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講演会:政宗歴史塾 - 瑞鳳殿発掘から40年(1)

さて、今回の仙台訪問はこちらが目的。
瑞鳳殿の発掘のお話が聴けるとは非常に貴重。
ということで、ぴゅーんと向かったわけですよ!

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発掘調査され、また遺骨にも調査が入っているのは
非常に貴重な例ですよね。

戦災で焼けたからではあるのですが…
しかも、焼夷弾を落とすだけではなくて、
前日に空からガソリンをばら撒いた憎きアメリカ!
仙台城の大手門も焼けたんですよね・・・・

ちょうどこの日は、政宗公の誕生日ということで、
講演にはふさわしい日でしたね。

ということで、伊達泰宗氏の講演です。
初代伊達朝宗から数えて伊達家34代、
政宗公から数えて18代目に当たられます。

お声を聴いてハッとしたのは、非常に明瞭で、
それでいて品のよさを感じるお話しぶり。
瑞鳳殿の講師としては初めてのことだそうですが、
お話が上手な方だなという印象でした。流石!

えーっとかあーっとか、プレゼンに慣れていない人が
やっちゃいがちなことがまったくなく、
そして言い切るところは「・・なんです。」と。

お誕生日・・・ということから、そこから。
男子の誕生日はあまり祝った記録がないそうですが、
女子の誕生日は祝われたそうですね。

日比谷公園に政宗公終焉の地の碑がある話や
4代以降の歴代藩主のお墓の話など。
伊達家墓所は、野草園のテレビ塔のそばにあるそう。
ぜひ4代公以降のお墓にもお参りくださいとのことです。

泰宗氏は、東京のお生まれですが、
今仙台に住民票を移されたのだそうですね。

震災の後、瑞鳳殿はもちろんのこと、
政宗公以前の伊達家の墓のある伊達郡のお墓にも
向かわれたそうですが、放射線量が高く、
なかなか行けなかったそうですね・・・

800年続く伊達家の歴史を背負って、墓を守っていくのは
伊達家当主の責務である、その気概で移されたのでしょうね。

■瑞鳳殿再建の経緯

泰宗氏が幼少のころの瑞鳳殿はそれはそれは、
悲しい寂しいものだったそうです。
白木の墓標が一本だけ・・・・

このままではいけない・・・と瑞鳳殿再建の機運があった際、
最初は小さなお堂を造ろうということだったそう。

しかし再建期成会が立ち上がってから、全国はもとより、
海外からも協力させてほしいと寄付金が続々と。
徐々に、大きさは元の姿にしよう、
いやいや装飾もつけるか・・・となっていったとか。

それでも当初から変わらなかったのは耐火構造、
すなわち、RC構造にするということでした。

当時はRCこそが完全なものであるという、
信仰に近いものがあったことに加えて、
瑞鳳殿が焼けてしまったという経験を肌身に感じた
方々が建設委員会に多く名を連ねておいでだったとか。

二度と瑞鳳殿は焼けてはいけない・・・その一心。
今だったら、木造で造ろうという話だったでしょうね、
と泰宗さんもおっしゃっていました。

この経緯については、名古屋城天守に通じる気がしました。
二度と焼けてはいけない、焼けない天守を造ろう…
ふと、夢童さんの講演の内容が頭に浮かびました。

瑞鳳殿がどのくらい保つのかはわかりません。
天守と違って高層建築ではないのですし、
意外と保つのかもしれませんが、いずれ天守などと同じ
難題に直面する日が来るのでしょう。

2001年の改修の際に構造面も手が入っているなら、
かなり先まで保つことでしょう。

彩色や彫刻に関しては、戦前に国宝指定されていて、
かなり詳しく資料が残っていたことで、
相当レベルの外観復元ができたんですね。

さらに大崎八幡宮や同時代史料として日光東照宮も
参考にしながら、1979年に再建されました。
このときの彩色は古色仕上げということで経年劣化を
加味した色合いだったそうですね。

これも焼ける前の彩色が頭に残っている皆さんの
意向が強く働いたんでしょうね。今の瑞鳳殿は、
焼失当時の瑞鳳殿をイメージした意匠変更を進めたから、
あのように鮮やかな色彩なんですね。

わたしは今の瑞鳳殿のほうがいいなと思いますね。
政宗公らしいというか(笑)

■瑞鳳殿の発掘調査の成果■

瑞鳳殿のある経ヶ峰は、広瀬川がクネッと曲がったような、
龍の懐に抱かれるようなところ。

なぜ政宗公がこの地を選んだか?については、
文献等の史料がなくて確定的なことはわからないのですが、
泰宗氏は、次のように考えておられました。

つまり、龍のように流れた川でつくられる
半島状の場所に祖先の墓をつくると、
その国を守る神になる、という意味があるそうです。

最晩年に経ヶ峰を訪れた政宗公がこの地をわが墓所とせよ、
と命じた話はありますが、このことを知っていたのかも…と。
仙台を守る神になる気持ちだったのかもと。

風水の知識から候補に定め、実際に経ヶ峰に訪れてみて、
気に入ってここに定めたのかもしれませんね。
眼下に広瀬川と城下町がみえ、背後に仙台城を控えた
経ヶ峰、そこから太平洋を見据えて・・・
などと想像が膨らみますね!

そして、焼失前後の瑞鳳殿の違いのお話。
昨年、こちらの企画で写真と現物を見ながら、
わたしも楽しませていただきましたね。

焼失前は拝殿に床下があったり、本殿と拝殿をつなぐ
渡り廊下があったり・・・焼失前は儀式は拝殿で執り行い、
本殿には限られた人しか行けなかったことでしょう。

ある意味、今であるからこそ本殿に近づいて、
手を合わせることができることは、有難いこと
とおっしゃっていたのは、ホントにそうですよね。

本堂内の尊像は今は実物大ですが、往時は1/2。
この尊像は位牌の代わりということのようですね。

わたしも気づいた昔の写真の竹雀紋の違いにも
言及されていましたが、今の瑞鳳殿のほうが正式。

そして、発掘調査時のお話。発掘調査員の方が
一段ずつ床面の石をはずしていきます・・・
地面が出てきて、次に玉石。その奥には粘土層。
さらに中くらいの玉石、粘土層、細かな玉石・・・・

約1m彫ったところに、墓の蓋石が出てきたそう。
中央よりやや左に蓋石。調査員の方々は
当然中央にあるはずと思っていて出てこず、
まさか自分の足元にあるとは・・・と驚かれた様子。

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いろいろ考察された結果ですが、瑞鳳殿の
建っている位置に少し謎を解く鍵があるようです。

どうやら崖に近い位置にあって、政宗公がここに、
と指定した位置を中心に瑞鳳殿を建てると、
ものすごく不安定になりそうだというのです。

したがって、石室の位置はそのままで、かつ建物の安定性を
確保するために、建物を右にずらしたのではないか?
という推測をされていました。ほうほう。

事実、11代伊達斉義の時代に崖が崩れたことがあるそうで、
修復工事がなされたそうですね。これ以上崩れないよう
わたしが守っていくんだということで、
伊達斉義の墓は経ヶ峰に建てられているのだそうですよ。

そして石室には蒔絵の木箱のほか、甲冑や太刀などが続々・・・

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今であれば、テントを張って蓋石が開いたときに、
空気が急激に変わらないようにするのでしょうが・・・・

このとき泰宗氏は15歳。遺族のひとりとして、
現場に立ち会ったのだそうです。
石棺が閉じられた1638年から338年の時を経て、
蓋石が少しずつ少しずつずらされていきます。

中からなにやら光に反射するものが現れました。
蒔絵で飾られた木箱でした。

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そして、338年ぶりに政宗公が外の世界に
姿を現したのでした。

■政宗公の遺骨と対峙して■

びっくりしたのは、遺骨のお写真を見せて頂いたこと。
これはなかなかない・・・がもちろんお写真は撮りません。

石室内の真ん中には石灰が放射状に広がっていたそう。
記録によると、政宗公は円形の棺桶に安坐し、
その周りに防腐剤として石灰を配し、
籠の先端を切り離し、籠ごと収めたのだそうです。

籠の担ぎ棒が頭骨に当たりそうな箇所にあったそう・・・
ですが、幸いなことに無事だったそうです。

当時15歳の泰宗氏、政宗公の頭骨を目の前にして、
いつか必ず仙台に戻ります、公のそばで
お守り申し上げると手を合わせて、誓ったそうです。
そして、伊達家にそして、歴史にかかわるお仕事を
仙台でされていることが何よりの喜びだと。

かつて、お父上がご存命であった東京でお住まいの頃。
正月にはご機嫌伺いとして、重臣のご子孫方が、
お見えになるのだそうです。

そして「若様、お勉強の時間です」と呼ばれて、
そのご子孫方から延々と政宗公の、伊達家のお話を
マンツーマンで正座をして向かい合って聴くのだそうです。

そういう話をたくさんお聴きになったことがあって、
政宗公の頭骨を目にして、政宗公のそばで
仕事をしたいとお誓いされたのでしょう。

閑話休題。政宗公の大腿骨の長さから、
身長がわかるんですってね。159.4cmと今からすると
低いですが、まぁこんなもんでしょう。

上腕骨は筋肉が付着する部分が非常に太く発達。
前半生、戦国武将として活躍した様子が彷彿とされます。

また左足の踝(くるぶし)の腓骨辺りには骨折痕。
伊達治家記録にある20代に米沢城下で骨折した記録と
符合するそうですね。なるほど・・・

こういう自然科学と歴史学の両方からアプローチは
瑞鳳殿の調査の特徴でもあるそうですね。なるほどっ!

政宗公の頭骨の大きさ・・・おでこが出ていて、
前頭葉が出ていて、後頭部が出ている長頭型。
前頭葉の大きさは頭のよさの証拠かな?

後頭部が長いのは、室町以前の日本人の特徴だそうですが
逆に頭骨からわかる鼻筋の高さは、現代日本人よりも高く
正面からのお顔は現代的だったのでしょうね。
歯がないところから、歯槽膿漏だったこともわかるんだそう…

正面からみると、眼窩(眼球の入る頭骨の穴)がとても大きく
政宗公は目が大きい方だったことがわかるそう。
ということは、二重瞼だった可能性が高いわけで・・・・
若い頃は、さぞかし男前だったのでしょうな。

そして、瑞巌寺の伊達政宗像との比較。
遺骨から推察できる顔と矛盾ないことがわかりますね。
科学的に推察された政宗公のお姿も披露。

藤原氏の血を引く政宗公・・なのか、
貴族顔に分類されるようですね。

■政宗公の死因■

胃と食道をつなぐ噴門という部位に腫瘍ができ、
食べにくく、食後吐き気を催し、
腹水が溜まって晩年は苦しい思いをしたそうですね。

水を抜く(どうやって?)こともしていたとか、
苦しくて水が飲めず、ストローのようなもので
水を吸っていたなども記録にあるそうな。

晩年の姿は太っているように見えますが、
太っているより、こうした腹水が溜まっている様子を
描いたのかもしれませんね。

さて、ここいらで休憩。第二部に参ります。

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