2017年・・・・もまた濃すぎて ~ 2/10-12 会津③ 鶴ヶ城縄張考察・・・武田と丸馬出を求めて
さてと、会津で買った資料から考えるあれこれ。
普通は幕末あたりが売れるんでしょうけど、
蒲生氏郷推しで資料購入(笑)
それは、真田信尹、曾根昌世の会津での
事跡をもっと知りたいから、というのと丸馬出との関連。
ざっと眼を通して解ったことをメモ書きしておこうと思います。
◆真田信尹&曾根昌世コンビと鶴ヶ城◆
①氏郷が会津拝領にあたり、有能な人材の雇用を
秀吉に願い出ていること、
②曾根昌世が鶴ヶ城に関わったとする記録の詳細。
①については、『会津旧事雑考』という書物に出てきます。
氏郷の会津移封天正18年8月ですから、
人材登用の話もこの時期といえるでしょうね。
②については、『新編会津風土記』(1809年成立)に記載あり。
文禄元(1592)年に曾根内匠に命じ、甲州流の縄張り等を用いて
内外の郭を築き・・・とあるよう。曾根の登用については、
少なくとも九戸政実の乱の直前になる天正十九(1591)年3月以前に
京都で召抱えられた、ということだそうです。
一方、盛岡藩の記録である信直記によりますと、
曾根昌世と真田信尹両名が、天正18年に召抱えられ、
九戸政実の乱へ氏郷配下として出陣している記録があります。
そうです。ということは、少なくとも九戸政実の乱開始前に
ということは、
①氏郷が会津入府に当たって人材を探していた
②その氏郷に、昌世・信尹が応じて出仕(どちらが持ちかけたか不明)
③九戸政実の乱に出陣した後、少なくとも昌世は
氏郷から鶴ヶ城増築の命を受けている
という流れになりそうです。武田氏家臣団人名辞典によれば、
曾根昌世は、知行三千石、のち六千石。
加津野昌春こと真田信尹は、このとき真田に復姓し、
知行五千石、のち六千石。
ほぼほぼ同格の扱いということですね。
会津に入府するまで、もちろん真田昌幸との関係から、
互いに既知の間柄だったでしょうが、それ以前、
依田信蕃とともに、加津野昌春に対して、
真田昌幸の徳川内通を成功させた謝意を
伝えているそうですから、かなり見知った仲といえそう。
ということは、行動を共にし、おそらく二人セットで
召抱えられたのかもしれないと思うと、
真田信尹が鶴ヶ城の縄張普請に関わった可能性を
ちょっと想像したくなりますね。
◆北出丸・西出丸の変遷◆
また、馬出についてですが、以前現地看板に、
甲州流の丸馬出・・・とあったのですが、
新しく看板が替えられた際に、その文言が消えています。
個人的には、曾根昌世が普請した鶴ヶ城には
丸馬出があった・・・といいたいところなんですけど、どんなもんか?
実際のところ、蒲生氏郷時代の縄張り図はなくて、
蘆名時代、蒲生忠郷時代(再蒲生時代)以降であって、
氏郷時代がぽっかり抜けていることと、図面に加藤嘉明時代の
馬出の出丸化と混在して描かれてあって、なかなか難しい。
ということで、蒲生忠郷時代の縄張図をば。
文政七年(1824年)に写された蒲生忠郷支配帳より。
この頃には、北出丸・西出丸という呼称はなく、
いずれも三の丸の飛び地という扱いになっています。
脇に「馬出」とあるので、そう認識されていたのでしょう。
両者比較してみると、
①北馬出は土塁、西馬出は石垣という明瞭な差がある
②西馬出は、いわゆる左右対称な武田の丸馬出、
もしくは、佐倉城や篠山城の角馬出とは異なる歪な形をしている
ということがわかります。
北馬出拡大。「土井」という文字が見えます。
西馬出拡大。石垣とあります。
また、西馬出はちょうど北部分が欠けてしまったような
形状をしています。
『新編会津風土記』に、西出丸は小さな郭だったとあり、
蒲生氏郷死後、上杉時代もしくは秀行・忠郷時代、
加藤時代の大改修を待たずに増築された小曲輪であり、
これが加藤明成によって、馬出化する、
というように、考えるのがいいかもしれません。
そういえば、と思うのは西出丸は馬出奥の通路が
中央になくてずれているんですよね。
そう考えると、本来の(氏郷時代に昌世が設計したであろう)
縄張は北出丸の方向に、土の馬出をつくった、
ということになろうかと思います。
馬出が角か、丸かという点については、
武田の築城術で特に角を否定はしていませんで、
甲陽軍鑑(末書下巻下)にも角馬出の例が出てきます。
理由はさておき、当初は丸で途中で角に作り変えられたか、
当初から角だったか、これについては決め手がありませんね。
個人的には、全般的に角ばらずに、曲線をつかって
横矢を掛けやすいという構造をしていることを考えても、
やはり、武田が得意とした丸だった、のではないか
と思いたいな、という気持ちにはなります。
さて、「会津若松市史・4 城下町の誕生」に
このようなことが書かれています。
曰く、蒲生時代は天寧寺町口から廊下橋門に到る
方向が大手筋、甲賀町口から北出丸方向を大手とするのは、
加藤嘉明の子、明成の時代。
さあ、なかなかややこしいことになります。
会津若松市史・4城下町の誕生から、
蒲生時代の鶴ヶ城縄張復元を見てみましょう。
非常に不思議です。やはり、大手を東側とするならば、
馬出の位置に違和感があります。というのも、
武田家の丸馬出は大手方向に防御正面を限定させて、
その正面に馬出(通例は丸型)を置く方法を取ります。
セオリー通りなら、三の丸方向に馬出がないと辻褄が合いません。
あるいは、加藤時代ではなく、蒲生時代に北馬出を
増築すると同時に大手として付け替えたと考えるのなら、
自然であるように思われます。
しかし、よくよく蒲生時代図面を見ると、答えが書いてありました。
馬出も含めて「三の丸」という扱いになっていて、
二の丸は、主曲輪の西側に位置するように書かれています。
すなわちこれは、蒲生時代から大手は北馬出方面に
あったのではないか?と思わせる手がかりになります。
従来の連郭式城郭の大手方向を付け替えて、
本曲輪に直接丸馬出をつけて、そちらを
大手としている例としては、小長谷城がそうではないかと。
類例としては、ありますのでね・・・
蘆名時代は西側に大手が合ったようだとということから、
蘆名時代の西から東に延びる連郭式の城に、
氏郷入府後、北側(対伊達)を仮想敵として
北側に丸、または角の土塁による馬出を増築、これを大手に。
西側には、北の大手馬出を補完する曲輪を
氏郷在世時より後の時代に、曲輪として増築され、
加藤氏時代に、北馬出同等の出丸として拡張整備された、
と考えておきたいと思います。
ただ、引っかかるのがこの丸印。ここ伏兵曲輪だと思うのですが、
外部に向けて虎口があるんですよね。
一方、加藤明成時代の大規模改築の際の図面です。
現在と同じように伏兵曲輪は閉じられています。
おそらく加藤時代の改変なのでしょう。
とすると、蒲生時代の伏兵曲輪にあたる部分は
どう理解すればいいのか・・・これはちょっとアイデアが出ないです。
もうしばらく悩んでみようと思います。
上空からの鶴ヶ城の写真。公式ガイドより。
やーっぱり、馬出が有る以上はこの方向が大手・・だよなぁ。
ということで、どこまで鶴ヶ城が武田氏の丸馬出のセオリーで
築城されているかはもう少し考察が要りそうです。むむ。
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