« 江戸城本丸大広間 -権力の舞台装置- | トップページ | 彦根城・・・のかたっすかしorz »

外交史料館「マッサン展」

江戸城本丸御殿にニヨニヨしながら見た後は、
外務省外交史料館にて、マッサン展。

P1030809

琥珀色の夢と青いバラの物語・・って、
青いバラって何を指しているのか分からないニブチン。

P1030810

フラッシュ撮影さえしなければ、
撮影OKなのもうれしいところですね!きゃほー!

しかもお手製のパンフ(しかもかなりページ数ある)まで!
スタッフの方々の苦労が伝わってきます。

141116_2049_001

もともとは幕末以来の外交史に関する資料の展示を
するところなので、通常展示はマッサンには
関係はないのですが、それでもスコットランドとの関係に
フォーカスを当てた展示もいろいろありましたよ。

日英修好通商条約の英国全権がスコットランド出身の
エルギン卿だとかね・・これは条約調印書。
日本側は花押を書いているところが興味深いですな。

P1030812

これ、実は火事の際に焼失を免れるため水をかけてしまい
このページのここまでしか開かないそうで、
写真での展示になっているそうです。

あとエルギン卿ときいたら、グレンエルギンを思い出して
なんとなくスコットランド?と思うのが
ウイスキー好きでしょうな(笑)

それからトーマス・グラバー。長崎のグラバー邸で有名ですが
薩長に手を貸したことが明治になって評価されて、
日本の勲章を受勲しているんですね・・・
このグラバーもスコットランド人。

山縣有朋が推薦者になっているんですが、文中で今では
普通「薩長」というところを「長薩」と書いていて、
ぷぷぷっと思ったのは言うまでもありません(笑)

絶対温度で知られるケルビン卿もスコットランド人。
多くの若い人材を日本に派遣したそうです。

政孝さんも学んだグラスゴー大学から招聘された
ヘンリー・ダイアーもスコットランド人で、
日本における西洋式技術教育の確立に大きく寄与。

P1030814

そのダイアーに学んだ渡邊嘉一は英国にわたり、
(1884年だから政孝さんより大先輩!)
英国で当時の建築の最高峰といわれたフォース鉄道橋の
完成に大きく寄与したのだそうです。

続いては昭和天皇の皇太子時代の渡欧の記録。
記念絵葉書が出たそうな・・・

P1030829

P1030815

凛々しい皇太子殿下。当時二十歳。

P1030826

訪問されたのは1921年。政孝さんは前年の1920年に
帰国していますので、裕仁親王殿下を出迎えることはなく。
エジンバラにもおいでになったそうなので、
もしまだ政孝さんがいらっしゃれば、お迎えに上がったかも?

逆に英国からも皇太子をお迎えしているみたいですね。
非常にこの頃まではよい関係であることが分かりますね。

P1030828

さーて、ここからが政孝さん登場!
外務省ならではの資料・・旅券発給記録から
竹鶴政孝その人を捜し当てたのです!

P1030831

渡航した年の1918年に渡航した記録380冊以上の
中から191冊目に名前を発見!すごい作業だ・・・!!
前日まで本物が展示されていたそうですが、
紙食い虫が出たそうで、一時避難(泣)

グラスゴー大学の夏期講座受講許可証。
記載された住所がカーカンテロフのリタさん宅で、
どうやら申請したのは1919年春らしい。

P1030841

ということは、すでに政孝さんはこの頃すでに
カウン家に厄介になっていたことになりますな。ほぅ。

リタさんの国籍変更の謎を解き明かす
英国総領事から外務大臣に当てた記録。
在倫敦矢田七太郎総領事より内田康哉外務大臣宛
公信通三送第95号『廣島縣人竹鶴政孝結婚証書送付ノ件』

P1030832

こちらも残念ながら紙食い虫のせいでコピーなのですが、
今の国籍法とは違い、来日してませんがこの証書を以って、
リタさんは英国国籍を失い、法律上も日本人に
なっていたんですね。

つまり、日本人男性と外国人女性が結婚すると、
手続きなく自動的に日本人になっていたのが当時。
初来日のリタさんのパスポートも英国日本領事館が
発給していたそうで、政孝さんのパスポートに
添付されていたとか。

P1030846

外務省の帰化外国人の記録を調べても、リタさんが
出てこない・・・・というので国籍の切り替わりについて
調べたらそういうことか!とわかったんだそう。

そして1925年の最初の里帰り。このとき、同時に
旅券申請しているが、先にリタさんが英国に入って、
後から政孝さんが追いかけるカタチ。

P1030833

というのも・・・政孝さんがリタさんにプレゼントした
洋書の政孝さんの記述から。マッサンと呼ばれていたとは
言われていますが、記録として残っている数少ない物的証拠。

P1030842

このときの発給記録もちゃーんとあります。
戸籍上は竹鶴ゼシーリタという名前のようですね。

P1030845

そして二度目の帰郷。このときには養子の房子、
鳥井信治郎の長男吉太郎を伴って渡英しています。
彼は間違いなく、壽屋の二代目を背負うべきだった人物。

P1030836

P1030837

帰国後33歳の若さで1940年に亡くなりますが、
彼が生きてそのまま2代目社長になっていれば、
サントリーとニッカの歴史も大きく変わっていたはず・・・!!

残念ながらこのときのパスポートは
いまだ発見されていないそう。

これより少しさかのぼること5年。東京日本和洋酒新聞に
政孝さんが寄稿した原稿が残っていました。
間違いなく壽屋の人間として…の竹鶴政孝です。

P1030835

おまけで札幌オリンピックのときの笠谷選手と政孝翁。
笠谷選手は余市郡仁木町生まれでニッカの所属。

P1030847

ちょっとぐったりした様子の政孝翁。
1972年ですから最晩年。少しお疲れですかね?
脇にある飲み物はニッカの水割りかな・・・!?

P1030848

まだまだ今も資料を捜索中で、来年5月まで
やってるそうですから、またふらっと行くと
史料が増えてるかも・・・と期待☆

blogramに参加してます。
ボタンを押してもらえるとうれしいですぅ。
blogram投票ボタン


|

« 江戸城本丸大広間 -権力の舞台装置- | トップページ | 彦根城・・・のかたっすかしorz »

「イベントレポート」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/16856/60662464

この記事へのトラックバック一覧です: 外交史料館「マッサン展」:

« 江戸城本丸大広間 -権力の舞台装置- | トップページ | 彦根城・・・のかたっすかしorz »