野田城 - 信玄最後の攻城戦
さて、牛久保を出たら豊川稲荷のある豊川を経て、
野田城へ。西上作戦で信玄公が落とした最後の城。
野田城駅という駅があるんですが、割と距離があって、
1kmほど南西に伊那街道を降ったところに、野田城があります。
三の曲輪跡。この日は雨模様だったので、
若干躊躇したのですが、行けるところまで行こうかと。
往時は三の曲輪の脇は濠(というか沼?)で狭く遮られ、
大軍で両側面から攻めるのは難しかったようです。
土塁はもうちょっと高かったのでしょうが、
この道が各曲輪に面する攻城線、自販機のある辺りが
沼地だったのでしょうね。当時武田軍は約三万の軍勢。
割と単純な曲輪構成ですが、守りやすい地形のようです。
力押しすれば勝てそうなものですが、あくまで兵力温存でいく
信玄公はここに1ヶ月ほど費やします。
・・・が、意図あって1ヶ月かけたかは謎で
実はもはや信玄公に意識はなかったのかもな。。。
と思うことはあります。越年にもかなり時間かけてますしね。
さてさて。三の曲輪は藪というか木が生い茂って、
なかなかはっきり意向を確認しにくく。
ちょっと寒い時期に行かないといけないのかも。
一部盛り上がっている部分もあって、何の跡だろうな?
と思うところはあるんですけど、雨だし藪だしで踏んだりけったり。
これ以上の深追いはやめましょう・・・
三の曲輪から進入するのを諦め、脇の道からズルして(笑)
二の曲輪・本曲輪方面へ。
笛語りの看板。やはり、ここでは笛の音伝説推しなのね。
二の曲輪からの端から、本曲輪とを隔てる
大きな壕を見ながら本丸へ。これはすごい深い壕だ!
このあたりでしょうか、武田軍が津金衆に掘らせて、
水脈を断ったあたりは・・・・??
二の曲輪~本曲輪の土塁上から南側方面。
やはりこれは結構な損害が出そうな雰囲気。
本曲輪側から。さらに高低差が強調されます。
北側の堀と土塁。
本曲輪の野田城址の碑。
ここから信玄公を狙ったという・・・
今はとてもじゃないですが見通し悪いので
みえませんねぇ。狙撃話推しで行くなら、
このあたりは刈ってもらえるとありがたいのですけども。
さ、せっかくなんで壕をはさんだ向こう側、
武田軍本陣方面へ。やはりこのあたりから見ても、
壕の深さはよくわかりますね。
ずどんと落ちた道を行きます。
このあたりも壕か沼地跡なのでしょうね。
法性寺。こちらの境内の少し高いところが
武田軍本陣だったそうで。
むしろ城域の地表面の高さを考えると、
このあたりは沼底だったと考えるのが自然かもしれません。
あ、こっちね。
え・・・この先???
鬱蒼として暗い・・・
すこし上がると、そこには祠が。
どうもこのあたりです。先ほどの法性寺境内が
沼底と仮定すると、沼上の天然濠のちょうど濠端、
ということになりますな。
しかし、鬱蒼とした環境。もう・・時期的にまだ蚊がたくさん、
刺されまくってかゆいかゆい!!
さて、ここと先ほどの狙撃地点との間は約200m弱。
まぁ、射程距離内でしょう。問題は撃たれたのが、
信玄本人だったかどうかということと
仮に撃たれたとして、コレが直接の死因だったかということ。
確か某テレビ番組で、毎回全く同じ場所に聴きに来ていて
その場所を昼間にセットして・・・とかなんとか。それで当たるのか?
・・・当たったかどうかはともかくも菅沼側が撃ったのは確かで、
野田城攻略直後に信玄公が撤退、後になって亡くなったことを知り、
その理由として、あの時撃った鉄砲が当たってそれが効いたんだ!
と、捕虜として武田軍に連行された菅沼定盈が考えたとか?
まぁ、いろいろ考えられますね・・・
てわけで、三河国一日目はコレにて終了。
翌日はちょっと時間軸が戻りますが、野田城の戦いの前年、
1572年の二俣城攻略~三方原合戦のルートを追いますっ。
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