

一番下まで降りるとこんな風に見えます。

P1260863

さて、再度上がってきまして、いよいよ丸馬出に侵入。
きれいに刈られていることで、丸馬出の虎口に
据えられた枡形が明瞭に確認できます(①)

P1260762

斜めのラインに土塁が見えるあたりの奥が
枡形状になっているんです。これを丸馬出土塁の西端
から撮るとこのような感じに見えます(②)

P1260779

その奥、三の丸内からこの枡形を見るとこんな様子(③)
こちらには青で進入経路、赤で土塁を囲っておきました。

Photo

測量図でみると、それぞれの番号の撮影位置はこうなります。

Ppp

おそらく①の土塁には往時は塀など遮蔽物があったと思われ、
実際には③の方角から狙われることになるのでしょう。

丸馬出土塁は今では、かなり削られているのか、
低くなってしまっていますけども・・・

P1260783

さて、反対側、東の土塁端から東の虎口をみてみましょう。

P1260785

こちらも土塁上から。(①)

P1260792

内側(大手枡形土塁上)からの眺め(②)

P1260803

こちらも測量図をどうぞ。

Higasi

さて・・・丸馬出下をちょっと探索。この地点から、
右(東)に行くと国道と交わるのですが、
逆の西方面へ。七里岩の先端に向かうことになるはず。

P1260865

うわ・・・むり。むりむりむり。

P1260872

P1260875

この石積みは・・・後世のものか・・・?

P1260876

場所はこの辺り。もう絶壁具合がすごいですね。
こちらは防御考える必要性なさそう。

Muscreenshot_20170127

ということで、丸馬出の位置とそこに到る傾斜と馬出前の
狭いスペースで撃退する絶妙な構造、両虎口前に
枡形を配備しつつ、最終防衛ラインにさらにもうひとつ
奥に枡形を配備、という徹底振りがわかりました。

ということなら、大手スルーしちゃえば?と思っちゃったんですよね。
だって強固だもん・・・ということでこれ。

大手方面に兵を進めた場合をまず考えますと・・・
あ、赤い点が丸馬出地点。赤く囲った五角形が新府城、
赤い丸はとなりの丸山という丘です。

Mumu

南から進軍してくると、青いエリアに軍が固まると思いますが、
大手丸馬出をスルーしてしまうと、丸山と城の間の道を
抜けて搦め手に回ることになります(①)。
現在の藤武神社参道階段は、もちろん当時はありません。

この道、現在は七里岩ラインとして車道が通っていますが、
けっこうな悪路なんですよね。車道の脇をみるとわかりますが、
湿地帯と小川が流れている間を進むことになり、
なおかつ、狭まっていて城と小高い丘に囲まれるという
非常に危険なルートなんです。

・・・となると、この丸山(どうも付城はなかったっぽい)にも
伏兵を置かれる可能性を考えると、大軍をこの一本道の悪路に
通すというのは、あまり得策ではないのだろうな、と思いました。
②の丸馬出を突破するしかない・・・

あとは、そもそも七里岩を降りずにそのまま新府城の背後に
迫るという手もあります。実際、諏訪方面から進むと、
七里岩と地続きですからね。

ただ、ここに立ちふさがるのが能見城。どこまでが武田のものか、
どこまでが天正壬午の乱のものか、意見は分かれるようですけれど、
何らかの防御施設はあったであろうと思われます。

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ま、いずれにしても、丸馬出という点に絞って考えると、
うまい具合に、丸馬出から攻め寄せざるをえない工夫がされていて、
しかも、丸馬出の逆襲機能をうまく引き出すよう、
地形をうまく使っているんだな・・・と思うわけですよ。

今回斜面のチカラを思い知ったこともあって、
丸馬出を使った城の最高峰のひとつ、と言えるんだろう、
とひとりナットクしていました。

最初に戻って、これ・・・もはや武田にあって、
築城の名手と言われた馬場信春はこの世にない
天正9年に築城が始まっているわけです。
これほどまでに見事に丸馬出を使いこなす
縄張りを誰が設計したのか・・・

従来まで、真田昌幸の縄張りとされていましたが、実は
根拠とされる文書が、西上野郡代として支配下にある地域に
勝頼の上意を受けて、昌幸が動員令を出しているに過ぎない、
ということで、この文書を根拠にした昌幸縄張り説は
現在では否定されています。

ということは???

解らないとしか言いようがないのですけども、
手がかりがあるとすれば、このような城の縄張を設計できるのは
武田軍がどのように戦争をするのかという、軍事機密を
熟知した重臣クラスでないとおそらく無理ではないでしょうか。

とすると、やはり真田昌幸、それに曾根昌世(後述)
あたりが絡んでいた可能性があるのかな、と想像します。
あるいは、馬場信春と姻戚関係にある加津野昌春、
つまり、真田信尹も絡んでいたという想像は、やりすぎでしょうか?

新府城と真田信尹の関係というと、隠岐殿遺跡が挙げられます。
確実に真田信尹の屋敷とはいえないまでも、
かなり蓋然性が高い、と最近言われていますよね。
それはすなわち、勝頼に近い存在だった証でもあります。
(御一門衆の多くは甲府から屋敷を移さなかった)

そして、真田信尹は後に会津に向かい、蒲生氏郷のもとに
仕官していることがわかっています。そして、もうひとり
会津に向かった武田遺臣こそ、曾根昌世。

彼は、蒲生氏郷からその縄張を任されたと新編会津風土記に
出てくるのだそう。真田信尹もその縄張りに関与した可能性、
特に義父、馬場信春からその術の一端でも学んでいたとしたら…?

真田の昌幸・信尹兄弟や昌幸・昌世の信玄公の両眼コンビが
新府城の築城に携わっていたら、と想像は膨らみますね。
いやいや楽しい、楽しい。

という気持ちを胸に、お宿へ。

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2017年・・・・もまた濃すぎて~1/7 甲府~上田~

さて、翌日早速甲府に出仕(笑)です。

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武田神社、いつも必ず関西で正月を過ごすので、
三が日に来ることは適わないのですけれども
7日の時点でまだこの人だかり。

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甲陽武能殿では人日の節供と白馬節会。

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西曲輪の発掘現場。これは後日発掘現場を
見にまいりました。思わず、真田丸の昌幸みたいに、
『お、やっとるな』とか言ってしまうなど・・苦笑。

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相変わらずの堀の深さに驚嘆してる最中に、

 真田丸・昌幸
 『わしゃそんなもん知らんぞ!御屋形様の御屋敷に
  そんなもんあるはずがない!!』

…脳内昌幸ちょっと黙ってて!

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天守台みえねーかなーと背伸びをしてみたり、

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北虎口枡形や西曲輪南西端の整備の
すばらしさに改めて感動したり。
毎度見るポイントは、決まってきますねぇ。

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新たに行ったところ、というと峰本八幡神社。
これ、石和から信虎が遷した府中八幡社の跡地に、
宮前町へ移転したあとに、祀られた八幡さま。

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峰本自治会館の裏手の、会館の中にひっそりと佇む
小さなお社ですが、甲府城鎮守の八幡宮として
移転したあとも、この地にこだわって古府中村の村人が
八幡様をお祀りしているという事実が興味深くてですね。

ただ、明治になって相川小ができて、校舎の西側に遷り、
戦後すぐ、体育館の建設でまたその体育館の南側へ、
さらに昭和61年、体育館の老朽化のため、増改築がなされた際、
現地に遷ってきたそう。狭い中でもけっこう移転してるんです。

ということで、信玄公時代の府中八幡は相川小の敷地、
ということになりそうですね。

そのあとは、そのまま西に向かって真田源太左衛門尉の屋敷跡へ。
真田丸で出てきたおこうさん(清音院殿)も、
このあたりでお過ごしになったのでしょうねぇ。

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続いて、香坂弾正、真田一徳斎屋敷跡へ。

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真田一徳斎屋敷、一徳斎が没し(1574年)、
真田源太左衛門尉が当主となって、長篠で討死(1575年)
して、昌幸が継承とめまぐるしく真田家当主変わる中で、
どのようにつかわれていたんでしょうかね・・・

武藤昌幸としては、武藤家の屋敷が本貫地にはあると思いますが、
甲府詰めの屋敷としては・・・どちらかの屋敷を
拝領していたのでしょうかね。昌幸が元服、初陣して以降、
どこにいたのかは、よくわからないですかね・・・

さて、躑躅ヶ崎。もともと躑躅ヶ崎とは、屋形の東に、
半島状に突き出た端部分を呼びます。

この名称をとって、武田の御屋敷を躑躅ヶ崎館と
呼称させたのは柳澤吉保だともいい、
武田家がいた当時からの呼称ではないんですよね。

P1260136

ちょっと先端が人工池造成で削られているようですが、
かなり屋敷に近いところまで伸びています。

藤井尚夫氏の躑躅が崎館鳥瞰図を見てみますと、これ自体は
徳川入府以降の想定図で、大手も丸馬出が破壊されて
石積になってるんですが、大手と躑躅ヶ崎の
位置関係はわかりやすいかなと思います。

C1i1qvcusaeapxl

この大手の部分に丸馬出があったそうで、
その規模と現存する屋敷の土塁の規模を考えて、
おそらく勝頼期、甲斐防衛を意識せざるを得なくなった時期に、
増築されたのではと考えられています。

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躑躅ヶ崎、少し手前までは行くことはできるので、
上ってみました。躑躅ヶ崎そのものは通行止めでしたが・・・

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躑躅ヶ崎からの屋形大手方面の眺め。
先ほどの鳥瞰図や丸馬出発掘の様子と合わせて脳内合成…

P1260144

あの先に、丸馬出があったとしたら・・・ある程度の広さと
背後から監視、強襲できる躑躅ヶ崎を押さえた点に大手を持ってくる。
左右の虎口から出撃撤退を繰り返して翻弄、
躑躅が崎に伏兵を置いて背後を奇襲とか容易に思い付きます。

家臣屋敷が立ち並ぶ開けた南側には虎口をつくらなかった
意図がちょっとわかった気がしました。

さて、翌日はぶらりと上田。ちょうどドラマ館入館
100万人達成直後、くらいだったでしょうかね(笑)

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終わり間際のドラマ館でしたが、秀吉、寧、茶々、
信繁の衣装が並んでる大坂城を模した居室、
釘隠が江戸城、名古屋城、二條城にそっくりで葵紋が
あって爆笑したりだとか・・・

ドラマで使われた上田城見取図を改めてよく見て、
鬼門の切り欠含め今の上田城跡と異なる縄張にちゃんと
してあるんだなぁ・・とか。感慨深く見てました。

大坂城への入城者一覧も、全部ちゃんと見たいよなぁ。
長宗我部土佐守盛親、織田左門頼長、
真田左衛門佐信繁、石川肥後守康勝、仙石豊前守秀範、
長岡与五郎興秋あたりまでは、確認できました。

千葉県で行われた真田丸の戦いのロケ、
堺信繁が上田市民扮する徳川軍に陣中見舞いしていて、
黒々とした徳川勢にただひとり赤備えの信繁が
記念写真撮ってて、これもかなりウケる・・・(笑)

最後に興味深いのが出演者の皆様のサイン。
草刈昌幸と吉田稲、カッチリした正統派の美しい字。
内野家康、わずかに崩しながらも、払いにクセがあるとこが
何とも味がある素敵で・・・

相変わらず黒木梅ちゃんの梅イラストかわゆすだし、
星野秀忠、真田め…(笑) って笑かしにかかってくるし・・・

近藤正信、印象に反したかわゆい字も印象的だし、
藤岡忠勝の奔放さに並ぶ小林全登のカオスサイン。
オフロスキーとか書いちゃてるよ!とか。楽しい。

あ、最後におこうさん。長野こう&吉田稲、
信幸の奥方様はどちらも素敵な字をしてらっしゃる。
信繁の奥方様は梅、春ともかわゆす系の字。
長澤きりはかわゆくもカッチリもしてる…これまた素敵。

字はある種の人柄、人となりを表すものといいますよね。
字を見ているだけで、いろいろ想像が広がります。

ということで、ドラマ館はこのくらいにして、
上田城と藩主屋敷をぶらぶら。
あ、もちろんこの武田菱スポットにも顔出しますよ(笑)

P1260190

城内の真田神社もなかなか盛況。

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この切欠は数少ない真田昌幸時代の遺構・・・とあるけど、
あの天正年間の図面を見ると、違うんじゃ・・と思ってしまうね。

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こういう解説板があるから余計に。

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堀がかちんこちん。さすがに真冬に攻城戦しないだろうけど、
水堀はこうなったら、むしろ機能殺がれるよなぁ。

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でも、純粋に見て楽しむなら、真冬の凍ってる姿も素敵。

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信之が関が原後に上田に戻って政務を取った藩主屋敷跡。
こちらもかちんこちん。

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ということで、新年の甲府・上田はこんなところ。
といいつつ、翌々週に塩山で平山先生の講演聴きに来てたり、
さらに次の週は、積翠寺温泉要害さんのラストにきたり・・・
わりと山梨ばっかりです(苦笑)

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2017.01.30

去年の今頃はシリーズ(6) 名古屋城現場見学会2016

さて、ちょっと変わって名古屋城。ちょうど年明けすぐに、
名古屋城の見学会募集をやっていたので、参加してきました。
併せて、タウンミーティングもあったんですけども・・・

2017年になって今のゴタゴタ具合を考えると、
どれだけ汲んでもらえているのか?ということを考えると、
正直やって尾張・・・じゃない終わり、という感じは拭えません。

ということで、タウンミーティングは割愛して、前日の見学会を
記録に残しておこうかと思います。

P1170478

◆天守の現状◆

ポイントとして、56年経って老朽化した部分として、
挙げられるのは・・・

電気設備など
コンクリートそのもの(後40年)
被熱した石の脆弱化
石垣の孕み
天守の耐震性能

ということ。石垣に関しては、ケーソン基礎4本が別にあるため、
石垣そのものの保護とは別に天守は考えてよさそうということですが、
やはり、コンクリートの劣化とそれに起因する耐震性能。

ここでちょっと調べてみたのですが、コンクリートの劣化、
と一口に言ってみても、それがどうして起こるのか?ということ。
この現場見学会前の解説では、中性化と言われていました。

鉄筋コンクリートは、コンクリートは実はアルカリ性で、
セメントに含まれる水酸化カルシウムが高いアルカリ状態に保ち、
内部の鉄筋に不導体被膜という薄い酸化化合物の皮膜を
つくらせるのだそう。これで、酸化つまり錆を防止しているわけ。

ところが、空気中の二酸化炭素に反応して
炭酸カルシウムになってしまうことで、PHが中性に傾き、
防錆効果が無くなってしまう・・・というのが、「劣化」なんですな。
(参考:テクノクリート施工研究会Web

あと40年は持つだろうということでしたが、
名古屋城の現天守の非破壊再生は不可能なくらいに
進んでいるのでしょうか?改めてメモを振り返っていて、
その点、気になるところです。

あと気になった点と言えば、DVD上映では、
史実に忠実な再建が可能な、「唯一」のという表現が。
まぁ、名古屋城に適う天守は他にはないのだけども、実際。

また改めて振り返っておきたい文化庁の見解。
地元の自治体がどのような整備をするのかを決めるのが第一、
復元する場合は、材料等は同時代のものを使うなどが原則。
ただし、それ以外の可能性を排除するものではない、と。

名古屋城の場合は、史料が豊富なため、史実に忠実な
再建を目指すべきという見解が復元検討委員会で
総意となる可能性が極めて高い、とも。

ここで読み取れるのは、

・文化庁は復元に当たってイニシアチブは取らない
・原則は木造再建、ただし価値が認められる場合はその他の選択肢も
・木造再建以外の可能性を最初から排除はしない

ということ。何度か書いていますが、この文化庁が
イニチアチブを取らないという点は、非常に引っかかる点なのです。
この点については、後述。

ちなみに、インターネットで募集した意見(H25年)では、
500人の公募による名古屋市民の意見。

70%以上が現状維持、つまり現天守の維持を求める
意見が多かったとのこと。これはこれで意見として、
受け止めるべきでしょうが、

・文化庁の許可がないと、RC天守再建は不可
・解体せずに現RC天守を存続できる方法があるのか?

について、どれだけ理解されてるのでしょうかね?
当時から4年経ったわけですが、このアンケートに対して、
ちゃんと上記のフィードバックを名古屋市は市民にしたのでしょうか?
市議会でのどんな議論もあまり詳しくは説明されず・・・

40年もつといわれる現天守の耐震補強ですが、
そもそもどういう仕組みで補強するのか?
それによって、40年後はどうするのか?という点について、
議論が進んでいるとはいえず、結局市のごり押しが目立つだけ
といわざるを得ない、というのが改めて振り返った感想。

耐震補強後、40年後に木造建て替えよりも、
今やるべきだという調査結果ももっと議論されるべきだと思うんですが…

耐震改修しても40年程度はもつらしいけど、
それって問題の先送りでしかないんですよね。
木造再建を諦めるなら、名古屋城天守はいつなくなっても
もう諦めるくらいの覚悟を持ってるんでしょうか??

以前より、城郭建築の再建が日本各地で起こっていることにつき、
各地がバラバラに再建運動を進める危険性を考えています。

つまり、単独でみれば数百億単位の財源があれば
再建可能ではあるものの、江戸城、名古屋城、小田原城はじめ、
図面や雛形など再建に足る史料が揃っている天守が
同時に再建が進むと、大径木の材が不足するのではないか?

そもそも、長い年月を経た大径木の材は数が限られ、
また当然ながら百年程度では、材はそこまで成長しません。
このジレンマをどう解決するか?は、中央の所轄官庁である
文化庁がイニシアチブを取るべきではないかと思うのです。

もう少し強い調子で言うならば、名古屋市民の判断だけで、
名古屋城の再建にGoを出していいのか、ということ。
それは、他の天守やその他歴史的建造物の木造再建を
妨げるかもしれないわけです。

わたしが最後に質問をさせていただきましたが、
他城でも再建計画が持ち上がっているが、
材料調達可能か?という質問に対し、40年先ではなく、
今やるべきだというのは、まさに今材料を確保しないと
材がなくなってしまうという、いわば早い者勝ちだということ。
極論すると、こういった材の先物取引も起こりかねないのでは…

外国材にするか、あるいはヒノキから材を変更するか?
という検討も他城郭と連係して考えるべきだろうと思うのです…

今やるべきでないだろう、まずが櫓からだ、
大手馬出の復元からだという意見もありますが、
やはり、早い者勝ちの材のために、天守からやるべき
というようにも聞こえました。

かえすがえすも、議論が深まっていない1年だったと思うと
残念でならないですね・・・・

◆現地見学・天守編◆

さ、気を取り直して、現地見学。
そういえば、あまり気にしてこなかったこの部分。

P1170485

これ、明かり取りなんですね。明かり取りというと、
江戸城寛永度天守にも、同様の部分が描かれていますが、
これくらいのビッグな天守になると、必要になってくるみたいで。

てっきり、江戸城天守がその戦闘性を失っていく中での
明かり取りなのかと思っていたのですが、ぜんぜん戦う気の
名古屋城であっても、明かり取りは必要なんだと。
明かり取りとはいえ、狭間としてつかえるもんねぇ。

天守台北側。ここの部分ってちょうど熱田台地の北端で
その先にある御深井丸は沼地だったんですって。
ということで、どうも北側の地盤が緩みがち…てことで、
宝暦年間に修理されてるんだけど、また石垣が孕んでる。

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そういえば、宝暦修理の際も石垣が落ち込み、
天守がこちら側に傾いてたわけで…
天守再建するにもこの石垣を積み直すのかどうか、
後記にも影響あって、議論の分かれるところかも。

ただ、ケーソン基礎があるとはいえ、石垣のためには
(全荷重を掛けるべきではないにせよ)天守の荷重
をある程度かけた方がいいんですよね。本来。

そんな崩れやすいからかどうか・・・天守台北側には、
この孕んだ石垣には危機を察知するある仕組みがあるとか!

P1170492

正解はこれ!瓶が石垣の間に挟まってます!

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割れやすい瓶を挟んでおくことで、わずかな石垣の動きを
察知しようとする仕組みなんだそうです。
アナログですが、効果ありそうですね。

ひとつじゃなく、いくつかありました。

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手前の樋の上部がかつては企画されていた天守入口跡。

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わかります?拡大してみると・・・
そういやちょっと石垣の積み方が違うような・・・??

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名古屋城は築城過程で縄張図がけっこう変わるのですが、
初期の縄張図には、空堀内に櫓を建てて、
そこから大天守内に入るプラン
だったことがわかります。

1370978

さて、大天守台と小天守台をつなぐ橋台。
ここに汚れたようにみえる茶色の部分は、
焼夷弾(ナパーム弾)の跡ではないかといわれてるそう。

P1170500

小天守があるあたり。鵜の首からみた感じ。
どうもこのあたり、濃尾地震で石垣が崩れていて、
その際に積み直しをした跡。

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一方で大天守は濃尾地震で崩れていない・・・
ということを考えると、やはり上から(ある程度の)重石が
あったほうが、耐震には有利に働くのだなと感じますね。

本丸枡形の鏡石。大きな石の回りに小さい石を
並べるのを「笑い積み」というそうだが・・

P1170507

・・・ということで、天守はここまで。
続いて、御殿編。割と行かないことが多いんですが(汗)
今回はジックリと見学。

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奥が公開されたばかり?ということで、
新たに公開された部分と車寄部分とで
杮葺の屋根の色が違いますな。

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そういや、名古屋城の本丸御殿、奥がないんですって。
というのも、名古屋城ができて、すぐ大坂の陣に出陣、
そして勝った・・・ということで、将軍の上洛殿に
なってしまったので奥がないと。

まぁ、ずっと本丸そのものは尾張藩主は普段使わず、
わずかな藩主の見回りのときくらいにしか、
入らなかったといいますからね・・・

車寄からすぐの天井。そういえばここが一番略式・・・
すぐ格天井のほうに目が行くけども、天井にも格の差が
あると思うと、ここも興味深く見えますな。

P1170516

釘隠しマニア(笑)としては、かならず撮りますね。

P1170520

どうしても御殿のほうは、こう・・・
美術品鑑賞の感覚になりますね。

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そういや、柱が四角いのが当たり前に思えますが、
襖で部屋を仕切るようになってはじめて、
柱が四角くなるんですってね。

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そういや室町~戦国あたりの屋敷って、仕切られてなくて
円かった気がしないでもない・・・

名古屋城本丸御殿の復元で、けっこうポイント高いのは
襖絵がわからないところは、無理に描かないという点。

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一面、ただの金箔押というところも。

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むしろここまで来ると清清しいですが、
わからないものは勝手な想定で復元しないという
意思の表れと思え、好感持てますね。

上段の間。松の木がバックにあるところは、
江戸城、二条城と共通。ってことは、やはり将軍の居所
ということなんでしょうかねぇ。

P1170537

帳台構や違い棚も瓜二つ。やっぱし二条城が
ベースなんだろうなぁ。

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格天井からの折上格天井。天井にも格式が、
のわかりやすいところ。折上格天井は上段の間。
・・・ちなみに、江戸城には二重折上格天井がありました。

P1170544

ということで、わりとさっくりと御殿見学終了。
退出する頃には日も落ちかかり。

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昨年夏にもう対面所の公開されてるんですよね~
まだ行ってないけども(笑)このときはまだ1月だから・・・

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個人的に好きな西南隅櫓。なかなか公開しないんだよな…
ものすごく天守的な要素があって、興味深いのです。

P1170571

割と公開されてる東南隅櫓。御殿が完全公開になったら
ここからの天守+御殿の眺めはすばらしいだろうねぇ。

P1170581

夕陽を浴びる大天守が素敵。

P1170578

名古屋城正門前の門松。これ何気ないように見えて、
名古屋城の記録「金城温古録」を参考に
作られた名古屋城式門松だとさ!細かい!

P1170582

・・・また今年も、何かイベントありますかね?
耐震不安から入城を控えさせるような話もあったりと、
なんだかいいように向かってはいないようにも・・・

名古屋城大天守は、史料が最も豊富で
最も史実に近づける天守。
だからこそ、皆に歓迎されて木造再建ができるように、
機運を醸成する丁寧な運営手腕が求められると思うのです。

誰かのごり押しで精巧で忠実な天守が建っても、
そのごり押しが歴史にちゃんと残るのです。
せっかくすばらしい天守に、そんな汚点を残してどうするのか。
天守が再建と成るプロセスもまた歴史なのですよ?

名古屋市民でなくとも、その価値に深く感じ入る
城好きとして、いいように向かうことを祈念するばかりです。

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