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去年の今頃はシリーズ(8-2) 講演:恵林寺講座 平山優先生に聞く武田信玄公 品第一

さて、後半です。

◆武田四天王について◆
<なぜあの人選?>
武田四天王にしても、二十四将にしても、
後世の人たちが言い始めたものではありますけれども・・・

まずは、諱の話から。武田好きにはもはや当たり前の感はありますが、

馬場信房 → 信春
山県昌景 → ○
内藤昌豊 → 昌秀
高坂昌信 → 春日(香坂)虎綱

ですよね。

ちなみに春日虎綱が養子入りした香坂家とは
元は佐久の国衆、転じて筑摩郡牧ノ島に居を構えました。
現在は、牧ノ島城跡になっています。

ちなみに、「高坂」とあるのは上杉景勝から
北条景広への書状で、当て字として「高坂」とされている
と思われる、ということだそうです。

まぁ、四天王も二十四将も人気投票だったんだ
というのが実際のところなんでしょうね。
その中でもTOP4がこの四名だったんでしょうかね。

石川数正が豊臣方に出奔して後、信玄・勝頼時代の
軍制に関わる資料を提出させて、武田流の編成に
したことなどもあって、甲陽軍鑑が江戸時代通じて刊行が
ずっと認められてきて、ベストセラーになります。

そこで、いろんな人がカタチあるものとして見たいと
絵師に注文をつけ、誰々は入れてほしい・・・のなかで、
必ず登場するのがこの4人、というところから呼ばれたのでしょうね。

<四天王の地位>

さて、この四人、そういった後世の人気投票で
決まったのだとすると、当時の地位・職位とは
まったく関係ないわけです。ふむ。

地位が最も高いのが、山県昌景で
それに次ぐのが内藤昌秀。そして春日虎綱、
最後にくるのが、馬場信春。

譜代家老衆の家であるのは、山県家。
実は(武田家もそうですが)この時代の武田の嫡流は
安芸、継いで若狭だったそうです。

もともと甲斐源氏とはいいながらも、南北朝時代に
武田信武の子の信成と氏信(信頼)がいて、
信成が甲斐を、氏信が安芸を継承しているんですが、
氏信が嫡流というのが、最近の考え方のよう。

このとき以来の譜代に山県氏があり、安芸だけでなく、
若狭、甲斐と山県氏が譜代にいるんですね。
ただ、このときには甲斐山県氏は断絶していて、
その名跡を飯富昌景が継ぐことで、この四人で一番の家格
に位置することになるわけですね。ほうほう。

石和の百姓の子といわれる虎綱。信玄公に非常に目をかけられ、
どんどんと出世していくのですが、やはり当初の地位が低かった
というのは事実。それは、諱に秘密があるそうです。

「信」 … 武田家の通り字、家臣のうち嫡男に与えられる
「昌」 … 武田信昌の「昌」の字、次男以降に与えられる
「虎」 … 武田信虎の「虎」の字、地位のより低い家臣に与えられる

というルールがどうもあったらしいんですね。ということで、
当初(元服時点で)どういう立場だったかというのがわかります。

しかし、そこからこの四人がどういう出世ルートを辿ったかで、
見えてくることもあります。

武田家中のエリートコースといわれるのは、
小姓→近習→御使番→奉行→侍大将→城代・・・
と続いていくわけで、昌景、虎綱、
それに真田昌幸もこのルートで出世をしています。

昌景は江尻城代から駿河郡司、虎綱は海津城代から川中島郡司、
昌幸も西上野郡代になっています。が、信春の場合は
いきなり侍大将に抜擢、牧ノ島城代にまでなっています。

内藤昌秀はちょっと変則的で、小姓・近習時代は確認できない
そうなのですが、奉行からスタートして・・・後は同じ。
最終的には、箕輪城代から西上野郡司になっていますね。

このエリートコースを辿るには、文武両道、正確に言うと、
武勇に秀でるだけでなく、官僚としての能力と経験が求められます。

そこで実績を積んでいくことで、郡代という行政・警察権をもつ存在へと
出世をしていくわけですけれども、信春の場合、
その軍事指揮を買われて侍大将にはなっていますが、
行政経験がありません。したがって、城代止まりなんですよね。
ただ、信春は特定の部門(軍事のスペシャリスト)として、
活躍するタイプの人材だったのでしょう。

身分としてはやや低いわけですが、会社でも
そういうスペシャリストで生きる人もいれば、
エリートコースで出世していく人もいますよね。うんうん。

◆戦国時代の甲斐の経済について◆

朝鮮出兵の話。朝鮮から陶工を連行してきた
のは有名な話ですが、学者も朝鮮から連行してるんですって。
その学者のひとりが、甲斐について記述を残しているそうです。

曰く、田より畑が多く、馬の産地。中の下程度。
ということで、そこまで最貧国とまでは行かなくても、
それでもあまり豊かではなかった、ということになりましょう。

朝鮮出兵後、ということを考えると、武田家が滅びて
20年ほど経った後。ということは、信玄公が家督を継いだ頃は
もっと貧しくて、その中で豊かにしてきてようやく・・なんでしょうね。

甲斐では、吉田を除き二毛作が普及。山林資源が豊富。
これに関する史料も多いそうです。
水害の多いのは、周知の通りではありますね。

「甲陽軍鑑」には、別の観点で甲斐が豊かだった、
と記しているようです・・・それは、敵に
甲斐の地を踏ませなかったから。略奪されないわけです。

そして、どの軍もやっていた(黙認されていた)乱捕りで、
あらゆる動産を分捕ってくるわけですよね。そうして領国が豊か・・・と。
それは生産性を上げるという、長い目で見て成果が上がる
なんて、そんな悠長なことばかりではいかんわけですな。

戦国時代とは、気候不順と飢饉と災害が頻発し、
食うための戦の時代だったという側面があるのだそうですね。

ちょうど大きなタイムスパンで考えると、室町から氷河が発達し、
戦国の終わりごろから、暖かくなり始めて海面が上昇する、
という時期でもあって、これが寒冷期であったんですね。

それによって、作物が取れにくくなるでしょうし、
そんな中で台風がよく来襲したりもしたわけで・・・大変。

領国内生産性を上げながらも、その一方でなりふり構わず
略奪させて兵が豊かになり、さらに他国を侵略して領国を広げる。
そのためには、他国とあるときは手を結び、あるときは手を切り・・・

現代的な感覚で、見誤りますよね。
これが常態化しているということが、「戦国」という、
不安定な時代とも言え、その環境下にあって、
甲斐を豊かにするという自負があったのかもしれません。
そのためには、敵は利用するものだと・・・・そんなように
思いました。まぁ、かなり好意的に解釈して、ですけど(笑)

◆文書の解読◆

元は女性の名前はなかなかわからない、
そして女性の文書(北条夫人願文)の鑑定も、
比較対象が少ないので困難、という話だったんですけれども。

一方で、信玄公や勝頼さんだったらね・・・というところから。
本人はほぼ書状は書かず、花押のみというのがほとんど、
あとは右筆というのは、歴史好きなら知ってることかもしれません。

鑑定するとき、年号が特定できていれば、
その前後の証明済の文書と徹底的に比較して、
その筆跡から、どれか同じもの、つまり右筆の誰かと筆跡が
一致するはずではないか?という比較の仕方をするんですね。

本人書状の場合は、本人のクセ字を押さえておく
というのがポイントになるそう。信玄公の場合は「入」「事」。
後に武田二十四将展を見ると、確かにクセあるなーと思ってました(笑)

あとは墨継ぎね(笑)筆跡を真似ようとしても、
なかなかこれがマネのできない落とし穴。

普通だったら文章のキリのいいところで、
自然と次の文章を考えて筆が止まって墨継ぎするわけですが、
偽物つくってると、筆跡真似るのに精一杯。
墨継ぎが、文章の切れ目と合ってこなくなるんですってね。
信玄公の場合は、けち臭いんでしたよね(笑)
それはまた追って・・・

ということで、ここから怒涛の武田講座の2016年・3月4月5月が
始まったのでした・・・・つづく。

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