« 2017年5月 | トップページ

2017年6月

武田氏館西曲輪発掘調査現地見学会 + 桃と桜と信玄公 3/18

もう話が前後しまくり・・・書きやすいところから書いていくの術。
ということで、2ヶ月ほど前の武田氏館西曲輪の話。

もういつ行ってもブルーシートが掛けられているだけ、
なんですけども、現地説明会の予定が
Twitterで流れてきて、これは行かねばと・・・・!!

◆武田氏館発掘調査現地見学会◆

まずは、梅翁曲輪から。実はこの現説あったのも
知っていたんですけど、武田滅亡遺構の増設だからいいか…
とパスしていたんですよね。

P1280385

梅翁曲輪の南にある大きな堀を松木堀といい、
ここに通路を通して、堀や曲輪の整備を進めていくとのこと。

P1280388

土塁の内側には、土留めのようにも見える石積。
後世の時代のものかもしれません。

P1280393

そして、この赤丸で囲った部分が南側の虎口。

P12803931

真田丸でも話題になった浅野家文書にある
甲州古府中の図でもしっかり描かれてあります。赤丸。

Asa

航空写真だとこんな感じ。同じく赤丸。

Bai

実は青い部分のお土産物屋のかぶとやさんの
真南の広場が集合場所だったんですが、
ちょうどここが東側の虎口の枡形から堀に相当した部分。
浅野家文書、航空写真ともに青で囲ったあたり。

ちょっと今のままでは、史跡としてはわかりにくい感じですけど、
どう2019年に向けて、整備されていくのか楽しみです。

P1280395

こちらが西側の虎口?今は堀底から坂があって虎口になってますが、
実際はなくって、外側へ木橋が架かってあっただろうという推測。
ただ、浅野家文書の縄張りとは合わず、考察が要りそう。

P1280397

P1280398

さて、本題の西曲輪へ。

P1280399

いまはちょっと見づらくなっていますが、
左手には愛宕山、右手には湯村山が見えて、
また扇状地の奥に位置しているため、
南側には非常に開けていて、よく見渡せたはず。

愛宕山方面。

P1280400

湯村山方面。

P1280402

当時はまだ今川からの脅威も去っていない時代ですし、
今川に備えた立地でもあったのでしょうな。

そして南側の虎口の。。。ここ!ここよ!
大きな石の下に石が埋まっていますよ・・・!!

P1280403

P1280404

これ、実は武田氏時代の門の礎石だそうです。
徳川・豊臣時代の石垣の下にあるということは、
武田氏時代の土塁に被さって、石垣が積まれている、
ということがよくわかりますね・・・・

ただ、西側は側溝ができたときに外されたと思われるそうで、
残念ではありますけれども・・・

今回の発掘は西曲輪の中段から下段にかけて。
今回発掘して以降南側は、後世の造成が入っており、
発掘してもあまり成果はなかったようです。

P1300585

拡大。

P13005852

以前、武田神社の講演会でも聴いたように、
扇状地の地形を活かした構造になっていて、本曲輪は
三段のひな壇構造になっていた
ことを知りましたが、
西曲輪も三段になっていたようです。

ただし、上段は極めて狭く居住スペースを
取るには難しいと思われ、倉庫などの利用がなされていて、
中段が義信の住まいだったと想定されているようです。

今回中段近辺で遺構が出てきましたが、下段はどうも
武田神社創建時に外苑として位置づけられ、
何らかの手が入ったのではないか、ということでした。

ただ、写真1と示されているあたりから、
何らかの建物の礎石と思われる遺構、さらには、
細かな石敷きの遺構が発見。

P1280504

P1280508

ハッキリとはわからないものの、西曲輪にも本曲輪同様、
下段には庭園があった可能性があるとのこと。

石敷き遺構の石を拡大。青いきれいな色をしています。
この石は甲府周辺からは取れず、おそらく塩川あたりから採ってきた
と考えられていて、本曲輪の庭園跡からも検出。

P1280513

その奥にも石積み遺構が・・・

P1280514

さて、ちょうど中段から下段にかけてのところに、
モッコリと盛り土がしてあって、土の坂になっている中から
中段と下段を分かつ石積が出てきました。

どうやらこれも、武田神社の神社としての造成時によるもの
ではないかと考えられます。神社をつくるのに、
派手に遺構を破壊か・・・と思うと、ちょっとやるせないですけど、
中段の石垣遺構は土盛して、残されたのはまだよかったですかね。

図面に写真2とある部分。

P1280410

拡大。手前に側溝があり、その上に石積、
さらに通路があって、その奥向かって左手から回り込んで、
中段に入っていくような構造になっているよう。

P1280412

石積み拡大。土留めというよりは、見せる石積、
という感じがすごくしますよね。

P1280414

非常に残りがいいですよね・・・これが幕末明治期まで
残っていたのでしょうね。大正時代の武田神社創建以前の、
館跡の古写真とかないでしょうか・・・嗚呼。

P1280422

側溝部分。

P1280415

P1280453

P1280450

中段の内側のほう、石積と石積の間の築地の痕跡。

P1280419

手前が内側(中段側)奥が外側(下段側)。
盛り土の量の多さもありますが、現在は緩やかな坂であるのが、
往時は、相当な高さの土塁と石積で区切られていたことがわかります。

この土塁の頂上部分には築地塀などあったのでしょうかね。

P1280417

そのお隣の部分。ずっと石積が続いているのが解りますね。

P1280407

P1280423

P1280425

P1280436

もうひとつ東隣の現場。写真左真ん中のチョコケーキ
みたいなカタマリの大きさ・深さの量の土で、
この部分が埋められてしまっていましたわけですね。

P1280427

しかし・・・埋めてしまうよりも、この石積をうまく使った方が
絶対いいのにな・・・わずか100年程度の昔ですが、
価値観は大きく違っているのだな、と思わずにはいられません。

おや、さらに深く掘ってる部分がありますね?

P1280428

どうやらここには、天文24(1555)年に義信居館として、
西曲輪が造成される前、この位置に
堀があった痕跡があるのだそう。信虎期、もしくは晴信期初期に
現在の西曲輪の北側に曲輪があって、その南を守る堀、
という解釈になりましょうか。

P1280467

P1280468

反対側から。そこがなかなかこちらからでは
撮れないのですが、ちょくちょく石が挟まっているのが気になります。
これも遺構を構成していた一部が無造作に埋められているのか・・・

P1280478

一番東側の発掘現場でも、古い時代の堀の検出があるようです。

P1280440

こちら。少し水を含んでいます。まぁ、本曲輪と西曲輪の堀も、
空堀部分でも少し水が滲み出してますから、
掘れば水分は出てくるところなのでしょうけれども。

P1280442

P1280489

このあたりはあまり、石積の遺構の残りはよくなさそうです。

P1280446

資料にもあるように、堀は現曲輪に平行しておらず、
少し北西から南東にかけて斜めになっているようです。ふむ。

P13005852

よく見ると、堀の延長線上に等高線が乱れている部分があって、
ここが堀として、つながっている可能性があるのではとのこと。
特に東側が等高線が少しくぼんでいますね。

ということで、今ではもうブルーシートが被されていて
再び見ることはできないのですが、この成果を
19年にできるという武田氏館の解説がなされるという
資料館で見られるといいですよね・・・

◆山梨県立博物館◆

この後は、山梨県立博物館で「桃と桜と信玄公」展示。
桃と桜は皆目見ず(笑)、信玄公関連の展示ばかりじろじろ。

P1280529

せっかくなんでブータン展も一緒に見てきましたけどね。

P1280522

もともとは、清水寺(せいすいじ)に伝わる勝軍地蔵を見に
行くために、県立博に来たわけですけども。
武田不動尊や円光院蔵勝軍地蔵・刀八毘沙門天像
の作者である康清の作であります。

P1280532

博物館内・・・あれあれ?畠山義続さんがいますよ?
(いぢわるな言い方)

P1280528

しかし、勝軍地蔵よりも気になったのがやはり信玄公御屋形図。
武田神社の現地看板にもありますけど、やはりここから
読み取れることはたくさんありましたね・・・

<信玄公御屋形図>

P1280536

まず、東の大手から進んできて、向かって右手、
つまり北側に「是地形高シ」「此地形高シ」とあるんですね
(赤で囲った部分)

1

ここは信玄公の奥、つまり信玄公の座間・座所や台所、
そして不動堂・毘沙門堂がある上段。
つまり、本曲輪が三段になっていたその中段と上段の高低差
を指しているというわけです。

奥と不動堂・毘沙門堂の行き来ができたか?までは
この図からは読み取れませんが、いずれにしても
西曲輪発掘の様子から考えると、2~3m程度の高さが
あったのではないかと想像します。

さらに黄の丸印には「二階廊下」とあります。てことは、
プライベート空間に行くたび階段上り下り・・・
ということで、狩野文庫蔵「武田信玄甲府之御屋形作之図」
にあるのと同じ内容が描かれてあります。

二階廊下になるくらいだから、やっぱり高さありますよね。
しかし、エライお方が毎度毎度階段を行き来・・・
信玄公は苦にならなかったのでしょうか?

さて、中段。ここはいわゆる表御殿。

2

主殿に入ると、脇に奏者の間、さらに「御香所」という部分
(赤四角)があります。これ・・・香をつけてから、
主殿に入れってことなの?

どうも朝廷や幕府には、「御香所」があったようなので、
これも京を意識する武田ならでは・・・なのかも。

オレンジの四角部分は、右の手前から主殿、
穴焼の間、本主殿とあります。穴焼ってなんだ・・・?
読み違いか・・・(オペラグラスで見たかった)

本主殿には「上様是ニ」とあるので、信玄公の座所なのでしょう。
江戸城で言うところの上段の間。

穴焼の間には格天井、矢天井、皆コシシヤウシとあります。
コシシヤウシはどうも「腰障子」と読むべきでしょう。
障子戸の下部に腰板を据えたもの。
こんなことまで解るんですね・・・御殿の様子が想像しやすい。

本主殿にはフスマシヤウシとあります。襖障子でしょう。
ここでも信玄公の御座所と家臣の間との差別化が
図られていることが読み取れますよね。

表の奥(ややこしいな)には、常御対面所(緑)看経の間(水色)。

3

本主殿を江戸城大広間とするならば、
常御対面所は白書院・黒書院のような位置づけの、
私的な対面所ということになりましょうか。
やはり、こういう間取りからも中央を意識した感じがしますよね。

看経の間は・・・平山先生の「大いなる謎真田一族」で
紹介されていた、あの看経所のはず・・・

信玄公は武田軍の兵卒のために、仁王般若経の一節を
ここで唱えるのが日課だったといい、続いて有能で将来を担う
春日虎綱や若き真田昌幸のために、祈りを捧げ、
不動明王の呪文を繰り返し唱え・・・
その話に差し掛かって、虎綱と昌幸が昔話の途中で
泣いちゃうやつ。その場所だ・・・・

その看経の間を過ぎて庫裏を経た先は、風呂場(青)
西曲輪と接続する通路のすぐ北側。

信玄公=お風呂大好きイメージなだけに、どれだけ使ってた?
とか、お湯はやっぱり志摩の湯(湯村温泉)から
運ばせたりしてたの?とかいろいろと気になりますね!

近くに御旗屋(赤)があります。アケシトミとあります。
蔀戸というのもどこか京風・・・

信玄公御屋形図、江戸時代の成立らしいのですが、
創作するにしてもあまりに細かくて、そう丸々創作できるものでも
ないでしょう・・・なんらかの事情で信玄公時代のことを
知っている人物の知識が受け継がれてきたのかも。

・・・真田昌幸なんかよく知ってるだろうから、
絵図の一枚でも描いて、信幸に伝えてれば、
松代真田家に残っただろうに・・ぶつぶつ(笑)

<柳沢文庫>

壁に印刷してあった、柳沢文庫「甲府城下絵図」も楽しい。
柳澤吉保・吉里が甲府を納めた時代の甲府の絵図なんですが、
甲府城はまったく見ずに古府中をガン見(笑)

今は廃寺になっている永慶寺のそばに、現在信玄公火葬塚
とされているところに「信玄公御火葬場」と記載あり。
当時からちゃんとそう認識されてたのね。

実はこれいろいろカラクリがあります。現在信玄公の墓のひとつ、
とされていますが、そもそものきっかけは、安永八(1779)年、
「法性院機山信玄大居士・天正元年癸四月十二日薨」と書かれた
石棺が見つかったということから始まります。

当時の甲府代官、中井清太夫が再度埋葬し、
幕府に届けたうえで、信玄公の墓と定めたというもの。
このときの石棺の銘の拓本が武田神社にありますけど、
どうもあやしいらしい・・・

一方、柳沢吉保の子、吉里が甲斐を出たのは享保九(1724)のこと。
そして火葬塚から石棺が出てきたのが、安永8年(1779年)ですから、
「石棺」発掘以前は荼毘に付された地であり、墓とは認識されては
いなかったということになりますよね。

<甲州文庫>

他にもおもしろかったのは、甲州文庫から。

古府中絵図は、今の屋敷跡看板の元ネタのひとつと思われる、
字名として残る屋敷跡の位置がわかる絵図。

看板がある皆さんはいいんですが、看板にはなっていない
曾根下野守昌世の屋敷跡や、「長閑畠」なんてのもあり、
二十四将に数えられなくても、全部看板置こうよ!
と一人で興奮していました(笑)

さらに、大泉寺信虎画像、法泉寺勝頼画像の刷物。
勝頼画像は250回忌の際に、信虎画像は大泉寺でも行われた
機山公祭の際に、参詣者向けに刷られたかもとのこと。

正直、原典と比べると精度は落ちるんですけど、
刷って頒布されてるってことがすごいよね。

最後、武田晴信信玄像模本。これなかなか珍しい、
僧の姿をした、そして剃髪後の信玄公。
甲冑姿、直垂姿はありますけど、
袈裟を身につけた信玄公は珍しい気がします。

P1280543

全身を描いたものもあるんですが、いずれにせよ、
武田逍遙軒が描いた原本を安富元実なる人物が
安永4年(1857年)に写し、さらに狩野雅信が模写したとか。

個人的に信玄公のお顔の特徴として、
面長、頬骨が出てる印象があるので、ちょっと目つきは・・・
という気はするのですが、この時代の画風として、
写実性を求めてもアレなんでまぁ・・・と。似てません?

Haru1

Haru2

いずれも髷があるので、入道以前であって、
この甲州文庫のほうは入道後、ひょっとするとかなり晩年かも、
とすると年代がかなり離れていますよね。

全身像のほうは、スケッチ的で簡略的に描かれてはいるんですけど、
これまた今に他では伝わっていない、入道後の姿で、
法衣を身にまとっています。

やはり胸像と同じく眼光鋭く、下唇をかむ不動明王スタイル。
髭は短く、法衣と刀拵に武田菱。法衣の襟の辺りに花菱。
右手に閉じた武田菱入り扇子、左手に数珠。

ちょっとうっすくてみえないんですが、山梨県立博物館の
収蔵資料検索
でヒットしますね。

逍遙軒・・・・そんないっぱい御屋形様の像を描いてたのね。
原本伝わってないかなぁ。「あの」諏訪法性兜のヤツばかりじゃなくて、
江戸時代にだって、こういう信玄公像が描かれていた、
と思うと興味深いですよね。

ということで、非常に楽しい3/18のお話でした。
短期展示なので、図録がないのが惜しいところです。
特に信玄公像はもう一度、しっかり見たいです・・・・

また展示してくんないかな。ていうか、収蔵史料の
即日閲覧の対象に甲州文庫入ってるな。
これ、すぐ行けば見せてくれるってことじゃない・・・
今度見てこよう。申請すれば、blog用に掲載できたりする?
とにかく、また山梨県立博物館行かなくちゃ。

blogramに参加してます。
ボタンを押してもらえるとうれしいですぅ。
blogram投票ボタン

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年5月 | トップページ