江戸城寛永度天守復元調査報告書記念報告会。
比較的最近の話・・・ですが、認定NPO法人の
江戸城天守について、調査報告がまとまったとのことで、
その記念報告会に参加してきました。
江戸城寛永度の天守については、史料が残っている
ということは判ってはいたものの、史料の研究は
突っ込んではされていなかったということで、
三浦研究室で1年かけて、調査されたとのことです。
三浦先生は、もうこの江戸城天守の報告書を研究者人生最後の
大仕事と位置づけ、精力的に研究なさったそうですよ!
■三浦先生記念講演■
今回も現天守台が、家光が寛永度天守が建った際に、
石垣が外から見た際に、多聞櫓の上に少し見えたのが
惜しいと嘆いたとされることを踏まえて、再建時には
1間低くつくられたエピソードも披露。
ただ、その記録ソースは言及されず・・・気になりますね・・
新たに研究を重ねて、できた復元図がコチラ!
南面と西面が披露されました。当日の資料から。
南面。
西面。
以前から解説いただいているように、黒チャン塗りの
銅板で覆われた漆黒の天守。これに金の装飾が加わって、
非常に締まった印象のある天守です。
従来のNPO法人復元図では、銅板葺の屋根が
緑で表現されていましたが、これは建築後数年ほど後の姿。
数年経つと、平均的に酸化していきキレイな緑青へと
姿を変えていくのだそうですね。
創建当初は今回の図案のように黒チャン(松脂と煤)
を塗っていたと考えられ、再建直後の様子を表現。
日光東照宮でも同様の彩色が用いられているそうですが
アチラではすこし黒漆も混ぜているのだそうです。
壁面にも銅板張・黒チャン塗の部分と白漆喰、
飾り金具には惜しみなく金が使われて、
金・黒・白のコントラストが見事ですね・・・
この再建案の基礎になったのは、
①江戸城御本丸御天守百分ノ一建地割(都立中央図書館蔵)
②御天守絵図(国立公文書館蔵)
の2点。
いずれも都立図書館Web、国立公文書館アーカイブで
デジタル公開されておりますよ。
江戸城御本丸御天守百分ノ一建地割
御天守絵図南面
御天守絵図西面
①は甲良家文書として甲良家(現在では断絶)から伝わったもの。
日光東照宮の創建・修繕に携わった大棟梁の家柄。
他に豊臣時代~江戸時代初期に活躍した中井家と比べると、
中井家が京都・江戸・名古屋・大坂と広い範囲の
城郭・寺院の建築を担当しているのに対し、
甲良家はほぼ江戸城・日光東照宮に限られ、
その専門技術集団であったようです。
②は正徳年間に上がった再建計画のときに幕府に
提出された絵図。①の図面と比較することでピッタリと一致。
寛永度天守をそのままそっくり再建したことが
図面上からも判ったようで・・・!!
さらに①では判らない外観意匠や窓の具体的な位置などを
ハッキリさせる貴重な図面。
実はこれ以外についても、江戸城天守として
伝わった図面はあるのですが、技術的な観点から
矛盾のあるものや、そもそも明治期に写されたものなど、
寛永度天守や寛永度そのままに再建しようとした
正徳度計画当時の一次史料とはいえないことが、調査で発覚。
さらに・・・①の図面に関する興味深い事実。
これ「百分ノ一建地割」とあるのですが、
実物に対して、1/○という縮尺をもって図面を起こすのは
江戸時代には無かった手法。おかしいなと調べると、
実は1/100ではなかったことが判ったんだそうです。
・・・中途半端な1/107だったそう。柱間が七尺と
図面にあるにもかかわらず、実際の図面は六分五厘(≒2.1cm)。
本来なら1/100ならば七分で描かないといけないところ。
さらにこれは寛永度天守の設計図ではあるものの、
実際に建った天守を実測していないであろうとも推測。
というのも、屋根の高さが一切書かれず、
屋根の勾配(角度)のみを記してあるのですね。
面白いのが、初層~五層で屋根の勾配が変えてあって、
上層に行くほどわずかに急角度にしてあるんですね!
見上げたときに、上に行くほど緩く見えるというのも関係?
初層=五寸四分勾配
二層=五寸五分勾配
三層=五寸六分勾配
四層=五寸七分勾配
五層=六寸五分勾配
五層が特に急角度になってるみたいですよ。
屋根の勾配と柱の幅から計算上、柱の高さが判るわけで
実際測ってないというのは、こういうことからわかると。
この計算によって、正確に判明したとのこと。
天守台から天守棟木までが144尺(43.63m)、
石垣下から入母屋屋根の大棟までが93尺5寸(68.63m)。
従来石垣含めて59mと言われていましたので、実際には
さらに高かったということになりますね。
ただ現在は天守台の下のほうは埋まってますけども。
そして、南面天守入り口に見える黒部分は総鉄板張。
現在ですと、坂下門の鉄板張のイメージですかね。
また狭間のようにみえるのは、穴蔵の明かり取りだそう。
南に一箇所、北と東西に各二箇所。現在の天守台には
見えないのですが、天守を実際建てる際に
天守台に石を一段追加する計画だったと推測。
そして、穴蔵構造。現在見られる石の階段、
さらに六箇所、都合七箇所の石の階段が
あるはず・・・とのことですが、早く発掘してほしいです。
一階は七尺間で南北十八間・東西十六間。
もちろん史上最大、名古屋城大天守・徳川大坂城天守が
南北十七間・東西十五間で少し小さめ。
そしてすごいのが地階・一階の階段。
これまでは踊り場が一箇所のL字型と思われていたのが、
踊り場が二箇所のコの字型。さらにこれは二つ。
しかも二箇所あるうち、片方は御成階段だろうと思われ
勾配が緩いのだそう。さらに二回折れていることで、
傾斜は45度程度と木造天守の中では随一の人に優しい天守(笑)
五階でも八間・六間もあって、これがちょうど
高知城天守の一階と同じとか。でかい(笑)
通し柱の通し方も意外と必要最低限しかなくって、
耐震対策というよりも暴風対策ではないかとのお話でした。
そして天守台にかかる荷重の分散構造の妙。
一階と二階部分のみ石垣に荷重がかかるほかは、
穴蔵に敷かれた柱がすべて支えていることが図面から明瞭。
最後に、江戸城天守の非戦闘性。
破風には人が入って銃撃することもできないし、
石落としも狭間もないという・・・
天下泰平の象徴というのは、三浦先生のご持論ですが、
江戸城天守が唯一攻撃装置のない天守というのは、
城の位置づけという意味でもおもしろい。
戦闘性は確かにおもしろくて、ハマッたら
止められないある種の中毒性があるのだけれども。
信長の城から顕在化する政治的な「見せる城」が
極まったある種の到達点として、
とても興味深い江戸城天守なのでした。
最後に・・天守の屋根が一直線に並んでるんですよね。
そう・・霊峰富士。富士山型に見えるのですよね。
層塔型ならではの美しさなんだろうな、と。
■共立女子大発表■
そして興味深いのが、共立女子大・家政学部
建築デザイン学科の皆さんの発表。
これ実際に天守が建ったら参考にすべき点
がたくさんあるなーと興味深く拝聴。
徳川葵の紋の真ん中に江戸城天守を据え、
江戸城天守に人が向かう意味も込めた
江戸城天守ロゴマークとフォントが素敵・・・
ポスターも素敵だし、ロゴマーク入った
紙袋ほしいよね・・・!! 江戸城天守の焼印の入った
お饅頭・・・ほしいほしい!!
値段は「おしろ」にかけて460円(笑)
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さてさて。具体的な報告書の発刊は来年早々。
原稿案を現地で拝見しましたが、信頼に足る史料が
上記2点のみである検証が丁寧。
しっかり読み込んでみたいですね。
また慶長度の天守台の一部が中之門に使われてるなど、
興味深いことがたくさん・・・待ち遠しいです。
しかし、この再建図面見れば見るほど惚れ惚れします。
かっこよすぎる・・・・!!!
ということで、今後も江戸城天守再建運動、
応援していきますし、活動を見守りたいと思います。
わたし自身も何かお役に立てれば・・とも思いますしね。
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