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2016年2月

約1年前の高取城。

いえ、別に高取城キライな訳じゃないんです。
よかったんです・・が、あれよあれよといううちに、
記事が溜まって・・あれいつ行ったの?
といわんばかりの時間が経ってしまいました。

ということで、関西の城数寄の皆様始め数名と
なんとプライベートで城メグリストさんも
加えた豪華なメンバーでの城攻めとなりました!

最初は砂防公園周辺にぽつんと佇む火薬櫓。
高取城の建築遺構としては唯一のもの。

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今ではキレイに補修されましたけど、
一時期の暘谷城の鬼門櫓にも似た漆喰がすべて
剥がれ落ちてしまった無残な姿。

史跡指定されていないのか、特に案内もなく、
今にも崩れそうでした。土壁が露出。

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扉も当時のものでしょうか。

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土壁すら穴が開いている箇所も。
かなり厳しい状態。

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丸に龍剣に一の字は幕末の高取藩主、
植村家の家紋。城の櫓であることをはっきりと
思い知らせてくれるポイントですね。

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このラッパは・・・・!?!?

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さて、ここのわき道から高取城内へと入っていきます。
まずは二の門まで行かないと城域には
達しないのですが、意外と距離が・・・

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ひゃぁぁぁ!早速第一怪しい人発見(笑)

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櫓のあった砂防公園を含めた全体図。
けっこう歩くのがわかります。

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ここから史跡エリア。

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高取城址の碑。しかしまだまだ本格的な
城域は先のほうです。

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七曲り。まだ城域外とはいえ城郭遺構の雰囲気
というか戦闘的な感じが早くも出てきます。

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七曲り上から。黄色い城メグさんを激写(笑)
わかりやすく狙える位置ですね。

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ここも狙い目かなぁ?

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七曲りにも不自然な色がぽろぽろ。
これ中世城郭の頃にも石積みがあったのかな?
という気にさせてくれますね。

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さてその先には石積付きの土橋。
もうすっかり城域ですやん・・という立派なもの。

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もう石垣がちょいちょい顔を出し始め、
石垣好きはすでにヨダレが出始めるところ(笑)

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猿石。ここまで来てようやく本格的な城内。

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ここですな。

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二の門石垣。ここを左折れする構造。
石垣にまぶした青海苔がいい感じ(こら)

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二の門前の濠。山城に大規模な水濠って
けっこう珍しい気がします。脇に井戸の印もあるので
飲料水源にもなっていたんでしょうね?

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水濠の前に聳える高石垣。山にあることを
除けばホントに平山城にありそうな
近世城郭って眺めですね。

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ちょっとヤバイ石垣も。あまり幕末以降
手が入っていないていうことは石垣が完存している
ということでもありますが、自然崩落の可能性を
残しているところも覆いというコトですね。

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二の門石垣上から。ここもいい攻撃が
できそうな感じですね。

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二の門を進んでいくうちにもいろんな角度から
石垣を撮りたくなる・・・

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石垣もすごいのですが、切立った切岸の高さにも
圧倒されますね・・・・!!

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そこいらにこんな石垣がごろごろしていて、
近世城郭なのわかっているんですが、
もうどこを撮れば!みたいな感じ(笑)

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そして、やっぱり石垣をボカす画も
撮りたくなるんですよね。

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ヤバ門。もとい矢場門。

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ああっ、すでに矢場門上に敵兵が!!

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て、わたしも慌てて矢場門上に。
ひょー、これは狙える!

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松ノ門前の石垣はちょっとアブナイっぽくて、
ネットがかかってました。

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松ノ門。確かに石がごんごろ転がってきたんだろな
と思わせる雰囲気・・・・

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ちょっと無粋な何か。

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ネットがかかってる石垣上から
松ノ門枡形。左奥に門があって赤茶色の
あたりが進入経路。

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このあたりからほとんど石垣に囲まれた空間に
なって参りますぞ。

宇陀門手前。

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宇陀門の喰い違い。食い違いの真ん中に
櫓門を置いて枡形を形成。
かなりハッキリわかりやすい枡形ッスな。

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千早門石垣。ここは勾配のない隅石だな。

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ここを抜けると、大手門前。これまでと比べて
全然違う圧倒感。さすが大手門。

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一旦脇道を逸れて、吉野口門方面へ。
ちょっと下から眺める大手門石垣もいいじゃない。

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井戸が二つある水の手。

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このあたりは急に中世城郭的な要素があって
また違う楽しみ方ができます。

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いい竪堀ですこと・・・にや。

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ちょいと雨がぽつぽつ・・・

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石垣に囲まれた深井戸。

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石垣は石垣で見所ではあるのですが・・・

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これですこれ、登り石垣。いいねぇ☆

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下側から。

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ちょうどこの斜面の先には本丸があるようなので、
吉野口門と本丸を分断するようにあったのか・・・・
この時は見るのに夢中でそんな考察Nothing(笑)

けっこう崩れた感があるので、往時はもう少し
高かったのかもしれませんね。イイのが見れました!

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・・・怪しげな人影は気にしないでください(笑)

もういっちょ、迫力ある登り石垣どーーん!

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この先には、中世城郭的に楽しめるスポット。
堀切に石垣という見所。中世城郭を近世城郭にしていく…
という過程が感じられる点ですね。

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その先には赤土曲輪と呼ばれる土塁で囲まれた曲輪。
高取城って石垣の山城と思っていたので、
こういうところも残ってんのかーとビックリ!

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そして弥勒堀切と呼ばれる最先端へ。
かなり深く抉れた堀切で中世城郭時代に
その用を主に果たしたんではないだろうか?

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降りてみる。

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これはすごい・・堀切だけでも見応えあるが
石垣もいい代物。自分ではなかなか来ないだろうから、
ここに連れて来てもらえただけでもありがたい!

さて・・・来た道を引き返し大手門前に戻ります。
往時の写真と復元CG。これ仮に現存していたとしても、
メンテが大変だろうなぁ。備中松山城もそうだろうけど。

P1060667

P1060668

大手門。右折れした奥に櫓門がありました。

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しかしこの日は霧雨のお陰で、すごい濃霧。
ただこんな様子は選んで撮れるものではないので、
ありがたいですねぇ。霧と城跡って素敵。

そそり立つ大手門枡形石垣。

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大手門を抜けると・・・三の丸。

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大手門枡形石垣から進入経路を望む。

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古写真によるとこのあたりは土塀で囲んでいた様子。
ここからの狭間で狙うわけですね・・・!!

P1060678

さらに二の丸につながる十三間多聞櫓門。
ここの枡形も相当すごい。

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あれは門の礎石かね!?

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本丸方向にかなりの圧倒される高石垣。
この左右に二層の櫓が鎮座していた様子。

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そして本丸に通じる十五間多聞櫓門。

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ここを抜けて右手に太鼓櫓跡。

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その向かいには・・・ものすごいデカイ
天守台。はわわわわ。

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天守台下に「高取城址」の石碑。

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反りがなく一直線な天守台。

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小天守台下から天守台方面。

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小天守台の奥は緩いカーブを描いている
本丸石垣。ここも中世の趣を残していますね。

P1060706

小天守台。苔が毬藻みたい。

P1060710

こちらの虎口から来ると比較的簡単に(クルマで)
天守台まで来れるらしいですよ?

P1060712

さて、本丸へ。ついつい高石垣があると見上げちゃう。

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天守下からその脇を通って、ここで半回転して
本丸方向へ。実際はこうやって中の様子は
見渡せずに土塀で囲まれていたであろうから、
さしずめU字型に出入りする枡形のようになっていたかも。

P1060719

そのU時の先にもうひとつ通常の枡形。

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この後も何度も折れてようやく本丸に到達。

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本丸から天守台側面を。ど迫力。

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本丸の周りはぐるっと多聞櫓で取り囲んでいた
感じがしますねー。

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最後に最初に見た火薬櫓の跡。
三方を石垣に囲まれて頑丈に囲われていたみたい。
あの櫓自体にも何か防爆の仕掛けがあったのかな?

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内側から。石垣に囲われていた部分だけに
保管していたのかあるいは・・・

P1060764

さて、そろそろ下山のお時間。
あっ!と瓦を発見する一行。
意匠のある瓦を見つけるのってなかなかないかも!

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さて、大満足の高取城。
翌日は庚申山城、そして宇陀松山城へ。

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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」④

さて、非常に面白かったこの講演ですが、
本論から脱線した項目もおもしろかった…

(脱線1)油川信恵と穴山信君
穴山信君は長らく「あなやまのぶきみ」と
呼ばれていましたが、臨済寺の僧で甲斐生まれの
鉄山宗鈍が残した「鉄山集」に「ノブタダ」と
ルビが振ってあったのだそう。

この鉄山集、仏前で個人の徳を称える香語が
延々と記録されているそうなんですが、
たまたま鉄山集の写真を見てられたときに、
穴山梅雪とその家臣の項にあったんだそう・・・

これ、先日拝読した「穴山武田氏」の時には
ご存じなくて、出版されている「鉄山集」には、
そのルビまでは収録されていなかったとか。

原本を当たる大切さ・・・ですが、
素人的には古文書や古書を読み解く難しさを
目の当たりにした気がいたしました。

・・・ということで、油川信恵についても、
のぶさと・のぶよしと二つ説があって、
読み方は確定していないそうです。
人の名前の読み方は難しい・・・

(脱線2)親子の官途受領の引き継がれ方

信昌は刑部少輔(ぎょうぶのしょう)、
信縄も官途不明、信虎は左京大夫後に陸奥守。

信虎は、当時の強敵北条右京大夫氏綱に
対抗する意味もあって、より格上の左京大夫への
補任を室町幕府に対し申請し認められています。

なぜ「左京大夫」なのか、そしてなぜ幕府への申請が
認められたのかを考えると、信虎の幕府における
存在感と中央での評判が見えてくる気がしますよね。

ちなみに信玄は、足利義晴から「晴」の字の偏諱を
受けて晴信として元服する際に、左京大夫を称し
その官途を受け継いでいます。

しかし、後に大膳大夫に遷任。これは父との決別
という意味のほか、幕府に近しい若狭武田家当主が
歴代名乗った官途であり、中央を睨んだ選択
といえるのかもしれません。

一方、勝頼は私称ではありますが「大膳大夫」を
名乗っていますから、少なくとも対外的には
「正当なる信玄の後継者」をアピールする狙いが
あったのではないかと思いますね。

名乗る官途受領で見える親子の人間関係が
わかっておもしろいですね。

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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」③

さて、長々と経緯を追ってきましたが、
その背景を考察していきます。

◆信虎追放の背景①:言論統制◆

ここまでの状況だけだとものすごい順風満帆に
聞こえるような気がします。敵だらけの状況から一転、
東の強敵は北条に絞込め、かつ信濃にも領国を
広げられる余地を残す同盟関係ですからね。

しかし、内に何を抱えていたか。

信虎以前~事件までの経緯を追うと、

①信虎が家督を継いで以降、ほぼ常に戦闘状態。
 家臣団、領民とも疲弊。
②さらに躑躅が崎移転、新城の築城で疲弊進む。
③外交路線での家臣団との軋轢。
④反対意見には徹底弾圧。

①はわかっていたことですが、②がやはり
ターニングポイントのひとつかもしれません。

②のタイミングでこれより苛政と指摘されるのは重要。
もちろん集住したくないという立場もあるのでしょうが、
異論は一切言わせない、異論を持つ者は
成敗や追放が待っているという含みを感じます。

府中移転だけでなく、外交戦略に戦略的合理性を
少なくとも降った者たちに理解できず、
理解されないまま、戦争を重ねていたということ。

先方からオファーの会った上杉朝興との連携も
結果的に危機を救うことにはなりましたが、
飯富らの反発もあり、家中での納得感のない
行為だったのでしょう。

宗家権力が瓦解した地点からスタートした
反動からか、家臣の言うことはいっさい聴かず、
諫言した者には誅殺追放して、一切妥協せず
自分の考え方を押し通す信虎。

この納得感のなさということが武力で服属させられても、
服属させ続けられなかったコトに
つながるんだなぁと感じるわけですね。

いくら強くてその傘の下に降ったとしても、
意味がわからない、納得できないまま遂行する
というのは、かなり人間にとって苦しいことと思います。

◆信虎追放の背景②:大飢饉と台風◆

しかしこれだけでクーデタが起こったわけではなく…
追放劇が起こった前年天文9年(1540年)の
巨大台風の襲撃、そして翌41年の大飢饉が重なります。

ちょうど佐久への侵攻を進めた頃。
しかしその頃のこととして『勝山記』には、
人も馬も死ぬものが後を絶たず、百年のうちにも
こんな災害はない、まさに生ける者は千死に一生だと。

記録にも関東から関西にかけて建物は軒並み倒壊、
地形が変わるほどの災害だったと残っていて、
甲斐にも甚大な被害があったそうで。

『勝山記』に「晴信欲済万民愁(中略)即位保国々、
人民悉含快楽咲」とありました。

親を追放するということに正当性を持たせる
タイミングでの追放劇。実際、晴信を親不孝者と謗る者は
甲斐にはなかったのです。上手いタイミング。

平山先生は、ここで代変わりの徳政を
打ったのではないかとのご推察もありました。

◆信虎追放の背景③:晴信廃嫡の危機◆

これはよく指摘されることであって、
敢えて言うことでもないのですが、信虎が駿河に向けての
出立の極秘性が晴信廃嫡と絡んでくる可能性も考えられそう。

重臣駒井高白斎あたりは晴信に近しいと
思われていたのかまるで知らされてなく、
最低板垣、甘利、小山田、飯富の最重臣と
晴信・信繁だけだった可能性もあるようです。
(甲陽軍鑑)

しかも、しかも出立時晴信は甘利邸へ移され、
逆に信繁は躑躅が崎へ。極秘に晴信廃嫡の準備を
進めていて、義元に何か支援を求めるつもりだったのかも。

こうして家臣団は長年の圧迫と不満、
領民は負担の重さと災害で生命の危機、
晴信は廃嫡の危機と三者の利害が一致して、
歴史上稀に見る無血クーデタが敢行。

よくある家臣団の分裂もなく、処刑者や死人が出ておらず、
領内に反乱も起きていない。義元は事件後即座に
信虎隠居の詳細を詰めるため、太原雪斎を派遣していて、
迅速ながら、その段取りの周到さが読み取れます。

◆晴信が得たもの、学んだもの◆

ここからはわたしが感じることですけど、
単に追放して晴信が国主の座についた
というわけでなく、多くのものを
晴信は引き継いでいますよね、というのをいくつか。

直接的に得たものとしては、

・甲斐統一という確固たる基盤
・今川義元との同盟関係
・反信虎を契機に結束した家臣団

甲斐自体は豊かとはいえませんが、国内情勢が安定し、
信頼に足る強国を味方につけたところから
スタートできたのは、恵まれた環境ですかね。

これに加えて、後年の晴信の家臣団統制などから考えると、

①武田宗家と国衆とのパワーバランス維持
②戦略的な同盟関係の構築と破棄
③甲斐の生産力向上

という必要性を学んだのかなと思いました。

①武田宗家と国衆とのパワーバランス維持

強すぎても弱すぎてもダメということで、絶妙なバランスを
維持していたのが信玄時代の武田家という印象。
子飼いの家臣団の育成や先方衆の取り込みや
納得感が出るまで話し合わせるところは、信虎時代の
ある意味反動の産物なんだろうなぁという気がしました。

②戦略的な同盟関係の構築と破棄

同盟を使いこなすことが勝利への近道という点。
二度の敗北を喫する前まではイケイケな感じもするのですが、
同盟は道具と割り切り必要なら結び
要らなくなったら切るというのを徹底し、戦わずして勝つ
という点も信虎時代からの反面教師としたのかもしれません。

③甲斐の生産力向上

天文9年の巨大台風があったことが信玄堤の築造にも
影響しているんだろうなと感じます。甲斐を豊かにせねば
国が成り立たないという実用的な意味のほか、
疲弊させてきた信虎時代とは違うという演出
という観点もあったかなと想像します。

◆信虎と勝頼◆

ここから見える武田信虎像ですが・・・ ・
家督を継いだ時点の無理ゲー感を打ち破る
圧倒的な戦才は誰もが認めるとことでしょう。

そして、家臣の話を聴かず権力確立を目指す「強すぎる大将」
これ誰かに似てませんか…そう、勝頼です。
置かれた時代背景もまた、性格的なところも違いますが、
得手不得手はものすごく似ている気がします。

しかし、こう考えると晴信による武田家の飛躍のためには
欠かせない大事業だったはずなのに、追放されざるを
得なかった信虎こそ、悲運の猛将かもしれません。

14歳で家督を継いで戦わねば死ぬ環境で
権力を確保した猛将に人を使いこなすことを
求めるのはちょっと酷な気がするのです。

この日は時間があれば、義信事件との相違性にも
言及される予定があったそうですが、
時間が押していてなし。またその観点でもお聴きしたい。

信虎と勝頼をよく理解・比較することで浮かび上がる
武田信玄像というのも興味深くなってきました。

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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」②

さて、甲斐統一三十年戦争の続き。

ROUND 3 VS 栗原信友・大井信達・今井信是
(1519年~1520年)

ようやく一門を下し今川の脅威を撥ね退けた直後
川田館を廃して、躑躅が崎に移る計画をぶち上げます。
これが1519年。翌年20年、これに北東の栗原、
南西の大井、北西の今井が一斉に蜂起。

移転反対!というよりも権力強化を図り集住を
求めたことに対しての意味合いが強いように思いますね。
特に今井は、1519年の新府中の鍬立直前にも
戦っていますので、一度降伏してなおまだ承服せざる
ところがあったのでしょうね。

さてこの三方からの蜂起に対し、足軽衆を派遣して
それぞれの軍勢を撃破。同時に三方から囲まれて
すべて撃破するというのは、国衆相手とはいえ
瞬時に動かせる相当の軍事力を保持していた証左。

これは、「東国武将たちの戦国史」でも
解説されていたように傭兵集団だった
ということと見られています。
そう考えると、相当な経済力も蓄えていた
ということにもなるでしょう。

結局、栗原信友は秩父に逃亡、大井・今井氏は
信虎に屈服することになります。

信虎は方針は全くそのままで、6月には
積翠寺丸山に詰めの城を築くこととしています。
いわゆる要害山城です。

興味深いのが塩山の向嶽寺に伝わる
「塩山向嶽禅庵小年代記」にはこれより以後、
苛政が始まると記していることです。

この時期から考えると、躑躅が崎館と要害山城の
普請による重課がかなり重かったのでしょうか。

ROUND 4 VS 今川氏親
(1521年~1522年)

新府中への移転と家臣団集住、詰めの城の築城は
大きな反発を生みましたが、来る今川との決戦を意図した
ものだったのかもしれません。

元号が変わって大永元(1521)になると、
本格的に今川軍が侵攻してきます。
まず今川軍が穴山領河内に進入、従五位下左京大夫に
任官された感に浸ってる間もなく、河内を総攻撃。

どうやら穴山が親武田と親今川双方で分裂、
これに今川軍が介入したところに、武田軍も介入した様子。
ただ一度は今川軍を破るものの、甲斐大島で敗北。

国中への進入を許し、現南アルプス市の南
富田城を落とし、新府中まで今川軍が迫ります。

これは一大事と下した大井信達の娘・大井夫人を
できたばかりの要害山城まで逃がし、
自身は軍を立て直し決戦へ・・・

飯田河原合戦(10月)、上条河原合戦(11月)の
二度の会戦で福島(くしま)正成率いる今川軍に大勝。
翌年には残存兵が残る富田城も降伏し、またもや
今川による危機を乗り切ることができました。

この飯田河原合戦と上条河原合戦の間に
要害山城で生まれたのが、勝千代。
言わずもがなですが、後の武田信玄その人です。
一応『甲陽軍鑑』には、この勝利にちなんで
「勝」千代と名づけられたことになっています。

この後、1523年に湯村山城を1524年には
一条小山砦(後の甲府城域)の築城に取り掛かり、
甲府の守りを強固にしています。

ROUND 5 VS 北条氏綱
(1524年~)

今川の脅威が去った後には断続的に北条と戦。
一時期和睦を結ぶもじきに破れ、
断続的に交戦状態が続く状態のままです。

ROUND 6 VS 諏訪頼満
(1525年~32年)

この頃、諏訪下社大祝の金刺昌春の亡命を
受け入れて甲府に住まわせ(1525年)、
下社に帰還させる名目で諏訪に侵攻(1528年)

しかし、諏訪頼満も歴戦の名将、
甲信国境の境川で激突、敗北します。
懐刀であった萩原備中が討死するなど手痛い敗北。

そんな中、扇谷上杉朝興が信虎の支援を求め、
前関東管領上杉憲房未亡人を側室に差出、
これを信虎が了承したことに家臣・飯富兵部が反発、
甲府を退去してしまいます(1530年)

新府中の移転に反対した栗原信友や今井信是の子、
信元も加わって、更に訪頼満に援軍を求めて
大規模に反旗を翻します(1531年)。

反信虎連合軍と河原辺(韮崎)で合戦し、
ここで勝利を収め、諏訪を駆逐し飯富・栗原ら降伏。

唯一、今井が獅子吼城
籠もって抵抗しますが、翌32年には降伏開城。

ここにようやく甲斐統一三十年戦争(25年ですが)
が終結することになります。

この時点での外交関係を振り返っておくと、

①反信昌派の残党
 … 油川信恵・岩手縄美 → 滅亡
②有力国人衆
 … a)郡内小山田氏、b)穴山氏、c)大井氏、D)栗原氏
  → いずれも服属
③国外有力大名
 A)後北条氏 … 敵対、交戦状態
 B)今川氏  … 敵対、小康状態
 C)諏訪氏  … 敵対、小康状態
 D)扇谷上杉氏… 友好

ということで、甲斐国内は統一されましたが、
諸国とは敵対状態。唯一扇谷上杉氏のみ友好的関係。

◆信虎の外交政策の転換◆

(武田ー諏訪同盟の成立)
要約敵だらけの状況を脱し、信虎が同盟関係を模索し
はじめるのが甲斐統一後。あくまで先方からの
希望があってのことですが、扇谷上杉氏とは良好な関係。

それが同盟関係として生きたのが、1535年。
先ほどの周り敵だらけにも関わらず、駿河に侵攻を開始。

これに対して、今川・北条の連動して軍を動かし、
北条氏綱は今川氏輝を支援すべく、甲駿国境万沢口で
合戦している信虎の側面から衝いて、郡内に侵攻。

慌てて弟の勝沼信友と小山田軍で防戦するも敗戦。
信友は討死、あわや甲府にまでまた攻め寄せられるか?
というところで、北条と敵対している扇谷上杉朝興が
小田原に向けて進軍との報に接して軍を引き、
大事に至らずに済んだのですね。

ここで情勢が不利と悟った信虎は初めて同盟を構築。
信虎、最初の同盟でした。

(甲駿同盟の成立)
ついで、翌年1536年、嫡男太郎が元服
将軍義晴の偏諱を受け武田晴信と称し、
左京大夫に任官。信虎は陸奥守に遷任します。

その直後、今川氏輝が弟彦五郎とともに変死。
栴岳承芳(せんがくしょうほう)が足利義晴の偏記
氏輝の跡目を巡り、どちらも出家していた弟である
栴岳承芳と玄広恵探が争う花倉の乱が勃発。

この際に、北条氏綱とともに信虎は栴岳承芳を支援。
なんで?という話なんですが、玄広恵探の母が
信虎を苦しめた福島正成の一族だったというのが
背景にあるようなんですね。

そしてなんと、義元は武田と同盟。
晴信姉定恵院が義元に嫁ぎます。
また義元は、上杉朝興の娘を亡くしていた
晴信に京の三条家から正室を斡旋。

これで氏綱は激怒。ここで今川と北条が
激突する河東一乱が幕開けします。

 A)後北条氏 … 敵対
 B)今川氏  … 敵対→同盟
 C)諏訪氏  … 敵対→同盟
 D)扇谷上杉氏… 友好

こうみると、諏訪で背後を固めつつ、
扇谷上杉と今川と手を携えて、北条と対抗する構図。
敵だらけからようやく脱し、有利な状況。

さてその後、相変わらず北条と小競り合いが
続く状況でしたが、1540年。
信州佐久における親武田派の伴野氏の手引きもあり、
板垣信方を大将に佐久郡へ侵攻させています。

この年に諏訪頼満の孫(頼隆の子)頼重に禰禰を嫁がせ、
頼重が甲府へ、そして信虎も諏訪へ相互訪問。
この関係があってこその佐久郡侵攻かもしれませんね。

そして運命の天文10(1541)年。
同盟国諏訪頼重に村上義清も加えた連合軍で
小県郡海野棟綱を攻略、上野に追い落としに成功。
これが信虎最後の合戦でした。
その帰国の直後・・・・あの事件が起こります。

このときに後に晴信の幕下につく真田幸綱も居て
同じく上野に逃れていましたね。

さてここまで信虎追放前夜まで見てきました。
なぜ、信虎は追放されてしまったのか、
という講演の山場、考察タイムに入っていきます。

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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」①

続いては、8月に遡って・・・甲府での
山梨文化学園歴史文化教室の講座。
信虎追放事件についての講座でした。

信虎追放事件そのものだけというよりも、
信虎が甲斐を統一する過程、あるいは
元服直後の信虎の置かれた環境や
そこにまで至った経緯を更に二代遡って
学ぶことによって、自然と理解できたという
方が正しい・・・いやそうでないと理解できない
といった内容だったかと思います。

◆信虎家督相続まで◆

武田氏ほど一族・親子の内訌の多い家はない
というもの。

×第16代当主:信昌
  長子:信縄(のぶつな)
  次子:油川信恵(のぶさと・のぶよし)

○第17代当主:信縄
  長子:信直(後に信虎)
  次子:勝沼信友

×第18代当主:信直(信虎)
  長子:晴信
  次子:信繁

×第19代当主:晴信(信玄)
  長子:義信
  次子:勝頼

こうしてみますと、16代以降父と長子が
うまく行ったのは信縄・信直親子のみであって、
これも信縄が若死に(享年37)したことも
その理由かもしれません。

さて、武田家中興の祖・信昌ですが・・・
もう少し遡って理解を深めます。

上杉禅秀の乱に上杉方として13代信満が参戦して、
敗死して以降、幕府・鎌倉府それぞれの
誰を甲斐に国主につけるかという思いが衝突、
甲斐は内乱状態でした。

高野山から甲斐に戻った14代信重は信濃守護
小笠原政康の後援と守護代として付けられた跡部氏
の支援もあって甲斐国主の座に継ぐものの、
信重とその次代15代信守は、跡部氏の専横に苦しみます。

その跡部氏を排斥し(1465年)武田家の権力基盤を
再興したのが16代信昌でした。
信満敗死が1418年ですので、実に47年後。

しかし、信昌自身が今度は武田家の承継問題を
つくってしまいます。

第16代当主:信昌
  長子:信縄(のぶつな)
  次子:油川信恵(のぶさと・のぶよし)

長子である信縄は、一説に跡部氏の娘とされ、
武田家の外戚として権力を握るために
いわば押し付けられたという娘を母に持ち、
また、彼自身が病弱だったようなのです。

信恵は、山梨郡油川に拠り油川姓を名乗りますが
母は不明。その信恵に17代当主の座を譲ろうとし、
ここで再び武田家の跡目争いが勃発。

当時、有力国衆らが自立的な動きを顕在化させており、
それぞれが両武田家陣営に付いて争いを激化させます。

結局1498(明応7)年に和睦をし、信縄の当主が
認められます。この年の8月に中世最大とも言われる
明応大地震が発生したことが理由では?と。

実は、鎌倉大仏はかつて大仏殿があったそうで
その大地震で大仏殿が倒壊したらしいのです。
そのくらいものすごい破壊力だったそう。

この7年後、1505年信昌が没し(享年59)さらに
その2年後に体の弱かった信縄が没(享年37)
まだ信昌・信縄の和睦から間もなく、わだかまりも
あったであろう中で、若干14歳の少年信虎が
不安定な当主の座につくわけです。

最も信虎の生年は1494年が通説ですが、
最近は異説もあってもう少し後との考えもあるそう。
とすると、さらに若いことになります。

◆甲斐統一三十年戦争◆

信虎が置かれた状況を理解するには、
信虎を取り囲む勢力をいくつかのグループに
分けることととその階層構造を捉える必要があります。
ちなみに、信虎は初名信直で甲斐統一後に
信虎に改名しますが、ここでは信虎でまとめます。

①反信昌派の残党
 … 油川信恵・岩手縄美
②有力国人衆
 … a)郡内小山田氏、b)穴山氏、c)大井氏、D)栗原氏
③国外有力大名
 … A)後北条氏、B)今川氏、C)諏訪氏、D)扇谷上杉氏
④幕府と堀越公方

①~③の関係ですが、まず①と②のうちの小山田氏が
姻戚関係でつながっています。

また、②の各氏は③の大文字の同アルファベットの
周辺大名とも関係が深く連動して行動します。

この時期の当主は・・・
小山田氏は小山田弥三郎信隆から越中守信有、
穴山氏は穴山信懸入道道義から甲斐守信風、
北条氏は伊勢宗瑞最晩期から北条氏綱、
今川氏は氏親、氏輝から義元。

そして、④の幕府と堀越公方。ここをしっかりと
押さえないといけないでしょう。

【堀越公方と武田家】
前史として、武田家の内訌と幕府と堀越公方の関係から。
信昌と信縄が争っていた頃、堀越公方足利政知(義政弟)が
亡くなって、義政の後を継いで将軍になった
足利義視が没し、その後継に政知の子が選ばれます。
これが11代将軍・足利義澄。

このとき、幕府公認の堀越公方次代として、
政知の子で義澄同母弟の潤童子がいましたが、
政知から素行不良で廃嫡されていた異母兄の茶々丸が
これを不服とし、潤童子とその母円満院を殺害。
実力で堀越公方となってしまいました。

そこで、将軍の母と弟を殺害した謀反人として、
今川氏親・伊勢宗瑞に追討され1493年に宗瑞に敗北、
一旦伊豆大島に逃れながらも、武田信縄のもとに
逃げ込んできました。

というのも、今川氏親・伊勢宗瑞を味方に引き入れて
いた信昌ですから、信昌と対決していた信縄に
逃げ込むというのも素直にうなずけます。

こうして、信縄・信虎は大国今川家と新興勢力の
伊勢宗瑞、そして北条家を敵に回すことになるのです。

さぁ、そんな中周り中敵だらけのハードすぎる
戦いが始まるのです・・・!!!

ROUND 1 VS 油川信恵・小山田信隆
(1508年~1510年)

さて、信虎が家督を継いだ翌年1508年、
早速油川信恵が襲い掛かってきますが、
いきなり撃破して信恵以下討死、油川一族もろとも
叩き潰します・・・ひえぇぇ。

ただ、信虎に与した油川一族もいて、
後に油川夫人を出す系統。
江戸期も旗本として残っていくそうですが、
諱は信友とも信守とも言われ、よくわからないっぽい。

そして2ヵ月後には郡内の小山田弥太郎信隆が
侵攻してきますがこれも撃退、弥太郎討死。

さらに勢いに乗って翌年秋に郡内に侵攻、
更に翌年1510年に討死した弥太郎の子、
越中守信有と和睦(実質的には従属同盟)成立。

・・・強すぎませんか、のっけから。
初陣で相手の大将以下有力な部将を討死させるとは
すさまじい戦ヤロウです(笑)

ROUND 2 VS 大井信達・今川氏親
(1513年~1518年)

もちろん、信虎の戦上手もあるのでしょうが、
信虎にも数少ない味方がいました。穴山信懸です。
信縄時代から一貫して武田方を支援した人物。

華々しい信恵撃破には、信懸の支援も有効に
効いたのでしょうか。

今川氏輝とは先に記したように幕府からの足利茶々丸
追討の命令があった関係から、その茶々丸を
匿った信縄そして信虎とは敵対関係にあったわけで、
今川から侵攻を受ける可能性はたぶんにあったはず。

しかし、武田の一族(宗家14代信重の孫)であり、
かつ今川とも縁が深い信懸が緩衝役となって
今川を食い止めていたわけですね。

しかし、その信懸が小山田との和睦が成った
三年後に子息清五郎に殺害され、さらに清五郎は
兄弟の穴山信風(信綱)に殺害され、
ショッキングな当主交代劇がありました。
その直後、今川軍が甲州に進軍してきたのです。

おそらく穴山家中で親武田派と親今川派の対立があり、
今川軍の甲州侵攻を阻む親武田派の信懸が
親今川派から暗殺されたのではないかということですね。

今川軍に呼応して南巨摩の大井信達が反旗。
信虎は大井氏館を囲むが敗北、逆に万力まで攻め込まれ
ここでも敗北して、恵林寺に逃げ込むまでに。

今川軍は勝山城(と言っても都留の勝山城ではなく、
甲斐国八代郡、つまり甲府市上曾根の元油川氏の城)
を占領しますが、次第に孤立化。

小山田軍が補給線上の都留郡の今川軍が籠もる
吉田城を攻撃、個別に小山田と今川が和睦したことを
契機に連歌師宗長を仲介役に和睦が成立。
これで勝山城の今川軍が撤兵し、危機は去りました。

・・・ということでここいら一旦切りましょうかね。

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平成27年度武田神社崇敬者大会講演 ~ 「武田氏館の変遷と発掘調査からわかったこと」

さて、昨年10月の武田神社崇敬会大会。

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甲府の信玄公火葬塚に行くまでの道すがら、
ちょうど護国神社の手前でしたかねぇ・・・・
武田神社崇敬会入会案内がポロリと落ちてたんです。

前々から興味はあって、入会案内をもらうかどうか
逡巡していたのですが、これはもう入れ!との
お屋形さまからの思し召しだろう(笑)と解釈して、
入会したのが5年ほど前。

入会してから行きたいとは思ってましたが、
この大会は平日開催であることから、
行けないでいたんですよね・・しかし!

このたびの講演内容が「武田氏館の発掘調査」
についてなんでこれは・・・!!ということで
ムリクリ休みを取って参上した次第。
武田氏館の講演ってなかなかないように思いましてね。

この日の講師は、甲府市教育委員会の佐々木満氏。

◆移転前夜◆

1519年、8月15日に鍬立の後翌日には
信虎自身が現地視察、その約4ヵ月後の
12月20日には石和の川田館から移っています。

当時は飢饉の真っ最中、しかも内乱を終息させ
つつある時期であり、この時期に新居造営の
人夫動員はかなりの負担になったようで。

おもしろいのは造営当時から、甲斐府中ではなく、
略して「甲府」と呼ばれていたこと。
まもなく開府五百年に成ろうかという甲府ですが、
その名称もまた五百年の歴史があるわけですな。

◆発掘調査◆

①土塁の変遷

発掘調査は、ちょうど現武田神社参道の石垣が
傷んできたことにより、平成10(1998)年頃に修復され
その際に併せて行われたそうです。

石垣の石を外したところで、本曲輪南土塁の地層が
露わになってくるのですが、今の土塁の半分程度の高さの
土塁痕が出てきたんだそうです。

そして土塁の幅半分くらいから基底部の土留めとして
使われていたであろう石積が見つかり、
信虎築城当時から土留めとして石積が使われていたこと、
また、高さだけではなく幅も約半分程度だったと
推定できる発掘内容だったそうです。

②本曲輪内の発掘状況

本曲輪南には、現在能舞台のある手前の芝生のあたりに
石が立てて並べて島を表現してあった跡、更に南側寄りには
頁岩(けつがん)・花崗岩の玉石を敷き詰めた
庭園の池の州浜だったと思われる跡が見つかっているそう。

そして池の部分と石が立てて並べた島の部分には
高低差があり、池を見下ろすようなカタチに
なっていたんだそう。この池は武田滅亡後には
曲輪内の堀に使われた形跡も。

後悔しているとおっしゃっていたのは、
池の中の土のサンプルを取っていなかったこと・・・
池のまわりにどんな植物が植わっていたか?
がわかったのに、と。

甲陽軍鑑にも信勝さんが彼が名前を付けて
大事に育てていた松の木があったり・・・なんて、
記述があるそうですが、それを実証できた?
かもしれないなーっと。むむ・・・

また今天守台のあるような辺りは、奥として
更に高い位置にあり、庭園・表・奥の三空間が
段差で区切られていたらしいのですね。

今の地面がちょうど表の地面の位置で
拝殿前から能舞台のある芝生広場辺りが相当。
そこから2.5~3m下、本曲輪の南側が
庭園のあった地面の位置。

そして、拝殿から奥はさらに高くなっていて、
残された絵図にも二階廊下と書かれているそうです。

この絵図は狩野文庫蔵「武田信玄甲府之御屋形作之図」。
書かれた時期は江戸時代ではありますが、
発掘調査からわかる地形の様子とほぼほぼ符合し、
一定の信頼性はあるように判断されているようでした。

160206_1908_001

そして平成17~8年くらいの大手整備時期の様子も
拝見できました。三日月壕の跡・・・これ、
再現してほしかったよなぁ。石塁ねぇ・・・(がっくり)

これ当初の土塁の低い時代としては規模的にも
合わないので、現在見られる規模の土塁になった時期と
同期して造られたのではとの推定。

・・・ということは、今見られる土塁も新府移転以前の
勝頼期のものと言えるのではないかということでした。
壕の深さについても同様のようです。

おもしろいのは、段差が付いた水路遺構。
木で堰き止めて水を貯めておけるような構造。
飲料水を汲む場か、あるいは水洗トイレか。。。。

水洗トイレだとすると、甲陽軍鑑に出てくる
巻第十二・品第三十三に出てくる水洗トイレの記述を
示すことになりますね!

全般的に信玄公までの館は、守護大名から上がった
戦国大名らしい雅で室町を意識したつくり。
危機感迫る長篠敗戦から新府造営までに
戦闘的になっていく・・・という感じでしょうか。

新府は新府でよいのですが、要害山城もあることだし
甲府に留まってほしかったなぁという思いも。


③その他曲輪の発掘状況

1551年に義信座所として増築された西曲輪。
現在、館としての趣を色濃く残す場ですけれども、
北側の虎口はキレイに整備されて見所になっています。

通路の脇を発掘したところ、門の礎石が発見。
門の形状までわかるくらいの好い状況。
ただ現在復元されている石垣と重なっていて、
また石垣の下1cmくらいに火災の跡の層があるそう。

武田時代にはこの石垣はなくて土塁に門が据えられ、
新府移転の際に火を掛けられたときの火事の層の上に、
武田時代の後の石垣があったのだろうと。ふむふむ。

今南側の虎口の整備が進められていますけども、
ちょうどその規模は北虎口の倍の規模、
南側が正面に当たるんでしょうね。

北虎口前の広場には、蔵の跡とその焼け落ちた痕跡も
わかっているそうですし、昔藤村記念館のあった段と
その下の段とは階段で結ばれるとともに、
土塁痕もあったそうで、空間的に区切られていたそう。

更に本曲輪と同じく立石や水路、さらには
築山のような部分も見つかっていたそうでして、
その見つかった位置的にも(曲輪南)西曲輪にも、
同様の庭園があったのでは?と思わせるものがあるそう。

ここはこれから発掘を進める計画があるそうで、
その成果が期待されますね・・・!!

そして、味噌曲輪の調査内容。
土塁痕だけでなく、脇に片側三つの礎石や砂利を
敷き詰めた跡が発見され、土塁内にあった
四脚門形式の門の跡と推定。
やはり、ここにも石積跡も。ふむふむ。

◆武田以後の館の変遷◆

信長公記によると、この館のどこかに仮御殿を
つくったらしいのですが、それは発掘調査からは
よくわからないそう。

家康入府を経て秀吉時代に天守台が築造。
野面積みの石垣、もう少し見えるとよいのだけど…

おもしろいのは、天守あたりだけでなく
出土した土器から金の粒が見つかっているそうで。
天守台からは銀も発見。おそらく天守があって、
豊臣らしい金銀を豊富に使った天守だったんでしょうね。

大手石塁もこの時代のもの。ただ石塁は低いので、
その上に何らかの櫓門等など何らかの構造物が
あったのだろうとは推測できますが、
あまりよくわかっていないようで・・・

その前の広場から出てきた柱跡からは
どうも厩だったそう。

もうひとつは、梅翁曲輪。このあたりも整備が
進むらしいですけど、曲輪を囲む松木堀を築く際に
掘った堀のラインがキレイに出ているそうで、
直下に厚い火災層が出てきているらしく、
武田時代と比定されているようです。

◆これからの整備◆

大手側はほぼ整備は完了とのことで、
現在は西曲輪南虎口の最終整備段階。
同時並行で梅翁曲輪の発掘が進んでますが、
あのあたりに武田氏館と武田の歴史を
紹介する施設を立てることが計画中。

ちょうど2019年の甲府開府五百年、武田神社鎮座
百年記念事業に合わせてのことみたいですね。

躑躅が崎の歴史館ができたら、躑躅が崎館の
詳しい変遷をしっかり解説してほしいし、
発掘成果を基にした今想定できうる限りの正確な
武田時代の曲輪の様子をジオラマ再現希望です!

しかし、2019年は甲府開府五百年、
2021年は信玄公御生誕五百年、
2023年は信玄公没後四百五十年と、
甲府にとって、節目の年が続きますよね…!!

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12周年。

さて、1月結局何も書かないうちに
過ぎてしまいまして、blogでは2月にあけまして
おめでとうございます、になってしまいました…

2月というコトは、blog初めて12年。
振り返りは年末にやったんで、
今年の抱負とかそういうの・・・

なかなかできないんですが、おでかけしたら
なるべく全部blogにする!みたいなのを
いい加減止めないと・・・と思うんですよね。
何度もそう思ってはいるのですけど。

2015年度分については、少しづつ書いては
いこうと思うのですけど、できれば本を読むほうに
時間を当てていきたいという思いでいます。

イベントにせよ、オフ会にせよ、
ちょっと消化不良な感じもしている一方で、
10年ぶりくらいでしょうか、本をたくさん読んで
知識を蓄えたい気持ちがむくむくしています。

年が明けてから、どんどんと本を読む流れが・・
すでに6冊。(以下敬称略)

『武田信玄』平山優
『穴山武田氏』平山優
『郡内小山田氏』丸島和洋
『武田信玄と勝頼、文書に見る戦国大名の実像』鴨川達夫
『真田幸村の系譜 直系子孫が語る四〇〇年』真田徹
『甲陽軍鑑の史料論』黒田日出男

真田丸みてるのに、多くの真田本をすっかり
後回しにしちゃってますけど(笑)

なんといいますか、自分にとっての旬がきたようで、
このタイミングで武田家に関する研究成果を
取り入れたい気持ちが強くなって。

とはいえ、すでにウイスキーイベント3件参加、
高野山訪問に講演会2本聴く予定・・が3月末まで。
抑えたはずなのに・・・(笑)

『長篠合戦と武田勝頼』平山優
『東国武将たちの戦国史』西股総生

の2冊はホントにおもしろくて、読んで感じたこと
考えたことを忘れないように、blogに
上げたのですが、ここ最近はスピードが早いので
書いているヒマがない・・ですが、ある程度のところで
ちゃんと読後感をまとめたいなとは思っています。

そんな調子なので、Amazonの買いたいリストには
本がたくさん・・・なんですが、

『戦国大名武田氏の権力と支配』平山優, 丸島和洋
『戦国大名武田氏の権力構造』丸島和洋

この2冊はなかなか高価でおいそれとは手が出ず…
自分が知りたい内容そうな雰囲気ですが、
ちょっと図書館で見てみて、ハマリそうならGetかな。

そういえば、武田家好きでしたが史跡を巡ったり、
一般書を読んだりということで通り一辺倒の
知識はあるのですが、一般書でも研究論文をたくさん
書かれている方の本に当たると、新しい見解に
たくさん触れることができて、知的興奮がもりもり。

山梨県立図書館や山梨県立博物館の図書室で
それこそ籠もって本を読みまくりたい衝動に駆られます…
今年は、城やウイスキーよりも武田家の比重が、
それも読書や講演会の比重が多そうな予感がします。

ま、こうして定期的に自分の心の向かう先を
書き残しておくと、後から振り返ってみると
興味深いのですよ・・・

ということで、こちらのblogもご贔屓に。

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