約1年前の・・・宇陀松山城(2) 宇陀松山城後編・黒木西城
さて、宇陀松山城の続きでありんす。
■宇陀松山城
壕底からも見えた、あの石垣。天守台なんですね。
天守としては小ぶりそうな感じではありますが、
想像するに、壮観だったろうなぁ・・という印象。
天守台下にはちょっとした凹み程度にしか見えない
堀がありますけど・・・破城時に埋められたんでしょうかねぇ。
これまでの遺構の壕がどこもザクッと抉れているだけに、
ちょっと違和感のある壕ではあります。
大門。先ほどの畝状竪掘のあるあたりへ
正式に行く通路の門なんだろうね。
石垣は崩されていますが、しっかりと枡形は残存。
礎石かな?近世に修築されたのなら、
大きな櫓門が建っていそうだよね・・・想像想像。
で、門を抜けたところで天守どーんというわけか。
というところで、さらに中世遺構に挑む人たち・・・・
若干アヤシイ感じが染み出ていますが、ご容赦ください(笑)
南側は東隅の一部を除いてかなりきれいに整備されていて、
とても圧巻です。こういう刈ることさえすればいいのよ・・・!!
皆さんのカメラの先には・・・
石垣!この斜面も石垣が覆っていたのか・・??
(あるいは一定の部分を鉢巻状に築かれていたか)
石垣談義のお二人(笑)
しかしこういう残り方をしているということは、
この突き出し部分は石垣だったように思えてきますよねぇ。
そして某氏が熊に見えて仕方がないという(笑)
石垣の残存は比較的斜面の上部。
どのあたりまで石垣だったんだろうなぁ・・・
さて、本丸のほうにも行きますかね。
天守下をぐるっと回って、南側の階段から本丸に入ります。
ここもしっかり枡形。高い石垣で囲まれていれば、
そうとうな強固な防御になったでしょう。
本丸も総石垣だったか、鉢巻石垣だったか?
ただ寝石がちらほら確認できるので、総石垣かな?
本丸下段から天守曲輪。天守曲輪隅に
櫓もあったかもしれませんね。
ひょっとしたら全体が天守台で、この出っ張りは
天守付櫓ということもできるけど、そう考えると
ちょっと天守がでかすぎる気がする・・・
下段の北西隅にはブルーシート。
石垣が崩れそうなんでしょうか。
天守台から天守台下壕を見下ろす。
やっぱりちょっと壕の規模が小さい。
もちょっと、どどーんとあったでしょう!?
南側を見下ろす。以前は先に見えている木々が、
曲輪の手前まで覆っていたらしく、相当な労力できれいに
してくださったんでしょうね。ありがたや。
本丸西側下、御加番と呼ばれる曲輪。
ここもきれいになっていて・・・直下の壕はちと小ぶりねぇ。
天守があったと思われる部分には、「白髯大明神」の碑。
本来は白「鬚」だと思われるのですが、なんとなくイメージで、
某城郭研究家の先生を思い出す・・・(笑)
碑の裏手、北側の石垣。これがびっしり石垣とすると・・・
それこそ、竹田城や村上城、高取城・・といった石垣の壮大な
山城であったでしょうなぁ・・というのがよく想像できます。
瓦も発見。やっぱしこう・・関が原以後の白っぽい感じで
本瓦葺の櫓と天守だったんだろうなぁ。
そして本丸をくだり、雀門のほうから退城します。
さっきはスルーして北側に抜けましたが、この雀門が大手口。
若干色は違いますが(笑)土嚢を石としてみれば、
往時の立派な大手口を想像することはできますね・・・
矢穴に石がはめ込まれ、矢穴同士が上下に向き合ってる。
あんまし見ない光景かな?と。
ここ、すごいおもろいんだ。石垣が土塁の内側に
残ってるんですよねぇ。これやっぱり、土塁が流れ出ちゃったりして、
わずかに残った石垣を覆いかぶさるようになってるんかね。
ここも・・・隅石の一部が土に埋もれているよん。
破城の結果、土が流出した結果織り成す情景。
これもまた『城の歴史』の一部なんだよなぁ。
さて、この道を素直に下山。途中「秋山城」の文字が。
地元では秋山城と認識されてもいる様子。中世城郭としては、
秋山城と呼ぶのが正しいんでしょうね。
こちらは宇陀松山城。
ここまでくるとわかりますが、春日神社の境内にきます。
どどんと立派な春日門石垣。ただこの石垣は破城後に入城した
宇陀松山藩織田家陣屋時代の築造であるそうです。
大和国宇陀郡三万石を賜ったのは、かの織田信雄。
嫡子であった信良は上野・小幡藩を立藩していたが、
一旦改易された信雄は、新たに宇陀松山の三万石を拝領。
次子であった高長がその遺領を引継ぎ、後に織田宗家を
幕府から認められ、国主級の扱いと従四位下の官位をもっていた。
この流れが柏原藩へ続き、嫡子信良の系統は天童藩に続きます。
・・・閑話休題。
手水場の横にいしがすぽぽぽぽーん(誰かわかるか?笑)
と無くなっている部分が・・・
ホントに石一個分きれいになくなっとる・・・
ここを除けばけっこう石垣好きには満足できるスポットかと。
向かって右手の石垣はなぜかコケが多数・・
側面側はそうでもないのにねぇ。
その向かいにも民家ギリッギリのところまで石垣が。
石に星型の割れた痕があるのがおもしろい☆
さて、城外に出たところで少し城下町をぶーらぶら。
魅力的な瓦があったらすぐに撮っちゃう癖。
現存遺構である西口門。
高麗門形式だけど、しっかりクランクしていて城として
雰囲気を出してる門でした。
で、あっ・・・!!というものを発見?
(何が「あっ!!!」かはご想像にお任せします、笑。)
しかし、宇陀松山藩の城下町の雰囲気が残る町歩きも素敵。
これは城もよいけど、ここもぷらぷらできたのは収穫。
こういう彫刻とか大好物でしてねぇ。
無駄に桔梗紋に反応(もちろん明智じゃないよ!)
織田木瓜。ようやく織田的なものに出会えました。
某菱形図形と違ってセンサー内から見逃しているのかも(笑)
ここでお昼。外れのない無難なカレーをチョイス。
直がけタイプは割りと好きなほう。
■黒木西城
さて、食後は黒木西城。とにかく・・・
畝状竪堀群!以上!
という潔い城(苦笑)
とにかく手っ取り早く、畝状竪掘り群とは何ぞや、
を知りたい向けにはうってつけの城と言えるでしょう・・・
この広い溜池(人工池かな?)の奥にあります。
入って速攻畝状竪堀って、おい!早すぎ(笑)
しかも、かなり(写真でも)わかりやすいと思います☆
上から。ちょっと余計なの多いかなー。
あ、これもいいな(自画自賛)
少しあがって。
ここをあがると小さな堀切が。
かなり先ほどの畝状竪堀からは遠くなりましたが…
この先にもまだまだお楽しみが・・・
眼下にはいくつかの小さな曲輪が点在。
ぶいっ!と手でVの字を作りたくなるような、
見事なVの字の堀切。すげー!
渡った向こうから。ぐいぐい。
そしてまだ別の畝状竪堀も!曲輪がちょっとわかりにくくて
パーツだけがごろごろ転がってる感じ(笑)
さて、そんな中でも笑いを忘れない関西人の寸劇をどうぞ。
「ふぁいとーーーー!」
「いっぱーーーーーーーつ!!!」
いや、別に寸劇やろうとしてやってるわけではないのですが、
後から見返すと寸隙にしか見えなくて(笑)
堀切を撮る人を撮る人を撮る(遊んでばっかだ・・・)
縄張りの妙と言う意味ではちょっと???ではありますが、
単純に遺構のビッグさ(規模だけでなくインパクトも)が楽しめる
純粋に楽しいお城だったなぁというのが正直な感想。
ここの堀切も降りてみたら・・こんなに素敵。
・・・というわけで、2日間の大和山城の旅が終了。
そして約1年も放置していたblog更新も終了(爆笑)
山城って結構、一度行ったらいいかな・・・というところも
多いのですが、やはり皆さんお勧めの城はまた自分でもじっくり
もう一度行ってみたい!と思わせる城でした。
お世話になった皆さま、ありがとうございました。
・・・余談。帰りの京都駅まで城メグさんとずーっと、
電車の中でお話してたんですけどね。方言の話とか・・・
本人様はめっちゃ否定されるんですが、しぐさとか
めっちゃカワイイと思うんですよね・・・
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