講演:第86期「歴史文化教室」 武田勝頼の滅亡と景徳院 … 景徳院 武田勝頼・信勝・北条夫人供養塔の研究成果
景徳院といえば、武田勝頼の墓(供養塔)があり、
家康が勝頼の菩提を弔うよう、建てさせた寺院。
勝頼が自刃したとその命日に、景徳院についての講演を
聴いてまいりました。
勝頼親子の供養塔の調査ができたのも、
と関係があるというところから。
景徳院から修理の申し出があったところ、合併を待って、
合併した甲州市の予算で行えたとか・・・・
大和村のままでは調査されることなく、傾いた塔も
そのままだったかもと考えると、市町村合併の影響が
こういうところにも出るんだな、と実感。
・・・てことは置いといて本題。
◆文書の残らぬ景徳院◆
この供養塔、勝頼宝篋印塔に
「二百年遠忌 安永四年 十一世要導」
とあり、二百年遠忌に際し、当時の住職要導により
建立されたことがわかると。
ただし、弘化二年(1845年)・明治二十七年(1894年)と
二度の火災で諸堂焼失、このの火災で勝頼ほか供養塔も塔身が焼損。
現地に行った際にも確かに法号など読めなかったのだけど、
こういうことなんですね・・・おいたわしい・・・
恵林寺の信玄供養塔と霊屋が百回遠忌に建てられていて、
その際に遺臣に寄付を求めたことが奉加帳の記録から解るんだけど、
この火災の際に史料が焼けちゃったのでしょうか・・・
しかし、塩山の向嶽寺の記録(向嶽寺史)に供養塔が
建立された安永四年(1775年)に近い、
天明四年(1784年)の景徳院の様子をうかがう記述があるそうです。
曰く、向嶽寺の開山抜隊得勝の四百年遠忌の際、
経を読む僧が多数来山し、恵林寺から57人、
景徳院から55人の僧が訪れていると。
ここから、今の規模からは想像つかない、
恵林寺にも匹敵する大寺院だった可能性もあるようです。
そしてその寺を支える寺領を安堵されていたわけですね。
それくらいの規模だとしたら、同じように武田遺臣の浄財を
募ることはできそうですが、江戸時代後期に入っても
まだ武田遺臣ネットワークがあったのかなかったのか、こ
の時期における勝頼に対する捉え方などがわかったかもしれません・・・
景徳院創建には、小幡勘兵衛、つまりあの甲陽軍鑑の再編した
小幡景憲も関わっているから、その縁起など
詳しく解ったらよかったのに・・・
ということで、供養塔が建てられた時期は大寺院
だったかもしれないのですが、その後廃れ住職も居ない時代もあって、
今の住職さんもお父上の代からだそうですが、まだ短いんですね。
◆発掘成果 … 供養塔と経石から◆
さて、発掘が開始されたのが平成18年(2006年)。
ここから平成21年にかけて丹念に石の洗浄、
経文解読、整理や周辺の発掘調査が行われました。
昨年の武田二十四将展でもあった経のかかれた石が
大量に発見されたのがこのときですね。
野球のホームベースのような石に勝頼・信勝・北条夫人の戒名が
書かれた経石は三人の供養塔の左右にある
「殉難者供養塔」から発見されました。
これを皮切りに勝頼・信勝・北条夫人の供養塔の下からも
大量に見つかり、すべてあわせて5,000点を超える経石。
興味深い点は、左右の「殉難者供養塔」下と
中央の「勝頼・信勝・北条夫人供養塔下」とで
明らかな相違があるんですよね。ふむ。
①経石を収めるスペースの広さと構造。
左右のほうは三段になっている基壇の上段にのみ
経石が入る構造である一方、中央のほうは下段から
中段までの広いスペースに経石がぎっしり。
底がの盛土の厚さの違いから、向かって左側から右側にかけて、
経石の入るスペースが異なっている。
さらに重層的に経石が敷き詰められ、その層の厚さ16層。
②中央の経石には安永三年(1774年)八月銘、
左右の経石には安永九年(1780年)銘。
③中央からはほぼ書かれているのが法華経である一方、
左右の経石は四種の異なる経文が記載。筆跡も異なる。
これらから考えを進めると、わかること・・・
まず第一に、勝頼・信勝・北条夫人の供養塔と
殉難者供養塔の創建年代について。
中央経石への経文と左右経石への経文記述の年代が違う、
という点から、「殉難者供養塔」も勝頼二百年遠忌後の安永九年に
建てられたかどうか?という話。
講師の飯島氏は、中央・左右の基壇は同時期に造成され、
左右の基壇には経石だけ後に入れられたのではないかと推定。
というのも、左右基壇のほうには、後から経石を入れられるよう、
左右基壇三段目の裏側の石が抜けるようになってるんだとか・・・!!
第二に、中央基壇上の各供養塔の並びの考察。
興味深いのは、勝頼・信勝・北条夫人の各供養塔の今の並びと
その下に収められている経石埋納数の比較。
現在、供養塔向かって左から、
殉難者供養塔(左)
武田信勝供養塔(五輪塔)
武田勝頼供養塔(宝篋印塔)
北条夫人供養塔(五輪塔)
殉難者供養塔(右)
の順で並んでいるのですが、同じ順で経石数を並べると、
殉難者供養塔(左) …224点
武田信勝供養塔(五輪塔) …2,498点
武田勝頼供養塔(宝篋印塔) …1,451点
北条夫人供養塔(五輪塔) …761点
殉難者供養塔(右) …321点
と、信勝が圧倒的に多いんですね。
これは経石が入るスペースの広さにも関係していて、
向かって中央基壇の左が一番広く取られているんですよ。
しかし、供養塔が勝頼がひときわ大きく、
北条夫人・信勝が同程度の高さ(しかも勝頼は宝篋印塔、
北条夫人・信勝は五輪塔)と考えると違和感が残ります。
もうひとつは、供養塔の焼損具合。
これを焼損のひどい順に並べていくとこうなります。
殉難者供養塔(左)
武田勝頼供養塔(宝篋印塔)
北条夫人供養塔(五輪塔)
武田信勝供養塔(五輪塔)
殉難者供養塔(右)
・・・・あれっ!そうなんです。焼損のひどい
殉難者供養塔(左)と勝頼供養塔に挟まれた、
信勝供養塔だけが、ほぼ無傷の状態なんです。
てことは?もとは
殉難者供養塔(左)
武田勝頼供養塔(宝篋印塔)
北条夫人供養塔(五輪塔)
武田信勝供養塔(五輪塔)
殉難者供養塔(右)
の並びだったと考えると、経石の埋納数や
焼損具合とも矛盾なく考えることができますよね。
ある時期(明治の焼損後?)に並び替えられたのでしょうか…
第三に、勝頼二百年遠忌の執り行った記録と比較して
わかることもあるみたいです。
さらに、塩山の旧家に伝わる「保坂家文書」「勝沼古事記」に、
勝頼二百年遠忌についての記録があって、
安永八年(1779年)に執り行われてることが確認できるそう。
「保坂家文書」にはさらに詳しく、
一 武田公様田野御法事弐百年御忌、
三月八日より十四日迄と被仰出候所、御停止ニ付延引、
十五日より廿一日迄御法要有之候事、
西の丸様御遠行十四日迄御停止二候事
一 御焼香ニ罷出候、去年秋為知之御使僧来ル事、
市兵衛殿御道候
三月十六日参詣、はさみ箱ぞうり取候事、上下ニ而御焼香候、
はかま羽折ニ而玄関迄参ル事、自分当日帰り、
市兵衛殿詰居詰番勤被申、喜三郎殿も被参、
市兵衛殿替被申廿一日迄詰居被申候事・・・
□々敷御佛事御物入御用沙汰ニ候事
・・・とあります。
これらを時系列に並べると、
安永三年八月 中央経石への経文記述
安永四年三月 勝頼・信勝・北条夫人供養塔落成
安永八年三月 勝頼二百年遠忌
安永九年 左右経石への経文記述
という流れになります。遠忌前に中央経石を納めたあと、
遠忌を執り行った後、翌年に経石を納めています。
飯島氏の説のように、そもそも最初から左右経石は
後から入れることになっていた、ということや、
左右経石からは、経だけではなくって、
仏事で僧が唱える文言に三氏の戒名があるってことは、
遠忌で唱えられた内容・経が書かれてあるのかもしれませんね。
さらに、「保坂家文書」において、
個人的にここで気になるのが、「西の丸様」。
本来勝頼命日の前後の8日~14日で
二百年遠忌を執り行うところ、「御停止ニ付延引」、
とりやめで延期になって、15日から21日になってるんですね。
延期をさせる原因となった「西の丸様」が誰なのか・・・
人物比定されていませんが、西の丸というと、江戸城西の丸。
将軍の世継もしくは隠居した大御所の居所。
しかも、西の丸老中という世継付の老中という御役目があるそう。
安永八年当時、将軍徳川家治の時代。世
嗣として徳川家基がいましたが、有能で将来を嘱望されながら、
同年2月24日急死、享年18(満16歳没)。
そして、この時期西の丸老中をしているのは、阿部正允。
明和六年(1769年)8月18日から
安永八年(1779年)4月16日まで。(以上、Wikipediaから)
本来、「西の丸様」と場所で呼ばれるのは
直前に亡くなった家基でしょうが、あるいは西の丸老中をしていた
阿部正允の可能性もあります。
あるいは江戸城ではない別の「西の丸」なのか・・・
なんとなく、家基急死により西丸老中・阿部正允の都合が
つかなくなり、延期されたのかもしれません。
しかし、阿部正允あるいは徳川家基との
勝頼の関係はわかりませんが・・・・謎。
いずれにしても、「様」付けされる人物が、勝頼二百年遠忌に
参加している、あるいはその都合で日程を命日からズラしている
という点で、並々ならぬ関係性を伺わせます。
当時の勝頼の位置づけや捉え方を考える上で、
この「西の丸様」の人物比定は、重要かもしれません。
もうひとつ重要なことは、「はかま羽折ニ而玄関迄参ル事」とあり、
正装をもって参列しているということがわかりますね。
◆発掘成果 … 甲将殿周辺◆
その後、平成20年度には、景徳院(田野寺)創建時から
あるという、甲将殿周辺の発掘調査。
そもそも、今ある勝頼供養塔が二百回御忌による創建だとしたら、
それまでの景徳院はどうだったのでしょう。
当時甲府城主だった柳澤吉保の命で、荻生徂徠が
宝永三年(1706年)に甲州に赴いており、その際の記録、
「峡中紀行」に記述があるようです。
これに依りますと、後主(=勝頼)の廟に謁し、
そこには後主、郎君(=信勝)夫人の影像があり、
皆、新しく造ったものだったようです。
徂徠が墓の所在を尋ねると、景徳院の僧が言うには、
勝頼が亡くなった後、勝頼滅亡を聞きつけた
石和の広厳院七世拈橋が当地に駆けつけたそうです。
自刃から七日過ぎ、遺体には血が滴っており、
誰が君(勝頼)か臣かわからぬ有様であったため、
穴を掘って、一様に葬ったその場所に廟を建てたとあります。
これこそが、今甲将殿と呼ばれる御霊屋になるわけ。
しかし、この甲将殿のまわりを発掘すると、意外なことが
わかってきたのです。
甲将殿の中央付近は一様な土の層がある一方で、
甲将殿南北からは、表層の土から下に厚い砂礫層を発見。
甲将殿から離れるほど、深く落ち込んでいることが解りました。
おそらく、甲将殿の中央付近を頂点として東西に落ち込んだ
尾根上の地形をしていたところに、砂礫と土砂を埋めて
平坦な場所を造成しているというわけです。
そして、現在の甲将殿(明治に再建)の規模からすると、
明らかに平坦地が足りません。仮に二百年遠忌が行われた時の
甲将殿も同一の規模だとするならば、それ以前、
荻生徂徠が見たときの廟はもっと小さなものであったかもしれません。
二百年遠忌に当たって、土地造成を大規模に行って、
甲将殿を大規模に建て替え、さらに経を記した石を埋納して
供養塔を建立という大事業を行ったのかもしれません。
荻生徂徠がみたときの甲将殿は、尊像を安置した、
三人の墓そのものだったといえるのでしょう。
個人的には、この規模の大事業と「西の丸様」の都合伺い、
というのはすごく自然なことと思えました。
甲将殿の近くも発掘したらしいのですが、甲将殿そのものの
柱が危なくなりそうでやめたそうなのですが、
ひょっとしたら、そのまま掘り進めると、数十人単位の
遺骨が眠っているのかもしれませんね・・・
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