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平成27年度武田神社崇敬者大会講演 ~ 「武田氏館の変遷と発掘調査からわかったこと」

さて、昨年10月の武田神社崇敬会大会。

Kimg2709

甲府の信玄公火葬塚に行くまでの道すがら、
ちょうど護国神社の手前でしたかねぇ・・・・
武田神社崇敬会入会案内がポロリと落ちてたんです。

前々から興味はあって、入会案内をもらうかどうか
逡巡していたのですが、これはもう入れ!との
お屋形さまからの思し召しだろう(笑)と解釈して、
入会したのが5年ほど前。

入会してから行きたいとは思ってましたが、
この大会は平日開催であることから、
行けないでいたんですよね・・しかし!

このたびの講演内容が「武田氏館の発掘調査」
についてなんでこれは・・・!!ということで
ムリクリ休みを取って参上した次第。
武田氏館の講演ってなかなかないように思いましてね。

この日の講師は、甲府市教育委員会の佐々木満氏。

◆移転前夜◆

1519年、8月15日に鍬立の後翌日には
信虎自身が現地視察、その約4ヵ月後の
12月20日には石和の川田館から移っています。

当時は飢饉の真っ最中、しかも内乱を終息させ
つつある時期であり、この時期に新居造営の
人夫動員はかなりの負担になったようで。

おもしろいのは造営当時から、甲斐府中ではなく、
略して「甲府」と呼ばれていたこと。
まもなく開府五百年に成ろうかという甲府ですが、
その名称もまた五百年の歴史があるわけですな。

◆発掘調査◆

①土塁の変遷

発掘調査は、ちょうど現武田神社参道の石垣が
傷んできたことにより、平成10(1998)年頃に修復され
その際に併せて行われたそうです。

石垣の石を外したところで、本曲輪南土塁の地層が
露わになってくるのですが、今の土塁の半分程度の高さの
土塁痕が出てきたんだそうです。

そして土塁の幅半分くらいから基底部の土留めとして
使われていたであろう石積が見つかり、
信虎築城当時から土留めとして石積が使われていたこと、
また、高さだけではなく幅も約半分程度だったと
推定できる発掘内容だったそうです。

②本曲輪内の発掘状況

本曲輪南には、現在能舞台のある手前の芝生のあたりに
石が立てて並べて島を表現してあった跡、更に南側寄りには
頁岩(けつがん)・花崗岩の玉石を敷き詰めた
庭園の池の州浜だったと思われる跡が見つかっているそう。

そして池の部分と石が立てて並べた島の部分には
高低差があり、池を見下ろすようなカタチに
なっていたんだそう。この池は武田滅亡後には
曲輪内の堀に使われた形跡も。

後悔しているとおっしゃっていたのは、
池の中の土のサンプルを取っていなかったこと・・・
池のまわりにどんな植物が植わっていたか?
がわかったのに、と。

甲陽軍鑑にも信勝さんが彼が名前を付けて
大事に育てていた松の木があったり・・・なんて、
記述があるそうですが、それを実証できた?
かもしれないなーっと。むむ・・・

また今天守台のあるような辺りは、奥として
更に高い位置にあり、庭園・表・奥の三空間が
段差で区切られていたらしいのですね。

今の地面がちょうど表の地面の位置で
拝殿前から能舞台のある芝生広場辺りが相当。
そこから2.5~3m下、本曲輪の南側が
庭園のあった地面の位置。

そして、拝殿から奥はさらに高くなっていて、
残された絵図にも二階廊下と書かれているそうです。

この絵図は狩野文庫蔵「武田信玄甲府之御屋形作之図」。
書かれた時期は江戸時代ではありますが、
発掘調査からわかる地形の様子とほぼほぼ符合し、
一定の信頼性はあるように判断されているようでした。

160206_1908_001

そして平成17~8年くらいの大手整備時期の様子も
拝見できました。三日月壕の跡・・・これ、
再現してほしかったよなぁ。石塁ねぇ・・・(がっくり)

これ当初の土塁の低い時代としては規模的にも
合わないので、現在見られる規模の土塁になった時期と
同期して造られたのではとの推定。

・・・ということは、今見られる土塁も新府移転以前の
勝頼期のものと言えるのではないかということでした。
壕の深さについても同様のようです。

おもしろいのは、段差が付いた水路遺構。
木で堰き止めて水を貯めておけるような構造。
飲料水を汲む場か、あるいは水洗トイレか。。。。

水洗トイレだとすると、甲陽軍鑑に出てくる
巻第十二・品第三十三に出てくる水洗トイレの記述を
示すことになりますね!

全般的に信玄公までの館は、守護大名から上がった
戦国大名らしい雅で室町を意識したつくり。
危機感迫る長篠敗戦から新府造営までに
戦闘的になっていく・・・という感じでしょうか。

新府は新府でよいのですが、要害山城もあることだし
甲府に留まってほしかったなぁという思いも。


③その他曲輪の発掘状況

1551年に義信座所として増築された西曲輪。
現在、館としての趣を色濃く残す場ですけれども、
北側の虎口はキレイに整備されて見所になっています。

通路の脇を発掘したところ、門の礎石が発見。
門の形状までわかるくらいの好い状況。
ただ現在復元されている石垣と重なっていて、
また石垣の下1cmくらいに火災の跡の層があるそう。

武田時代にはこの石垣はなくて土塁に門が据えられ、
新府移転の際に火を掛けられたときの火事の層の上に、
武田時代の後の石垣があったのだろうと。ふむふむ。

今南側の虎口の整備が進められていますけども、
ちょうどその規模は北虎口の倍の規模、
南側が正面に当たるんでしょうね。

北虎口前の広場には、蔵の跡とその焼け落ちた痕跡も
わかっているそうですし、昔藤村記念館のあった段と
その下の段とは階段で結ばれるとともに、
土塁痕もあったそうで、空間的に区切られていたそう。

更に本曲輪と同じく立石や水路、さらには
築山のような部分も見つかっていたそうでして、
その見つかった位置的にも(曲輪南)西曲輪にも、
同様の庭園があったのでは?と思わせるものがあるそう。

ここはこれから発掘を進める計画があるそうで、
その成果が期待されますね・・・!!

そして、味噌曲輪の調査内容。
土塁痕だけでなく、脇に片側三つの礎石や砂利を
敷き詰めた跡が発見され、土塁内にあった
四脚門形式の門の跡と推定。
やはり、ここにも石積跡も。ふむふむ。

◆武田以後の館の変遷◆

信長公記によると、この館のどこかに仮御殿を
つくったらしいのですが、それは発掘調査からは
よくわからないそう。

家康入府を経て秀吉時代に天守台が築造。
野面積みの石垣、もう少し見えるとよいのだけど…

おもしろいのは、天守あたりだけでなく
出土した土器から金の粒が見つかっているそうで。
天守台からは銀も発見。おそらく天守があって、
豊臣らしい金銀を豊富に使った天守だったんでしょうね。

大手石塁もこの時代のもの。ただ石塁は低いので、
その上に何らかの櫓門等など何らかの構造物が
あったのだろうとは推測できますが、
あまりよくわかっていないようで・・・

その前の広場から出てきた柱跡からは
どうも厩だったそう。

もうひとつは、梅翁曲輪。このあたりも整備が
進むらしいですけど、曲輪を囲む松木堀を築く際に
掘った堀のラインがキレイに出ているそうで、
直下に厚い火災層が出てきているらしく、
武田時代と比定されているようです。

◆これからの整備◆

大手側はほぼ整備は完了とのことで、
現在は西曲輪南虎口の最終整備段階。
同時並行で梅翁曲輪の発掘が進んでますが、
あのあたりに武田氏館と武田の歴史を
紹介する施設を立てることが計画中。

ちょうど2019年の甲府開府五百年、武田神社鎮座
百年記念事業に合わせてのことみたいですね。

躑躅が崎の歴史館ができたら、躑躅が崎館の
詳しい変遷をしっかり解説してほしいし、
発掘成果を基にした今想定できうる限りの正確な
武田時代の曲輪の様子をジオラマ再現希望です!

しかし、2019年は甲府開府五百年、
2021年は信玄公御生誕五百年、
2023年は信玄公没後四百五十年と、
甲府にとって、節目の年が続きますよね…!!

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