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2017年2月

去年の今頃はシリーズ(7) 山梨文化学園第84期『武田氏と真田氏』

さて、去年の今頃はシリーズ。
このテーマ、平山先生のお話として、
先日(2017年)もこの武田と真田の話を聴いてきた訳で、
さらに去年だって、武田神社でも聞いているわけですけども・・・・

ま、なんつーか骨格は同じ話なんですけども、
言及される点が少しずつ違ったりなんかして、何度聴いても
なかなかおもしろいものです。

このときは2時間あったので、お話の幅も広かったように
思いますね。3時間でも4時間でもお話聴いていたいですけど(笑)

ということで、気になった点だけ記録に残しておきましょうか。

◆真田嫡流について◆

良泉寺とは、矢沢城に程近い矢沢氏の菩提寺。
矢沢氏とはもちろん、矢沢綱頼・頼幸親子のあの矢沢氏。
真田幸綱の系統を探る上で、ここに残された
「矢沢氏系図」が非常に大きな価値があるようです。

つまり、真田幸綱が海野棟綱の子、あるいは男系の孫ではなく、
真田右馬助頼昌の子であって海野棟綱の娘婿であった
可能性を示す根拠のひとつということ。

どうもこの系図には、幸綱本人のことが書かれているわけではなく、
綱頼の事跡が書かれてあるんですね。

右馬佐頼昌三男の真田源之助が、諏訪氏の系統であった
矢沢氏を相続することで、真田氏との関係ができるようになったと。
そもそも、諏訪は海野平の合戦で、滋野一族を追いやった
武田・村上の同盟軍であって、本来対立構造にあったのでしょうけどね。

矢沢綱頼が真田幸綱の弟であることは明確ですから、
間接的に、真田頼昌こそ幸綱の父でもあるってことになりますな。
しかし・・・松代藩はこの頼昌の存在は、幸綱から以降、
近世松代の記録まで、消されていたわけです。

そして、もうひとつ。頼昌嫡男の存在。これも後に丸島和洋先生の
「真田一族と家臣団」ですとか、長野県立博「川中島合戦と真田」の
展示でも確認ができて、すごく興味深いのですけど。

2013年・・・ですからわずか4年前に、上田の生島足島神社で、
義信事件後の起請文群をみたときに、海野衆の中にいる
「真田綱吉」って誰やねんこいつ・・・と思っていたら、
その人物こそ、本来の真田の嫡流の人だったんですねぇ。

てことは、幸綱は次男ってことになりますよね。
これは先ほどの矢澤系図に「右馬助頼昌三男真田源之助=綱頼」
ということとも、合致してきます。その推測の根拠のひとつとして、
この綱吉の官途名が「右馬助」であること。
官途名を嫡流が受け継いでいくというのはありますものねぇ。

この右馬助綱吉、真田を離れて佐久郡北方衆として分離。
真田惣領の地位は、幸綱が継いだようです。
右馬助を綱吉が名乗っていたとすると、そもそもは綱吉が
真田嫡流だったものが、その知略を信玄に買われて、
どんどんと出世していく中で、実権が奪われていったのでしょうか。

しかし、日向畑遺跡の真田氏墓を復元せずに、
系図の改竄を進めてきた幸綱系統の真田氏・・・も、
矢沢の系図までは、チェックが漏れていたのですかねぇ(笑)
さてこの綱吉の系統もおもしろいんですが、それはまた今度にして。

佐久郡の統括は、元上原氏の小山田備中(虎満)。
甲府の上石田あたりを本貫地としていました。
幸綱もこの小山田の相備衆として重きをなしていくわけですが、
有力な相備衆として、信玄に重用されていく弟を
綱吉はどうみていたんでしょうねぇ。

ちなみに、この小山田備中守虎満。子の備中守昌成は
高遠城の仁科信盛救援に駆けつけ、そのまま族滅していますが、
ある伝承によると、武田の滅亡後に郡内小山田氏、
いわゆる越前守信茂系統と混同されることを嫌い、
「小」の字を削って、「山田」と称してこの上石田に住まうように
なったんだとか・・・・

そして、郡内小山田氏の分流であり、松代真田の家老として
存続した境小山田氏(茂誠・之知)の系統も、
この備中守虎満の系統だと主張している点がおもしろいですよね。

◆昌幸の人質に出された時期◆

幸綱が、一説に村上方に着いていた矢沢綱頼を調略に使い、
砥石城を乗っ取ってまもなく旧領を回復したのが、
天文22(1553)年。

この年に、幼い昌幸(満6歳)を人質に出したことを信玄が賞し、
上田秋和の地350貫文を与えたということですが・・・・
ということは?昌幸の生まれた天文16(1547)年は、
幸綱が武田に着く決心をした頃でしょうか。

と考えると、伝え聞いていたにせよ、武田と真田が敵対していた
頃のことはまったく知らず、生まれながらにして恩ある武田・・
だったのが、昌幸の幼い頃だと思うと感慨深いものがあります。

◆甲府・二十四将屋敷跡設置の経緯◆

今となっては、甲府駅北口の武田通り沿いから武田神社の周辺、
二十四将の屋敷跡の看板があって、われわれさも当然のように
眺めているわけですけれども・・・これ、大河「風林火山」の頃に
平山先生が、看板立てようぜ~って嗾けたそうで(笑)

ちょうど大河「風林火山」が決まった頃、講演会に
市の助役、市議会議長や議員さんが来てられていて・・・
平山先生はおっしゃいました。

みんな武田神社に行って帰っちゃう、でも二十四将と
謳われた人たちがどこに屋敷を構えていたのか、
誰も教えてくれないし、わからない・・・と思っていませんか?と。

・・・わかるんです!(川平慈英調)

今ではわかりにくくなっていますが、その昔はどこの地名にも
「字名」がありましたね。そう・・・典厩信繁の屋敷跡は「字典厩」、
横田備中の屋敷跡は「字横田」、土屋昌続屋敷は「字土屋敷」
逍遙軒信綱は「字遙軒屋敷」。

さらに、江戸時代初期の貞享年間(1684~1687)に
作成された、武田遺臣の屋敷跡を記した古府中村の絵図。
これらを元に・・・・石碑など仰々しいものはなくていい、
看板立てればいいじゃん!とご提案されたんだそうです。
動かせるし、古くなればとっかえればいい。

ホントね・・・平山先生こういうところがすばらしいのですよね。
そりゃぁ、ファン増えるわと。

もちろん研究の世界では、批判上等掛かってきやがれなんですけども、
歴史が好きという一般人に何を発信するかをすごく考えてられて、
また、手持ちのどんな史料・史実をどんなコンテンツとして
発信すれば、心をつかめるのかをすごく熟知されている・・・

さてさて。真田との関係で言うと、いい位置にあるよね、
両真田の屋敷跡ってことなんですけども。

◆第四次川中島以後の上杉防備◆

上杉を撃退して後、武田方は海津城の北に
元島津氏の長沼城を修築し、対上杉の防衛最前線としたそう…
なんですが、ちょっと調べてみますと縄張図が、
上田の岡城とそっくりでして、川の断崖を背景に、
丸馬出で防ぐという典型的な武田の城の構造をしているんですね。

あと、個人的に謎な丸馬出を三方向につくっている
という点も岡城と共通した構造。三方向に丸馬出をつくる、
というのが武田のセオリーにあったのかどうか?
ものすごく興味をそそられるお城ですね・・・

また時期的にも、香坂氏館を増築してつくられた
牧ノ島城とも重なる点が気になります。
やはり、駿河侵攻以降の南西に戦線が広がっていく時代、
対上杉防備の防衛ラインを海津城を中心に、
東の牧ノ島城、北の長沼城だったのかな・・などと・・・・ううむ。

◆長谷寺の昌幸墓◆

九度山に流され亡くなった昌幸はそこで荼毘に付された
ようなのですが、遺骨の一部はどうも上田に戻されたらしく、
そう考えると、幸綱の墓の横にある昌幸供養塔にも、
ご遺骨があるのかもしれない・・・という話。

墓自体が動いているいう話もあるらしいので、
なかなか実態把握は難しいのでしょうけども・・・ううむ。

◆織田方の長篠合戦首帳にある信綱◆

長篠合戦で真田源太左衛門こと真田信綱は
討死するのですけど、織田方の首帳に真田源太左衛門って
出てくるらしいのですね。

しかし・・・よく知られている通り、信綱の首は白川兄弟が
青江の大太刀とともに持ち帰って、信綱寺に埋葬されているはず?
ということは、これは誰だ・・・という話。

首がこれは誰だ?というのは、捕虜として生け捕った
一般兵卒に確認して首帳として記録していくそうなんですが、
これがけっこう人間違いがあるそうで。

もちろん、織田・徳川方が具に武田家中の面々の顔を
知っているはずもなく・・・ってことで、どうやらこれ、
真田兵部丞昌輝(の誤り)ではないか?とのこと。にゃるほど。

◆高天神城の生き残り◆

勝頼滅亡の直接的な契機となった高天神上落城。
この中で数少ない生き残った者として、横田備中守高松の孫、
横田甚五郎尹松(ただとし)は自分の中では有名なのですが、
それ以外に、西尾仁左衛門宗次がいたそうな。

・・・それだけだと、ふーんなんですが、この西尾氏、
なんと後年、真田信繁を討ち取ったあの西尾なんですよ。
武田滅亡後は牢人の末、結城秀康に仕えていました。

信繁の最期は、武田VS武田だった・・・ということなんですけども、
なんとも因縁深いものだと思いますね・・・
しかも、西尾は直接信繁の顔を知らず、討ち取った後
結局その人が真田左衛門佐とわからなかったそうなのですが、
とある人が、西尾の元に陣中見舞いに来たそうです。

花形市左衛門と縫殿之丞。彼らは武田の遺臣であり、
さらに一時期真田家にも仕えていたのだそうで、
だからこそ彼らは、信繁を知っていた・・・だからわかったのですね。

真田信綱と弟・昌輝の首の混同と同じく、
大将首の認識のされ方っていうのが、なんとも興味深い。

◆新府城の屋敷のありなし◆

新府共選場の裏側の字名が「隠岐殿」という名前だそう。
ここを発掘した結果、焦土が出てきて・・・という流れ。
つまり、ここが加津野隠岐こと、真田信尹屋敷跡と比定されてるアレ。

武田二十四将展でも出ていた陶磁器などがここから出たわけですね。
今は、農道になっていて遺構は埋設保存中。

信尹が屋敷を持ってるんだとすると、昌幸だって屋敷あったでしょうね…
昌幸の屋敷だってあるとわかるといいんですけども。

おもしろいのが、甲府から屋敷を移したのとそうでない差。
真田丸では、我らが本拠地・・などと穴山梅雪が言ってましたが(汗)
穴山梅雪だって、武田逍遙軒だって移してないんですね。

新府に居を移したのは、勝頼に近しい面々のみ。
そう考えれば、昌幸もあったと思いたいですね・・・

武田信虎の石和から甲府への移転よろしく、
伝統ある武田にあって、本拠移転はなかなか難しいわけです。
決定的に武田家中が分裂しちゃったんですね・・・新府城築城。

◆顕了道快の逃避行◆

これ、「大いなる謎真田一族」にも記載があるのですけど、
後に第一次上田合戦後、更なる対徳川対策として、
信玄の子たる武田竜芳が生きていて、上杉に匿われている、
と偽情報を流し、徳川配下の武田遺臣の動揺を狙うのですが…

このとき、本当に生き延びていたのは竜芳の子、顕了道快。
後に還俗して、武田信道となります。今に続く武田宗家の祖。
武田竜芳墓所のある入明寺には、犬飼村に逃げたと記録があり
ずっと信濃国安曇郡犬飼村に匿われていたとされていました。

が、実はどうも安曇ではなく、飯山の犬飼村らしく、
浄土真宗の牙城だったところだとか。
飯山の犬飼村というと、信濃国高井郡。
相当な上杉領に近いところであります。

浄土真宗は武田とも縁が深く、三条夫人を通じて、
信玄と顕如は義兄弟に当たる間柄ですし、
武田滅亡後は上杉に通じ、織田方に一向一揆が起こり、
また三河一向一揆や石山戦争の生き残りを匿うなど、
反織田の機運が高い地域。

この匿われた顕了道快、甲府長延寺
(現東本願寺甲府別院光澤寺)で信玄の御伽衆の
一人であった実了師慶の下で出家するわけですが、
この犬飼村は長延寺の知行地だったとか。

信玄と浄土真宗のつながり、そして顕了道快が
出家した経緯とそのつながり、かの地の気風と長延寺のつながり。
なぜ顕了道快が逃げ遂せたのかがわかるような気がしますよね。

・・・というわけで、興味深いお話いっぱいの2時間。
やー、ちゃんと振り返るに値する深い内容。

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blog開始13周年 - 「古記録」たるblogから再構成する、わたしの歩んできた道

さて、2/1はこのblogはじめて丸13年になります。
まぁ・・・毎日書くことに特に意味を見出してはいないので、
けっこう更新間隔、開いてはいますけども。

基本的な目的は今も変わらず、考えたことや
体験したこと、見聞きしたことをしっかり記録して、
後で振り返られるようにすること。

興味の移り変わりを振り返って、ちょっと一歩引いて、
わたしという人間の好奇心の移ろうさまが
また興味を引くものであるし、今後の自分に向けて、
フィードバックさせたい、という思いも持っています。

そして、それを小出しにして切り出して、
誰かにおススメしたり、こういうのに興味があるという
ことをお伝えしたり。blogの全体からも、
nikko81って、こういう人間ですって、自己紹介になればと。
そういう意味で、誰かの役に立ったらいいな、は副産物。

なんですけど、昨年2016年に今までなかったことが・・・
それは2016年にほとんど2016年の話が書けなかったこと(爆)
そんなだから、ちょうど今去年の今頃シリーズなる
謎の記事シリーズをはじめているわけですが(笑)

だいたい年末に押し込んで、できなくても1月には
終わらせて、blog開始記念日の2月1日を
迎えるときには、書き終えてるものだったのですけど。

こんな年もあるんだなぁ・・と思いつつ、
歴史を研究する専門家の方のインタビューで、
ちょっと「あ!」と思うことがありましてね。

真田丸の歴史考証をされた中のお一人、
丸島和洋先生のインタビューから。

曰く、同時代人が日常生活・業務のなかで作成した、
古文書や古記録、つまり日記などから、客観的に
事実を再発見・再構成することが、歴史学の目的だと。

このインタビュー自体、一般の歴史に興味のある者にとって、
ある歴史上の人物が好きだったり、関心をもったとき、
どう対峙すべきか、対峙しようと心がけるべきか?
といった意味で、非常に参考になるわけですけども。

しかし、別の関心を持って捉えると、四百年どころか、
わずか十数年、あるいは数年前だけれども、過去の自分が、
当時記録した「古記録」から、事実を再発見・再構成する
というのは、わたしが感じるblogの醍醐味と重なるなと。

この2016年の間に、2016年の出来事が掛けなかったくらい、
本当に楽しいことも、つらいことも、何もかも、
怒涛のように起きていたという、後から振り返ったときに
感じる2016年の捉え直し、というのがなにやらおもしろいなと思えて。

史料からわかる史実、史料と史料の間隙から炙り出される史実
それらをつなぎ合わせていくことでわかる、歴史のおもしろさ。

それを自分の記録たるblogに当てはめると、
2016年に当年のことが書けなかったという「古記録」と
また別の何か、それとも今後起こる何かを合わせて考えると、
自分にとっての2016年って、そういうことだったのか・・・
というようなことがわかるかもしれないのかな、なんて。

ある意味、わたしはわたし自身を活きた「歴史」として、
捉えることに意味を見出していたのかな、と思ったりしたのです。

本当に凝りだしたら、それこそインタビューであるように
レシートひとつとっても、自分にとっての「史料」になるわけで、
実際、とあるウイスキー(今年開封予定)のレシートは
今でもとってあるんですけど、まさに史料だなぁと。

やりきれないくせに、やけに完璧主義の残り滓だけが
燻っていたりするので、思った密度の記録を
思ったタイミングで残せないと、いらいらしたりもするんですが・・・

記録に残したいという思いはあるものの、
記録が追いつかないくらい激動だったということが窺い知れること
というのもまた、残すべき「史実」なのかもしれないなー。

ということで、書ききれないということにも、
なんだかポジティブになれるような気がした、blog14年目。

わがココログを担うニフティがノジマに譲渡される、
というニュースを目にしました。

ホント、ココログストップだけはやめてね。
ココログ出版もなくなっちゃってるし、
14年もの間書いてきたのを、どこかに移すのとかって、
めっちゃ大変なんだから。おねがいしますよ、マジで。

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