去年の今頃はシリーズ(3) 武田家宿坊・持明院/櫻池院、真田家宿坊・蓮華定院
さて、例によって時系列は前後しますけども・・・
流れで高野山話。以前から行きたかった高野山宿坊。
江戸時代に統合されてしまいましたが、武田家の宿坊であった
引導院と統合した持明院に泊まったのが昨年2月。
◆持明院◆
持明院というと、勝頼・信勝・北条夫人寿像や、
武田晴信寿像の保有元としても知られておりますが、
檀家は何も武田家独占というわけでもなく、
伊達家や京極家とも檀家関係を結んでいます。
高野山までの道すがら、南海電車の真田丸仕様車を発見。
もっとも後に乗ることになるのですが・・・それはまた後の話。

高野下からケーブルカー、ひいてはバスでゆらゆら~っと。
着きました。持明院。

いきなり間違えて、勝手口から入ろうとした不届き者は
わたくしであります・・・・申し訳ありません。
宿坊の堂宇は、明治期の大火の後の再建ではありますが、
立派な風格のあるもの。


そして、花菱センサー発動(笑)
あちらこちらに花菱があります・・・・火災で史料に乏しく、
ハッキリしたことはわかりにくいようですが、武田家由来でしょうね。



湯飲みにも・・・尤も、花菱だけではなく、
京極家の四つ目結も描かれてあるんですが、
写真に撮ってないという(笑)

お夕飯。精進料理と聞くと、さぞかし味気のない…
とかって想像してましたが、とんでもない!

高野豆腐はさすが、鍋物の出汁が最高。
お出汁をうまく使った料理はありがたいですね・・・
お風呂では外国人の方と遭遇。この日だけか・・と思ったら
けっこう外国人の方が多いらしく、持明院でも
お一人英語に堪能な方がおられるようでしてね。
確かに日本的なものの体験にはなりますよねぇ。
って、日本人にとってもなかなか体験できないことですけど。
ま、消灯も早いわけですが、ツイ廃しなければ(笑)
特にほかにやることもなく、本を持ち込んで
本を読み込むのもいいかもしれませんよ。
このときは、高野山の武田家宿坊に関するコラムを
読んだりしてましたかねぇ・・・
翌朝。お勤めに参加します。けっこうわたしギリで、
お堂に向かったんですが、しまった・・・・!!

というのも、暗い向こうにかすかにご位牌が見えましてね・・・
しまったぁぁぁぁ、ご位牌拝見する時間ねぇぇぇぇぇ!!
まもなくお勤め開始。あぁ・・・
まぁ、また泊まりに来ればいいんだと思い直し、
手を合わせます。般若心経の部分がわかるのがうれしい。
この日は特別に護摩祈祷をされてる日だったので、
合わせて拝見させていただきました。

朝ごはん前にうろうろしていると、
とあるお部屋に、浅井長政像と市像(たぶん複製)を発見。
持明院、この両像もお持ちだったんですね。

ほかなんかないかな~とうろうろしてますと!
金物の水差しに花菱発見!これ・・・なんかゆかりあるか!?

引導院には勝頼遺品が奉納されたとあるから、
その中のひとつじゃないかなーなんて想像。
ということで、短い時間ではありましたが、
なかなか堪能できました。ご位牌の件だけでなく、
写経の申し込みを忘れていたのが心残り。
次回は絶対忘れないように・・・!!
こちらのお札もまた・・・(花菱に目が行く)

◆成慶院◆
ということで、翌朝持明院を出てテクテク・・・
と向かったのは、櫻池院。
櫻池院自体は、武田と関係は本来はないのですが、
明治以降、武田家のもうひとつの宿坊・成慶院を
こちらが管理されているのです。

こちらには割菱が配されていますね。
櫻池院と武田家の所縁の新しさゆえでしょうか。
成慶院の碑もあります。「武田信玄公菩提所」

成慶院も、もちろん武田専属ではなくって、
信濃や上総・下総あたりと師檀関係を結んでいる様子。
他に目立つところでは、会津藩(保科・松平氏)、
大和郡山藩(柳澤氏)あたりとも関係があって、
このあたりは武田所縁というところに、関心が向きますね(笑)
とはいえ、お泊りしないと中は詳しく入れないので、
やはりここも機を改めて、来ないといけませんな。


成慶院はこんな感じ・・・えらく現代的な、
見たところ鉄筋コンクリート造です。
往時の建物は焼失でもしたのでしょうか・・・・

とはいえ、甲斐国供養帳や信玄公ゆかりの文物や
ご位牌は残されてますので、うまく難を逃れたのでしょうか。
続いて、蓮華定院。ここも有名になりましたかね、
真田家と師檀契約を結ぶ宿坊。



とはいえ、泊まっているわけではないので、
信之・信政の供養塔にだけ、手を合わせに行こうかと。

真田丸では、描写が省かれましたが、
第二次上田合戦・関が原合戦後、昌幸・信繁一行は、
まずこの蓮華定院に入ったのだそうですね。
裏手にある供養塔。向かって右手が信之。

左手が信政。

まわりは梵字で守られております。

特に、信幸供養塔の刻印が興味深いんですよ。
奉為信州埴科郡松城之城主
従五位下前真田伊豆守
滋野朝臣信幸公道諱
大鋒院殿徹巖一當大居士
一周忌追善也
大施主真田右衛門殿爲祖父造建之
□萬治二歳巳亥十月十七日
そう・・・信幸、と関が原以前の諱で記されてるんです。
尤も、一度「信之」にしてからわずかな期間「信幸」に
戻した時期はあるそうなのですが、これは信之死後に、
後を継いだ孫で、信政の子である幸道が建てているのです。
が。
幸道は当時2歳。改名時期はわかっていませんが、
元服後、当初の諱は信房だったともいいます。
とすると、幸道本人の意思ではなく、誰か後見する立場、
もしくは家老クラスの指示によるものと考えるのが自然でしょう。
なぜ「幸」の字にしたのか、後に幸道と改名し、
後に続く、通字が「信」から「幸」に戻っていくことと関連するかも?
ちなみに、信政のほうはこうあります。
奉爲信州埴科郡松城之城主
前真田内記従五位下
滋野朝臣信政公道諱
圓陽院殿威良一中大居士
一周忌追福也
大壇主□子真田右衛門殿造立之
□萬治二歳次巳亥二月五日
なかなか興味深いですね。こういう謎を解けなくとも、
見つけるだけでもなんだかわくわくする、それもまた歴史の楽しみ。
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