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2015年11月

仁科薩摩守盛信法要。

例によって、時系列がめちゃくちゃですが、
GWのはじめ頃、名古屋城の展示に感嘆した翌日。

バスで一路伊那路を進み、高遠まで目指します。
途中、駒場長岳寺の近くを通りかかったので、
静かにバスから手を合わせました。

当日は、いやに大きな会合にも呼ばれていたのに
到着が遅れてアセアセ・・・保科正之公を縁に
会津の皆様とも交流が活発な高遠を
感じずにはいられない会合になりました。

 武田を語らずして保科を語るべからず

どなたかそうおっしゃっていたのも興味深いですね。

さて翌日。桂泉院にてまず法要が取り行われます。
龍澤山桂泉院、武田家とのゆかりのある寺院。

高遠城を拡張するに当たり、かの山本勘助が
ここから地形を眺めて城の縄張をしただとかで、
勘助桜があるそうで…どれ???っと
結局わからずじまいでしたが(汗)

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高遠頼継討伐後、城主は秋山伯耆守、そして諏訪家を
継承した勝頼が伊那郡司として在城。
そして1566(永禄九)年には諏訪勝頼と武田信虎が
祖父・孫の対面を果たしているのもこの高遠城。

後に、勝頼が武田家を継承すると、城主は逍遥軒信綱へ。
1574(天正二)年には高遠に在城した信虎が死去。
1581(天正九)にようやく仁科盛信が城主になるんですね。

在城時期としては、勝頼期は1562年~1570年と
長くはないものの、諏訪衆伊那衆をまとめる存在として、
「諏訪」家惣領としての地位を確立したんだろうなぁ・・・

閑話休題。

そして、仁科盛信はここで討死を果たし、ついに
高遠城は落城するわけですが、本能寺の変を挟んで、
保科正直が城主になるわけですが・・・

実弟で内藤修理亮昌秀の養子になっていた
上州箕輪城主内藤大和守昌月から兵を借りて高遠城を奪取。

その内藤昌月と正直、当時上州松井田の大泉山補陀寺
の廣琳和尚は兄弟でその縁と助力もあって、仁科盛信時代に
城内にあった諏訪社・法幢院(ほうとういん)を遷して、
龍澤山桂泉院と昌月が命名したんだそうです。

この廣琳和尚、後に補陀寺を譲り桂泉院に帰住しますが
弟子である泉海が高遠から最上、そして会津と移った
保科家の菩提寺・会津善龍寺
開いているのだそうですよ。

仁科盛信と保科・内藤の縁が会津につながっていく
関係の妙が興味深いです・・・!!

始まるまで奥の部屋に通されて、待機。
出された蕗がうまいったらもう!

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そして、法要参列。ホントに有難い機会です。
わたしもしっかり焼香させていただきました。

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当日飾られてあったのが、ものすごいお宝。
仁科盛信三男信正が上総武田家を頼って、
落ち延びる際に持って出たという信玄公像。
信正の御子孫の蔵に大切にしまわれている逸品。

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白い甲冑に赤い袈裟、北斗七星があしらわれた
軍配を手に持っているけっこう強面の信玄公。
自らが甲斐武田の出であることを示せと、
盛信が高遠落城前にもたせたという。

普段は門外不出で特別に今回、盛信17世の林家御当主が
お持ちくださったのです・・・ありがたい。

もう一点、後の時代ですが盛信百回忌に当たって
描かれたという仁科五郎盛信像。

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後世のものとはいえ、盛信像として伝わる
肖像は他になく貴重なものです。

そして、くしくもこの日もうひとつの祭礼がありました。
高遠で盛信とともに散った諏訪勝右衛門の妻・はな。
夫の討死の仇を取らんと敵中に切り込んだそうな・・・

信長記にも「比類なき働き前代未聞」と記されたそうだが、
戒名すら今日までなく、戒名を授かることと相成り、
位牌に霊を込める儀が行われたのです。

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戒名すべては確認できず・・・

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やはりこうしたエピソードを見ても、諏訪衆が
あくまで勝頼に味方した理由というのが、
なんとなく透けて見える気がしますよね。

さて、続いては場所を高遠城内・新城藤原神社にて
例大祭を敢行。さくらはちょっと時期ハズレ…

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もともと高遠藩主内藤家が盛信を新城神として
祀ったことが始まりで、これとは別に
内藤家先祖の藤原家始祖鎌足を祭る
藤原社があり、明治になって合祀されたのが由来。

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先ほどの肖像も飾られておりますね。
この場にお持ちになるのは今回が初めてだそう。
丸に十字は藩主内藤家の紋。

このあと、伊那市立高遠町歴史博物館にも少し立ち寄り。
この近くでは桜が辛うじて残ってました。

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ほんの少しなのであまり満足には見れませんでしたが、
一点興味深いことが・・・・というのも、
仁科五郎の諱について。通常は盛信なのですが確かに
「信盛」というのも見たことがあって、何かの間違いだろ
と安易に考えていたのですが・・・

どうも、「信」「盛」の字を立場によって
入れ替えて名乗っていた可能性が指摘されているのだとか。

つまり、「信」は武田家の通字であり、「盛」は
仁科氏の通字。諱を盛信とする根拠である
仁科神明宮の社殿造営の棟札は仁科氏としての行為で
「盛信」と名乗っているのではないかと。

一方、後世の史料にはなるものの、「高遠記集成」や
その他地元に伝わる「信盛」の諱は武田家の一員としての
意識を明確にしたものでは、ということだそう。

むしろその際には、仁科信盛ではなく武田信盛と
考えた方がよいのかもしれませんね。

この諱の使い分けひとつみても、武田家に生まれて
制圧地の名族を継ぐ立場の難しさが垣間見れるような…
どことなく勝頼の苦悩とも重なる気もしました。

さて、博物館そばで行われた保科正之公404年祭にも参列。
はるか遠く会津・土津神社に祈りをささげます。
高遠でも保科正之を大河ドラマにしようとする動きが
活発なようでした。会津と高遠のご縁。

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もし保科正之公が主人公の大河ができたら、
間違いなく武田のゆかりとその影響が描かれるはず。
保科公自体は秀忠の子ですが、ぜひ期待したいところ。

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さて、お昼には高遠そばと鮎を頂きまして。

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最後に五郎山。盛信・・いやいや信盛の胴塚です。
近くまでは車でそこから少し登ります。

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仁科五郎盛信公像。先ほどの御子孫に伝わる
盛信像をもとに大河ドラマ「武田信玄」が放映された頃に
建立されたとか。ちょうどわたしが信玄公に
興味を持った時期ですね(笑)

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五郎山の謂れ。胴を今の高遠さくらホテルの敷地あたり
の勝間村の村人によって、なんとか織田軍から遺体を取り返し
荼毘に付し、この小山に葬られ「五郎山」と呼ばれるようになったとか。

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こちらは幕末期に建った盛信を祀った祠。
新城神社にしてもこの祠にしても、高遠を江戸中期以降
治めた内藤家にも手厚く扱われた様が想像できますね。

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なにか盛信に思うところがあったのでしょうね。

さてこうして慰霊祭・例祭に参加してみると、
ここでも盛信が暖かく、長く丁重に扱われているのが
よくわかりました。

仁科盛信というと、高遠城での激戦と壮絶な討死ばかり
がクローズアップされるわけですが、
盛信が高遠城を任されるのは勝頼自害の前年。

それまでは逍遥軒信綱、さらにその前は勝頼が
高遠城を守っていたわけで、この盛信に対する地元民の
心の寄せようには、勝頼・信綱時代の統治や
諏訪衆としての想いが見え隠れするように思えます。

もっと・・・仁科盛信という人物が立体的に
人となりが浮かぶ史料が出てきたらいいなと思った
ひと時でありました。

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ウイスキーのない余市と余市りんご展。

さて、当日夜はいつもの・・・ニッカバーリタさん。
おおおお、シャロやん来たんだぁ!
感謝祭の団扇も貴重品☆

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頂いたのは角瓶の竹鶴17年。今となっては
なかなかのレアモノ。今の17年とちゃんと比較して
飲むんだった。失敗した・・・

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ずいぶんレシピ違うように思いましたね。今のもいいけど
この古いのが好きかも。ちょっとシェリー感は少なめな印象。

しかし、余市のボトルの欠品具合はホントすごいらしく、
ノースランドでボトル求めて、朝から並ぶらしいですよね。
しかも、毎日入るわけではなく週末はあまり入らないとか…

蒸留所行ったお客さんの愚痴で、マスター大変だとか…
そない愚痴言われてもねぇ(汗)

とそんなこんなで、翌朝。
元気に水浴びしているニッカ熊に会って来ました。

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ぶしゃぁぁぁぁぁ(笑)

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んで、蒸留所に着くと・・・・
予約かぁ・・・予約が要るんだなぁ・・・
と隔世の感に浸らざるを得ない状況。

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あ、でもそれなりに空きはあったりするのね。

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蒸留棟。あ、そだそだ直火蒸留やってるよね。

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当日、寒かったので石炭が燃える暖かさがありがたかった…
そして、力強く香ばしい香り。

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今年7月に入れ換えたポットスチル。
ピッカピカの1年生やね。

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気持ち外国人も多かったかなという印象。
日本人ガイドから注連縄の意味を聴いて欧米人の女性が、
it's so coolとな。うれしいよね。

さてさて、期待せずにノースランドに行ってみます…
アップルブランデーのみですか・・・はぁぁ。

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有料試飲でも軒並み売り切れで、リタバーでも敢えて
控えた余市ヘビリーピーテッドもなし。
やむなくウッディ&ヴァニリック。これももう時間の問題か。

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あとは、今はなき余市10年。これまで手の届くところにいた
ウイスキーが消えてしまう寂しさを噛み締めます。
今年はこういう寂寥感を感じてばかりだね・・・

えー?ないの?という驚きがなんども起こる
有料試飲カウンター。つらいっす・・・・

ついつい撮ってしまう初号スーパーニッカ。
ウイスキーって美しい。

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レストラン「樽」では趣向を変えて、スープカレー。
北海道らしくラム。暖まる・・至極。

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このあと、ノースランドで余市Tシャツとニット帽を
買って・・・だって寒いんだもん(笑)
ウイスキーは敢えて買うものがないのでスルー…

そして、政孝さんリタさんにご挨拶。

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早速、ニュー余市ノンエイジ頂いてられる様子。
政孝さんの評価や如何に?個人的には…もごもご。

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会津藩士の皆様にもご挨拶。

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さーて、メインですよメイン。
個人的にはこのためにわざわざ来たようなもの。

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193名の会津藩士が開拓の意思を固めた血判状。
普段は表紙の展示だけだが、コピーながら中身の閲覧可。
白虎隊にいた佐藤駒之進の名も。諱を信朋と知る。

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この方です、佐藤駒之進。

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八重の桜を見てから、黒河内って姓に「あ!」
と思うようになりましたよ(笑)

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武田って・・・たぶんちゃうよね(笑)

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赤羽源八の名を探すもみつからなかった・・・・
緋の衣を成した高遠以来の武田旧臣の血を引く者・・(強引)

炉辺夜話。余市入植者たちの貴重な証言集。

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志業永伝。先ほどの美園の丘にあった
会津藩士の墓は1985年に再建されたもので、
元は黒田清隆の揮毫の銅板でその歴史が刻まれていました。

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1879年、余市で最初のりんごが実った頃から50年
ほど経った頃には1912年に設立された北大果樹園の敷地も
広がって、りんご栽培の経営や病害虫駆除などを
専門的に研究されるほどになっていました。

そんな頃に大日本果汁が設立されたんですね。1934年。
有名なりんごをバックにする竹鶴さんの写真からも
わかるようにものすごいわけですよね。
なんでも10トンの鉄道貨車2両で小樽まで運んだそう。

りんごを洗浄、圧搾している写真。
これにしたってすごい両のりんごが控えてますよ。

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販売が好調なだけでなく、皇室にも
献上されていた余市りんご。

1904年の北海道果実品評会で、余市りんごが
一等を受賞して注目されたのがきっかけだそう。

以来、永く献上され続けていました。
緋の衣って早いうちに品種改良で廃れたのかなと思ったら、
これを見る限り、昭和40年頃までは献上されてたみたい。

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大正のころの献納願。このときも緋の衣が献納されてます。

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時は移って戦後。昭和天皇の北海道行幸があった
1954年、旅の終わりに余市の果樹園を訪れられたそうです。
陛下を迎えるとあって沸く余市町。

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当時の北大余市果樹園で北大学長の説明に聞き入る陛下。
接木したものしないものの比較実験など
学者魂が出て予定を超過してしまったとか。

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昭和天皇はニッカには御出でになってないのかなぁ…
残念ながら、新たなニッカと余市りんごのツナガリを
発見するには至りませんでしたが、興味深い内容でした。

「マッサン」みたいに竹鶴さんとりんご農家の方や
会津とのつながりとかわかったら激アツなんだけどなぁ・・・

「マッサン」といえば、ファンには垂涎の台本展示。
チビエマの作文、一馬の本音。いずれも涙を誘うシーンよね。

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そして、なぜか判らないけど久金属工業の百周年記念品。
久金属工業ってニッカとサントリーのウイスキー瓶の
キャップを長く手がけてきてるんですね。

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百周年記念の中身はそれぞれオリジナルのニッカ、
サントリーの記念ボトル。ひとつの箱にニッカとサントリーが
収まっているというある種奇跡のセット。

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水産博物館からてくてく・・・と帰り道に
見つけた公衆トイレ。男子の図案が政孝さんぽい、
女子の図案がリタさんぽい。こういうとこにも
こだわるの素敵よねぇ。

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男子のほうにはお髭があるとなおいいんだけど(笑)

さて、最後によいち情報館にも立ち寄りました。
マッサンや俊兄、エリーさんの意匠があるってんでね!

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エリーさんは当たり前として、マッサンもほっそ!!
というのが印象的でございました…

鴨居ウヰスキーの旗印もあったよん。
改めてみるとフォントが現代的やな(笑)

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DOUKAH WHISKYや余市の唄の空瓶。
これ売って~ニッカのノースランドで売って~!!

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いや、どうせならスーパーエリー・・・・

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比較用。

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結局、ハイランドケルトの入ってる中身は何?
というか飲ませてみてほしい…案外ウイスキーじゃなかったり?

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ポスターなんかも刷って売っちゃえばいいのに。

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鴨居製品もあり。そういや余市の亀山邸にも
飾ってあったっけな?

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おおお、さっき見た久金属のウイスキー!
一瞬売ってるのかと勘違い(汗)

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さて。。。名残惜しいですが、一路新千歳。
空港バーのジアスさんで、北海道ハイボールをば。

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余市10年使うのでね・・・もうしばらくしたら
こちらも終わっちゃうのだろうね。寂しい・・・・

てことで、今年2回目?の余市でした。
だけど、あんなにウイスキーないとちょっと足が
遠のくなぁ・・・という実感があるのも事実。

来年は厚岸が蒸留開始するから、そっちにしちゃうかもね…

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林檎をもとめて…の前に北の伊達な地へ。

先月の初め。朝ドラ「マッサン」の副作用(笑)
もあってか、余市のりんご造りに興味が湧いて来てる昨今、
どうしても見に行きたい展覧会があって、北の大地へ。

ただ、翌日に余市に行こうと決めていたので、
1日目は伊達な北の大地めぐり。

久々に行くか・・と伊達紋別・白老へと。
振り返ってみたら、2007年ですってよ!
もう8年も前だと・・・!!

まず白老から。

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真ん中ポチッと押したくなるのは、樽前山。

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陣屋通りと名前が残ってるのが好いね。
てくてくてく。

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仙台藩陣屋の標識。あたかも現役みたいな
表記がすこしうれしかったり。

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しゅたり、陣屋。

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やはり、土の城を少し見られるようになって、
この陣屋も見方が変わりますね。8年前に行った時に
比べてより城としての見方ができるのが楽しくて。

大手側の門ですが、喰違虎口に枡形虎口を組み合わせた
ような形状をしていました。

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喰違を抜けた先の枡形。

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土塁脇には壕がぐるりと。

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ちょうど刈って下さっていたところに出くわす。
ありがたいことですなぁ。

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喰違虎口の手前に、虎口を塞ぐように
土塁が配置されています。

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大手虎口内側から。幕末の作ですが、
築城思想は昔ながらの印象がありますよね。

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往時は塀もあったのでは?と考えると、
なかなかの厳重な門構えです。

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二の曲輪(外曲輪)の東側にずっと続く土塁。
ここも甲斐谷戸城と同じく内側に壕があるんだよね。
・・・なんで?

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逆に西側は途中まで土塁があるんだけど、切れていたり。

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半円状に突き出した半曲輪みたいな回りを
ぐるっと壕のような小川が囲む。これを一応
天然の防備としていたらしい。

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ずっとずっと続く先は・・・・

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あらら。道路ができたせいでしょうか、
行き止まりになっていました。

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その左手にはさっき土塁が切れていた・・・
と言ってたとこ。

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けっこう二の曲輪西手はあけっぴろげな感じが
するのですけど、小川が往時は濠として機能しうるくらい、
水量があったのでしょうかねぇ。

四番・五番長屋跡。

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伊達の三引両紋が入った解説板。
この絵図だとかなりしっかり西側を天然地形が
守ってくれているように見えるのだけど。

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ずっと本曲輪にまで続く天然地形。

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やっぱりなんか心もとない(笑)

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そして、アチラに見えるのが本曲輪(内曲輪)。

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少し下がって。前にも感じだのだけど、
もうすこし橋を雰囲気のあるものにしてほしいかな…

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土塁は立派ですけどね。

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キレイに手入れされてある内曲輪。

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土塁の残り具合もすばらしい。

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内曲輪門を振り返って。外曲輪門はけっこう厳重な
感じはしましたが、内曲輪は平虎口なんやね。

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不自然に途切れた謎の土塁・・・

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後世に開けられたものかな・・??

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こちらはホントの搦手だろうな。

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本陣。まわりよりも少し高く土盛りされてる。

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うーん、以前よりも明らかに楽しめている…!!!
土の城の楽しみ方を知ったお陰だなぁ。

さて、資料館。北の大地に竹雀紋がはためくのは
感慨深いものがありますねぇ。

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政宗公甲冑がお出迎え。

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この陣屋の土地選定、縄張りを指揮した
三好監物の白老元陣屋地所図・陣屋縄張図。

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南を除き森で当時から覆われてたみたい。
防備が薄いのはだから?

この縄張り図を見ると、西側が小川で防備しようと
する構造なのがよくわかりますねぇ。

そしてより精巧なジオラマ。これもいい・・!!
外曲輪虎口門の形状が若干違う気がしないでもないけど。

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もうちょっと右手の土塁左下に伸びてたよねぇ。

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うーん、やっぱりすぐ突破される気がしてならない…

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東側の土塁に枡形門があったらしいのだけど、
現地では確認できず。むむむ。

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内曲輪。不自然に開いている土塁・・もしかして、
当時からなのかも。防備目的で考えると、
ちょっと不自然ではあるね・・・

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太鼓。とりあえず叩いてよさそうだったので、
どん!どん!どんどんどんどんどどどど…どん!っと
やってきました。快感。

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陣屋って、白老を本陣として出張(でばり)陣屋を
各地においていたらしい。厚岸はちょっと見に行きたい。
択捉・国後はさすがに無理よね・・・

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さて、三好監物の甲冑。前回認識していたのに
すっかり忘れていて・・・あの三好長慶の子孫なんですよ!

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三好義継の子に義元なる人物がおり、片倉小十郎の口利きで
仙台藩に出仕・・・って、仙台真田みたいな流れ?
武田に真田、三好・・滅びた大名末裔コレクションすげぇ。

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そして歴史的なつながりゆえの政宗公紹介。
ふははは、ここで政宗公に出会えるとは(笑)

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大手門の模型がなかなか素敵。
ひゅーひゅー。

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さて、このあと伊達紋別まで足を伸ばします。
途中東室蘭で室蘭名物「やきとり」を頂きます・・・・
豚でも「やきとり」。

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伊達紋別。成実の子孫が開拓したのに、
政宗兜・・・成実立場なし・・(爆)

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迎賓館。前回は入れたのですが、
最近はボランティアの方がいないと入れないとか…

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博物館にれっつらごー!けむし!けむし!

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伊達好きな方にはひゃっほーできるものが
たくさんあると思われます(笑)

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こういうお椀で伊達御膳とかあったら、
きゃーきゃー言いそうな人を何人か知ってます(笑)

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そして、これが見たかった!紺糸縅五枚胴具足、
通称、毛虫の具足。成実といえばこれ!

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正直、毛虫以外はまぁそれほどインパクトないんですが
毛虫のびょーーーんがすごいですよね(笑)

最後に成実廟模型のご開帳。ホンモノのご開帳は
なかなかないんでしたっけね?

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ここからてくてく。すでに北の大地は寒い寒い。
東京の感覚で来ちゃうから冷える冷える…

何気にびっくりドンキーがよさげな建物で
目を引きました(笑)

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電灯に伊達三引両紋。

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伊達紋別駅に着くと、カシオペアが通過するとの報!
これは撮らねば・・・!! カシオペア、
もう乗ることもないんだな(泣)

食堂車がうらやますぎて。

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動力車。

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ここまでここまで・・・入っちゃダメだ!

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東京までお気をつけて!うらやまぁぁぁぁぁぁ…

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わてはかにめしと新スーパーニッカで小樽まで・・・
ということでここからは小樽の夜と余市編。

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江戸城寛永度天守復元調査報告書記念報告会。

比較的最近の話・・・ですが、認定NPO法人の
江戸城天守について、調査報告がまとまったとのことで、
その記念報告会に参加してきました。

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江戸城寛永度の天守については、史料が残っている
ということは判ってはいたものの、史料の研究は
突っ込んではされていなかったということで、
三浦研究室で1年かけて、調査されたとのことです。

三浦先生は、もうこの江戸城天守の報告書を研究者人生最後の
大仕事と位置づけ、精力的に研究なさったそうですよ!

■三浦先生記念講演■

今回も現天守台が、家光が寛永度天守が建った際に、
石垣が外から見た際に、多聞櫓の上に少し見えたのが
惜しいと嘆いたとされることを踏まえて、再建時には
1間低くつくられたエピソードも披露。
ただ、その記録ソースは言及されず・・・気になりますね・・

新たに研究を重ねて、できた復元図がコチラ!
南面と西面が披露されました。当日の資料から。

南面。

Edo1

西面。

Edo2

以前から解説いただいているように、黒チャン塗りの
銅板で覆われた漆黒の天守。これに金の装飾が加わって、
非常に締まった印象のある天守です。

従来のNPO法人復元図では、銅板葺の屋根が
緑で表現されていましたが、これは建築後数年ほど後の姿。
数年経つと、平均的に酸化していきキレイな緑青へと
姿を変えていくのだそうですね。

創建当初は今回の図案のように黒チャン(松脂と煤)
を塗っていたと考えられ、再建直後の様子を表現。

日光東照宮でも同様の彩色が用いられているそうですが
アチラではすこし黒漆も混ぜているのだそうです。

壁面にも銅板張・黒チャン塗の部分と白漆喰、
飾り金具には惜しみなく金が使われて、
金・黒・白のコントラストが見事ですね・・・

この再建案の基礎になったのは、
①江戸城御本丸御天守百分ノ一建地割(都立中央図書館蔵)
②御天守絵図(国立公文書館蔵)
の2点。

いずれも都立図書館Web、国立公文書館アーカイブで
デジタル公開されておりますよ。

江戸城御本丸御天守百分ノ一建地割
御天守絵図南面
御天守絵図西面

①は甲良家文書として甲良家(現在では断絶)から伝わったもの。
日光東照宮の創建・修繕に携わった大棟梁の家柄。

P1160372

他に豊臣時代~江戸時代初期に活躍した中井家と比べると、
中井家が京都・江戸・名古屋・大坂と広い範囲の
城郭・寺院の建築を担当しているのに対し、
甲良家はほぼ江戸城・日光東照宮に限られ、
その専門技術集団であったようです。

②は正徳年間に上がった再建計画のときに幕府に
提出された絵図。①の図面と比較することでピッタリと一致。
寛永度天守をそのままそっくり再建したことが
図面上からも判ったようで・・・!!

P1160374

さらに①では判らない外観意匠や窓の具体的な位置などを
ハッキリさせる貴重な図面。

実はこれ以外についても、江戸城天守として
伝わった図面はあるのですが、技術的な観点から
矛盾のあるものや、そもそも明治期に写されたものなど、
寛永度天守や寛永度そのままに再建しようとした
正徳度計画当時の一次史料とはいえないことが、調査で発覚。

さらに・・・①の図面に関する興味深い事実。
これ「百分ノ一建地割」とあるのですが、
実物に対して、1/○という縮尺をもって図面を起こすのは
江戸時代には無かった手法。おかしいなと調べると、
実は1/100ではなかったことが判ったんだそうです。

・・・中途半端な1/107だったそう。柱間が七尺と
図面にあるにもかかわらず、実際の図面は六分五厘(≒2.1cm)。
本来なら1/100ならば七分で描かないといけないところ。

さらにこれは寛永度天守の設計図ではあるものの、
実際に建った天守を実測していないであろうとも推測。
というのも、屋根の高さが一切書かれず、
屋根の勾配(角度)のみを記してあるのですね。

面白いのが、初層~五層で屋根の勾配が変えてあって、
上層に行くほどわずかに急角度にしてあるんですね!
見上げたときに、上に行くほど緩く見えるというのも関係?

初層=五寸四分勾配
二層=五寸五分勾配
三層=五寸六分勾配
四層=五寸七分勾配
五層=六寸五分勾配

五層が特に急角度になってるみたいですよ。

屋根の勾配と柱の幅から計算上、柱の高さが判るわけで
実際測ってないというのは、こういうことからわかると。

この計算によって、正確に判明したとのこと。
天守台から天守棟木までが144尺(43.63m)、
石垣下から入母屋屋根の大棟までが93尺5寸(68.63m)。

従来石垣含めて59mと言われていましたので、実際には
さらに高かったということになりますね。
ただ現在は天守台の下のほうは埋まってますけども。

そして、南面天守入り口に見える黒部分は総鉄板張。
現在ですと、坂下門の鉄板張のイメージですかね。

Edo1

また狭間のようにみえるのは、穴蔵の明かり取りだそう。
南に一箇所、北と東西に各二箇所。現在の天守台には
見えないのですが、天守を実際建てる際に
天守台に石を一段追加する計画だったと推測。

そして、穴蔵構造。現在見られる石の階段、
さらに六箇所、都合七箇所の石の階段が
あるはず・・・とのことですが、早く発掘してほしいです。

151115_0004_001

一階は七尺間で南北十八間・東西十六間。
もちろん史上最大、名古屋城大天守・徳川大坂城天守が
南北十七間・東西十五間で少し小さめ。

そしてすごいのが地階・一階の階段。
これまでは踊り場が一箇所のL字型と思われていたのが、
踊り場が二箇所のコの字型。さらにこれは二つ。

151115_00dfef

しかも二箇所あるうち、片方は御成階段だろうと思われ
勾配が緩いのだそう。さらに二回折れていることで、
傾斜は45度程度と木造天守の中では随一の人に優しい天守(笑)

五階でも八間・六間もあって、これがちょうど
高知城天守の一階と同じとか。でかい(笑)

通し柱の通し方も意外と必要最低限しかなくって、
耐震対策というよりも暴風対策ではないかとのお話でした。

そして天守台にかかる荷重の分散構造の妙。
一階と二階部分のみ石垣に荷重がかかるほかは、
穴蔵に敷かれた柱がすべて支えていることが図面から明瞭。

151115_0004_002

最後に、江戸城天守の非戦闘性。
破風には人が入って銃撃することもできないし、
石落としも狭間もないという・・・

天下泰平の象徴というのは、三浦先生のご持論ですが、
江戸城天守が唯一攻撃装置のない天守というのは、
城の位置づけという意味でもおもしろい。

戦闘性は確かにおもしろくて、ハマッたら
止められないある種の中毒性があるのだけれども。

信長の城から顕在化する政治的な「見せる城」が
極まったある種の到達点として、
とても興味深い江戸城天守なのでした。

最後に・・天守の屋根が一直線に並んでるんですよね。

Edo2

そう・・霊峰富士。富士山型に見えるのですよね。
層塔型ならではの美しさなんだろうな、と。

■共立女子大発表■

そして興味深いのが、共立女子大・家政学部
建築デザイン学科の皆さんの発表。
これ実際に天守が建ったら参考にすべき点
がたくさんあるなーと興味深く拝聴。

徳川葵の紋の真ん中に江戸城天守を据え、
江戸城天守に人が向かう意味も込めた
江戸城天守ロゴマークとフォントが素敵・・・

P1160379

ポスターも素敵だし、ロゴマーク入った
紙袋ほしいよね・・・!! 江戸城天守の焼印の入った
お饅頭・・・ほしいほしい!!

P1160384

値段は「おしろ」にかけて460円(笑)

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さてさて。具体的な報告書の発刊は来年早々。

原稿案を現地で拝見しましたが、信頼に足る史料が
上記2点のみである検証が丁寧。
しっかり読み込んでみたいですね。

また慶長度の天守台の一部が中之門に使われてるなど、
興味深いことがたくさん・・・待ち遠しいです。

しかし、この再建図面見れば見るほど惚れ惚れします。
かっこよすぎる・・・・!!!

ということで、今後も江戸城天守再建運動、
応援していきますし、活動を見守りたいと思います。
わたし自身も何かお役に立てれば・・とも思いますしね。

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