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2016年6月

武田水軍ここにあり・・・持舟城(と駿府城)

さて、ちずさんとお別れして、持舟城。
今は、用宗駅の裏手に当たりますね・・・

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武田水軍の拠点だった「持舟」城、
いつから持舟と呼ばれていたのか・・少なくとも、
今川氏時代から城はあったようですし、
持舟とは、そもそも湊を意味する言葉だったそうなので、
武田水軍が拠点を置いた「から」持舟というわけではなさげ。

そして、「もちふね」 → 「もちむね」ということで、
持舟城の名が転じて、現在の用宗になったのだとか。

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舗装はされちゃってますが、城に通じる道だったのですかね?

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ここから城山に上がっていきます。けっこう海岸線からは
奥まったところまで来た感じ。往時の「湊」ラインは
現在よりもっと手前だったのでしょうか。

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ずんずん進みます・・・が、防御遺構的なものは…

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このあたりには石積が見られますが、
それなりに時間の経過は感じられますけど、
やはり谷積感があって、そんなには古くない感じがします。

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・・でそのまま本丸へどん。あ、あれ・・・

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以前は、廃寺があったそうですが、
キレイさっぱり取り壊されておりました。

実はこのとき、大きな荷物を持っていたので、
あまりフットワーク軽く動けなかったのですけども、
上がってきた道の脇に虎口、堀切の先にも虎口、
大雲寺のほうに搦手。こちらのほうにも行ってみたかった…

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本丸の北側に腰曲輪があるそう・・ですが、
かなりの藪。冬場に来るにしてもかなりの覚悟が要りそう。

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西側には大堀切。壕底になにやらお社が見えます。

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持舟城址の碑。どうでもいいけど、
割と好きなフォント(笑)

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堂宇なき今の廃寺跡の痕跡である燈籠。
今思えば何が書いてあったか、詳しく見ればよかった。

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ここから大堀切の壕底へと下って行けそう。

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ということで壕底。右手が本曲輪、左手が二の曲輪。
奥には先ほどのお社・・・フェンスで囲われてるけど。

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振り向いて。今度は左手が本曲輪ね。

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二の曲輪は順当に上がれそうなところがなく、
直登!ずさずさずさっ!

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あんまり遺構といえそうなのは無いねー。
ひたすら果樹園状態でしたん。

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フェンスが荒らされてるのが気になる・・・

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レールみたいなのは獲れたみかんを運ぶためかな?

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本曲輪を降りて、下から回り込むと壕の南端が。
こっから出られたんじゃないか(笑)

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この道を進むと搦手、お寺さんのほうに行くのだろうねぇ。
ちょっと今回はパスしましたけども。

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というのも、先に真っ黒い雲が・・一雨くるぞこれは。

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といいながらも、金木犀撮ったりとか。
いやー、好きなんですよ。香りも花も・・・・

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JRの線路をまたいで、駅方面へ。
なにやら由緒のありそうな・・・??

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城山烈士供養塔とあります。

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持舟城略記。今川時代は関口親長が城代。
家康の最初の妻、築山殿の父。
武田方が接収して後は、水軍拠点ということもあって、
水軍の一翼を率いた向井正重も守備。

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1579(天正七)年に持舟城は徳川の攻撃で落城、
その際に正重は討死。1580(天正八)年には
再び武田が奪還するも、1582(天正十)年に落城、
守将・朝比奈信置は撤退。

後に、向井正重の次男・正綱は生き延び徳川家に仕え、
御召船奉行として活躍。この正綱から数えて
四代後の向井正興が、長崎奉行として勤番する際に、
先祖の討死した地を訪れて、本曲輪に観音像を建てたとか。

あの廃寺はその縁なのかもしれませんね・・・
廃寺にはなったものの、観音像は麓の大雲寺に安置。
どんな想いだったのでしょうね、ご子孫。

ちなみに、向井氏は水軍だけに水練に長けていたようで、
会津藩(というか保科氏高遠藩)の水練は
向井流だったというのが頭をよぎります。
「武田」でいろんなことがつながるんだよなぁ・・・

さて、そんなこんなで用宗駅から駿府駅・・・
ちゃうちゃう、静岡駅へ。ちょうど昨年は家康公四百年祭。
久能山東照宮の碑もおめかししちゃって(笑)

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葵紋がどどん。

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竹千代くんもえーもん着させてもらってたようです(笑)

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さて、せっかくなんで駿府城にも。家康公四百年祭、
ちょっと顔を出してきました。東御門、巽櫓。

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お決まりの枡形アングル。

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空には朧月。

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ちょっとくら覗いてみると、おもしろそうなビアカクテル。

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静岡麦酒×蜜柑のビアカクテル『駿府の太陽』
家康さんゆかりの食材ってことで、お手植えみかんから
なんでしょうねぇ。うんうんいける。

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ここで一句・・・
「大御所の 御城に見ゆる 朧月 蜜柑の麦酒 心にぞ沁む」
ひねりなし・・・(笑)

続いて静岡麦酒×山葵の組み合わせ、
『御紋の一撃』山葵かなり効いててうまい!意外とアリ。
しかし、『御紋の一撃』って・・・必殺技みたいな(笑)

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さて、城内うろちょろしていると、家康さんの
府内戦紙風味というか、ねぷた風味というか・・・なのが。

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家康さんが好きな「一富士二鷹三茄子」ですな。
茄子はよい・・・茄子はよいぞ!

そしてなんだか駿府城天守まで再建!

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ちょっとスリムで江戸城チックな感じ。
なかなか悪くありませんの。

坤櫓。このときはまだ未訪問・・・今年行くことになりますが
それはまだ先の話(真田丸風)

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復元枡形から・・・ここも後でしっかり回ります。

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外に回って・・・逆さ坤櫓。

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向かいのビルに反射するのもなんだかおもしろい。

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徳川の櫓としては、ものすごく標準的。
てことで、名古屋城や二条城の諸櫓も大いに
参考にされているようですの。

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できたてほやほやのケーキみたい(笑)

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逆向きから逆さ坤櫓。
逆さ櫓、逆さ天守って好き。

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最後に四百年祭カラーマンホで締め。

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いやぁ・・・3月から書き始めてようやく6月に書き終わるって
どんな旅ですかあんた、という感じですね(汗)

途中途中、いろんな方に出会いながら、
城攻めできるしあわせを感じる全国横断城攻めの旅ですた。

さて、次は久々に(というかこれも今更感満載)の
ウイスキーネタ行きましょうかねぇ。

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丸子城再び。

前回は、誓願寺側からひたすら駆け上がったので、
ひたすら曲輪にたどり着くのがしんどかった印象ですけど、
今回は大手道から行きます。

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丸子城鳥瞰図。横堀にせよ、丸馬出にせよ、
徹底して西側への警戒を企図して、
武田の改修が入っているのがわかりやすいですね。

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縄張図。こうしてみると、巧妙ということはなくって、
わかりやすく、でも意図した方角からは攻め難い
という感じのお城だなぁと思いますね。

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しかし、いわゆる丸馬出を多用するという、
判りやすい「武田流」ではないところは、
武田の城でよく出てくる馬場美濃守所縁ではなく、
山縣三郎兵衛所縁だからなのかもしれません。

さて・・大手口から見えるL字型の長大横堀の北東端。
やはりものすごい迫力です。

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北西端から横堀に沿って、曲輪上から。

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壕底に下りてみます。もちろん攻め寄せる敵を
壕底に落として・・というのもあろうかと思いますけども、
としての使い方もできる気がしてきました。

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しかし、9月ではまだまだ鬱蒼として踏破できない
山城も多いなか、丸子城はきれいに見ることができるのは
ありがたいこってすなぁ。

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コの字に囲まれた部分なんて、まさに銃撃拠点的な
張り出しのように思えますよねぇ。

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横堀の南の終着点、本丸と物見曲輪を分かつ壕。
ここから一旦、本曲輪に上がってみましょ。

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ということで、ここまではこういう流れ。
①のところがコの字になってるよーってとこね。

Mariko1

本曲輪。今川時代は北曲輪が本曲輪だったそうで、
武田時代に移動。仮想敵と防衛思想の違い?

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本曲輪の東に段々で連なっている曲輪群。
ちょっと藪で阻まれてるけど、今川時代遺構なんでしょうな。

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東側の本曲輪土塁。どうしても西側と比べちゃうと、
見劣りするけど・・・まぁ、時代と必要性、土木力の差でしょうか。

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さて、再び東面の壕側へと下ります。
先ほど見た物見曲輪が壕の向こう側に見えます。

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しゅたっ!

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物見曲輪から。西側の壕の先に大鑪(おおだたら)曲輪、
その先にも壕が見えます。いわゆる「三日月壕」と
案内板に記されているように、この出曲輪を取り囲むように、
壕が巡らされているんですよね。

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ということで、再度壕底へGo。

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ここの円形の壕(敢えて三日月壕とは言わない)は
横堀もいいけどこちらもね!と言いたくなるくらい、
丸子城の二大見所のひとつだと思います。

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諏訪原城もそうですが、丸子城も何度行っても、
楽しめる城なんでしょうね。何度も行きたいっ。
次いつ来れるでしょう・・・

しかし、これだけの防備を誇りながら、家康の高天神侵攻の際には
防衛拠点にならず無血開城。

城単体で見ると、高天神城よりも丸子城のほうが
防備に優れている気がしますが、そこは地政学的に
高天神城が重要だったのでしょうねぇ。

丸子城を守備していたのは、屋代秀正(勝永)。
室賀満正の子で本家筋に当たる屋代家を継承、
そしてあの・・・「黙れ小童」室賀正武の兄貴であります。

このときすでに諏訪原城は徳川の手に落ち、
高天神城は孤立無援の離れ小島のような状況。

高天神城の補給拠点、小山城はまだ落ちてはいないにも関わらず、
なぜ屋代秀正は無血開城し、久能山城に撤収したのか。

駿河を押さえていたのは早くから徳川に通じていた穴山梅雪、
その梅雪の動向を知った上での撤収なのか・・・
などなどいろいろ考えたらキリがないですけれども。

高天神城から早々に撤収させて、小山城ないし、
丸子城あたりまで撤退して防衛していたら、どうだったろうな?
などとついつい考えたくなるスゴイ城ですね。

さて、このあとは武田水軍の拠点であった持舟城へ。

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諏訪原城再び。

さて、翌日はちずさん(@chizxx)しまささん(@shimasaa)
と諏訪原城へ。かなり好きな城なんですけど、
2013年以来の2年ぶりの訪城。

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二の曲輪中馬出から北馬出あたりの壕が一部きれいに。
こういう感じでキレイにして頂けるといいのですが・・・
これ昨年の9月だから、今どうなってますでしょうねぇ?

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北曲輪は刈ったばかりのような感じ。

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①番の辺りですな。

Suwabara1

このような刈った姿と・・・

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この丸馬出を合成して、きれいきれいな
丸馬出を脳内で・・・新府城がすごかったから、
やっぱりここも冬に来ないと!なのかな~

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しかし、この二の曲輪北馬出。
丸馬出に桝形構造という点では新府城とも共通。
勝頼時代の築城スタイルなのかな?

②本曲輪背後の曲輪群。ここもじっくり見れたら、
おもしろそうなのだけども・・・しまささんがご興味津々なとこ。

Suwabara2

やっぱりもう少しきれいに刈られてないと、
楽しむのはしんどいかもねぇ。

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そういや今回はカンカン井戸から先にも行ってみました。
二の曲輪~本曲輪へ向かう土橋の南側の濠底に出ますよ。

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土橋がどどん!このあたり濠底が段々になってた
ような気がするけど、そういや気づかなかったな???

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しかし濠底から見るのもいいもんだな・・・
三日月壕もこうできたらいいのになぁ。
って、変な整備はしてほしくないけれども。

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さて、大手馬出に戻ってきました。
ここもいいのですが、やはり視界が開けている分、
中馬出のほうがどちらかというと、好きになってきたかも。
規模のデカさはこちらなんですけれどもね。

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さてここから、東方面。以前は鬱蒼としてて、
それでも見れただけでもよかったんですけど、
キレイに刈られていて、びっくりぽん☆

このあたりに、③馬出が集中しています。

Suwabara3

二の曲輪東内馬出。

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わずかではありますが、この丸馬出には土塁痕。
往時はもう少し高さがあったかも?

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ちょっと切り株がごろごろしているのがアレですが、
東内馬出付の三日月壕。

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右手に見えるのは、東馬出。内馬出のさらに外側に
丸馬出+三日月濠が二重化されてんですよ!
そして奥の土橋で繋がっているんです。

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この辺から撮影。

Suwabara4

北土橋アップ。なかなかよい面構えであります。

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逆に大手馬出から繋がっている南土橋を北側から。

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こんな感じです。

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こうしてみると、キレイな丸馬出感がありますよね?
さらなる整備(樹木伐採、切り株撤去)を期待したい…

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そして、二重化されている外側の丸馬出・東馬出。
ここは伐採直後からか、三日月壕が丸太で埋まっとるがな…

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が、キレイにして頂けると信じておりますぞ・・・

さて、東内馬出からさらに南側に土塁が連結している
南馬出のほうにも。というか、東内馬出の南側土橋が
そのまま南馬出土橋とT字に繋がる感じかな?

以前は駐車場のフェンスから眺めるだった
丸馬出なんだよねー。

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この先が南馬出。

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ここもいい感じですねぇ・・・ぐるりと丸馬出からの
三日月壕をば・・・!!

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ということで、今はもっとキレイになっているかもしれませんけど、
整備が進んだ感じもまた楽しい諏訪原城でした。

改めて縄張図を見てますと、1回目にすげぇぇぇぇと思った
規模の大きな丸馬出はなんとなくですが・・・武田時代をイメージすると、
北馬出+中馬出はセットでもう少し規模が小さく、
大手馬出はそもそもなくて、東の丸馬出×3のあたりが
武田時代の大手だったんじゃないかな?という気がします。

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ただ、三つもなくて南と東の二重馬出で、
東の外馬出はなかったかもなーとかとか。
いろいろ想像するのもおもしろいものですよね。

お、バスがあるんだ。次回単騎の際には、
コレを使うのもいいなぁ。ありがたし。

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このあと丸子城に向かいましたが、本場の丸子ととろ汁をば!
静岡駅周辺で食べたことはあるんですけどね。
丸子で食べるっていうのがいいわけです。

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きました☆

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ひゃっほーい!うまうま!

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さーて、丸子城。前回とは違うルートから攻めますぞー!

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三方原台地を縦走する - 欠下~大菩薩坂~信玄本陣跡~祝田坂

さて、遠鉄さぎの宮駅で下車してここからは、
徒歩で三方原台地を武田軍の想定ルートを
たどって進んでいきますよ。

「秋葉街道を南下した武田軍は大菩薩の欠下から
三方原に上がり、ここで陣を取った」

というこちらの記事からすると、この近くで西に曲がって、
欠下のほうに向かったのかもしれません。
(元出典:高柳光壽・「三方原の戦い~武田信玄の戦略」)

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まっすぐ行くと、まず馬込川を渡る山王橋。

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ここからもうすでに三方原台地が見えてきます。

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付近で左右を見渡すと、ずーっと台地が続いているのが
わかります!けっこうな高さなんですよね、三方原台地・・・!!

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さらに進むと、先端がはっきり見えてます。
けっこう圧迫感ある台地の高さ。

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台地先端のすぐ下には、染地川という小川があり、
ここから1kmほど下流で馬込川と合流します。

その染地川にかかる橋が欠下橋。この辺が武田軍が
台地に上がった付近なのでしょう。

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その先に緩い坂が続いてますが、
まぁ、ここは後世の坂でしょうかね・・・・
上がるだけならここからのほうが楽そうですけども、
「武田軍推定行軍ルートを往く」が目的ですので、
ここはパスして、大菩薩坂のほうへ。

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途中、「城山」なるバス停がありまして、
眼前に城っぽい山がこんもりと。

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この城の南の坂を「大菩薩坂」と呼ぶそうで、
ここから武田軍は台地に上がったそうな。

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こちらのblogによると遺構が残っていたりもしそうなのですが、
なにぶんこの時は何も準備してなかったので、パス。
一度は行っておきたい気はしています。

大菩薩の坂の標識から上がっていきます。
400m程度の坂なのですが・・・割ときつい坂。

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少し上がって、有玉西バス停方面。

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しかし最初の200mあたりがかなりきつい・・・
けっこう距離にしては短く、当時としては短い距離で
きつい坂を上がりきったほうがよかったのだろうな、と。

上がった先は、欠下平というようです。

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天保年間のものですが、道標。
ここから姫街道を北上、二重坂を越えると台地上。

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台地上がってすぐのところに「小豆餅」。
敗走の途中でこの近辺の茶屋で小豆餅を食べた・・・とか
言われますが、実際は三方原の戦いでの戦死者休養に
餅を供える習慣が続いたことによるんだとか。

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まぁ、なんにせよ三方原の戦いに由来する地名、
と考えると、愛おしくはなりますよね。

三方原追分一里塚。

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この先に、元追分交差点。
ここから姫街道を離れて、金指街道のほうへ。

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少し往くと、三方原神社があります。
その脇の三方原会館。海抜54.3mか・・・
台地の高さがデジタルで。

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三方原神社、由緒を見ると新しくって、
大正時代の創建。明治初期に幕臣が浜松に移住、
三方原が切り開かれてたそうですが・・・

元城町東照宮まではいかにも遠く、旧浜松城下の
元城神社を遷座して東照宮としたのが1923(大正12)年。
その後昭和になって、三方原神社と改称。

社殿が新しいのはそういうことなんですね。
1973(昭和48)年再建。

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個人的には、三方原に東照宮って・・・・(笑)
という感じなんだけど(だって家康さん大敗北した古戦場ですよ?)
旧幕臣の立場としては、切実だったんでしょうねぇ。

現当主德川恒孝氏お手植えの松。

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さて、三方原神社を過ぎたあたりから、
あっちもこっちも三方原の文字だらけ(笑)
当たり前っちゃ当たり前なんですけども・・・
三方原町ですからね!

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ただ、現在の呼び名は「みかたはら」なんですってね。
三方原の戦いはずっと、「みかたがはらのたたかい」と読んできたので…
由来からすると、「みかたがはら」らしいので、当時の有り様を
語るとするならば、やはり「みかたがはら」で正しいのでしょう。

「三方原古戦場」の碑。三方原墓園のそば。
道路沿いなのでわかりやすいでしょう。

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墓園のそば・・・というのはなんとも意味深ではあります。
このあたりが激戦地で徳川兵が多く斃れたのかもしれません。

德川恒孝氏の揮毫かな?

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あ、やっぱり場所はわからなくてとにかく、
台地の一角に・・・ということか。

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さて、そのまま進むと根洗松。このあたりが信玄公本陣そば。
初代は枯れてしまった様子・・・です。

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根洗松から東に200mのあたりが信玄公本陣。
かつては丘のような高台になっていたらしいが、面影は乏しい。
わずかに傾斜が見られるのが名残かな?

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根洗松までもどって、祝田(ほうだ)坂までの旧道を進む。

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旧道といっても、舗装はされてしまっているのだけども。

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この辺から降り始めているのがわかるのがすごい。

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てことは、信玄公本陣はほんとに坂が下るぎりぎりのところで
構えていたわけで、徳川軍に坂を下ると思わせて…
という作戦が成り立つと思わせる位置関係。

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お、鉄塔の近くまで来ると舗装が途切れた!?

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ここだ・・・祝田の坂。いい道じゃありませんか☆

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鬱蒼としてるのか思ったらそうでもない。
ただ、非常に道は狭く右手には切岸、
左手は深く落ち込んでおり、ここを大軍勢が
通過するとなると、確かに危険。

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この切岸の感じは、最近歩いた棒道のラスト、
地蔵峠を越えたときにもまさにこういう道でしたね。

そして傾斜もかなりあって、すべりそうになる。

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一貫して坂は急な感じ。のぼりはきつそう。
この勾配はもし大軍の武田軍がここを降っていたなら、
少数の徳川勢が勝てるかもしれない!と
まだまだ若い家康さんに思わせるに充分だなぁ、と。

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もちろん家康本人もこの地形を知っていたでしょうから…
しかし、信玄公はとにかく諸国絵図を集めて
地形を熟知することに努めた(甲陽軍鑑)ようで、
当然ながら出撃ルートの地形は考慮されていたでしょう。

まさか信玄入道が三方原の地形を知っているとは…
後ろから襲い掛かるはずの徳川軍の目の前に
悠然と構える武田軍の姿を眼にしたとき、
そう、家康さんは思ったかも知れませんねぇ。

この坂、坂下から反撃するのはかなり不利。
狭い地形で大軍が活かされない、不意打ちで混乱、
と考えると、確かにやばい!と思わされます。

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ここまで降りてくると、舗装に戻るのはあと少し。

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ということで、この辺で終点かな?

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このあと国道257号線に合流し、金指駅から浜松に
戻ったのですが、おそらく武田軍はこのあと国道362号線付近を
西進して、刑部というところで越年します。

金山神社がどうもその刑部城に相当するようで、
知っていたらここまで足を何とか伸ばしていたのですけどね…
信玄公に倣ってこのあたりで越年してみたいものです(笑)

国民宿舎・奥浜名湖」がイチバン近いかな?

浜松に戻ったら、浜松餃子。餃子好き☆

P1140925

さて、翌日は駿河の武田の城といえば!の
諏訪原城・丸子城に加え、水軍の拠点だった持舟城へ。

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二俣城 - 武田×徳川攻防の城

さて、翌日。浜松から遠州鉄道で北上し、
天竜浜名湖鉄道の二俣新町駅から・・・
といきたいところだが、タイミングが合わず。

てことで西鹿島から徒歩で、二俣城。
鹿島橋を渡ってまいります。

P1140734

秋葉街道をここから逸れて、城山へ。

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わりと周辺からは標高があるように思いました。

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振り返って。

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改めてGoogleの地形図をみると、
ものすごい城向きな地形だとわかります。

Tenryu

赤い地点が二俣城。西と南が、
大きな濠のように見え、また振り返った画像でも
確認できるように、濠の前には土塁のように
高台が連なっていて、二俣小・二俣新町駅間の
わずかな平地にしか部隊が展開できる平地がありません。

これはまたいいところに城を築いたもの・・・
というか、これはみすみす見逃しませんわな。

まずここからダダーッと駆け上がって、本曲輪直行。

P1140738

縄張図、げっ・・・見えんわゴルァ!

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ま・・無いよりはいいか。先ほどの道、旭ケ丘神社下に出ます。
(これは上から撮影)おそらく北曲輪と本丸下馬出を
分割する堀切だったんでしょう。

P1140744

ここですね。

Futamata1

さらに奥には、北曲輪を取り囲むように空壕跡であろう
道が続いていて、手前には本丸に繋がる枡形へ。

P1140743

上の写真の撮影現場を北曲輪側から。
なだらかに舗装されてあるけど、往時は濠底道くらいの
高さで撮影ポイントも土塁のようになってたような気がします。

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さて、先に濠底道から北曲輪をぐるっと行きましょう。

P1140748

ちょっと藪い・・・現在の見通しはよろしくないです。

P1140750

またちょっと振り返って。

P1140751

ということで、搦手口に出てきます。

P1140764

さて、今度は本曲輪方面へ。
この枡形、舗装されなかったなかなかよかったろうに。

P1140767

本丸枡形脇からつながる土塁。これだけだと・・・なんですけどね?

P1140768

この土塁から先ほどの北曲輪底の空堀がよく見えるんですよ。
あちらからはあまり見通しよくなかったのに、スッキリ☆

P1140773

P1140777

P1140779

このあたりを土塀で囲って、狭間から狙えば、
かなり狙いやすい感じがしますよ!

さて、天守台。武田と徳川が抗争していた時期?
なんでしょうかね。それとも豊臣政権期?どうなんでしょ。

P1140781

歴史はさておき、よい石垣ではあります。

P1140785

一応、登っとこ。

P1140823

天守台はわりとぼーぼー。

P1140825

本丸の眺めはさすがです。

P1140826

P1140827

さて、追手側へと。本丸南虎口。石垣はさておき、
枡形構造は明確。この先新府城の蔀の構造のように、
細長い空間が土塁と途中からは塀?で構成されたように見え。

P1140787

ここをまっすぐ進み、天守台前で右折れして門を
潜って本丸に入るのが当時のルート。

P1140795

もっと引きで。左隅の窪んだところが二の曲輪端。
てことは、本丸枡形から出ると、二の曲輪土塁上に、
出てくることになるのだけど・・・

P1140791

P1140790

なかなか謎の構造。二の曲輪がそれほど埋まっているのか、
それともこういう構造なのか・・・あたまに「?」を抱えて
あちこち見て回ります・・・しかし、謎。

だって低すぎるもん・・・

P1140796

このまま土塁上を進むと、二の丸虎口。石垣化してますが
ここが追手であるようですね。

P1140792

P1140788

逆側(外側)の土塁上から内向きに。

P1140802

階段下から。

P1140811

なかなかここのところの構造の理解が
難しいのですが、それほど規模の大きい城でない
と考えると、二の曲輪まで引き入れて殲滅
というような考え方だったのかなぁ、と。

Futamata2

上の図で考えてみると、二の曲輪を①大枡形、
本丸南枡形を②小枡形として枡形奥を門で封鎖すると
二重の枡形ができる、と見えます。

ただし、③手門を突破してすぐに本丸南枡形へ
導線があるように見える(土塁が低いor二の曲輪面が高い)
ので、肝心の二の曲輪で敵兵を溜め込むことが
できないんじゃない?とかとか。

二の曲輪のさらに下には、蔵屋敷・南曲輪が。

P1140813

おっと、嫌な予感・・・

P1140814

ぐわぁぁぁ・・・えれー藪じゃねーか・・・

P1140816

これ、地表面見えてません。さすがに膝までは来ないですが、
それに近いくらいの雑草との格闘。

P1140817

見上げると二の曲輪が。ここから狙われるわけですの。

P1140818

もちょっとこっちも何とかしてぇ・・・かなりキツイ。

P1140819

蔵屋敷。この先に南曲輪があるのですが、
さすがにちょっと断念。このあと三方原台地を縦断せねば
ならない身ですから・・・

P1140820

・・・ということで、割と小ぶりな城ではありますが、
信玄公西上作戦で落とした城という由来を
横に置いて純粋に城として、楽しめるお城でありました。

さて、ここからはズル(笑)して電車で武田軍と併走しながら、
欠下~大菩薩坂経由で三方原台地に上がり、
悠々と徳川勢に近づいておきながら、踵を帰して北へと。

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野田城 - 信玄最後の攻城戦

さて、牛久保を出たら豊川稲荷のある豊川を経て、
野田城へ。西上作戦で信玄公が落とした最後の城。

野田城駅という駅があるんですが、割と距離があって、
1kmほど南西に伊那街道を降ったところに、野田城があります。

P1140666

三の曲輪跡。この日は雨模様だったので、
若干躊躇したのですが、行けるところまで行こうかと。

P1140669

往時は三の曲輪の脇は濠(というか沼?)で狭く遮られ、
大軍で両側面から攻めるのは難しかったようです。

P11406851

土塁はもうちょっと高かったのでしょうが、
この道が各曲輪に面する攻城線、自販機のある辺りが
沼地だったのでしょうね。当時武田軍は約三万の軍勢。

割と単純な曲輪構成ですが、守りやすい地形のようです。
力押しすれば勝てそうなものですが、あくまで兵力温存でいく
信玄公はここに1ヶ月ほど費やします。

・・・が、意図あって1ヶ月かけたかは謎で
実はもはや信玄公に意識はなかったのかもな。。。
と思うことはあります。越年にもかなり時間かけてますしね。

さてさて。三の曲輪は藪というか木が生い茂って、
なかなかはっきり意向を確認しにくく。
ちょっと寒い時期に行かないといけないのかも。

P1140671

P1140672

P1140673

P1140675

一部盛り上がっている部分もあって、何の跡だろうな?
と思うところはあるんですけど、雨だし藪だしで踏んだりけったり。
これ以上の深追いはやめましょう・・・

P1140676

P1140678

三の曲輪から進入するのを諦め、脇の道からズルして(笑)
二の曲輪・本曲輪方面へ。

P1140684

笛語りの看板。やはり、ここでは笛の音伝説推しなのね。

P1140687

二の曲輪からの端から、本曲輪とを隔てる
大きな壕を見ながら本丸へ。これはすごい深い壕だ!

P1140689

このあたりでしょうか、武田軍が津金衆に掘らせて、
水脈を断ったあたりは・・・・??

P1140691

二の曲輪~本曲輪の土塁上から南側方面。
やはりこれは結構な損害が出そうな雰囲気。

P1140696

本曲輪側から。さらに高低差が強調されます。

P1140699

北側の堀と土塁。

P1140697

本曲輪の野田城址の碑。

P1140700

ここから信玄公を狙ったという・・・

P1140702

今はとてもじゃないですが見通し悪いので
みえませんねぇ。狙撃話推しで行くなら、
このあたりは刈ってもらえるとありがたいのですけども。

P1140704

さ、せっかくなんで壕をはさんだ向こう側、
武田軍本陣方面へ。やはりこのあたりから見ても、
壕の深さはよくわかりますね。

P1140707

ずどんと落ちた道を行きます。
このあたりも壕か沼地跡なのでしょうね。

P1140708

法性寺。こちらの境内の少し高いところが
武田軍本陣だったそうで。

P1140709

むしろ城域の地表面の高さを考えると、
このあたりは沼底だったと考えるのが自然かもしれません。

P1140711

あ、こっちね。

P1140713

え・・・この先???

P1140714

鬱蒼として暗い・・・

P1140725

すこし上がると、そこには祠が。
どうもこのあたりです。先ほどの法性寺境内が
沼底と仮定すると、沼上の天然濠のちょうど濠端、
ということになりますな。

P1140724

しかし、鬱蒼とした環境。もう・・時期的にまだ蚊がたくさん、
刺されまくってかゆいかゆい!!

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P1140723

さて、ここと先ほどの狙撃地点との間は約200m弱。
まぁ、射程距離内でしょう。問題は撃たれたのが、
信玄本人だったかどうかということと
仮に撃たれたとして、コレが直接の死因だったかということ。

確か某テレビ番組で、毎回全く同じ場所に聴きに来ていて
その場所を昼間にセットして・・・とかなんとか。それで当たるのか?

・・・当たったかどうかはともかくも菅沼側が撃ったのは確かで、
野田城攻略直後に信玄公が撤退、後になって亡くなったことを知り、
その理由として、あの時撃った鉄砲が当たってそれが効いたんだ!
と、捕虜として武田軍に連行された菅沼定盈が考えたとか?

まぁ、いろいろ考えられますね・・・

てわけで、三河国一日目はコレにて終了。
翌日はちょっと時間軸が戻りますが、野田城の戦いの前年、
1572年の二俣城攻略~三方原合戦のルートを追いますっ。

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牛久保・・・山本菅助と今川義元が眠るまち。

セントレアから目指すは、牛久保。

ホントは、サントリーのグレーンウイスキーをつくってる
サングレイン蒸留所を横目だけでも見ていこうか、
と思ってたんですが、意外と交通の便が悪い(笑)
ことが発覚して、スルーすることにしました。

てことで、牛久保駅。
長篠合戦慰霊祭の際に、
寄っていったことはあるのですが、
改めて自分だけで、しっかりお参りしたいなと思って。

「山本勘助のふるさと」牛久保。
風林火山のときには、今ほど自分の中で、
盛り上がってなかったので、来てはいないのですが、
それはすごかったんでしょうねぇ。

P1140643

そして因果なことに、今川義元どのの胴塚があるんですな。
何でも今川領のここまで運ぶのがやっとで、
時期的に腐敗が進み、これ以上は(駿河まで)無理と
判断してここに埋葬したのだそうです。

P1140645

なんと、地元には「今川義元公奉賛会」なる団体。
本拠・駿府でも家康さんに押されて今一歩、
推されていない義元どの。大切にしてる皆さんがいてよかった。

P1140648

P1140649

堂々たるたたずまいの墓石の義元胴塚。
南無南無・・・・

P1140652

二引両紋や今川赤鳥ではないんだね。
五三桐って使ってたの?

P1140654

裏手にまわると、手水鉢がわかります。
最初、この手水鉢を埋葬した目印にしたそうで、
三年後に氏真が改めて墓石を立てたときにも
そのまま使われているんですねぇ。

P1140657

ただ、なーんにも文字が見えなかったんですよね。
何も刻まれてないのかなぁ。墓石に刻まれた文字って、
ものすごくダイレクトに伝わることがあるから、興味あるんだけども。

しかし、今川義元どの、武田家からみたら敵じゃね?
(というか侵略先)という声もあろうかと思いますけども、
義元健在で武田の駿河侵攻はありえませんし、
義信事件だって・・・ただ、信玄ー義信は今川を巡って
以外にもうまくいっていないフシもありますけども。

ということで、その後のことを考えると、
今川義元が健在だったら・・・ともifを考えたり
するものなんですよねぇ。しょうがないんだけど。

菅助さんところにも。前回しっかり見させて頂いたので、
軽くお参りを。南無南無・・・

P1140658

そして、義元胴塚そばの看板で興味深い情報。
菅助が養子に入った大林家の屋敷跡。

P1140646

探したんですが・・・どれ?この辺?

P1140660

碑があるらしいとWebでみたのですが、
見当たらず・・・おおぅ。ま、しょうがないッス。

ただ、別の点に気づきが。城跡交差点・・・あ、そうだ、
この辺、牛久保城跡だったんだ。

P1140662

地名にも、牛久保町大手とかあってワクワク。
このあたりとか土塁と堀感がありますよね。
本丸の形のまま道が通っていたり、櫓台跡の神社など
地形を追ってみると、城を感じるところがまだまだあるそう。
また、じっくり来てみてもいいかもしれません!

この次は、野田城。信玄公最後の戦いの場、
笛の音に誘われて・・・の地点も訪れてみました。

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岡城。

さて、大友家とは直接絡まないので別記事にしました。

以前岡城に向かったのは、2012年、3年ぶりです。
その1
その2

最近はというと、熊本地震でどうなったか心配な岡城。
一応、石垣の崩落もなく無事ではありますが、
しばらくはかなり注意が必要でしょうねぇ・・・

岡城というと、エレベータつけちゃう?とかって
議論があってやきもきしましたが、アレからどうなってるのでしょ。

・・・と言ってると、見慣れない階段が。
これもバリアフリー化の一環でしょうかね???

P1140483

ま、まぁ・・・これくらいならヨシとできますか。
遺構に傷がつくでもないし。

近世岡城の大手門。

P1140486

上の凸凹がスーパーマリオの城壁・・とか
書こうとしたら、前回の記事でも書いてた(笑)

P1140488

前回は諦めた古大手門の先。

p1150894

今回は行けんじゃね?というくらいの藪感だったので
えーいと突撃敢行。

P1140492

あぁ、コレが見たかった。唯一前回見残したから。

P1140496

前回崩れていた城代屋敷跡の石垣、直されぬまま、
草が生えてました・・・直そうよ。

■前回■
p1150918

■今回■
P1140498

やはり、岡城というと、こういう高石垣が見所。
何度見てもぱっと見の迫力はいいものです。

P1140500

P1140503

P1140509

とはいえ、昨年9月でもこうしてブルーシートが
掛かっていたところがあるわけで、ぱっと見で問題なくても、
細かいところで崩れてたりしないかなぁ、と心配。

P1140511

岡城の魅力のひとつとして、比較的見通しがよくって、
三の丸⇔西の丸が遠くにお互い見えるとこ。

P1140518

逆に西の丸から。

P1140556

陰翳礼賛・・・じゃないですが、こういう石垣の陰翳が
キレイに撮れるのって近世山城ならではかな。

P1140502

P1140520

東仕切門から東の奥の曲輪に向かうあたり
舗装されてましたが、どうやらバスが乗り込むんだそう。
それがここまで来るんですね。まぁこれもまだ・・・

【前回】
p1160012

【今回】
P1140530

清水門。前回ほどじゃないですが、
やっぱり門の先に行くのはシンドイね・・・

P1140532

P1140533

下原門までの通路。

P1140534

下原門辺りは以前も舗装されたし、
まぁ、同じような感じでしょうね。
これで変なエレベータがつくことが無くなるなら・・・

P1140536

P1140537

さて、一旦引き返して西の丸方面へ。

P1140545

やっぱり気になる埋門。

P1140558

P1140548

P1140547

石垣としては危ない感じもするんだけど、
画的にお気に入りな一枚。

P1140550

積み直しのときに振られた番号なんだろうけど、
敢えて消すことはしないんだの。

P1140559

近戸門と脇の堀。

P1140563

P1140561

今回近戸門から近い・・・中世遺構にも少し寄って。
近戸門がこの角度で見えます。

P1140579

なかなかよい堀切でした。

P1140577

P1140578

ま、そんなこんなで大分の旅が終わり、
向かった先は・・・・まさかのセントレア。

だって、東京住まいだと(大阪住まいでもだけど)
セントレア使うことないじゃない?
一回見てみたい・・・でしょ?(んなことない?)

ここから、信玄公最後の攻城戦と舞台となった野田城、
三方が原の戦いの前に落とした二俣城、
それに、三方原台地を縦断して、武田軍の行軍ルートを…
てことで、武田充の時間になってまいります。

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大友家に心寄せる旅 - 大分県内大友旅

さて、臼杵経由で大分県に上陸。
思えば遠くまで来たものです。シルバーウィークの初めは、
弘前にいたはずなのになぁ(笑)

P1140431

生憎の雨模様でしたが、まぁガチで山城に行くわけでもなく、
なんとかなるでしょう!大分駅が変わりまくっててビビりましたが、
宗麟公はっけーん!こんちゃー!

P1140433

ということで、宗麟公の前で大友と言えば!
のあむさん(@mapple88)と合流。
いまやわたしの大阪の、それも生まれ故郷そばに
お住まいですから、よいタイミングで大友巡りできたものです。

■大友上原館■

最初は、大友上原(うえのはる)館。
詳しい考察は今後の研究が待たれるところですが、
おそらく大友義鑑・宗麟(義鎮)以前からの館跡なんだろうな。

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往時を髣髴とさせるなかなかの規模の土塁。

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上原館駐車場に当たる部分が往時の濠跡。
その濠跡から土塁南側を見上げるの巻。

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濠跡前景。けっこう大規模。往時からすると、
地表面が高いんでしょうかねぇ。

P1140452

土塁上には大友屋敷跡の碑。

P1140441

土塁北側。自然地形で台地になっている端のところに
土塁状に加工して盛ったような印象。

P1140444

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土塁上からの眺め。なだらかな下り坂。

P1140443

土塁南東側端(北側)

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東側の通路。高低差あること考えると濠跡にも見えるが、
右手の東側がさらに落ち込んでいることを考えると、
往時は通路はなくそのまま崖下になっていた、
と考えるのが自然かもしれません。

P1140450

土塁南東側端(南側)。

P1140449

推定120m×80m程度の単郭の方形屋敷・・・
と考えるとかなり小さめであり、ここから北の大友氏遺跡が
発見される前であったとしても、義鑑・義鎮の時期とは
ちょっと考えにくい気がしますね。九州きっての大大名ですから…

Otomo_uenoharu2

妙親寺のある辺りが大手枡形でしょう。
グリーンコーポ上野あたりからも眺めてみましたが、
かなり深く落ち込んでいて、東北方面に深い崖に
なっている台地上に築かれ、南西側に
濠をつくっている、といったところ。

実測すると、躑躅ヶ崎館の本曲輪の南北、東西が
約180m程度ですから、それよりも小さいことになります。

■大友氏遺跡■

上野館から直線距離にして約1km北東、
大分川の下流域に接したところから、
最盛期の大友氏館跡の痕跡が出てきていて、
現在発掘調査が進んでいるようです。

P1140453

大友氏館推定地。200m四方ということなので、
ほぼ躑躅ヶ崎館本曲輪相当ということでしょうかね?
(比較対象がアレとか言わないの!笑)

P1140454

興味深いのが、館の南方に庭園跡が
見つかっている点。これ、躑躅ヶ崎館でも同様。
いずれも室町将軍邸を意識しているだけに、
その共通性が出ているのかなぁ、と。

一方で武田氏館との大きな相違点を感じるのが
城下町とその位置する地形。府内は川の流域に接し、
かつ南北に伸びたエリアが城下だったようです。

P1140456

北を山で囲まれた扇状地の中央に館を構え、
北に詰めの城、扇状地両端付近に砦を築いて
防備を意識した武田氏館とは大きく異なっています。

大分川の流域に接して、経済流通を意識しながら
地形的には防備にはあまり適しておらず、
屋敷そのものも防備を意識した感じはあまり受けません。

発掘中の庭園跡。どんな遺構がみつかるか楽しみ。
もちろんガッツリ武田氏館との比較観点で見ますよ!(しつこい)

P1140460

あちらは、表御殿のあったあたりでしょうか?

P1140457

遺構の推定時期は1573年頃、宗麟が義統に家督を
譲る少し前あたりだということで、まさに大友氏の絶頂期ですな。

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だだっ広く平地が広がっていますが、用地買収した結果。
公用地として買い取れたからこそ、の発掘調査なんですね。

P1140468

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山梨ですと、御勅使川(みだいがわ)の史跡整備で
除草のためにヤギさんが飼われていたりしますが、
ここ大分でも、大友氏館整備のためにヤギさんが活躍中。

P1140466

いずれにしても、整備後の公開に期待できますね。
楽しみに待ちたいと思います!

■大友義統供養塔■

さて、その大友義統。

栄光から転落を経験した…という意味で、
どこか武田勝頼とかぶるように感じる
部分もある義統ですが、彼の供養塔があるそうで。

P1140471

豊鐘院殿前豊筑肥国司中菴宗岩大禅定門。
中庵宗巌と知られていますが、「巌」は
この供養塔ではどうみても「岩」と読めます。
「菴」は「庵」の異体字。

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前豊筑肥国司とあるものの、宗麟との二頭政治でなく
義統自身の版図として、筑前・豊前・豊後・肥後を
保ったことはないはず。

・・・のでしょうが、やはり大友家の栄光を
反映したものなんでしょうかねぇ。

大友二十一代義統公、とあります。
義統も後世の評判は散々ですけど、供養塔が
つくられるということは、心を寄せる人もいた証。

P1140474

反対側には、没年。
「慶長十 乙巳 七月十九日逝去」とあります。

P1140477

Wikipediaには、1610年(=慶長十五年)との記載が
ありますが、慶長十年(1605年)は確かに
乙巳(きのとみ)ですし、誤記なのだと思います。

こちらの記載を見ても、確かに1605年(慶長十年)が正しい様子。

ちょっと・・・立て直してあげて・・・・

P1140478

供養塔の周りはこんな感じです。
なぜここに?という由来までは知らないのですが、
ちょっとわかりにくいですね・・・もう少し案内があれば…

P1140480

■大友義鑑墓■

さて、続いては大友義鑑墓。大友三代というなら、
義鑑・義鎮・義統ということで、武田三代の信虎に相当(笑)

P1140583

先代からの内部混乱を終息させて対外積極策に出た
義鑑でしたが、嫡男義鎮廃嫡を企図して再び内部分裂、
世に言う「二階崩れの変」で、家督を譲ろうとした三男塩市丸
ともども、義鎮派家臣に殺害され、義鎮が継ぐわけですが。

嫡男廃嫡の企図とその結果の没落という意味では、
信虎ー晴信に似たところもあり、また二階崩れの変がある意味
オーソドックスともいえる、一方が命を落とす結果である一方で、
信虎の場合は誰も死なず、信虎追放でカタが付いている、
という相違点もあって、なかなか比較するのがおもしろいんですよね。

さ、その義鑑。調べてみると大友氏の「義」の字は、
元の通字ではなく、代々、足利将軍からの偏諱なんですね。
おそらく元の通字は「親」なんでしょうが、後に高家として
再興するときにも、「義」が通字に変わっていくようです。

高家として再興するのも、武田家と同じ…
とか言ってるとはいはいという声が聞こえるので(笑)
ちゃんと進めましょう。

小さな小さなお墓ではあります。
まぁ、稀代の英雄となった子と対立した父ですからね。
経緯からいっても、やはり信虎感はあります。

P1140591

大友第十九代従四位下少将
兼修理大夫源義鑑墓
従義澄将軍賜九州探題職

とあります。従四位下というのはほぼほぼ武田家と同じ
ではありますが、九州探題というところで、
やはり格の違いが出ますね・・・

P1140589

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石室は後世(明和6年、1769年)のもの。
臼杵城豊という人物(号宗鎮?)がつくっているみたい。

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銘文の全文が看板に記載。ありがたい。

P1140586

この臼杵城豊なる人物、いったい・・・・
と思うと、次に宗麟公のお墓でその理由の一端が
判明することになります。

■大友宗麟墓■

ということで、次に来たのが宗麟墓。
といっても、大分府内ではなく、臼杵よりもさらに南
津久見市というところにありました。

P1140592


ここは、宗麟公園と呼ばれていて、
津久見には切支丹天徳寺を建てたり、
宗麟晩年以前から府内から臼杵、津久見のほうに
重心が移っていたようです。

事実、宗麟が島津軍に最後の意地を見せた
戦いも府内の大友館ではなく臼杵城ですし、
亡くなったのもこの津久見と伝わります。

どうも府内は守るに堪えないと思いましたが、
宗麟の時代中期以降には、府内は軍事・政治の拠点では
なかったのかもしれませんね。

さてさて、墓域です。今年の1月にスプレーで
汚されるという許しがたい事件が起きましたが、
コレはその前。一応修復はできたそうではありますが…

墓域の宗麟像。イメージ通りの宗麟公ですな(笑)

P1140598

宗麟の死の直後は、キリスト教式の葬儀が行われて
墓もキリスト教式だったが、禁教令発令後、義統が改めて
府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式に改めたそう。

しかし、その仏式の墓も荒廃が進んだため、
寛政年間に自費で墓碑を新調して、移した人物がいます。
そう・・・臼杵城豊。義鑑の墓の石室をつくった人物。

義鑑墓石室は明和六年(1769年)ですから、
宗麟墓の改葬はその後、ということになります。

P1140601

「瑞峯院殿前羽林次将兼左金吾休菴宗麟大居士」

羽林次将とは、近衛中将/少将、左金吾とは左衛門督。
宗麟公って確か左衛門督だったと思うけど、
兼任で近衛中将って官位あったっけ?どうなんだろ。

P1140605

「天正十五丁亥年五月廿二日 春秋五十有八歳」

Wikipediaでは5月6日となってますが、こちらのほうが
正しいでしょうなぁ。一瞬、廿三とも読めたんですが、
どうなんでしょうかね。

P1140604

「九州二嶋并伊豫官領 従四位下兼左近衛権少将
 大友左兵衛門督 源義鎮」

伊予ってほんまかいな?と見たときには思いましたが、
南伊予の西園寺公広を攻撃し、一時南伊予を勢力圏に
収めていたので、嘘ではないのでしょう。

九州二嶋ってどういう意味なんだろ、とか
左近衛権少将に任官してるの?とかいろいろ
他にもツッコミどころはあったりしますけども
この臼杵城豊なる人物、宗麟公リスペクト万歳じゃないか(笑)

こういう人物好きだなぁ・・信玄公にも柳沢吉保はじめ、
いろんな信玄公好きがたくさんいるけど、大友家にも。

臼杵氏というと、大友家の重臣。
臼杵氏の末裔はよくわからないそうですが、
細々と故地に住まい、先祖を想ってるなんて素敵よね。

こちらは昭和52年(1977年)にキリスト教式で
建てられた比較的新しいお墓です。

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こちらはどなたでしょうか?従者の誰かか・・・・
いや、改葬されたとすると、尊敬してやまない宗麟公のそばに
眠ろうとした臼杵城豊の墓かもしれません。

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■大友津久見館■

さて、実際に宗麟が亡くなったという、津久見の館跡。
こちらは「大友公園」という場所になっています。

館跡の見所としては眺望くらいしか(汗)ないのですが
宗麟花押や印判がモニュメントになってて、
これはこれでおもしろいです。

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ただ、こうポツーンと印判があるわりに、
解説が何もないのは残念ですのぅ・・・

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花押がたくさんある人物は、書状の年次比定にも
使えて研究する人々にはありがたいんだろうなぁ。

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先ほどもあったキリシタンとしての印判。
宗麟の洗礼名であるDon Francisco(ドン・フランシスコ)の
文字を組み合わせ。D・F・R・C・Oの文字がありますね。

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宗麟公像。島津に攻め込まれ、滅亡寸前まで
追い詰められて亡くなった地だから、
「わし、もうあかーん」みたいな・・・思わず、
「お気を確かに持たれよ!!!」と声をかけてしまいそう(笑)

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屋敷跡からの眺め。眺望が利くよい地
ではありますね。

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さて、降って津久見駅前。ここにも宗麟公像。
こっちはまだしゃんとしています。
それでもなんだか哀しそうな目をしておられる・・・

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大分駅であむさんとお別れして、大分空港から
一路東へ。最後に大分空港の宗麟公にご挨拶。

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しかし、守護上がりで家中内紛を纏め上げて、戦国大名として
近隣に覇を唱えるも、大名家滅亡、しかし血筋が高家に残る…
のは武田に似てるけれども、豊か過ぎる財力は大きな違いかも。

それにしても、墓の荒廃を嘆き再築した臼杵城豊には、
武田遺臣の想いの深さに似たものを感じるよね。
大友家への関心がさらに深まった1日でした。

しかし、せっかく大分に来たんだから、
お城のひとつでも行かないとということで、
岡城にも行ったのでした。ということで、少し時間を
巻き戻して、岡城のお話にGo!

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