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「甲陽軍鑑」を知る・・・①

さて、だいぶん経ってしまいましたが、
下諏訪の明治蔵美術館で開催されました甲陽軍鑑に
ついての平山優先生の講演についてです。

もう4月11日なんで4ヶ月も前というね・・・・
ホントなら仕事ほっぽり出して書きたいくらい。

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下諏訪駅。上諏訪はよく行くほうなんですが、
下諏訪は初めて降りたかもしれません。
信玄公の甲冑のある下諏訪町博物館にも、
上諏訪から行ったもんなぁ・・・

駅前に温泉。あたたかーい・・というか熱い!
この日は少し冷えたのでありがたいのですが、
熱すぎてあまり手を漬けてれらず(汗)

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会場には武田菱がいっぱーい❖

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屋根にも❖

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これ、実は会場になっている武井医院さまの家紋、
丸に武田菱。この武井家も武田旧臣の家柄なんだそうです。

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脇に回ると立派な薬医門。

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もちろんしっかり武田菱であります。

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さて・・そんな武田ゆかりの会場で、
武田家の歴史研究といえば!で真っ先にお名前が
上がるであろう平山優先生の甲陽軍鑑のお話。
例によって、以下敬称略です。

①「甲陽軍鑑」とは

甲陽軍鑑とは、武田信玄、勝頼の二代の事跡や
信玄の言動、ものの考え方について、
重臣春日(香坂)弾正虎綱の口述を書きとめた
体裁でまとめられた書物です。

「甲」とは甲斐、「陽」は国、「軍」は戦、
「鑑」は物語を意味し、その名の通り、
甲斐国の戦についての物語、という意味になるそうです。

江戸時代は持て囃され、明治以降は貶められ、
そしてごく最近まで嘘ばかりと言われてきた
紆余曲折のある書物なんですよね。

本編20巻、全59本、末書2巻、計22巻で構成。
それぞれ巻末には著者が記してあり、
いくつかのパターンがあるのですが、
「天正三年乙亥六月吉日、高坂弾正記之」あるいは
これに類する記述がかなり多いことがわかります。

天正三年は1575年。ちょうど5月に長篠で
手痛い敗戦をしたばかりという時期に当たります。
ただすべてがこの時期というわけではなく、
ほとんどが天正三年~五年以降に記されています。

巻20と末書は天正12~15年に成立。
たとえば、巻20には

天正拾三年(1585年)乙酉三月三日
高坂弾正内春日惣次郎書之、
天正拾四年(1586年)丙戌五月吉日書之

とあり、香坂弾正の甥の春日惣次郎が
書き継いでいることがわかります。
初期の頃には宛名があり、長坂長閑、跡部大炊に
手渡していることも判っているとか。

・・・つまり、甲陽軍鑑のそもそもの成立は
香坂弾正が、先代信玄がどのように家中をまとめ、
家臣を登用した事跡をこと細かく記すことで
勝頼とその側近に対する諫言の書、歎異の書として
であったということなんですね(上野晴郎氏説)

ただ、巻20には次のような記述があって
筆者が代わっていることがわかります。

 其年(1578年)三月より、高坂弾正かくを煩、
 ぞんめいふぢやうなり、さるにつき、是より以後ハ
 弾正てゝかたのおひ春日宗次郎、是をかきつくなり

かくとは内臓の病(癌?)だそうで、意識がない状況
ということなんですね。亡くなるのはこの年の5月ですので、
少なくとも2ヶ月くらい意識もなく朦朧と
この世を彷徨っていたのでしょう。

さて、この春日惣次郎とはいかなる人物か。
そのためには、香坂弾正の生い立ちを探る必要があります。

【春日源五郎と春日惣次郎】

香坂弾正は百姓の出・・といわれますが、
石和の百姓・春日大隅の子・源五郎として生まれました。

実は生まれたときには、姉がすでに惣右衛門
という男に嫁いでおり、この婿養子に
財産を継がせることになってしまっていました。

若くして父・春日大隅が亡くなった後
姉夫婦は源五郎に冷たく、武田家に裁判を申し出ます。
結果、その裁判としては敗訴するのですが、
晴信がこの源五郎見所ありとして、近習に取り立てます。

当時、家中には相当やっかみがあったそうですが、
実績を積み重ねることで、晴信の目に狂いがないことを
実証しようと努力したそうな。

時は流れ、惣右衛門も姉も亡くなりその子(甥)の
惣次郎が継ぐことになりました。
その後、百姓経営失敗し無一文になった惣次郎を
虎綱は救い、自らの家来として引き取ったのだそうです。

その恩に報いるため、虎綱が残した甲陽軍鑑を
彼が書き継いで行ったのですね・・・

ちなみに、甲陽軍鑑には「高坂弾正」と出てきますが、
実際は、信濃の香坂氏の養子になっていて「香坂」が正解。
その後すぐに本人は香坂の名乗りを止めているのですが、
どうやら家中や諸国では「香坂弾正」と呼ばれていたとか。

御館の乱の際に、上杉景勝が勝頼に同盟を申し入れる際、
武田方で対応に当たったのは、典厩信豊と香坂弾正。
その上杉方からの書状に「高坂弾正」との記述。
現在残っている史料ではこれが唯一「高坂」の例。

さて、閑話休題。その後。どのように小幡景憲が
どのように甲陽軍鑑が手に入れたか、です。

【編者に渡るまで・・】

甲陽軍鑑のなかに、小幡景憲が手を加えていることが
記されています。主に分冊化したり、彼が手に入れた時点で
読めない部分を整理するなどしているようです。

つまり、彼が入手した時点ではかなり傷んでおり、
現在に伝わっていない内容もあるんですね。

書き継いだ春日惣次郎ですが、甲陽軍鑑本編跋文から
次のようなことが読み取れます。天正13年(1585年)。

この軍鑑を書き続けた者は、春日惣次郎という。
川中島海津城に在城した武田の皆は、武田滅亡後に
上杉景勝に召しだされたが、越中への援軍に参加しており、
景勝に召しだされる中から外れてしまい、
佐渡にわたって書き継ぎ、39歳の頃病に罹り翌年亡くなる。

しかし、一方で平山先生は、高坂弾正の子でそのまま
海津城主を務めた春日信達との関連を指摘されます。

すなわち、信達は一旦は上杉に抱えられますが、
北信を狙う北条に寝返ろうとしたことが露見して、
景勝に誅殺されてしまいます。その縁者である
惣次郎が上杉に仕官できなかったのではないか?というもの。

しかも、惣次郎がわたった佐渡は当時上杉領ではないそう。
上杉領になるのは1587年の直江兼続による仕置きを
待たねばならないのだそうですね。ふむふむ。

そして、惣次郎は死期を悟ったのか自ら、
三月に死ぬとの記述を残します。

この後ですが、甲陽軍鑑に家康が甲府にて、
勝頼の旧臣についてあーだこーだ批評してたり、
家康が武田以来の仕組みを上手く取り入れて、
甲斐を纏め上げた・・・とかって書いてある箇所。

この最後にこれらのことは、小幡下野、外記孫八郎、
西条治部の三人から聞いた、下野は以前山城(守)を
名乗っていたが、直江山城とかぶるので下野にしたとの由。
これが天正14年(1586年)です。

何らかの事情で、春日惣次郎の死後に佐渡に残された
甲陽軍鑑原本がこの三人の手に渡ったのではないか・・・
と平山先生は推測されています。

そうすると、編者である小幡景憲へ小幡下野(守光盛)から
どうわたったのか?が焦点になります。

小幡光盛についてですが、小幡虎盛の弟で海津城番、
武田滅亡後は森長可、本能寺の変後は上杉を頼るそうで、
上杉家の「御家中略系譜」に慶長元年(1597年)に死去。

一方の小幡景憲は、虎盛の孫に当たります。
(虎盛の子、昌盛の子)そして。修行のため文禄四年
(1595年)から諸国遍歴をしているそう・・・

そして光盛と景憲が出会うことができるのは、
光盛が亡くなるまでの1597年まで。この2年の間に、
何らかの事情で縁者同士である二人が海津城で出会い、
景憲に託されたのではないか、と推察できます。

なんというドラマティックな流れ・・・ホントに
奇跡と奇跡が重なってようやく小幡景憲に伝わったのですね。
そりゃ・・欠損部分もあるだろうなぁ・・・

②「甲陽軍鑑」の影響力 - 豊臣~江戸時代

近世初頭から高い影響力を持って、今日に至るまで
武田信玄像を伝えてきた甲陽軍鑑。佐渡で書き継がれ、
人から人へと渡っていた豊臣時代には、すでに
名将・武田信玄が人々の記憶から忘れられようとしていた、
という証言があります。

史料は「本阿弥光悦行状記」。本阿弥光悦というと
戦国に生まれ、江戸初期まで生きた著名な芸術家。
彼の残した記録の中に武田三代についての言及があります。

その内容については、武田滅亡の起因を信玄にあるという
点について個人的には承服しがたい内容なのですが、
長篠合戦以降の記述に興味深い点があります。

漸く信州河中島在城に高坂一人生残り、
諫言申上げるといへども、長坂跡部がさゝへにより
忠言も言上給はず。甚だ是を残念がり、弾正甲陽軍鑑と
いへる書をえらみ、死後勝頼公へ上よと遺言、
甚だ古代の物にて、俗書ながらあつぱれ忠義の武士なり。
まゝ武家方にて見申事也。これなど板におこして、
廣く武士たる人に見せたき書なり。
竝(ならびに)信玄公の御舎弟信繁公至ての賢者也。
惜しむらくは世人知事稀也。

武田家のことが忘れられていたというこの事態を
考えると仮に何らかの事情で、甲陽軍鑑が世に伝わらないと
武田信玄はじめ武田家のかなりのことが現代に伝わらないまま
周辺諸国の文献から辛うじてわかる程度に留まっていた、
ということも考えられるわけです・・・

その甲陽軍鑑。徳川家康生涯の危機のひとつである
三方ヶ原合戦を真正面から扱っているのに
発禁処分にもされていないし、絶版にもなっていない
江戸時代きってのベストセラーといっていいのでしょうね。
演劇や浮世絵にも強い影響も与えました。

武田二十四将図も甲陽軍鑑の影響を強いようで、
注文者が絵師に誰々を入れてくれという結果、
よくカウントされる武将が二十四将と言われるようになった
いわば、当時のAKB総選挙のようなもんですね(笑)

よく悪ふざけで「TKD24」なんて言ったりしますが、
あながち当たっていたのかもしれません(笑)

三方ヶ原の敗戦を真正面から描けているのも
興味深い事実で、小幡景憲が幕府に重用されていたこと、
石川数正が出奔した1585年以降、武田流に軍制改革を
していることも知られていますしね。

小牧長久手は1584年ですから、軍制改革の影響は不明。
その後は関が原まで大合戦はないですしね・・・

ただ、軍制改革時に信玄・勝頼が書き残した
軍法に関する内容を全部提出しろと遺臣に命じたほどですから
武田軍の強さを否定すると、徳川軍を否定しかねない・・・
ということもあったのかも知れませんね。
なかなか具体的なことが判らないのが歯がゆいですけど。

そして、近世軍学者の第一人者として、
この「甲陽軍鑑」によって地位を確立できた小幡景憲。
その権威を経て、今度は武田遺臣の末裔を救います。

武田ブランドはあったとしても、その末裔たる証明
活躍の証拠になる感状などの証文が必要ですが、
武田滅亡と以降の動乱で無くした末裔も多かったんですね。
小幡景憲自身も、祖父虎盛、父昌盛が信虎・信玄・勝頼から
拝領した膨大な文書を失ったと残しているそう。

そんな中、甲陽軍鑑のここにこう書いてあります
という指摘は、格好の父祖の戦功証明。
これがきっかけで牢人から仕官に結びついた例もあるみたい。

③「甲陽軍鑑」の影響力 - 明治以後

明治以降、近代歴史学で歴史認識が一変すると、
田中義成博士の「甲陽軍鑑考」にて、
その価値を完全否定されてしまいます・・・が、
実は長らくその「甲陽軍鑑考」自体の検証など
不可侵とされてきたようです。

平山先生の参考資料に添付頂いていたのですが、
驚くべき短さなんですよね。また主張の論拠や
検証プロセスもよくわかりませんが、権威というのは
恐ろしいものですね・・・・以後100年間、
甲陽軍鑑は偽書なり、と言われつづけて来たのです。

1967年に有馬成甫博士が「甲陽軍鑑論」、
翌年「甲陽軍鑑と甲州流兵法」にて初めて甲陽軍鑑の復権を
提示したのだそうですが、直後にお亡くなりになったそう…

続いて、酒井憲ニ博士が精力的に甲陽軍鑑の復権に
努力されたそうで、1977年に発表されて10年以上に
渡って論文を出し続けられ、94年に「甲陽軍鑑大成」として
その研究成果がまとめられました。

酒井博士のご専門は国文学。つまり、記述されている
ことばや仮名遣い(甲斐や信濃のことば)や文章の作られ方
(口述筆記)から、間違いなく江戸時代初期の人物が、
香坂弾正を騙って創作できるものではない、
という「科学的分析」をされたのですね・・・

特に香坂は百姓の出ですから、庶民が多用するスラングも多く
まさしく香坂の出自と矛盾しない文章だと。

しかしこれ、94年ですよ。わたし高校生。
つい最近のことじゃないですか・・・
甲陽軍鑑は偽書なりとする呪縛の強さはすごいですね・・・

2000年代になってさらに研究が進み、
わたしも江戸城講座で江戸城天守のお話を興味深く
拝聴した黒田日出男先生が今年興味深い本を出されています。

その名も『甲陽軍鑑』の史料論―武田信玄の国家構想』。
この中で黒田先生は、間違いが多いのも確かだけども、
それは武将ひとりひとりの回顧談であり、
思い出話であるからだというご指摘。

それをそのまま口述筆記でしている甲陽軍鑑には、
そりゃあ間違いは含まれるよね、と。

思い出話には美化や尾ひれは付きものですよね。
なぜ間違いがあるのか、それはどういう動機によるものか?
武将の心理にまで入っていく研究が必要なんですね。

甲陽軍鑑から、武田家の思想は十分に読み取れるわけです。
武田家の皆さまが、そして信玄その人が何を考え、
何を大事にしていたかが一番の関心なので・・・
この黒田先生の著書もぜひ読まないと思う次第です。

さて、ちょっと長くなりましたのでここいらで切りますか。
続いては、甲陽軍鑑の刊行の過程で突然流布するに至った謎と
山本菅助末裔との関係に迫ります!

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