2014夏の余市(4) … 余市を学ぶ 会津藩士の足跡とニッカ
さて、午後は会津藩関連。
■餘市教学所跡
まず最初に向かったのは、餘市教学所跡。
設立時の1871年には日進館、二年後には黒川郷学所
名称を変え、開村記念碑のあたりに移転したそう。
これ以外に、浜中村にも1873年に郷学所がつくられ、
餘市教学所と改称されたようで、おそらくこの碑の位置は、
日進館そのものではなさそうです。
主要道路に面しているとはいえ、
なかなかしっかり見ておかないと見落としちゃいそう。
余市福原漁場を出て国道229号線(雷電国道)を西へ。
ヌッチ川の手前の左手に見えてきます。
田中内科医院さんが目印かな。
近くにニコー食品とかあって笑いますが(笑)
松平家が教本の不足を案じて、会津時代の教本を
取り寄せて、その教材で子供たちが学んでいたわけですね。
1871年~73年当時、松平家当主は容大ではありますが、
1869年生まれであって、「松平家」として
その求めに応じることができたのは、
あの容保公しかないでしょう。
そんな余市の会津武士の合言葉は、訳あって僻遠の
北海道に来てはいるが、常に会津侍の矜持を忘れるな、
だったそうです。らしいですね・・・
とかなんとか考えていると、なーんもないところでも
じーんと来ちゃうわけですよね。
八重の桜からのニワカファンではありますけども。
続いては、萱野権兵衛殉節碑と開村記念碑。
日進館、そしてその後の改称された教学所のあった近く。
■開村記念碑
1871年の旧会津藩士一団の余市入植から
50年後の1921年1月、除幕式が行われました。
そばには福島県知事の来町記念植樹。
そう、容保公の次男松平健雄氏の次男である
松平勇雄知事が余市に来られたんですね。
碑文はほとんど読めない・・・
気づいたらはるかさんが近くで資料を
ゲットしてくださっていたので、碑文の内容がわかりました。
(漢字は現代の漢字に改め、一部文章を切りました)
明治初年廷議北海道ヲ兵部省ノ所管トナシ大イニ拓地
経営ノ拡張ヲ謀ラレ同二年九月旧会津藩士二百
余戸ヲ同省ニ隷シ尋テ開拓使三年(四年の誤)ノ春之ヲ
余市郡ニ移シ帰農墾闢ニ従事セシメラル
黒川山田ニ部落即是ナリ
当時草創ノ際行通四塞巨木蔭森熊吼狐兎ノ窮陬ニ属シ
榛莽蓊鬱満目荒涼タル境土タリ 共存自治ノ精神ト
奉公不撓ノ至誠ニアラスンハ焉ソ克ク守成ノ効課ヲ
収ムルコトアランヤ宣ベナリ
故黒田長官ノ我部落ニ「志業永伝」ノ四字ヲ寄セラル
豈ニ又タ故トナシトセンヤ
今茲ニ大正九年実ニ開村五十年ノ佳辰ニ相値フ
有志皆謀リ聊カ当時ノ梗概ヲ録シ以テ不朽ニ伝フト云爾
維時大正九年首秋 松田壽三郎謹識
そんな難しい文章ではないですが、おおよそ伝えたい内容は
読み取ることができますね。黒田清隆の救いの手が
余市に配された旧会津藩士とって大きな恩
だったことがわかります。
この黒田清隆から寄せられた「志業永伝」の字は、
会津藩士の墓にも掲げられたそうですが、
1949年に心無い者の手により墓石が持ち去られた後、
長く墓石のない状態が続いていたそうな。
1986年にようやく現在の墓石が再建された
(ただし志業永伝の文字はない)ということなのだそう。
志業永伝の拓本は辛うじて現存するとのこと。
道理で墓石が新しいはずだ・・・
小樽、そして余市の開拓に向かった会津藩士一同は、
北海道の開拓に向かえば、旧藩主容保の助命と会津藩再興に
叶うという知らせに応じた会津藩士250名。
彼らは自らの意思で北に向かうことを選んだのでした。
その中には、白虎士中二番隊の半隊頭だった
佐藤駒之進も。通説では戸ノ口原の戦いで討死した…
ということなのだが、この北海道に向かう一団に
ひそかに混じっていたそうです。
白虎隊の最期があまりに壮絶だったこと、
後年名声が高まるにつれいたたまれなくなったこともあり、
白虎隊のことはほとんど話さず、黒川村二番村村長として
またリンゴ農園の経営者としてひっそり暮らしたそう。
余市蒸留所前の町営駐車場あたりが彼のリンゴ農園で
余市入植後は相次いで子息が他界するも、ご子孫は
少し離れた登町で農業を営んでおられるとか。
・・・閑話休題。
一団が小樽に着いたのは、斗南藩が成立する少し前の、
明治2年9月21日(新暦1869年11月4日)。
受け容れ担当の兵部省と新たに設置された
北海道開拓使で所管で揉めてしまい、会津藩士一団は
無為の時間を過ごすことになったようです。
揉める原因の一端は派閥と縄張り争い。
どうも兵部省が長州閥、開拓使が佐賀閥ということみたい。
碑文の中で、開拓使に従ったところから余市移住まで
時間が開いているのはそういう事情があったわけですね。
旧藩主を救うため、会津藩再興のためと願った藩士たち
そりゃ無為に過ごすのが耐えられるはずもなく…
しかも、兵部省が廃されることになると、
一転、兵部省の役人は会津藩士を開拓使に押し付け
早々に引き上げようとし、開拓使の役人もこれを
撥ね付けると、じゃあ斗南藩へ・・・
いやいや、食うか食わずかの斗南藩に
そんな養うアテはありません。完全に宙に浮いた
会津藩士団、一団の隊長宗川熊四郎が
開拓使長官・黒田清隆に嘆願。
直ちに黒田は鰊漁で栄えていた余市の開拓を薦め
会津藩士もこれを受け入れて、余市に向かいました。
黒田清隆への恩情の念が強いのは、この配慮によるもの。
黒田は薩摩出身で憎き仇敵ではありますが、
この恩情に余市の会津藩士たちは
深く感謝していたのでしょう。
黒田は公式的には樺太への移住させることとし、
余市への移住はその仮のものとの名目だったようですが、
移住にかかる費用を官費から出しているわけであり、
カモフラージュさせる目的だったのかもしれません。
実際、住居は南部の材を函館まで持ってこさせて
加工した上で、余市で組み立てているわけで、
ものすごい厚遇されているわけですよね。
とはいえ、なかなか開発はうまくいかず、
余市を離れる会津藩士がひとり、またひとり…と
出てきたリンゴ栽培の成功がくるわけです。
■殉節碑
向かいにあるのは、殉節碑。この真裏が、
余市日進館だったようです。
こちらは碑文をが読めました。
こちらも漢字は新字体に改めておきます。
従三位勲二等功五級子爵松平保男篆書
幕末会津藩守護京都忝 天皇親任被幕府倚頼
明治戊辰事与志違四方圍據孤城死守既而開城
先是藩相田中土佐神保内蔵助臨戦自刃於是
藩相萱野権兵衛代一藩君臣従容殉節嗚呼忠哉
今茲余市旧会津藩士等建碑属余撰文因概記居焉
昭和十二年五月十五日
陸軍大将従二位勲一等功二級柴五郎撰
小樽高等商業学校講師 松井源吾謹書
一昨年、八重の桜を見ていたわけでこのあたりの
くだりはよくわかっているわけですが、
開村記念碑から16年後の1937年に建てられています。
1937年、そのとき政孝さんは日果林檎汁の製造販売に
追われていたことでしょう。間違いなく政孝さんは
余市に居られたはずなのです。ひょっとすると、
除幕式にもお越しになっていたかもしれませんね。
とすると、間違いなく会津藩のたどった歴史を
ご存知だったはず・・どんな思いで会津藩の歴史を
感じておられたのでしょうね。
■よいち水産博物館
続いて向かったのは、「よいち水産博物館」。
もちろん、水産に興味・・ではなく、
会津藩士の資料も多数収められているとの話から。
ものすごくたくさん興味深い資料があって、
まだまだ全然文字資料は読み込めていないのですが、
貴重で興味深い資料がたくさん。
政孝さんが来る前の余市の様子。湿地帯だった
というのがすごいよくわかりますよね。
猪俣安造を中心にできた余市興業社が1920年に
埋め立てをしたそうですね。
(ニッカコーナー)
ニッカコーナーは興味深いトコロばかり☆
大日本果汁時代の広告。ニッカも角壜と呼んでいる
というのがなんだかおもしろいですね。
研究所(現・リタハウス)前の集合写真。
事務所前の集合写真。
いずれも真ん中にどっしり悠然と構える
政孝さんが写っていますよ。
天然水族館に掲げられた「ニッカウ井スキー」の文字。
リタさんが亡くなられた翌年、
スーパーニッカが発売になった1962年に
余市を襲った洪水。埋立地ということもあって、
水には弱かったのでしょうかね。
工場でのラジオ体操風景。
女子野球チームの表敬訪問や大会臨席。
そんなチームあったんや・・・
番屋を移築した昔のニッカ会館!いいなこれ!
こんな感じでいろいろな貴重な写真が・・・
見飽きないです!!!
(会津コーナー)
会津コーナーにも興味深い資料がたくさん!
その最たるものが「御受書」。
黒田清隆から余市への入植を打診され、
それに血判を捺して応じたもの。残されているのは
副本で製本は黒田に提出されたのでしょうが、
現存はしていないようです。
そして、会津日進館で使われていた旧会津藩時代の教本。
余市で暮らす会津藩士への旧藩主の贈り物・・・
学んだ藩士の家から寄贈されたもののよう。
よく残ってたなぁ。貴重な史料。
爈邊夜話。余市開拓団の歴史を記した史料。
昭和40年代まで残っていた会津藩士邸宅。
竹鶴邸と同じ山田町内にあったそうで、
このような伝統的な母屋が並ぶところにあった
和洋折衷の竹鶴邸は、さぞ目立ったことでしょう。
先ほど、戸ノ口原で討死したと思われていたが
余市で生きながらえていた・・という佐藤駒之進肖像。
甲冑。会津藩士のものでしょうか。
いつの頃の甲冑なんでしょうね・・・
まさか、高遠以来武田家臣の頃だったりして(妄想)
そして、リンゴの話。赤羽源八が実らせたリンゴは
「緋の衣」と名づけられます。これがそのラベル現物。
容保公が孝明帝から授かり陣羽織に仕立てた紅い衣、
そして、鶴ヶ城での降伏に涙した泣血氈。
その会津の陰陽ふたつを込めたリンゴです。
そして、赤羽源八は高遠以来の家柄。
つまり、武田家や仁科盛信にまつわる歴史にも通じる
家柄なんですよね。武田と会津、そして余市…
なんて、わたし得なエピソードなんでしょう!!
・・・とテンションあげあげ(古)のまま、
次の目的地へ!
■吉田観光農園
以前から緋の衣の原木が残され、まだ実っている…
と聞いていて、ぜひとも訪れたかったところです。
よいち観光温泉が併設されているのですが、
生憎ご主人はお仕事で農園におられるとのことで、
農園に入らせてもらって、ご主人探し。
しかし、農園は広い広い!
あっちへ・・・
こっちへ・・・
あ、ぶどう美味そう(こら)
そして、ご主人をみつけた!あちらのほうに・・・
ということでお仕事が一段落するまで、
わたしたちで探してみることに。
よし、これだ!緋の衣だぁぁぁぁ!
中は空洞になっていますが、ちゃーんと生きてます☆
他には色づいているリンゴもありましたが、
緋の衣はまだ青かったです。
この樹、会津人に手をさしのべた黒田清隆の子孫や、
萱野権兵衛の子孫の方も観にいらしたことがあるんですって。
さらにさらに。
緋の衣、今や会津の銘柄としてかの地でも
栽培されているのですが、その苗木が
余市に戻ってきているのだとか。
若い樹だなーと思ったらそういうことなのか!
次世代の緋の衣ですなぁ。当時から今も
成っているのは先ほどの1本だけとのことですからね。
また、余市でも緋の衣がメジャーになるといいなぁ。
あ、このリンゴいけ・・(こらこら)
こんなね・・おいしそうだなぁとか目を取られてるから
肝心なこと訊いてないじゃないか!
政孝さんのニッカリンゴジュースは緋の衣だったのか!
どこを見てもそうって書いてないんですが、
状況証拠的にそう・・なんですが、ちゃんと裏取りを
したかったのに!自分のバカ!バカ!バカ!!
はぁ…ま、もう日も落ちてきます。
そろそろ会津藩めぐりも終わりにしなくてはなりませぬ。
ここでなんとはるかさんとこでBBQを。
なんとありがたいことか!!!ほんとにありがとです!
はるかさんとこのわんこにめっちゃなつかれました(笑)
そして、お肉(ラムも美味☆)美味しかった点…ほくほく。
どうやってこのご恩をお返ししてよいのやら。
このあとは(また)小樽に出向いてBARタイム。
いつもリタさんばっかりで…行きたかったHATTAさんへ。
北の大地ってボトル知ってます?わたし初見でした。
15年の割にはかなりアルコールのトゲトゲしいので、
ちょっと人を選ぶ感。悪いシェリーではないと思います。
少し加水するとよい具合になりましたかね。
さて・・・北の大地で会津づくし(といいつつニッカ色あり)
の2日目が終了。3日目はまったりまいりますぜ。
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コメント
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余市に会津の足跡があったんですね。
今度見に行きます
投稿: 熊のすけの子孫 | 2017.07.08 11:25