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仁科薩摩守盛信法要。

例によって、時系列がめちゃくちゃですが、
GWのはじめ頃、名古屋城の展示に感嘆した翌日。

バスで一路伊那路を進み、高遠まで目指します。
途中、駒場長岳寺の近くを通りかかったので、
静かにバスから手を合わせました。

当日は、いやに大きな会合にも呼ばれていたのに
到着が遅れてアセアセ・・・保科正之公を縁に
会津の皆様とも交流が活発な高遠を
感じずにはいられない会合になりました。

 武田を語らずして保科を語るべからず

どなたかそうおっしゃっていたのも興味深いですね。

さて翌日。桂泉院にてまず法要が取り行われます。
龍澤山桂泉院、武田家とのゆかりのある寺院。

高遠城を拡張するに当たり、かの山本勘助が
ここから地形を眺めて城の縄張をしただとかで、
勘助桜があるそうで…どれ???っと
結局わからずじまいでしたが(汗)

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高遠頼継討伐後、城主は秋山伯耆守、そして諏訪家を
継承した勝頼が伊那郡司として在城。
そして1566(永禄九)年には諏訪勝頼と武田信虎が
祖父・孫の対面を果たしているのもこの高遠城。

後に、勝頼が武田家を継承すると、城主は逍遥軒信綱へ。
1574(天正二)年には高遠に在城した信虎が死去。
1581(天正九)にようやく仁科盛信が城主になるんですね。

在城時期としては、勝頼期は1562年~1570年と
長くはないものの、諏訪衆伊那衆をまとめる存在として、
「諏訪」家惣領としての地位を確立したんだろうなぁ・・・

閑話休題。

そして、仁科盛信はここで討死を果たし、ついに
高遠城は落城するわけですが、本能寺の変を挟んで、
保科正直が城主になるわけですが・・・

実弟で内藤修理亮昌秀の養子になっていた
上州箕輪城主内藤大和守昌月から兵を借りて高遠城を奪取。

その内藤昌月と正直、当時上州松井田の大泉山補陀寺
の廣琳和尚は兄弟でその縁と助力もあって、仁科盛信時代に
城内にあった諏訪社・法幢院(ほうとういん)を遷して、
龍澤山桂泉院と昌月が命名したんだそうです。

この廣琳和尚、後に補陀寺を譲り桂泉院に帰住しますが
弟子である泉海が高遠から最上、そして会津と移った
保科家の菩提寺・会津善龍寺
開いているのだそうですよ。

仁科盛信と保科・内藤の縁が会津につながっていく
関係の妙が興味深いです・・・!!

始まるまで奥の部屋に通されて、待機。
出された蕗がうまいったらもう!

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そして、法要参列。ホントに有難い機会です。
わたしもしっかり焼香させていただきました。

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当日飾られてあったのが、ものすごいお宝。
仁科盛信三男信正が上総武田家を頼って、
落ち延びる際に持って出たという信玄公像。
信正の御子孫の蔵に大切にしまわれている逸品。

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白い甲冑に赤い袈裟、北斗七星があしらわれた
軍配を手に持っているけっこう強面の信玄公。
自らが甲斐武田の出であることを示せと、
盛信が高遠落城前にもたせたという。

普段は門外不出で特別に今回、盛信17世の林家御当主が
お持ちくださったのです・・・ありがたい。

もう一点、後の時代ですが盛信百回忌に当たって
描かれたという仁科五郎盛信像。

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後世のものとはいえ、盛信像として伝わる
肖像は他になく貴重なものです。

そして、くしくもこの日もうひとつの祭礼がありました。
高遠で盛信とともに散った諏訪勝右衛門の妻・はな。
夫の討死の仇を取らんと敵中に切り込んだそうな・・・

信長記にも「比類なき働き前代未聞」と記されたそうだが、
戒名すら今日までなく、戒名を授かることと相成り、
位牌に霊を込める儀が行われたのです。

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戒名すべては確認できず・・・

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やはりこうしたエピソードを見ても、諏訪衆が
あくまで勝頼に味方した理由というのが、
なんとなく透けて見える気がしますよね。

さて、続いては場所を高遠城内・新城藤原神社にて
例大祭を敢行。さくらはちょっと時期ハズレ…

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もともと高遠藩主内藤家が盛信を新城神として
祀ったことが始まりで、これとは別に
内藤家先祖の藤原家始祖鎌足を祭る
藤原社があり、明治になって合祀されたのが由来。

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先ほどの肖像も飾られておりますね。
この場にお持ちになるのは今回が初めてだそう。
丸に十字は藩主内藤家の紋。

このあと、伊那市立高遠町歴史博物館にも少し立ち寄り。
この近くでは桜が辛うじて残ってました。

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ほんの少しなのであまり満足には見れませんでしたが、
一点興味深いことが・・・・というのも、
仁科五郎の諱について。通常は盛信なのですが確かに
「信盛」というのも見たことがあって、何かの間違いだろ
と安易に考えていたのですが・・・

どうも、「信」「盛」の字を立場によって
入れ替えて名乗っていた可能性が指摘されているのだとか。

つまり、「信」は武田家の通字であり、「盛」は
仁科氏の通字。諱を盛信とする根拠である
仁科神明宮の社殿造営の棟札は仁科氏としての行為で
「盛信」と名乗っているのではないかと。

一方、後世の史料にはなるものの、「高遠記集成」や
その他地元に伝わる「信盛」の諱は武田家の一員としての
意識を明確にしたものでは、ということだそう。

むしろその際には、仁科信盛ではなく武田信盛と
考えた方がよいのかもしれませんね。

この諱の使い分けひとつみても、武田家に生まれて
制圧地の名族を継ぐ立場の難しさが垣間見れるような…
どことなく勝頼の苦悩とも重なる気もしました。

さて、博物館そばで行われた保科正之公404年祭にも参列。
はるか遠く会津・土津神社に祈りをささげます。
高遠でも保科正之を大河ドラマにしようとする動きが
活発なようでした。会津と高遠のご縁。

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もし保科正之公が主人公の大河ができたら、
間違いなく武田のゆかりとその影響が描かれるはず。
保科公自体は秀忠の子ですが、ぜひ期待したいところ。

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さて、お昼には高遠そばと鮎を頂きまして。

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最後に五郎山。盛信・・いやいや信盛の胴塚です。
近くまでは車でそこから少し登ります。

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仁科五郎盛信公像。先ほどの御子孫に伝わる
盛信像をもとに大河ドラマ「武田信玄」が放映された頃に
建立されたとか。ちょうどわたしが信玄公に
興味を持った時期ですね(笑)

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五郎山の謂れ。胴を今の高遠さくらホテルの敷地あたり
の勝間村の村人によって、なんとか織田軍から遺体を取り返し
荼毘に付し、この小山に葬られ「五郎山」と呼ばれるようになったとか。

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こちらは幕末期に建った盛信を祀った祠。
新城神社にしてもこの祠にしても、高遠を江戸中期以降
治めた内藤家にも手厚く扱われた様が想像できますね。

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なにか盛信に思うところがあったのでしょうね。

さてこうして慰霊祭・例祭に参加してみると、
ここでも盛信が暖かく、長く丁重に扱われているのが
よくわかりました。

仁科盛信というと、高遠城での激戦と壮絶な討死ばかり
がクローズアップされるわけですが、
盛信が高遠城を任されるのは勝頼自害の前年。

それまでは逍遥軒信綱、さらにその前は勝頼が
高遠城を守っていたわけで、この盛信に対する地元民の
心の寄せようには、勝頼・信綱時代の統治や
諏訪衆としての想いが見え隠れするように思えます。

もっと・・・仁科盛信という人物が立体的に
人となりが浮かぶ史料が出てきたらいいなと思った
ひと時でありました。

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