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2015年9月

15周年。

今日は重陽の節句にして、Web記念日。
blogのなかった時代、HTMLをかきかきしながら、
カンタンなWebページで文章を載せ始めたのが9/9。

15年経つわけですよ、あれから。
あの頃の夢は破れたけど、好奇心に生きるというのは
ブレてない気がします。

なんどか以前の振り返りでも書いたのですが、
好奇心の強さって波があって、いろんな好奇心の波のピークが
それぞれ違っていて、そのときそのときの経験が
落ち葉の層が重なって自分をつくっていくような。

blogを振り返ると、自分の興味の動きがよく判ります。
これってなんだろうな、何がきっかけなのかな・・・・

書き始めた当初からウイスキー、城、信玄公に
ゆるく興味があって、それにデジタルガジェットだったり、
大学生のときにはまったミーム論とかも。

もちろんそれぞれきっかけはあって、かけがえのない
大事なわたしの興味の眼。その波って、
「知りたいことに響くということ」なのかなとちょっと感じ。

興味を持つ入り口は多様でも、知りたいという欲望に
タイムリーに応えてくれるか・・ということが、
波の強さに影響している気がしてきました。

たとえば、信玄公も武田家の皆様とのつながりが増えたり、
研究が進んで新たな知見が出てきたりということで、
好奇心の波が加速されてますね。

城も一旦土の城を学んでかーらーのー・・
近世城郭の楽しさを発見したり、城に寄せる
人々の思いの変遷や建築学的な楽しさなんかも
ここ数年で発見した楽しさ。

一方、特に今年に入ってウイスキーの需給バランスが崩れ、
イベントにもこれというのが並ばず、終売が増え、
限られたボトルはあっという間に完売・・・
というので萎えたり。

ウイスキーはしょうがない部分は頭では理解するのだけど、
やっぱり知りたい欲にタイムリーに響いてこない、
というのはなんだかもどかしくあるのも事実なわけです。

まぁ、ウイスキーは数年したら戻ってくるでしょうし、
心配はしていませんがね。一度もった興味は
大事にしたいですしね。一期一会。

これより先、どんな新しいことに興味を持てるのだろう。
ウイスキーや城、そして信玄公にまつわる
どんな興味深いことに出会えるのだろう・・・・

これからも好奇心を大事に、でもちゃんと律しながら
生きていきたいと思います。

こうして考えるきっかけになるblogって、
わたしにとっては貴重な記録ですねぇ。
SNSと違って流れていかない、確かな記録。

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「甲陽軍鑑」を知る・・・②

さて、これほどまでに影響力を得るようになった
甲陽軍鑑がなぜ広まったのか、という話。

④『甲陽軍鑑』刊行と流布

【流布前夜】

小幡景憲が手に入れた原本を小幡自身が整理した本が
今日伝わる甲陽軍鑑の原点なのですが、
香坂の記した原本とともに火災で焼失・・・
でも、小幡自筆で書写し進呈しているみたいなんですね。

ここで言及されていたのは、最古の版である
毛利秀元に渡された写本や岡本本といわれる
井伊家家臣・岡本半助宣就に伝えられた本など。

毛利秀元が甲陽軍鑑を読んでいた・・・
と考えると感慨深いですね。どのような感慨を
もったのか、秀元本人に伺ったみたいものです。

岡本半助宣就は岡本家の記録と交換で、
甲陽軍鑑を手に入れたのだそう。
調べてみると、岡本宣就は武田遺臣のよう・・・
ということは山県昌景配下だったのでしょうか?

やはりその出自ゆえに甲陽軍鑑を求めたのか、
また交換で小幡が手に入れた岡本家の記録とは何か?
というのも非常に気になるところではあります。

①で言及した「本阿弥光悦行状記」のなかの、

これなど板におこして、廣く武士たる人に見せたき書なり。

とあることを考えても、当時はまだ版本にはならず、
書写本が流布するのみだったのでしょうな。

・・・ということで、江戸初期までは。
ごく限られたルートでしか広まっていなかったんですね。

【転機・無刊期十行本】

それが突然版本として元和から寛永にかけて刊行
されるのですが、これを「無刊期十行本」と呼びます。

無刊期とは刊行した期の記録が無いもの、ということ
十行本とは一頁十行書かれていたことを意味します。

これがけっこう曰くつきみたいで・・・
急いで刊行されたのか誤記・誤写がいい加減、
それなのに美しい装丁。

香坂弾正の間違いない口述筆記だと指摘された
先の酒井博士はその刊行された目的を謎とされていましたが、
群馬大学の高野修氏がその謎を解き明かされてるとのこと。

「玉露証話」巻十四に、稲垣摂津守という大名が
甲陽軍鑑を書写することを熱望し、
小姓にそれを写し取らせることを望み、小幡も同意の上
写し取ったそうですが、小姓がその後牢人して
勝手に刊行してしまったんですって!

後に小幡が気付いてお貸しした甲陽軍鑑が
広まっているようだが、
と稲垣摂津に問い合わせたそうな。稲垣摂津は小幡に詫び、
小姓は切腹、絶版とさせるといったそうですが、
小幡は世上にこれを普及させたい・・・
と思っていたところだからそのまま捨て置きください、
という経緯で世に広まったのだと・・ドラマだ。

稲垣摂津に仕えた小姓・・宇佐美勝興。
「翁物語後集」という景憲の弟子・小早川能久が
記した中に出てくるようで、宇佐美がこっそり自分用にも
書写しつつ、甲陽軍鑑を手直しし北条や上杉のことも
取り入れて改変した可能性があるみたい。

ただ学術的にその是非は検証されていないそうで
今後の研究が待たれるところではあります・・・

が、この宇佐美勝興、宇佐美定満の子孫と称し、
子の定祐が越後流軍学を創始するのですが、
「北越軍記」はホントに誤りが多いみたいで・・・
宇佐美家文書なるものもあるんですが、
虫食いを偽造したりしたりまでしているとか(汗)

そんな上杉の家臣の末裔を騙る宇佐美が
武田の軍記を出すことになるとはね・・
こんな曰くつきで。むむむ。

【とばっちりを食う三代目山本勘助】

甲陽軍鑑の「山本勘助」が確かに真下家所蔵文書
山本菅助と同一人物だという決め手になった興味深い史料。

近藤忠重なる水戸徳川家家臣が、三代目山本菅助に
水戸家への誘いをしている文書です。これがまた面白い!

というのも、藩主徳川頼房が甲陽軍鑑を読み、
ここに出てくる山本勘助なる人物に興味を持って、
子孫がいたなら召抱えたいといったそうで、
これを聞いた近藤が、三代目山本菅助に初代勘助の孫だろ、
水戸家に仕える気はないか?って言ってるんですね。

もちろん、頼房が甲陽軍鑑を読んでたというのも
興味深いのですが、それ以上になぜ近藤が三代目山本菅助を
知っていたのか?ということが気になります。

水戸徳川家の家臣団は、その7割が穴山梅雪の旧家臣。
穴山梅雪→穴山勝千代→武田万千代(信吉)【家康五男】
と続いているのだそう。

そして、2~3世代くらいの間は誰の子孫がどこにいたか?
を武田遺臣同士でネットワークがあったそうで、
仕官する際に助け合う相互扶助が行われていたそうで!

殿様が山本菅助に興味をもたれた…あ、甲斐で
孫が牢人してんじゃん!ってわかって、
誘いをもちかけたんですね。

これ、信玄公百回忌で集まるネットワークに通じるものが
あるよなぁ・・武田遺臣というつながりで相互扶助が
できちゃうなんて。ものすごい影響力ですよね。
武田ってなんなの・・信玄公って・・素敵過ぎますね。

で。

結局、三代目山本菅助は水戸家には仕えず仕舞いなんですが
どうもこれが甲陽軍鑑を勝手に刊行した宇佐美勝興と
関係があるみたいで。

同時期に宇佐美が水戸家にいたそうなんですが、
宇佐美の子孫ならウチで!とご本家上杉景勝が申し出てきた
のだそうですよ。そして景勝が調べさせたところ、
宇佐美駿河は子孫がいなかったはず・・との証言で、
真っ赤な嘘とバレてしまい、水戸家を出て行ったそう。

その影響を受けて、三代目菅助も沙汰止みになったのでは…
という推測もあるようですね。事実だとしたらホント
迷惑な話や・・・・(爆)

【甲陽軍鑑がつなぐ初代と四代】

さて、残念だった三代目のつぎ四代目の時代。
おもしろいことに小幡景憲が四代目山本菅助に甲州流兵法の
印可状を与えているんですね。

つまり、山本菅助家には兵法や縄張術は伝承されておらず
改めて小幡景憲から甲陽軍鑑から学んでいるという・・・
その後も四代目が景憲の病床を見舞っていたり、
深い交流があったようです。

⑤おわりに

甲陽軍鑑、まだまだいろいろな史料と照合・検証を
進めることで未知なことが含まれている可能性を感じますね。
わたしも新しい研究成果を絶えず学ばねば。

最後、平山先生が面白い話をされていました。
甲陽軍鑑で間違ってないこと。それは親族関係だと。
先ほどの思い出話で甲陽軍鑑ができている、
ということを重ね合わせると、さもありなん・・・
かもしれませんね。

噛めば噛むほどおもしろみが増す信玄公と家臣団、
そしてその欠片を宿す人々。もっともっと、
知りたいと思いました・・!!

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