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第83期「歴史文化教室」第5回 「武田信玄と信虎追放事件」②

さて、甲斐統一三十年戦争の続き。

ROUND 3 VS 栗原信友・大井信達・今井信是
(1519年~1520年)

ようやく一門を下し今川の脅威を撥ね退けた直後
川田館を廃して、躑躅が崎に移る計画をぶち上げます。
これが1519年。翌年20年、これに北東の栗原、
南西の大井、北西の今井が一斉に蜂起。

移転反対!というよりも権力強化を図り集住を
求めたことに対しての意味合いが強いように思いますね。
特に今井は、1519年の新府中の鍬立直前にも
戦っていますので、一度降伏してなおまだ承服せざる
ところがあったのでしょうね。

さてこの三方からの蜂起に対し、足軽衆を派遣して
それぞれの軍勢を撃破。同時に三方から囲まれて
すべて撃破するというのは、国衆相手とはいえ
瞬時に動かせる相当の軍事力を保持していた証左。

これは、「東国武将たちの戦国史」でも
解説されていたように傭兵集団だった
ということと見られています。
そう考えると、相当な経済力も蓄えていた
ということにもなるでしょう。

結局、栗原信友は秩父に逃亡、大井・今井氏は
信虎に屈服することになります。

信虎は方針は全くそのままで、6月には
積翠寺丸山に詰めの城を築くこととしています。
いわゆる要害山城です。

興味深いのが塩山の向嶽寺に伝わる
「塩山向嶽禅庵小年代記」にはこれより以後、
苛政が始まると記していることです。

この時期から考えると、躑躅が崎館と要害山城の
普請による重課がかなり重かったのでしょうか。

ROUND 4 VS 今川氏親
(1521年~1522年)

新府中への移転と家臣団集住、詰めの城の築城は
大きな反発を生みましたが、来る今川との決戦を意図した
ものだったのかもしれません。

元号が変わって大永元(1521)になると、
本格的に今川軍が侵攻してきます。
まず今川軍が穴山領河内に進入、従五位下左京大夫に
任官された感に浸ってる間もなく、河内を総攻撃。

どうやら穴山が親武田と親今川双方で分裂、
これに今川軍が介入したところに、武田軍も介入した様子。
ただ一度は今川軍を破るものの、甲斐大島で敗北。

国中への進入を許し、現南アルプス市の南
富田城を落とし、新府中まで今川軍が迫ります。

これは一大事と下した大井信達の娘・大井夫人を
できたばかりの要害山城まで逃がし、
自身は軍を立て直し決戦へ・・・

飯田河原合戦(10月)、上条河原合戦(11月)の
二度の会戦で福島(くしま)正成率いる今川軍に大勝。
翌年には残存兵が残る富田城も降伏し、またもや
今川による危機を乗り切ることができました。

この飯田河原合戦と上条河原合戦の間に
要害山城で生まれたのが、勝千代。
言わずもがなですが、後の武田信玄その人です。
一応『甲陽軍鑑』には、この勝利にちなんで
「勝」千代と名づけられたことになっています。

この後、1523年に湯村山城を1524年には
一条小山砦(後の甲府城域)の築城に取り掛かり、
甲府の守りを強固にしています。

ROUND 5 VS 北条氏綱
(1524年~)

今川の脅威が去った後には断続的に北条と戦。
一時期和睦を結ぶもじきに破れ、
断続的に交戦状態が続く状態のままです。

ROUND 6 VS 諏訪頼満
(1525年~32年)

この頃、諏訪下社大祝の金刺昌春の亡命を
受け入れて甲府に住まわせ(1525年)、
下社に帰還させる名目で諏訪に侵攻(1528年)

しかし、諏訪頼満も歴戦の名将、
甲信国境の境川で激突、敗北します。
懐刀であった萩原備中が討死するなど手痛い敗北。

そんな中、扇谷上杉朝興が信虎の支援を求め、
前関東管領上杉憲房未亡人を側室に差出、
これを信虎が了承したことに家臣・飯富兵部が反発、
甲府を退去してしまいます(1530年)

新府中の移転に反対した栗原信友や今井信是の子、
信元も加わって、更に訪頼満に援軍を求めて
大規模に反旗を翻します(1531年)。

反信虎連合軍と河原辺(韮崎)で合戦し、
ここで勝利を収め、諏訪を駆逐し飯富・栗原ら降伏。

唯一、今井が獅子吼城
籠もって抵抗しますが、翌32年には降伏開城。

ここにようやく甲斐統一三十年戦争(25年ですが)
が終結することになります。

この時点での外交関係を振り返っておくと、

①反信昌派の残党
 … 油川信恵・岩手縄美 → 滅亡
②有力国人衆
 … a)郡内小山田氏、b)穴山氏、c)大井氏、D)栗原氏
  → いずれも服属
③国外有力大名
 A)後北条氏 … 敵対、交戦状態
 B)今川氏  … 敵対、小康状態
 C)諏訪氏  … 敵対、小康状態
 D)扇谷上杉氏… 友好

ということで、甲斐国内は統一されましたが、
諸国とは敵対状態。唯一扇谷上杉氏のみ友好的関係。

◆信虎の外交政策の転換◆

(武田ー諏訪同盟の成立)
要約敵だらけの状況を脱し、信虎が同盟関係を模索し
はじめるのが甲斐統一後。あくまで先方からの
希望があってのことですが、扇谷上杉氏とは良好な関係。

それが同盟関係として生きたのが、1535年。
先ほどの周り敵だらけにも関わらず、駿河に侵攻を開始。

これに対して、今川・北条の連動して軍を動かし、
北条氏綱は今川氏輝を支援すべく、甲駿国境万沢口で
合戦している信虎の側面から衝いて、郡内に侵攻。

慌てて弟の勝沼信友と小山田軍で防戦するも敗戦。
信友は討死、あわや甲府にまでまた攻め寄せられるか?
というところで、北条と敵対している扇谷上杉朝興が
小田原に向けて進軍との報に接して軍を引き、
大事に至らずに済んだのですね。

ここで情勢が不利と悟った信虎は初めて同盟を構築。
信虎、最初の同盟でした。

(甲駿同盟の成立)
ついで、翌年1536年、嫡男太郎が元服
将軍義晴の偏諱を受け武田晴信と称し、
左京大夫に任官。信虎は陸奥守に遷任します。

その直後、今川氏輝が弟彦五郎とともに変死。
栴岳承芳(せんがくしょうほう)が足利義晴の偏記
氏輝の跡目を巡り、どちらも出家していた弟である
栴岳承芳と玄広恵探が争う花倉の乱が勃発。

この際に、北条氏綱とともに信虎は栴岳承芳を支援。
なんで?という話なんですが、玄広恵探の母が
信虎を苦しめた福島正成の一族だったというのが
背景にあるようなんですね。

そしてなんと、義元は武田と同盟。
晴信姉定恵院が義元に嫁ぎます。
また義元は、上杉朝興の娘を亡くしていた
晴信に京の三条家から正室を斡旋。

これで氏綱は激怒。ここで今川と北条が
激突する河東一乱が幕開けします。

 A)後北条氏 … 敵対
 B)今川氏  … 敵対→同盟
 C)諏訪氏  … 敵対→同盟
 D)扇谷上杉氏… 友好

こうみると、諏訪で背後を固めつつ、
扇谷上杉と今川と手を携えて、北条と対抗する構図。
敵だらけからようやく脱し、有利な状況。

さてその後、相変わらず北条と小競り合いが
続く状況でしたが、1540年。
信州佐久における親武田派の伴野氏の手引きもあり、
板垣信方を大将に佐久郡へ侵攻させています。

この年に諏訪頼満の孫(頼隆の子)頼重に禰禰を嫁がせ、
頼重が甲府へ、そして信虎も諏訪へ相互訪問。
この関係があってこその佐久郡侵攻かもしれませんね。

そして運命の天文10(1541)年。
同盟国諏訪頼重に村上義清も加えた連合軍で
小県郡海野棟綱を攻略、上野に追い落としに成功。
これが信虎最後の合戦でした。
その帰国の直後・・・・あの事件が起こります。

このときに後に晴信の幕下につく真田幸綱も居て
同じく上野に逃れていましたね。

さてここまで信虎追放前夜まで見てきました。
なぜ、信虎は追放されてしまったのか、
という講演の山場、考察タイムに入っていきます。

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