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2017年1月

去年の今頃はシリーズ(6) 名古屋城現場見学会2016

さて、ちょっと変わって名古屋城。ちょうど年明けすぐに、
名古屋城の見学会募集をやっていたので、参加してきました。
併せて、タウンミーティングもあったんですけども・・・

2017年になって今のゴタゴタ具合を考えると、
どれだけ汲んでもらえているのか?ということを考えると、
正直やって尾張・・・じゃない終わり、という感じは拭えません。

ということで、タウンミーティングは割愛して、前日の見学会を
記録に残しておこうかと思います。

P1170478

◆天守の現状◆

ポイントとして、56年経って老朽化した部分として、
挙げられるのは・・・

電気設備など
コンクリートそのもの(後40年)
被熱した石の脆弱化
石垣の孕み
天守の耐震性能

ということ。石垣に関しては、ケーソン基礎4本が別にあるため、
石垣そのものの保護とは別に天守は考えてよさそうということですが、
やはり、コンクリートの劣化とそれに起因する耐震性能。

ここでちょっと調べてみたのですが、コンクリートの劣化、
と一口に言ってみても、それがどうして起こるのか?ということ。
この現場見学会前の解説では、中性化と言われていました。

鉄筋コンクリートは、コンクリートは実はアルカリ性で、
セメントに含まれる水酸化カルシウムが高いアルカリ状態に保ち、
内部の鉄筋に不導体被膜という薄い酸化化合物の皮膜を
つくらせるのだそう。これで、酸化つまり錆を防止しているわけ。

ところが、空気中の二酸化炭素に反応して
炭酸カルシウムになってしまうことで、PHが中性に傾き、
防錆効果が無くなってしまう・・・というのが、「劣化」なんですな。
(参考:テクノクリート施工研究会Web

あと40年は持つだろうということでしたが、
名古屋城の現天守の非破壊再生は不可能なくらいに
進んでいるのでしょうか?改めてメモを振り返っていて、
その点、気になるところです。

あと気になった点と言えば、DVD上映では、
史実に忠実な再建が可能な、「唯一」のという表現が。
まぁ、名古屋城に適う天守は他にはないのだけども、実際。

また改めて振り返っておきたい文化庁の見解。
地元の自治体がどのような整備をするのかを決めるのが第一、
復元する場合は、材料等は同時代のものを使うなどが原則。
ただし、それ以外の可能性を排除するものではない、と。

名古屋城の場合は、史料が豊富なため、史実に忠実な
再建を目指すべきという見解が復元検討委員会で
総意となる可能性が極めて高い、とも。

ここで読み取れるのは、

・文化庁は復元に当たってイニシアチブは取らない
・原則は木造再建、ただし価値が認められる場合はその他の選択肢も
・木造再建以外の可能性を最初から排除はしない

ということ。何度か書いていますが、この文化庁が
イニチアチブを取らないという点は、非常に引っかかる点なのです。
この点については、後述。

ちなみに、インターネットで募集した意見(H25年)では、
500人の公募による名古屋市民の意見。

70%以上が現状維持、つまり現天守の維持を求める
意見が多かったとのこと。これはこれで意見として、
受け止めるべきでしょうが、

・文化庁の許可がないと、RC天守再建は不可
・解体せずに現RC天守を存続できる方法があるのか?

について、どれだけ理解されてるのでしょうかね?
当時から4年経ったわけですが、このアンケートに対して、
ちゃんと上記のフィードバックを名古屋市は市民にしたのでしょうか?
市議会でのどんな議論もあまり詳しくは説明されず・・・

40年もつといわれる現天守の耐震補強ですが、
そもそもどういう仕組みで補強するのか?
それによって、40年後はどうするのか?という点について、
議論が進んでいるとはいえず、結局市のごり押しが目立つだけ
といわざるを得ない、というのが改めて振り返った感想。

耐震補強後、40年後に木造建て替えよりも、
今やるべきだという調査結果ももっと議論されるべきだと思うんですが…

耐震改修しても40年程度はもつらしいけど、
それって問題の先送りでしかないんですよね。
木造再建を諦めるなら、名古屋城天守はいつなくなっても
もう諦めるくらいの覚悟を持ってるんでしょうか??

以前より、城郭建築の再建が日本各地で起こっていることにつき、
各地がバラバラに再建運動を進める危険性を考えています。

つまり、単独でみれば数百億単位の財源があれば
再建可能ではあるものの、江戸城、名古屋城、小田原城はじめ、
図面や雛形など再建に足る史料が揃っている天守が
同時に再建が進むと、大径木の材が不足するのではないか?

そもそも、長い年月を経た大径木の材は数が限られ、
また当然ながら百年程度では、材はそこまで成長しません。
このジレンマをどう解決するか?は、中央の所轄官庁である
文化庁がイニシアチブを取るべきではないかと思うのです。

もう少し強い調子で言うならば、名古屋市民の判断だけで、
名古屋城の再建にGoを出していいのか、ということ。
それは、他の天守やその他歴史的建造物の木造再建を
妨げるかもしれないわけです。

わたしが最後に質問をさせていただきましたが、
他城でも再建計画が持ち上がっているが、
材料調達可能か?という質問に対し、40年先ではなく、
今やるべきだというのは、まさに今材料を確保しないと
材がなくなってしまうという、いわば早い者勝ちだということ。
極論すると、こういった材の先物取引も起こりかねないのでは…

外国材にするか、あるいはヒノキから材を変更するか?
という検討も他城郭と連係して考えるべきだろうと思うのです…

今やるべきでないだろう、まずが櫓からだ、
大手馬出の復元からだという意見もありますが、
やはり、早い者勝ちの材のために、天守からやるべき
というようにも聞こえました。

かえすがえすも、議論が深まっていない1年だったと思うと
残念でならないですね・・・・

◆現地見学・天守編◆

さ、気を取り直して、現地見学。
そういえば、あまり気にしてこなかったこの部分。

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これ、明かり取りなんですね。明かり取りというと、
江戸城寛永度天守にも、同様の部分が描かれていますが、
これくらいのビッグな天守になると、必要になってくるみたいで。

てっきり、江戸城天守がその戦闘性を失っていく中での
明かり取りなのかと思っていたのですが、ぜんぜん戦う気の
名古屋城であっても、明かり取りは必要なんだと。
明かり取りとはいえ、狭間としてつかえるもんねぇ。

天守台北側。ここの部分ってちょうど熱田台地の北端で
その先にある御深井丸は沼地だったんですって。
ということで、どうも北側の地盤が緩みがち…てことで、
宝暦年間に修理されてるんだけど、また石垣が孕んでる。

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そういえば、宝暦修理の際も石垣が落ち込み、
天守がこちら側に傾いてたわけで…
天守再建するにもこの石垣を積み直すのかどうか、
後記にも影響あって、議論の分かれるところかも。

ただ、ケーソン基礎があるとはいえ、石垣のためには
(全荷重を掛けるべきではないにせよ)天守の荷重
をある程度かけた方がいいんですよね。本来。

そんな崩れやすいからかどうか・・・天守台北側には、
この孕んだ石垣には危機を察知するある仕組みがあるとか!

P1170492

正解はこれ!瓶が石垣の間に挟まってます!

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割れやすい瓶を挟んでおくことで、わずかな石垣の動きを
察知しようとする仕組みなんだそうです。
アナログですが、効果ありそうですね。

ひとつじゃなく、いくつかありました。

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手前の樋の上部がかつては企画されていた天守入口跡。

P1170495

わかります?拡大してみると・・・
そういやちょっと石垣の積み方が違うような・・・??

P1170496

名古屋城は築城過程で縄張図がけっこう変わるのですが、
初期の縄張図には、空堀内に櫓を建てて、
そこから大天守内に入るプラン
だったことがわかります。

1370978

さて、大天守台と小天守台をつなぐ橋台。
ここに汚れたようにみえる茶色の部分は、
焼夷弾(ナパーム弾)の跡ではないかといわれてるそう。

P1170500

小天守があるあたり。鵜の首からみた感じ。
どうもこのあたり、濃尾地震で石垣が崩れていて、
その際に積み直しをした跡。

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一方で大天守は濃尾地震で崩れていない・・・
ということを考えると、やはり上から(ある程度の)重石が
あったほうが、耐震には有利に働くのだなと感じますね。

本丸枡形の鏡石。大きな石の回りに小さい石を
並べるのを「笑い積み」というそうだが・・

P1170507

・・・ということで、天守はここまで。
続いて、御殿編。割と行かないことが多いんですが(汗)
今回はジックリと見学。

P1170509

奥が公開されたばかり?ということで、
新たに公開された部分と車寄部分とで
杮葺の屋根の色が違いますな。

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そういや、名古屋城の本丸御殿、奥がないんですって。
というのも、名古屋城ができて、すぐ大坂の陣に出陣、
そして勝った・・・ということで、将軍の上洛殿に
なってしまったので奥がないと。

まぁ、ずっと本丸そのものは尾張藩主は普段使わず、
わずかな藩主の見回りのときくらいにしか、
入らなかったといいますからね・・・

車寄からすぐの天井。そういえばここが一番略式・・・
すぐ格天井のほうに目が行くけども、天井にも格の差が
あると思うと、ここも興味深く見えますな。

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釘隠しマニア(笑)としては、かならず撮りますね。

P1170520

どうしても御殿のほうは、こう・・・
美術品鑑賞の感覚になりますね。

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そういや、柱が四角いのが当たり前に思えますが、
襖で部屋を仕切るようになってはじめて、
柱が四角くなるんですってね。

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そういや室町~戦国あたりの屋敷って、仕切られてなくて
円かった気がしないでもない・・・

名古屋城本丸御殿の復元で、けっこうポイント高いのは
襖絵がわからないところは、無理に描かないという点。

P1170528

一面、ただの金箔押というところも。

P1170529

むしろここまで来ると清清しいですが、
わからないものは勝手な想定で復元しないという
意思の表れと思え、好感持てますね。

上段の間。松の木がバックにあるところは、
江戸城、二条城と共通。ってことは、やはり将軍の居所
ということなんでしょうかねぇ。

P1170537

帳台構や違い棚も瓜二つ。やっぱし二条城が
ベースなんだろうなぁ。

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格天井からの折上格天井。天井にも格式が、
のわかりやすいところ。折上格天井は上段の間。
・・・ちなみに、江戸城には二重折上格天井がありました。

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ということで、わりとさっくりと御殿見学終了。
退出する頃には日も落ちかかり。

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昨年夏にもう対面所の公開されてるんですよね~
まだ行ってないけども(笑)このときはまだ1月だから・・・

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個人的に好きな西南隅櫓。なかなか公開しないんだよな…
ものすごく天守的な要素があって、興味深いのです。

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割と公開されてる東南隅櫓。御殿が完全公開になったら
ここからの天守+御殿の眺めはすばらしいだろうねぇ。

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夕陽を浴びる大天守が素敵。

P1170578

名古屋城正門前の門松。これ何気ないように見えて、
名古屋城の記録「金城温古録」を参考に
作られた名古屋城式門松だとさ!細かい!

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・・・また今年も、何かイベントありますかね?
耐震不安から入城を控えさせるような話もあったりと、
なんだかいいように向かってはいないようにも・・・

名古屋城大天守は、史料が最も豊富で
最も史実に近づける天守。
だからこそ、皆に歓迎されて木造再建ができるように、
機運を醸成する丁寧な運営手腕が求められると思うのです。

誰かのごり押しで精巧で忠実な天守が建っても、
そのごり押しが歴史にちゃんと残るのです。
せっかくすばらしい天守に、そんな汚点を残してどうするのか。
天守が再建と成るプロセスもまた歴史なのですよ?

名古屋市民でなくとも、その価値に深く感じ入る
城好きとして、いいように向かうことを祈念するばかりです。

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VR作品「江戸城の天守」

凸版印刷のVRがまた江戸城を取り上げたということで、
早速行ってまいりました、「江戸城の天守」

Scan001

Scan002

結論から言って、すごくよくできた内容です!
ナビゲーターの女性があれこれ説明してくださるのですけど、
江戸城天守をいくつかの切り口でわかりやすく説明。

以前「江戸城~本丸御殿と天守」というVRもありましたが、
どちらかというと本丸御殿中心だったこともあり、今回は
かなりマニアックに天守のほうに力が入ってましたね。

1) 徳川家光
2) 石垣
3) 骨組み
4) 銅板葺
5) 金物
6) 鯱

の6点から解説されています。

1) 徳川家光

そもそも徳川家光って知ってますか?というところから
忠長を偏愛する江に愛されずに、廃嫡されようと
されていたのを家康が処断し、跡継ぎの宣言をしたことで、
家光に家康への尊敬が生まれたというくだり。

直接江戸城とは関係はありませんけど、とにかく荘厳に
華麗に・・という家光の好みは日光東照宮の壮観さにも現れ、
それが家康への敬念の表れとするなら、天守にも
その意向がある程度反映されているという理解もでき、
その意味で、悪くない説明かなという感じ。

2)石垣

すごいなーと思ったのは、ちゃんと現天守台との違いの解説をするとこ。
伊豆石をつかった当時の天守台の再現、その伊豆石を切り出す
石丁場から江戸城への持ち込みの解説まで。

さらには中雀門などに江戸城寛永度天守台の石垣が
転用されてる話なども盛り込まれていて、そうそれそれそれそれ!
とニヤニヤしながら聴いておりました(笑)

そしてVRでも天守台は真っ黒の天守台。瓦は後述するように、
黒チャンが剥がれた後想定の緑色なんだけれども、
石垣から壁と瓦の銅板+黒チャンの黒が映えると、
ホントに真っ黒の天守でかっこいいなーと実感できます☆

3) 骨組み

ここもしっかり史料に基づいた解説。
東京都立図書館蔵「江戸城御本丸御天守百分之一建地割
をベースに、柱をずらーっと据えつけていくさまをVRで実験。

こうやって柱が立っていくのね、という実感ができ、
また三浦先生が復元調査報告書で解説されていた、
御天守百分之一建地割の正確さを改めて感じた次第。

4) 銅板葺

ここでは、日光東照宮陽明門や寛永寺五重塔などを例に、
その作り方や仕組みなどを詳しく解説。
実際の日光東照宮の銅板をお持ちいただいて、触ったりできる
というのも新しかったかも。薄いのに頑丈ということで耐久性中心の説明。

個人的には、本瓦葺よりも総重量が軽量化できる点、
また江戸城クラスの大天守ならばこその軽量化の必要性、
という点にも言及いただけたらよかったかなぁ。

5) 金物

二条城はじめ、多くの歴史建造物の金物を手がけている工房
からその打ち出しの技法を解説。意匠参照としては
やはり二条城二の丸御殿が参考にされていましたね。

ただ、国立公文書館蔵の「江戸城御天守絵図」はかなり
正確な意匠を反映しているので、ここへの言及はほしかった…

しかし、意匠自体はこちらとも矛盾のないよくできたもの。
どアップで千鳥破風が映って、細かい意匠がハッキリ見えるのは圧巻。

6) 鯱

こちらもどアップ。参考は名古屋城天守とのことで、
まぁ妥当なところでしょう。

そして、シアター前にその金物や鯱のVRを起こしたときの
設計図面の一部や金物のサンプルがあって、萌え萌え(笑)

銅板葺の鬼瓦がこんなに緻密な仕事でできてんだぜ・・・

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鯱。

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釘隠しには花菱だぁぁぁぁぁと頭の悪いコメントが
頭を渦巻いていました(笑)

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・・・これ、前作のように、DVDないしBlu-rayになったら
間違いなく買いですね・・・つくってくれないかなぁ。

3月31日まで上映なので、気になる方はぜひ!
城郭建築好きさんはもちろんのこと、広く和建築が好きな人にも
楽しめる内容なんじゃないかと思いました。

わたしもあと数回通いたいと思います!

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去年の今頃はシリーズ(5) 西宮鷲林寺・信玄公墓

さて、その勢いで神戸まで。串カツ日光なるお店を
見つけたらそりゃ行きたくなりますわな(笑)

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日光が神戸串カツ日光でチーズミルフィーユカツ。
串カツ屋さんらしい。安くて美味い。アリアリ。

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さて、目的は・・・鷲林寺。絶対うそやん!と思うのですが、
「信玄公墓」なる石塔があるということで・・・
西宮駅から阪神バス乗車、「鷲林寺」下車 徒歩20分という、
わりと行くのに面倒なところなのですが(笑)

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割と山手で山城でもありそうなところをずんずんと進んでいくと。

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小さなお堂。往時は伽藍があったようですが、
織田の兵火で焼失して以降、再建されることなく
長く放置され、最近になって再興され始めたとか・・・

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そしてその向かって右手に石塔群。

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ひときわ目立つ七重石塔が信玄公墓・・?

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どうも創建年代は鎌倉時代に比定されているらしく、
その点からも信玄公の生きた時代との関連は考えにくいですね。

鷲林寺は淳和天皇の天長10(833)年、
弘法大師が開基の寺。荒木村重の叛乱とその討伐に
来襲した織田軍の兵火で本尊などを除き、伽藍など焼失。
・・・ということも、あまり武田との関連を考えにくい。

しかし、地元には、

鷲林寺近くに住む人の話によると、七重塔の下には信玄の遺髪や爪が納められていると子どもの頃に祖父から聞いていたそうです。その大昔からの言い伝えが現在まで伝わり「武田信玄の墓」と言われている

という伝承が残されているらしく、また鷲林寺にある
お墓には、花菱紋のお家や武田姓の方までいらっしゃいました。

住職のお作りになっているWebの解説によると、

当山麓の鷲林寺村には甲斐姓が多い。これについて、戦国時代、信玄公の末もしくは家来が当地に逃げ延びて寺の周りに集落を構えた。そして鷲林寺境内にあった七重石塔を信玄公墓として崇拝したという説。

というものがあるそうなのですね。得度をこの寺で得た・・・
というのはさすがにないでしょうけど、尼崎の善念寺のように、
武田勝親が逃れてきた
ような話もあるわけです。

東にだけでなく、西のほうにも遺臣が逃れてきて、
この一体に集落を構え、精神的支柱として元ある石塔を
信玄公墓として、祈りをささげた・・・とは理解のできる話。

いずれにしても、西宮で『信玄公』なる敬称が
見られるのは興味深いと思うんですよね。うん。

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さて、お寺さんのお参りもせねば。
かわゆすぎる「ようおまいり」。

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現拝殿は昭和5年落慶とのこと。わりと最近ってホント。

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「鷲」林寺だけに・・・??

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この塔は立派だーすごいな!
ちょっと小さなお寺には、違和感のあるくらい。

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このお不動さん、織田の兵火から逃れた像なのかな。
どうだろうか・・・・にしても、不動明王が安置されてるだけで、
どうしても武田的な何かを連想したくなる(笑)

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ということで、まぁわざわざなかなか行かんだろう、
という武田史跡のご紹介でした(笑)

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去年の今頃はシリーズ(4) 徳川家霊台・奥の院信玄公・勝頼公・馬場美濃守供養塔

さて、徳川家霊台にも。てか、高野山にあるんだ、
というくらいのうっすい印象でごめんなさい・・・

入ってすぐ枡形虎口でびっくり。そいや、日光東照宮や、
久能山東照宮でもこういう枡形の部分があったかなぁ・・・・

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家康廟。瑞鳳殿や大鋒寺の信之廟に割りと近い、
江戸時代初期の霊廟建築の標準的なスタイルに思えます。

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色は褪せるがままの状態というのも廟としては
けっこう珍しかったりしませんかね。

葵紋も初期の葉の茎が長いタイプ。
高野山ですから、一度も焼失することなく、
また部材が交換されることもなく、ずっとあるのでしょう。

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隣は秀忠廟。江戸は空襲で焼失したし、
日光には家光つくってくれないし(笑)・・・
何気に貴重かも秀忠廟。

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戻り道で差し掛かって、「井」の字を発見。
井伊家縁なのでしょうね、福智院。

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そして、お昼。あんまり実は食べるところがないんだな、
と知ったわけですが、こんな暖簾見ると、
入らないといけないですよね?ね?ね?

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が、天皇陛下がご参詣される際にお食事を供される
ほどの高級店でびっくり!バッテラでやっとでした・・・
おいしいですけどね!武田菱ありますけどね(違)

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さて、奥の院までの道。いろんな歴史上有名な武将たち、
江戸時代の藩主などの墓が立ち並びます。

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立花宗茂供養塔。 形式は先の真田信幸と同じですね。

P1170755

拡大。割と読みやすい宗茂さんです。

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筑之後州柳川城主前飛州太守
従四位源宗茂公追□也
奉爲大圓院殿松隠宗茂大居士
成三菩提也
嗣子立花左近将監従四位下
源忠茂朝臣建立之

だいたい文言はみな共通の形式をとるもんなんでしょうね。
しかし、このペースで見ていると、いつまで経っても
先に進めないではないかぁ!ということでペースアップ。

最上家親供養塔。最上氏は彼だけだったような。
やはり大名格でないと、供養塔建立は難しいのか・・・

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家信造立之、とあって家信って誰よ?と思ったら、
義俊の初名が家信だったそうで。「家」を避けたのかなぁ。

島津家供養塔。このあたりは江戸時代半ばから幕末あたり。

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島津重年。「薩隅日三國主兼領琉球國」にビビる。
「領琉球國」って堂々と書いちゃうんだと・・・

Cbecmyhviaagkik

小田原北條氏。どれどれ・・・

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弘化というと幕末の元号。ということはこれは、
大阪狭山の狭山北條氏・・・
河州狭山舘北條相模守氏久 爲父氏喬建立之とあります。

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拡大。

Cbeianusaeydvy

しかし、氏喬は最終的には遠江守になっていて、
氏喬も、これを建てた氏久も最初の任官が相模守、
ということになにやら感慨深く思ったりするわけです。

そして、狭山北條氏とは書かず、あくまで小田原北條氏。
「小田原」北條氏と敢えて書いた意図はわかりませんけども、
プライドみたいなものを感じたりしますよね。勝手ですけど。

そして・・・久方ぶりの、わが御屋形様と勝頼公。
まずは御屋形様。恵林寺殿俗名武田信玄とハッキリ読めます。

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天正元癸酉年四月十二日逝去
天正乙亥年三月六日建立

とあります。

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乙亥年とは天正三年、長篠合戦の直前ということになりますが、
実は、これ成慶院の『武田家過去帳』における建立日が合致。
この日、『武田家過去帳』によれば、山縣昌景が高野山を
訪れていることがわかっているんですよね!
まさしく当時に建てられた供養塔なんでしょうね・・・

さらに、高野山にも分骨されているということから考えると、
実際に、この供養塔に御骨が埋葬されていて、
いわゆる墓といってもいいのかもしれませんね・・・・

そして、妙心寺供養塔と同様、天正元年四月十二日であり
ここでも「未来年号」がつかわれている点にも注目。

続いて勝頼公。こちらも俗名勝頼、
法泉院殿、としっかり判読することが可能。

P1170785

残念ながら、建立日と没年の確認は失念・・・・
妙心寺の首塚から分骨されたりしているのか、
そもそも建立の経緯は・・というのも気になります。

ま、このときは御屋形様のことが知れたことで
いっぱいいっぱいだったのですがね(笑)
また宿坊にも泊まりたいので、そのときもう一度確認します(汗)

さて、まだ重要なお方が残っております・・・
信翁乾忠大居士、さてだーれだ!

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馬場美濃守なんです!信翁乾忠大居士、
信州真木嶋城主 馬場美濃守信房とあります。
これも、甲州日牌帳と戒名が一致。

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甲州真木嶋城主 馬場美濃守源信房
天正三乙亥・・・後は読めないです。
しかし、真木嶋城は牧ノ島城で信州だと思うのですが、
どうしても甲州と読めるんですよね・・・

左右には、子息と思われる人物。
右手には、蓮華院照山慈源大居士、
馬場民部少輔信忠とあります。信州於深師死、
という部分はよくわかりません・・・深志城にて討死、
と伝えているのかもしれません。

左手には、知門院紹勇躰生居士、
馬場左近房義とあります。民部少輔の弟でしょうか。

丸島和洋先生の「甲陽雑記 ー ○高野山調査・冬の陣(1)
では、この両名はまだよく誰だか判明していない様子。

その他、榊原康政・本多忠勝・島津家久(忠恒)らの
供養塔を見て回りました。

興味深かったのが、遠州掛川北條家・・・どこそれ?

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どうも、これ北条氏重といい、北条綱成の子氏勝に
保科正直の四男だった氏重が養子入りして、
玉縄北條氏を継いでいたのだそうです・・・

碑文。

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遠州懸川城主北條出羽守
平朝臣氏重公後室造立之
證心院殿自安□
妙體大□逆修
杦原耆伯守息女
寄萬治二己亥夭七月□日

どうも万治元(1658)年に氏重が没しているので、
時期的にはいいのですが、「逆修」の意味するところと、
「氏重公後室造立之」という関係がちょっと不明。
逆修であるならば、生前供養なので時期的に合わないので…

ということで、高野山はこれにて終了。
なかなか得がたい経験と情報をたっぷりいただけましたな。

おまけ。なんばまで戻ってくると、階段が真田丸。
けっこう早くに無くなってしまったようなので、
撮っといたのは貴重かも。ふふふ。

P1170820

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去年の今頃はシリーズ(3) 武田家宿坊・持明院/櫻池院、真田家宿坊・蓮華定院

さて、例によって時系列は前後しますけども・・・
流れで高野山話。以前から行きたかった高野山宿坊。

江戸時代に統合されてしまいましたが、武田家の宿坊であった
引導院と統合した持明院に泊まったのが昨年2月。

◆持明院◆

持明院というと、勝頼・信勝・北条夫人寿像や、
武田晴信寿像の保有元
としても知られておりますが、
檀家は何も武田家独占というわけでもなく、
伊達家や京極家とも檀家関係を結んでいます。

高野山までの道すがら、南海電車の真田丸仕様車を発見。
もっとも後に乗ることになるのですが・・・それはまた後の話。

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高野下からケーブルカー、ひいてはバスでゆらゆら~っと。
着きました。持明院。

P1170663

いきなり間違えて、勝手口から入ろうとした不届き者は
わたくしであります・・・・申し訳ありません。

宿坊の堂宇は、明治期の大火の後の再建ではありますが、
立派な風格のあるもの。

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そして、花菱センサー発動(笑)
あちらこちらに花菱があります・・・・火災で史料に乏しく、
ハッキリしたことはわかりにくいようですが、武田家由来でしょうね。

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湯飲みにも・・・尤も、花菱だけではなく、
京極家の四つ目結も描かれてあるんですが、
写真に撮ってないという(笑)

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お夕飯。精進料理と聞くと、さぞかし味気のない…
とかって想像してましたが、とんでもない!

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高野豆腐はさすが、鍋物の出汁が最高。
お出汁をうまく使った料理はありがたいですね・・・

お風呂では外国人の方と遭遇。この日だけか・・と思ったら
けっこう外国人の方が多いらしく、持明院でも
お一人英語に堪能な方がおられるようでしてね。

確かに日本的なものの体験にはなりますよねぇ。
って、日本人にとってもなかなか体験できないことですけど。

ま、消灯も早いわけですが、ツイ廃しなければ(笑)
特にほかにやることもなく、本を持ち込んで
本を読み込むのもいいかもしれませんよ。

このときは、高野山の武田家宿坊に関するコラムを
読んだりしてましたかねぇ・・・

翌朝。お勤めに参加します。けっこうわたしギリで、
お堂に向かったんですが、しまった・・・・!!

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というのも、暗い向こうにかすかにご位牌が見えましてね・・・
しまったぁぁぁぁ、ご位牌拝見する時間ねぇぇぇぇぇ!!

まもなくお勤め開始。あぁ・・・
まぁ、また泊まりに来ればいいんだと思い直し、
手を合わせます。般若心経の部分がわかるのがうれしい。

この日は特別に護摩祈祷をされてる日だったので、
合わせて拝見させていただきました。

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朝ごはん前にうろうろしていると、
とあるお部屋に、浅井長政像と市像(たぶん複製)を発見。
持明院、この両像もお持ちだったんですね。

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ほかなんかないかな~とうろうろしてますと!
金物の水差しに花菱発見!これ・・・なんかゆかりあるか!?

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引導院には勝頼遺品が奉納されたとあるから、
その中のひとつじゃないかなーなんて想像。

ということで、短い時間ではありましたが、
なかなか堪能できました。ご位牌の件だけでなく、
写経の申し込みを忘れていたのが心残り。
次回は絶対忘れないように・・・!!

こちらのお札もまた・・・(花菱に目が行く)

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◆成慶院◆

ということで、翌朝持明院を出てテクテク・・・
と向かったのは、櫻池院。
櫻池院自体は、武田と関係は本来はないのですが、
明治以降、武田家のもうひとつの宿坊・成慶院を
こちらが管理されているのです。

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こちらには割菱が配されていますね。
櫻池院と武田家の所縁の新しさゆえでしょうか。

成慶院の碑もあります。「武田信玄公菩提所」

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成慶院も、もちろん武田専属ではなくって、
信濃や上総・下総あたりと師檀関係を結んでいる様子。
他に目立つところでは、会津藩(保科・松平氏)、
大和郡山藩(柳澤氏)あたりとも関係があって、
このあたりは武田所縁というところに、関心が向きますね(笑)

とはいえ、お泊りしないと中は詳しく入れないので、
やはりここも機を改めて、来ないといけませんな。

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成慶院はこんな感じ・・・えらく現代的な、
見たところ鉄筋コンクリート造です。
往時の建物は焼失でもしたのでしょうか・・・・

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とはいえ、甲斐国供養帳や信玄公ゆかりの文物や
ご位牌は残されてますので、うまく難を逃れたのでしょうか。

続いて、蓮華定院。ここも有名になりましたかね、
真田家と師檀契約を結ぶ宿坊。

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とはいえ、泊まっているわけではないので、
信之・信政の供養塔にだけ、手を合わせに行こうかと。

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真田丸では、描写が省かれましたが、
第二次上田合戦・関が原合戦後、昌幸・信繁一行は、
まずこの蓮華定院に入ったのだそうですね。

裏手にある供養塔。向かって右手が信之。

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左手が信政。

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まわりは梵字で守られております。

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特に、信幸供養塔の刻印が興味深いんですよ。

奉為信州埴科郡松城之城主
従五位下前真田伊豆守
滋野朝臣信公道諱
大鋒院殿徹巖一當大居士
一周忌追善也

大施主真田右衛門殿爲祖父造建之
□萬治二歳巳亥十月十七日

そう・・・信幸、と関が原以前の諱で記されてるんです。
尤も、一度「信之」にしてからわずかな期間「信幸」に
戻した時期はあるそうなのですが、これは信之死後に、
後を継いだ孫で、信政の子である幸道が建てているのです。

が。

幸道は当時2歳。改名時期はわかっていませんが、
元服後、当初の諱は信房だったともいいます。

とすると、幸道本人の意思ではなく、誰か後見する立場、
もしくは家老クラスの指示によるものと考えるのが自然でしょう。
なぜ「幸」の字にしたのか、後に幸道と改名し、
後に続く、通字が「信」から「幸」に戻っていくことと関連するかも?

ちなみに、信政のほうはこうあります。

奉爲信州埴科郡松城之城主
前真田内記従五位下
滋野朝臣信政公道諱
圓陽院殿威良一中大居士
一周忌追福也

大壇主□子真田右衛門殿造立之
□萬治二歳次巳亥二月五日

なかなか興味深いですね。こういう謎を解けなくとも、
見つけるだけでもなんだかわくわくする、それもまた歴史の楽しみ。

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去年の今頃はシリーズ(2) 妙心寺玉鳳院@2016年

さて、正月に続き、去年の今頃はシリーズ(笑)
今ちょうど、甲府と上田に来てまったりしておりますが、
昨年は・・・名古屋城の見学会と京都へ。

今まで、京の冬の旅というJRの企画には
あまり惹かれてこなかったので、これに合わせて、
京都に出かけるってことは、あまりなかったように思うんですけど、
ふと目に付いたのが、玉鳳院。

いつもこの時期に公開されているわけでもないようで、
これはチャンスということで、このためだけに京都へ。

P1170600

ちなみに、今年は維新150年ということで、
幕末維新にゆかりのあるお寺が中心のようです。

妙心寺というのは、武田家とも縁の深い京の寺院で、
恵林寺を信玄公が再興し、菩提所に定めた際に
円覚寺派から妙心寺派になったんですね。

ということで、妙心寺とのツナガリは即ち、
信玄公とのツナガリの始まりということでもあるわけです。

仏殿を抜けて、玉鳳院に向かいます。

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法堂の角を右に曲がります。

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唐破風の門、向唐門。

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こちら、平唐門。
開山堂前の門じゃ珍しい正面(桁側)ではなく、
向かって左右、つまり妻側に唐破風があるんですよね。

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後小松帝時代の御所の門だそう。
後小松帝というと、南北朝末北朝の最後の天皇で、
神話時代も含めて、ちょうど第100代天皇。

ということは、応仁の乱などの度重なる大火にも
耐えてきたものすごく貴重な門ってことだ。。。!!

さ、貴重な内部に入らせていただきます。
よ、よめにゃい・・・

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玉鳳院。こちらは明暦2(1656)年の再建。

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とりあえず、花菱センサーが引っかかりました(笑)

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そして・・・・信玄公、勝頼公、信勝公、典厩信豊殿の
供養塔にお参りをいたします。撮禁なので、写真はありません。

まず、信玄公ですが御自ら妙心寺派とお定めになったこともあり、
御遺骨の一部が妙心寺にも分骨されてるそうで、
この供養塔は、いわゆる御骨のある墓所といえるかもしれません。

また、同時に高野山にも分骨なされているそうですが、
高野山の過去帳、および高野山信玄公供養塔の御戒名とも
一致していて、「恵林寺殿機山玄公大居士」とありました。

お参りしたときは、「法性院殿機山玄公大居士」という、
甲府市岩窪の火葬塚にある戒名を思い出したので、あれれ・・・
と思っていたのですが、「恵林寺殿」が正しいのですね。

ということで、あの岩窪の石棺は怪しいとか何とか・・・
ま、あれはあれで地元で長く弔われてきた供養塔ですからね。

そして、勝頼公。当時妙心寺五十八世の南化玄興師は、
恵林寺の快川国師はじめ、武田家に縁のある高僧と親交が深く、
また、信玄公と同じく勝頼公の御代にも続いていた様子。

京で、勝頼公の御首が晒されたと知るや、信長に嘆願して貰い受け、
妙心寺に葬ったとされるわけです。南化玄興師は信長からも、
信用を得ていたそうなので、首を貰い受けられたとか。

というわけで、ここにはいわゆるいずれの皆様もその御遺体が
お眠りになっている墓所、ということになるのでしょう。

特に、勝頼公は真田丸でちょうど大きな反響と関心を呼び、
勝頼公復権元年になろうとしていた時期。
勝頼公はどのように、この趨勢を黄泉からお感じになっているでしょう?

少し気になったのは、仁科薩摩守信盛の供養塔はないんですよね。
仁科殿はどちらでお眠りなのでしょうか・・・

戒名は次のとおり。

武田信玄公:恵林寺殿機山玄公大居士
武田勝頼公:法泉寺殿玉山龍公大居士
武田信勝公:春山花公居士
武田信豊殿:英叟知雄居士

信豊殿の戒名が特に気になりました。
英叟知雄、勝頼に特に近しく、頼りにされていた副将。
父の古典厩信繁と比べると、どこか影が薄いようにも思いますが、
その勇猛ぶりが想像できる文字が並んでいますね。

ちなみに、信玄公の供養塔のみハッキリと年号を
読み取ることができました。

『天正元年四月十二日』とあります。当時は元号が替わったら
バックデートして年全体がかわるのかな?本来は、元亀四年なのに、
と思っていたのですが、後に丸島和洋先生から、
「未来年号」という概念があるよ、と教えていただきました。

つまり、明らかな偽作の場合だけでなく、「未来年号は比較的
近接した時期に、過去を回想して遡った日付で書かれた場合」に
おき得るということが、服部英雄氏のWebで言及がありました。

信玄公の本葬儀を経て、妙心寺に分骨ということであれば
三回忌の頃ですから、このケースに当てはまりそうですね。
そんな発見もあったお参りでありました。

そして、普通はまずこちらに関心が行くのでしょうけど、
織田信長・信忠供養塔もあるんですよね。
何の因果か・・・とも思いますが、南化玄興師と信長の関係を
考えれば、等しく関係の深かった人物を葬るということなのでしょう。
死ねばみな等しい・・・のでしょうな。

今年はだめですが、また玉鳳院の公開があれば、
今後はぜひ継続的に行くようにしたいと思った次第であります。

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謹賀新年2016-2017 (西日本三城と安居神社)

皆様、明けましておめでとうございます。
例年正月には更新しないのですが・・・・ちょっと気まぐれに。

これが2016年のネタの初回という、今何年だっけ?
というハナシなんですがね・・・

昨年も今年も初詣は京都。木屋町で飲んでから、
その足で・・・というのがここ数年の定番化。

2016年。

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2017年。

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まぁ・・・・撮ってる写真の代わり映えのしないことよ(笑)

しかし、ここからが違いました。昨年は、
「元日・JR西日本乗り放題きっぷ2016」というきっぷで、
無駄に(笑)福岡・広島・岡山を1日で行ってきました・・・

◆2016年◆

が、これもうしないな・・・お城行くくらいならいいんですが、
モトをとろうと無理しちゃうと、何しに行ったんだっけ?
になりかねないキケン(笑)なきっぷです。

■福岡城■

ということで、下の橋御門。

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続いて、松ノ木坂御門。現況・古写真・スケッチ。
武具櫓が期待第一なんですが、松ノ木坂御門も
もし復元できたら素敵だなーと思う櫓門。

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福岡城って、円い石の石垣がけっこう特徴だと思うんですよね。
ということで、一度気づいてからついつい注目しちゃうポイント。

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本丸裏御門と古時打櫓台石垣。古時打櫓とは、
現・伝潮見櫓。御門復元はともかく現位置に移動だけでも
してほしいものですのぅ。そのほうが近くで見られますしね。

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この櫓ですね。赤丸印。

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天守台裏、鉄炮櫓下桝形。ここそういや
ちゃんと今まで見てなかったですが、
枡形の袋叩き感が満載で、けっこう萌えポイントかも!

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鉄炮櫓跡に上がってみると・・・まさに鉄砲の餌食間違いなし!

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鉄炮櫓というだけあって、鉄砲が保管されていたのでしょうけど、
やはりここに保管されているというのは、即戦力になる
防御ポイントだからというのもあるんでしょうなぁ。

天守台の南西に当たる鉄炮櫓から南側に抜けると
最も注目(わたしだけ?)されている武具櫓跡。
ちょうど天守台の真南に当たります。

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武具櫓石垣。正確に姿が判明していて、
かつ見栄えのする櫓って、武具櫓だと思うんですよ。
福岡城もよくわかんない天守天守と言わなければ、
気持ちよく整備計画に賛同できるのですが…

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武具櫓の曲輪からの大小天守台。

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城ファンからは怨嗟の声が上がった天守台の梯子。
まぁ、一応石段に保護シートを付けてコンクリ基礎を付けていて
遺構は保護されてはあるのですが・・・もやっとしますな。

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先ほどの鉄炮櫓下の枡形を小天守側から。
袋叩き感がすごいよね。ひー!

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大天守台穴蔵。なぜだかこの日は中国語に
囲まれる福岡城でしたね・・・

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ここの天守台は穴蔵の規模を堪能するに限りますねぇ。
建っていたかはともかく、相当な規模。
穴蔵の大きさ比較とかちゃんとやったら興味深いだろうね…

本丸裏御門と古時打櫓台石垣を天守台から。
今の下ノ橋御門そばより、映えると思うんだが…

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天守台下。鉄御門と埋門の間の桝形構造。

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さて戻ります・・・個人的に復原希望の扇坂御門。
門を抜けた扇状の階段をね…中津城にもあるし、
なんとなく黒田家らしさの出るポイントではないかと思いません?

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東御門桝形。あれ天端石崩れてる?

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東御門桝形イラスト。門の前が完全な
枡形になっていなくて、門を抜けると枡形になってるの、
どういう発想からなんだろうなぁ。

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きわめて広島城に酷似した(笑)福岡城天守想像図。
かっこいいんだけどね・・・かっこいいんだけどね・・・
でも、想像なんだよなー・・・根拠ないんだよなー・・・

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わたしがなぜか1000億円くらい手にすることになって、
お城でも造ったるわい!ということになったら、
天守はこれで行きたいと思いますけども(苦笑)

石垣整備完了した上ノ橋大手門。
桝形素晴らしくなって、けっこう見所になったはず、
なんだけど誰も見に来ない。今年はどうだろう?

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きれいに枡形が復元されているのですが、その先には
簡易裁判所に遮られて、ここから城内に入れないというのが
ちょっと難点ではありますね・・・・

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さてお昼。けっこう探した記憶がありますが、
無事にモツ鍋おビールセット☆

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そして、その足で広島へGo!

■広島城■

広島城は、廣島護国神社があるためか、かなりの人出。

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ほら・・・やっぱり想像上の福岡城天守=広島城天守じゃないか!

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さて、天守内の展示をさくっと見ていきます。なかなかいい展示。

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とりあえず、気になったお城を列挙・・・吉田郡山城、五龍城、小倉山城、
日山城、吉川元春館、新高山城、頭崎城、佐東銀山城、
鳥籠山城、相方城、比熊山城、一乗山城、亀居城。

まずもって、吉田郡山城はキッチリみたいですよね。
それと武田ツナガリで安芸武田の本城、佐東銀山城あたり。

展示はよかったんですが、肝心の広島城は着いた時には
けっこう時間が遅かったので、大して遺構をみるわけでもなく、
広島城天守かっこいい、広島城天守かっこいい・・・!!
と写真撮るだけで終わってしまった広島滞在(苦笑)

しかし、お堀ですが、きれいに藻を掃除したら、
ドライスーツ着て壕底探索できそうな?くらい、
わりと透明度がある印象。なかなか藻の掃除大変でしょうが。

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■岡山城■

さて、そんなこんなで夜の岡山城に移動。
岡山・・といえばここ数年、通っている小豆島ラーメンへ。

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小豆島といえば、醤油ですからね・・・(極私的には)

さて、岡山城はもはやライトアップ撮るだけ。
だけなんですが、岡山城好きすぎてですね・・・・
撮るだけでも至福なのですよ。

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最後の一枚なんて、入母屋部分が暗く隠れているから、
望楼型天守らしさがわかってなかなかいいなーと自画自賛してみたり。

しかし、角度を変えるごとに違ったフォルムを見せてくれる面白さが
何より楽しいのと、やはりライトアップのときの、
漆黒の引き締まったカッコよさが何倍にも増幅するのがもう・・・!!

広島城天守、岡山城天守が現存していないのとが
ホントに悔しくてなりません。

◆2017年◆

さて今年は、昨年真田丸でフィーバーしたこともあって、
安居天神にきてみました。わりと高校が近くって、
行こうと思えば何時でも行けたはずなんですが、
大阪に住んでいたときは、行こうともしなかった・・・・

のまえに、茶臼山陣城跡。もちろんここも初。

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茶臼山そのものよりも、レーダーで見つかった?
丸馬出のほうが気になるわたし。

こちらの復元図によると、ここが丸馬出の内側にある
壕跡に相当するようです。高低差もありますし、
降りてみても壕感がかなり残っていますよね。

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残念ながら丸馬出感はちょっと感じることは難しいですが、
復元されたらいいんだけども・・・無理か。

そして、近くの安居神社。ここもね・・・初なんですよね・・・
まだまだ戦えそうな感じの幸村さんですな(笑)

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先の真田丸総評でも書いたように、やはり真田信繁という人物に
興味を持てなかったからこそ、来ていなかったわけで、
映像の力ってのは大きいもんですな。
堺信繁の最期を想いながら、お参りしました。

銅像の寄進者の中に、信綱寺や真田姓の皆さんが
ちらほらいらっしゃるのも気になりましたね。
ただ、いわゆる仙台真田家のよく出てくる系図にある方々では
なかったので、この真田さんはどういう・・と調べると。

ひとつ調べあたったのは、真田大助の子孫の名乗る方
ほう・・・大助の子が・・・まぁ・・・いいんじゃない・・でしょか?

それよりも気になるのは、北面・西面の深い落ち込み。
南からは一心寺からなだらかに安居神社まで
つながっていますので、ここも城域だった時代があるのかもしれません。

P1260046

ということで、16年は天守、17年は陣城とある意味、
二年続けてお城だった元日でした。

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