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歴史人 No.61 【戦国最強家臣団の合戦力】の個人的感想まとめ。

歴史雑誌「歴史人」に非常に興味深い記事があって、
雑誌ですが結構読み込んだつもりです。

元々武田信玄公に興味を持ったのも、戦いの強さというよりも
その人心を掴み強固な結束力をもった組織を
つくりあげた思想への興味が原点。

他の家臣団と比較することでいろいろ見えてくるだろうなぁ、
と思ってはいたのですが、なかなかまとまったものがなく。

必ずしもここでの記載が正というわけではないでしょうが、
一旦所与の内容として踏まえて、比較してみました。
毛利と島津は論点がちょっとずれる気がしたので除外。

例によって、客観的な立場から書いてみたいので、
以降敬称略で書き進めます。

■武田信玄
信玄は部将の能力を見極め、能力に応じた役割を与えながらも、高い能力の片鱗のある人材を自ら育てる点が特筆。奥近習「信玄塾」卒業生を要職につける。香坂虎綱、山県昌景、真田昌幸等々。自ら人材育成することで大将と部将の基本思想の刷り合わせ・共有化を図る一方、各部将に論戦させ「決まるまでは徹底議論、決まったら従わせる」ことで戦略決定の納得感、一体感を生む。人材登用は非門閥主義だが、原則甲斐出身の有力者に服属国衆を付けた軍団編成。

■武田勝頼
一方、勝頼は自らの将としての能力の自負から信玄が用意した「武田家生き残り策」とを捨て、信玄の用意周到な「勝てる戦いしかしない」戦略と人材の育成・組織統治戦略を転換。中央集権と戦争に勝ち続け、領土広げて先方衆に報いることで、諏訪家の負い目を払拭。高遠・諏訪衆と甲斐古参衆の軋轢を纏め上げようとする。しかし長篠敗北を機に勝ち続ける戦略が崩壊。組織的な戦闘ノウハウの継承が途絶え戦闘力の低下を招く。

■織田信長
能力で評価するというより、実力に応じて使える人間を使えるだけ程度だけ、使い倒す主義。裏切っても許すが使えなくなったらそこまで。適材適所という点では信玄とも共通するが、能力観について自助努力か自ら介入するかの相違点。自助努力で伸びてきた人材は引き上げ、経済的に報いるドライな関係。組織は官僚・旗本を除くと、後継者信忠を含めた統率力のある人材を新たにヘッドに据えて、地縁から切り離して再編成。登用特徴としては非門閥主義だけでなく、地縁からの切り離すということと、各方面の大将や旗本など横のツナガリが薄い印象。

■豊臣秀吉

一から家臣団を急成長するスピードにあわせてつくりあげる必要性から、能力の高い人材を取り込むも、織田の一地方軍から大将格となっても他勢力の比べ組織化が今一歩。多くの外様大名を従え、圧倒的な財力・軍事力を傘下に収めても、豊臣家臣団自体は個々の秀吉に対する忠誠心のみで組織が構成。家臣の横のツナガリが希薄というかもしくはムラがある印象。さらに秀吉本人も豊臣家臣団も「秀吉逝去後」についてのビジョンに乏しく、家康の台頭を許す。

■徳川家康 

今川家の重圧に耐えるという苦しみの共有から生まれる家康を中心とした結束と忠誠心が能力を育てた。地縁的にも三河武士を重用し敵対したものの、武田家の結束ロジックとの共通性・親和性が感じられる。後に武田遺臣を多く抱えるが、土木・潅漑・鉱山開発という技術力や高い戦闘力もさることながら、この結束ロジックプロセスの共通性もあるのでは。事実武田遺臣でも忠義に厚い将を評価している。秀吉との大きな相違はステージに応じ組織改革を行えた点。信長軍閥と外様大名を従えたのみで統治組織として未分離なままで全国統一した秀吉に対し、地方軍閥ながら統治組織への脱皮を果たし、さらにこれを次代に託さず、創業者カリスマがなくても機能する道筋をつけることを創業者自身がやり遂げる目処をつけた点が特筆。

■伊達政宗
信玄と同じく門閥に捕われず優秀な人材の抜擢しつつも、積極派の若手と慎重派の古参の合議体制を敷き、政宗だけのリーダーシップだけではない結束力が政宗初期段階から見られる。合議体制は信玄軍団同様だが、前代当主の流れを汲む古参と政宗と年代の近い積極派が合議を介して結合できている点が信玄とは違う特質。また家康と同じく、初期の戦闘性に向いた体制から、より合議体制の側面が強化された集団指導体制に伊達家臣団を変革していく点は、徳川家臣団との共通性が見られる。武田・徳川のそれぞれの強みをバランスよく配合し、しかも時流にあわせて組織を変化させる柔軟性。

論点としては、

①ヨコの結束力=
組織のヨコの結束力の如何で組織の継続性に影響。これを生み出すのは、ひとつは意思決定プロセスへの参画による一体感や体験の共有。ヨコの結束力がないとがタテ(当代主君と各家臣)のツナガリが切れた途端にと組織が崩壊する。

②人材登用=
一旦出自問わず能力で引き出してから、再編成するのは有力大名の共通項。武田・織田・豊臣は大将の目利きで個人個人を登用する一方、家康は武田遺臣をその家中の特質ごと取り込む集団登用が特異。やはり敵同士とはいえ、価値観の近しさがあったのだろうか?基本は能力を買うのが主流だが、君主自らの能力を伸ばすプロセスを経るのは信玄に特異かも?

③組織の成長ステージに応じた組織改革=

秀吉にできず、家康・政宗が成しえた君主がいないと崩壊しない集団指導体制への移行。逆に勝頼は信玄の合議体制を否定し、むしろ信長に近い中央集権化を求めるも、却って立場を苦しくした。諏訪家の事情など勝頼の言い分もあるだろうが、個人のリーダーシップが発揮される局面と合議を経るべき局面を見誤ったような所感。特筆すべきは家康の長い寿命。長い寿命は次代・次々代のレールまで敷いてしまう強さ。真田信之にも通じるか。

の3点。

①②③を満足するのは、勝ち残った徳川や伊達
なんだなということにも気付かされます。

伊達の古参と若手の合議体制なんて
すごくよくできたシステム。
これは大将たる政宗と古参の懐の広さが必須ですね。

武田でも、陣代として戦闘力の高い勝頼が
戦線をリードしつつ、信玄重臣と諏訪衆の合議も
維持しながら、納得感のある家中運営の可能性が
なかったのかなぁ・・・と想いを馳せてしまいます。

それにしても、奥近習「信玄塾」に入りたいですね・・
そして、「決まるまでは徹底議論、決まったら皆従う」
という戦略決定の納得感、一体感。

これって現代のビジネスにも通じると思うんですよね。
こういう職場で働けたら、シアワセだと思うのです・・・・・

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