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敗者の日本史「長篠合戦と武田勝頼」①勝頼の人物評

普段、忙しさにかまけてなかなか本を読めず、
買っても積読が多い有様・・・

以前から武田勝頼という人物も知らないと、
武田信玄その人をよく知ることはできないなと思っていて、
やはり武田家の最期をきっちり知っておきたい
という気持ちもあるので、
コチラの本を手にとってみました。

結論として、わたしが抱いていた勝頼像に近い実像が、
史料から推論できるんだなという印象です。

以下、わたしなりに読後感をまとめてみたいと思います。
歴史上の人物を客観的に扱いたいことから、
以下、敬称略で書き進めてまいります。

平山先生がご指摘のように、結果論として長篠敗戦から
勝頼を評価するのではなく、彼の生い立ちと
家督継承までの流れから捉えていくべきというのは、
至極全うな議論だと思います。

■信玄の後継者指名とその問題点

やはり、勝頼は本来的には武田家を継ぐ人間ではなかった。
だからこそ、信玄も苦慮したのだろうなと
漠然と思っていました。ただ本書で新たに加味すると、
その苦慮がはっきりとしたような気がしました。

というのも、義信存命中の勝頼の位置づけと
武田家継承までのくだり勝頼の扱いが解説されてあってですね。

1567年(永禄10年) 義信自害
1569年(永禄12年) 勝頼、駿河侵攻作戦・対北條戦従軍
1570年(元亀元年) 信玄、将軍義昭に勝頼への官位任官要請
1571年(元亀二年) 勝頼、信玄の命で高遠から甲府へ帰還
1573年(元亀四年) 信玄薨去

実に義信が自害してから、信玄薨去まで6年しかなく、
その間に慌てて信玄が後継者として勝頼を
仕立てようとしてるな・・・という印象を強くしました。

義信存命時は、伊那郡代・高遠城主であるとともに
出陣時は頻繁に甲府留守居を申し付けられるなど、
戦術に長けた勝頼にはちょっとおもしろくなかったかも?

・・・ですが、すでに他の一門衆から抜きん出て、
(「諏訪」勝頼であるにも関わらず)信玄・義信に次ぐ
地位であるのは、興味深いですね。

そして、永禄12年以降、駿河攻略作戦に従軍するわけですが、
非常に信玄の覚えめでたく、駿河蒲原城の攻略時に、
一門にも家臣(真田信綱)にも言及していないのに、
他国宛の書状で、勝頼の武勇を宣伝しているんですね・・・

しかも、この武勇はいつものことであるとともに、
信玄が非常に自慢げに語っているという文脈。

元亀元年には、勝頼に官位と一字拝領を求めるものの、
うまくいかず、信玄もあまり拘泥することなく流れてしまう。
翌年、いよいよ甲府に呼び寄せるわけですが・・・

このドタバタ感、少なくとも義信存命中に勝頼を据える
意思はなかったのかなということと、勝頼の位置づけの考え方
信玄自身もあまり考えがまとまっていなくて、
「走りながら考える」印象が強いですね。

義信に対しては、ものすごく教育を施して帝王学を
学ばせていた一方で、勝頼には諏訪と武田の橋渡し役として
生まれながら期待されていたわけであって・・・

しかも、今が一番大事というときですから、
ジックリ大将としての心構えを説いている場合でもない。

この微妙さ加減は武田家中にも伝わっていたんでしょう。
やっぱり諏訪の出である勝頼が後継になっていく・・・
なかでの家中の違和感。

それが、後の勝頼と信玄旧臣との軋轢にもつながるはずで、
何より、人で持つ武田にとって、一番マズイ・・・・
信玄自身がそれを感じ取っていたはず。

そう考えると、

・武王丸(後の信勝)が成人したら速やかに家督を譲る
・勝頼に孫子旗など武田家当主を象徴する軍旗の使用を禁ずる
・「大」(諏訪大明神の「大」を意味する)の軍旗は可
・諏訪法性兜の着用も可

との甲陽軍鑑における信玄の遺言が、難題に直面した
信玄の精一杯の打開策として、読み取れるんですよね。
うまく話の辻褄が合って、わぉーという感じです。

勝頼の改名に信玄がこだわらなかったこととも符合しますし、
最初は勝頼を武田家の嫡子として
扱うつもりだったかもですが、嫡孫武王丸を擁立する意図に
途中から変わったのかも知れません。

いずれにしても、あくまでも諏訪家としての扱い。
「大」の旗や諏訪法性兜にしても、
諏訪絡みだから認められているというわけで。

これについて、信玄自身が勝頼が陣代に過ぎないという意識を
決定的にしてしまったと捉えることもできはするのですが、
それが勝頼にとって、望まざることだったに違いない。

勝頼を持ち上げるあまり、信玄の後継政策が拙いと
評されることもありますが、信玄にとって
義信の異常なまでの(当時としては)妻の実家への
コダワリには、理解を超えるものだったというのは、
容易に想像できます。

事実、弘治元年(1555年)付けの信玄書状で、
義信は今川家を重んじるあまり、父子の関係を忘れ
困惑しているという記述があるそうです。

困惑・・・元の表現までは分かりませんが、
この困惑という表現こそ、信玄の心中を
よく表していると思います。

義信の死去に際しては、自害か信玄が切腹を命じたか
は分かっていないことになっていますが、
状況から考えるに、最後まで義信が心を入れ替えることを
信玄は望んでいたと想像します。

だからこそ、勝頼に対して後継として育てる時間がなかった。
さっさと義信を見限っていればとも思いますが、
それができない信玄もまたわたしにとっては魅力的です。

・義信に最後まで賭けていたが、自害されてしまい
 急遽、後継者を考え直さざるを得なくなった
・次男信親、三男・信之は夭折のため、
 四男・勝頼にせざるを得ない
・諏訪家との関係と家中の結束を維持する観点から
 勝頼は陣代として後を継がせ、後見人として影響力を持たせ
 信勝を当主とすることで後継問題と諏訪家の問題を一挙解決
・幸い、勝頼は武勇に優れた後見には申し分ない(はず)

というのが、信玄の考え方でしょうか。
しかし、不幸なことにそうならなかった。

もし軍鑑の書いている通り、これが病床での遺言だとすると、
もっと早く伝えるべきだった、もっと重臣たちと
協議してわだかまりないようにしておくべきだった。
信玄の失策はそこに尽きるように思います。

■権力志向の違い … 信玄 vs 勝頼

ただ勝頼としては、承服しがたいことだったのでしょう。
俺が当主だという気概に溢れていたのではないでしょうか。

信玄の遺言として、死の三年間の秘匿と守備に徹せよ、
とのメッセージがクローズアップされがちですが、
実は信玄の西上作戦の延長線上にあって信玄死後三年間は、
積極的な対外侵攻というより、織田徳川への反撃と
捉えられる動きをしているようですね。
そこは追って感想を書くとして・・・・

むしろ、あくまで諏訪家出身の立場として、当主代理である
という自覚を持てという信玄のメッセージのほうは、
全く聞き入られることはなかったように思います。

甲斐二宮美和神社に収められた勝頼願文の紹介もありましたが
勝利を重ね武名を天下に轟かせる…など、主体的な意思に
満ち溢れていますよね。

甲陽軍鑑に記されている家を滅ぼす大将の例として、
「強すぎたる大将」が挙げられていて、これが勝頼とされています。

曰く、主体的で強い信念があって機転も利き、
ハキハキしゃべり、知恵者。だから慎重論を遠ざける嫌い。
勇敢な意見ばかりが取り上げられ、また意見を言いにくい空気が形成。
反論しても論破されるので、ますます意見が言いにくい・・・

そして、死なずともよいところで強いものから死んでいき、
国力が疲弊し、ついには家を滅ぼすことになる・・・
ものすごく主体的に当主たる気概があったんでしょうね。

つまりは、部下の特徴を理解し、また議論をさせることを
軍団の底上げを図ることも重視した信玄に対し、
自ら得意とする武勇でその当主の風格を示さんとする
軍事的な中央集権化を目指したのかもしれません。

それは当然、旧来の重臣との軋轢を生むことになるし、
媚びた一派ができることも不思議ではない。
だからこそ、あの内藤昌秀の起請文が意味を持つわけで・・・

その意味では、義信も勝頼も自分の立場は置いておいて、
武田家としてどうあるべきかを考えられていれば、
少しは未来が変わったかもしれないな、と思うわけですよ。

そして、組織論としての関心が武田信玄という人物への
関心の発端であったことを考えると、武田勝頼とは、
やはり距離を置かざるを得ない、
という感覚を新たにしました。

ということで、長篠合戦編へ・・・

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