武田信玄の国家構想 - 新鎌倉星ノ谷。
さて、真夏の7月のある日。
BS TBSの「にっぽん!歴史鑑定」で信玄公の影武者の
話をしていた回「#10 武田信玄と影武者」の最後で
信玄公が全国統一をした暁に、国府の適地
と考えた場所が相模にあるという話がありましてですね。
その名は「ほしのや」。
現在の星谷寺の近く、元の星谷寺のあった
座間谷戸山公園・伝説の丘と現在呼ばれている辺り。
ここに信玄公が全国統一後に御座城と築いて、
新鎌倉とし、来る新たな武家の都を夢見た・・
なんともロマン溢れる話なわけです。
ということで、フォロワーで関心のある皆様で
集まって件の「新鎌倉星ノ谷」に向かって
みることにしました。
とはいえ、当時は北條領国。なぜ信玄公が
その星ノ谷を見ることができたのか・・・・
といいますと、駿河領有を巡って北條家と敵対した頃。
北條家の牽制目的で小田原城を武田軍が
囲んでいるのですが、その往復で座間近辺を通過。
帰路、金田の地より星ノ谷を要害堅固かつ
将来発展の望める地として、信玄公が褒めたという話が
「甲陽軍鑑」に伝わっています。
さて、せっかくなんで行きは武田軍の小田原侵攻
ルートの一部をなぞってゆきました。
スタートは原当麻駅。ここから座間に向かうこと
6km前後の道のりです。
ちょうど相模川の浸食でできた河岸段丘の西端を
進んでゆきます。台地からみた高低差はかなりのもの。
しばらく進むと、さいかちの碑。
信玄公が小田原進攻の戦勝を祝い植えたものと伝わり、
次の戦も再び勝てるように「再勝ち=さいかち」
との願いが込められているそう。
実際の武田軍はこのあと愛川町方面で反転して
北條軍を迎え撃ち、三増合戦で辛勝すること
になるわけですが・・・
甲斐に帰陣するまでの一戦を想定しての奮起の
意味もあったのかもしれません。いずれにしても
このあたりが武田軍の往還ルートだったのは
間違いないのでしょう。
思わず「カゲカツ」と読んじゃう・・・
景勝・八景の棚。相模川の様子が好く見て取れます。
ガスってて見えにくいですが、橋のある
あたりが当麻の渡し跡で、往路の武田軍の渡河地点
のひとつと推定されている模様。
このあたりから段丘が下り坂。
三段の滝展望広場あたりはさすがに開けてる。
渡河地点を見定めたりするには、この段丘上が
適地だったんでしょうね。
降りていけそうなところグッと我慢…
鉄じゃねぇと言っておきながら、
やっぱり撮っちゃうあの方(笑)
まぁ、そんなわたしも思わず線路撮って
いたりするわけですけど。
すこし行くと磯部。ここも武田軍の渡河地点の
一部になっているようです。写真は磯辺八幡。
こういう古社は古道の目印になるみたい。
相刕高座郡礒部とあります。ここあとから
ポイントになってくるのです・・・
少し進んでから星谷寺方向へ舵きり。
座間神社の下を進みます。
磯部が武田軍往時の侵攻ルートだとしたら、
星谷寺近辺まで近づいていたんですよね。
オモロイマンホール。徳川葵ならぬ
徳川向日葵的な(笑)
さて、ここでようやく谷戸山公園着。
お待たせしてすみません・・・
旧星谷寺の本堂跡とされる伝説の丘。
もちろん信玄公がここへ来ることも、御座城が
築城されることもなかったわけですが、
もしそうなら、本丸が築かれたのでしょうか。
元は本堂山といっており、本堂があったことを
偲ぶ名前でした。焼失は鎌倉といいますから、
長く伝えられた名前。確かに山城をつくれそうな
いい感じの小山ではあります。
城が築かれることはありませんでしたが、
北條氏照もこのあたりを宿営地にしたこともあるそう。
必要に迫られれば、軍事的に着目されうるところ
だったのでしょうねぇ。
本堂に向かう坂を本堂坂と呼んでいました。
もし御座城が築かれていたら、大手道になっていた?
さて、大手道・・・じゃなかった本堂坂を下って
現星谷寺に向かいます。
庚申塔に馬頭観音。古道跡に好く見られるものが
残っているということは交通の要衝だった?
との解説になるほどなるほど。
星「野」谷とも書くんだ。
さて、現星谷寺、観音堂。行基開基の由緒ある寺。
1227(嘉禄三)年銘の梵鐘。本堂山に本堂が
あった頃にあったであろう梵鐘。
鎌倉初期の武将、佐佐木信綱の寄進。
「木食観正」「日本廻國供養塔」の文字。
木食観正は江戸後期の木食僧。どんな由来が…
像は皆、斬首されている。これも廃仏の影響だろうか?
大きな立派な宝篋印塔。
同行されたしみずさんのご指摘であっと気付く、
「相模國鎌倉郡座間郷」の文字。
そうさっき磯部を通ったときには、高座郡と
あったはずなんですよね。新鎌倉構想との関連を
何か想像しちゃいますね。
「星谷寺」の扁額。
昔は栄えたお寺だったのでしょう、
彫刻が見事です。最近彩色しなおされたのかな。
こちらは開基の行基上人でしょうか。
星谷寺・・の名前の由来でしょうか、
星の井戸。昼でも星が見える・・・あれか?
さて、ここからはクルマ移動。駐車場に向かうため、
再度、本堂山のほうに引き返します。
西入口長屋門。このあたりに星谷橋という小さな橋と
水の流れがあって。黒田日出男先生の
歴史書通信寄稿には水源確保が難しそうって
ありましたが、そうでもない?
今では橋の感覚がわかりにくいですが、この道路が
星谷橋跡でこの下に小川があります。
水源豊富というほどではありませんがね・・・
当時はどうだったかわかりませんが。
本堂山を見ながら進みます。キレイに刈られていて
城郭が整備されている様を想像・・・
実際、城にはなってないので脳内でやりたい放題(笑)
再び違うルートで本堂山をぐるりと。
北條だったら、武田だったらどんな縄張りに
するんだろうな・・・・
さて、今度は信玄公が星ノ谷をみたという、
金田から眺めてホントに城を造りたくなるのか…を。
といっても、今はビルが立ち並びなかなか
金田あたりから見るのは至難とのことで、
県道42号の西側から相模川を渡河する直前のポイントから。
あの台地状になっている先端が本堂山。
確かにこれは城を造りたくはなる・・・・
が、わたしも含めた一同の意見としては、
城はあってもよさそうだけど、武田幕府の本拠となる
新鎌倉にしよう!と思える感覚はない…
比較的金田に近いか?と思われる吾妻坂古墳から。
むーーーーーーきびすぃ。
ここであそこからならいけんじゃね?
というマル秘スポットを発見。信玄公が見たであろう
アングルに近いんではないかと。高さこそ違えど。
うーん・・・いわゆる城砦としての観点なら
台地の先端にあたり、街道を押さえる要所ですが、
新鎌倉という一大拠点を構えられたのか?は正直疑問。
あれだけ海を求めた信玄公にしては、相模川の水運は
ありますが、駿河や小田原と比べると海に遠い。
皆で頭を抱えてしまいました・・・(笑)
近くの建徳寺。武田・上杉の小田原攻めで
被害を受けたと伝わる寺。
ここに近くの牛久保用水を開いた本間氏累代の墓。
この用水の脇の坂(牛久保坂)を武田軍が駆け上ったとか。
カエルが気になる(笑)
その用水。今ではコンクリートで囲まれていて
当時の面影を想像するのは難しいですが、
武田軍が来襲した際にもこの水の流れがあり、
ここを駆け上がっていったのですね・・・・
さて、来た道をクルマで引き返し、八景の棚に再度。
あちゃぁ・・・ガスっちゃってる(爆)
そして、さいかちの木。
枯れることなく、長く残ってほしい。
さて、クルマで武田軍の渡河地点である
当麻の渡し跡の昭和橋をクルマで再渡河・・・
最後に向かったのは信玄公が小田原侵攻の帰路に
通ったという信玄道。大部分は県道と重なるのだけど、
このあたりは細道がわずかに残ってて。
なんだか棒道のちょっと少し残ってる感じと
よく似ていてうれしくなりましたね。
この道の先には、三増の激闘の地。
そんなことを思い出させるマンホール。
もうここは三増を擁する愛川町なのです。
そんな武田に浸っていると自然と
こういうものも武田菱に見えてくるわけで・・・・
(誰ですか、いつもでしょって言ってるのは(笑))
ということで、行ってみていろいろ判った星ノ谷の謎。
どういうことを信玄公がお考えだったのか・・・
少し先にはなりそうですが、黒田日出男先生の
『甲陽軍鑑』の史料論―武田信玄の国家構想を読んで
みたいと思いました。またそうすると現地に
再度行きたくなっちゃったりするんだろうなぁ。
同行いただいた皆さま、ありがとうございました!
参考:
歴旅.こむ
武田信玄の描いた「新鎌倉」構想地?…「ほしのや」
歴史書通信 2015年 5月 No.219
黒田日出男 信玄が御座城を築こうとした「ほしのや」(PDF)
元添乗員の裏技旅行ガイド 観光情報・所要時間情報
星谷寺と座間戸谷山公園
戦国武将列伝Ω
武田信玄の国家構想である新鎌倉と星の谷とは?
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