終焉の年
年にblogを書くのは、すっかり数回止まりとなってしまった。
2017年頃が最後で以降は、普段の記録はTogetterに移行。
そして節目のタイミングで振り返るばかり…
その振り返りも、苦しい時期が続いていたから、
ある程度似たようなモノになっていた感がある
と、改めて眺めてみるとそう思う。
そんな中で、今年のこの大晦日の振り返りは
格別なモノとなりそうだ。
2019年は、「終わり」の年であるという実感があるからだ。
上皇陛下の御叡慮の賜物で、お祝いのムードの中で
令和が始まって平成がいよいよ区切りのある時代として
認識をされる過去になったという「終わり」
でも、個人的にはそれだけではなかった。
・2017年以来わたしを苦しめていた仕事が終わったこと
・両親の命が尽きてその生涯を終えたこと
・厄年が終わったこと(後厄)
厄年なんて迷信に過ぎないということは容易いが、
しかし、ちょうどその間は本当にわたしにとっては
危機的であって、精神を壊しかけ、身体も悪くし、
楽しみを何とか貪ることでどうにか過ごしていた
といってよかった。
何のために今ここにいて、何故この苦しみを
甘受せねばならぬのか。
この時期の出来事による精神的な影響は、
たぶん不可逆変化ではないだろうか?
かつてと同じように仕事に向き合う気は、
さらさらなくなってしまった。
2016年の大河ドラマ「真田丸」や武田二十四将展から
始まった歴史的な関心やお城への関心への傾倒は、
その反動ともいえるかもしれない。
たくさんの歴史講演や少しの本を読むことで、
少しでも知的好奇心を満たしそれまで以上に出かけ続ける。
負の感覚に正の感覚を正面からぶつけて
相殺する、とても穏やかならざる日々。
それに加えて、両親の病が見つかったことも
ほぼこの厄年の始まりと同期している。
偶々といえば偶々。
そしてその終わりもまた、各々の生命力次第
なのであって、また偶々。
が、それを偶々でかたづけられることは
心情がなかなか許さない。
わたしは両親ほど人間ができている
とは思えないので、死生観に常に向き合うこの3年間は、
本当に苦しみが大きかった。
当人たちの病の苦しみに比べれば…ではあるのだけど。
月に一回帰る労力よりも、帰るたびに悪化していく様子や
会話できる時が限られているという実感、
それでも気の利いた事なんて大してできない現実。
誰しもやることだろうが、○○してやれなかったという後悔。
もう残り少ないとわかったからだろうか、
いろんな事を親父が教えてくれた。
あれだけ毎年帰るたびに長く昔の自分の話をしていたのに、
まだ話すことがあったのだ。
それは特に母の生い立ちについてのこと。
なぜ母があのような性格でいたのか、
これほど腑に落ちることはなかった。
それなのに、なぜこのような、、、と思うと
なかなか落ち着いていられない。
せめて仕事がうまくいっていれば、まだ鷹揚に
構えてもいられたものを。
誕生日を迎えてすぐの通院の日、呼吸を補助するマスクを
しながらも、調子がよくていろんな会話をしていた車内。
何となくボーッと母の顔を眺めていたわたしに、
「何そんなじっと見てんの」といえる余裕があった。
まだ、もう少し、話たりなかったな。
令和になってまもなく、突然の母の身罷り。
そこから後追う父、それらが落ち着くまでは
気が遠くなるほどあまりにも長く、また短いものだった。
それにしても、父の終活があまりに素晴らしくて、
それでも随分と助かってはいるのである。
最後まで几帳面すぎる父に救われた。
父は身罷る間際、全部ちゃんとしてくれてるから後は安心、
と繰り返し言ってくれていた。
しかしそれはあくまでも周到に根回しされた終活の
素晴らしさの上に成り立つものだった。
抗癌剤にもよく耐え、もはや打つ手なしとなるまで
何でこんなに?というくらい本当に元気。
楽しみにしていたマイウイスキー余市も、
何とか、、何とか最後楽しんでもらえた。
ウイスキーのうまさを知るきっかけになった恩人に
いいウイスキーを献上するのが間に合った。
ただ、そんなもう終活を支える日々も終わろうとしている。
時間の流れが幾分緩やかに思え、目の前が少し拓けたような。
しかし、確固たるカタチは見えない。
信玄公の「三カ年の鬱憤」ならぬ、、、
日光の「三カ年の鬱屈」というべき
本当に身に染みてつらいと思った時期を抜けたかもしれない、
と思うだけで、まだその先へ手が伸びない。
ずっとわたしは「第二の人生」を歩め、
と口酸っぱく父に言われていた。
慰留され続けた会社を辞め、自身で身を起こしたように。
その第二の人生は、これから切り拓いていけるのだろうか?
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