End of Era"s"
2/1は2004年にblogを、2011年にTwitterをはじめた記念日、ということで
毎年振り返りの機会にしているのだけど、それよりも…
1/13以降のとある事件のことに言及せざるを得ない。
というのも、TwitterがAPIの公開に制限をかけ、非公式のTwitter
クライアントアプリを実質的に締めだしてしまったからだ。
人によっては、公式アプリでも十分その人の用を満たしているのだろうけど、
情報収集にあたって、とかく見逃しを嫌い、設定した範囲(=フォロワー)の情報は
すべて目を通したい欲望の強い人間にとっては、非公式が必須。
かつて、Twiccaが提供終了になったときも大層苦労したものだが、
今回はほぼ行き先がないという苦境。
幸い、Twitpaneの作者様がいろいろ知恵を絞って生きながらえる方策を
探ってくださっているので、当面は致命的には困ってないが、
当たり前だけど、こうした情報収集の重要な術の存立が、
一企業の、それも外国の企業の判断に依存している怖さを思い知る。
かつては、自分でWebsiteをつくって、blogサービスに移り、
そしてmixiからSNSの世界に入り、今やTwitter(とその他各種)と
プラットフォームを変えてきたわけだけど、危うさを孕んでいながらも、
関心事で縁を紡ぐためには、SNSは欠かせず、そして関心事に繋がる情報を
網羅的に触れてしまう欲求が膨れ上がってしまう。
あくまでSNSは「広告媒体」が本質なのだけど、いつしか
インフラ的な側面を帯び始め、しかし経営観点で広告媒体としての価値向上に
軸足を移してしまうと(向上しているか?はさておき)、
そうした関心事で人と繋がるためのインフラは、いとも簡単に危機を迎える。
人と人との縁は、何らかの共通項はあって成り立つ。
血縁、地縁が基本的な縁のでき方で、学ぶという共通項からは学縁、
同じ会社や同じ業界という仕事の縁(社縁?)というように広がっていく。
だけど、ここ四半世紀くらいで、自分の持っている関心事で縁を紡ぐことができて、
いろいろあったにせよ、基本的にはそれをものすごく楽しんできて、
いろいろな知的な刺激や価値観の醸成につながってきたなと思っていたのだけど、
こんな簡単に関心事に従って情報収集する延長にできる、
そんな縁の紡ぎ方に不安を憶えるとは…と、ちょっと愕然とする。
多少大げさではあるのだけど、ある意味では脆い基盤のうえの、
こうした関係性の構築のやり方だけに依存しないように見直さないといけないのかもな、
と、あれ以来思うようになった。関心事で縁を繋ぐことに、ちょっと無邪気に
信を起きすぎていたかもしれないな、と。
改めて思えば、繋がるとの時は関心事という共通項はあったわけだけど、
他人も自分もたまたまその時に、関心が交錯しただけであって、
自分も他人もその向かう先は、いつも確かな方向を向いているわけではない。
関心でつながるということは、彼我の関心の変化で実質的なつながり方が変わらざるを得なくて、
つながっているままの面倒さ、苦しさ、鬱陶しさは、血縁、地縁などとはちょっと質が違うが
でも、やっぱりありはして。お互いをつなぐ「興味」がそれぞれ遠くに行ってしまってなお、
繋がっているその関係は何なのだろうか。
プラットフォームを一企業の判断に委ねざるを得ないという意味での危うさだけではなく、
そもそもの、関心事で繋がること自体の危うさもあるではないか。
人付き合いのあり方にどう向き合っていけばいいのだろう。
Twitterrificの作者が、Twitter非公式アプリの締め出しについて、
ある一つの時代の終わり…End of an Eraと表現したのだけど、
そうしたTwitterの一時代というだけではない、この四半世紀の見直しを突き付ける、
という意味でも、ある種の一時代の終わり…の始まりかもしれない。
自分の中だけのことか、多くの人もそう思うことに今後なるのかは解らないが…
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