平成27年度武田家旧温会秋季研修 ①三守皇山大聖寺。
さて、11月の話。ここ数年で懇意にさせて頂いている
武田家一門と家臣末裔で結成された
「武田家旧温会」の研修の旅に参加させて頂きました。
思えば、一昨年前に一般人にも研修の参加を
呼びかけてくださって、それに応募したのが始まり。
ある思いがあればチャンスは向こうからやってくる、
それを引き寄せることができた・・なんてことは
往々にして聞くことですが、このツナガリは
わたしにとって、引き寄せることが出来た幸運と
いって間違いないひとつであります。
ということで、研修会は1年ぶりの参加。
「武田神社正式参拝と武田家重宝を巡る旅」
と銘打つ今年の研修会、まずは通常は非公開の
身延・三守皇山大聖寺へ。
身延は日蓮宗の総本山・久遠寺があり、
ほとんどのお寺は日蓮宗なのですが、ここ大聖寺は
真言宗醍醐寺派、信玄公とも縁の深いお寺です。
すべての甲斐源氏の源、新羅三郎源義光
お手植えとされるケヤキが鎮座。
幹の部分はかなり抉れていますが、
それでも生き続ける脅威の生命力ですね。
ただ、義光が甲斐に赴いたかは謎ですが・・・
やはり甲斐南部ということで、加賀美遠光の影響か
三階菱が目立ちますね。
本堂入母屋の彫刻がすばらしい!!
アップで。王の字の三階菱の奥に、
梵字が見えますね!
そして非公開のお堂に上がらせていただきます。
立派なご本尊、大聖寺不動明王が御鎮座。
お不動様の近くには武田家累代のご位牌。
このお不動様、御鎮座の由来がすごくてですね・・・
滝口武者として内裏の警護に当たっていた
加賀美遠光が弓の名手として病に倒れた
高倉天皇に召されたそうな。
鳴弦の儀を以って不動明王に祈願。
遠光は見事、高倉天皇の平癒に成功。
この功により、褒美として当時の清涼殿に
安置されていた弘法大師作の不動明王像を拝領、
今眼前にあるお不動様がこの像というわけです。
間違いなく清涼殿にあったままだと焼失間違いなし。
遠光が甲斐に持ち帰ったことで、今に伝わる
といっても過言ではないでしょう。
正面から失礼いたします。
加賀美遠光の子孫たちは三階菱を家紋することが
多いようですが、特に遠光は三階菱の由来になった
「王」の字をつけていて、道理で・・と思いました。
それだけ遠光ゆかりなわけですよね。
もともと、嵯峨天皇の発願で弘法大師が造ったそうで、
嵯峨天皇の時代に疫病が流行、帝自ら金泥で
般若心経を写経され、弘法大師がこの不動明王に
祈念して読誦して疫病を退散させるなど、
この不動明王は何度も朝廷の苦難を救ったということで
高倉天皇から寺号である「三守皇山」を賜ったとか。
また大檀越として、今でも加賀美姓の方が
いらっしゃって、ゆかりある方々に守れられた
お寺なんですね・・・
もちろん、信玄公の時代にも厚い信仰の対象で、
甲府駅前の有名な信玄公像のモデルとなった
肖像が残されております。こちらも非公開肖像。
信玄公木造も安置。
このほかゆかり深い、源義光・加賀美遠光の
像も並んで安置されています。
外には元義光墓とされ、今では三社天神宮として
1808年にゆかりの三公を祭る廟が。
信玄公と大聖寺の縁として、柿の話があるそうです。
甲陽軍鑑の信玄公の人材活用の考え方を示すものとして
有名な柿の話がありますが、この柿はここ大聖寺に
植わっていたものだそうです。今では枯れてないそう…
そして柿の話はもちろん知っていたのですが、
そこに至るまでのくだりは初めて知りました。
この柿の木、御所柿という甘柿で近年は幻に
なっているそうですが、信玄公が大聖寺に参詣の折、
美味しいと絶賛されたそう。
そんなに御屋形様がお褒めになるなら、渋柿は全部
伐ってしまい、皆この御所柿にしましょう
と言ったところで、あの言葉が出てきたんですね。
信玄公曰く、渋柿には渋柿なりの使い道を活かすべきだし、
だからといって今渋柿を継いで甘柿したものを
伐らなくともよい。人間の使い様も同じであって、
人に応じた用い方をしなくてはならない、と。
まさに適材適所でありますね!
さて、もうひとつのエピソードが信玄公の礼状。
大聖寺は戦勝祈願の寺に指定された寺のひとつで、
かの第四次川中島合戦後に、信玄公が大聖寺宛に
認めた書状と短刀が残されています。
袈裟もあったそうですが、失われてしまったそう。
内容を頂いた資料から抜粋します。
今般信州川中嶋合戦之刻、薄氷を踏むが如し。
萬難を逃れしは尊師御祈禱の丹誠、
ぬきんでられし処、既に勝利全く終わりぬ。
不動明王加護のためと、ここに安堵の思いを申し述べ候。
よって五条の袈裟、半装束の糸房(=数珠のこと)
ならびに御劔を寄附する。尚帰陣の節、日ならずして
謝をあらわし申すべく候。陣中不備。
永禄四年酉歳九月十日
大僧正信玄(花押)
大聖寺御坊中
9月10日というと、決戦のまさにその日。
というのと、個人的には「大僧正信玄」の文字が
崩し字であること(信玄公は楷書に近い理解)、
花押と「玄」の字が重なっていること、
また署名に「大僧正」と付けているのは初見。
というか、大僧正と称すのはかなり先のはずでは?
という気がしたんですけども・・むむ。
原本ではなく写しかもしれません。
短刀。一度焼けたのか、保存状態は
よくありませんね・・・
ただし、梵字が彫られているのは
しっかり確認できます。
短刀を収めた鞘。
さて、最後にお不動様に一礼して、
後にいたします。
とそのとき、ふと上を向くと見事な龍が!
天井の龍というと京都・天龍寺あたりが有名ですが
こちらも負けておりません。
さて・・・お次は東光寺。
信玄公嫡男義信殿、諏訪頼重殿のお二人が眠ります。
ある種、信玄時代の陰部のひとつである
義信事件と諏訪家ゆかりのお寺です。
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