講演:日本の木造建築技術の至高・江戸城天守復元
土曜日ですが、また性懲りもなく江戸城天守のお話を
聴いてまいりました。三浦先生のお話は好きですからね・・・
建築講座「火鉢を囲んで建築の歴史」の第4回。
調査報告書出版記念とやや重なるところもありますが
その点、ご容赦ください。
◆「重」と「階」
直接江戸城は関係ないのですが、興味深かったので。
よく天守を「○重○階」という言い方しますが、
○層○階とかも言ったりもするし・・・
実は現代の学術用語として使われる言い方と、
創建当時の言い方では微妙に異なる点に注意が必要みたい。
学術用語としては、屋根の数を「重」、
階数を「階」で表現する決まりだそう。
つまり、「層」は使わないってことなんですね。ほうほう。
ただ、この「重」「階」の使い方について、屋根の数なのか、
階数なのか混同されている例もあるそう。
つまり、屋根の数を「階」と表現したりもして、けっこう曖昧。
その例として挙げられるのが、関東以北に多い「御三階櫓」。
あれ、実際は三重櫓なんですよね。三重櫓だからといって、
三階とは限らないわけですね・・・鶴ヶ城御三階も確かにそうだ!
「階」を屋根の数として表現する例の逆、
「重」を階数で表現してしまったと思われるのは、
蒲生氏郷時代の鶴ヶ城の記述。一般に七重天守といわれていますが、
内部構造が七階建てであって、実際は五重七階の天守?とのこと。
会津若松でいっぱい見たあの黒天守のイラストあかんやん・・・
ちなみに・・・天守の高さと「重」「階」は無関係。
姫路城天守は六階建てだけど、江戸城天守の五階建てのほうが
高いわけですよね。つまり階高が違うわけですね。
◆天守の起源論◆
(岐阜城)
天守の起源をどこに見出すか割りと意見が分かれるところですが、
三浦先生の今回の講演では、まずは岐阜城天主でした。
ルイスフロイスの記録によると、三重四階の御殿を「天主」としたそうで、
一階が信長の御殿、二階が帰蝶と侍女の御殿、三階が屋根裏、
四階が物見なんだそうです。
現代の感覚だと最上階に信長・・・?と思うんですけど、
そうじゃないんですね。基本的に日本は二階以上の
山門などの建物はなく(例外有)、天皇や貴族を見下ろす
不敬を避けてきたという歴史がある。
しかし、信長はその考え方を変えてしまったと・・・
(安土城)
続いて安土城天主。五重六階地下一階で
これが先例となり、五重以上の、つまり屋根の重なりが
五つ以上の天主(天守)は一例を除き、ありません。
その一例とは本当に五重を超えたのは駿府城天守とか。
ソースは明かされませんでしたが、六重七階の天守だったとのこと。
実際三浦研究室のページを確認しますと、七重になっていますね。
(大坂城)
続いて天下人の天守として挙げられるのが豊臣大坂城天守。
五層は間違いないだろうとしつつも、内部構造は不明。
おそらく六階地下一階ではないか?
規模としては安土城天主とほぼ同じ。
ここまで見てきた岐阜城天主、安土城天主、大坂城天守は
皆御殿造りという点が特徴。秀吉は信長同様
(坂本城、姫路城、北ノ庄城など)家臣の豊臣大名にも
天守を築かせますが、どれも内部構造は御殿造りではなく、
内部は簡素化されたものになっていきます。
(織豊期の天下人天守のあり方)
ここまでで解ることは、御殿が重層化して天守(天主)が生まれ、
それが家臣に伝播していく過程で御殿性が失われていく
という流れがあるわけですね。現存はしていませんが、岡山城天守や
広島城天守などの構造は確かに御殿ではなく、
櫓化しているように思えます。
ここでの三浦先生の考え方の肝は、軍事的な大櫓から
天守へ移行していくのではなく、まず御殿があって
それが櫓化していくという流れで捉えられていることですね。
つまり、そもそもが非軍事的な存在。
そう考えると講演では触れられていませんでしたが、
金森長近の飛騨高山城天守は興味深い存在かもしれません。
天守曲輪をもつ連立天守ですが、御殿の一部が重層化して
天守になる過程を古い形態の天守を伝えている例、
といえるかもしれません。
(関が原以降の天守)
これが関が原以降に建てられた天守が二つの道をたどります。
ひとつは対豊臣を意識した軍事化した天守。もうひとつは
当初と同じ非軍事的な政治的な圧力を加える天守。
ただ後者の場合も利用のされ方は信長・秀吉と同じですが、
もはや内部構造が御殿のようにつくられることは次第になくなっていき、
大きさと外観で圧倒していくことになります。
が、後述のように慶長天守は御殿造りだったと三浦先生は
考えられており、秀忠、家光の江戸城天守や
駿府城天守と比較すると、ある意味過渡期というか、
織豊期といえるのかもしれません。
(慶長期江戸城天守)
家康は豊臣時代には天守を立てず、
関が原以降に初めて天守を建造。豊臣時代においては
大坂城を超える天守は建てられず、また大阪城以下の規模の天守は
天下に豊臣に下った象徴となることで、天守そのもののをつくらない
という選択肢を選んだのではないかとのこと。
そこで関が原後に建てられた慶長天守。三浦先生の推測だと
名古屋城天守と同規模程度ではないか?とのこと。
雪山のようということで、鉛瓦だったとされているのは
よく知られていますよね。このときまでは御殿造りだったということで、
三浦先生が説明される天下人の天守の系譜を
受け継いでいるというわけですね。
昨今松江で発見された「江戸始図」については、それまで
知られていた「慶長江戸絵図」についての言及のようにも思え、
しっかり質問しておくべきでした。。。。
おもしろかったのは、名古屋城天守が
一階・二階が重箱櫓状になっていることを
「家康の好み」と伝わっている点との関連。
このことから、家康の慶長天守もそうだったのでは?という推測。
三浦研究室の復元案もそうなってますね!
(元和期江戸城天守)
元和になって秀忠が建てた天守。
ほとんど寛永の家光天守と同じなんですが、
四層部分が唐破風ではなく千鳥破風になっている点が相違。
ただ指図は簡略的で正確な再現は困難。
(寛永期江戸城天守)
寛永天守は外観を変えて建てますが、あまりに工期(4ヶ月)が
短いため、構造はそのままで外装だけをかえたと推測。
関わった大工延べ281,763.5人(手伝いは0.5人換算)
今建てようとシミュレーションをすると4年・・・・その差・・・
江戸城天守は壁も屋根も銅板で
防火対策はされているはず・・・なんですが、
ソースは明かされませんでしたが、とある記録によると
本丸御殿が類焼するなかで竜巻が発生(火災旋風)して、
跳ね上げ式の銅板の扉が開いてしまって、
火の粉が入り炎上したということなんですね。
留め金がしてあったかどうかわかりませんが、
竜巻状の強さの風に耐え切れたか?
という問題はあるかもしれません。
焼失後、前田綱紀によって万治年間に
天守台が再建されるわけですが、
よく指摘される高さの低さ。
そもそもの話として、天守台まわりの本丸の高さが
少し盛ってあり低くなっているようですが、
それ以外にも明確な理由があります。
実は何度か講演を聞く中で知ってはいたんですが、
このたびソースを知ることができました。加賀藩にあって
天守再建を指揮した奥村家に伝わった日記
「江府天守台修築日記」がそれ。
ここに、家光が寛永天守を見たときに、石垣が多門櫓の上に
少し見えるのがよろしくないと嘆いたことを受け、
(当時家光はもう亡くなってますが)家光好みに一間低くした
という故事によるものなんですね。
これは江戸城再建にあたっての調査報告にも詳しく記述があります。
さらにもう一点、寛永期と万治期で天守台を比較すると、
三尺一寸(93cm)天守台が外側に広いのだそう(犬走り)。
他の天守から20~30cm、彦根城天守で50cm程度、
宇和島城天守で1m程度ということで、天守に対して寸法上
余裕のある天守台というのは実例はあるようで、
ぴっちりに建てられた元和・寛永よりも余裕のある
天守台にしようとしたようです。
ということで、天守台寛永天守を再建しつつ、
もっと理想どおりに建てるための天守台だったのかもしれません。
◆寛永度天守を伝える図面◆
(図面検証:江府御天守図)
さて、図面の検証の概略。東京都立中央図書館に
寄託されている江府御天守図
(江戸城御本丸御天守百分之一建地割)
大棟梁甲良豊前控とあり、正本ではなく副本であることがわかります。
甲良家は作事方のトップ御大工頭(中井家など)に次ぐ
大棟梁の地位にありました。
甲良豊前とは、甲良豊前守宗賀でしょうか。
江戸城寛永度天守は、戦国から江戸時代に活躍した
初代甲良豊後守宗広の孫で、宗広の子宗次が早世後
甲良家を継ぎます。
江戸城寛永度天守や日光東照宮は
宗広の最晩期の作品に当たるので、
まだ若年だった宗賀が今後のために
副本をとったのでしょうか。
これが寛永期と断定する根拠になるのが、
天守台高さが七間とあること。
また立柱の年号に寛永十五年とあります。
わりと知られていて、展示にも割と出ている史料なのですが、
あまり詳しく検証されてこなかったとのこと。
ポイントとしては実測図ではなく設計図であること、
方眼の縮尺が記述と違うこと。
天守の総高がわからないというのが設計図ってこと。
一重目では「軒高サ石場ヨリ桁上場迄弐条八尺六寸」とあり、
さらにそこから屋根の勾配が「高配五寸四分」とあります。
この繰り返しで各重の高さと屋根の勾配から総高が
やっとわかるという仕組み。
ちょうど計算すると144尺(43.63m)。
縮尺の違いについては、そもそも百分の一なんて書き方を
江戸時代にはしないのだそう。筆跡鑑定をするとどうも
図面のほかの文字と違っている・・・
図面をよく見ると、柱と柱の間を「七尺」と描いてあるんですが、
実際は「六分五厘」。普通描きやすくするには、
七尺の1/100とするならば方眼を「七分」にするはずなんですが、
どうも「六分五厘」の方眼に「七分」方眼に描かれた原図を
書き写したのでは???
七尺を六分五厘でかく・・・ということは1/107.69という
中途半端な縮尺。六分五厘の方眼が
甲良家にたくさんあったのでしょうか。
通常は、一間を六尺五寸とする場合が多い・・
と考えると、わかるような気がします。
この前提で書かれている寸法を見直して、
ようやく正確な高さがわかったとか・・・
じゃぁ、縮尺違うんだったら柱の太さって
正しいの?どうなの?という話。
でも、割と書き分けられているみたい。ということはここに
描かれていない材の太さの寸法は実測図から
比例計算してもよさそうだと判断されています。
(図面検証:江戸城御本丸御天守閣外面之図)
もうひとつの図面。こちらも東京都中央図書館蔵。
天守台が七間とあるので、寛永の図といわれています。
これ江戸城本丸の売店に掲げられてある図ですね。
寸法としては甲良家文書の江府御天守図とぴったり合致。
ただいくつかおかしいと思われる点・・・
1)犬走りの存在
天守台に犬走りが見られるということ。先ほどあったように、
犬走りは万治年間に再建した現天守台に
寛永期天守を載せると犬走りができるのであって、
寛永期の作図であれば犬走りはないはず。
犬走りができる万治年間の現天守台の高さは
六間ですので、矛盾します。
2)入り口にひさしがあること
先の江府御天守図にも、この後出てくる江戸城
御天守絵図にもありません。名古屋城にもちなみにありません。
3)斜めから書く図法
江戸時代には製図された図面としてはほぼないとか?
4)タイトルが「江戸城御本丸御天守閣外面之図」。
筆跡としては他の文字と同じ。しかし江戸時代に
幕府や藩の公式記録として、天守「閣」とは書かないハズ。
以上の指摘から、甲良家の誰かが明治期になって、
家に伝わる江府御天守図を元に西洋画法で
江戸城天守の図面を起こしたもの、というように推測されています。
(図面検証:江戸城御天守絵図)
続いて、概観がわかる二つの図。東京都立図書館蔵の
「江戸御城御殿守正面之図」と
国立公文書館蔵の「江戸城御天守絵図」
両方とも正徳年間とされているそうです。
(国立公文書館蔵のほうは万治説もあり)
東京都立図書館蔵は建築図面としては
ちょっと使えない絵師が書いたもののようですが、
国立公文書館蔵は割と正確。「石垣高六間」とあり、
現天守台であることがわかります。
先ほどの「江戸城御本丸御天守閣外面之図」において、
指摘された犬走りが描かれていないという点はありますが、
名古屋城天守との共通性として、各層の屋根端や最上重の
入母屋破風端の反りの強さが挙げられます。
個人的に気になったのは破風の反り。
絵師のほうはやや強いように思え、ちょっと違和感がありますね。
国立公文書館に残されている史料は他にもあり、
内部構造がわかるものもあるそうで、江府御天守図にないものとしては、
階段の位置があります。入り口入って左側と右側に階段。
復元図面にも以下のように反映されています。
(調査報告書出版記念講演史料再掲)
同じ高さでも右側が段数が多く、勾配も低く
将軍用の御成階段と思われます。これも名古屋城と同じかな?
さらに名古屋城や姫路城など、
大型の天守の場合階段がL字型になることがありますが、
各階の高さがあまりに高い江戸城の場合、
コの字型に折れ曲がっているというのも興味深い点。
これらの史料からできた復元図面を眺めてみると、
おもしろい特徴がわかります。
◆復元図面から◆
まず、通し柱の話。二階から三階(十字)、
三階から四階(ロの字)、四階から五階(十字)にあります。
一方名古屋城の場合、一階と二階ということで、
通し柱の使い方が異なってるそう。
江戸城の場合は、強風対策で上層部に
揺れ止めをしていたのではないか、とのことで・・・
そもそも通し柱は使わないほうが、
耐震性能は強いらしいんですけどね。
もうひとつ、江戸城の特徴として挙げられることは、
非常にシンメトリー(左右対称)で
整然とした美しさがあること。
まず、柱は最上階から一階まで柱の位置が
縦方向に整然と合致していること。
(調査報告書出版記念講演史料再掲)
必ず各階の各面の中心に柱が来るようにし、
その柱を中心に左右に半間の窓をつけ、
一間の壁、半間×2+柱、一間の壁・・・が続いていきます。
確かに言われると、すっごいキレイな構造をしています。
理系的な美しさですよね。
(調査報告書出版記念講演史料再掲)
色が黒くて見難いですが、よく窓の位置と
その対称性をご確認ください・・・
これ、床面積が偶数間という点も関係しています。
江戸城寛永天守の一階は18間×16間。
上記のような、左右対称に窓をつけようとすると
偶数であることが必要なんですね。
18間×16間って、大きさばかりに目が行きますが、
そんな美しさの由来にもなってるのか・・・
こういった整然さ、一旦望楼型天守で
きれいに揃うようになった(姫路城)らしいのですが、
層塔型に進化する過程でまたズレてしまい、
また揃った(揃える余裕があった?)のが
江戸城天守なんだそうですね。
細かいですが、長押形が各階付いている、
というのも、江戸城の特徴のようです。
また、各階の階高が五階から四階まで
一定の割合で低くなっていきます。
普通は高くなったり、低くなったりするものだそうで。
・・・こうなってくると、いわゆる城好きとしてよりも
建物好きとしての好奇心をそそられますね。
こういう余裕がまた平時の天守としての魅力なのかも。
今回も貴重で楽しいお話でありました・・・
三浦先生、ありがとうございました。
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