いつか沈む夕陽のために。
終活ノートと予定にある日。初めてWebで何かを書いてアップした日。26年前の今日。
まもなく50という節目を迎えようとしていて、この先何を糧に生きるかも勿論大事だが、こちらはまだ見通しがある。どう幕引きをするのか…ある程度は遠い将来だが、そんなはるか彼方でもない感覚。それも課題だ。
特に具体的なプランがあるわけもないのだが、影も形もなくとも、意識することが必要ではないか、と予定にだけは入れている。
人生が思い通りにはなかなか行かないものだが、何かを成し遂げ、何者かになるだけではなく、どう消えゆくかもなかなか思い通りにはいかない。何も成せず、何者でもなく、ある日突然、あるいは自由がなくなり果ててゆく。
その意味では決して長生きではないが、父はあまりにも、何かを成し遂げ、何者かになって、そしてわたしに後を託した。すごいことである。
母はまだまだ何かを為せたはずだった…とは思うのだが、難病に阻まれた。
で、だ。
本格的な老いが来る前に、老いに向き合い、どう幕引きををするか、幕引きを誰にどう託すか。パートナーが居ればというかもしれないが、あまりそれは本質的なことではない。
しきりに親である自分のためではなく、自らのために子孫を持つべきだと言われてきたが、根本的に関心が薄く、またその為にというのが引っかかるなどして、結果的にわたしはやめることになった。やめたものの、それならそれで、対案を考えねばならぬ。
そんな気持ちにこの何年となっているのも、昨年の今日書いたような、うっすらとした、しかし、しっかりとはした絶望感によるところもあるのかもしれない。
何を託し、何をどういう段取りで捨て去るのか。カネは生むものの、日に日に腐りゆく本業に付き合ってると、その反動としての生きる糧を豊かにすることには自然と心が向くのだが、超長期的視野で生活を形づくる地道な営みには、時間も気力も何も余裕がない。
せめて、わたしのその日よりも更に生き続けるであろう人たちを味方につけねばならぬ。伴走する人ではなく、バトンをわたせる人。血縁は必ずしも、頼りにはならない。
1年に何度か、そんなことをどうしようと考える日があっていいと思う。そんな人たち、結構いるんじゃないかなあ。10年先、20年先、なかなか想像つかないなあ、と結局、結論は何も出ないのである。

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