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2015年12月

2015年述懐。

さて、ここいらで今年の記事は終わりになりそうです。
2015年の書き残しといえば、

・高取城/宇陀松山城
・弘前城(GW)
・シルバーウィーク日本大横断
・城フェス
・棒道事前~棒道オフ
・講演会『武田信玄と信虎追放事件』
・武田神社崇敬会大会講演会

いやぁ・・・・重いネタがたくさん残ってますなぁ。
なんとか16年の大武田月間の前に
何とか記事にしておきたい・・・・
高取城と初回の弘前城とか1年過ぎる勢いだし・・・・

それはそれとして、今年の振り返りです。
やはり変化の年でした。1年全体を通して思うのは、
興味に満ち引き・旬があるんだなと実感したこと。

自分が求めつづけた結果、チャンスが生まれたと
いうこともあるし、逆に時節柄どうしようもなかったことも。

長い間眠っていた関心がふとしたことで再燃した
ことを考えると、自分の興味の移ろいだけではなくって、
外部環境の変化によっておもしろみが出てくるタイミング、
ひととの出会いやその時々の時局があるのだと。

そしてわたしが関心の軸になっている

・武田家
・城
・ウイスキー
・FFDQ
・ガジェット

のいずれかがモトになって知り合った方が、
別の関心の軸でもお付き合いできたり、そこで
クロスオーバーするのも楽しいことですね…


◆ウイスキー◆

ウイスキーといえば、15年はマッサンの熱狂
の中で始まった年でした。

ちょうど大阪編から余市編に移るあたり、
まさにこれから佳境に向かうところ。
2014年がちょうどニッカ80周年ということもあって、
たくさんの限定品が出ましたし、
BAR SHOWは凋落する感じはありましたが、
Whisky Festivalや秩父ウイスキー祭りはこれは!と
いうウイスキーを見つけられました。

2015年に入って、各イベント(秩父ウイスキー祭り、
モダンモルト、ウイスキーフェス東京)はよかったものの、
軒並み年数表記のあるモルトが続々終売、
残ったウイスキーも値段が跳ね上がる一方。
SMWSのジャパニーズももうとてもじゃないけど、
Bitできる値段じゃない。それに各イベントでも有料試飲の
レベルがどんどん落ちるか、なくなっていく…

アタマでは、ジャパニーズウイスキーへの関心の
高まり(特に外国人)や朝ドラ「マッサン」の影響で
これまで以上に内国需要も上がったこと・・・・

そして、生産のリードタイムが他のジャンルの製品だと
考えられない長さ、それに起因する需給予測の困難さ。

もろもろ理解はするのですけど、やっぱり安心して
飲めるウイスキーが手元になかなかない、というツラさを
身にしみて感じた一年という気がします。

特にツライのは、ウイスキー以外でお付き合いに
するようになった方もウイスキーに興味を持ってくださって、
微力ながら応援したいとウイスキーに誘導するんですよね。

もちろん最初はいいんですけど、その奥のシングルモルトや
シングルカスクの奥深さにまでもっていけない。

もちろん持ち寄り会や自分のモルトを供出して・・というのも
ありえなくはないけど、その場その場で美味いウイスキーを
体験できればいいというのではなくって、
関心を持ち始めた方が、自律的にウイスキーを楽しむ
よすがになれたらと思うわけで、自分が出してきた
値段程度で継続的に入手できるとなると・・・・

少しウエメセではあるけれど、そういう「手引きできない
もどかしさ」というのがやっぱり苦しいところであります。
そしていつぞや、ニッカの佐藤元マスターブレンダーが
おっしゃっていた「安定的に飲めるものを出すのが
第一の仕事」ということばが、頭に浮かびます。

安定的にレベルの高いウイスキーが飲めるシアワセ。
ありがちですが、なくして初めてそのありがたみを
反芻するわけです・・・

最近では定番のスーパーニッカとこれまで
買い貯めた在庫を消化。まぁ、飲んでナンボのウイスキー、
こういう時局になって、在庫に手を付けるきっかけに
なったと思えばいいかもしれませんけども。

◆武田信玄公◆

逆にすごくチャンスが来たというか、知りたい欲に
俄然応えてくれる時局になってきたのが信玄公関連。

きっかけはやはり、武田家旧温会とのつながりと
平山先生の御著書の面白さでしょうね。
これは間違いないところです。

<武田家旧温会>

つながりができたのは、2013年の秋。
毎年研修会ということで、武田家ゆかりの史跡を
巡ってられるわけなんですが、たまたま関心のある一般人にも
来てもらおうという旧温会Web記事をみて
早速応募したところが始まりでした。

そこから例祭、総会、昨年には長篠慰霊祭にも
参加し始め、今年になって長篠に加えて、
仁科公慰霊祭や武田神社崇敬者大会にも参加。

さすがに昨年は、まだおっかなびっくりでしたけれど、
今年は皆様とかなりお話できるようになって、
また御当主邦信氏にも顔と名前を一致していただけました。

そんなオープンな会に変わりつつあるのも、
事務局幹部の方に関心のある方や研究者も会員に
なってもらおうという柔軟な発想にあるから。
会の高齢化という難題に直面してのこと
という側面もあるのですが、それでも有難いことです。

手前味噌ではあるのですが、そのような「余所者」の
受け入れに関して、有能であればしっかり重用された
山本勘助や真田一族(特に真田昌幸)と勝手に
自分をダブらせてみたりもします(失礼だな)

そしてなにより素晴らしいと感じたのは、先祖の、
武田家の「正しい」歴史を学ぶという史実重視と研究を
旨とする気風があることです。

これは「天と地と」での描かれ方に疑問を持ち、
正しい姿を顕彰せねばとの想いからという、
会発足当時からの考え方。

すべての方が研究しているわけではないですが、
先祖に武田一門や武田家の遺臣をもつ方々が、
そのような気風をもたれているということは非常に
重要なことだと思うんですよね。

明らかになった史実の研究成果や各家に伝わる伝承は
時に相剋することもあるわけで、おのおのが意見を持ち、
研究成果に向き合い、そして議論できる
雰囲気があるように感じられるのです。

後付けにはなってしまいますが、信玄公時代の
武田軍の強みはまさにこの諸将が意見を戦わせ議論する中で
生まれてきた側面もあると思え、なんだかその姿と
ダブって見えるようにも思います。

研修で回る史跡だけでなく、会員の皆様の何気ない
会話の中にも、武田家の組織構造と
信玄公の組織運営手腕に関心を持つものとしては
興味深い会話が多く、その一端に加えていただいたことは
何よりのシアワセですし、より深く知る
大きな一歩になったと実感する次第です。

<平山優先生>

もう一点大きなことは、平山先生でしょうね。
そもそも・・・大学生~浪人時代の現代文の
塾講師がものすごく論理だったことを大事にする人で、
論理の王様たる数学がニガテだった当時のわたしにとっても、
ロジックがキレイにつながる説得性に感じ入ったものでした。

そもそも平山先生のお名前は、武田家旧温会の会話で
お聴きをして、語りが上手くてすごく頭にスッと入ってくると
絶賛されていたのが、最初に知ったきっかけ
ではないかと思います。

もちろん、論理というのはなにも自然科学だけでなくって、
人文科学にだって基礎になるはずなのですが、
歴史の領域においてここまでキレイにロジックで構成され、
しかも厭味が少ない記述が…と「長篠合戦と武田勝頼」
を読んで、更に興味を持ったわけです。

厭味というのは・・・とかく論理は人を
追い詰める(ようなイメージ)があってですね。

人間には感情があって、多かれ少なかれ
その相克の中に生きるほかはなく、その感情との関係を
考えると、論理一辺倒というのは厭味になりえると思います。

昨年末も書きましたが、論理は甘美な麻薬になりうる
側面もあると思うんです。だけど、そんなことはまるでなく、
非常にロジカルなのに読後感が清々しいといいますか・・・

歴史学についてはもちろん素人なので、研究成果になりうる
記述を残すことはできないですけれども、前提となる史料と
史料群の関係性から浮かび上がる史実、
そしてその史実の延長上にある想像をはっきり分けて、
想像に至るロジックをしっかり構築するくらいは
できるようになるとスッキリするだろうな、と。

それで昨年の年越しで「検証長篠合戦」「武田信玄」を
読もうとして積読(苦笑)になっていたところ、
あの甲陽軍鑑の講演に行ったわけですね。
当時のtwitterにも書いていましたけど、これはすごいと。

これまで実に信玄公に興味を持って四半世紀
経ってはいたんですが、知識を重ねてきたわけでもなく、
むしろ他の興味に押されがちだったんですよね。

それがお城に他の人と行くようになって、
自然と戦国時代の話になり、(それまでに知ってた)
信玄公の話をするくらいのものでした。

それが一気に史実や史実群から積み重ねて想像していく
おもしろさに引き込まれたんですよね。
そうなると、歴史小説読むよりもまず、歴史研究の成果を
読みたくなるのがちょうど今。
この現象を「平山中毒」とでも呼びたいくらいです(笑)

真実は小説よりも奇なりとは言いますが、
ひとりの人間の想像力や気付きを超える
「想像を超える史実のおもしろさ」は
やはりあると思いますね。間違いなく。

そんな中で、史実vs創作の議論にもなったことがありました。
基本的には創作の存在を否定することはなくって、
たまたま個人的に(それも今の時点で)創作よりも
史実のほうに関心があるというに過ぎないわけですが、
創作・表現の自由を重んじるあまり、

・史実に照らして本当か?と疑う人を半可通と蔑んだり
・史実に忠実であるべきは、研究者
 (=根拠を追究する立場にいる人)たちだけで充分

などという意見も目にしました。創作>史実が
存在する意味としては、おもしろいからに尽きるはず。

それがおもしろい人たち向きにはいいと思うんですよね。
純粋にエンターテイメントとして。

ただ、史実に照らすおもしろさを知ったとき、
史実とされていたことが実は反証されて
新しいイメージが出来上がったり、またその反論でという、
科学としての歴史の進歩に向き合う楽しさは
確実にあるわけです。

だから創作するにしても史実を知るべきでは?という話。
妄想に妄想重ねる別のおもしろさも
それはそれで、確実にあるんですけれども。

そもそも疑うことは知識を幅を広げるために不可欠ですし、
自分で気の済むまで突き詰めるの大事だと思うんですよね。

創作物から史実以外を徹底的に排除する「歴史警察」も
くだらないし、史実に立脚する立場を蔑むのもよくない。
創作鑑賞を史実と理解する世間一般の傾向をどうするか、
そこが解決しない限り、なかなか共存するのが
難しいコトでもあるんだなぁと思ったのも、2015年でした。

◆城◆

今年は比較的行った城の数は少なめ。
全部で30城。新規は13城。

高取城、庚申山城、宇陀松山城、金沢城、
弘前城、浜松城、久能山城、白山城、新府城、
獅子吼城、谷戸城、岩殿山城、勝沼氏館、
躑躅が崎館、浪岡城、大坂城、姫路城、岡山城、
今治城、大洲城、野田城、二俣城、諏訪原城、
丸子城、持船城、白老伊達陣屋、前橋城、
江戸城、赤穂城、利神城

新しいところだとまだ書いていませんが、
高取・宇陀松山の大和の山城がよかったですかねぇ。
後は期待せずに行ってよかった勝沼氏館や浪岡城。

再訪では弘前はイベントで思い出深いですし、
12月の新府丸馬出の素晴らしさ、そして各地の
現存建築を巡ったり、講演を聴いて初めて
思い至る大洲城の復元の見事さ。

それから今治城で後に徳川系城郭として
完成する藤堂高虎の築城思想を徳川の城展を
見てきた直後に行って感じ取れたのもよかった。

こうして振り返ってみると、皆さんの企画に
乗っかってお城に行く以外に自分で行くときには、
明らかにお気に入りに再訪か、
何らかのテーマに沿った城攻めだったなぁ、と。

(オフ会)
高取城、庚申山城、宇陀松山城、白山城、
新府城、獅子吼城、谷戸城、岩殿山城、
勝沼氏館、

(お気に入り)
金沢城、江戸城、躑躅が崎館、岡山城

(テーマ1:武田城郭)
野田城、二俣城、諏訪原城、丸子城、
持船城、久能山城、赤穂城

(テーマ2:近世城郭建築)
弘前城、大坂城、姫路城、今治城、
大洲城、

(その他)
浜松城、浪岡城、白老伊達陣屋、
前橋城、利神城

たぶん2016年も基本は武田関連と近世城郭を
中心に遺構観察中心のお城は皆さんに
乗っかる形になるだろうな、と。

もう一点、お城というと、江戸城天守の報告会
いよいよカタチになってきたなぁという感慨深い気持ち。

もちろんこれから賛否両論戦わせて・・ですし
慎重に進めていかないといけないとは
思うのですが、これによって研究・理解が深まるのは
それだけでありがたいことですね。

同じように、名古屋城大天守についても動きがあり
こちらも2016年年始からのタウンミーティング参加など
動きがあるので、見逃せません。

やっぱり、土の城とその築城思想の理解の少し
断片に立ってみても、建築へ惹かれるのは変わりません。

しかし、土の城、山城の観察を通して得られた
「城とは何か?」というセオリーを軸にして、
近世城郭を眺めると、違ったことに気付くのも確か。

その意味で皆さんが行きたい!という山城に
のこのこ付いていって、現地踏査で理解を深めつつ、
近世城郭を眺めていくというスタンスになるでしょう。
武田は別腹かもしれませんけど(笑)

ということで、2015年も大変お世話になりました。
今迄からお付き合いくださってる方も、
新しくお見知りおきいただくようになった方も。

相変わらず、興味のごった煮で2016年も
お届けすると思いますが、なにとぞご贔屓に。
よいお年をお迎えくださいませ。

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2015年のウイスキーイベント…ウイスキーフェスティバル東京2015。

さて、ウイスキーイベントの最後を飾るのは
11月末のウイスキーフェス。

印象に残ったのが、まずは駒ヶ根ですね。

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バーショーボトルはちょっと…という
感じだったんですけども、これはいい!!!
ということで、すでに半分くらい飲んでしまっています(笑)

以前美味しかったInvergordon。
今回はタンニンが結構出ていて、紅茶の雰囲気。
まだ買ったボトルは開けていませんが、いずれまた。

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買えはしませんが、長熟グラッサは
美味いはず…という先入観。実際よかったですね。

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なつかしいBrora 35年。もはやみることは
ないかと思ってましたが・・・

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そして、やっぱりあれば飲んじゃう、
シグネット。一本ぐらいまた買うかねぇ・・・

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ここでホントに気になるのは、数種くらいのもの。
あれもこれも・・・と気になるのが、
たくさんあるのはもうしばらくなさそうです。

大きなポイントは、公式ブースがまるで
魅力がなかったこと。ニッカにしても
サントリーにしても・・・

キリンも変わらず17年モルト25年グレーンで
目新しさはなく、イチローさんとこは、
まだあるほうでしたけれども。

P1160731

さて、あれやこれやと飲んだくれた後の・・
静岡蒸留所セミナー。

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ガイアフローはどちらかというと、
Brackadderはまぁいいとして、どちらかというと
ニッチなところを扱う代理店さんというイメージ。

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個人的にはマクミラを取り扱っていただいて
よかったなぁという印象。一時期は台湾しかなくて
向こうでたくさん買い込みましたからねぇ。

さて、そんな代理店のガイアフローが
蒸留所を持とうという話。もちろん小規模の
クラフトディスティラリーに分類される規模です。

いろいろ指針はあるようですが・・・

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要は小規模で独立資本ということ。
秩父なんかもそう。

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年間40万リットル程度。江井ヶ島やマルスが
1日1仕込で年間10万リットル、仮にフル稼働で
3仕込やって30万リットル。

今、日本蒸留所というと、この9蒸留所が
思い浮かぶと思うのですが…

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今どんどん増えようとしているのは、
ウイスキーラバーの間では有名な話ですよね。

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公開はしていない笹の川なんかもありますが、
厚岸、岡山の宮下酒造なんかはわたしも知ってます。
笹の川って、新たに設備導入してウイスキー造るんだ!
木内酒造というのは初めて聴いたなぁ。
10月にはもう製造免許取得しているそうですね。

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秩父は一仕込みは500kg以下にもかかわらず、
年間通して稼動しているので、クラフトの中では
多いほう、ついでマルス。

新潟で???となっているところでも
計画があるとか?ほほぅ…
そのほかに、鹿児島でも・・楽しみですの。

そんななかで、2016年静岡でも産声を上げる
蒸留所があります。

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決断したのは2012年6月。

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代表の中村大航氏がスコットランドに赴き、
最後にキルホーマン蒸留所を訪問されたとき。

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確かにGoogle Mapでみると、小さい…

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しかも、ローテクでつくっているというのが
インパクトの合ったことだったそうで、
これだったら俺でもできるんじゃ!と思われたのが
きっかけなんですね!!

そして後で気づいた中村氏とスコットランドの縁。
帝国海軍の技術者だった祖父中村萬次郎氏が
スコットランドに視察に行っているんだそうで!

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日清・日露を戦った日本軍艦はグラスゴー製。
世界の工場たるスコットランドに研修に行くのは、
至極当然のことだったとか。

現代のスコットランド。けっこう1930年代と
変わっていないですよね・・・

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不変性、世界市場の確立、日本のウイスキーの評価、
製造メーカーが限られている…ということで、
チャンスがあるというのは判る気がします。

そこでまず製造前に販売網を整備しようという考えから
インポーターとして事業を開始。
てっきり、新しいインポーターだと思ってた…

「静岡」を前面に出していく戦略みたいですね!

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敷地は、静岡から真北に行った所。
静岡から北にバスで60分程度。

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建設予定地。元々は山に沿って蛇行していた川を
20年ほど前に山の尾根を削って埋め立て、
川の流れをまっすぐにしたそう。

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周りはお茶畑に囲まれているってのも、
静岡らしい環境ですよね。

蒸留所に必要な条件。水はキレイだけでなく、
水量も大事。硬度は79だそうで、
山崎にちょっと近い硬度かな?

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現在の建設予定地。もうすでに更地に
なっているみたい。一つある建物は
気象庁の地震観測施設だそう(笑)
蒸留所ができても、そのままになるそうですよ。

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コンセプト。ワクワクしますねー。
最初から、工場に来る人をイメージしているのが
いいですよね。一度じゃなく変化を楽しめそう。

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最終的な開発のひとつの案。

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お客さんからどう見えるか、日の入り方まで
計算しながらあーでもないこーでもないと議論中。

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物販や飲食もあって、一日寛げそうな感じ。
インポーターもされてるから、施設ができたら
すぐにウイスキーも並びますね!

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地元の食べものなんかもたくさん並びそうだなー!

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蒸留所の集客ランキング。これ2013年版。
それでも余市がトップで28万人。

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2015年は80万人らしいそうですからね・・・
そんなところを目指して行きたいと。

わたしも行った軽井沢の最終日。

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1975年頃の新しいポットスチルは使えそう、と。
古い1950年代のは残念ながらダメ。
でも蒸留所内に展示してほしいよな~

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軽井沢のモルトミル。これだけでも
新品で買うと500万くらいするそうですけど、
それくらいのお値段でBit。ってことはお買い得?

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ハイブリッドスチル。こちらは主にスピリッツ向け。

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ウイスキーのスチル。バルジ型になるそう。

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加熱方式はハイブリッド加熱、スチーム+直火。
つまりスチームパイプはつながっていて、
最初はスチームを利用し、熱が上がると直火に
切り替えるというスプリングバンクの初溜釜と同じタイプ。

地鎮祭。東照宮(久能山?)から神主さんがお越し。
ものすごいウイスキー詳しいんですって!
家康公どう思ってられるでしょうね!

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基礎工事中。

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テイスティングコーナーの一本モノの材。
これすげぇね!

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竣工は16年5月予定、蒸留開始は来年後半。
19年と言わず、ニューポットも出してほしいな♪

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期待してます!静岡蒸留所!

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ということで、それなりに美味しいウイスキーも見つけられ
静岡の可能性も感じられたフェスでありました。

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2015年のウイスキーイベント…柏ウイスキーフォーラム。

さて、こちらは気軽に参加できる柏ウイスキーフォーラム。
まぁ、知ってるオフィシャル銘柄ばかりですからね。
飲むウイスキーはアレですが、やはりこのグラスは
買いに行く価値はあるでしょう!

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今回はカクテルコンペ、最初から見ました。
カクテルって見た目というか、色の美しさは楽しみの
一つですよね・・・うむ。

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お食事もよかった。柏産の鶏が美味くて、
なんどもお代わりです☆

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登壇された佐久間さんがなんだかリラックスして
楽しまれていたようでよかったです。
いつもイベントの時は質問攻めに
遭われていたでしょうし(笑)

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そして、久光取締役も来られてましてね。
けっこう久光さんとお話できたのがうれしかったなー。
お話し上手ですし、取締役に上がられても、
接してくださる態度が変わらずフレンドリー。

竹鶴威相談役のお別れ会以来でしたが、
もっと気軽にお会いできるといいのですが・・・
次期ニッカ社長にご昇進されないかな・・と、
余計なことを考えたりもします(笑)

お帰りの際は、久光さんと佐久間さん並んで
お帰りでしたので、この後どこかで一杯・・
とかあったのかもしれませんね!

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2015年のウイスキーイベント…モダンモルトウイスキーマーケット。

さて、続いては9月のモダンモルト。
秋葉原UDXにて。

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お、モダンモルトって書いてあるで!

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ちょうど今がんがん飲みながら書いてますけど、
余市ヘビリーピーテッド。

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まぁ、美味しいんですけれども、
これが限定品と言われるとなぁ・・という。
これくらいを普通に出してほしい…

シングルカスク余市1988。樽番号から明らかに
わたし好みなロットとわかる。安心感。

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さすがに常備・・とまでは行かないけど、
イベントであれば必ず飲んじゃうシグネット。
しゃーわせなチョコレート感と香ばしさ。

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なんかKAVALANでえらいヴァウチャーのあったけど…
いろんな意味で手が出なかったね・・・

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ソリストバーボンはわかってる値段で
安定して美味しいので、好きなんですけども。

すごく秩父らしい…マロンの印象の秋のウイスキー。
やっぱり秩父と言うと、マロンとか金木犀。

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アイリッシュのティーリング23yo #8550
南国的ななかにも草の青い感。
芝生の上でマンゴー食べてるようなってな当時の感想。

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やっぱりクリーン&エステリーな御殿場。
これちゃんと持って帰ってテイスティングコメントを
書いたらよかったと後悔・・・

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もう羽生をいただけるのはこれが最後くらいかもね…

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イチローさんとこのハートの8。
火薬の香りが至福。 火薬ってクセになるんです…

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セミナーもガッツリしたのはなくって、
純粋に飲みを楽しめた感じはありましたね。
Bar Showが演出中心だっただけに・・・・
今後も一般人枠があるとうれしいなぁ。

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2015年のウイスキーイベント…Tokyo International Bar Show③ 土屋守氏・「マッサン」から見えてきた日本のウイスキーの原点。

さて、「マッサン」が終わって数ヶ月経っていましたが
マッサンの話題で、もうひとコマ。

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鳥居信治郎、竹鶴政孝の両氏に加え、
日本のウイスキーの歴史に欠かせない阿部喜兵衛、
岩井喜一郎両氏の話から。

「マッサン」の監修をするに当たって、
摂津酒造をどう捉えるか?というのは結構な難題
だったようなんですよね。

跡地は市営住宅になっていて、跡形もなく、
また創業者の阿部喜兵衛社長も謎の人物・・・・
ということで、相当「摂津酒造」を調査されたとか。

全く何も変わらないと美術さん・大道具さんが
セットの造りようがないと・・なるほど。

当初は洋酒といってもイミテーションの時代でしたが、
日本は関税自主権を取り戻し、外国の安価な
醸造アルコールに関税をかけることができるように。

そうなると、そのイミテーションの原料となる
アルコール値段が上昇し、利益が出なくなっていきます。

その時勢を見据えて、イミテーション製造の大きな
一翼を担っていた摂津酒造の阿部社長は、
やがてホンモノの洋酒が日本に入ると、
イミテーションは飲まれなくなる、その前に、
ホンモノの洋酒を作る体制がなければ・・!!

ということで、そこの白羽の矢が立ったの
若き竹鶴政孝だったんですね。が

なるほどね・・・関税との関係か・・・
そういう政治的な要素も絡んでいたわけなんですね。

にしても、若干二十歳そこそこの竹鶴氏。
如何に優秀とはいえ、会社の命運を託すか?
実は他にも理由があるんじゃないのか?

というところで、婿養子に政孝さんを考えていた
のは昨年のお話通り

結果的に摂津酒造では、ウイスキー造りはできず、
その理由は戦後不況ということになっているのですけれど、
土屋さんとしては、当然社長を継ぐはずの竹鶴さんが
阿部社長が現地に行って認めたとはいえ、
竹鶴さんを引き入れた岩井さん始め社内の空気は
そのまま居座れる雰囲気ではなかったのでは?とも。

そこで出てきたのが鳥居信治郎。実はあの当時、
あの規模の蒸留所を造ったのって、すごいことだったそう。
スコットランドでもそうはなかったそうですよ?

その後、摂津酒造は・・といいますと、
岩井専務が新たに養子候補を見つけてきて、
三代目阿部喜兵衛となり、そのお子である
四代目阿部喜兵衛氏がまだご存命とのことです。

しかし、岩井専務は経営方針が合わずに
摂津酒造を退社。大阪大学で教鞭をとられていたそう。
その教え子に、本坊蔵吉。

後に娘を嫁がせ、義理の息子になったその
本坊蔵吉こそ、マルスウイスキーを手がける
本坊酒造の創業者になるわけです。

そしてウイスキー事業を始めるときに
顧問として招聘され、かなりの高齢になっていた
岩井氏がウイスキーを手がける際に
設計プランの参考にされたのが「竹鶴ノート」。

そして巡り巡って、1985年。
政孝さんの養子、威さんの下にこんなノートが
あるけれども、ニッカさんではお持ちか?
と問い合わせがあったそうです。

初代の石和の工場長だった方が、娘さんとの
会話の中で、そんな貴重なものだったら
ニッカさんにお返ししたらどう、という話に
なったのだそうですね。
この娘さんこそ、玉利かおるさんだそうで・・

そして、ニッカさんはそこで忠実な複製品を製作。
今われわれが目にすることができる
竹鶴ノートのレプリカの原点がここにあるわけです。

ちょっと話は逸れるのですが、「マッサン」の中で
エリーさんの墓が蒸留所内にあったりだとか、
スーパーエリーの名前は、土屋さん的には
んなわけあるかいと意見したそうですが、
どーしてもやりたいということで、押し切られたとか(笑)

また賞を取ったのももっと先の話で、あの設定の
1960年代にそんな賞自体がないし・・・
ということで、やっぱり監修者の意見って
通らないんだなぁ・・と大河と同じことを
考えてしまいました(笑)

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2015年のウイスキーイベント…Tokyo International Bar Show② サントリー福與チーフセミナー

1日目、福與チーフのセミナーです。

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福與さん、ボリソンボウモア社への出向を除き
ブレンダーのお仕事が長いんだなぁ。

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そもそも響とは。創業90周年を祝うウイスキー。
ちょうど級別廃止になったタイミング。

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サントリーのロゴも「響」の字がモチーフに
なってたり、「人と自然と響きあう」という
企業理念にもなってたり、思いが深い字だと・・・

そもそもはエイジ表記はなかったそうですが、
結果的に17年が最も若い原酒だったということで、
エイジ表記をするときに17年が元の響を
継承するようになったんですね。ほぅ。

元の響きのほうが美味い!という話はけっこう
ききますけれどもね。

今更ながらですが、サントリーの歴史。
山崎蒸留所の蒸留開始は、1924年11月11日。

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11時11分11秒に、蒸留液が出てきた?
という伝説(笑)に基づき、毎年11時11分11秒に
構内の神社で執り行われる秋の大祭の祝詞が
始まるというコダワリがあるだそう。

ある意味、すごいスライド。サントリーでここまで
ニッカとガチで比較した年表が出てくるとは。

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ウイスキー造りへの思いの違い。
まぁよく知られた一端ではありますが・・・

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ニッカのWebを出して来てるのがすごい!

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サントリーの歴代ブレンダー。
佐治敬三社長時代に、チーフブレンダーが
1960年代後半に設置されたそうな。

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不思議なことに歴代チーフは12年差くらいで
均等に年が離れているんですって。

未来に向けての準備。

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ワイン樽。個人的に山崎のノンエイジのこともあり
あまり好みではないのですけれどもね。

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なんとなく白州のワイン樽を期待したいところ。
樽の経歴もいろんなパターンもありますけど
最初からワイン樽の原酒が気になりますね。

というのも、シェリー同様、ワイン樽もけっこう
ワインの要素が印象が強く出る印象があって
ガツンとワイン来るとどうなるのかなって。

白州への連続蒸留機導入。

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いよいよグレーンも作りわけの時代。
白州で実験、量産体制に入ると知多・・・
という位置づけかな?

福與さんが白州グレーンでやりたい!
とおっしゃっていたのはこの3点。

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原料、度数調整、プロセス融合・・・
プロセス融合ってなんだ?と思ったら。

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なんだカフェモルトか。まー、ニッカが
やってるわけだから、一度は試してみるんだろうな。
白州グレーンはちょっと楽しみだな。

さて、また少し変わって山崎のブレンダー室。
今のマスターブレンダーからガラス張りになったそう。

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これ立ち仕事なんだよなー。ニッカも確かそうだった。
あえて座らず、立ってやったほうがいい
ってなメリットがあるのかな?

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こういうW型のテーブルのティスティングルームも。
動かずにティスティングに必要なスペースを
確保するようなカタチ。やっぱりここも立ち。

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更に奥にはBARスペース。いわゆる消費者目線で
競合他社の製品を含めてウイスキーがあります。
へぇ!こんなこともブレンダーさんがするんだ!

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音楽流れていたり、いわゆるティスティンググラスでない
さまざまな形状のグラスで「楽しむ」場。

ブレンダーさんが競合と価格帯を意識して、
自社製品と比較するわけですよね。
ものづくりの領域だけど、さすがサントリーらしい、
マーケティングを意識しているなぁ、という印象。

さて、最後に響ジャパニーズハーモニーの話題。
既に完成されているラインナップの「響」に
もう少し手の届きやすい価格に踏み込めないか?と
いう挑戦で生まれた1本。

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12年以下の原酒も使いながら、熟成した華やかな香りを
キープするにはどうするんだと。そこでキーに
なったのは、グレーンなんだと。

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モルトよりも熟成が早いグレーンの熟成力を活かし
熟成力の強い小さめの樽に詰めた中から、
これなら!という原酒を中心にブレンド。

グレーンはブレンテッドの構成原酒の割合としても
高いですから、全体に熟成力が効いてくるんでしょうね。
もちろん高酒齢のホワイトオーク樽がないと、ですけども。

個人的にはこの値段でミズナラ感があるなぁ!
というところが気になっていたんですけど。
主に余韻担当ということで。

最後にマリアージュ。とにかく低価格で響を!
ということでつくったそうなんですけど、
意外と何でも合うで!というご紹介。

和食にも合うジャパニーズハーモニー。
なんというか、邪魔しない感がありますよね。

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ソースにも美味く順応。あまりソースモノを
ウイスキーで飲んだことはないけども。
濃すぎず薄目がいいらしいですね。

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まさかの…うどん×響ジャパニーズハーモニー。
ちょっと一回やってみたいな!

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セミナー後は、富田晶子さんのフレア
バーテンディングを堪能。

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ここ数年恒例でしょうかねぇ。
今回は来場者もステージに呼ばれて、
なんかやって張りましたが(笑)

さて、翌日は土屋守氏のマッサントーク。

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2015年のウイスキーイベント…Tokyo International Bar Show①

さて、続いては5月のBar Show。
これがまぁなんとも・・・な感じでしてね。

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2日間あったんですが、まぁ・・知らないモノを飲む
という楽しみに薄い会。人に会ったりする
楽しみはありましたけどもね。

何気にこの日がディープブレンドのお披露目でした。

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新樽系にピートなディープブレンドで
わたしの好きな方向。コンビニならぶ手に入りやすい
ウイスキーになっていますよね。

これの180mlが手軽にコンビニで買えると
最高なんですけども。

まー今回はパスだなという感想のBar Show限定、
駒ヶ岳2011年蒸留4年。この後ウイスキーフェスで
頂いた駒ケ岳は美味しいなぁという感じたんだけども。

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アチラはピーテッドだから、若さが隠れている
というようにもいえるかもしれないですね。

一方、Bar Show限定秩父にも若さは感じましたが、
今後の可能性は感じられた一品。

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本来ワイン樽に使うフレンチオークの新樽で
後熟2年、最初の3年はバーボンバレル熟成とのこと。
新樽なだけに樽感も豊かで、シナモンのような
心地よいスパイス感が素敵。

フレンチオーク新樽、一年目はスパイシーさが
もっと感じられるが、二年目からは香木様のアロマ。

最初からフレンチオーク新樽のもあるらしいですので、
秩父10年くらいが出るころのフレンチオーク新樽に
ものすごい期待したいところです。

今年のキリンブースで毎度頂いた・・・
富士御殿場モルト17年スモールバッチ。

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基本ベクトルは変わらないクリーン&エステリーだが、
やはりモルトの方が少しドシリした重さを感じ。

25年グレーンも安定した美味さです。
ウチにある緑のラベルと比較して飲んでみたい。

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まぁ、気になるモルトはこんなとこで、
後はのんべんだらりと飲んでた印象です・・・

レアなものに血眼にならずに、という意味では
気軽に楽しめたかもです。ただコンパニオン率が高く、
お酒の種類よりもお酒とは違う演出面に
使われるお金が増えるのかなお金が出てるのかな?
という気はしました。まぁ、こういうのもアリか?

事前情報で敬遠したウイスキー好きさんが多数いた一方、
明らかに新しい層が来場している感じがして、
今までとは違ったバーショウはバーショウなりの
存在価値は感じますね。自分に価値があるかはさておき。

2日間行ったのですが、1コマずつミニセミナーを。
1日目はサントリーの福與チーフから、
響ジャパニーズハーモニーのセミナーをば。

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2015年のウイスキーイベント…秩父ウイスキー祭。

さて、もう2015年もあと1日を切っている
このご時勢に慌ててウイスキーイベントを振り返る
今日この頃です。まず第一弾は秩父(2月)。

前日は蒸留所見学、昨年帰宅が超めんどくさかったので
見学の後秩父にお泊りして、ウイスキー祭りに臨みました。

見学の案内は吉川さん。吉川さんにご案内いただくのは
初だったです・・・!! モルトをむしゃむしゃ。

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ポットスチル。初溜釜(ウォッシュ・スチル)の
導入したときのお写真を見せていただいて、
色の違いにビックリ。秩父でもそんな変わるんですね!

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醗酵むくむくもしっかり。香りがいいので、
いい塩梅に欲張らないのが吉。

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コンチェルトで仕込んだニューポット。

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出荷間近のPEATED。あれUS向けなんですって。

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確かによく見たら750ml詰めになっとるわ。

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こっちのほうがわかりやすい。

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ポットスチル、純銅製というのもあって、
筐体自体を撮るのも楽しいよね。
貴金属ではないけど、美しくて絵になる。

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今日ももりもり生産中。

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どばどばどば。

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不良なんだったら、頂けませんか?
っていえばよかったかな。それとも再生するか?

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貯蔵庫。蒸留所によってアルコール感が
違うのだけど、秩父はけっこうするほうかな?

たしかミズナラ樽。漏れたところに
鼻を近づけてくんくんするなど(笑)

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秩父といえば、個人的にはチビダルが好き。
どんどん育て~

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見学会の後は、野外で手酌飲み会(笑)
それにしてもかっぱかっぱ、相変わらずの太っ腹ぶりで。

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せっかくなんで、普段飲めないモノ中心に。
イチローさんとこのニューポットは美味しいんだ。
ニューポット縛りなら、間違いなく秩父推し。

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秩父の市街地に戻ってきた後にお昼。
なにこのわたし得感・・といわざるを得なかった
舞茸ごはんに舞茸の天ぷら。 けっこう秩父って
舞茸の産地でもあるようです。

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午後はのんびり武甲正宗の酒蔵の見学に
もぐりこんでみたりだとか。

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「甲」の字のデッパリが短くて、武田?だとか、
武甲は武田甲府だな!とか、まぁめんどくさい(笑)
ことをつぶやきながら店内へ・・・(笑)

実際は武甲山に由来し、日本武尊が自らの甲を
この山の岩室に奉納したという伝説に
ちなむものだそうですね。関係ない(笑)

さてゆっくりお宿で武田・・いや武甲正宗を
お持ち帰りで頂いて、翌朝秩父神社へ。

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社殿も素敵なんですが、あんまりボーっと
見ていられません(笑)

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和馨。信濃屋オリジナルブレンテッド。

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実はこれ後に取っておこうと、その場では飲んでなく
飲みながらコメントしているんですけども。

間違いなくミズナラ主体なんだけど、実はそんな
思っていたほどミズナラが突出しているわけでもなく、
そしてかといってミズナラが弱いわけでもない。

そこのところはまさにブレンテッド。
林檎飴、和三盆のカステラ、トーストonメイプル。

このトースト感なんていうのは、グレーンから
来ているのかもしれないですね。

てっきり、和が馨るとはてっきりその和はミズナラ、
と理解していたけど、どうも違う気がします。
ミズナラをリーダーにしたチームの力。
ミズナラどかーんもいいんですけどもね。
今となっては買っておいても・・という公開が若干。

あと、秩父ですがBlackadderかePowerか
というところでしたが、個人的にはePowerに軍配。

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やはり秩父らしいと感じるのは、秩父の樽感。
金木犀やマロンのような秋を感じるモルト。
少し奥に塩昆布のような雰囲気。

交互に頂くと、和響の優しさがまた天使のように
優しく包まれる感覚がたまりません。

その他、ブルーベリー感がすばらしくて
好みだったLinkwood。

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あとは珍しくはないけど、Amrut fusionが
よかったですかねぇ。機会があったら普段飲み用に
入れてもいいかな?と思いました。

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秩父ウイスキー祭のボトルは当選せず。嗚呼。

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このくらいが印象に残ったかなぁ。

バグパイプといえば、ザ・ロイヤルスコッツマンの
小貫さんですよねー!

Photo

ちょうどマッサン絶賛放映中だったこともあり、
麦の唄 バグパイプVerも演奏してくださいましたよ☆

小ぶりではありましたけど、まだこのときまでは
よかったんですよね・・・・

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平成27年度武田家旧温会秋季研修 ⑤乾徳山恵林寺

さて、恵林寺です。
そりゃぁ、信玄公好きを公称するくらいですから
何度も足を運んだお寺さんではあります。

しかし、ご住職御自らのご案内で、
境内を回ることはそうそうあることではないでしょう。
この日は、ご住職の古川周賢老師の案内です。

釘隠し。気持ち、花菱を菱ひとつひとつを
ちりばめたように見えるのは気のせい?

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幕末から明治にかけて妙心寺の高僧である
越渓守謙(えっけいしゅけん)禅師の書いた
「快川道場」の揮毫です。

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臨済宗妙心寺派に属する恵林寺は、明治38年(1905年)に
家康再建の諸堂を焼失、その再建に当たって当時の住職
篴川元魯(てきせんげんろ)老師の師匠に当たる
越渓禅師の書が恵林寺には多いんだそうです。

その篴川禅師が恵林寺住職に就任される際の儀式に
際して、山岡鉄舟(鐵太郎)の書いた書も。

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鉄舟は、天龍寺管長たる滴水宜牧禅師から
印可状を与えられる関係で、滴水宜牧禅師にとともに
この恵林寺を訪れたのでしょう。

こちらは狩野派の一つ、駿河台狩野家二世の
狩野洞春の筆になる涅槃図。

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このお釈迦さま、ちょっと手が込んであって、
薄く金で裏から塗って、その上から描くことで
日の光に仄かに輝きを放つようになってるんですって!

そして臥床の四辺にあったという、
四双八本の沙羅樹。釈迦入滅後をとたんに枯れてしまった
という故事を表現するよう、緑が青々している樹と
白く枯れた樹が並んで描かれているのも興味深いです。

相当な名品、おそらく柳澤家の寄進ではないだろうか?
とのことでした。傷みが出てきたのでもう少し
したら修理に出すそうです。

武田菱の障子の向こうに見える恵林寺の庭。
ただもともとの夢窓疎石国師の庭園ではなく、
いわゆる江戸時代の大名庭園の様式に変わっていると。

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元は小さな庭だったはずとのことで、
伽藍の位置ももう少し今より前にあり、
大きくしていくために下げたのではないかとのこと。
庭園のどこから見るか?見え方の違いからの推測。

実際、信玄公・勝頼さんはじめ、柳澤家も
かなり手を入れているそうで、発掘調査をすれば
その時代の遺構が出てきたり?するのかもしれません。

また現代の伽藍はかなり底上げされて建っていて、
本当は排水が悪いんだそう。今はお庭になってるあたり
まで本堂があるとこんなに底上げしなくてもいいのでは?
というのも、ご住職の推察の理由の一つでした。ナルホド。

本堂の前のこの床の秘密。元来仏さまをお祀りするのは
本堂ではなく仏殿。ここではその仏殿の床である、
敷瓦を模したものなんだそうですよ。

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そこで仏さまに最大の敬意を払うための所作、
五体投地のための茣蓙があるわけです。

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ちょうど4月の信玄公忌法要でも、
ご住職がされておりました、あれです。

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あの掌を持ち上げる所作は、お釈迦さまの足を
持ち上げるように・・という意味なんだですね。ほぅ。

そして、法事が終わるとここで食事。
畳を敷いてお釈迦さまに後ろを見せないよう、
屏風を立てて、奥に住職が座るのだそう。

天蓋。本来は禅寺にはないものなんだけど、
再建後に廃仏の後で残った部品を組み合わせて
つくったものではないか?とのこと。

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そしてその奥。ここも素敵な武田菱の部屋。

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「拈華寶殿(ねんげほうでん)」の扁額。

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明治大火以前、二階建の法堂(はっとう)拈華寶殿が
あったそうですが再建ならず、昭和になってから
この間を「拈華寶殿」として、名を残したそう。

ちなみに「拈華」とは「拈華微笑」の故事に由来し、
大切な建物に付く名前だそうです。

実はここ、焼失前の明治天皇がお泊りになった
ところでもあるそう。大切な建物の名前をここに残そう
としたのも、むべなるかなという感じがします。

立派な釈迦如来像。これも柳澤家の寄進?

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さて、お外に。前から気になっていた以前の
でっかい武田菱が付いている鬼瓦。

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これ、てっきり家康再建時のものかと思っていたら、
そうではないそうで、こんなに反ってはなくて、
本堂自体ももっと小さいお堂だったそう。

火災で燃えて再建した際に恵林寺山(扇山)の絶壁を
イメージしてつくられたのだそう。

こちらは勅使門。その名の通り、勅使参向の際に
その出入りに使われる門。

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勅使といえど、仏の世界では下座というわけです。
ここで勅使門の位置でわかるお寺の位置づけを学びます。
妙心寺・大徳寺のような勅願寺では、勅使門が
真ん中に作られるのだそうですね。

京都五山・鎌倉五山は幕府の寺。
妙心寺・大徳寺のような勅願寺は天皇のための寺。
そして紫衣を与えるのは皇帝(=天皇)。
かの有名な紫衣事件の背景です。

この恵林寺は、以前は鎌倉五山円覚寺派から
信玄公が自らの菩提寺と定めた際に、
妙心寺派に変えているんですよね。
このあたりの信玄公の意図も詳しく知りたいなぁ。

いつも通ってるこの出っ張った部分、
勅使の厠なんだそう。そばに寄れないように
という防犯上の理由なんだろうなぁと。

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ある意味、信玄公の「山」と同じ
発想なのかもしれませんね。

そして、武田不動尊に拝謁。今日は特別ということで、
間近でお不動様にご対面させて頂きました。

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このお不動さまの建物自体は特に意識を
していなかったんですが、信玄公御廟として建てられた
というのを初めて知った次第です。
ここに信玄公御位牌もあることにも気付かず。

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しかも、奥の信玄公墓と同じく
武田ゆかりの皆様の御寄付で建立されたのです。

ご住職のお話によると・・比叡山焼き討ちの際
天台座主親町天皇の皇弟である覚恕法親王が
信玄公を頼って甲斐に逃れますが、匿われた際に
信玄公に権大僧正を与えています。

通説には、三十歳過ぎの頃に仏師康清を招き、
彫らせたことになっていますが、ご住職は
比叡山焼き討ち後の、信玄公最晩年期とお考えのよう。

権大僧正の位を授かった記念に自らの大僧正としての
僧形の寿像を彫らせる予定が、予定が変わって
不動明王になったのではないかと・・・
しかもこの不動明王、胸毛があるんです。

通常、不動明王は憤怒の激しい形相ではありますが、
体つきは幼く表現されるそうですが、胸毛があるんです。
これまさしく信玄公の生き写しだからでは???

すでに得度して剃髪しているわけなので、
通説の三十歳過ぎの頃ではなく、再晩年期とするなら、
胸毛を像の胸毛に塗りこんだということになりましょうか。
それとも成慶院信玄公像のように、髪があったのでしょうか?

しかも、信忠の恵林寺焼き討ちで失われたのではないか
と言われていたのですが、どうもそうでもないらしく。
造り方の時代などからは戦国時代と比定されているみたい。

さらにお尻の部分に穴があって、漆が入ってるそう。
近々内部をCTスキャンにかけるそうです。
新しい発見があるといいな・・・・!!

ともかく通例、墓前に御霊屋を置きその御霊屋に
生前の像の安置し拝礼するわけですが、
それに倣うと、まさにその生前の像=武田不動
ということにもなるわけで、百回忌の際に
墓と御霊屋を武田旧臣の浄財で再建したというのも、
武田不動こそ信玄公の生き写しという認識を
当時の住職、あるいは旧臣がもっていたのかも。

そして、信玄公墓にもお参りします。

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さて、お参りを済ませた後は、信玄公宝物館。
以前から、墓石を建てる際の寄附一覧である
武田信玄百回忌奉加帳に興味が出てきていたんですが、
信玄公霊廟の寄付記録もあるんだ、と見つけてからは
そちらばかり見て、後ほとんど見れないほど(笑)

さらに百五十回忌に合わせて修繕する際にも
寄付を募ってる様子でこちらも記録があるんですよね。
墓石のための寄付もそうだけど、寄付された方
お一人お一人お名前を確認したい・・・

展示されてあった信玄公廟の寄附の記録には、
以下の方のお名前が。

川窪新十郎、川窪七郎右衛門、川窪與左衛門
川窪三左衛門、土屋民部少輔、土屋但馬守、
内藤帯刀、内藤左京亮、遠山主殿頭、奥平大膳正、
真田右衛門佐、真田伊賀守、三枝摂津守…など。

このうち、川窪姓の方は川窪信実の末裔の方でしょうし、
土屋民部少輔は土屋利直(土屋昌恒孫、久留里藩二代藩主)、
土屋但馬守は同じく昌恒孫の数直(土浦藩初代藩主)かな。
真田伊賀守は、沼田の真田信俊(信利)。

沼田藩の事情を考えると、真田信利がこんなとこにも
金使ってたのね…というのは微妙な感じもしますけど(笑)

百五十回忌の修理字に名前が見えるのは、
武田刑部、武田与佐衛門、武田織部、真田弾正忠、
内藤備後守、保科弾正忠、朝比奈新十郎など。

保科弾正忠は、上総飯野藩五代藩主保科正寿?
真田弾正忠は松代藩四大藩主・真田信弘かも。
しかし、信玄公ゆかりの寄付帳に武田の三弾正の子孫が
また弾正忠を名乗って名前を連ねてるんですね・・・!!

武田与佐衛門、武田織部は詳細不明ですが、
武田刑部とは、逍遥軒信綱と関係あったり?なんて
思ってしまいます。

いやー、これ詳しく公開してくれたら楽しいだろうな…
というところで、今回の研修終わりです。
見学できたものもすばらしいものがたくさんですし、
お会いする方々にもお見知りおきいただいて、
話が弾んだこともうれしいことでありました。

和渕武田ゆかりの方とも再会できましたし。
この方が仙台市博物館に武田家文書を寄託されてるそう。
一度専門家に詳しく読み解いてもらいましょうよ!
って、提案してみたりだとか(笑)
たぶん放置してても、仙台市博物館が注目はしなさそう。

それから、龍宝系統が武田宗家だけではなく、
信興弟の家系があるらしく現宗家祖母方がこれに当たるだとか
また龍宝長男信道弟の家系も聞いたことがあるとの話も。

まだまだいろんな末裔の皆様がいらっしゃるのでは…
とワクワクしてしまいますね!

そういえば、今に家を残してくださった龍宝さまの
菩提寺である入明寺って行ったことないや。
南甲府駅すぐそば。行ってみないとね!

龍宝さまは、生来温厚で一門の和づくりに
腐心されたと聞き及びますが、詳しいお人柄が
判るといいのですけどね・・・

今回の旅に当たっては、旧温会事務局の皆様には
心から感謝申し上げます。有難うございました!

ここまで、二日目④~⑤の様子は、武田家旧温会
公式Web
でもどうぞ!

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平成27年度武田家旧温会秋季研修 ④菅田天神社・雲峰寺。

翌日は、菅田天神社。

そう、楯無鎧ですよ!昨年見られなかった
幻の・・・・なんですが、やはり傷みの為
湿気が厳禁とのことで、この雨の日では・・
NG・・・おおぅ。

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とりあえずお参り。

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堅く閉ざされた扉・・・解説の言葉も
こころに届かないほどの大ショック。

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この楯無鎧、普段から躑躅が崎にあって・・・
と思いがちですが、実は武田家が治めた時代から
菅田天神社に普段は保管されていたのだそう。

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府中からみて鬼門の方角にあることから、
鬼門封じのためか、ここに保管。
甲斐源氏加賀美流の於曾氏に守らせたといいます。
戦国期には於曾氏に代わって板垣氏が鎧の守護。

いずれにしても大事ある時は府中まで
出納を命じられたそうであります。

ホントはなぁ・・もっとテンションアゲアゲで
見てたんだろうなぁ・・ま、気を取り直して。
生きてる間に、楯無鎧を見れたらいいな。

続いては、雲峰寺。昨年に行った時も雨
雨の雲峰寺しか知らない・・・(汗)

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けっこうざぁざぁ降りです。
武田菱のほか、菊花紋と五七桐の謎。

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そして徳川葵。

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天皇家、豊臣家、徳川家になにかの
ゆかりがあるんでしょうねぇ。
Webみてもそのあたりは記載がないのですが。

本堂の廊下に上がらせていただきました。

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象の彫刻。たぶん当時は象は日本に入ってきてない
と思いますので、虎と同様想像や中国からの
情報で作られたのでしょうかね?

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書院の茅葺は修繕中。

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本堂の奥の茅葺の建物はなんだろう。

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そして宝物殿。御旗と孫氏旗・諏方大明神旗を見学。

文字のクセから同一人物が書いたか、あるいは型取りして
量産してたのかな?と思ってたんだけど、
よく見るとそれぞれに違いがあり、やはり一点一点、
書いたものではないかなーと思いました。

けっこう払いや留めといったところに字のクセが
あって、同一人物感がわかりやすい。誰が書いたか、
特定できればいいんだけどねぇ。

そして、梵字で囲まれた諏方明神旗
仏の名前を梵字で記しているらしいというのを
初めて知りました。なるほど。

あと何気なく置かれていた勝頼さんの書状も。
今年になって出てきたみたいで、特に解説もなく
一緒に見ていた方がこれなんだろうね?とおっしゃって
初めて気付くくらい、そっと置かれていて。
真贋もそうですが、書かれてある内容が気になります!

ここでお昼休憩。甲州完熟屋
ここがいいお店でしてねぇ!

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ほうとうが美味い!ここもリピートしたくなります。
次の甲斐オフ会でぜひ使いたいですね。

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まいたけ天ににやり(笑)

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そしてプリンも絶品。ご家庭にお土産で
お買い上げになる方もいらっしゃいました。

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ここではお席が葛山信貞殿(信玄公六男)の末裔
という方と隣になって。わたしが尼崎武田のことを
存じ上げていることに驚いてられました。

少なからず尼崎武田と交流があるそうで・・・
尼崎武田の方ともお近づきになりたい。。
武田家の系図はあるとのことでしたが、
どうも善念寺の過去帳を指すようです。

戦災で焼けた善念寺、なんとかこの過去帳だけは
持ち出されたのでしょうね。往時の写真とか
あればいいのにな・・・

あと、余談ですがわたしの父とあまりに似た
経験をされていたのもあって話が弾みました(笑)
しかし、こういう皆様とお話できるというだけでも
この会に参加した甲斐があるというもの・・

さて、最後は恵林寺です。
ご住職の古川周賢老師の案内の栄誉に浴します。

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平成27年度武田家旧温会秋季研修 ③武田神社。

さて、この日最後は躑躅が崎館・武田神社。
拝殿に昇殿し、正式な参拝をさせていただきます。

御供物頂きながらしばし寛ぎ。
毎年例祭のときに頂いていますけども。

P1160531

何気に素敵じゃない?と個人的に悦に入っているのは
お茶の底に武田菱が沈むその上に、武田菱の電灯の反射。
武田菱 on 武田菱ですよ(笑)

P1160535

さて、拝殿から。あちらにおわすは、
武田の大神様(武田神社では信玄公をこう申します)に
玉串を奉納させていただきます。

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なんだかんだ言って、菱和殿の奥ってお初。
祈禱を希望される方はこちらに通されるようですね。

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天井には現在の山梨県内で見られる、
草木禽獣やキノコを描いた天井画が描かれています。
百年経ったときにひょっとしたら珍しくなってる
動植物もいるかもしれないですね。

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武田神社創建百年を見越して、次の百年に
ということかも。

赤い花菱は陽、銀の花菱は陰。

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それがしは蒼き月影の如く、御屋形様は
燃ゆる日輪の如し・・・・という
大河『風林火山』の出だしを思い出します。

四つの端には、風林火山は例の旗のフォントそのまま。
「風」は動物。あれは甲斐犬とカモシカかな?

P1160561

「林」は昆虫。オオムラサキ、クワガタでしょう。

P1160564

「火」は鳥。鳥はなんだ・・・??

P1160562

「山」は魚。岩魚、山女。

P1160563

いずれにもキノコが描かれていますが、
食物連鎖の一端を担う菌類を代表して描かれているとか。
食物連鎖かー。神社になかなか面白いテーマです。

菱和殿を退出時になかなかお目にかかれない、
本殿のお姿を。神社って拝殿が見えるところであって
本殿はなかなか・・というのが神の領域かな。

P1160566

ちょっとうれしいのがこの武田神社盃。
実は甘酒を振舞っていただいたのですが、
盃も頂いてもいいとのことなので!なので!!

P1160979

この日の宴会では、武田宗家高家武田家17世と
少しお話ができてうれしかったですね。
お年がわたしと近いこともありますしね。

お父上で宗家16世はよく会にはお越しになるのですが
どうしても今回は難しいということで、17世が
お越しになったようでして。

また甲斐に強い想いをお持ちで東京でお生まれですが
山梨でお勤めされていることもあって、
強い御意思のある方だなぁという印象です。

ここまで、初日①~③の様子は、武田家旧温会
公式Web
でもどうぞ!

翌日は・・菅田天神社。ここが最大のポイント…
のはずが・・・・あぁ。

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平成27年度武田家旧温会秋季研修 ②法蓋山東光寺。

東光寺というと、義信事件の悲しい結末の舞台
としてしか知らなかったのですが、甲斐有数の古刹。
ここでもまた新羅三郎義光まで遡ります。

1121年、国家鎮護・仏法興隆の祈願所として建立。
鎌倉建長寺の開基である蘭渓道隆が甲斐に配流されると、
当寺に入り、禅宗寺院としての歴史を歩みます。

信玄公の時代になると、京都五山・鎌倉五山に倣い
甲府五山が定められ、そのひとつに名を連ね、
信玄公の帰依厚く、諸堂が整備されたそう。

武田滅亡の折、恵林寺に火を放った織田軍は、
東光寺にも魔手を伸ばしますが、諸堂が灰燼に帰す中
仏殿だけは兵火を逃れ、また1945年の甲府大空襲でも、
奇跡的に焼け残ったそうです。

奥に見えるのがその仏殿。

P1160490

枯山水に浮かぶ柑橘はなんなんでしょう(笑)

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武田菱盛りだくさん。

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緑でできた武田菱にはビックリ(笑)

1944年当時の山門。この頃の山門は仏殿同様、
信玄公の整備当時のものなんだろうな…残念だ…

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とりわけ目を引く形相の信玄公(笑)

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柳里恭(りゅうりきょう)と号した柳澤里恭の作品。
大和郡山藩家老の柳澤保格の次男。

庭園は蘭渓道隆の手によるもの。
以前は奥から水が流れていたそうですけど、
道路整備で水脈が絶たれ、流れが涸れてしまったそう。
水の流れが無くなり、池も淀んでしまったようで…

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確かに解説にあるように、日本様の庭園とは違い、
岩石を多用した中国式の庭園。
蘭渓道隆は南宋から高僧でしたものね。

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こちらの石が亀に見えるともっぱらの評判(笑)

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お、こちらは?

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城好きにはおもしろい矢穴跡ですね!
敢えてこれを見せ付けるように鎮座してます(笑)

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そして奥に回って、義信さんの墓前に。
元は真四角の石のみだったそうで、
上の宝塔部分は後世、哀れんだ地元の方が
建てたものだそうです。

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脇の小さな墓は不詳ながら義信さんのお子さんかも、
とのことです。享年30ですからお子がいても
おかしくはない年ではありますね。

戒名「東光寺殿籌山良公大禅定門」
「籌」は謀を意味するとか・・そして
院殿でも大居士でもない。

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戒名は、その人の人生と亡くなった時点での評価を
意味するといいますが、まさに・・・ですね。

諏訪頼重との比較をしちゃうとなおさらです。
「頼重院殿一気道供大居士」

P1160524

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近くには柳澤吉里殿とその幼くして
亡くしたお子の墓も。

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さて、お次は武田神社の正式参拝。
馴染みある御社に背筋を伸ばして向かいます。

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平成27年度武田家旧温会秋季研修 ①三守皇山大聖寺。

さて、11月の話。ここ数年で懇意にさせて頂いている
武田家一門と家臣末裔で結成された
「武田家旧温会」の研修の旅に参加させて頂きました。

思えば、一昨年前に一般人にも研修の参加を
呼びかけてくださって
、それに応募したのが始まり。

ある思いがあればチャンスは向こうからやってくる、
それを引き寄せることができた・・なんてことは
往々にして聞くことですが、このツナガリは
わたしにとって、引き寄せることが出来た幸運と
いって間違いないひとつであります。

ということで、研修会は1年ぶりの参加。
「武田神社正式参拝と武田家重宝を巡る旅」
と銘打つ今年の研修会、まずは通常は非公開の
身延・三守皇山大聖寺へ。

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身延は日蓮宗の総本山・久遠寺があり、
ほとんどのお寺は日蓮宗なのですが、ここ大聖寺は
真言宗醍醐寺派、信玄公とも縁の深いお寺です。

すべての甲斐源氏の源、新羅三郎源義光
お手植えとされるケヤキが鎮座。

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幹の部分はかなり抉れていますが、
それでも生き続ける脅威の生命力ですね。
ただ、義光が甲斐に赴いたかは謎ですが・・・

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やはり甲斐南部ということで、加賀美遠光の影響か
三階菱が目立ちますね。

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本堂入母屋の彫刻がすばらしい!!

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アップで。王の字の三階菱の奥に、
梵字が見えますね!

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そして非公開のお堂に上がらせていただきます。

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立派なご本尊、大聖寺不動明王が御鎮座。

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お不動様の近くには武田家累代のご位牌。

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このお不動様、御鎮座の由来がすごくてですね・・・

滝口武者として内裏の警護に当たっていた
加賀美遠光が弓の名手として病に倒れた
高倉天皇に召されたそうな。

鳴弦の儀を以って不動明王に祈願。
遠光は見事、高倉天皇の平癒に成功。
この功により、褒美として当時の清涼殿に
安置されていた弘法大師作の不動明王像を拝領、
今眼前にあるお不動様がこの像というわけです。

間違いなく清涼殿にあったままだと焼失間違いなし。
遠光が甲斐に持ち帰ったことで、今に伝わる
といっても過言ではないでしょう。

正面から失礼いたします。

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加賀美遠光の子孫たちは三階菱を家紋することが
多いようですが、特に遠光は三階菱の由来になった
「王」の字をつけていて、道理で・・と思いました。
それだけ遠光ゆかりなわけですよね。

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もともと、嵯峨天皇の発願で弘法大師が造ったそうで、
嵯峨天皇の時代に疫病が流行、帝自ら金泥で
般若心経を写経され、弘法大師がこの不動明王に
祈念して読誦して疫病を退散させるなど、
この不動明王は何度も朝廷の苦難を救ったということで
高倉天皇から寺号である「三守皇山」を賜ったとか。

また大檀越として、今でも加賀美姓の方が
いらっしゃって、ゆかりある方々に守れられた
お寺なんですね・・・

もちろん、信玄公の時代にも厚い信仰の対象で、
甲府駅前の有名な信玄公像のモデルとなった
肖像が残されております。こちらも非公開肖像。

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信玄公木造も安置。

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このほかゆかり深い、源義光・加賀美遠光の
像も並んで安置されています。

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外には元義光墓とされ、今では三社天神宮として
1808年にゆかりの三公を祭る廟が。

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信玄公と大聖寺の縁として、柿の話があるそうです。
甲陽軍鑑の信玄公の人材活用の考え方を示すものとして
有名な柿の話がありますが、この柿はここ大聖寺に
植わっていたものだそうです。今では枯れてないそう…

そして柿の話はもちろん知っていたのですが、
そこに至るまでのくだりは初めて知りました。

この柿の木、御所柿という甘柿で近年は幻に
なっているそうですが、信玄公が大聖寺に参詣の折、
美味しいと絶賛されたそう。

そんなに御屋形様がお褒めになるなら、渋柿は全部
伐ってしまい、皆この御所柿にしましょう
と言ったところで、あの言葉が出てきたんですね。

信玄公曰く、渋柿には渋柿なりの使い道を活かすべきだし、
だからといって今渋柿を継いで甘柿したものを
伐らなくともよい。人間の使い様も同じであって、
人に応じた用い方をしなくてはならない、と。

まさに適材適所でありますね!

さて、もうひとつのエピソードが信玄公の礼状。
大聖寺は戦勝祈願の寺に指定された寺のひとつで、
かの第四次川中島合戦後に、信玄公が大聖寺宛に
認めた書状と短刀が残されています。
袈裟もあったそうですが、失われてしまったそう。

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内容を頂いた資料から抜粋します。

今般信州川中嶋合戦之刻、薄氷を踏むが如し。
萬難を逃れしは尊師御祈禱の丹誠、
ぬきんでられし処、既に勝利全く終わりぬ。
不動明王加護のためと、ここに安堵の思いを申し述べ候。
よって五条の袈裟、半装束の糸房(=数珠のこと)
ならびに御劔を寄附する。尚帰陣の節、日ならずして
謝をあらわし申すべく候。陣中不備。

永禄四年酉歳九月十日
    大僧正信玄(花押)
 大聖寺御坊中 

9月10日というと、決戦のまさにその日。
というのと、個人的には「大僧正信玄」の文字が
崩し字であること(信玄公は楷書に近い理解)、
花押と「玄」の字が重なっていること、
また署名に「大僧正」と付けているのは初見。

P1160466

というか、大僧正と称すのはかなり先のはずでは?
という気がしたんですけども・・むむ。
原本ではなく写しかもしれません。

短刀。一度焼けたのか、保存状態は
よくありませんね・・・

P1160458

ただし、梵字が彫られているのは
しっかり確認できます。

P1160459

短刀を収めた鞘。

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さて、最後にお不動様に一礼して、
後にいたします。

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とそのとき、ふと上を向くと見事な龍が!
天井の龍というと京都・天龍寺あたりが有名ですが
こちらも負けておりません。

P1160474

さて・・・お次は東光寺。
信玄公嫡男義信殿、諏訪頼重殿のお二人が眠ります。
ある種、信玄時代の陰部のひとつである
義信事件と諏訪家ゆかりのお寺です。

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甲斐城攻めリベンジ2015!⑤勝沼氏館

さて、最後を飾るのは勝沼氏館。
一般には、あまり知られていないかもですが、
武田信虎の弟、勝沼信友の屋敷。

武田信縄・信虎(当時信直)vs油川信恵の抗争に
小山田越中守(信茂の祖父)も加担。
小山田を信虎が屈服させた後、対小山田の備えとして
弟である信友を勝沼に配し、勝沼姓を称したのが始まり。

勝沼信友が北條氏綱との戦いで戦死した後は、
嫡子信元が継ぐも、勝沼には今井左馬助信甫が入り
勝沼氏を称したそうで、信元は武田姓を許されていたとか。

1560年の勝沼氏謀叛の勝沼氏とは、この勝沼信元を指すか、
勝沼(今井)信良(信甫嫡子)を指すか、
議論が分かれているそうであります。

まぁ、いずれにしても有名人ではないのですが、
館はかなり見ごたえのあるものでした。

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北東隅の土塁と壕。かなりの深さと規模です。

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左に目を遣ると、東門。

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まだ9月なのでけっこう茂っているのと、
大量の蚊が襲ってきて、エライ目に遭いながらも
この圧巻さにきてよかった!と実感。

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東門には土留めの石垣が見えます。
当時からあったのかは不明ですが。ちょっと立派過ぎ?

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何せ石が大きいですし・・・参考までに
要害山城本曲輪奥の土橋の土留め石積をば。

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さて、東門付近から壕底に降りてずんずんずん。

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さらに激烈さをます蚊軍の攻撃・・・!!

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たまらず北東隅の土塁を直登して蚊軍を振り切った!
土塁からみた北側の壕の様子。深い。

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内側と比べてもそこそこあるよ。

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土塁上を歩く。

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北西側には不思議な壕の二重化。

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単純に内側に壕って?とみると不思議なんですが、
現地案内板を見てみるとその意味がわかります。

P11300412

南側に武者溜まりという内枡形構造があり、
土塀などで仕切られていたのでしょうけれども、
内壕があることで、武者溜まりの前に
外側の壕を渡る土橋の先の門との間にもうひとつ枡形、
外枡形を形成しているように見えます。

比較的浅いのと途中で切れているのは、
この北門の二重枡形を形成するためだけの目的で
つくられたような感じがしました。

内側から。あまり深くはないですね。

P1130044

武者溜まり。かなりの大きさがあります。
勝沼氏の従者もかなりの人数だったのでしょうか。

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屋敷跡には礎石の表示。

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さっき拡大を載せた勝沼氏館の全容図。
さすがに勝沼氏は一門衆なので大き目かもしれませんが
武田領国内の各知行地の本拠の屋敷を想像できますね。

P1130041

他にもいくつか屋敷跡と推定されるところは
ありますけど、ここまできれいに残っている屋敷は
それこそ躑躅が崎を除いて他にはないでしょう。

さて、東門から退出。東門奥の土塁上から。
ここも小さいですけど、石垣で出張った細長く
屈曲した部分がある意味、外枡形というか、
防衛ラインになっているようにも見えますね。

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また行ってもいいなぁ、これなら。
勝沼ぶどう郷駅から徒歩30分。うん、行ける。

近くに永田徳本の碑があるんだって。

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永田読本というと、信虎・信玄の二代に
わたって侍医を務め、武田家の滅亡後には
諸国を巡って、安価で診療してまわったという人物。

湿布で有名な「トクホン」の名はこの精神を
受け継ぐものとして永田徳本の名からとられたそう。

さて甲府に戻って、ここであむさん、
あんこさんとはお別れ。躑躅が崎館前で
降ろしてもらいました。ありがとうございます。

そして西曲輪中心に躑躅が崎をご案内。
西曲輪北虎口土橋や枡形、南西端土塁など・・

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しろうさぎさんの「居館跡でしょ?」イメージを
かっこいい!に変えられた
のは大きな収穫(笑)

最後は夕暮れの信玄公とともに。

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なにより新府城の藪藪が悔やまれます・・・
12月はキレイだったので、また皆さんと行きたいですね。
12月だったら真田丸の影響も薄れてるでしょう(笑)

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甲斐城攻めリベンジ2015!④水信玄餅~岩殿山城

さて、翌日。行き先は岩殿山城なのですけど、
夏限定の水信玄餅食べたくない?という提案が
皆様に受け入れられ(笑)一瞬韮崎へ。

金精軒韮崎店は、新府城がいちばん近いのだけど、
午前中には水信玄餅がなくなってしまう。。。
とのことで、やはり朝に行くべきだろうと。

水信玄餅の秘密。

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ちょっと食べづらくお配り用には適さない
信玄餅ですが、これなら!という寒天信玄餅
この寒天の成分を極限まで少なくして、
ほぼ水ときなこ・黒蜜つくったのが水信玄餅。

待つかなーと思ったら、そうでもなかったです!

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ドラクエのスライムみたいなぷるぷる。
水分が多いので甘さが上品で舌触りも含めて
楽しむ涼菓な感じ。ごちそうさまでした。

さて、引き返して郡内へ。来ました、岩殿山城。

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意外に思われるかもしれませんけど、
実はわたしもお初なんですよね。
武田家関連の史跡はこれまでから行ってましたが、
お城は近世城郭派なので、甲斐の城って
行ってないところがむしろ多いんですよね。

この岩殿山城、富士山を見る絶好のポイントみたい。
むしろ一般的にはこの目的で来る方が多そうです。
この日は雲がどんよりと覆ってましたが、
それはそれで神秘的な富士山の姿でしたぞ。

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どおおおおーーーんと聳える断崖。
岩殿山城って、ホントこのイメージしかなくて。

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近づくとさらに圧巻。岩櫃城の岩山もすごいけど、
こちらもすごい・・・

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ここから登っていくのが、まーつらいこと。
新府城での負傷もあるけど、やっぱり体重増がテキメン。
息切れ・・・うつろな目の先には、皆さんの先行く姿…

ホント決死の思いでようやくたどり着いた揚城戸。
岩と岩で構成された門で大手に当たる感じ?
南九州ほどではないにしろ圧巻。

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これって、冠木門の跡とかかな・・!!

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この岩と岩の挟まれた感じ、隊列がほぼ一列で突入する
しかなくて防御力はある気がするんだけど、
仮に小山田信茂が勝頼を受け入れたとしてですよ?
織田の軍勢を防ぎきれたか、けっこう微妙な気が。

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ここを突破すると番所跡を抜けて・・・

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長細い曲輪が続きます。

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帯曲輪から高低差が付いた部分に馬屋・三の曲輪。
ただ馬屋への侵入は極めて容易で、
敵軍の阻むのは難しいように思える。

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馬屋には非常に観づらい看板が(苦笑)

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内側(本曲輪側)の道も防御性は感じない…

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帯曲輪との高低差は割とあるんだけども。

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一段上のところは櫓台かな。

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そして二の丸方面へ進軍。

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ここもスッと進めてしまう・・・

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そんなここは倉屋敷・二の曲輪。

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本曲輪に差し掛かってようやくジグザグ。
正面の道は後からで、左に迂回させるほうが
当初の本曲輪への進入経路だろう。

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本曲輪は烽火台としての役割。

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ここまで遺構とその戦闘性という意味では
イマイチだったのだけど、搦手の尾根筋を切った
堀切×2はけっこう迫力のある遺構。

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キレイに刈れたら迫力が写真でも伝わるのに!
そして、コントみたいな「きゃ~」で壕底に降りる
しろうさぎさんがおもしろい(笑)

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しろうさぎさんのお姿の小ささから、
堀切の深さがよくわかるでしょ?

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んで、壕底。

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もいっちょ、堀切。

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こちらはすこし小振りかな?

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しかし、空湟(からほり)の看板が笑える。
東側の警戒はわかるんだけど、日常の生活通路って!
この尾根筋がどこにつながるというのだ・・・

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ということで、山城のお楽しみ遺構としては
この堀切くらいだったかなぁというのが本音。
これだったら、勝山城のほうがよっぽど守れる気が…

ということで、勝頼に撤退を進言したのは、
岩殿山城ではなく、勝山城なんじゃないかという気も。

確かに岩殿山城、揚城戸こそ守れそうな気はするけど、
そこだけなんだもんな…あと比高ね。
そして、岩櫃城に比べたら全然なわけですよ。

実際、勝頼が籠もって戦うとしたら、
当時、同盟国だった上杉にも近い岩櫃城を
選択すべきたったんだろうな、と思ってしまいます。

郡内の二城は籠もって戦って、織田勢を防げるか疑問、
その背後の北條とは敵対関係。いくら北條氏が
勝頼夫人だったとしてもね・・・

新府城の軍議で、

①嫡男・武田信勝は新府城での籠城戦
②真田昌幸は岩櫃城で籠城
③小山田信茂は自分の本拠(岩殿山か勝山か)で籠城

の三つの意見が出たそうですが、
勝頼が選択しなかったうち、①は後詰が期待できずアウト
と考えると、昌幸を頼り上杉の援軍を期待しつつ、
岩櫃城で籠もるのが上策と思えますね。

さて、しろうさぎさんの一部マニア向け画像も
しっかり撮れたことですし(笑)撤収しますかね。

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P1120996

入り口まで戻ってきて、やっぱりちょっと膝に
違和感があるということで、ナースでもある
あんこさんに傷口を診てもらい、消毒しておけば
いいんじゃないかとのアドバイスを。

そのときにわたしが腰掛けたのが、門の先に
見える岩。今後「日光腰掛石」として長く語りつが…
れるわけなやろ(笑)

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この後は、意外とよかった勝沼氏館。

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甲斐城攻めリベンジ2015!③獅子吼城・谷戸城

さて、この日はあと獅子吼城・谷戸城。

◆獅子吼城

獅子吼城の入り口に来て、いきなり「え・・・」
そっちいくんすか!といわれてハッとしました。

確かにはじめてくると、入り繰り脇の高台のほうに
行っちゃうかも、と。細い右脇の道に行きますからね。

さっそくデカイ竪堀発見で、ご満悦のあむ氏。

P1120850

一度しっかり見回っているので、個人的には
軽めだったのですが、やはりこの石積は画になりますね。

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蜘蛛の巣って光当たるとキレイんだ・・・
(ちゃんと城見ろ)

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◆谷戸城

つづいて谷戸城。昨年の棒道オフに続いて2回目。
とんぼが看板に止まる秋。

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ええ、これ壕!うそぉ!といわれながらも
北空壕を進んでいきます(笑)

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壕道をゆくしろうさぎさん。
ぜひこのテーマを頭で鳴らしながらご覧ください(笑)

P1120901

すとんと落ちる南竪堀。ここはいいでしょ!

P1120902

ここから帯曲輪方面に上がる。

P1120904

帯曲輪。実はこの底に障子壕のような
溝状遺構があるんだそうで。

P1120905

帯曲輪下から帯曲輪を移動する兵を隠す
ためのものだったと推定。でもこれ障子壕的に
なっている意味があるんだろうか?
確かに障子壕といえば、北條だけど・・・・

P1120906

今は歩きやすい歩きやすい。

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そして、相変わらず意味がわからない
二の曲輪の内側の深い壕。

P1120908

P1120909

外側にあったらこれはすごい!って
素直に納得できる壕なんですがねぇ。
しかも、二の丸側のほうが高いっていうね。

P1120910

あんなふうに三の曲輪から丸見えなわけですよ。

P1120914

ここの壕って北側のほうが深くて、南側に行くにつれて
浅くなっていくんですけど、土塁低いが外>内なのは
ずっと一貫してるんですよね。なんらかの意図があるはず…

P1120917

P1120919

P1120920

一の曲輪も土塁は低めだし、堀はないし。
変な城ってのはホントそうですよね(笑)

P1120912

さて、この日はここまで。
翌日は、レアアイテム「水信玄餅」を頂いてから
小山田の岩殿山城、勝沼氏館、そして躑躅が崎館を軽く。

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甲斐城攻めリベンジ2015!②新府城

さて、あむさんがたってのご希望の新府城。

P1120821

搦め手から行くと判りやすいんだけど、
そりゃ最初にオイシイとこ行くでしょ!と
大手丸馬出に直行です!

ゑゑゑ~

P1120822

どこのジャングルですか・・・・
しかも水濠(しかも雨上がりの泥水濠)じゃないすか・・

なんとなく丸さは伝わってくるけども・・
まぁある意味防御性能は高い?(爆)

P1120823

西側は少し水捌けがいいのか、溜まってはおらず。

P1120824

実は12月に入ってからもう一度、新府城に
行ったみたんですが、もう全然違う!
キレイに刈られていて、見事な三日月壕でした。

P1160850

先ほどの水溜り放題の東側も驚くほどの美しさ。

P1160857

9月はこんな鬱蒼とした丸馬出も・・・

P1120827

同じアングルで12月に観ればスッキリ!

P1160844

馬出からの眺めなんて、緑ばかりの意味不明写真
にしかならなかったのが・・・

P1120829

どうですこれ!

P1160839

丸馬出の東側虎口には今まで気付かなかった
喰い違いが観られました。再現なのかもしれませんけど。

P1160835

新府城は、こんな赤備えの皆さんがいるときに
訪れるのがイイのかも知れません・・・

P1160862

さて、閑話休題。あまりの藪加減に
茫然自失のまま、本曲輪へと進軍していきます・・

P1120830

三の丸もこの有様。藪の大軍が駐留(爆)

P1120833

そして途中馬出しから二の丸虎口前の切り株から
突き出した枝が右膝を急襲!
お皿の下あたりにぶすりと・・・ぐわぁぁぁぁぁ!

血こそあまり出ませんでしたが、結構痛みが
続いていて、今でも右膝を立てるときに
たまにイテテとなったり・・・
というくらい足許が観づらいほど藪だったわけで。

しかし、本丸はものっそいキレイでした。
刈った直後のような感じ。丸馬出もキレイになってると
いいよねぇ・・なんて話していたんですけど、
12月やっぱりキレイになっていたわけです。

P1120835

餃子茸。美味そう・・(食べてはいけません)

P1120837

本丸にあるトラックに一同、おおお!
という冊子が・・!!!

P1120838

本丸から搦め手方面へ強行するのは困難と判断。
一旦城外に退出して搦手の出構方面から、
搦手の乾門から再進入します。

P1120841

しじみ茸?

P1120842

うわぁぁぁ…

P1120843

乾門枡形を越えた先の土橋もいいのですが、
白山城が好かったのでちょっと霞む…

P1120846

ということで、9月に新府城をヤバイというのを
しっかり勉強させていただきました・・・

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甲斐城攻めリベンジ2015!①白山城

さて、9月の半ば。二年前に九州勢を甲斐に
お招き
したのですけど、運悪く台風に遮られて
思うように山城にいけなかったリベンジマッチ!

九州からは、あむさん(@mapple88)、
関西からはしろうさぎさん(@sirousagi77)、
あんこさん(@orzank)関東からはばったびさん
(@jouku100)そしてわたしという軍勢。

最初は、白山城。武田家初代信義公の詰の城
といわれておりますが、遺構としては勝頼期あるいは
天正壬午の乱の徳川配下の武川衆の時期と目され、
鍋山城、鍋山砦というのが当時の名称のようです。

位置的にも釜無川を挟んで、新府城の
ほぼ真南4kmの地点に位置し、勝頼・家康期も
新府城の支城として機能したのでしょうかね。

P1120713

白山神社の脇から進軍。白山神社は江戸初期頃の創建で
比較的新しい神社。武田菱はありますが、
縁としては後からつけられたモノっぽい。

P1120714

ここから上がっていくのですが・・・

P1120717

P1120815

有名らしい畝状竪堀群はさほど明瞭ではなく、
畝状竪堀好きの満足を得られるかは微妙なところ。

P1120719

こういうただ出さえ深さがない遺構が
枯れ枝置き場になってるのも、ダイナミックさに
欠ける所以なのか?ね?

P1120720

むむぅ…

P1120721

さて、先に進みます。
ここを左折れするとニノ曲輪。

P1120726

二の曲輪からみた本曲輪土塁。

P1120729

二の曲輪奥には、櫓台になりそうな
高台になってる曲輪があります。

P1120731

二の曲輪下の細い通路を突破された場合、
二の曲輪自体は明瞭な虎口構造を持たないので、
この小さな曲輪から撃退するのでしょね。

P1120733

ここも虎口構造はないので、あらかじめ兵を
据えておくのでしょうか。

二の曲輪高台と本曲輪の間隙。虎口構造は
やっぱりなくってここまできたら、
両脇から挟撃を食らうまで。

P1120738

こんな感じで(笑)

P1120749

この高台から尾根筋が続いていて、
堀切が続く先には腰曲輪群につながってるようです。

P1120741

さて、二の曲輪から出て本曲輪方面。
本曲輪虎口は内枡形構造。

P1120751

正面奥土塁。

P1120752

虎口脇土塁上から虎口手前方面。

P1120753

本曲輪土塁上から二の曲輪。むしろこれ、
一旦二の曲輪まで突破させて、高台と本曲輪から
殲滅する構造なんだろうかな?

P1120758

本曲輪土塁上から内側。ぐるっと土塁で囲まれ、
それなりの大きさの曲輪。

P1120763

この略図微妙だなぁ・・・・

P1120764

本丸から搦め手方面へは北西の虎口を伝って、
本曲輪下の帯曲輪と合流する。

P1120766

東側に伸びる帯曲輪方面。

P1120772

本曲輪虎口と帯曲輪の合流地から
北曲輪に向かう土橋。これが見事でした。

P1120774

疾走するしろうさぎさん(笑)

P1120778

土橋手前の土塁端に石積の跡。
たまたま転がってるだけかもしれないけど、
土留めとして石積みがあったかも?

P1120783

土橋の両脇を落ちる堀切。

P1120780

P1120785

堀切に下ってみて。

P1120786

P1120788

堀切に下ってみて土塁を見上げる。
ここかなりのおすすめスポットかも!
左手の土塁が本曲輪方面。

P1120791

ここあまりに見事で、無意味に何枚も写真撮るなど(笑)

P1120807

なので、北曲輪あまり見れてないというか・・・
本曲輪より南はいいので(笑)
北曲輪周りをまたじっくり観に来ようと思います!

戻りは帯曲輪を進軍。

P1120811

本丸の土塁たっかい!

P1120810

ここの竪堀はまだわかりやすいかな?

P1120814

さて、この後は新府城です。
リベンジのはずが・・・・!!

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「東国武将たちの戦国史」を読む。

今更感満載なのですけど、西股総生先生の
「東国武将たちの戦国史」を拝読。

詳しくない扇谷・山内両上杉の抗争から
次第に伊勢宗瑞~北條氏綱に侵食されていくさま、
そして北條家のシステマチックな組織体制には、
(普段読まないだけに)非常に発見がありましたね。

ただ、武田に関してはこれまでいくつかの講演を聴いたり
本を読んだりする過程で、その根拠と論旨を
自分なりに理解したことを踏まえると、ちょっと違うな?
てな感想も自分の中で出てきたので、主に自分のために(笑)
考えたことを整理しておきたいと思います。

例によって贔屓なしで書く努力をしたいので
皆様敬称略にて。

◆武田信虎の戦略とその限界

・信虎追放
西股先生の論は追放劇については晴信の即断即決、
今川との共謀の線は薄く領国経営の失策ではなく、
信虎の容赦ない敵対者への徹底報復と周囲に諮らず、
独断専行で進めた当主権力の集中を図った反動という見解。

ただ、どの反動の主体を晴信個人に帰するのはちょっと
難しいように思います。平山先生も指摘されていた
誰の刑死や追放、討死も起こっていない無血クーデタを
実行するには、やはり家臣団との利害の一致
という側面は見逃せないでしょう。

廃嫡の恐れをもった晴信が、独断専行の恐怖政治に抗して
結束した家臣団の利害をよく汲んだのだろうと。
そしてこの利害一致が、追放後の武田家体制を規定し、
晴信~信玄時代に形成されていく合議体制の下地になると
考えています。ある意味、信虎の恐怖政治の下地が
あってこそともいえるのだと思います。

◆信虎の領国経営
領国経営には問題なく、あくまで信虎個人の猜疑心や圧力が
問題で、権力集中についてへの反発ではないとの見解。

ただ、信虎時代の当主権力は強化というより、
信昌ー信縄の抗争から信虎家督相続の間に
失われた権力を再構築していく過程。

この地位を継承した晴信もこの権力を維持はしているけれど、
宗家権力・権威の構築と独断専行志向というのは、
独立して考えるべきで、この独断専行の追求も領国経営の一環
と捉えれば、統一戦には不可欠かもしれないけれど、
維持し続けるべきものではなかったように思います。

当主権力を形成したステージのまま、独断専行スタイルを
継続した点はある種の経営の失敗ではないかなと。

幼くして血みどろの中を勝ち抜いてきた人間の思考回路が
そうそう組織の成長段階に応じて
変えられるものではないでしょうけど。。。

外征の連続による軍役負担も追放劇の理由として
考えにくく、信玄時代も多かったはずとあるけれども、
これも部将や領民それぞれが持つ納得感の有無
なんじゃないかと思うんですよね。
これによって、心理的な負担の度合いは変わってくるはず。

ただそう考え詰めると、武田家の権力を再確立させた
功労者にも関わらず、さらなる武田家飛躍のために
放逐されなくてはならなかった信虎が、
非常に損な役回りを演じざるをえなかったといえ、
一抹の無念さを感じざるを得ませんね・・・

◆山本勘助(菅助)の虚実

・正規か非正規か
基本的な論旨は才能を見出されて信玄の密命を受け
情報収集や調略を任務とする立場と。

ここまではいいのだけど、一貫して足軽大将=大名家中の
「正規」構成員ではないという立場なのが
正直よくわからなかったんですよね。

論点は、①菅助を銭で報酬を得る傭兵の立場だったか?
というところと②信虎時代の強力な軍事力を形成した傭兵と
連続性のある存在なのかどうか?というところ。

①については、真下家所蔵文書から上田原合戦敗北後の
伊那衆の動揺を見事押さえ込んだ功績として、
黒駒の関銭百貫文という銭で支払われているという点が根拠。

ただ、最後まで銭だったわけではなく、甲斐に知行地を
与えられているわけで、当時は新参者に簡単に
知行を与えてはならないという慣習があったようですね。

というところから、菅助をあくまでカネでつながった
傭兵というドライな立場で・・というのは説得性に欠けます。
正規・非正規という現代の会社員の立場に比するなら、
最初は契約社員から正社員になったという表現が相当かな。

また②信虎時代の傭兵活用との連続性の是非ですけど、
信虎が当主直属の旗本衆として傭兵を雇い
一門衆を迅速に討伐できたのは確かなのだけど、
信玄の旗本形成の考え方とは大きく違うように思うのです。

信玄旗本を形成する足軽大将は、家中の身分を問わず、
信玄の目利きで登用し足軽大将としていくのが常道で、
いわゆる即戦力の傭兵とは性格が違うんじゃないかと・・・

また甲陽軍鑑の成立経緯は、小幡景憲の恣意が
入っている向きは否定されていて、
城郭研究の成果との齟齬は少なくとも
景憲に帰することはできないわけでして。

・菅助は川中島の作戦ミスのスケープゴート?
菅助が常任の軍事参謀という立場ではなく、
軍配者という当時の将兵に与えるような、
心理的な効果に通じた人物ではないか、という点は同意。

・・・なのだけど、「家中外の傭兵」たる菅助の作戦ミス
ということにして、信玄の作戦ミスのスケープゴート、
というくだりもちょっと個人的には「?」なんですよ。

四次川中島の経緯はよくわからないのだけど、
甲陽軍鑑の筋書き通りだと仮定しても、間違いなく判断責任は
最終決定者である信玄にあるはずだし、甲陽軍鑑も
菅助の戦略ミスを批判はしてなかったように
思うんですけどね。

◆武田勝頼の苦闘

・勝頼の武田家家督相続について
勝頼の誕生。「高白斎記」にも誕生の記事が見えず、
幼名も伝わらない勝頼。序盤にあるこの指摘は
記録がないことで逆説的にその扱いがわかってしまう、
数少ない勝頼の幼少期なんだろうな、と実感。

多感な時期に信玄の手をかけられた形跡がみられないことは、
信玄没後に「信玄的なるもの」を否定し
乗り越えようとしたこととつながる気がしました。

勝頼が無位無官なのはやむなしだとしても、
通字に「信」を据えた改名をしていない点についての言及。

勝頼が後継者として誰の目にも明らかであるにもかかわらず、
信玄が家督継承者として勝頼を盛り立てることに
あまりに不熱心じゃない?と西股先生は書かれていたけど、
そもそも信玄は勝頼に家督は継承させるつもりはさらさらない、
のが正確なんじゃないかと思うんですよね。そもそもない。

諏訪に関するモノ、諏訪法性兜や大の字の使用は許し、
孫氏旗の使用を許さないのもその現われのように思えます。

だから勝頼の家督継承喧伝は、武田家当主を強く自認する
勝頼自身、もしくは武田家宗家を握ることで
権力を握ることを志向した諏訪・高遠衆による、
武田家家督「簒奪」と一門衆や譜代家臣には見えたのだろう、
という気がしてきます。信玄の意思でもないし。

信玄は勝頼の軍事的才能は高く買っていたものの、
家督は相続させられないと考え、信玄以来の家臣団の
中心的存在だった馬場、山縣、香坂、内藤らは
信玄の方針に賛同してたんじゃないかな。

一方、「高遠組」として諏訪勝頼に付いた
長坂虎房(光堅)や諏訪・高遠衆は当然、
勝頼が「武田家」当主になるべきと考えたであろうと想像。
そこで、勝頼が武田家を「簒奪」すれば、
両者の対立が現れるのは自明の理だと思われますね。
そして、たぶん信玄はそれを不協和を想像していたでしょう。

しかし、反信玄の意思を腹の底に隠して
決して出さなかった勝頼とそれを見抜けなかった信玄。

勝頼と諏訪衆は、信虎追放劇や義信事件を反面教師に
したのかもしれません。

・長篠での判断
長篠敗因については、家康のみを叩く戦力だった武田軍が
信長が長篠に戦力投入できることを想定しえなかった
という点に尽きるというのは、以前学んだとおり。

信長の進軍の巧妙さと勝頼の油断、そして判断のための
情報が決定的に欠けていた間違いない。
しかし決戦前日の軍議過程への疑義はちょっとどうだろう。

前日の武田家中において、信長の軍勢を正確に把握
できてはいなかったかもしれないけれども、
宿老衆で意見が割れた、つまり甲陽軍鑑の記述を否
とみるにはちょっと難しい気がするんです。

というのも、宿老衆は信玄の軍配に近い考え方と思われ、
すなわち想定外(=信長本隊出陣)の勝てるかどうかの戦に
その場の判断で全力でぶつかるという思想はないのでは
と思うんですよね。

一方、高遠衆と勝頼は、ここで勝って、あわよくば
信長の首級でもあげようものなら、信玄カラーを一掃出来る
チャンスと見えたというほうがわたしには自然です。
(結局そうはなってしまいますけども)

甲陽軍鑑の起源が、信玄の強さの源流をを改めて
勝頼に知ってもらいたいという「諫言の書」から始まっている
という説に立つと、軍鑑が勝頼と高遠衆に
敗戦の責任を負わせたというより、甲陽軍鑑が
信玄流の強さの秘訣を支持する立場から、
勝頼と高遠衆の判断を批判しているのだろうと思えました。

いずれにしても、指摘通り勝頼と馬場・内藤・山縣との
信頼関係がなかったのは否定しがたい事実。
この重要な戦局において、軍議で西股先生が指摘するような
「明確な意見がいえず」議論がなされぬまま、
あるいは意見を言えない空気感が
軍議の場を支配していたとしたら。

そして勝ちを重ねて油断し、また信長の巧妙な作戦を
見抜けなあった勝頼のリーダーシップで
方針が決まったのだとすると、宿老にとって
「武田軍の強さの源泉」のひとつだったであろう、
議論の末の納得感が絶たれたことを意味したように思います。

ただ、それでも勝てるチャンスがなくはなかった。
平山先生の決して無謀な突撃ではないという指摘について
本書は決定的に否定しえてはいないように思えます。

この差については失敗から学習した信長と成功体験しかなく
失敗不足の勝頼という点は間違いないでしょうが、
勝頼と意思疎通できなかった宿老に単純に責を
負わせるべきとは思えません。

信玄時代の合議体制と勝頼の集権化が対立して
勝頼側が当面の戦果を得たことで優勢になって、
肝心の場面で議論して納得感を持って望めなかった。

そして、失敗不足の勝頼の判断に従わざるを得なかった
宿老の立場の斟酌もすべきではないのかな、と。

この長篠で勝頼にとっての目の上のたんこぶが一掃はされ、
その結果、勝頼は信玄カラーがもたらした強さを
捨てた代償として、新たに勝頼自身のリーダーシップで
武田軍の強さを形成できる、ある意味では
歓迎すべき環境になったわけなんでしょう。

◆御館の乱
次のターニングポイントである御館の乱。西股説は
本来は景虎を支援すべき勝頼が、景虎勝利によって
実質的に上杉が北條に飲み込まれ、パワーバランスが
傾くことを恐れたというのは説得力がありますよね。

決定的に織田徳川と対立した環境において、
武田を凌駕するかもしれない北條か、いずれが勝利するにせよ
内戦で戦力が低下した上杉かどちらを味方に
しておくべきかを考えると、頼りにならない上杉よりも
立場は苦しくなるかもしれないけれど、
やはり北條との同盟を堅持すべきだったとわたしも思います。

対北條では、真田昌幸の采配で武田側に有利に
進められたとはいえ(昌幸にとっては不本意でしょう)
景虎が勝利していれば、対上野越後には最低限の兵力を残し、
昌幸も対徳川戦線に投入できたはず。

しかし、現実は落城寸前の高天神城への後詰も
派遣できない苦境に追い込まれ、その落城で
国境国衆の反旗を招き、滅亡へとつながっていく。

西に織田、東に北條。そして国衆の離反。
北には動きの鈍い頼りにならない援軍の上杉。

誰と同盟し、誰と決戦すべきか。個人的には
信玄流の強みを活かすべきだったのではないの?
と思うわけですが、それでも信玄流を否定し
勝頼の新たな武田軍の強さを構築するチャンスはあったはず。

景勝支援に回って北條を敵に回すべきでなかったという点が
致命的に思えます。高天神城落城による動揺も
織田と北條を同時に敵に回したツケではないでしょうかね。
ここは西股先生と意見が合うところですな。

◆武田滅亡の責任
ただこのツケについて、独り勝頼にだけ
課するのも正当ではないけれども、信玄にだけ責任を
負わせるというのもまたフェアではないように思います。

勝頼の責任については、信玄が築いた武田軍の強みを
敢えて活かすことをせず、長篠で瓦解させてしまったこと。
直接の滅亡の原因ではないにせよ、戦闘力を大きく
落としてしまったのは事実のようです。

そして弱体化した武田軍を再構築を果たす際に、
外交戦略を見誤り、二方面作戦を強いられた点。
ここに限定されるべきですね。

一方、信玄の責任については、西股先生が指摘する
後継体制のまずさ・・からもう少し深堀して考えたいんです。

①義信の取り扱い
確かに北條家と比べると北條家権力の継承が磐石で、
武田家の拙さが目立つのは否めないのですが、
その拙さの所以のひとつとしてまず、
信玄が後継者たる義信の思想共有ができなかった点
ではないかと気がしています。

躑躅が崎館に西曲輪を義信のために増設してることからも
当初(1550年代は)義信に大いに期待していたであろう
と思われる一方で、思想的な齟齬が出来てしまった。

これは奥近習が信玄による思想教育がなされ
ベクトルが一致していたのとは対照的。
信玄の根本理念を後継者と共有できなかった点は、
間違いなく失策といわざるを言えると思います。

西股先生は、三国同盟の破棄に後継体制の破綻の因と
されているんだけども、義信がそこまで今川家に
与する意図を測りかねるんですよね。性格の不一致(笑)
かもしれないけど、それに帰するのはあまりに単純だし。

外交に関してはわだかまりなく、状況に応じて
有利な相手と組むためには手段を選ばないというのが
外交における信玄イズムだと思うんですけど、
義信に叩き込めなかったわけですよね。

むしろ後年、昌幸が真似するくらいであっても
よさそうなものなんですが、そうは行かず。

三国同盟破棄と駿河侵攻も北條を一時的に敵に回し、
苦境には陥りはしますけど北條を再度味方に引き入れ、
かつ駿河領有と三河・遠江の足がかりを得た信玄の外交政策は
結果間違ってはいないと思うんですね。迷走とは思えなくて。

②養子政策
子息を残らず制圧地対策で養子に入れてしまい、
嫡男義信と対立したときに有力候補となる後継者を
擁立できなかった点も厳しい点。

次男以下を養子に出して戦略上の手駒に使うのは
どの戦国大名もやっている常套手段ではありますが、
次男信親以下皆養子に出していて、義信の代替がいなかった。
だからこそ、一旦家を出た勝頼を呼び戻すしかなかった。

逆に代替をつくることは、後継者争いで家中分裂の火種となる
原因にもなるわけですけど、信繁・信廉のような
存在はいてもよかったんではないかと思ったんですね。

勝頼も、当初から武田勝頼であれば、氏康のように
早くに一旦身を引きつつ権力継承を漸次進める方法も
取れたでしょうけど、生まれながらにして
格下の制圧地の家を継ぐことを目されていた
「諏訪」勝頼を呼び戻さざるを得なかったところが
後継者政策の行き詰まりを見せているように思います。

この他家の人間が武田宗家を継ぐ反発というのは、
奇しくも信虎の項で、信玄死後に信虎と勝頼が
対面した際に勝頼の母が諏訪氏であることに不快感を
顕にしたという本書記述からも、
一定の推測が付くように思いました。

③次善策「陣代」の破綻
そんな中で信玄が活路を見出したのが「陣代」。
諏訪家としての家格のまま、実質的に武田家をリードさせつつ、
制圧地の家が宗家を継ぐ不協和音を抑える次善策。

ただこの次善策は、更なる心理的負担を
勝頼に強いることになったでしょうし、
陣代たる地位を承服するほど、信玄と勝頼の関係性は
強固ではなかったように思います。

そして、信玄死後に勝頼はあっさりとしかも、
死の直後から覆されてしまい、勝頼は「諏訪」勝頼ではなく
「武田」勝頼としての道を歩んでいくわけです。

反信玄の意思を出さなかった勝頼、そして
見抜けなかった信玄。信玄死去後の「簒奪」の動きは
実に早く、周到に計画された感じがします。

勝頼に典厩信繁のような一歩下がった発想や、
これまで支えてきた家臣団を誰かに譲り、
きっちりと武田家領袖という立場とも高遠・諏訪衆を
率いる立場を分けることができれば・・・
また違った武田家の歴史ができたのでしょう。

あまり詳しく理解していないので、簡単に
引き合いに出すべきではないのかもしれませんけど
毛利両川の吉川・小早川のような形で
武田諏訪の関係構築ができればよかったのでしょうか…

とはいえ、戦国の雄たる諸家において、
権力継承がうまく進んだ例はそう多くはないと思います。

織田はうまく行ってましたが後継者ごと失いますし、
豊臣は周知の通り。謙信の突然の死で上杉も苦しみますし…

その点、北條家の順当さは特筆すべきなのは確かで、
武田遺臣だけではなく、北條遺臣も取り込んで関東統治に
当たった家康は、ひょっとしたら権力継承の手法も
北條家の事例を学んだのかもしれないですね。

ちなみに・・・本論からは外れますが、武田典厩信繁が
諏訪郡代だったってのは初耳。勝頼の高遠城入りを
諏訪郡代だった信繁の討死を契機とあるんだけども。

高遠城主は諏訪郡代ではなく、伊那郡代のはずだし、
諏訪郡代は板垣信方、長坂虎房、武田信廉(信綱)と続き、
高遠城主は秋山虎繁、諏訪勝頼、武田信廉、仁科盛信。
信繁は制圧地の郡代にはなってなかったような
気がするんだけどなぁ。どうだろう。

--------------------------------------------------
いやいや、じっくり拝読していろいろ考える
きっかけになりましたよ。おもしろい本でした。

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武田信玄の国家構想 - 新鎌倉星ノ谷。

さて、真夏の7月のある日。
BS TBSの「にっぽん!歴史鑑定」で信玄公の影武者の
話をしていた回「#10 武田信玄と影武者」の最後で
信玄公が全国統一をした暁に、国府の適地
と考えた場所が相模にあるという話がありましてですね。

その名は「ほしのや」。

現在の星谷寺の近く、元の星谷寺のあった
座間谷戸山公園・伝説の丘と現在呼ばれている辺り。

ここに信玄公が全国統一後に御座城と築いて、
新鎌倉とし、来る新たな武家の都を夢見た・・
なんともロマン溢れる話なわけです。

ということで、フォロワーで関心のある皆様で
集まって件の「新鎌倉星ノ谷」に向かって
みることにしました。

とはいえ、当時は北條領国。なぜ信玄公が
その星ノ谷を見ることができたのか・・・・
といいますと、駿河領有を巡って北條家と敵対した頃。

北條家の牽制目的で小田原城を武田軍が
囲んでいるのですが、その往復で座間近辺を通過。

帰路、金田の地より星ノ谷を要害堅固かつ
将来発展の望める地として、信玄公が褒めたという話が
「甲陽軍鑑」に伝わっています。

さて、せっかくなんで行きは武田軍の小田原侵攻
ルートの一部をなぞってゆきました。

スタートは原当麻駅。ここから座間に向かうこと
6km前後の道のりです。

ちょうど相模川の浸食でできた河岸段丘の西端を
進んでゆきます。台地からみた高低差はかなりのもの。

P1110135_2

しばらく進むと、さいかちの碑。

P1110138_2

信玄公が小田原進攻の戦勝を祝い植えたものと伝わり、
次の戦も再び勝てるように「再勝ち=さいかち」
との願いが込められているそう。

実際の武田軍はこのあと愛川町方面で反転して
北條軍を迎え撃ち、三増合戦で辛勝すること
になるわけですが・・・

甲斐に帰陣するまでの一戦を想定しての奮起の
意味もあったのかもしれません。いずれにしても
このあたりが武田軍の往還ルートだったのは
間違いないのでしょう。

思わず「カゲカツ」と読んじゃう・・・
景勝・八景の棚。相模川の様子が好く見て取れます。

P1110143

ガスってて見えにくいですが、橋のある
あたりが当麻の渡し跡で、往路の武田軍の渡河地点
のひとつと推定されている模様。

P1110144

このあたりから段丘が下り坂。

P1110147_2

三段の滝展望広場あたりはさすがに開けてる。
渡河地点を見定めたりするには、この段丘上が
適地だったんでしょうね。

P1110148_2

降りていけそうなところグッと我慢…

P1110151

鉄じゃねぇと言っておきながら、
やっぱり撮っちゃうあの方(笑)

P1110152

まぁ、そんなわたしも思わず線路撮って
いたりするわけですけど。

P1110155

すこし行くと磯部。ここも武田軍の渡河地点の
一部になっているようです。写真は磯辺八幡。
こういう古社は古道の目印になるみたい。

P1110156

相刕高座郡礒部とあります。ここあとから
ポイントになってくるのです・・・

少し進んでから星谷寺方向へ舵きり。
座間神社の下を進みます。
磯部が武田軍往時の侵攻ルートだとしたら、
星谷寺近辺まで近づいていたんですよね。

P1110159

オモロイマンホール。徳川葵ならぬ
徳川向日葵的な(笑)

P1110160_2

さて、ここでようやく谷戸山公園着。
お待たせしてすみません・・・

P1110161

旧星谷寺の本堂跡とされる伝説の丘。
もちろん信玄公がここへ来ることも、御座城が
築城されることもなかったわけですが、
もしそうなら、本丸が築かれたのでしょうか。

P1110164

元は本堂山といっており、本堂があったことを
偲ぶ名前でした。焼失は鎌倉といいますから、
長く伝えられた名前。確かに山城をつくれそうな
いい感じの小山ではあります。

P1110169

P1110167

城が築かれることはありませんでしたが、
北條氏照もこのあたりを宿営地にしたこともあるそう。

必要に迫られれば、軍事的に着目されうるところ
だったのでしょうねぇ。

P1110173

P1110174

本堂に向かう坂を本堂坂と呼んでいました。
もし御座城が築かれていたら、大手道になっていた?

P1110178

P1110180

P1110185

さて、大手道・・・じゃなかった本堂坂を下って
現星谷寺に向かいます。

庚申塔に馬頭観音。古道跡に好く見られるものが
残っているということは交通の要衝だった?
との解説になるほどなるほど。

P1110188

P1110189

星「野」谷とも書くんだ。

P1110191

さて、現星谷寺、観音堂。行基開基の由緒ある寺。

P1110201

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1227(嘉禄三)年銘の梵鐘。本堂山に本堂が
あった頃にあったであろう梵鐘。
鎌倉初期の武将、佐佐木信綱の寄進。

P1110198

「木食観正」「日本廻國供養塔」の文字。
木食観正は江戸後期の木食僧。どんな由来が…
像は皆、斬首されている。これも廃仏の影響だろうか?

P1110204

大きな立派な宝篋印塔。

P1110207

同行されたしみずさんのご指摘であっと気付く、
「相模國鎌倉郡座間郷」の文字。

そうさっき磯部を通ったときには、高座郡と
あったはずなんですよね。新鎌倉構想との関連を
何か想像しちゃいますね。

「星谷寺」の扁額。

P1110211

昔は栄えたお寺だったのでしょう、
彫刻が見事です。最近彩色しなおされたのかな。

P1110214

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こちらは開基の行基上人でしょうか。

P1110222

星谷寺・・の名前の由来でしょうか、
星の井戸。昼でも星が見える・・・あれか?

P1110233

P1110234

さて、ここからはクルマ移動。駐車場に向かうため、
再度、本堂山のほうに引き返します。

西入口長屋門。このあたりに星谷橋という小さな橋と
水の流れがあって。黒田日出男先生の
歴史書通信寄稿に
は水源確保が難しそうって
ありましたが、そうでもない?

P1110187

今では橋の感覚がわかりにくいですが、この道路が
星谷橋跡でこの下に小川があります。

P1110243

水源豊富というほどではありませんがね・・・
当時はどうだったかわかりませんが。

P1110244

P1110245

本堂山を見ながら進みます。キレイに刈られていて
城郭が整備されている様を想像・・・
実際、城にはなってないので脳内でやりたい放題(笑)

P1110248

再び違うルートで本堂山をぐるりと。
北條だったら、武田だったらどんな縄張りに
するんだろうな・・・・

P1110251

P1110252

P1110255

さて、今度は信玄公が星ノ谷をみたという、
金田から眺めてホントに城を造りたくなるのか…を。

といっても、今はビルが立ち並びなかなか
金田あたりから見るのは至難とのことで、
県道42号の西側から相模川を渡河する直前のポイントから。

あの台地状になっている先端が本堂山。
確かにこれは城を造りたくはなる・・・・

P1110257

が、わたしも含めた一同の意見としては、
城はあってもよさそうだけど、武田幕府の本拠となる
新鎌倉にしよう!と思える感覚はない…

比較的金田に近いか?と思われる吾妻坂古墳から。
むーーーーーーきびすぃ。

P1110262

ここであそこからならいけんじゃね?
というマル秘スポットを発見。信玄公が見たであろう
アングルに近いんではないかと。高さこそ違えど。

P1110267

うーん・・・いわゆる城砦としての観点なら
台地の先端にあたり、街道を押さえる要所ですが、
新鎌倉という一大拠点を構えられたのか?は正直疑問。

あれだけ海を求めた信玄公にしては、相模川の水運は
ありますが、駿河や小田原と比べると海に遠い。
皆で頭を抱えてしまいました・・・(笑)

近くの建徳寺。武田・上杉の小田原攻めで
被害を受けたと伝わる寺。

P1110269

P1110273

ここに近くの牛久保用水を開いた本間氏累代の墓。
この用水の脇の坂(牛久保坂)を武田軍が駆け上ったとか。

P1110275

カエルが気になる(笑)

P1110277

その用水。今ではコンクリートで囲まれていて
当時の面影を想像するのは難しいですが、
武田軍が来襲した際にもこの水の流れがあり、
ここを駆け上がっていったのですね・・・・

P1110283

P1110284

さて、来た道をクルマで引き返し、八景の棚に再度。
あちゃぁ・・・ガスっちゃってる(爆)

P1110298

そして、さいかちの木。
枯れることなく、長く残ってほしい。

P1110300

さて、クルマで武田軍の渡河地点である
当麻の渡し跡の昭和橋をクルマで再渡河・・・

P1110330

最後に向かったのは信玄公が小田原侵攻の帰路に
通ったという信玄道。大部分は県道と重なるのだけど、
このあたりは細道がわずかに残ってて。

P1110366

なんだか棒道のちょっと少し残ってる感じと
よく似ていてうれしくなりましたね。
この道の先には、三増の激闘の地。

そんなことを思い出させるマンホール。
もうここは三増を擁する愛川町なのです。

P1110364

そんな武田に浸っていると自然と
こういうものも武田菱に見えてくるわけで・・・・
(誰ですか、いつもでしょって言ってるのは(笑))

P1110369

ということで、行ってみていろいろ判った星ノ谷の謎。
どういうことを信玄公がお考えだったのか・・・

少し先にはなりそうですが、黒田日出男先生の
『甲陽軍鑑』の史料論―武田信玄の国家構想を読んで
みたいと思いました。またそうすると現地に
再度行きたくなっちゃったりするんだろうなぁ。

同行いただいた皆さま、ありがとうございました!

参考:
歴旅.こむ
武田信玄の描いた「新鎌倉」構想地?…「ほしのや」
歴史書通信 2015年 5月 No.219
黒田日出男 信玄が御座城を築こうとした「ほしのや」(PDF)
元添乗員の裏技旅行ガイド 観光情報・所要時間情報
星谷寺と座間戸谷山公園
戦国武将列伝Ω
武田信玄の国家構想である新鎌倉と星の谷とは?

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歴史人 No.61 【戦国最強家臣団の合戦力】の個人的感想まとめ。

歴史雑誌「歴史人」に非常に興味深い記事があって、
雑誌ですが結構読み込んだつもりです。

元々武田信玄公に興味を持ったのも、戦いの強さというよりも
その人心を掴み強固な結束力をもった組織を
つくりあげた思想への興味が原点。

他の家臣団と比較することでいろいろ見えてくるだろうなぁ、
と思ってはいたのですが、なかなかまとまったものがなく。

必ずしもここでの記載が正というわけではないでしょうが、
一旦所与の内容として踏まえて、比較してみました。
毛利と島津は論点がちょっとずれる気がしたので除外。

例によって、客観的な立場から書いてみたいので、
以降敬称略で書き進めます。

■武田信玄
信玄は部将の能力を見極め、能力に応じた役割を与えながらも、高い能力の片鱗のある人材を自ら育てる点が特筆。奥近習「信玄塾」卒業生を要職につける。香坂虎綱、山県昌景、真田昌幸等々。自ら人材育成することで大将と部将の基本思想の刷り合わせ・共有化を図る一方、各部将に論戦させ「決まるまでは徹底議論、決まったら従わせる」ことで戦略決定の納得感、一体感を生む。人材登用は非門閥主義だが、原則甲斐出身の有力者に服属国衆を付けた軍団編成。

■武田勝頼
一方、勝頼は自らの将としての能力の自負から信玄が用意した「武田家生き残り策」とを捨て、信玄の用意周到な「勝てる戦いしかしない」戦略と人材の育成・組織統治戦略を転換。中央集権と戦争に勝ち続け、領土広げて先方衆に報いることで、諏訪家の負い目を払拭。高遠・諏訪衆と甲斐古参衆の軋轢を纏め上げようとする。しかし長篠敗北を機に勝ち続ける戦略が崩壊。組織的な戦闘ノウハウの継承が途絶え戦闘力の低下を招く。

■織田信長
能力で評価するというより、実力に応じて使える人間を使えるだけ程度だけ、使い倒す主義。裏切っても許すが使えなくなったらそこまで。適材適所という点では信玄とも共通するが、能力観について自助努力か自ら介入するかの相違点。自助努力で伸びてきた人材は引き上げ、経済的に報いるドライな関係。組織は官僚・旗本を除くと、後継者信忠を含めた統率力のある人材を新たにヘッドに据えて、地縁から切り離して再編成。登用特徴としては非門閥主義だけでなく、地縁からの切り離すということと、各方面の大将や旗本など横のツナガリが薄い印象。

■豊臣秀吉

一から家臣団を急成長するスピードにあわせてつくりあげる必要性から、能力の高い人材を取り込むも、織田の一地方軍から大将格となっても他勢力の比べ組織化が今一歩。多くの外様大名を従え、圧倒的な財力・軍事力を傘下に収めても、豊臣家臣団自体は個々の秀吉に対する忠誠心のみで組織が構成。家臣の横のツナガリが希薄というかもしくはムラがある印象。さらに秀吉本人も豊臣家臣団も「秀吉逝去後」についてのビジョンに乏しく、家康の台頭を許す。

■徳川家康 

今川家の重圧に耐えるという苦しみの共有から生まれる家康を中心とした結束と忠誠心が能力を育てた。地縁的にも三河武士を重用し敵対したものの、武田家の結束ロジックとの共通性・親和性が感じられる。後に武田遺臣を多く抱えるが、土木・潅漑・鉱山開発という技術力や高い戦闘力もさることながら、この結束ロジックプロセスの共通性もあるのでは。事実武田遺臣でも忠義に厚い将を評価している。秀吉との大きな相違はステージに応じ組織改革を行えた点。信長軍閥と外様大名を従えたのみで統治組織として未分離なままで全国統一した秀吉に対し、地方軍閥ながら統治組織への脱皮を果たし、さらにこれを次代に託さず、創業者カリスマがなくても機能する道筋をつけることを創業者自身がやり遂げる目処をつけた点が特筆。

■伊達政宗
信玄と同じく門閥に捕われず優秀な人材の抜擢しつつも、積極派の若手と慎重派の古参の合議体制を敷き、政宗だけのリーダーシップだけではない結束力が政宗初期段階から見られる。合議体制は信玄軍団同様だが、前代当主の流れを汲む古参と政宗と年代の近い積極派が合議を介して結合できている点が信玄とは違う特質。また家康と同じく、初期の戦闘性に向いた体制から、より合議体制の側面が強化された集団指導体制に伊達家臣団を変革していく点は、徳川家臣団との共通性が見られる。武田・徳川のそれぞれの強みをバランスよく配合し、しかも時流にあわせて組織を変化させる柔軟性。

論点としては、

①ヨコの結束力=
組織のヨコの結束力の如何で組織の継続性に影響。これを生み出すのは、ひとつは意思決定プロセスへの参画による一体感や体験の共有。ヨコの結束力がないとがタテ(当代主君と各家臣)のツナガリが切れた途端にと組織が崩壊する。

②人材登用=
一旦出自問わず能力で引き出してから、再編成するのは有力大名の共通項。武田・織田・豊臣は大将の目利きで個人個人を登用する一方、家康は武田遺臣をその家中の特質ごと取り込む集団登用が特異。やはり敵同士とはいえ、価値観の近しさがあったのだろうか?基本は能力を買うのが主流だが、君主自らの能力を伸ばすプロセスを経るのは信玄に特異かも?

③組織の成長ステージに応じた組織改革=

秀吉にできず、家康・政宗が成しえた君主がいないと崩壊しない集団指導体制への移行。逆に勝頼は信玄の合議体制を否定し、むしろ信長に近い中央集権化を求めるも、却って立場を苦しくした。諏訪家の事情など勝頼の言い分もあるだろうが、個人のリーダーシップが発揮される局面と合議を経るべき局面を見誤ったような所感。特筆すべきは家康の長い寿命。長い寿命は次代・次々代のレールまで敷いてしまう強さ。真田信之にも通じるか。

の3点。

①②③を満足するのは、勝ち残った徳川や伊達
なんだなということにも気付かされます。

伊達の古参と若手の合議体制なんて
すごくよくできたシステム。
これは大将たる政宗と古参の懐の広さが必須ですね。

武田でも、陣代として戦闘力の高い勝頼が
戦線をリードしつつ、信玄重臣と諏訪衆の合議も
維持しながら、納得感のある家中運営の可能性が
なかったのかなぁ・・・と想いを馳せてしまいます。

それにしても、奥近習「信玄塾」に入りたいですね・・
そして、「決まるまでは徹底議論、決まったら皆従う」
という戦略決定の納得感、一体感。

これって現代のビジネスにも通じると思うんですよね。
こういう職場で働けたら、シアワセだと思うのです・・・・・

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佐久龍雲寺・信玄公墓。

10月の話。軽井沢蒸留所が最終の公開を行う
ということで、軽井沢まで行ってきたのですが、
そのついでに前々から気になっていたお寺へ。
(軽井沢の話は追って・・・)

佐久岩村田の龍雲寺。昭和に発見された遺骨と
遺品の納められた茶釜があるそうですが、
遺品の鑑定で論争があり、史跡指定しない国を相手取って、
住職が訴訟沙汰になったんですってね。

お寺的には墓所アピール全開ですけども。

P1160003

楼門が立派!鯱もそうですし武田菱も。
何より高さがあって目立ちます。

P1160005

入母屋だけだとどこかの城の大櫓のよう。

正式にはこちらの門から入るのでしょうけど、
閉じられていて脇のほうに普通に
敷地には入れてしまいます…

P1160009

その脇から楼門全容。すごい立派で感服。

P1160043

よ、よ、読めねぇ!なんとかして!

P1160010

龍雲寺の解説板。元は武田家に反抗していた大井氏の
菩提寺で、武田・村上との抗争で荒廃。

P1160011

そこで佐久平定が落ち着いた永禄年間に
北畠顕家の末裔でもある北高全祝禅師を招いて再興。

北高全祝禅師は、1572年には信玄公西上作戦に際して
千人法幢会を実施し、正親町天皇から扁額を下賜されるなど、
非常に影響力の強い方だったようですね。

この古文書「龍雲寺文書」は『信濃史料』に収録されている
そうなので、機会があったら一読したいものです。

個人的に気になるのは、信州真田信綱寺に伝わる
真田昌幸書状との関係。

P1270394

というのも、平山優先生の「大いなる謎真田一族」で
この文書について言及されていてですね。

昌幸が流した武田龍宝を上杉景勝が擁して
甲斐に向かうとの流言で、徳川を動揺させ、
甲斐に侵攻する計画に加えて、
信綱寺に信玄公菩提所建立宣言を出していて。

旧武田遺臣を味方につけようとする
昌幸の知略のひとつとして紹介されていたんです。

で、さらに佐久龍雲寺・・・と読めるんですが、
もし佐久郡を平定できたら、岩村田の龍雲寺領を
(信綱寺に)寄進するとあるんですよね。

龍雲寺領を引き剥がして信綱寺に寄進するにしても、
なぜ昌幸はここに目をつけたのか?
それだけ領地があったのか。

そして信玄公菩提所建立の書状に付記したのか。
信玄公菩提所建立が旧武田遺臣を味方に付ける為だとすると
やはり龍雲寺に何らかの所縁があるはずだよねぇ…
となんかあるんではないかと思ってしまうのですよね。

さて、そんな妄想を膨らませながら、
楼門から入ります。楼閣部分にも武田菱。

P1160015

お堂は新しそうですね。でも武田菱。

P1160016

紀元うんたら・・・というのは戦前の証。
機山靈光會とは何ぞ?

P1160017

ちょっと微妙な(?)信玄公霊廟の道を抜けて
先へ進みます。

P1160018

こちらが昭和に遺骨とされるお骨が発見されて
新たに建てられた梵字入りの五輪塔。

P1160020

P1160023

昭和六年五月二十九日
發掘御靈地
東京市 古田敬直建之

昭和十五年四月十二日
世話人
龍雲寺住職 宮下雷音
靈光會理事 浅沼守男

とあります。国と訴訟騒ぎになった住職こそ
この宮下住職でしょう。
また、機山靈光會とは地元の信玄公顕彰会
のような団体なのかもしれません。

訴訟になるほどですから、よほど自信があったのでしょう。
この議論の決着がどうなったか知りたいものです。
現武田宗家の御意思もあるでしょうが、
瑞鳳殿の政宗公遺骨のように鑑定できたらいいのに。

市の信玄公遺骨出土の地の看板。

P1160022

この武田菱の並ぶお堂はなんだろう…
木造だけどコンクリ基礎にあるから新しいかも?

P1160028

P1160030

五輪塔の傍なんで、同時に建立されたのかもしれません。

P1160035

岩村田から帰る途中に流れで上田に立ち寄り。
味噌切れかかってたてことで、武田味噌さんへ。

P1160050

お!新しい寒仕込の樽出始まったと!

P1160051

ちょうど、武田神社の紙袋持ってたこともあり、
ついに『よくいらして頂いて』と
顔を覚えられてしまった様子でした(笑)

あと最近できた上田電鉄駅前のやきとり番長
立ち食い編。なかなか美味いのですが、
立ち食いでゆっくりはしにくいかな。

P1160054

美味だれはすごく好みなので、
本店さんの方に行かなきゃねぇ!

岩村田龍雲寺の謎、解き明かしたい・・・
などと思いながら、江戸への帰路に着くのでした。

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徳川の聖地、武田の城 - 久能山。

さて、久能山。公共交通機関が頼りの
わたしにとって意外と離れていて、
なかなか行く機会のなかった久能山。

P1100853

従是貳里拾壹町。今からちょうど百年前、
徳川家康三百年祭に建てられた碑。

丸一日、久能山に時間をとって
静岡駅から徒歩10km、帰りは清水駅まで10km、
計20km+αを歩ききって行って参りました(笑)

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アホですか?と言われるとあほです!
と応えざるを得ないくらい、公共交通機関がなければ
歩きゃいいええやん!というわたしなんでね。

途中、東照公厩舎人井出殉死霊地の碑。

P1100867

家康の葬儀の列は通り過ぎた後、
その恩顧に報いるため、殉死した井出八郎右衛門。
長く語り草になったと言う。

さて、柳澤橋までくると久能山はもうすぐ。

P1100870

きました、別格官幣社・東照宮。
ここまで静岡駅から約2時間15分の歩き。

P1100872

とりあえずここいらでなんか食べとかなきゃ…
と、付近で唯一開いているお店でとろろそばをかきこむ。

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ようぅし!いざ、久能山☆

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しかし、雨の日にこの石段は滑りそうで怖い・・・

P1100880

麓にある久能山徳音院。平安時代の高僧・元三大師が
天海僧正の枕元に現れ、御神籤を寛永寺の元三大師像前に
置くようお告げがあったとの話でそこから、
広く民衆にも御神籤が知られるようになったとのこと。
・・・という元三大師・慈眼大師(天海)祀る。

P1100882

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しかし、そのゆかりの御神籤はここにはないのだった…(笑)

P1100885

さて、ここからびっしりと布積石垣に囲まれた石段を
上がってゆきます。家康薨去の翌年1617年創建。
石垣がその時代を感じさせますねぇ。

P1100886

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石材も駿府城と採石場・石切丁場が同じなのでしょうか、
なんとなく似た雰囲気があります。

P1100890

果てしない・・・

P1100892

そして階段になって、さらに滑りそうで怖い!

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ぜぇぜぇ・・・・きっつ。

P1100902

あ、ここ明治以降に石垣崩れちゃったんだろうなぁ。

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駿河湾を見下ろす。けっこう登ってきたぞ?

P1100908

一の門が見えてきました。

P1100909

見事な算木積。元は花崗岩だったんだな、
というのがよくわかるね。創建当時からずっと門に
守られて元の色のままなんだろうね。

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一の門を抜けると、旧久能山城大手枡形。
石垣化しているものの、城の大手の風格はしっかり。

P1100911

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そして、軒丸瓦と入母屋にびっしりの葵紋(笑)

P1100920

枡形を内側から。見えてる「モノ」は石垣の近世的な
感じだけど、構造的には中世だよなーって
感じることができた自分の成長を実感。

P1100925

え、このズルっとズレてる隅石なんなん・・???

P1100921

博物館下の石垣補修痕。江戸城と違って、
黒い安山岩?玄武岩?で補修するんだ?

P1100929

これは明治じゃなくって幕末、あるいは
逆に最近の補修かも知れないな。
積み方にやっぱり連続性があるものね。
苔むし具合で違いがハッキリ判るけども。

ありがたい現東照宮と久能山城縄張りとの比較。
ロープウェー乗り場が二の丸かぁ!

P1100931

ここは、全面的に石垣積み直し!
それにしても、江戸城っぽいよね、
積み方にせよ、石材の材質にしても。

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奉祝・御鎮座四百年。

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でも、徳川の聖地でも菱形レーダーは元気です。

P1100937

あら、徳川の聖地でも信玄公に敬意を表して
頂けてありがとうございます。

P1100938

ロープウェーのある二の丸方面へ。
ロープウェー乗らんけど(笑)

P1100939

が、二の丸は藪の中・・・・

P1100943

というのと結構縄張図で感じる以上に高低差あり。
この二の丸に上がる道筋は当時からなんだろうかね??

P1100940

P1100949

ロープウェー乗り場の脇から。ストーンと落ちてる。
やっぱり城だわ、城。

P1100953

さて、社務所を抜けて社殿のほうへ。
久能山城本丸跡。

P1100954

先ほどと別の看板の縄張図を見ると、
久能山城の本丸の進入路はこちらではなく、
ロープウェー乗り場のあった二の丸から
進んで回り込んで進むような感じだった様子。

P1100938_2

大手を進んできた後、久能山東照宮博物館のある曲輪、
二の丸、そして二の丸~本丸の帯曲輪で
コの字型に囲まれる縄張りになってるような?
けっこう激しくボコられるな、これは・・・

閑話休題。さて現代人のわたしは楼門から
本丸跡社殿のほうへ。光の具合が元気玉に見えた(笑)

P1100958

この闘将大権現。。じゃなかった東照大権現の字は、
後水尾帝の御宸筆。日光と一緒やね。

P1100961

同じ年のわたしと家康さんの手の大きさ比較。
けっこう変わらないかも?

しかし、155cm 60kgですか家康さん・・・・
てことは、BMI=25。わたくし171cmですので、
換算すると73kg…やべ、家康さん抜かしてる・・・
ダイエットせねば・・・(笑)

P1100962

鳥居を潜ってさらに先へ。この辺りで、
二の丸方面から合流するはずなんだよねー。

P1100968

鳥居のすぐ左手が五重塔跡。日光東照宮と同じく
久能山東照宮にも五重塔があったのですが、
惜しくも魔の明治政府の神仏分離の影響で解体…

P1100971

ただその前の石燈籠が日光同様興味深く、
かなり時間かけてみちゃいました。

P1100969

駿河國 久能山
御寶前
元和三丁巳季正月十七日
從五位下石川主殿頭忠総

こちらは、鍋島勝茂。後に曾孫の吉茂が再建。

P1100972

駿河國 久能山
御寶前
元和二丙辰年
肥前國主
従五位下行信濃守藤原朝臣勝茂創建
寶永五戌子年五月十七日
肥前國主
従四位下兼侍従行丹後守藤原朝臣吉茂再建

とあります。まだ続くみたいですけど(笑)

中にはなかなか読めないものもある・・・
ってやってると時間がすぐ経っちゃうわけで(笑)

さて、いい加減前に進みましょう。
唐門。このあたりから本丸でしょうかね。

P1100976

わわわ、またある石燈籠(笑)

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家康落胤との噂が絶えない土井利勝!

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鼓楼。元は鐘楼だったそうだが、
神仏分離で江戸城にあった太鼓を遷して、
鼓楼として存続することに。

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ここも家光が大改修を命じていて、
日光のように鮮やかそして、黒が映えるデザイン。
江戸城天守とも共通性がありそうで。

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コチラは神楽殿。破風板が赤いですね。
江戸城天守の再建にも金具意匠とか
参考にされるんだろうなぁ・・(しつこい)

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唐門からは入れず、神楽殿・神庫・日枝神社から
回り込むように入っていきます。

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あ、陛下こちらにも幣帛料を下賜されてる!
日光にもあったんですよね。

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神庫前には、ガンダムがたくさん・・・
家康ガンダム!羊歯甲冑バージョンと
金の甲冑バージョンとがあります。

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静岡といえば、プラモデルが有名ですけど、
その起源は久能山東照宮や静岡浅間神社造営で
全国の職人が集められたことにあるとか。

その造営が終わった後も、木工細工の技術を伝えながら
駿府の地に多くの職人たちが残り、模型づくりの文化の
下地になったのだそうですね。

日枝神社。ここも元は薬師如来像を安置する
薬師堂だったところに仏像を大正寺に遷し、
山中にあった山王社の御神体を遷して難を逃れたとか。

なぜか並ぶ微妙な葵紋の違いがある各将軍の紋。
某家康クラスタ様の影響でだんだんとその違いが
わかってきましたよ、わたしにも(苦笑)

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近くにいた他の参拝客は「みんな同じじゃないの?」
って言ってましたけどね(爆笑)

家康~家光期はわかるのだけど、中盤以降は
難しすぎて判りません(笑)

日枝神社からみる本殿拝殿。

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花菱にきゃぁーーー(笑)

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青銅製の吊燈籠にも寄進者の名前があって
またいろいろ見ちゃいました。

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こちらは、松平忠明。

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こちらは・・・

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島津式部源久房ってダレ?

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一応、島津久房って人物がいるんですが
時代が合わないんですよねぇ。
しかも大体大名クラスが寄進するもんだと思うし…謎。

拝殿脇にて。けっこう雨降ってたんですよね。
まぁ、雨の日も悪くない。

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拝殿の入母屋破風にうっとり。黒×金のかっこよさ
がすさまじい・・・すげぇ。

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日光東照宮は、甲良家大棟梁・甲良宗広の手になりますが、
こちらは中井大和守正清の手によるもの。
徳川大坂城、名古屋城など多くの徳川系城郭建築に加えて、
四天王寺や方広寺大仏殿を手がけ幅広いですね。

内側から唐門を拝見。扉の彫刻がすさまじい…

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唐門側面。

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そして瑠璃(ラピスラズリ)で彩られた
徳川葵が美しすぎる・・・感動。

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拝殿内。

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先に瑞鳳殿に行ってしまったのもあって
どうしてもこの手の霊廟建築は真っ先にアチラを
思い出してしまうのですが、家康にしても
政宗にしても、家光ゆかりと考えると・・・

瑞鳳殿にあのような装飾を許されたのは、
家光ー政宗の蜜月関係にもありそう、
なんて想像しちゃいますねぇ。

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なんとなく撮ってみたくなったアングル(笑)
拝殿の端から唐門に向かって。

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拝殿の脇から家康公神廟へ。
久能山城としては本丸外に当たるのかな?

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ここにも石燈籠がたくさん・・・
またひとつひとつ確認したくなっちゃう(笑)

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拝殿の側面が少し見えます。
この黒いのも、例の黒チャンなんでしょうね。

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土佐國主従四位下侍従忠義・・って、
あぁ、山内忠義のことだな。

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あれ、これだけ六角柱になっとるぞい?

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江州彦根城主
従四位下侍従井伊掃部頭藤原朝臣直孝

おお、井伊直孝だ!あれかな神廟に近いほうが
格が上とかあるんかいね?

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一点一点確認したいですが、時間も惜しいので
先に進みます。

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整然と並ぶ神廟への道の石燈籠。

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階段を上がった先の枡形。あまりにも
均整すぎる、そして近世すぎる桝形なんで、
久能山城の遺構ではなく、東照宮造営時に
つくられたのではないかな、という気もします。

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振り返って。城郭遺構のような気もしますが。
うーん、そこんところの解説はないので不明です。

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神廟。日光のそれに酷似。
いや、あちらがこの神廟に似ているのが正解か。
亡骸はここに眠っているのですよね。

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さて、家康公にご挨拶をして久能山を後にします。
帰りに気付いたんですけど、別格官幣社の文字の揮毫、
柳澤徳忠子爵なんですね。

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越後三日市藩主で柳澤吉保の五男時睦に始まる支流。
どういう経緯なんでしょうねぇ。

ま、それはさておき清水までテクテク。
途中で見つけたキレイな色の花。
アジサイの亜種っぽいけど・・・なんだろう?

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清水まで着いたらごはんごはん。
マグロカマ焼にマグロ三昧、桜海老の掻き揚げまで。

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なかなかちょっと次行くのは大変そうですけども
日光ほど混雑はなくって、建物のすばらしさも堪能でき、
城の痕跡もあったりなんかで、かなり楽しい一日。

ただ、門前が寂れている感じがすごくしていましたし
静岡にしても清水にしても近いのに
アクセスに困る(わたしのように歩く人間は別)環境。

普通はロープウェーなんでしょうけどね・・・
ちょっと残念な気がしました。

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浜松城天守門。

いつ振りくらいですかねぇ…浜松城。
いろいろ発掘したりちょくちょく話題に上がりますが。

早速、素敵な野面積石垣どーん。

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天守門下。ここもいい!

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羊歯の前立てをアピール中の家康氏。
「どうじゃ、ええじゃろ」

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全体的に土の城を石垣化したというのがわかる
鈍角の石垣のカドが組み合わさってるのがよござんすね。

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算木積の未成熟感に興味津々(笑)

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自分の目で見たのはお初の天守門。
1873(明治6)年まで建っていた再現で、
記される家紋は幕末浜松藩主・井上氏の紋。

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設計図面等はないものの、発掘調査と絵図から
三浦正幸先生が図面を起こして再建したもの。
図面がある復原よりは精度は落ちるものの、
比較的忠実な仕上がりになっているんでしょうね。

雨模様だったこともあり、材の香りがふわぁぁと
漂っていてノックアウト(笑)

すーはー!しないではいられません!

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先に浜松城模擬天守。模擬天守自体はルックス悪くないが、
天守台とぴったり合ってないのはなぜ?

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石垣も天守はある真下だけは色が違ってて…
やっぱり石垣が大気汚染で汚れた結果なのかね?

天守入り口あたりでは模擬天守の
瓦吹き替え工事中。

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天守内で興味深かったのは、三方ヶ原~野田城に向かう
武田軍の侵攻ルート。これ後で浜松を再訪した時に
けっこう参考にさせていただきました。

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特にこの辺ね!

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そして近世浜松城のけっこうイイ模型。
こんなん記憶なかったわー!南から。

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今でも城らしく残ってるのって、
この中心部あたりだけなんだなぁ・・・・

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濠がねぇ・・残っててほしかったよねぇ・・・

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こういう図を見ると、破壊っぷりがわかるよね。
出丸跡って丸いけど、丸馬出なのかなぁ?

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誰や、海苔置いていったやつは!

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というのはさておき、富士見櫓から富士山が
キレイに見えそうでいいなぁ・・・と想像(にやり)

一方で、花菱あるよ!割菱あるよ!
といういつものビョーキも絶賛発症中です(笑)

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しかし、天守台の空いてるところ、
どうなってたんだろう…上の写真みると、
連結式天守だったような感じはしますよね。

浜松城天守のお土産で笑ったのが葵紋蚊取り線香。
よく考えたなぁ・・というのとある程度複雑な紋だから
映えるんであって、武田菱じゃちょっとな~
と思ってしまいました。

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さて、続いて天守門。

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井筒紋って知らないと、井伊家って思っちゃうよね。

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天守門、檜の使用割合が多いみたいだけど、
内部の梁は松、床は杉。柱に檜が多いみたい。

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門を通るときに檜の香りがたちこめるのは、
そーゆーことなんだねぇ。

今後は土塀・建物の復元だけじゃなくて、
遺構の調査保存、樹木の伐採剪定もやって
整備をすすめる計画。

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さて、ちょっと土塁の方も見て行って
浜松城を後にします。これって往時のもの?
模型をイメージしながら考えると、違うような…

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さてこの日は浜松泊。浜松立ち寄ると、
餃子ばっかり食べてるわたしですが
かといって、駅から遠い店まで遠征している
というわけでもない・・・

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一度ちゃんと、お店を事前に調べて
これは!というお店で餃子を食べたいもの。
あ、もちろんここもおいしかったんですけどもね。

先日、ゆるキャラ第1位に輝いた出世大名家康くん。
一気に知名度上がったでしょうねぇ。

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ホテルでは、城メグリストさんが紹介してられた
開運石垣クランチをもぐもぐしながら、
AR天守を堪能。いろんな城でできるとおもしろい!

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さて、翌日は静岡駅から10km歩いて、
久能山東照宮(久能山城)に参りますぞよー!

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山本勘助墓初参詣~長篠合戦慰霊祭。

さて、慰霊祭が続きますが・・・7月の長篠。
昨年に続いて2回目の参加です。

前日には、長谷寺。ここ山本勘助の故郷なんですね。

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大々的に「山本勘助のふるさと」推しな感じ。

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山本勘助遺髪塚。四十過ぎて武田家に仕官の折り、
長い髪を切り落とし長谷寺の住職に
死した際に葬るように託し、後に川中島での
討死の知らせを知った住職が
勘助の言葉通りに葬ったというもの。

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もう故郷には帰らない決意だったのでしょうな…

そして、大河ドラマ「山本勘助」でも出てきた
摩利支天像が残っています。首飾りになっていたのは
大河オリジナルですが、実際に持っていたのは
確かなようでして。

P1100690

いつまで勘助が所持していたか?は二つ説があるみたいで、
看板には、武田家に仕官後に人手に渡るのを
避けるために住職に託したとありますが、
勘助が二十代から諸国放浪して、修行の際に持ち続け、
髪とともに甲斐に行く際に住職に託した説が有力とか。

ということで、普段は見れるのかわかりませんが
実際に見せていただけることになりました!

元々はこちらの古いお堂が摩利支天像を
安置するためのお堂だったそうで。

P1100697

菊花紋がその格式の高さを物語ります。

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今ではお隣の観世音菩薩像の堂のほうに
遷されております。この観音様も牛久保城主
牧野家守本尊という大変由緒のある像。

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で、摩利支天像はどちら・・・・???

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奥にある小さな厨子に安置されているのが、
その摩利支天像。4cm足らずの像なんですねぇ。

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小さすぎて写真に撮れないので、拡大写真を
写真に撮っておきました(笑)

まぁ持念仏ですから小さく持ち歩ける像なんでしょうけど、
よりその勘助ともにあるという演出のために、
首飾り型に大河ドラマでは変わったのでしょうね。

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住職筆の摩利支天像縁起。山本「晴幸」と
あるのがちょっとひっかかりますけども・・・・

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風林火山のポスター。ちょっともう懐かしく
なって来るくらい時間が経ちましたよね。

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さて、翌日。生憎の雨模様でしたが、
テントの下で慰霊祭に参加して、手を合わせてきました。
武田菱を背負った方の法螺貝の音で始まります。

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流れとしては昨年同等なのですが、雨模様のため
鉄砲演舞はございませんでした…

昨年もそうでしたが、読経する勝楽寺のご住職の脇で
銅鑼が登場するんですよね。

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この後信玄塚に参り、躑躅が崎のお水で清め、
少し諸将の塚を巡りました。

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なんだ昨年山縣さんの碑メッチャ探したのに
こんなところに案内があったんだと(笑)

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山縣さんに南無・・・

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連吾川に向かって山県陣中から徳川陣中を眺める。
あの鉄塔の辺りが徳川本陣処。すごい近いんだよね・・・

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帰り際に、この山県さんツナガリで、
山県昌景隊の先鋒を勤めた、辻家の御子孫様から、
彦根城博物館に井伊直政に対して
武田の戦い方を伝えた文書がある、なーんて情報をげと!
いつか読んでみなくちゃな…!!

ということで、無事にお参りをしてきました。
でも、これでサッサと東京に帰るわたしじゃありません(笑)
このあと、浜松と静岡によって帰りますよっ。

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