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「北条氏康の家臣団」読了…武田との比較

黒田基樹先生「北条氏康の家臣団」読了。「戦国大名と国衆」よそに、武田クラスタが先に北条かいという感じだけど。先の狭山北条氏を念頭に置きながら、北条の黄金時代の形成について学ぶと関心の質にも範囲にも広がりが出ますな。氏康というと信玄と同年代。信虎、信玄、勝頼という三代に対応する形で、氏綱、氏康、氏政を捉えながら読み進めていったのだが、一門(北条では御一家衆というんだ)の人材の豊かさがもう武田から見てみると、もううらやましいことこの上ない。というのと、氏康段階から氏政段階への家老衆の変容に伴い、郡代(郡司)と中央執行部へ分かれていく変容過程に、この人材の豊富さと配置転換のノウハウが生きている点、勝頼目線で考えると、うらやましさに堪えない。

■武田と北条をどの時系列で比較するか…
権力委譲受ける側から見た比較

武田は信虎段階から晴信初期段階において、信虎を追放こそしたものの、信虎以来の重臣との協調体制。それが板垣・甘利の戦死、小山田の病死、最後まで残った飯富の処刑(義信事件)という形で消えていき、代わって譜代家老に徐々に晴信が育てた家臣が成長していく。こうして信玄は信虎追放以来の重臣から脱し、「自身」の家臣により家中を形成していくようになる。一方の氏康は、氏綱から極めてスムーズに権力移行しているように思え、弟為昌の死去に伴う家臣団の再編成や太田越前の取り立てはあったものの、家老衆の家の顔ぶれは大きくは変わらず、家老衆の相互の結びつきを強めるなど、より安定的に進めていくという人材活用において、氏綱の人事の遺産による恩恵を十二分に生かせている。

「其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ」という、氏綱の遺言状の出だしは、信虎・信玄の関係と比べるとあまりにも対照的だ。しかし年代観点ではなく、これまで語ったような家臣団の変容過程で捉えると、むしろ氏綱段階は、武田でいうと信玄段階に相当するような気がした。氏綱晩年期はすでに北条領国は数カ国を束ねる規模になっていて、ちょうど信玄晩年の頃に相当するのではないか。氏康に与えられた五箇条の遺言状にあるように、適材適所や勝って兜の緒を締めよで有名な大勝利は油断を招くと注意するあたりは、信玄自身の言葉と非常に重なる点がある。氏綱の人材活用法とある内容は、敢えて違いを指摘するなら、信玄の場合はたとえが多く(渋柿の話だとか)信玄自身の文学趣味が出ているところくらいだろうか。出典を隠して信玄の言葉と聞かされると、思わず納得してしまいそうで、氏康経由で信玄が氏綱の遺言状の内容を知っていたのではないか?とさえ思えるほど。

そういう種蒔きというか、人材の幅を広げていく段階というのは武田でいうと、まさに信玄段階。ということは、戦国大名の発達・変容過程としては、氏綱→氏康の家督継承は、信玄→勝頼に相当するようで、武田は組織の有り様としては、北条に一代遅れている感じさえする(いいか悪いかの問題ではない)。勝頼と氏康のそれぞれの家督継承を相対させて考えても、また悲しいくらい対照的。まさしく北条を継ぐべくして育てられ、また(やや遅めだが)死の数年前に隠居したして家督継承を行っている可能性もあって、スムーズだった氏康と、義信事件からの流れで諏方家から呼び戻され、短期間の間に征服国衆当主から武田宗家継承をいう段階を踏まざるを得なかった勝頼、と考えるとその権力基盤の安定度の差たるや、ものすごい開きがある。

■取次役の人材確保という観点での武田・北条比較
勝頼期のひとつの問題点として、国衆の取次・小指南に相当するパイプ役が信玄期と比べると非常に少なく、結果的に少数(跡部や土屋)に集中してしまい、家中の不満のひとつになったのではという考え方を理解している。信玄子飼いの優秀な近習たちが成長し、領国が拡大していく過程で、各最前線の郡司クラスに出世(山県、春日、秋山、内藤ら、馬場は城将)その次の世代として、武藤(真田昌幸)、土屋らがその位置に収まるはずだった。しかし、長篠合戦というアクシデントにより、郡司クラスを担う重臣はじめ大量の家中構成員や、有力国衆当主が討死、能な若手を郡司として前線に出さねばならなくなったという事態に直面して起きたのだろうと思っている。氏康段階の北条を考えると、御一家衆でもやや格下の玉縄北条家と家老三家でうまく取次を分担できていて、しかも比較的うまく世代交代をしている。その結果、自然と氏康が組織において、家格だけでなく、年齢的にも上位に立って采配を振るう環境ができている。

この点が武田家が組織の安定性という意味でやや一歩譲る点だろうか。武田の場合、取次役・指南役に相当する存在の位置づけが信玄の近習という個人単位であって、北条のように家で構成されていないように思った。もちろん長篠敗戦という事件はあるにしても、取次役・指南役を請け負う存在が組織として確立されていない状態で、一斉に有能な人材がいなくなると、組織として混乱するのは想像にあまりある。しかも絶対的に頼れる「はず」の一門も簡単に委ねるわけにはいかない。こういう人材不足は、キャッシュが回らなくなった黒字倒産のような、タイミングの悪さを感じる。

こうして見ていくと、氏綱段階で質のよい家臣団の取り込みを行った上で、よりシステマチックな組織運営に移行していき、さらに次代への継承できる体制づくりまでもやりきったというのが氏康段階とみることができる。前々から感じていた、同じく人材活用の妙が光る武田家と北条家にあって、ここが大きな違い。もちろん、北条も一門が多かっただけでなく、謀叛を企んだり、極端に無能や組織に害をなす一門がいなかったという幸運と組織風土に救われている部分もあるとは思うけれども。

御一家衆という親族も、北条であっても決して多すぎるほどではないし、時には若くして亡くなり、あるいは討死したりはするけれども、組織を担う重要な人物群として人材供給に事欠かない。武田の場合、信虎兄弟はほぼ族滅しているので、自ずと信玄兄弟か子息ということになるが、これまでの歴史的経緯を考えてか、主に外交関係を担う役割に限られていて、軍団を率いる立場になって目立つ人物は少ない。信玄弟なら、典厩信繁、信豊や逍遙軒信綱、穴山梅雪。信玄子息は原則みな国衆当主に送り込まれている。

古典厩信繁の死は痛いけれども、幼少の長老(信豊)の他に、信玄を支える親族衆を信玄が勝頼に宛てがうという、現当主がつくって次代に引き渡せる関係性をつくるには時間がなさ過ぎたんだよねぇ。況んや、組織の新陳代謝をうまくうやるための仕組みづくりをや・・・・こういうところが武田家の難しいところだな。北条も従属国衆当主に据えられた例(氏照や康元のち氏繁)はあるけれども、それで御一家衆が枯渇することはないんだよなぁ。

また、勝頼が長篠合戦を回避できていたら、こうしたシステマチックな組織づくりに着手できていただろうか、と考えてしまう。

■権力委譲をする側の立場から
そして、氏政との両頭体制へ。氏康→氏政を信玄→勝頼と擬えるか、勝頼→信勝と擬えるか。いずれにしても、この時期、上杉謙信との全面対決を背景として、氏政兄弟である氏照、氏規、氏邦らの台頭。氏政への家督継承は1559年末、実質的に1560年から。氏康死去は1571年。11年間の両頭体制。ちなみに信玄が勝頼の為に将軍義昭から一字拝領を求めたのは1570年。勝頼初陣はもう少し前だけど、永禄末年から元亀に掛けて少なくとも信玄からは後継者とされていたとすると、わずか3年弱。この差はやはり大きいと言わざるを得ない。また信勝元服は1579年。

いずれと比較するにしても、注目するべきかなと思ったのは、新当主に属する家臣やその兄弟衆の存在。氏照が取次役として行動を開始するのがが氏康存命時になされていて、徐々にその取り扱い範囲が広がり、発言力が増していく。このような動きはもちろん氏康の意向があっただろうと推測できる。イメージ的に勝頼にとっての信豊のような存在だと思うのだけど(信豊も国衆取次役は?だけど対上杉外交担当などやってたはず)、氏規の小田原帰還と三浦領継承とともに、氏康の意向でそう仕向けるという点が非常に重要なんだと思う。さらには、永禄後半からは氏邦も取次役として活動をし始める。

武田との比較で言うと、取次役にふさわしい人物が、近臣から時間を掛けて育てなくても、一門に任せられる素地があったこと。そして能力的にも問題なかったこと。次世代の取次という立場を前当主の指図でその立場を確立できたことというのは、ものすごいアドバンテージだろう。もちろん、信玄もその点は見越していて次世代の育成に取り組んだ。残念ながら一門から積極的にはなかなか取り立てられなかったこともあり、信玄は真田源五郎(のちの昌幸)らを氏政にとっての氏照や氏邦のようにしようとしたと思うのだけど、昌幸は信綱討死、真田家当主不在という事態に直面し、勝頼としては真田を継がせて、郡司として前線に遣るほかなかったのだろう、という苦渋の選択を想像する。

さらに重要なのは、国府台合戦かなと思った。具体的な合戦の過程はともかく、里見方に勝利するも、家老衆の討死と離叛という一大事が起きたという点。いや、起きたというだけでなく、氏康・氏政の両頭体制の時期に起きたという点が重要だろうと思う。武田における長篠ほどではないにせよ、太田氏離叛、遠山氏・富永氏の討死という状況は勝敗は別にして、晴信初期の上田原合戦くらいのインパクトはあっただろうと思われる。その采配を、両頭体制の時期に行えたのは氏政にとっては、不幸中の幸いではなかったか。勝頼は長篠敗戦の事後処理として、もっと多くの人事を短期間に、しかも滞りなく、納得感を持たせながらやらねばならなかったはずだ。

こうした下地づくりは、やはり事前に隠居した前当主でないとできない仕事だろうな。氏直の時代で滅亡してしまったけど、氏政もこの引き渡しはうまくやれていたのではないだろうか。

■氏康亡き後の氏政の自律判断

最後、氏康末期の武田との抗争。武田との抗争初期に、今川氏真を氏直(国王丸)を養子とし、北条方の駿河支配権の根拠としている点はなかなか興味深い。これが甲相再同盟で氏真は離叛独立した徳川に身を寄せるのだけれども、宗瑞、氏綱、氏康と北条家成立段階からのツナガリを捨ててでも、氏政にとっては、北条家存立のためには武田を敵に回せないのだろうな。これを家督継承直後でやるのと、ある程度場数を経て判断するのとでは大違いだろう。それにしても、武田にとってもかなりの危機だった駿河領有までの過程、北条にとってもかなりの疲弊だったことがすごくわかる。武蔵と駿河への第二次侵攻での攻勢の強さたるや。武田との再同盟に踏み切った後に、氏政が配置転換をスムーズに行えたのも(氏康が存命だったら武田と再同盟したか怪しいのに)氏政自身の経験と権力委譲がスムーズに行われ、氏政の判断に対する家中の納得感があることの証左かもしれない。余談だが、武田の際もそうだったんだけど、そして上杉クラスタから怒られそうだけど、同盟したときに頼りになると思われながら、結局頼りにならないのではないか・・・という感じがする。謙信にしても景勝にしても。なんか真田丸の、何でも請けちゃうんだけど、やり切れない景勝の姿とダブってくる。

■まとめ
総括すると、北条の、というか氏康の人の動かし方について、家中の「イエ」を確立させるという意識が特に高いように思う。武田の場合、信玄も勝頼も、守護家出身と言うこともあってか、これまでの歴史ある重臣らへも配慮しつつ、より有能な人材を如何に取り込むかに腐心しているが、なかなかそれを家という個人から離れた組織化した取り組みには至っていない。これがいいかどうかは別だし、発達段階という概念で捉えるべきものでもないとは思うけれども。北条は勢力としては新興であって、新たな組織づくりを宗瑞以来できうる環境からスタートしているからこそ、家の確立という方に意識が向くのかもしれない。この武田と北条の差というのは、個人的に両家が滅亡し、安土桃山~江戸と時代が進んで行くにつれての様相とも関係している気がしていて。

武田も北条も組織としては、徳川に取り込まれその血となり、肉になっていく。武田はその人に属したノウハウやスキルや技術、そこから派生する「ブランド」的なものを吸収し、北条はその行政や組織のシステムを吸収したような感覚でいる。武田は「武田遺臣」「武田牢人」などとその武田家とのツナガリをアピールして仕官する者がいたりして、しかし、狭山北条氏を少し知っただけだけど、そのような北条旧家臣団ネットワークというような痕跡をあまり知らない。ここまで北条の組織の有り様を、ざっと概略でレベルで眺めてきて思うのは、武田と北条の組織の特性のと違い、組織変容の段階の違い、そしてその相違点をうまくメリットを活かす形で徳川が取り込む際の取り込まれ方の違いということが、こうした江戸時代において戦国大名家の記憶の存在感の差となって出てくるんだろう、と思う。

もちろん、民衆レベルでは、甲陽軍鑑が大ヒットして、武田家臣団が広く知られることになって、今の我々と同じく、二次創作、三次創作と人々の歴史の楽しみ方の中で幾度となく反芻されてきたということもあるのだと思うのだけど、そうしたシステマチックな組織のあり方は重要でありつつも、記憶に残るのは人の記憶なのかなぁなどとぼんやり考える。もちろんバランスの問題はあるのだけど、また属人化の弊害というのはよく知られたことではあるのだけど、、、わたしの好みとしては、やはり、武田タイプの人のツナガリ方が好きだな、と思うのだよ。

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