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2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津① 武田遺臣と要略会津藩諸士系譜~

さて、2月の会津話。絵ろうそくまつり狙いで
行ったわけですが、会津藩士のことや鶴ヶ城の縄張りも
再確認しておきたい気持ちもあって。

しかし、調べてみると以前に絵ろうそくまつりに行ったの、
実に10年も前だったんですよこれが。えええ。
しかも、雪がなかったという・・・

会津自体は、仙台と並んでわりと頻繁に来るところなんですが、
そんなに来てなかったとは・・・・今読んでみて、
前回はかなりアッサリした記録だなぁと思う一方、
なんだか年月を重ねるにつれ、記録の密度が高いというか、
いろいろ関心が増えて、記録したいことも増えてきたんだろうなと。

着いてまず、お昼。会津酒楽館。
早速呑む気マンマンです(笑)

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ささまさむね特別純米。

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・・とそば。そば屋ではないですけど、
そばで酒を呑むっていいですよね。

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日本酒の好きな飲み方のひとつ。
そして、そばも酒も抜群にうまかった。

このあと、鶴ヶ城へ。周遊バスに乗って・・・
最近どうも会津は蒲生氏郷を積極的に推しているらしく、
周遊バスもこのような諏訪原寛幸先生のかっこいい
蒲生氏郷と漆黒の七重天守があしらってありました。

P1270124

P1270125

ただ、三浦正幸先生のご説明によれば、
この「七重」とは、「重」を階数で表現してしまったための誤りで、
内部構造が七階建てであって、実際は五重七階の天守
ということらしいのですよね。

時代を考えると、下見板だったでしょうから、
外観のデザインは近いのかもしれませんが、七重ではない・・・
ま、そこは細かいことは目をつぶりましょうか(笑)

せっかく蒲生氏郷を推すのであれば、真田丸にのっかって、
真田信尹、ひいては曾根昌世を推して頂いても・・・
これからに期待であります(笑)

そして、降り立っ「要略 会津藩諸士系譜」を読みふけるなど…

P1270158

もともと武田遺臣が多いということで、知ってそうな方いるかな?
というレベルの関心だったんですが、まー出てくる出てくる…

◆赤羽氏◆

最初に注目したのは、赤羽氏。

というのも、「要略会津藩諸士系譜」を知ったきっかけでもあるのです。
2015年にとあるWebニュースに、余市で初めて林檎を実らせた
赤羽源八なる旧会津藩士が、どうやら高遠以来の家臣であること、
それが「要略会津藩諸士系譜」で判明したというくだり。

会津藩と林檎のかかわりは、個人的な関心として
ニッカウヰスキーと武田家を結ぶ重要(笑)な所でありまして、
そこから会津藩士における武田遺臣をちょっと深堀したいなと思い…

いくつか会津藩に赤羽家はあるものの、系譜をたどると伝右衛門俊邦
を祖とする家が古くから保科家と関わりがありそうです。

天正十年、透光様高遠之城御乗取被成候節
軍功有之其後同年八月伊那郡御攻之時茂軍功有之候、

とあります。

この透光様とは・・・建福寺殿天関透光大居士、
つまり保科弾正忠正直。槍弾正として武田にあって
名を馳せた正俊の嫡子であり、武田の四名臣・内藤修理亮昌秀の
養嫡子・内藤大和守昌月の実兄。

実はこれに関しては、おもしろい事実があります。
天正十年高遠城落城に際し、保科正俊・正直は昌月を頼り、
一旦上州に逃れます。武田家滅亡の後、天正壬午の乱にあっては、
北条家に降って、正直が昌月から兵を借り高遠城を奪取。

昌月は武田家の要職(郡司)として強大な動員権限を
持っていたはずで、真田昌幸同様、武田家滅亡直後であっても、
一定の動員ができたでしょう。

おそらく、「透光様高遠之城御乗取被成候節」とは、
このことを指していると思われます。
ということは、赤羽氏、活躍してるじゃないか…!!

源八との関連で見ると、仮名に「源」がつくあたりから
赤羽源次右衛門俊弘という人物が、赤羽源八と関係がありそう?
文政六年(1823)年で53歳。その子として、源八郎俊政。
丸に釘抜紋で、伝右衛門俊邦に始まる家と同じ家紋でした。

元和八年道義様御小姓、とある点に注目。
道義様とは、保科肥後守正光。正直の嫡子ですね。

武兵衛茂礼と伝右衛門俊邦との系譜関係はわかりませんが、
小姓に抜擢されるということは、「高遠之城御乗取被成候節」に
功績のあった源次右衛門俊弘の一族だったのか?などと想像。

なかなか評価された一族だったのでしょうね・・・おもしろい。

◆秋山氏◆

花菱紋。文政六年時点で、万次郎義敬とあります。
本姓源氏、本国甲斐。保科・松平家に出仕はじめ不詳。
秋山良意道味から始まる6代目。

江戸時代のどこか、半ばくらいでで会津藩に仕官したのでしょうか。
秋山伯耆との関係が気になりますが、本来の秋山なら
三階菱のような気もします。

◆土屋氏◆

丸九曜を紋とし、本姓源氏本国甲斐。土屋右衛門尉昌続の子、
五郎右衛門直村の長男次郎兵衛尉清直に始まるとか・・・

直村・・・そんな人知らない・・・と思ったのですが、
八王子にあって代々五郎右衛門を名乗り、
当人は家康からの誘いを固辞し続けたものの、
家康が関東に移った後の天正十九年、関東一円の紺の買い付けを
許される紺屋頭として、転身していた土屋五郎右衛門が
どうもこの、土屋五郎右衛門直村に当たるらしいです。

召出は寛永二十(1643)年、最上御知行二百石とありますから
保科正之が会津に移る直前に仕えたのでしょう。
長男かはさておき、この土屋五郎右衛門の一族が何らかの
経緯で、保科正之に仕えたのでしょうか。

◆内藤氏◆

当時は介右衛門信全、家紋は割り菱。御知行二千石と破格。
さすが家老。仮名は慎次郎、代々内藤家は召抱えられた
源助(昌秀の曾孫)直卓以来、代々「源助」を名乗っていたよう…

信全はどうも違うよう?彼自身も養子のようで
昌月の血脈ではなさそう。会津藩士二代は、武川姓を名乗っており
(武川源助自洪)、この三男が別家を興す(三百石)。

尚、こちらも婿養子を取っている家(武川信福)もあり、
また別系統はそのまま続いているよう?(武川信自)

・・・ということで、よくある徳川/松平や、細川/長岡、
といったような同じ祖先を持ちながら宗家と分家で姓を分ける
ということを、会津藩内藤氏はやっていたようです。

武川衆だった馬場美濃ならともかく、内藤、保科の縁の分家が
なぜ「武川」なんだろうね、という点は気になります。

◆望月氏◆

本氏滋野、本国信濃。

信濃望月布引之城主望月相模守定朝之孫、
望月三清入道安光嫡男新兵衛安勝

から始まるとしてます。滋野三家の本来の望月氏の誰か?

◆有泉氏◆

文政六年には有泉大学勝尹、御知行四百石。
有泉五兵衛重治に始まり、新左衛門忠吉・・と続きます。
召出は慶長十八(1597)年三月、
七歳二而御小姓之御奉公とあります。

年代的に保科正光の小姓でしょうか。「大学」というのが
有泉大学助昌輔を想起させます。梅雪・勝千代に仕えた人。

有泉大学助昌輔は、穴山衆でも地位が高かったようですが、
天正十一年以降、穴山氏からの史料から消すとのことで、
(武田氏家臣団人名辞典)以後、上総で没するほか詳細不明。

ここから・・・・高遠、最上、会津につながるかな?

◆小山田氏◆

本姓平氏、本国甲斐ということは、平姓小山田氏につながる
(ことになっている)郡内小山田氏系でしょうか。

召出は寛文五(1665)年。亀甲内釼花菱紋というのは謎。
小山田多門貞重に始まり、伝四郎盛信、忠左衛門重好、
忠左衛門重友、伝四郎盛陽、多門盛雄、主馬盛知。

縁のありそうな名前がポンポン出てくるのは、ホント楽しいですね・・・
同じ感覚で、彦根藩(山県衆)や尾張藩、米沢藩(川中島四郡関連)
を読んでいくと面白そうです。特に米沢藩はなんと言っても、
信玄七男・武田信清がいますからね。

で、博物館そのものは、藤原泰衝vs源頼朝の阿津賀志防塁模型。
くらいしかちゃんと見てないという・・・(笑)
二重堀の迫力あるジオラマ。

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P1270162

さて、このあと鶴ヶ城の気になる縄張りを見回りながら、
武田(また武田か!)に思いを馳せていきます。

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