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敗者の日本史「長篠合戦と武田勝頼」②長篠合戦をつぶさに観る

さて、長篠合戦に関してです。

■長篠合戦以前

信玄薨去直後は、家康の攻撃に防戦一方だった勝頼。
領地安堵の縺れから、奥平定能・信昌が離反したことを契機に
長篠城が陥落しますが、翌年から反撃に出ます。

大きな成果が、東美濃の攻略と高天神城の奪取。
高天神城はなぜ猛攻をかけて奪取したのか・・・
と思ってましたが、すでに信玄時代に
一度下っているのだそうですね。
信玄薨去の間に離反したのを再度制圧したにすぎない、と。

書中でも言及されていますが、信玄が落とせなかった
というのはどうも誤りのようです。

これらの戦果について、敵対する信長や謙信は
改めて勝頼侮りがたしの認識を持つとともに、
家中でも評判が上がったといいます。

一方、山縣や馬場など宿将は力攻めの勝頼に危惧を持つなど
評価が分かれていますね。この勝頼の力攻めの背景に
権力基盤の強化があったとすると、合議体制の信玄時代から
中央集権的に変化する端緒を宿将たちは感じていたかな。

これを織田徳川からの攻撃への反攻であり、
信玄の対外戦争を戒める内容と符合するか?というと
いささか違和感のあるのも事実ですね。

特に信長に対しては、勝頼を侮っていたのを
この一連の作戦で見方を変えて、勝頼侮りがたしと
見方を変えているわけですよね。

信玄薨去直後の家康の攻撃はあったにせよ、
戦力を温存し、状況を見定める
というのとはちょっと違う気も・・・

■長篠合戦評価の歴史と検証

意外と通説の歴史って浅いんだな・・・というのが、
大きな驚きでした。1938年の著作、さかのぼったとしても、
1903年の陸軍参謀本部編纂の「日本戦史・長篠役」だそう。

ここでは、武田軍の騎馬による戦闘方法の検証と
織田軍の鉄砲隊が行われていますが、いわゆる定説では
こう言われているが実は・・・式の説も実は違っていて、
という点がおもしろかったですね。

特に三千挺の鉄砲真偽と三段の意味。
三段の意味には開眼させられましたね!なるほど!

そして武田軍の騎馬対突撃作戦の真偽。
ずっと騎馬軍団は架空で軍馬は移動用と思ってましたが、
それはそれで違うという説が展開されています。

しっかりと史料を紐解きながら、武田軍
(だけでなく他国にも)騎馬隊が存在していて、
なおかつ鉄砲隊を突き崩す戦法として、定石だったとか・・・!!

史料を丹念に参照されているので、非常に
素直に頭に入ってきますね。また、軍鑑から読み取れる
武田軍の騎馬隊の戦法もよくわかります。

何より規律が整ってないと、機能しないだろうなと
感じられ、武田軍の規律の高さにも思いを馳せた次第。

直接関係はないのですが、永禄10年以前の武田軍は
軍装がまちまちで信玄が統一化を推し進めた
というのも興味深いです。無駄に武田=赤備えって
思っている人もいるからね・・・

しかも、騎馬鉄砲隊が武田軍に存在した可能性もあるそう。
伊達で有名な騎馬鉄砲に先駆けて武田にあったかも!
とか、ものすごく興味そそられますよね!

■長篠合戦を紐解く

長篠合戦はそもそも信玄薨去の後、
長篠城が徳川の手に落ち、徳川に離反した
奥平信昌が籠るその長篠城を奪回に向かったことが
起因しているということなんですよね。

ただその背景には、信玄の三回忌を済ませて即、
対外積極策に出、徳川の岡崎衆と浜松衆との間の
亀裂の目を察知し、これを好機と見て三河へ出陣。

当初岡崎城を攻める予定だったが、岡崎衆の謀反が
未然に露見したため、吉田城(豊橋市)攻略に切り替え。

家康の籠る吉田城を落とせなかった勝頼は
照準を長篠城に切り替えたわけですね・・・
その長篠城の攻略途中に織田軍が来襲するわけです。

つまり、長篠合戦は勝頼が起こしているということ、
また徳川軍のみを照準とし、織田軍の後援は
想定されていなかったようなんですね。

勝頼の兵力は、1万5千。信玄の西上作戦が
2万5千くらいの兵力を率いていますので、
徳川を単独で討つならまだしも・・・
織田軍が、しかも信長本人が来ていたとしたら、
決定的に兵力が足らないのことは自明ですね。

信玄の三回忌までも、防戦というにはちょっと?
という気もしますが、三回忌が終わった途端のハナシ。

一応、信玄の命には従ってはいるものの、
とにかく性急に三河・遠江を制圧したい、
徳川を席巻したいとものすごく前のめりすぎる感じが
なんだか不自然なんですよね・・・・

これも勝頼の権力基盤の脆弱さから説明がつくのかも、
ですが、軍を頻繁に引き連れまわしてるのは、
やっぱり、すごく無理をしている感じがするんです・・

しかも、信玄の西上作戦は外交戦で信長の動きを
広範囲にわたって封じ、信玄に割ける織田兵を
最小限にする工夫がされていますが、
この時には、すでに浅井朝倉はなく相当数の兵を
武田に当たらせる環境にあったわけですね。
畿内に向けた軍も早々に引き上げる段取りをしている信長。

そもそも、家康と当たる際に織田方の動向には
配らないといけないわけですが・・・甘い。甘すぎる。

信玄在世中でも、信長と本気で一大決戦をするのは
一か八かの大勝負だったわけですからね・・・
そして、織田軍の援軍しかも、信長本人が出陣との報。

そこで有名な決戦か撤退かの激論ですよね。
撤退せずとも、馬場美濃が長篠城を力攻めにして
籠城するなど別案を出すも拒否。あくまで決戦。

議論はあれど、決断するのは勝頼。
この決断はやはり謎のまま。

平山先生が推論されているのは・・残された書状から。
今福長閑斎宛の書状や側室と思われる女性への書状から、
やはり、勝頼が織田徳川の動きを捉えられておらず、
また完全に信長を見くびっている・・と記されています。

これは、安土の展示で観た史料でわたしも感じたことで、
兵力が劣っていて、なおかつ正しく状況が理解できていなくて
さらに相手を舐めて掛かっている・・・
負ける要素しかないですよね。

ここに前記事で言及した勝頼の生い立ちと
武田家における位置づけを重ね合わせると・・・・
はっきりはわからず推測の域は出ませんが、
勝頼の責は重いといわざるを得ないでしょうね・・・

あの安土で見た勝頼観がもっと肉付けされて
形成されたような・・そんな感覚です。
決して凡将ではない。ただ父を超えて強くなろうと
したことが、視野を狭めてしまったのでしょうかね。

なんだか、悲しいというか侘しい気持ちになりました。

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