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2015年8月

「甲陽軍鑑」を知る・・・①

さて、だいぶん経ってしまいましたが、
下諏訪の明治蔵美術館で開催されました甲陽軍鑑に
ついての平山優先生の講演についてです。

もう4月11日なんで4ヶ月も前というね・・・・
ホントなら仕事ほっぽり出して書きたいくらい。

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下諏訪駅。上諏訪はよく行くほうなんですが、
下諏訪は初めて降りたかもしれません。
信玄公の甲冑のある下諏訪町博物館にも、
上諏訪から行ったもんなぁ・・・

駅前に温泉。あたたかーい・・というか熱い!
この日は少し冷えたのでありがたいのですが、
熱すぎてあまり手を漬けてれらず(汗)

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会場には武田菱がいっぱーい❖

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屋根にも❖

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これ、実は会場になっている武井医院さまの家紋、
丸に武田菱。この武井家も武田旧臣の家柄なんだそうです。

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脇に回ると立派な薬医門。

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もちろんしっかり武田菱であります。

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さて・・そんな武田ゆかりの会場で、
武田家の歴史研究といえば!で真っ先にお名前が
上がるであろう平山優先生の甲陽軍鑑のお話。
例によって、以下敬称略です。

①「甲陽軍鑑」とは

甲陽軍鑑とは、武田信玄、勝頼の二代の事跡や
信玄の言動、ものの考え方について、
重臣春日(香坂)弾正虎綱の口述を書きとめた
体裁でまとめられた書物です。

「甲」とは甲斐、「陽」は国、「軍」は戦、
「鑑」は物語を意味し、その名の通り、
甲斐国の戦についての物語、という意味になるそうです。

江戸時代は持て囃され、明治以降は貶められ、
そしてごく最近まで嘘ばかりと言われてきた
紆余曲折のある書物なんですよね。

本編20巻、全59本、末書2巻、計22巻で構成。
それぞれ巻末には著者が記してあり、
いくつかのパターンがあるのですが、
「天正三年乙亥六月吉日、高坂弾正記之」あるいは
これに類する記述がかなり多いことがわかります。

天正三年は1575年。ちょうど5月に長篠で
手痛い敗戦をしたばかりという時期に当たります。
ただすべてがこの時期というわけではなく、
ほとんどが天正三年~五年以降に記されています。

巻20と末書は天正12~15年に成立。
たとえば、巻20には

天正拾三年(1585年)乙酉三月三日
高坂弾正内春日惣次郎書之、
天正拾四年(1586年)丙戌五月吉日書之

とあり、香坂弾正の甥の春日惣次郎が
書き継いでいることがわかります。
初期の頃には宛名があり、長坂長閑、跡部大炊に
手渡していることも判っているとか。

・・・つまり、甲陽軍鑑のそもそもの成立は
香坂弾正が、先代信玄がどのように家中をまとめ、
家臣を登用した事跡をこと細かく記すことで
勝頼とその側近に対する諫言の書、歎異の書として
であったということなんですね(上野晴郎氏説)

ただ、巻20には次のような記述があって
筆者が代わっていることがわかります。

 其年(1578年)三月より、高坂弾正かくを煩、
 ぞんめいふぢやうなり、さるにつき、是より以後ハ
 弾正てゝかたのおひ春日宗次郎、是をかきつくなり

かくとは内臓の病(癌?)だそうで、意識がない状況
ということなんですね。亡くなるのはこの年の5月ですので、
少なくとも2ヶ月くらい意識もなく朦朧と
この世を彷徨っていたのでしょう。

さて、この春日惣次郎とはいかなる人物か。
そのためには、香坂弾正の生い立ちを探る必要があります。

【春日源五郎と春日惣次郎】

香坂弾正は百姓の出・・といわれますが、
石和の百姓・春日大隅の子・源五郎として生まれました。

実は生まれたときには、姉がすでに惣右衛門
という男に嫁いでおり、この婿養子に
財産を継がせることになってしまっていました。

若くして父・春日大隅が亡くなった後
姉夫婦は源五郎に冷たく、武田家に裁判を申し出ます。
結果、その裁判としては敗訴するのですが、
晴信がこの源五郎見所ありとして、近習に取り立てます。

当時、家中には相当やっかみがあったそうですが、
実績を積み重ねることで、晴信の目に狂いがないことを
実証しようと努力したそうな。

時は流れ、惣右衛門も姉も亡くなりその子(甥)の
惣次郎が継ぐことになりました。
その後、百姓経営失敗し無一文になった惣次郎を
虎綱は救い、自らの家来として引き取ったのだそうです。

その恩に報いるため、虎綱が残した甲陽軍鑑を
彼が書き継いで行ったのですね・・・

ちなみに、甲陽軍鑑には「高坂弾正」と出てきますが、
実際は、信濃の香坂氏の養子になっていて「香坂」が正解。
その後すぐに本人は香坂の名乗りを止めているのですが、
どうやら家中や諸国では「香坂弾正」と呼ばれていたとか。

御館の乱の際に、上杉景勝が勝頼に同盟を申し入れる際、
武田方で対応に当たったのは、典厩信豊と香坂弾正。
その上杉方からの書状に「高坂弾正」との記述。
現在残っている史料ではこれが唯一「高坂」の例。

さて、閑話休題。その後。どのように小幡景憲が
どのように甲陽軍鑑が手に入れたか、です。

【編者に渡るまで・・】

甲陽軍鑑のなかに、小幡景憲が手を加えていることが
記されています。主に分冊化したり、彼が手に入れた時点で
読めない部分を整理するなどしているようです。

つまり、彼が入手した時点ではかなり傷んでおり、
現在に伝わっていない内容もあるんですね。

書き継いだ春日惣次郎ですが、甲陽軍鑑本編跋文から
次のようなことが読み取れます。天正13年(1585年)。

この軍鑑を書き続けた者は、春日惣次郎という。
川中島海津城に在城した武田の皆は、武田滅亡後に
上杉景勝に召しだされたが、越中への援軍に参加しており、
景勝に召しだされる中から外れてしまい、
佐渡にわたって書き継ぎ、39歳の頃病に罹り翌年亡くなる。

しかし、一方で平山先生は、高坂弾正の子でそのまま
海津城主を務めた春日信達との関連を指摘されます。

すなわち、信達は一旦は上杉に抱えられますが、
北信を狙う北条に寝返ろうとしたことが露見して、
景勝に誅殺されてしまいます。その縁者である
惣次郎が上杉に仕官できなかったのではないか?というもの。

しかも、惣次郎がわたった佐渡は当時上杉領ではないそう。
上杉領になるのは1587年の直江兼続による仕置きを
待たねばならないのだそうですね。ふむふむ。

そして、惣次郎は死期を悟ったのか自ら、
三月に死ぬとの記述を残します。

この後ですが、甲陽軍鑑に家康が甲府にて、
勝頼の旧臣についてあーだこーだ批評してたり、
家康が武田以来の仕組みを上手く取り入れて、
甲斐を纏め上げた・・・とかって書いてある箇所。

この最後にこれらのことは、小幡下野、外記孫八郎、
西条治部の三人から聞いた、下野は以前山城(守)を
名乗っていたが、直江山城とかぶるので下野にしたとの由。
これが天正14年(1586年)です。

何らかの事情で、春日惣次郎の死後に佐渡に残された
甲陽軍鑑原本がこの三人の手に渡ったのではないか・・・
と平山先生は推測されています。

そうすると、編者である小幡景憲へ小幡下野(守光盛)から
どうわたったのか?が焦点になります。

小幡光盛についてですが、小幡虎盛の弟で海津城番、
武田滅亡後は森長可、本能寺の変後は上杉を頼るそうで、
上杉家の「御家中略系譜」に慶長元年(1597年)に死去。

一方の小幡景憲は、虎盛の孫に当たります。
(虎盛の子、昌盛の子)そして。修行のため文禄四年
(1595年)から諸国遍歴をしているそう・・・

そして光盛と景憲が出会うことができるのは、
光盛が亡くなるまでの1597年まで。この2年の間に、
何らかの事情で縁者同士である二人が海津城で出会い、
景憲に託されたのではないか、と推察できます。

なんというドラマティックな流れ・・・ホントに
奇跡と奇跡が重なってようやく小幡景憲に伝わったのですね。
そりゃ・・欠損部分もあるだろうなぁ・・・

②「甲陽軍鑑」の影響力 - 豊臣~江戸時代

近世初頭から高い影響力を持って、今日に至るまで
武田信玄像を伝えてきた甲陽軍鑑。佐渡で書き継がれ、
人から人へと渡っていた豊臣時代には、すでに
名将・武田信玄が人々の記憶から忘れられようとしていた、
という証言があります。

史料は「本阿弥光悦行状記」。本阿弥光悦というと
戦国に生まれ、江戸初期まで生きた著名な芸術家。
彼の残した記録の中に武田三代についての言及があります。

その内容については、武田滅亡の起因を信玄にあるという
点について個人的には承服しがたい内容なのですが、
長篠合戦以降の記述に興味深い点があります。

漸く信州河中島在城に高坂一人生残り、
諫言申上げるといへども、長坂跡部がさゝへにより
忠言も言上給はず。甚だ是を残念がり、弾正甲陽軍鑑と
いへる書をえらみ、死後勝頼公へ上よと遺言、
甚だ古代の物にて、俗書ながらあつぱれ忠義の武士なり。
まゝ武家方にて見申事也。これなど板におこして、
廣く武士たる人に見せたき書なり。
竝(ならびに)信玄公の御舎弟信繁公至ての賢者也。
惜しむらくは世人知事稀也。

武田家のことが忘れられていたというこの事態を
考えると仮に何らかの事情で、甲陽軍鑑が世に伝わらないと
武田信玄はじめ武田家のかなりのことが現代に伝わらないまま
周辺諸国の文献から辛うじてわかる程度に留まっていた、
ということも考えられるわけです・・・

その甲陽軍鑑。徳川家康生涯の危機のひとつである
三方ヶ原合戦を真正面から扱っているのに
発禁処分にもされていないし、絶版にもなっていない
江戸時代きってのベストセラーといっていいのでしょうね。
演劇や浮世絵にも強い影響も与えました。

武田二十四将図も甲陽軍鑑の影響を強いようで、
注文者が絵師に誰々を入れてくれという結果、
よくカウントされる武将が二十四将と言われるようになった
いわば、当時のAKB総選挙のようなもんですね(笑)

よく悪ふざけで「TKD24」なんて言ったりしますが、
あながち当たっていたのかもしれません(笑)

三方ヶ原の敗戦を真正面から描けているのも
興味深い事実で、小幡景憲が幕府に重用されていたこと、
石川数正が出奔した1585年以降、武田流に軍制改革を
していることも知られていますしね。

小牧長久手は1584年ですから、軍制改革の影響は不明。
その後は関が原まで大合戦はないですしね・・・

ただ、軍制改革時に信玄・勝頼が書き残した
軍法に関する内容を全部提出しろと遺臣に命じたほどですから
武田軍の強さを否定すると、徳川軍を否定しかねない・・・
ということもあったのかも知れませんね。
なかなか具体的なことが判らないのが歯がゆいですけど。

そして、近世軍学者の第一人者として、
この「甲陽軍鑑」によって地位を確立できた小幡景憲。
その権威を経て、今度は武田遺臣の末裔を救います。

武田ブランドはあったとしても、その末裔たる証明
活躍の証拠になる感状などの証文が必要ですが、
武田滅亡と以降の動乱で無くした末裔も多かったんですね。
小幡景憲自身も、祖父虎盛、父昌盛が信虎・信玄・勝頼から
拝領した膨大な文書を失ったと残しているそう。

そんな中、甲陽軍鑑のここにこう書いてあります
という指摘は、格好の父祖の戦功証明。
これがきっかけで牢人から仕官に結びついた例もあるみたい。

③「甲陽軍鑑」の影響力 - 明治以後

明治以降、近代歴史学で歴史認識が一変すると、
田中義成博士の「甲陽軍鑑考」にて、
その価値を完全否定されてしまいます・・・が、
実は長らくその「甲陽軍鑑考」自体の検証など
不可侵とされてきたようです。

平山先生の参考資料に添付頂いていたのですが、
驚くべき短さなんですよね。また主張の論拠や
検証プロセスもよくわかりませんが、権威というのは
恐ろしいものですね・・・・以後100年間、
甲陽軍鑑は偽書なり、と言われつづけて来たのです。

1967年に有馬成甫博士が「甲陽軍鑑論」、
翌年「甲陽軍鑑と甲州流兵法」にて初めて甲陽軍鑑の復権を
提示したのだそうですが、直後にお亡くなりになったそう…

続いて、酒井憲ニ博士が精力的に甲陽軍鑑の復権に
努力されたそうで、1977年に発表されて10年以上に
渡って論文を出し続けられ、94年に「甲陽軍鑑大成」として
その研究成果がまとめられました。

酒井博士のご専門は国文学。つまり、記述されている
ことばや仮名遣い(甲斐や信濃のことば)や文章の作られ方
(口述筆記)から、間違いなく江戸時代初期の人物が、
香坂弾正を騙って創作できるものではない、
という「科学的分析」をされたのですね・・・

特に香坂は百姓の出ですから、庶民が多用するスラングも多く
まさしく香坂の出自と矛盾しない文章だと。

しかしこれ、94年ですよ。わたし高校生。
つい最近のことじゃないですか・・・
甲陽軍鑑は偽書なりとする呪縛の強さはすごいですね・・・

2000年代になってさらに研究が進み、
わたしも江戸城講座で江戸城天守のお話を興味深く
拝聴した黒田日出男先生が今年興味深い本を出されています。

その名も『甲陽軍鑑』の史料論―武田信玄の国家構想』。
この中で黒田先生は、間違いが多いのも確かだけども、
それは武将ひとりひとりの回顧談であり、
思い出話であるからだというご指摘。

それをそのまま口述筆記でしている甲陽軍鑑には、
そりゃあ間違いは含まれるよね、と。

思い出話には美化や尾ひれは付きものですよね。
なぜ間違いがあるのか、それはどういう動機によるものか?
武将の心理にまで入っていく研究が必要なんですね。

甲陽軍鑑から、武田家の思想は十分に読み取れるわけです。
武田家の皆さまが、そして信玄その人が何を考え、
何を大事にしていたかが一番の関心なので・・・
この黒田先生の著書もぜひ読まないと思う次第です。

さて、ちょっと長くなりましたのでここいらで切りますか。
続いては、甲陽軍鑑の刊行の過程で突然流布するに至った謎と
山本菅助末裔との関係に迫ります!

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人神(ひとがみ)信仰の諸相と信玄公の祭祀。

時系列に前後してばっかりなんですが、4/4に
武田家旧温会総会出させて頂いた際
に、
成城大学民俗学研究所の及川祥平さんの講演を
聴くことができましたので、その内容と個人的な気付きを。

ちょうど博士号を取られたばかりということで、
お年もわたしの弟くらいの年で、わ、わかい・・・・!!
というのが最初の印象なのですが(笑)
民俗学の文脈であまり信玄公の話題が出る事例を知らず、
ものすごく興味を持って、拝聴できました。

及川さんのご関心は、民俗学の観点から
信玄公亡き後の後代の人々が「武田信玄」という人間を
どう捉え、信玄公の歴史にどのような価値を
見出してきたのか?ということだそう。むむ…興味ある!

そのフィールドワークの一環として、武田家および
武田家家臣の末裔がその出自に誇りを持って構成する
武田家旧温会がとても関心のある対象なのだそうですね。

以降、本blogの慣例に従い、学術的文脈での記事になるので、
歴史上の人物はすべて敬称略とさせていただきます。

■人神(ひとがみ)信仰とは?
なかなか聴きなれないことばですが、要は宗教的施設で
現実の人物を敬礼・崇拝の対象とする宗教的行為を
学術的に定義したことば。

けっこうアジア特有かな?という印象をもっていたのですが、
考えてみえば、カトリックの聖人崇拝なんかも確かにそう。
洋の東西(他アフリカなどでもあるらしい)に超えて
共通して見られる信仰のあり方のようですね。

お隣中国だと、三国志好きのわたしは真っ先に関羽信仰を
思い浮かべてしまいます。

■日本におけるパターン

人神信仰ですが、いくつかのパターンがあるとのご指摘。
怨霊は確かに代表格ですよね。

(1)怨霊信仰
 … 例:菅原道真、平将門、崇徳院、山家公頼

災いが発生し、その原因として不遇の死を遂げた
死者の怨霊を想定。その怨霊を鎮めることで
災いの鎮静化を狙う過程で発生する信仰。

災害を起こす力の大きさを、祭祀で転じて幸せを
もたらす力とできるという信仰ともセット。
 
(2)現世利益
 … 例:ねずみ小僧

怨霊信仰も「喉元過ぎれば熱さを忘れ」てしまうために、
特定の「ご利益」をセットに信仰を継続させようとする試み。

怨霊信仰をすっ飛ばし、最初から現世利益を希求して
神格化されるケースも。

(3)権威権力の演出
  … 例:楠木正成、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康

現世の高位の人物の非凡さを宗教上の高次な存在との
関連で説明すること。要はナントカの申し子とか
化身的な「現人神演出」ですな。

上杉謙信は言うに及ばずなんですが、武将よりも
高位の僧の誕生秘話によく見られるパターンなんですね。
(空海・親鸞の例がそうみたいです)

次のステップとして、その誕生秘話をモデルに自身が
優れた存在としての補完するストーリーとして作り出す・・・
という日輪受胎伝説(豊臣秀吉)や、仮託する
高位の存在が消え、権力者が自らが神そのものとなる
という、豊国大明神や東照大権現の例も。

(4)偉業・顕彰の手段
  … 例:武田信玄

基本は天皇中心に据える思想統制のなかで、
歴史人物の政治利用の一環で、天皇家に忠節を
誓った(とされる)人物を都合よく思想統制に
組み込んでいく・・というパターンが主流。

残念ながら、武田神社もこの流れと無縁とは言えませんが、
旧藩主・旧領主を祭る神社は、個人的にはちょっと明治政府の
思想統制とは離れて純粋に旧主を敬うという文脈のほうが
強いような気はしましたけれども。

武田神社がこの政府の思想統制の流れで捉えられうるのは、
明治天皇が信玄の敬神・崇仏の事跡に感銘し
保存金を出したこと(明治13年)
や民政の功績評価も
加わって、大正期に従三位が贈位されたという
天皇・政府との関連で武田神社創設に至るという
歴史的な経緯によるものでしょうね。

ただ、及川さんは少なくとも信玄に関しては、
突拍子もなく単純に民心掌握に信玄を利用したわけではなく
下地となった連綿と続く『信玄信仰』があった
と指摘されます。

■山梨県下の庶民伝説における「信玄公」

いろいろ個別の事例も興味深いのですが、以下の3パターンで
ご説明くださいました。

・奇跡を起す「信玄公」

割石峠八房梅の事例を出されていましたが、宗教的な高位の存在が信玄に置き換わる事例が
甲斐の伝説には多く見られるんだそうですね。

これをそれは信玄と関係ない!と言うのも野暮な話で、
確かに甲斐民衆の信玄の捉え方の一側面を
示すものであり、また、江戸時代以降も連綿と
信玄「信仰」が続いてきた傍証、
と見るほうが建設的だといえるでしょうね。

信玄が出家して(形式上は)権大僧正だったとはうえ、
高僧の位置が統治者に置き変わるというのは、興味深いです。
統治手段のひとつとして、宗教政策にも重点を
置いていた名残とも捉えられるかもしれないですね。

・木を植える「信玄公」

寺社の樹木の「お手植え率:の高い信玄ですが、
これも寺社がその歴史性や格式を説くための材料として、
信玄を持ち出している(事実はさておき)ということからも、
やはり、ある種の宗教的な存在としての
「武田信玄」像が浮かんできます。

ただ、奇跡にしてもお手植えにしても、なぜ宗教的な
位置づけを得るに至ったかについて、
詳しく知りたくなりました。今すぐ判るのかはさておき。

・信玄起源神話

歴史学的には関連のない俗説も多いが、とにかくなんでも
信玄に絡めたがる・・・のが甲斐国・山梨県の特徴
というのは、わたしですら感じるところ(笑)

ですが、関連を持ち出そうとする心性に注目したいですよね。
江戸時代の甲州三法(甲州枡・甲州金・大小切税法)を
定めたのが信玄であるというのも、史実かどうかというと…

ただ、廃止を目論む幕府に対して民衆の反論ロジックは

「信玄公が定めたものだから!!」

存続決定後に法要が盛大化するという現象が
文献史料から確認できるですってね!

宗教・文化専門紙「中外日報」に掲載されている
先ほどもリンクつけた及川さんの記事では、
「信玄公忌一国本願記録」と「甲斐国見聞日記」の例が
上がっていて、その「信玄信仰」の強さを肌身で
感じるとともに、武田牢人たちにとっての信玄、
というまた別の側面も見えるのです。

仕官叶わず、あるいは自ら進んで帰農してはいるけれど、
名字帯刀を認められ、武田家家臣の末裔たる由緒を
誇りにしていた武田牢人たちが、「信玄の法要に積極的に
関わることで末裔者たることを示し、また関わることを
名誉としていた」というくだりです。

何がそこまで、彼らに誇りを持たせるのか?
武田信玄にこれだけ関心を持ってきたわたしでさえ、
そう思わせられるほどの連綿たる敬愛の心。

先日、恵林寺蔵の武田信玄百回忌奉加帳の件で、
グダグダと書きましたが(苦笑)
これよく見ると、牢人していても金一封を献ずる
遺臣たちがいるんですよね・・・

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苦しいであろう家計から寄付をしたであろう
彼らの想いとどこかつながるものを感じてしまいます。

なぜ「武田信玄」はにここまで連綿と彼らの心の中に
生き続けられるのか?ということや、江戸時代の旧武田遺臣を
抱えた諸藩士・旗本で捉え方に相違・相似があったのか?
ということが今すごく関心の高いことなのもので、

新たに江戸時代の甲斐の農民(帰農層含む)の
信玄の捉え方についてのこの日のお話はすごくビビッドに
わたしに響いてきました。

いずれにしても、甲斐の歴史における「武田信玄」の
その圧倒的な存在感とその息の長さには、
舌を巻くしかありません。

■人神信仰の今日的課題

最後に、こんなことも。

人神信仰、その時代の思想状況や歴史認識を如実に反映し
いわゆる「都合よく利用されうる」ものであるというご指摘。

いわばそれは、その時代を代表するある種の価値観による
「善」の達成・遂行ために利用されるということであって、
天皇中心の政治思想だったり、軍国主義の礼賛だったり。
現代的な問題で言えば、経済主義や観光主義になるのでしょう。

思想や経済ではなく、郷土への愛情や矜持を
育む手段として生かしていけないか?ということを
今日的課題として挙げられていました。

ですが、わたしは山梨にも武田家にも、
本質的なゆかりがありませんが、ものすごく関心を
引かれ続けています。それは何か。

抽象的に言うと・・・人が結合力を発揮し、それが
何百年にもわたってその記憶が受け継がれている
仕組みとプロセス。そこをしっかり理解したい。

直接的に経緯がつながるわけではないですが、
子孫の皆様で構成される「武田家旧温会」のような組織体が
他ならぬ武田家だからこそ、成立するような気がして。

江戸時代の武田遺臣の話を知れば知るほど、
どうしても「武田家旧温会」につながってくる
ような・・・・気がするんですよね。

さて、通常モードに。改めて戦国当時についても
もっと知りたい気持ちはありますが、
「江戸時代の武田信玄」にまつわるエピソードも
もっとたくさん知って、自分なりに理解を整理できたら
と想うのでした。

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2015年 武田神社例祭・信玄公忌・武田二十四将騎馬行列

去年今年と4/12が土日だったもので、安心して楽しめる
例祭と信玄公忌。今年も行って参りました。

まずは例祭。まぁ・・・もう3回目なので、
大体の段取りはわかっています。恒例行事ですからね。

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祝詞と玉串奉納を終えたら、信玄公の御霊を
神輿に移す様子を見守ります。

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そして、わっしょいわっしょい!
信玄公行ってらっしゃいませ!

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さて、このあと・・・とある方に恵林寺いく?と
誘われまして、鉄駕籠にて一路恵林寺にショートカット(笑)

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あのお賽銭箱がない!(江姫墓の墓石だったらしい)
とかいいながら、中に案内していただくと・・・

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精進料理のご用意が!これはすぺさるだ・・・!!
精進料理って美味しいんですね。お野菜だけでも大満足。

こんなお部屋にて。通常入る場所の突き当たりですね。

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そして、信玄公忌。きちんと法要に参加したのは
もちろん初めてのことです。

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障子に映る武田菱が素敵過ぎて・・・

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法要前に信玄公墓にお参り。

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一周して戻ってきたら法要に臨みます。
お坊さんが皆一堂に会します。

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いろいろ他で見ない法要だな・・と興味深かったのですが、
ご住職はじめ、皆様方がお経を唱えてぐるぐる
回るんですよね。読経しながら伽藍前を練り歩くっての、
初めて見たスタイルでした。

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そして祈りをささげるのは、五体投地。
仏教において最も丁寧な礼拝方法だそうです。
わたしは中国の三跪九叩頭をちょっと思い出しました。

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さて、再度瞬間移動(笑)で甲府へ。
ちょうど甲府城で休んでいる時間だったので、
慌てて急行しました!山本勘助殿が女性!

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今年の信玄公。お優しい感じですねぇ。
一時の上田真田祭りの幸村さん(四代目)に似てる?

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横のお姿もかっこよすなぁ!

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けっこう留学生など外国人も多い騎馬行列。
今年は内藤さんが。お名前がしっかり内藤昌「秀」と
なっているあたりにニヤリとする武田好き。

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甘利殿の甲冑似合い過ぎ感。

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穴山玄蕃頭と真田弾正は仲良し女子二人組。

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甲府城鍛冶曲輪を後にまだまだ行列を続けていきます。

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秋山伯耆もかっこいい・・あ、こちらも
ちゃんと「虎繁」になっておりますぞ!

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お屋形さまもご出陣。そして内藤さんの笑顔が素敵。

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行ってまいるぞよというお姿、柔和です。

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鍛冶曲輪を出てからしばらく併走しながら・・・・

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新紺屋小学校の陸橋で撮影スタンバイ!

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隊列が来るまで、御紋菓はむはむ(笑)

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まだかなまだかなー!

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お神輿のお戻りですぞー!あと一息、がんばれ!

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二十四将きたきた!板垣どの。
かなりお年を召されていて、晴信どののじいじ、
という感じが出ていて、すごくよい☆

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新調したのかな・・・?というくらい、
まっさらな印象の甲冑だった山県どの。

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われながらいいポジション押さえたな!と
自画自賛しながら、パシャパシャ。

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お屋形さまじゃー!信玄公がお見えになった!

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ただ、見下ろすのが不敬な気がしてきた・・・
申し訳ござりませぬ。

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陸橋から降りててくてく。お、三枝どのも
三枝「昌貞」になっておりますぞ!

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そして、食糧補給ポイントへ。沿道で差し入れの
おにぎりとかいただけるんですよ。自分でやったときも
すごい思いましたが、ありがたいんですよね・・・

信玄公もはむはむ。

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飯富殿。こちらもかっこよくて
しびれました。ひゃっほー!

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まぁ、二十四将も撮られてはいますが、
やっぱり信玄公が大人気。。ただ押すな押すなと
詰め掛けるわけでなく、沿道住民が気軽に見られる
武者行列といった感じが印象的。

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原隼人佑昌胤。きりっとしたかっこいい女性。

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信玄公どアップ。あと少しじゃ!進め!

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お淑やかに手を振る勘助どの。

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躑躅が崎館西曲輪の土塁をバックに
騎馬行列。いいわこれ。

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皆様、お疲れさまでした。勝鬨じゃー!
えいえい、おー!

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お屋形さまもお疲れさまでした。

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馬場どのとお屋形さま。馬場美濃「お屋形さま、勇壮でしたぞ!」
信玄公「おお、そうかそうか!?」 とか話してそう(笑)

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帰り際に、西曲輪南虎口を見てきましたけど、
かなりキレイに虎口感がでていてびっくり!ええね!

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最後に・・しずむ夕陽と甲府駅のお屋形さま。
慌しい一日でしたが、充実した信玄公の御命日でした。

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第36回川中島合戦戦国絵巻!

さて、川中島合戦。昨年も参加しましたが、
また今年も楽しんできました。

昨年との大きな違いは、本陣隊が兜ではなく烏帽子
ってとこですね。これ動きやすさという意味では
かなり助かりましたね。あと兜みんな武田菱が前立てで
すっごい違和感あったので、その意味でもGood。

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細い橋をわたるところで、メッチャ下見てますね(笑)

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気分は、昨年に続いて武藤喜兵衛です(笑)

もう一点は、プロのカメラマンが縦横無尽に走り回り、
写真を撮ってくださったこと。昨年の感覚で
カメラ持って行ってもいいんだとは知ってましたが、
また自分視点ではないいい写真を注文できてホクホクでした☆

今年も武田軍駐屯地となった小学校。

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赤備えが映えますなぁ!

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お着替えが済んだらまず写真撮影。きりり。

Few

その後は、皆さんでリハです。
毎回ちょっとずつ違うんでしょうかね。むむ。

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指示を受ける部将たち。
けっこうざっくりで指示があれ?ということも(笑)

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リハが終わると、ご飯の時間。
本陣隊の同僚と配給受けに向かいます。

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おべんとには昨年の信玄公・謙信公の写真。
わたしは写ってませんでした(笑)

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陣中食を召し上がる勝頼隊の皆様。
往時の合戦に向かう途上のご飯時は
どんなのだったのでしょうね?
こちらは至って日陰で穏やかなお昼タイム。

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いよいよ馬に乗って信玄公ご出立!

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信玄公の後ろを付いて歩くわれらが本陣隊。

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途中から下馬して信玄公も徒歩。さすがに陸橋は(笑)

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さぁ、川中島(という名の笛吹川河川敷)が
見えてまいりましたぞ!

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ここで見てはいけないものが・・・
信玄公に遠隔で連絡する現代的な手段装着(笑)
現代の軍師からの進言がここから!

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いよいよ決戦地入り。信玄公にお付きして
日光喜兵衛昌幸がおります(笑)

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いざ、決戦ぞ!

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あちらに見ゆるは上杉軍・・・

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対峙するわが武田軍。

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そこで米沢藩鉄砲隊の銃口が火を吹く!

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これ、なかなか自分に向けられて鉄砲を
放たれることがないので、飛んでこないと思っても
けっこうビビります(汗)

ここで、信玄公も諏訪法性兜を身に付け、
いよいよ戦闘モード!

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そんな周りにはカメラマンが群がる(笑)

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三献の儀。ぐいっ!

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よし、政虎を討ち果たしてくれようぞ!

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はるか先に見据える上杉軍に対し迎撃体制。

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車懸かりを仕掛けてくる上杉軍。ドドドド…と
効果音を想像しながらお楽しみください(笑)

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これ、真剣持って突撃してくること考えると、
すごいですよね・・・ひえぇぇぇぇ

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武田と上杉の激闘を見守る信玄公。

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きたぁぁぁ上杉政虎、単騎切り込み!
この時刀を構えて睨むのですが、前に出すぎて
注意を受けた本陣隊はわたしです(苦笑)

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信玄公、楽しそうな表情(笑)

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このあと本格的に上杉軍が本陣に突撃してきますが、
各部隊は各々闘うのに必死で、本陣が手薄手薄(爆笑)
あっという間に上杉の兵に囲まれます!
お屋形さま、ピンチ!

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わたしも刀で攻撃を受け止め、応戦しますが
その隙に背後の槍兵からバシバシ殴られました・・・
このときだけは兜ほしかったな(笑)

さて、無事(?)合戦を終え最後に信玄公とお写真。
やはり写真がたくさんあると、しっかり振り返ることができて
いいですねぇ!そして、いつか信玄公をやりたい・・!!

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ということで、また来年!

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川中島合戦戦国絵巻 2015!・・・の前日。

時系列的には前後しますが、4月3週目の笛吹市開催の
川中島合戦戦国絵巻をば。今年も楽しかった☆

今年は上田真田まつりともかぶってしまったのが
残念ではあるのですがね。もちょっと分散してほしいトコ。

ま、それはそれとして。今年は前日入りして、
ちょっと気になっていた「風林火山響の里」に行ってみました。
甲府駅前のに近い信玄公像があります。

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でかい!(笑)

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こちらエンタメレストランということで、
太鼓の演奏などを聴きながら、お食事できるとこなんですね。

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資料館・・というのはレストランに行く中の
館内の通り道に少し展示してあります。

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歴史的価値のあるモノではなさそうですがね・・・
それより武田家の系図が現宗家や他の武田の血筋も
紹介されてるのがイイね!

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宗家たる龍宝の血脈・高家武田だけでなく、
仁科系や米沢武田なんかも詳しく紹介してくれると
いいんだけどねぇ・・葛山信貞の子孫て
いらっしゃったっけ??

これも戦国時代のモノでは全然ないけど、
宗家当主の邦信公が沢村信玄公に手渡した軍配みたい。
ある意味・・・歴史的な?(笑)

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こんな感じで正面にステージがあって、
ステージに近いところは団体さん向けっぽかったです。

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太鼓の演奏!太鼓好きー☆

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そんな中オーダーしたのは、信玄堤と武田菱を
モチーフにしたカレー。ネタ感すごいがカレー美味ナリ!

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カレーの中にほうとうが潜んでいるのもオモロイ!
個人的には菱形をご飯できっちり四つに
割っておいてほしいんですけどね・・・惜しい!

エンタメレストランというだけあって、
城攻めオフ会の時とかにつかったら楽しそうなお店かも。
駐車場も観光バスが付けられるくらい広いし。

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このあと、山梨県立博物館にちょっと寄って来て。
ちょうど特別展「円空・木喰展」をやってましたが、
目的は武田菱ネクタイだったりします(笑)

途中で石和橋ににやり。武田菱がどーん(笑)

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それよりも、たまたまみつけたシンボル展
「実在した山本菅助」のリーフレットをゲット。
これが興味深い興味深い!!

市河家文書と真下家所蔵文書は豊橋で海老沼先生の
お話を聴いて
概要は理解しているのですが、
江戸時代の山本家に関する展示資料が興味深いんです。

山本家文書・御証文之覚には初代菅助道鬼斎から
孫の三郎右衛門菅助まで淀藩に仕えるまでの事跡が
記されてあったり、武田信貞書状には、三代山本菅助に
会えたことを喜ぶ内容が記してあったり。

武田信貞は、長篠城を囲む鳶ノ巣砦を守備した
信玄公異母弟・河窪信実の曾孫で武田に復姓して、
旗本として続いているんですよね。

鉢形城に近い埼玉・小川町あたり5000石を領し、
屋敷跡やお墓もあるそうですから、いずれ行ってみないと…

話を戻して・・・最もみたいなと思うのは、
恵林寺蔵の武田信玄百回忌奉加帳。
恵林寺の信玄公墓はこの百回忌の際に建てられたもの。

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当時の住職が武田家の縁のある人々に寄付を求め、
百回忌法要が営まれたのですが、その際の寄付した記録。
たまたま部分掲載されていたのを見ると、

金壹歩 永井右近大夫殿幕下 山本勘助殿

とあり、江戸時代を生きた三代山本勘助が寄付している
ということが判る内容です。それもすごいのですが・・・
個人的に、ハッ!としたのが、以下の2名。

銀三枚 松平陸奥守殿幕下 武田五郎左衛門(?)殿
銀三枚 同右断 武田三五郎殿

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松平陸奥守とは伊達家のこと。初代政宗公が松平姓を
賜っていてこう書かれるんですよね。

この文書が1672年ですので、当時は四代
伊達綱村の時代。ちょうど伊達騒動の翌年です。

伊達家中にいた「武田五郎左衛門」というと・・・
そう、石巻和渕を領していた武田家でしょう!

おおお、こんなところで名前を見るとは・・・!!
とひとりで感動してしまいました(笑)

現地に行ったときには、武田家とのつながりが
見えなかっただけに、感動もひとしお。

その他、尾張藩に仕えていた武田遺臣もいましたが、
ここにも尾張中納言殿幕下とある山高孫太夫という人物や
水戸宰相殿幕下 青木何某というのも見えます。

水戸家には、穴山梅雪家臣団が吸収されているので
そちらの系統でしょうかね。一方、水戸徳川家連枝である
高松藩松平家の名前も見えますね・・・

松平讃岐守幕下として、向井何某が2名。
山県昌景亡き後、駿河江尻城主として駿河を任された
のは穴山梅雪。そして、武田水軍の拠点は駿河・・・

武田水軍の一角を担い活躍した向井正綱の子、
向井左近衛将監忠勝は江戸湾の警護に重きを成した
ようですが、十一男七女と子供に恵まれたようですから、
この向井氏の系統の誰かなのかもしれませんね。

天野長重書状(山本家文書:1682年)には、
この菅助が土浦城の普請奉行になったとか・・・!?

ちょうどこの年、土屋政直が土浦藩から
駿河田中藩に移封されて松平信興が土浦藩に入りますが、
この松平信興の家老職として、山本菅助がいたわけ。

この前藩主(そして5年後土浦藩に復帰)の
土屋政直も土屋惣蔵昌恒の曾孫ということで、
武田遺臣であり、何かと武田ゆかりの土浦・・・!!

・・・ということで、この奉加帳、
かなりみたくなってきました(笑)

さて、翌日。信玄公本陣隊として、
川中島に参加してきました・・・よっ!

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