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大友家に心寄せる旅 - 大分県内大友旅

さて、臼杵経由で大分県に上陸。
思えば遠くまで来たものです。シルバーウィークの初めは、
弘前にいたはずなのになぁ(笑)

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生憎の雨模様でしたが、まぁガチで山城に行くわけでもなく、
なんとかなるでしょう!大分駅が変わりまくっててビビりましたが、
宗麟公はっけーん!こんちゃー!

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ということで、宗麟公の前で大友と言えば!
のあむさん(@mapple88)と合流。
いまやわたしの大阪の、それも生まれ故郷そばに
お住まいですから、よいタイミングで大友巡りできたものです。

■大友上原館■

最初は、大友上原(うえのはる)館。
詳しい考察は今後の研究が待たれるところですが、
おそらく大友義鑑・宗麟(義鎮)以前からの館跡なんだろうな。

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往時を髣髴とさせるなかなかの規模の土塁。

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上原館駐車場に当たる部分が往時の濠跡。
その濠跡から土塁南側を見上げるの巻。

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濠跡前景。けっこう大規模。往時からすると、
地表面が高いんでしょうかねぇ。

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土塁上には大友屋敷跡の碑。

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土塁北側。自然地形で台地になっている端のところに
土塁状に加工して盛ったような印象。

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土塁上からの眺め。なだらかな下り坂。

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土塁南東側端(北側)

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東側の通路。高低差あること考えると濠跡にも見えるが、
右手の東側がさらに落ち込んでいることを考えると、
往時は通路はなくそのまま崖下になっていた、
と考えるのが自然かもしれません。

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土塁南東側端(南側)。

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推定120m×80m程度の単郭の方形屋敷・・・
と考えるとかなり小さめであり、ここから北の大友氏遺跡が
発見される前であったとしても、義鑑・義鎮の時期とは
ちょっと考えにくい気がしますね。九州きっての大大名ですから…

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妙親寺のある辺りが大手枡形でしょう。
グリーンコーポ上野あたりからも眺めてみましたが、
かなり深く落ち込んでいて、東北方面に深い崖に
なっている台地上に築かれ、南西側に
濠をつくっている、といったところ。

実測すると、躑躅ヶ崎館の本曲輪の南北、東西が
約180m程度ですから、それよりも小さいことになります。

■大友氏遺跡■

上野館から直線距離にして約1km北東、
大分川の下流域に接したところから、
最盛期の大友氏館跡の痕跡が出てきていて、
現在発掘調査が進んでいるようです。

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大友氏館推定地。200m四方ということなので、
ほぼ躑躅ヶ崎館本曲輪相当ということでしょうかね?
(比較対象がアレとか言わないの!笑)

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興味深いのが、館の南方に庭園跡が
見つかっている点。これ、躑躅ヶ崎館でも同様。
いずれも室町将軍邸を意識しているだけに、
その共通性が出ているのかなぁ、と。

一方で武田氏館との大きな相違点を感じるのが
城下町とその位置する地形。府内は川の流域に接し、
かつ南北に伸びたエリアが城下だったようです。

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北を山で囲まれた扇状地の中央に館を構え、
北に詰めの城、扇状地両端付近に砦を築いて
防備を意識した武田氏館とは大きく異なっています。

大分川の流域に接して、経済流通を意識しながら
地形的には防備にはあまり適しておらず、
屋敷そのものも防備を意識した感じはあまり受けません。

発掘中の庭園跡。どんな遺構がみつかるか楽しみ。
もちろんガッツリ武田氏館との比較観点で見ますよ!(しつこい)

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あちらは、表御殿のあったあたりでしょうか?

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遺構の推定時期は1573年頃、宗麟が義統に家督を
譲る少し前あたりだということで、まさに大友氏の絶頂期ですな。

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だだっ広く平地が広がっていますが、用地買収した結果。
公用地として買い取れたからこそ、の発掘調査なんですね。

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山梨ですと、御勅使川(みだいがわ)の史跡整備で
除草のためにヤギさんが飼われていたりしますが、
ここ大分でも、大友氏館整備のためにヤギさんが活躍中。

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いずれにしても、整備後の公開に期待できますね。
楽しみに待ちたいと思います!

■大友義統供養塔■

さて、その大友義統。

栄光から転落を経験した…という意味で、
どこか武田勝頼とかぶるように感じる
部分もある義統ですが、彼の供養塔があるそうで。

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豊鐘院殿前豊筑肥国司中菴宗岩大禅定門。
中庵宗巌と知られていますが、「巌」は
この供養塔ではどうみても「岩」と読めます。
「菴」は「庵」の異体字。

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前豊筑肥国司とあるものの、宗麟との二頭政治でなく
義統自身の版図として、筑前・豊前・豊後・肥後を
保ったことはないはず。

・・・のでしょうが、やはり大友家の栄光を
反映したものなんでしょうかねぇ。

大友二十一代義統公、とあります。
義統も後世の評判は散々ですけど、供養塔が
つくられるということは、心を寄せる人もいた証。

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反対側には、没年。
「慶長十 乙巳 七月十九日逝去」とあります。

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Wikipediaには、1610年(=慶長十五年)との記載が
ありますが、慶長十年(1605年)は確かに
乙巳(きのとみ)ですし、誤記なのだと思います。

こちらの記載を見ても、確かに1605年(慶長十年)が正しい様子。

ちょっと・・・立て直してあげて・・・・

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供養塔の周りはこんな感じです。
なぜここに?という由来までは知らないのですが、
ちょっとわかりにくいですね・・・もう少し案内があれば…

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■大友義鑑墓■

さて、続いては大友義鑑墓。大友三代というなら、
義鑑・義鎮・義統ということで、武田三代の信虎に相当(笑)

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先代からの内部混乱を終息させて対外積極策に出た
義鑑でしたが、嫡男義鎮廃嫡を企図して再び内部分裂、
世に言う「二階崩れの変」で、家督を譲ろうとした三男塩市丸
ともども、義鎮派家臣に殺害され、義鎮が継ぐわけですが。

嫡男廃嫡の企図とその結果の没落という意味では、
信虎ー晴信に似たところもあり、また二階崩れの変がある意味
オーソドックスともいえる、一方が命を落とす結果である一方で、
信虎の場合は誰も死なず、信虎追放でカタが付いている、
という相違点もあって、なかなか比較するのがおもしろいんですよね。

さ、その義鑑。調べてみると大友氏の「義」の字は、
元の通字ではなく、代々、足利将軍からの偏諱なんですね。
おそらく元の通字は「親」なんでしょうが、後に高家として
再興するときにも、「義」が通字に変わっていくようです。

高家として再興するのも、武田家と同じ…
とか言ってるとはいはいという声が聞こえるので(笑)
ちゃんと進めましょう。

小さな小さなお墓ではあります。
まぁ、稀代の英雄となった子と対立した父ですからね。
経緯からいっても、やはり信虎感はあります。

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大友第十九代従四位下少将
兼修理大夫源義鑑墓
従義澄将軍賜九州探題職

とあります。従四位下というのはほぼほぼ武田家と同じ
ではありますが、九州探題というところで、
やはり格の違いが出ますね・・・

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石室は後世(明和6年、1769年)のもの。
臼杵城豊という人物(号宗鎮?)がつくっているみたい。

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銘文の全文が看板に記載。ありがたい。

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この臼杵城豊なる人物、いったい・・・・
と思うと、次に宗麟公のお墓でその理由の一端が
判明することになります。

■大友宗麟墓■

ということで、次に来たのが宗麟墓。
といっても、大分府内ではなく、臼杵よりもさらに南
津久見市というところにありました。

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ここは、宗麟公園と呼ばれていて、
津久見には切支丹天徳寺を建てたり、
宗麟晩年以前から府内から臼杵、津久見のほうに
重心が移っていたようです。

事実、宗麟が島津軍に最後の意地を見せた
戦いも府内の大友館ではなく臼杵城ですし、
亡くなったのもこの津久見と伝わります。

どうも府内は守るに堪えないと思いましたが、
宗麟の時代中期以降には、府内は軍事・政治の拠点では
なかったのかもしれませんね。

さてさて、墓域です。今年の1月にスプレーで
汚されるという許しがたい事件が起きましたが、
コレはその前。一応修復はできたそうではありますが…

墓域の宗麟像。イメージ通りの宗麟公ですな(笑)

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宗麟の死の直後は、キリスト教式の葬儀が行われて
墓もキリスト教式だったが、禁教令発令後、義統が改めて
府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式に改めたそう。

しかし、その仏式の墓も荒廃が進んだため、
寛政年間に自費で墓碑を新調して、移した人物がいます。
そう・・・臼杵城豊。義鑑の墓の石室をつくった人物。

義鑑墓石室は明和六年(1769年)ですから、
宗麟墓の改葬はその後、ということになります。

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「瑞峯院殿前羽林次将兼左金吾休菴宗麟大居士」

羽林次将とは、近衛中将/少将、左金吾とは左衛門督。
宗麟公って確か左衛門督だったと思うけど、
兼任で近衛中将って官位あったっけ?どうなんだろ。

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「天正十五丁亥年五月廿二日 春秋五十有八歳」

Wikipediaでは5月6日となってますが、こちらのほうが
正しいでしょうなぁ。一瞬、廿三とも読めたんですが、
どうなんでしょうかね。

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「九州二嶋并伊豫官領 従四位下兼左近衛権少将
 大友左兵衛門督 源義鎮」

伊予ってほんまかいな?と見たときには思いましたが、
南伊予の西園寺公広を攻撃し、一時南伊予を勢力圏に
収めていたので、嘘ではないのでしょう。

九州二嶋ってどういう意味なんだろ、とか
左近衛権少将に任官してるの?とかいろいろ
他にもツッコミどころはあったりしますけども
この臼杵城豊なる人物、宗麟公リスペクト万歳じゃないか(笑)

こういう人物好きだなぁ・・信玄公にも柳沢吉保はじめ、
いろんな信玄公好きがたくさんいるけど、大友家にも。

臼杵氏というと、大友家の重臣。
臼杵氏の末裔はよくわからないそうですが、
細々と故地に住まい、先祖を想ってるなんて素敵よね。

こちらは昭和52年(1977年)にキリスト教式で
建てられた比較的新しいお墓です。

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こちらはどなたでしょうか?従者の誰かか・・・・
いや、改葬されたとすると、尊敬してやまない宗麟公のそばに
眠ろうとした臼杵城豊の墓かもしれません。

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■大友津久見館■

さて、実際に宗麟が亡くなったという、津久見の館跡。
こちらは「大友公園」という場所になっています。

館跡の見所としては眺望くらいしか(汗)ないのですが
宗麟花押や印判がモニュメントになってて、
これはこれでおもしろいです。

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ただ、こうポツーンと印判があるわりに、
解説が何もないのは残念ですのぅ・・・

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花押がたくさんある人物は、書状の年次比定にも
使えて研究する人々にはありがたいんだろうなぁ。

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先ほどもあったキリシタンとしての印判。
宗麟の洗礼名であるDon Francisco(ドン・フランシスコ)の
文字を組み合わせ。D・F・R・C・Oの文字がありますね。

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宗麟公像。島津に攻め込まれ、滅亡寸前まで
追い詰められて亡くなった地だから、
「わし、もうあかーん」みたいな・・・思わず、
「お気を確かに持たれよ!!!」と声をかけてしまいそう(笑)

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屋敷跡からの眺め。眺望が利くよい地
ではありますね。

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さて、降って津久見駅前。ここにも宗麟公像。
こっちはまだしゃんとしています。
それでもなんだか哀しそうな目をしておられる・・・

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大分駅であむさんとお別れして、大分空港から
一路東へ。最後に大分空港の宗麟公にご挨拶。

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しかし、守護上がりで家中内紛を纏め上げて、戦国大名として
近隣に覇を唱えるも、大名家滅亡、しかし血筋が高家に残る…
のは武田に似てるけれども、豊か過ぎる財力は大きな違いかも。

それにしても、墓の荒廃を嘆き再築した臼杵城豊には、
武田遺臣の想いの深さに似たものを感じるよね。
大友家への関心がさらに深まった1日でした。

しかし、せっかく大分に来たんだから、
お城のひとつでも行かないとということで、
岡城にも行ったのでした。ということで、少し時間を
巻き戻して、岡城のお話にGo!

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