なぜ、なぜ、なぜ。
Webサイト、blog、ついった…自分の持ち場みたいなものを持って、
何らかのアウトプットを吐き出してからはや24年…来年四半世紀である。
その意味では、なにも変わってないんだな。
いろいろ吸収しては吐き出し、いろんなものが自分のなかに堆積して、
わたしをつくり続けている。
人生の、目だって大きな節目も、もうあんまない気もするし、
何が起こるかどういう世の中になるかはまるでわからないけど、、、
大きく違った思考回路で言動するようになるのはなかなか考えにくい。
何を変えず、何を柔軟に変えていくのか…
そもそも、いつまでそんな器用に立ち回れるのか、立ち回る気でいられるのか。
…そんなことを考える記念日。
いつも何かをblogに書いてるこの日のネタをずっと考えていたのだけど、
「なぜ生きているのだろう」と考え続けるキッカケをふと思い出した。
2017年、本当にオーバーワークで詰んでいた日々。
ある日、もうダメなことを自覚してHelpを方々に出し、鬱の少し手前で、
なんとか止まることができた。あの時、ずっと…
何で生きているんだろう、ということを常に考えていた。
その一方で、「取り返しの付かないこと」にまで手をかけるのは、
こうした湧いて出てくる感状に依るのだろうな、と冷静に見てもいた。
他にもたくさん道があるにもかかわらず、光がどんどん無くなって、
狭い狭いところしか見えなくなって…
少しブレイクして、状況も改善して…仕事も変わって、
いろいろ愚痴も言いつつも、今に至る。
…のだけど、「なぜ生きているのだろう」という問いが頻繁に、
頭に浮かんでくること自体は、実はなくなっていない。
あの地獄の痕跡は、逆流性食道炎の爪痕のように、
完全に消えるものではなく、実はこころの方も
寛解しているだけなのかもしれない。
その一方で、慣性に流されず、いや、慣性に流されつつも、
これまでなぜ生きようとしていたのか、流されてはいるけどどう向かいたいのか
を問い続けることも、あながち悪いことでもないなという気がしている。
「なぜ生きているのだろう」という問いは、本質的に人生そのものに、
絶対的な意味が無く、意味は如何様にでも
付けられるからこそ成り立つのだと思っていて、
多様でゆらぎのある世の中では、特にそうだろう。
これまで、好奇心を軸にして生きてきて、でもいつも同じことに
フォーカスできることもなく、ふらふらしてきてここまで来た。
ふらふらしつつも、今何がしたいんだろう、
今自分はどこにいるんだろう、決められなくてもそれを考えることに
ポジティブな価値を見いだせつつある。
普段からそんなことを考えていたからこそ、
コロナ禍という「チャンス」に、甲府に行っちゃおう、という
選択肢を異常な瞬発力で決められたからかも、と思える。
「なぜ生きているのだろう」と問い続ける先に、
また新たな節目を見つける気概を持っていよう。
…よし!
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