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「東国武将たちの戦国史」を読む。

今更感満載なのですけど、西股総生先生の
「東国武将たちの戦国史」を拝読。

詳しくない扇谷・山内両上杉の抗争から
次第に伊勢宗瑞~北條氏綱に侵食されていくさま、
そして北條家のシステマチックな組織体制には、
(普段読まないだけに)非常に発見がありましたね。

ただ、武田に関してはこれまでいくつかの講演を聴いたり
本を読んだりする過程で、その根拠と論旨を
自分なりに理解したことを踏まえると、ちょっと違うな?
てな感想も自分の中で出てきたので、主に自分のために(笑)
考えたことを整理しておきたいと思います。

例によって贔屓なしで書く努力をしたいので
皆様敬称略にて。

◆武田信虎の戦略とその限界

・信虎追放
西股先生の論は追放劇については晴信の即断即決、
今川との共謀の線は薄く領国経営の失策ではなく、
信虎の容赦ない敵対者への徹底報復と周囲に諮らず、
独断専行で進めた当主権力の集中を図った反動という見解。

ただ、どの反動の主体を晴信個人に帰するのはちょっと
難しいように思います。平山先生も指摘されていた
誰の刑死や追放、討死も起こっていない無血クーデタを
実行するには、やはり家臣団との利害の一致
という側面は見逃せないでしょう。

廃嫡の恐れをもった晴信が、独断専行の恐怖政治に抗して
結束した家臣団の利害をよく汲んだのだろうと。
そしてこの利害一致が、追放後の武田家体制を規定し、
晴信~信玄時代に形成されていく合議体制の下地になると
考えています。ある意味、信虎の恐怖政治の下地が
あってこそともいえるのだと思います。

◆信虎の領国経営
領国経営には問題なく、あくまで信虎個人の猜疑心や圧力が
問題で、権力集中についてへの反発ではないとの見解。

ただ、信虎時代の当主権力は強化というより、
信昌ー信縄の抗争から信虎家督相続の間に
失われた権力を再構築していく過程。

この地位を継承した晴信もこの権力を維持はしているけれど、
宗家権力・権威の構築と独断専行志向というのは、
独立して考えるべきで、この独断専行の追求も領国経営の一環
と捉えれば、統一戦には不可欠かもしれないけれど、
維持し続けるべきものではなかったように思います。

当主権力を形成したステージのまま、独断専行スタイルを
継続した点はある種の経営の失敗ではないかなと。

幼くして血みどろの中を勝ち抜いてきた人間の思考回路が
そうそう組織の成長段階に応じて
変えられるものではないでしょうけど。。。

外征の連続による軍役負担も追放劇の理由として
考えにくく、信玄時代も多かったはずとあるけれども、
これも部将や領民それぞれが持つ納得感の有無
なんじゃないかと思うんですよね。
これによって、心理的な負担の度合いは変わってくるはず。

ただそう考え詰めると、武田家の権力を再確立させた
功労者にも関わらず、さらなる武田家飛躍のために
放逐されなくてはならなかった信虎が、
非常に損な役回りを演じざるをえなかったといえ、
一抹の無念さを感じざるを得ませんね・・・

◆山本勘助(菅助)の虚実

・正規か非正規か
基本的な論旨は才能を見出されて信玄の密命を受け
情報収集や調略を任務とする立場と。

ここまではいいのだけど、一貫して足軽大将=大名家中の
「正規」構成員ではないという立場なのが
正直よくわからなかったんですよね。

論点は、①菅助を銭で報酬を得る傭兵の立場だったか?
というところと②信虎時代の強力な軍事力を形成した傭兵と
連続性のある存在なのかどうか?というところ。

①については、真下家所蔵文書から上田原合戦敗北後の
伊那衆の動揺を見事押さえ込んだ功績として、
黒駒の関銭百貫文という銭で支払われているという点が根拠。

ただ、最後まで銭だったわけではなく、甲斐に知行地を
与えられているわけで、当時は新参者に簡単に
知行を与えてはならないという慣習があったようですね。

というところから、菅助をあくまでカネでつながった
傭兵というドライな立場で・・というのは説得性に欠けます。
正規・非正規という現代の会社員の立場に比するなら、
最初は契約社員から正社員になったという表現が相当かな。

また②信虎時代の傭兵活用との連続性の是非ですけど、
信虎が当主直属の旗本衆として傭兵を雇い
一門衆を迅速に討伐できたのは確かなのだけど、
信玄の旗本形成の考え方とは大きく違うように思うのです。

信玄旗本を形成する足軽大将は、家中の身分を問わず、
信玄の目利きで登用し足軽大将としていくのが常道で、
いわゆる即戦力の傭兵とは性格が違うんじゃないかと・・・

また甲陽軍鑑の成立経緯は、小幡景憲の恣意が
入っている向きは否定されていて、
城郭研究の成果との齟齬は少なくとも
景憲に帰することはできないわけでして。

・菅助は川中島の作戦ミスのスケープゴート?
菅助が常任の軍事参謀という立場ではなく、
軍配者という当時の将兵に与えるような、
心理的な効果に通じた人物ではないか、という点は同意。

・・・なのだけど、「家中外の傭兵」たる菅助の作戦ミス
ということにして、信玄の作戦ミスのスケープゴート、
というくだりもちょっと個人的には「?」なんですよ。

四次川中島の経緯はよくわからないのだけど、
甲陽軍鑑の筋書き通りだと仮定しても、間違いなく判断責任は
最終決定者である信玄にあるはずだし、甲陽軍鑑も
菅助の戦略ミスを批判はしてなかったように
思うんですけどね。

◆武田勝頼の苦闘

・勝頼の武田家家督相続について
勝頼の誕生。「高白斎記」にも誕生の記事が見えず、
幼名も伝わらない勝頼。序盤にあるこの指摘は
記録がないことで逆説的にその扱いがわかってしまう、
数少ない勝頼の幼少期なんだろうな、と実感。

多感な時期に信玄の手をかけられた形跡がみられないことは、
信玄没後に「信玄的なるもの」を否定し
乗り越えようとしたこととつながる気がしました。

勝頼が無位無官なのはやむなしだとしても、
通字に「信」を据えた改名をしていない点についての言及。

勝頼が後継者として誰の目にも明らかであるにもかかわらず、
信玄が家督継承者として勝頼を盛り立てることに
あまりに不熱心じゃない?と西股先生は書かれていたけど、
そもそも信玄は勝頼に家督は継承させるつもりはさらさらない、
のが正確なんじゃないかと思うんですよね。そもそもない。

諏訪に関するモノ、諏訪法性兜や大の字の使用は許し、
孫氏旗の使用を許さないのもその現われのように思えます。

だから勝頼の家督継承喧伝は、武田家当主を強く自認する
勝頼自身、もしくは武田家宗家を握ることで
権力を握ることを志向した諏訪・高遠衆による、
武田家家督「簒奪」と一門衆や譜代家臣には見えたのだろう、
という気がしてきます。信玄の意思でもないし。

信玄は勝頼の軍事的才能は高く買っていたものの、
家督は相続させられないと考え、信玄以来の家臣団の
中心的存在だった馬場、山縣、香坂、内藤らは
信玄の方針に賛同してたんじゃないかな。

一方、「高遠組」として諏訪勝頼に付いた
長坂虎房(光堅)や諏訪・高遠衆は当然、
勝頼が「武田家」当主になるべきと考えたであろうと想像。
そこで、勝頼が武田家を「簒奪」すれば、
両者の対立が現れるのは自明の理だと思われますね。
そして、たぶん信玄はそれを不協和を想像していたでしょう。

しかし、反信玄の意思を腹の底に隠して
決して出さなかった勝頼とそれを見抜けなかった信玄。

勝頼と諏訪衆は、信虎追放劇や義信事件を反面教師に
したのかもしれません。

・長篠での判断
長篠敗因については、家康のみを叩く戦力だった武田軍が
信長が長篠に戦力投入できることを想定しえなかった
という点に尽きるというのは、以前学んだとおり。

信長の進軍の巧妙さと勝頼の油断、そして判断のための
情報が決定的に欠けていた間違いない。
しかし決戦前日の軍議過程への疑義はちょっとどうだろう。

前日の武田家中において、信長の軍勢を正確に把握
できてはいなかったかもしれないけれども、
宿老衆で意見が割れた、つまり甲陽軍鑑の記述を否
とみるにはちょっと難しい気がするんです。

というのも、宿老衆は信玄の軍配に近い考え方と思われ、
すなわち想定外(=信長本隊出陣)の勝てるかどうかの戦に
その場の判断で全力でぶつかるという思想はないのでは
と思うんですよね。

一方、高遠衆と勝頼は、ここで勝って、あわよくば
信長の首級でもあげようものなら、信玄カラーを一掃出来る
チャンスと見えたというほうがわたしには自然です。
(結局そうはなってしまいますけども)

甲陽軍鑑の起源が、信玄の強さの源流をを改めて
勝頼に知ってもらいたいという「諫言の書」から始まっている
という説に立つと、軍鑑が勝頼と高遠衆に
敗戦の責任を負わせたというより、甲陽軍鑑が
信玄流の強さの秘訣を支持する立場から、
勝頼と高遠衆の判断を批判しているのだろうと思えました。

いずれにしても、指摘通り勝頼と馬場・内藤・山縣との
信頼関係がなかったのは否定しがたい事実。
この重要な戦局において、軍議で西股先生が指摘するような
「明確な意見がいえず」議論がなされぬまま、
あるいは意見を言えない空気感が
軍議の場を支配していたとしたら。

そして勝ちを重ねて油断し、また信長の巧妙な作戦を
見抜けなあった勝頼のリーダーシップで
方針が決まったのだとすると、宿老にとって
「武田軍の強さの源泉」のひとつだったであろう、
議論の末の納得感が絶たれたことを意味したように思います。

ただ、それでも勝てるチャンスがなくはなかった。
平山先生の決して無謀な突撃ではないという指摘について
本書は決定的に否定しえてはいないように思えます。

この差については失敗から学習した信長と成功体験しかなく
失敗不足の勝頼という点は間違いないでしょうが、
勝頼と意思疎通できなかった宿老に単純に責を
負わせるべきとは思えません。

信玄時代の合議体制と勝頼の集権化が対立して
勝頼側が当面の戦果を得たことで優勢になって、
肝心の場面で議論して納得感を持って望めなかった。

そして、失敗不足の勝頼の判断に従わざるを得なかった
宿老の立場の斟酌もすべきではないのかな、と。

この長篠で勝頼にとっての目の上のたんこぶが一掃はされ、
その結果、勝頼は信玄カラーがもたらした強さを
捨てた代償として、新たに勝頼自身のリーダーシップで
武田軍の強さを形成できる、ある意味では
歓迎すべき環境になったわけなんでしょう。

◆御館の乱
次のターニングポイントである御館の乱。西股説は
本来は景虎を支援すべき勝頼が、景虎勝利によって
実質的に上杉が北條に飲み込まれ、パワーバランスが
傾くことを恐れたというのは説得力がありますよね。

決定的に織田徳川と対立した環境において、
武田を凌駕するかもしれない北條か、いずれが勝利するにせよ
内戦で戦力が低下した上杉かどちらを味方に
しておくべきかを考えると、頼りにならない上杉よりも
立場は苦しくなるかもしれないけれど、
やはり北條との同盟を堅持すべきだったとわたしも思います。

対北條では、真田昌幸の采配で武田側に有利に
進められたとはいえ(昌幸にとっては不本意でしょう)
景虎が勝利していれば、対上野越後には最低限の兵力を残し、
昌幸も対徳川戦線に投入できたはず。

しかし、現実は落城寸前の高天神城への後詰も
派遣できない苦境に追い込まれ、その落城で
国境国衆の反旗を招き、滅亡へとつながっていく。

西に織田、東に北條。そして国衆の離反。
北には動きの鈍い頼りにならない援軍の上杉。

誰と同盟し、誰と決戦すべきか。個人的には
信玄流の強みを活かすべきだったのではないの?
と思うわけですが、それでも信玄流を否定し
勝頼の新たな武田軍の強さを構築するチャンスはあったはず。

景勝支援に回って北條を敵に回すべきでなかったという点が
致命的に思えます。高天神城落城による動揺も
織田と北條を同時に敵に回したツケではないでしょうかね。
ここは西股先生と意見が合うところですな。

◆武田滅亡の責任
ただこのツケについて、独り勝頼にだけ
課するのも正当ではないけれども、信玄にだけ責任を
負わせるというのもまたフェアではないように思います。

勝頼の責任については、信玄が築いた武田軍の強みを
敢えて活かすことをせず、長篠で瓦解させてしまったこと。
直接の滅亡の原因ではないにせよ、戦闘力を大きく
落としてしまったのは事実のようです。

そして弱体化した武田軍を再構築を果たす際に、
外交戦略を見誤り、二方面作戦を強いられた点。
ここに限定されるべきですね。

一方、信玄の責任については、西股先生が指摘する
後継体制のまずさ・・からもう少し深堀して考えたいんです。

①義信の取り扱い
確かに北條家と比べると北條家権力の継承が磐石で、
武田家の拙さが目立つのは否めないのですが、
その拙さの所以のひとつとしてまず、
信玄が後継者たる義信の思想共有ができなかった点
ではないかと気がしています。

躑躅が崎館に西曲輪を義信のために増設してることからも
当初(1550年代は)義信に大いに期待していたであろう
と思われる一方で、思想的な齟齬が出来てしまった。

これは奥近習が信玄による思想教育がなされ
ベクトルが一致していたのとは対照的。
信玄の根本理念を後継者と共有できなかった点は、
間違いなく失策といわざるを言えると思います。

西股先生は、三国同盟の破棄に後継体制の破綻の因と
されているんだけども、義信がそこまで今川家に
与する意図を測りかねるんですよね。性格の不一致(笑)
かもしれないけど、それに帰するのはあまりに単純だし。

外交に関してはわだかまりなく、状況に応じて
有利な相手と組むためには手段を選ばないというのが
外交における信玄イズムだと思うんですけど、
義信に叩き込めなかったわけですよね。

むしろ後年、昌幸が真似するくらいであっても
よさそうなものなんですが、そうは行かず。

三国同盟破棄と駿河侵攻も北條を一時的に敵に回し、
苦境には陥りはしますけど北條を再度味方に引き入れ、
かつ駿河領有と三河・遠江の足がかりを得た信玄の外交政策は
結果間違ってはいないと思うんですね。迷走とは思えなくて。

②養子政策
子息を残らず制圧地対策で養子に入れてしまい、
嫡男義信と対立したときに有力候補となる後継者を
擁立できなかった点も厳しい点。

次男以下を養子に出して戦略上の手駒に使うのは
どの戦国大名もやっている常套手段ではありますが、
次男信親以下皆養子に出していて、義信の代替がいなかった。
だからこそ、一旦家を出た勝頼を呼び戻すしかなかった。

逆に代替をつくることは、後継者争いで家中分裂の火種となる
原因にもなるわけですけど、信繁・信廉のような
存在はいてもよかったんではないかと思ったんですね。

勝頼も、当初から武田勝頼であれば、氏康のように
早くに一旦身を引きつつ権力継承を漸次進める方法も
取れたでしょうけど、生まれながらにして
格下の制圧地の家を継ぐことを目されていた
「諏訪」勝頼を呼び戻さざるを得なかったところが
後継者政策の行き詰まりを見せているように思います。

この他家の人間が武田宗家を継ぐ反発というのは、
奇しくも信虎の項で、信玄死後に信虎と勝頼が
対面した際に勝頼の母が諏訪氏であることに不快感を
顕にしたという本書記述からも、
一定の推測が付くように思いました。

③次善策「陣代」の破綻
そんな中で信玄が活路を見出したのが「陣代」。
諏訪家としての家格のまま、実質的に武田家をリードさせつつ、
制圧地の家が宗家を継ぐ不協和音を抑える次善策。

ただこの次善策は、更なる心理的負担を
勝頼に強いることになったでしょうし、
陣代たる地位を承服するほど、信玄と勝頼の関係性は
強固ではなかったように思います。

そして、信玄死後に勝頼はあっさりとしかも、
死の直後から覆されてしまい、勝頼は「諏訪」勝頼ではなく
「武田」勝頼としての道を歩んでいくわけです。

反信玄の意思を出さなかった勝頼、そして
見抜けなかった信玄。信玄死去後の「簒奪」の動きは
実に早く、周到に計画された感じがします。

勝頼に典厩信繁のような一歩下がった発想や、
これまで支えてきた家臣団を誰かに譲り、
きっちりと武田家領袖という立場とも高遠・諏訪衆を
率いる立場を分けることができれば・・・
また違った武田家の歴史ができたのでしょう。

あまり詳しく理解していないので、簡単に
引き合いに出すべきではないのかもしれませんけど
毛利両川の吉川・小早川のような形で
武田諏訪の関係構築ができればよかったのでしょうか…

とはいえ、戦国の雄たる諸家において、
権力継承がうまく進んだ例はそう多くはないと思います。

織田はうまく行ってましたが後継者ごと失いますし、
豊臣は周知の通り。謙信の突然の死で上杉も苦しみますし…

その点、北條家の順当さは特筆すべきなのは確かで、
武田遺臣だけではなく、北條遺臣も取り込んで関東統治に
当たった家康は、ひょっとしたら権力継承の手法も
北條家の事例を学んだのかもしれないですね。

ちなみに・・・本論からは外れますが、武田典厩信繁が
諏訪郡代だったってのは初耳。勝頼の高遠城入りを
諏訪郡代だった信繁の討死を契機とあるんだけども。

高遠城主は諏訪郡代ではなく、伊那郡代のはずだし、
諏訪郡代は板垣信方、長坂虎房、武田信廉(信綱)と続き、
高遠城主は秋山虎繁、諏訪勝頼、武田信廉、仁科盛信。
信繁は制圧地の郡代にはなってなかったような
気がするんだけどなぁ。どうだろう。

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いやいや、じっくり拝読していろいろ考える
きっかけになりましたよ。おもしろい本でした。

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