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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」③

さて、長々と経緯を追ってきましたが、
その背景を考察していきます。

◆信虎追放の背景①:言論統制◆

ここまでの状況だけだとものすごい順風満帆に
聞こえるような気がします。敵だらけの状況から一転、
東の強敵は北条に絞込め、かつ信濃にも領国を
広げられる余地を残す同盟関係ですからね。

しかし、内に何を抱えていたか。

信虎以前~事件までの経緯を追うと、

①信虎が家督を継いで以降、ほぼ常に戦闘状態。
 家臣団、領民とも疲弊。
②さらに躑躅が崎移転、新城の築城で疲弊進む。
③外交路線での家臣団との軋轢。
④反対意見には徹底弾圧。

①はわかっていたことですが、②がやはり
ターニングポイントのひとつかもしれません。

②のタイミングでこれより苛政と指摘されるのは重要。
もちろん集住したくないという立場もあるのでしょうが、
異論は一切言わせない、異論を持つ者は
成敗や追放が待っているという含みを感じます。

府中移転だけでなく、外交戦略に戦略的合理性を
少なくとも降った者たちに理解できず、
理解されないまま、戦争を重ねていたということ。

先方からオファーの会った上杉朝興との連携も
結果的に危機を救うことにはなりましたが、
飯富らの反発もあり、家中での納得感のない
行為だったのでしょう。

宗家権力が瓦解した地点からスタートした
反動からか、家臣の言うことはいっさい聴かず、
諫言した者には誅殺追放して、一切妥協せず
自分の考え方を押し通す信虎。

この納得感のなさということが武力で服属させられても、
服属させ続けられなかったコトに
つながるんだなぁと感じるわけですね。

いくら強くてその傘の下に降ったとしても、
意味がわからない、納得できないまま遂行する
というのは、かなり人間にとって苦しいことと思います。

◆信虎追放の背景②:大飢饉と台風◆

しかしこれだけでクーデタが起こったわけではなく…
追放劇が起こった前年天文9年(1540年)の
巨大台風の襲撃、そして翌41年の大飢饉が重なります。

ちょうど佐久への侵攻を進めた頃。
しかしその頃のこととして『勝山記』には、
人も馬も死ぬものが後を絶たず、百年のうちにも
こんな災害はない、まさに生ける者は千死に一生だと。

記録にも関東から関西にかけて建物は軒並み倒壊、
地形が変わるほどの災害だったと残っていて、
甲斐にも甚大な被害があったそうで。

『勝山記』に「晴信欲済万民愁(中略)即位保国々、
人民悉含快楽咲」とありました。

親を追放するということに正当性を持たせる
タイミングでの追放劇。実際、晴信を親不孝者と謗る者は
甲斐にはなかったのです。上手いタイミング。

平山先生は、ここで代変わりの徳政を
打ったのではないかとのご推察もありました。

◆信虎追放の背景③:晴信廃嫡の危機◆

これはよく指摘されることであって、
敢えて言うことでもないのですが、信虎が駿河に向けての
出立の極秘性が晴信廃嫡と絡んでくる可能性も考えられそう。

重臣駒井高白斎あたりは晴信に近しいと
思われていたのかまるで知らされてなく、
最低板垣、甘利、小山田、飯富の最重臣と
晴信・信繁だけだった可能性もあるようです。
(甲陽軍鑑)

しかも、しかも出立時晴信は甘利邸へ移され、
逆に信繁は躑躅が崎へ。極秘に晴信廃嫡の準備を
進めていて、義元に何か支援を求めるつもりだったのかも。

こうして家臣団は長年の圧迫と不満、
領民は負担の重さと災害で生命の危機、
晴信は廃嫡の危機と三者の利害が一致して、
歴史上稀に見る無血クーデタが敢行。

よくある家臣団の分裂もなく、処刑者や死人が出ておらず、
領内に反乱も起きていない。義元は事件後即座に
信虎隠居の詳細を詰めるため、太原雪斎を派遣していて、
迅速ながら、その段取りの周到さが読み取れます。

◆晴信が得たもの、学んだもの◆

ここからはわたしが感じることですけど、
単に追放して晴信が国主の座についた
というわけでなく、多くのものを
晴信は引き継いでいますよね、というのをいくつか。

直接的に得たものとしては、

・甲斐統一という確固たる基盤
・今川義元との同盟関係
・反信虎を契機に結束した家臣団

甲斐自体は豊かとはいえませんが、国内情勢が安定し、
信頼に足る強国を味方につけたところから
スタートできたのは、恵まれた環境ですかね。

これに加えて、後年の晴信の家臣団統制などから考えると、

①武田宗家と国衆とのパワーバランス維持
②戦略的な同盟関係の構築と破棄
③甲斐の生産力向上

という必要性を学んだのかなと思いました。

①武田宗家と国衆とのパワーバランス維持

強すぎても弱すぎてもダメということで、絶妙なバランスを
維持していたのが信玄時代の武田家という印象。
子飼いの家臣団の育成や先方衆の取り込みや
納得感が出るまで話し合わせるところは、信虎時代の
ある意味反動の産物なんだろうなぁという気がしました。

②戦略的な同盟関係の構築と破棄

同盟を使いこなすことが勝利への近道という点。
二度の敗北を喫する前まではイケイケな感じもするのですが、
同盟は道具と割り切り必要なら結び
要らなくなったら切るというのを徹底し、戦わずして勝つ
という点も信虎時代からの反面教師としたのかもしれません。

③甲斐の生産力向上

天文9年の巨大台風があったことが信玄堤の築造にも
影響しているんだろうなと感じます。甲斐を豊かにせねば
国が成り立たないという実用的な意味のほか、
疲弊させてきた信虎時代とは違うという演出
という観点もあったかなと想像します。

◆信虎と勝頼◆

ここから見える武田信虎像ですが・・・ ・
家督を継いだ時点の無理ゲー感を打ち破る
圧倒的な戦才は誰もが認めるとことでしょう。

そして、家臣の話を聴かず権力確立を目指す「強すぎる大将」
これ誰かに似てませんか…そう、勝頼です。
置かれた時代背景もまた、性格的なところも違いますが、
得手不得手はものすごく似ている気がします。

しかし、こう考えると晴信による武田家の飛躍のためには
欠かせない大事業だったはずなのに、追放されざるを
得なかった信虎こそ、悲運の猛将かもしれません。

14歳で家督を継いで戦わねば死ぬ環境で
権力を確保した猛将に人を使いこなすことを
求めるのはちょっと酷な気がするのです。

この日は時間があれば、義信事件との相違性にも
言及される予定があったそうですが、
時間が押していてなし。またその観点でもお聴きしたい。

信虎と勝頼をよく理解・比較することで浮かび上がる
武田信玄像というのも興味深くなってきました。

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