« 二俣城 - 武田×徳川攻防の城 | トップページ | 諏訪原城再び。 »

三方原台地を縦走する - 欠下~大菩薩坂~信玄本陣跡~祝田坂

さて、遠鉄さぎの宮駅で下車してここからは、
徒歩で三方原台地を武田軍の想定ルートを
たどって進んでいきますよ。

「秋葉街道を南下した武田軍は大菩薩の欠下から
三方原に上がり、ここで陣を取った」

というこちらの記事からすると、この近くで西に曲がって、
欠下のほうに向かったのかもしれません。
(元出典:高柳光壽・「三方原の戦い~武田信玄の戦略」)

P1140833

まっすぐ行くと、まず馬込川を渡る山王橋。

P1140838

ここからもうすでに三方原台地が見えてきます。

P1140841

付近で左右を見渡すと、ずーっと台地が続いているのが
わかります!けっこうな高さなんですよね、三方原台地・・・!!

P1140840

P1140843

さらに進むと、先端がはっきり見えてます。
けっこう圧迫感ある台地の高さ。

P1140845

台地先端のすぐ下には、染地川という小川があり、
ここから1kmほど下流で馬込川と合流します。

その染地川にかかる橋が欠下橋。この辺が武田軍が
台地に上がった付近なのでしょう。

P1140846

その先に緩い坂が続いてますが、
まぁ、ここは後世の坂でしょうかね・・・・
上がるだけならここからのほうが楽そうですけども、
「武田軍推定行軍ルートを往く」が目的ですので、
ここはパスして、大菩薩坂のほうへ。

P1140850

途中、「城山」なるバス停がありまして、
眼前に城っぽい山がこんもりと。

P1140851

P1140852

この城の南の坂を「大菩薩坂」と呼ぶそうで、
ここから武田軍は台地に上がったそうな。

111

こちらのblogによると遺構が残っていたりもしそうなのですが、
なにぶんこの時は何も準備してなかったので、パス。
一度は行っておきたい気はしています。

大菩薩の坂の標識から上がっていきます。
400m程度の坂なのですが・・・割ときつい坂。

P1140853

少し上がって、有玉西バス停方面。

P1140855

しかし最初の200mあたりがかなりきつい・・・
けっこう距離にしては短く、当時としては短い距離で
きつい坂を上がりきったほうがよかったのだろうな、と。

上がった先は、欠下平というようです。

P1140858

天保年間のものですが、道標。
ここから姫街道を北上、二重坂を越えると台地上。

P1140859

P1140860

台地上がってすぐのところに「小豆餅」。
敗走の途中でこの近辺の茶屋で小豆餅を食べた・・・とか
言われますが、実際は三方原の戦いでの戦死者休養に
餅を供える習慣が続いたことによるんだとか。

P1140863

まぁ、なんにせよ三方原の戦いに由来する地名、
と考えると、愛おしくはなりますよね。

三方原追分一里塚。

P1140865

この先に、元追分交差点。
ここから姫街道を離れて、金指街道のほうへ。

P1140867

P1140868

P1140869

少し往くと、三方原神社があります。
その脇の三方原会館。海抜54.3mか・・・
台地の高さがデジタルで。

P1140871

三方原神社、由緒を見ると新しくって、
大正時代の創建。明治初期に幕臣が浜松に移住、
三方原が切り開かれてたそうですが・・・

元城町東照宮まではいかにも遠く、旧浜松城下の
元城神社を遷座して東照宮としたのが1923(大正12)年。
その後昭和になって、三方原神社と改称。

社殿が新しいのはそういうことなんですね。
1973(昭和48)年再建。

P1140875

個人的には、三方原に東照宮って・・・・(笑)
という感じなんだけど(だって家康さん大敗北した古戦場ですよ?)
旧幕臣の立場としては、切実だったんでしょうねぇ。

現当主德川恒孝氏お手植えの松。

P1140873

さて、三方原神社を過ぎたあたりから、
あっちもこっちも三方原の文字だらけ(笑)
当たり前っちゃ当たり前なんですけども・・・
三方原町ですからね!

P1140876

ただ、現在の呼び名は「みかたはら」なんですってね。
三方原の戦いはずっと、「みかたがはらのたたかい」と読んできたので…
由来からすると、「みかたがはら」らしいので、当時の有り様を
語るとするならば、やはり「みかたがはら」で正しいのでしょう。

「三方原古戦場」の碑。三方原墓園のそば。
道路沿いなのでわかりやすいでしょう。

P1140882

墓園のそば・・・というのはなんとも意味深ではあります。
このあたりが激戦地で徳川兵が多く斃れたのかもしれません。

德川恒孝氏の揮毫かな?

P1140883

あ、やっぱり場所はわからなくてとにかく、
台地の一角に・・・ということか。

P1140885

さて、そのまま進むと根洗松。このあたりが信玄公本陣そば。
初代は枯れてしまった様子・・・です。

P1140888

根洗松から東に200mのあたりが信玄公本陣。
かつては丘のような高台になっていたらしいが、面影は乏しい。
わずかに傾斜が見られるのが名残かな?

P1140892

根洗松までもどって、祝田(ほうだ)坂までの旧道を進む。

P1140894

旧道といっても、舗装はされてしまっているのだけども。

P1140896

この辺から降り始めているのがわかるのがすごい。

P1140899

てことは、信玄公本陣はほんとに坂が下るぎりぎりのところで
構えていたわけで、徳川軍に坂を下ると思わせて…
という作戦が成り立つと思わせる位置関係。

P1140901

お、鉄塔の近くまで来ると舗装が途切れた!?

P1140904

ここだ・・・祝田の坂。いい道じゃありませんか☆

P1140907

鬱蒼としてるのか思ったらそうでもない。
ただ、非常に道は狭く右手には切岸、
左手は深く落ち込んでおり、ここを大軍勢が
通過するとなると、確かに危険。

P1140909

この切岸の感じは、最近歩いた棒道のラスト、
地蔵峠を越えたときにもまさにこういう道でしたね。

そして傾斜もかなりあって、すべりそうになる。

P1140911

一貫して坂は急な感じ。のぼりはきつそう。
この勾配はもし大軍の武田軍がここを降っていたなら、
少数の徳川勢が勝てるかもしれない!と
まだまだ若い家康さんに思わせるに充分だなぁ、と。

P1140913

もちろん家康本人もこの地形を知っていたでしょうから…
しかし、信玄公はとにかく諸国絵図を集めて
地形を熟知することに努めた(甲陽軍鑑)ようで、
当然ながら出撃ルートの地形は考慮されていたでしょう。

まさか信玄入道が三方原の地形を知っているとは…
後ろから襲い掛かるはずの徳川軍の目の前に
悠然と構える武田軍の姿を眼にしたとき、
そう、家康さんは思ったかも知れませんねぇ。

この坂、坂下から反撃するのはかなり不利。
狭い地形で大軍が活かされない、不意打ちで混乱、
と考えると、確かにやばい!と思わされます。

P1140914

ここまで降りてくると、舗装に戻るのはあと少し。

P1140919

ということで、この辺で終点かな?

P1140922

このあと国道257号線に合流し、金指駅から浜松に
戻ったのですが、おそらく武田軍はこのあと国道362号線付近を
西進して、刑部というところで越年します。

金山神社がどうもその刑部城に相当するようで、
知っていたらここまで足を何とか伸ばしていたのですけどね…
信玄公に倣ってこのあたりで越年してみたいものです(笑)

国民宿舎・奥浜名湖」がイチバン近いかな?

浜松に戻ったら、浜松餃子。餃子好き☆

P1140925

さて、翌日は駿河の武田の城といえば!の
諏訪原城・丸子城に加え、水軍の拠点だった持舟城へ。

blogramに参加してます。
ボタンを押してもらえるとうれしいですぅ。
blogram投票ボタン

|

« 二俣城 - 武田×徳川攻防の城 | トップページ | 諏訪原城再び。 »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 三方原台地を縦走する - 欠下~大菩薩坂~信玄本陣跡~祝田坂:

« 二俣城 - 武田×徳川攻防の城 | トップページ | 諏訪原城再び。 »