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2014年7月

江戸城乾通り開放(春)

これも相当前な印象ですが・・・・
天皇陛下の卒寿記念の乾通りの解放。

秋にもあるとの話ですが、武田強化月間の合間に
行って参りましたよ。えーっと・・・

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な、並ぶところそっから?というものすごい人。
江戸城に押し寄せる数万の大軍が攻め寄せているような…
そんな印象すら覚える人の多さ。

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なんとこれに合わせたツアーもあるようで、
先にツアー客が入ると、そこかしこで文句ぶーぶー。
大体こういうの、年配な人が多いんですよね…はぁ。

この日の入城は、坂下門から。
あの90度向きを変えられている櫓門ですな。
まだまだ遠いな・・・・

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すこーしずつ近づいていきます(笑)

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しかし、石垣はどうしたのかって気になりますよね?
たぶん石垣ごと動かしているんですよね。
このへん枡形の名残でしょうけど、どう移動させたのか、
興味津々ではあります・・・がジックリ観ることはできません。

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このあたりの布積感、ひょっとしたら積み替えかな?
と思わないでもないですが…

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坂下門で気になったのは、すごい鉄板張りと
その間の黒い部分。木造じゃないような気が・・・??

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江戸城の他の門と比べると、ちょっと違和感ありますよね?
ひょっとしたら1階部分は現存じゃないのかも・・・

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ものすごい人ではありますが、入ってしまえばそんなに
詰め詰めというほどでもなかったです。

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そして、入って右手に見えるのは富士見櫓。
逓減率のバランスがわたし好みで好き。
お久しぶりです!

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なかなかお目にかかることがない蓮池濠と本丸西面石垣。
古い野面積の石垣がいいですよね。
徳川家康の頃に積まれた石垣でしょうかね。

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そして蓮池濠に面した部分がちょっと盛り上がっているんです。
これにはどんな意味が・・・・しかし、濠が抹茶色だなぁ(汗)

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しかし、石の色といい、積み方といい、
野面部分の江戸城の石垣って、いいよなぁ・・と思います。

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この辺もちょいちょい傷んで修理した痕。

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カメラを向けている方向は同じですが、
たぶん撮ってるものはぜんぜん違うわたし(笑)

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いつも背中からしか見えなくて、スルーしがちな
富士見多聞もこうして観ると、いいですよね。

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でも、江戸城も多聞一重ですよね。
多聞で曲輪を囲うのは勿論すごいのですけど、
そう考えると、二重多聞で囲う異常性が・・・(笑)

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熱中症を懸念してか、水飲み場の設置が。
我も我もと群がる民衆に、皇宮警察の方から、
水道の水ですよ!と一声。一同爆笑。

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菊花紋にはなっているが江戸城の門っぽいつくりですよね。
ただ、吹上は庭園だったはずなので
どこかの内門を移築したのでしょうかね??

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続く棟は、皇宮警察の方によると、江戸時代には女中さんが居たらしい?
ということは、本丸の中奥か大奥からの移築ってコト?

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その先には、下道灌濠。ここもレアスポット。
やはり濠前が盛り上がっていますね。

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下道灌濠は、桜とあいまってかなり美しい情景に。
これは見甲斐ありましたね・・・!!

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さて、また本丸側に眼を戻すと、
なかなかお目にかかれない西桔橋門跡が見えてきます。

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どういう門の構造していたのかな・・・??

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西桔橋門跡から先は乾濠。

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振り返って、蓮池濠。抹茶すぎる。

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さて、西桔橋門枡形に進みますよ。

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平面の枡形ではなく桝形内が坂になっていて、
少し古風な印象とともに石垣が二段になっているのが珍しい。
家康の頃の石垣だそうですよ。常時見せてくれないかな・・??

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ちょうど人一人くらいが入れるスペースが石垣の間に。
土塀の裏に鉄砲隊を配せば、上下二段撃ちに・・・!!

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ただ、少し進めば石垣の表情がガラリと変わって、
近世的な加工度の高い石が積まれています。

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表面のハツリ仕上げもでてきますね。
時代が違うんだろうなというのと、先に枡形虎口を
形成する石垣が出てきたのかもという気もしました。

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そして、本丸に上がってすぐ見えてくるのが天守台。
やはり西面は焼けていないこともあって、
上品な様子ですねぃ・・・
建つかもしれなかった天守を想像してみました。

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このあとは、北の丸方面に。
清水門の枡形を見たり・・・・

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この日は入学式があって、田安門あたりはひとだかり。
こりゃ退散退散・・・・!!

しかし、いいものが見れましたね。
秋にもあるとの話ですから、また来なきゃ・・・!!

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馬場美濃ゆかりの地・・・自元寺・馬場屋敷+白州蒸留所

さて、翌日はぜひ行ってみたかった馬場美濃故地めぐり。
めぐり・・・と言っても2箇所だけですが。

実は、教来石景政時代の屋敷跡もあるんですが、
白州に着いた時点で大雪で、命からがら(大げさ)で
白州までたどり着いたので、パスしちゃいました・・・

中央線の長坂駅で下車、台ヶ原から北西に進む感じ。
12.6kmですから、まぁまぁ歩いたほうです。

長坂駅から南に進んで、曲淵正左衛門吉景屋敷跡。
あまり有名ではないと思いますが、甲陽軍鑑に
かなりクセのあった人物として伝わっているようです。
(軍鑑読んだけどかなり忘れてるよな・・・)

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平地の南と東西は壕のようなものに囲まれていて、
屋敷跡といわれるとなるほどという地形ではありました。

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さて、ここから下っていきますと、
台ヶ原が見えてきます。七賢の酒蔵が見えますね。

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台ヶ原宿。江戸以前の解説はありませんでしたが、
かなり古くから機能していたようです。
信玄公の時代にもあったのでしょうかね。

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台ヶ原本陣屋敷跡。燈籠がわずかに雰囲気を感じ…
と思ったら慶應三年銘の常夜石燈籠でした。

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白州町のマンホール。わたし的に白州…
と思い起こさせるものがないですが(苦笑)

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七賢の店構え。工場は近代的になってましたが、
店構えは古い建物が残されていてイイですね!
寄って行きたいのを押さえて押さえて・・・

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お隣にはちょっとおしゃれなカフェレストラン「臺眠
ちょっと単価高いけど、なかなかよさげなお店でした。

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でも、行きたかったのはコチラ!金精軒本店。
今なら水信玄餅あるのかも
ですが、このときはまだ発売前でした。

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ここでも購入・・・生信玄餅。
いわゆる普通の信玄餅とは、別のお餅…と
思ったほうがいいですね。わたしはコチラのほうが好き。

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生信玄餅ゲットして、ほくほく顔しながら
さらに西に向かいます・・・が、とりあえず民家の瓦に
花菱が多いこと多いこと。もちろんニヤついているのは
言わずもがな・・・なことですけどね(笑)

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皆さん、武川衆の生き残りなんでしょうか・・・!!?
蔵にも花菱がありましたぜ。

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黄金に輝く花菱。

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と、あちらこちらの花菱に見とれながらも、
到着しました・・・自元寺。馬場美濃どのの菩提寺。

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鉄板葺きではあるものの、後世の改変だそうで、
元は茅葺だったと思われる、とありますね。
改変時に笹龍胆が付けられたのでしょうな。

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元々は、馬場屋敷の門の移築・・・ということですから、
木材は馬場美濃の頃のままそのままかもしれませんね!

寺の前の水路の水。やはりこのあたりは水がきれいですね。

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もちろん、ここまで来たらお参りします。
馬場美濃守信春墓。

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馬場姓になった際は、馬場民部少輔信房、
後年美濃守を名乗ったときに、諱を信春としていたはず?
なので、美濃守信房はナイ気はしますが(汗)

ま、諱の変遷は難しいですよね・・・
氏勝なんて諱もあるみたいですしね・・・

続いて、自元寺から近いところの馬場屋敷の土塁が
残っている・・・らしいということで。
近年、石塁とコンクリート補修が入ってしまったようですが、
ここが北端角だったようです。土塁高い!

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ということは、この用水路は濠跡の名残でしょうかね?

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もう少し先は石塁がなくて、土塁感が好く残ってますよ。

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馬場屋敷、国道20号を挟み、道の駅はくしゅうまで
続いていたといわれますから相当な広さ。
これを確認しようと、歩き回ります・・・

明石の地ウイスキーで有名(?)な
江井ヶ島酒造のワイン醸造所もありました。
ここも馬場屋敷内なのかもしれませんね。

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土塁がわずかに残る場所から700mほど。
白州保育園内に馬場屋敷跡の碑を発見。
いやー、これは相当広いね。ビックリですわ。

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この広い農地が屋敷跡と考えると、それだけで
わくわくしますね・・・馬場どのって
知行どのくらいもらってたのかな。

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ちょっと道の駅はくしゅうにも立ち寄ります。
ここも馬場屋敷内・・・!!

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おいしい水で喉を潤します。冷たい!

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どうやらここには新宿からダイレクトアクセスできるみたい。
いいかなこれ・・と思ったけど、地元の方向けみたいで、
東京→白州方面は夕方にしかないようだ・・・残念。

さて、ここから白州蒸留所に向けて歩いたのですが、
まさかの途中で吹雪いてどうなることかと・・・
けっこうきつかったです。4月で吹雪とは。

とはいうものの、こんなのを撮ってる余裕はありました(笑)
白州製樽工場。ここも気軽に行けるといいんですがね・・・
残念ながら、公開はされておりません(泣)

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奥にたくさん樽が見えますね・・・!!

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さ、白州蒸留所に着きました。
ごはんごはん!

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とりあえず、白州12年の水割りに・・・

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地元のおいしいソーセージのお店、
フランクさんのソーセージ。
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ウイスキー香るカレーをば。白州では定番ですね。

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特にこの日は変わった見学はせず、BAR白州で
響17年構成原酒ミズナラを頂いてから、サクッと通常見学。

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寒かったので(今じゃうらやましい)マッシュタンや
ポットスチルの近くにいると、その暖かさが沁みたなぁ。

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貯蔵庫は毎回深呼吸タイム。そのときそのとき
感じられ方が違う・・とも楽しみのひとつ。
この日はバターのようなクリーミーな感じがしました。

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毎回撮るヴィンテージ樽1977年。1樽おいくら?(笑)

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貯蔵庫から出たら・・・マジですか!
また吹雪いてきた・・!!(今なら涼みに行きたい。笑。)

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試飲会場では、また安定の武田菱病が発病(笑)

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続いて、白州25年を・・・・

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この日はシャトルバスで小淵沢までラクチン。
寒くなかったら、教来石景政屋敷跡探したんだけど。

しかし、白州って山梨にあるのに、山梨の盛り上げには
あまり噛んでない気がするんだよね。

もちろん、ワインがあるからというのはあるのだろうけど、
もうちょっと地元色をサントリーさんには出してほしいね。

いや、単に菱形の付いた白州がほしいわけでは…では…
いや、馬場印でもよいのよ?(さらにハードル高)

新府あたりからはキレイなピンク色の富士山も拝めました。
また次の週に新府城行きますからねー!

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さて、お屋形さまお世話になりました。
また来週も来ます(笑)

ということで、この次の週は信玄公御命日の週。
武田神社例大祭に墓前祭、二十四将騎馬行列に信玄公忌。
またまたアツい甲斐の週なのです。

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第43回 信玄公祭り。

さて・・・・そろそろ4月の話題を。
まー、いつになくblogの歩みが遅いこと、遅いこと。
4月から5月遊びほうけた上に、6月7月に
あまり書けなかったからねぇ・・・

ということで、桜満開の甲府より。
甲府が人だかりになる一大イベント、信玄公祭り!
信玄公、快晴になりましたね☆

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まずは会場のチェック・・・今回は出陣式も
鍛冶曲輪になってるんだね。

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スマホカバーを取りにいそいそと印伝の山本さんに
伺う途中で金精軒さん発見!白州に行かなくても
ここでも生信玄餅が買えるぞ!
(甲府駅のコンビニにもありますが)

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もうひとつ気になったのが・・「ティナ」というお店。
描かれてる女の子がFF6のティナに見えてくる罠(笑)

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んで、印伝の山本さん。

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印伝づくりのかっこいい甲冑が。おおっ。

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スマホカバーはコチラ。武田菱もりもりで
テンションアゲアゲ(爆)なデザインです!

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ありがとうございました!けっこう注目されますね。
うれしい限りであります。

さて、武田神社に向かって戦勝祈願式をチラ観してきますか。
ということで、北へ進軍。新しくなった市役所にも
二十四将の旗印が翻っていました。

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そして、ほしかったのが・・・野球帽をベースに
かぶとチックなデザインをした兜キャップ。
信玄公祭りに合わせた武田菱のデザイン。

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この日はずっとこれをかぶって甲府をうろちょろ(笑)
小さい子に信玄公の人だーって指差されて、
悦に浸ってました(爆)とともに、
やっぱり、信玄『公』なんだなとしみじみ。

さて、武田通りにある万福楼さんでお昼。
気にはなっていたんですが、入るチャンスがなくて・・・
台湾ラーメンにしました。うん、いいね!

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しかし、どうです、この快晴具合。
心は晴れ渡りますな・・さすが「晴」信公(笑)

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桜の淡いピンクと青空。いいコントラストですよね。

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やはり、武田神社はもう人だかり。
あちらに見えるのは・・・

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小幡昌盛隊でした。えいえい!おー!

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ちょうど甲斐の虎武将隊の信玄公役の方と
ばったり会ってお話なんぞしていたら、
山本勘助隊が入ってきました。てことは信玄公も近い?

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本陣隊のむかで衆がかっこよかったなぁ。
赤黒交互になっているのも洒落たデザインで。
ホントにそうかはまぁさておき。

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信玄公を到着を待ちわびる本陣隊。
実は昨年も参加した方がチラホラみえてられて、
わたしを憶えていてくださってた方もいてうれしかったね。

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みんな信玄公待ち(笑)

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わーぉ、松平信玄公登場☆

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勘助さんも。

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武田の大神様(信玄公)に祭りの無事を祈ります。
皆のもの、礼!

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そして、足早に去る信玄公・・・・

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さて、それがしも戻りますかね。

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かぶとやさんの裏手あたりでは発掘調査中。
梅翁曲輪跡でしょうかね。

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途中、信玄公墓にも立ち寄った後、
甲府駅に戻ってきました。山手御門脇に富士山!

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さて・・・着席して出陣式を待ちます。
今年は愛音さんが取って下さっていて・・・・
ありがとうございます!

隣に武田菱かぶとをかぶった変人がいて
スミマセンでした(笑)

なぜか登場の伊達まシャムね。武田菱丸とのツーショットは
武田×伊達の組み合わせに悶絶するnikko得。

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ここで武田節を唄いましょう・・・!!
と参加型な感じに変わってきましたが、なかなかね…
武田菱丸と伊達まシャムねはノリノリ(笑)

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今回はあんなところに待機してるのね。

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先陣は勝頼さん。だいたい中学生くらいの子が
やるのだけど、終始りりしくて印象的。

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眼ヂカラ、ぎらっ。

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小山田左兵衛、めっちゃ美髯公でした(笑)

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三枝さん、三枝さん、それ付け髭ですな、さては…

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馬場美濃さん。いつもだけどなんか甲冑、
かわりばえしないよね・・・・

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なぜ、清正が!?と思ったら、アレ真田弾正。
ええええっ・・・(笑)

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今回目立っていたのが、陣羽織を羽織っていた
香坂弾正。陣羽織があるだけで相当印象違いますよね。

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出陣するときも、香坂どのが唯一正しいエイエイオウ!
をやっていてものすごく好感触でした。
そう、大将がエイエイと声をかけて、皆の者が
オー!と叫ぶのが正しいのですよ。

山縣三郎兵衛尉。甲冑はその他大勢仕様でしたが、
小柄な感じが山縣どのっぽい気もしました(気のせい)

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三条夫人。ここ最近は外国人留学生枠ですね(笑)

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諏訪御料人。毎年美人揃いでしびれますなぁ。

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御付の方(湖衣姫コンテストの準グランプリさん)も
これまた美人でした。

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真田源太左衛門どの。ちょ・・・まったく以って
兜が甥っ子のパクリやないですか・・(笑)

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だいたい民間でも自治体でも組織の重鎮が
大将になるのですが、原隼人佐はお若い方でしたね。

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最後に山本勘助。プロなだけに存在感が半端ないですね…

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巫女の舞に剣舞奉納のあと・・・

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法螺貝を鳴り響かせよ!との勘助どのの号令。
実はボタン電池で動く法螺貝の音が鳴るのを渡されていて、
指示があったら鳴らしてください!とのことでしたが、
こういう仕掛けだったとは・・・・

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法螺貝の音で信玄公が復活するという設定。
あちこちからぶぉー!ぶぉー!と鳴りまくる
ちょっとシュールな会場・・(笑)

あ、煙とともに皆の法螺貝の音で信玄公ふっかーつ☆

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松平信玄公。やっぱり見ごたえありますなぁ・・・・

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申し上げます!啄木鳥の戦法をお取り上げください!
といつもの流れ。

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皆々どの、お誓い申すか!お誓い申す!

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そして、諏訪法性兜着用の儀。
兜下を倒す方向って決まってるんですよね、確か。

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着用完了!やっぱりいいなぁ、この兜。
ホントかウソかなんて超えて、カッコいいもの。

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そして三献の儀。前回は信玄公の後ろに控えていたから
よく見えなかったのよね。

打鮑をもぐもぐ。

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注いで・・・・

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一献!

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で、だいたい最後の三の酒を飲み干して、
カッチャーンと打ち付けるところは撮れないわけですよ(汗)

そして、出陣の下知を読み上げ・・・・

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いざ出陣!出陣~!
ちゃんと180度くるりと廻ってくださる松平信玄公素敵。

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ということで、甲州軍団出陣です。

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ちょうどブルーモーメントな時間帯。
ホントはね・・・お昼すぎあたりに出陣して
ほしいんだよなぁ。

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このようにひとりひとり言上して、出陣していきます。

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ちょっと慣れてらっしゃらない馬場美濃どのには、
がんばれーの暖かい声援。

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撮れませんでしたが、このときの香坂隊のエイエイオウが
よかったんですよね。

そして、光のチカラ(NTTグループ)で総攻撃しちゃう、
反則攻撃の山県隊(笑)

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今までなかったんですが、大井夫人など女性陣も挨拶付き。

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そして、日本語で挨拶して!とムチャブリ感漂う
三条夫人。事前に教えてあげようよ・・・

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諏訪御料人のご挨拶はなかったっすねぇ。

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前立てが目立ってる一條どの。

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昼にお見かけした小幡豊後守昌盛どの。
気合入ってますなぁ!

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諸将が出陣する中、ぽつーんと取り残される勘助どの。

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真田源太左衛門どの。若干西田敏行っぽい。

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ポーズを決める多田三八郎どの。
今回は個性的な出陣言上が多かったなー。

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好青年・原隼人佐。

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このあと、甲府駅前を通って行列進んでいくので
ちょっと寄っていきましたが、遠くてよくわかんなかったな。
なんか山縣隊がやんちゃな踊り披露してましたが(笑)

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出陣式会場では、早々に信玄公がいなくなったので
あれ?と思っていましたが、信玄公への言上は
甲府駅前ということだったみたいですね。

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さて、大慌てで通りを進んで出陣した諸将を撮らねば!
平和通り、市役所前交差点で待機。
ちょうど小幡豊後どのが通りかかったところ。

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ポーズをとってくれる土屋昌次隊。

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しかしまぁ・・・日が落ちて動くモンですから
なかなか撮りにくいのですよね・・ブレブレ多発。
真田源太左衛門どのくらいか、まだマトモなのは・・・

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おお、御旗がきたぞ!お屋形さまがいらっしゃるぞー!

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おやかたさまぁぁぁぁーー!!

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通り過ぎること、風の如く!はやーい!
止まったところでようやく一枚・・ぜぇぜぇ。

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よし!いい感じで撮れましたぞ☆にやり☆

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今回のBest shot!見返り信玄公☆
しかし、老若男女問わずかっこいい!と
追いかけられてる松平信玄公、相変わらずすごいな…
と感心した次第であります。人気大。

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どうです、この人気っぷり!

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もちろん、信玄公だからというのはありますが、
松平健さんのすごさを感じずにはいられませんでした。

最後にいい感じのブレ写真も撮れたので・・・
疾きこと風の如く!とスーッと
高速平行移動する信玄公(笑)

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さて、帰陣式。出陣式と帰陣式が同じ場所というのは
ここ最近はなかったのではないでしょうか。

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お屋形さま、ご登壇。

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んで・・・あれあれ!勘助さんいるよ!
しかも、足があるでよ!討死してない・・・!?

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ま、いいや・・・お屋形さまど真ん中席を確保!
よっしゃぁ。

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戦勝の祝い酒。

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改めてみてみると、信玄公がラーメンを召し上がってる
ようにも見えなくもないですが(苦笑)

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今年も楽しかったです!ありがとう、松平信玄公!

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つかの間、現世に蘇った信玄公が
黄泉へとお帰りになります・・・・
信玄公「皆の幸せを願っておるぞ!」

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ということで、第43回 信玄公祭りも終了です。
今回は試行錯誤が見えた回だったなという印象。

ポスターの武田菱丸はどうなんだ・・という気もしますが、
参加型なのは、なかなかおもしろかったかもしれません。

というのと、早々リニューアルできないのでしょうが、
二十四将の甲冑を有名どころだけでも、
変えてほしいな・・・という気も。前立て違いで
皆同じに見えちゃいますからね・・・・

真田父子の甲冑はあれはあれで、ビックリで
それはそれで・・・困っちゃいますがね。
なだけに、香坂弾正どのはGood Job!でしたね。

次の日は、馬場美濃どの故地めぐりです。

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長篠合戦慰霊祭。

さて、書かないといけないことがたくさんあるのに
直近のできごとから(笑)

7月の初め、長篠合戦の慰霊祭があるということで、
武田家旧温会の皆様にお誘いいただき、
意を決して参加をいたしました。

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意を決して・・・というのは、実は長篠は避けていた
という節があるんですよね。武田好きには辛くて。

ただ、昨年の研修会に一般枠で参加させてもらってから
いろいろコネクションができ、お誘いいただけるのは
非常に光栄なこと・・・ということで、今回初・長篠。

前日には、静岡入りして駿河遠江の城好きの皆さんと
飲み会を敢行しまして。さらさん(@akiusagi_apple)や
しまささん(@shimasaa)、お初のお目通りとなりました
ちずさん(@chizxx)さん、ありがとうございました・・・
こうして集まれるのはホントうれしいですね。

さて、翌日甲府を出発した旧温会の皆さまと静岡で合流。
ちょっとフォーマルめな格好で行ったのですが、
さりげなく武田菱をあしらうなど・・(だから武田菱じゃない)

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お昼の滴翠庵翠峰さんで待ち合わせ。
丸子名物・とろろ汁を頂きました。
丸子って・・あの丸子城の丸子ですよ!

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とはいえ、歴史的には江戸時代に丸子宿で
食されていた定番料理のようです。
しかし・・・これがうまい!

自然薯に味噌汁を合わせたシンプルなものですが、
あれよあれよとお代わりしてしまいます。
薬味も忘れずに・・・

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最後のほうは麦ごはんも食いつくし、
とろろだけで全部食べちゃいましたよ!実にうまい!
静岡来たら、今度から必ず食べる・・・!!

さてお次は、駿府城。残念ながら坤櫓は
ルートに入ってなかったんで、また今度・・・
そういや入ったことのなかった紅葉山庭園。
平成13年整備ということで、新しい庭園なんですね。

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続いては、東御門と巽櫓をゆるーく散策。
やっぱり駿府城は枡形厳重。むしろなんで江戸城に
多聞櫓でくるんだ枡形がないのかが不思議…
などと思うなど。毎回、思うんですよね。

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あとは、清水御門あたり再建されたらなぁ…とか、
豊臣大坂城天守かっこいいよなぁとか(駿府城関係ない)
いつも思うことは同じnikko81なのでした。

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こうして武田家の皆さまが駿府におられるのも
興味深いことですよね・・・駿府館の欠片はないですが(汗)

さて、駿府城を出た後は一路、本日のお宿へ。
舘山寺温泉・浜名湖グランドホテルさざなみ館
なかなかこういういいお宿泊まらないので新鮮☆

お宿が同じだった方としばし興味深いお話を聴きながら、
温泉にもどっぷり☆麦茶を頂きながら、
風呂上りにも武田のお話に盛り上がります!

宴会では、どうぞどうぞと御宗家の隣に座らせていただき、
若干カチカチになりながら、なんか一発芸を!など
ムチャブリされながら・・・・アセアセ。
(すいません、そういうネタございません・・・)

御宗家が仰っていたことで興味深かったのは、
敵地にて没後当時から今まで、長らく地元で供養され
続けているのは異例で、ものすごく有難いことと。

もちろん、蜂が大量発生して武田軍の怨念が・・・
という面もあるのでしょうが、武田方としては、
敵地にて長く途切れず供養される有難さは格別ですよね。

敵軍である武田軍の鎮魂を長くしてくださっている
ということに武田軍の軍律の整った様を想像しますね・・・

皆様方、いろんな一家言をお持ちでいろいろ
勉強になりましたね。あと仲居のお姉さんかわいかった(笑)

最後は、皆さまで武田節の大合唱!
さすがに詩吟まではカバーできないわたしでしたが、
これは練習しておかないと・・・・

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さて、翌日・・・・慰霊祭当日。
現地に着くと、孫子旗を持たせていただき、
旗持役を仰せつかりました☆

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しっかりシャツも白の武田菱柄。(だから…!!)

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会場ではすでにセッティングされていて、
長篠役武田家臣戦没諸霊位との位牌を前に
皆で祈りをささげます。躑躅ヶ崎のお水が供えられてる!

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法螺貝の音とともに、法要が始まります。

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長年にわたって武田家臣の御霊の鎮魂をされている
勝楽寺のご住職による読経。最初、般若心経でしたので、
わたしも唱えておりました。仏説摩訶般若波羅蜜多心経…

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続いて、勝頼公/勝頼夫人辞世の詠唱や
設楽原古戦場の歌唱に続いて、火縄銃鎮魂の礼射・・・!!

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頂いた資料のなかにオリジナル手ぬぐいが。
馬防柵から放たれる鉄砲玉の先には、どの武田の将が…(泣)

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法要が終わった後、信玄塚(大塚)に参拝。
敢えて信長が「信玄」塚と命名したところに、
信長にとっての信玄公の存在の大きさが感じられますね。
(勝頼さんちょっと不憫ですが・・・)

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皆で花を手向け・・・

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躑躅ヶ崎のお水と武田神社のお神酒を・・・

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この後は、公民館で設楽原をまもる会さんと
竹広地区の皆様のご好意でお昼を頂きました。
焼き味噌がめっちゃうまかった・・・!!

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ビールもいただいたんですが、余ったようで
たくさん頂きました。むふふ。

帰りついでに、長篠城址にも寄ってくださいました。
まぁ・・・一瞬でしたがね・・・

にしても、空壕すげぇな!これはゆっくり観たいぞ!

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たぶん、奥平在城時の大改修によるものかな・・・

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土塁もなかなか・・・ここからゆっくり空壕を
眺めたいものよ・・・

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飯田線に貫通されていますが、この向こうに
長篠合戦時の武田軍が陣取っていたようですね・・・
川窪信実どのがここで討死されたのですよね・・・

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続いては、勝楽寺。先ほどのご住職のお話もお聴きしながら、
し武田諸将の御位牌に手を合わせる。感激のひとこと。

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山縣さんに・・・

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馬場さん。ううぅ・・・

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位牌は昭和初期の作で、お寺も織田徳川の戦勝の宴の折に
勝楽寺と改名された由来がありますが、
代々武田諸将のご供養をされているのだそう。

また、ご住職から、新府城の長篠合戦慰霊碑の話を
お聴きしました。あれ、信玄塚からと分骨してるんですね。
(新府城のネタまだblogに上げてない・・)

韮崎市民は先祖を供養していた歴史を知り、
先祖が帰ってきたことにものすごく感謝されているとか。
こういう歴史を尊びたいな、と心から思います。

さて、一行はこのあと豊橋駅へ。
皆さまは豊橋からお帰りになる方や甲府まで行かれる方…
さまざまですが、わたしはどうしても墓参りがしたく
ここから荷物を置いて戻りましたよ・・・(笑)

てことで、さっきまで近くにいた設楽原歴史資料館。
信玄塚のすぐそばです(汗)

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館内はフラッシュと特定のモノ以外は撮影OK☆
こういう方針すっごい有難い!

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野田城で信玄公を撃ったという伝説のある火縄銃。
その名も信玄砲・・・撃たれた側が名前の由来になるなんて。

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その野田城の縄張り。

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このフォントの孫子旗は見たことないけど・・・・
フォントはいいね。かっこいい。

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日輪の具足。江戸時代ってあるけど、
赤備えってことは武田軍のものかな??
日光だけに自分の甲冑には、日輪をあしらいたい。

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信玄原の火おんどりの様子。
生で見てみたいなぁ・・・

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さて、資料館を出て、時間の許す限り
武田諸将の墓参り(慰霊碑かな)を巡っていきます。

・・・の前に小塚にも。大塚が武田軍の墓、
小塚が織田・徳川軍の墓だそう。こちらにも南無…

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原隼人佐昌胤碑。地味な印象の陣場奉行で信玄公を
下支えして信頼の厚かった将。ある意味で、
わたしの今の仕事にも通じるところがあり、親近感があります。

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山縣三郎兵衛尉昌景碑。武田家きっての猛将にして
武田家臣団ではものすごく思い入れのある武将ですね。
山縣さんほどの武将が死を以って、防がねばならなかったとは。

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こちらがお墓なんでしょうかね。
五輪塔があるのは、昌景どのだけでした(行った中では)

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隣には嫡男・昌次碑と香坂又八郎助宣碑。

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横田備中守綱松墓。原美濃守虎胤の実子にして、
横田備中守高松の養子。

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そして、その近くに内藤修理亮昌秀碑。
内藤さん、すごい地味扱いされるけど・・・すごいよ!
昨年は子孫が会津藩に居たと知って、
武田贔屓には大注目でしたね・・・影薄かったけど。

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土屋右衛門尉昌続碑。元金丸平八郎。
曽根昌世や武藤喜兵衛らとともに信玄近習として
伸びた逸材ですね。

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昌続の弟に当たる昌恒(片手千人斬り)の遺児が
徳川家の下で大名になっていることもあり、
大正期に子爵土屋正直氏が立派な碑を建ててる模様。

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最後は甘利郷左衛門信康碑。このあたりで雨がぽつぽつ…

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ということで、ここで終了。
馬場美濃さまや真田兄弟の墓はちょっと遠いので、
また日を改めて参りましょう。

ということで、機会を与えてくださった
御宗家はじめ、武田家旧温会の皆様、本当にありがとうございました。
末永いお付き合いができれば、幸甚でございます・・・!!

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敗者の日本史「長篠合戦と武田勝頼」②長篠合戦をつぶさに観る

さて、長篠合戦に関してです。

■長篠合戦以前

信玄薨去直後は、家康の攻撃に防戦一方だった勝頼。
領地安堵の縺れから、奥平定能・信昌が離反したことを契機に
長篠城が陥落しますが、翌年から反撃に出ます。

大きな成果が、東美濃の攻略と高天神城の奪取。
高天神城はなぜ猛攻をかけて奪取したのか・・・
と思ってましたが、すでに信玄時代に
一度下っているのだそうですね。
信玄薨去の間に離反したのを再度制圧したにすぎない、と。

書中でも言及されていますが、信玄が落とせなかった
というのはどうも誤りのようです。

これらの戦果について、敵対する信長や謙信は
改めて勝頼侮りがたしの認識を持つとともに、
家中でも評判が上がったといいます。

一方、山縣や馬場など宿将は力攻めの勝頼に危惧を持つなど
評価が分かれていますね。この勝頼の力攻めの背景に
権力基盤の強化があったとすると、合議体制の信玄時代から
中央集権的に変化する端緒を宿将たちは感じていたかな。

これを織田徳川からの攻撃への反攻であり、
信玄の対外戦争を戒める内容と符合するか?というと
いささか違和感のあるのも事実ですね。

特に信長に対しては、勝頼を侮っていたのを
この一連の作戦で見方を変えて、勝頼侮りがたしと
見方を変えているわけですよね。

信玄薨去直後の家康の攻撃はあったにせよ、
戦力を温存し、状況を見定める
というのとはちょっと違う気も・・・

■長篠合戦評価の歴史と検証

意外と通説の歴史って浅いんだな・・・というのが、
大きな驚きでした。1938年の著作、さかのぼったとしても、
1903年の陸軍参謀本部編纂の「日本戦史・長篠役」だそう。

ここでは、武田軍の騎馬による戦闘方法の検証と
織田軍の鉄砲隊が行われていますが、いわゆる定説では
こう言われているが実は・・・式の説も実は違っていて、
という点がおもしろかったですね。

特に三千挺の鉄砲真偽と三段の意味。
三段の意味には開眼させられましたね!なるほど!

そして武田軍の騎馬対突撃作戦の真偽。
ずっと騎馬軍団は架空で軍馬は移動用と思ってましたが、
それはそれで違うという説が展開されています。

しっかりと史料を紐解きながら、武田軍
(だけでなく他国にも)騎馬隊が存在していて、
なおかつ鉄砲隊を突き崩す戦法として、定石だったとか・・・!!

史料を丹念に参照されているので、非常に
素直に頭に入ってきますね。また、軍鑑から読み取れる
武田軍の騎馬隊の戦法もよくわかります。

何より規律が整ってないと、機能しないだろうなと
感じられ、武田軍の規律の高さにも思いを馳せた次第。

直接関係はないのですが、永禄10年以前の武田軍は
軍装がまちまちで信玄が統一化を推し進めた
というのも興味深いです。無駄に武田=赤備えって
思っている人もいるからね・・・

しかも、騎馬鉄砲隊が武田軍に存在した可能性もあるそう。
伊達で有名な騎馬鉄砲に先駆けて武田にあったかも!
とか、ものすごく興味そそられますよね!

■長篠合戦を紐解く

長篠合戦はそもそも信玄薨去の後、
長篠城が徳川の手に落ち、徳川に離反した
奥平信昌が籠るその長篠城を奪回に向かったことが
起因しているということなんですよね。

ただその背景には、信玄の三回忌を済ませて即、
対外積極策に出、徳川の岡崎衆と浜松衆との間の
亀裂の目を察知し、これを好機と見て三河へ出陣。

当初岡崎城を攻める予定だったが、岡崎衆の謀反が
未然に露見したため、吉田城(豊橋市)攻略に切り替え。

家康の籠る吉田城を落とせなかった勝頼は
照準を長篠城に切り替えたわけですね・・・
その長篠城の攻略途中に織田軍が来襲するわけです。

つまり、長篠合戦は勝頼が起こしているということ、
また徳川軍のみを照準とし、織田軍の後援は
想定されていなかったようなんですね。

勝頼の兵力は、1万5千。信玄の西上作戦が
2万5千くらいの兵力を率いていますので、
徳川を単独で討つならまだしも・・・
織田軍が、しかも信長本人が来ていたとしたら、
決定的に兵力が足らないのことは自明ですね。

信玄の三回忌までも、防戦というにはちょっと?
という気もしますが、三回忌が終わった途端のハナシ。

一応、信玄の命には従ってはいるものの、
とにかく性急に三河・遠江を制圧したい、
徳川を席巻したいとものすごく前のめりすぎる感じが
なんだか不自然なんですよね・・・・

これも勝頼の権力基盤の脆弱さから説明がつくのかも、
ですが、軍を頻繁に引き連れまわしてるのは、
やっぱり、すごく無理をしている感じがするんです・・

しかも、信玄の西上作戦は外交戦で信長の動きを
広範囲にわたって封じ、信玄に割ける織田兵を
最小限にする工夫がされていますが、
この時には、すでに浅井朝倉はなく相当数の兵を
武田に当たらせる環境にあったわけですね。
畿内に向けた軍も早々に引き上げる段取りをしている信長。

そもそも、家康と当たる際に織田方の動向には
配らないといけないわけですが・・・甘い。甘すぎる。

信玄在世中でも、信長と本気で一大決戦をするのは
一か八かの大勝負だったわけですからね・・・
そして、織田軍の援軍しかも、信長本人が出陣との報。

そこで有名な決戦か撤退かの激論ですよね。
撤退せずとも、馬場美濃が長篠城を力攻めにして
籠城するなど別案を出すも拒否。あくまで決戦。

議論はあれど、決断するのは勝頼。
この決断はやはり謎のまま。

平山先生が推論されているのは・・残された書状から。
今福長閑斎宛の書状や側室と思われる女性への書状から、
やはり、勝頼が織田徳川の動きを捉えられておらず、
また完全に信長を見くびっている・・と記されています。

これは、安土の展示で観た史料でわたしも感じたことで、
兵力が劣っていて、なおかつ正しく状況が理解できていなくて
さらに相手を舐めて掛かっている・・・
負ける要素しかないですよね。

ここに前記事で言及した勝頼の生い立ちと
武田家における位置づけを重ね合わせると・・・・
はっきりはわからず推測の域は出ませんが、
勝頼の責は重いといわざるを得ないでしょうね・・・

あの安土で見た勝頼観がもっと肉付けされて
形成されたような・・そんな感覚です。
決して凡将ではない。ただ父を超えて強くなろうと
したことが、視野を狭めてしまったのでしょうかね。

なんだか、悲しいというか侘しい気持ちになりました。

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敗者の日本史「長篠合戦と武田勝頼」①勝頼の人物評

普段、忙しさにかまけてなかなか本を読めず、
買っても積読が多い有様・・・

以前から武田勝頼という人物も知らないと、
武田信玄その人をよく知ることはできないなと思っていて、
やはり武田家の最期をきっちり知っておきたい
という気持ちもあるので、
コチラの本を手にとってみました。

結論として、わたしが抱いていた勝頼像に近い実像が、
史料から推論できるんだなという印象です。

以下、わたしなりに読後感をまとめてみたいと思います。
歴史上の人物を客観的に扱いたいことから、
以下、敬称略で書き進めてまいります。

平山先生がご指摘のように、結果論として長篠敗戦から
勝頼を評価するのではなく、彼の生い立ちと
家督継承までの流れから捉えていくべきというのは、
至極全うな議論だと思います。

■信玄の後継者指名とその問題点

やはり、勝頼は本来的には武田家を継ぐ人間ではなかった。
だからこそ、信玄も苦慮したのだろうなと
漠然と思っていました。ただ本書で新たに加味すると、
その苦慮がはっきりとしたような気がしました。

というのも、義信存命中の勝頼の位置づけと
武田家継承までのくだり勝頼の扱いが解説されてあってですね。

1567年(永禄10年) 義信自害
1569年(永禄12年) 勝頼、駿河侵攻作戦・対北條戦従軍
1570年(元亀元年) 信玄、将軍義昭に勝頼への官位任官要請
1571年(元亀二年) 勝頼、信玄の命で高遠から甲府へ帰還
1573年(元亀四年) 信玄薨去

実に義信が自害してから、信玄薨去まで6年しかなく、
その間に慌てて信玄が後継者として勝頼を
仕立てようとしてるな・・・という印象を強くしました。

義信存命時は、伊那郡代・高遠城主であるとともに
出陣時は頻繁に甲府留守居を申し付けられるなど、
戦術に長けた勝頼にはちょっとおもしろくなかったかも?

・・・ですが、すでに他の一門衆から抜きん出て、
(「諏訪」勝頼であるにも関わらず)信玄・義信に次ぐ
地位であるのは、興味深いですね。

そして、永禄12年以降、駿河攻略作戦に従軍するわけですが、
非常に信玄の覚えめでたく、駿河蒲原城の攻略時に、
一門にも家臣(真田信綱)にも言及していないのに、
他国宛の書状で、勝頼の武勇を宣伝しているんですね・・・

しかも、この武勇はいつものことであるとともに、
信玄が非常に自慢げに語っているという文脈。

元亀元年には、勝頼に官位と一字拝領を求めるものの、
うまくいかず、信玄もあまり拘泥することなく流れてしまう。
翌年、いよいよ甲府に呼び寄せるわけですが・・・

このドタバタ感、少なくとも義信存命中に勝頼を据える
意思はなかったのかなということと、勝頼の位置づけの考え方
信玄自身もあまり考えがまとまっていなくて、
「走りながら考える」印象が強いですね。

義信に対しては、ものすごく教育を施して帝王学を
学ばせていた一方で、勝頼には諏訪と武田の橋渡し役として
生まれながら期待されていたわけであって・・・

しかも、今が一番大事というときですから、
ジックリ大将としての心構えを説いている場合でもない。

この微妙さ加減は武田家中にも伝わっていたんでしょう。
やっぱり諏訪の出である勝頼が後継になっていく・・・
なかでの家中の違和感。

それが、後の勝頼と信玄旧臣との軋轢にもつながるはずで、
何より、人で持つ武田にとって、一番マズイ・・・・
信玄自身がそれを感じ取っていたはず。

そう考えると、

・武王丸(後の信勝)が成人したら速やかに家督を譲る
・勝頼に孫子旗など武田家当主を象徴する軍旗の使用を禁ずる
・「大」(諏訪大明神の「大」を意味する)の軍旗は可
・諏訪法性兜の着用も可

との甲陽軍鑑における信玄の遺言が、難題に直面した
信玄の精一杯の打開策として、読み取れるんですよね。
うまく話の辻褄が合って、わぉーという感じです。

勝頼の改名に信玄がこだわらなかったこととも符合しますし、
最初は勝頼を武田家の嫡子として
扱うつもりだったかもですが、嫡孫武王丸を擁立する意図に
途中から変わったのかも知れません。

いずれにしても、あくまでも諏訪家としての扱い。
「大」の旗や諏訪法性兜にしても、
諏訪絡みだから認められているというわけで。

これについて、信玄自身が勝頼が陣代に過ぎないという意識を
決定的にしてしまったと捉えることもできはするのですが、
それが勝頼にとって、望まざることだったに違いない。

勝頼を持ち上げるあまり、信玄の後継政策が拙いと
評されることもありますが、信玄にとって
義信の異常なまでの(当時としては)妻の実家への
コダワリには、理解を超えるものだったというのは、
容易に想像できます。

事実、弘治元年(1555年)付けの信玄書状で、
義信は今川家を重んじるあまり、父子の関係を忘れ
困惑しているという記述があるそうです。

困惑・・・元の表現までは分かりませんが、
この困惑という表現こそ、信玄の心中を
よく表していると思います。

義信の死去に際しては、自害か信玄が切腹を命じたか
は分かっていないことになっていますが、
状況から考えるに、最後まで義信が心を入れ替えることを
信玄は望んでいたと想像します。

だからこそ、勝頼に対して後継として育てる時間がなかった。
さっさと義信を見限っていればとも思いますが、
それができない信玄もまたわたしにとっては魅力的です。

・義信に最後まで賭けていたが、自害されてしまい
 急遽、後継者を考え直さざるを得なくなった
・次男信親、三男・信之は夭折のため、
 四男・勝頼にせざるを得ない
・諏訪家との関係と家中の結束を維持する観点から
 勝頼は陣代として後を継がせ、後見人として影響力を持たせ
 信勝を当主とすることで後継問題と諏訪家の問題を一挙解決
・幸い、勝頼は武勇に優れた後見には申し分ない(はず)

というのが、信玄の考え方でしょうか。
しかし、不幸なことにそうならなかった。

もし軍鑑の書いている通り、これが病床での遺言だとすると、
もっと早く伝えるべきだった、もっと重臣たちと
協議してわだかまりないようにしておくべきだった。
信玄の失策はそこに尽きるように思います。

■権力志向の違い … 信玄 vs 勝頼

ただ勝頼としては、承服しがたいことだったのでしょう。
俺が当主だという気概に溢れていたのではないでしょうか。

信玄の遺言として、死の三年間の秘匿と守備に徹せよ、
とのメッセージがクローズアップされがちですが、
実は信玄の西上作戦の延長線上にあって信玄死後三年間は、
積極的な対外侵攻というより、織田徳川への反撃と
捉えられる動きをしているようですね。
そこは追って感想を書くとして・・・・

むしろ、あくまで諏訪家出身の立場として、当主代理である
という自覚を持てという信玄のメッセージのほうは、
全く聞き入られることはなかったように思います。

甲斐二宮美和神社に収められた勝頼願文の紹介もありましたが
勝利を重ね武名を天下に轟かせる…など、主体的な意思に
満ち溢れていますよね。

甲陽軍鑑に記されている家を滅ぼす大将の例として、
「強すぎたる大将」が挙げられていて、これが勝頼とされています。

曰く、主体的で強い信念があって機転も利き、
ハキハキしゃべり、知恵者。だから慎重論を遠ざける嫌い。
勇敢な意見ばかりが取り上げられ、また意見を言いにくい空気が形成。
反論しても論破されるので、ますます意見が言いにくい・・・

そして、死なずともよいところで強いものから死んでいき、
国力が疲弊し、ついには家を滅ぼすことになる・・・
ものすごく主体的に当主たる気概があったんでしょうね。

つまりは、部下の特徴を理解し、また議論をさせることを
軍団の底上げを図ることも重視した信玄に対し、
自ら得意とする武勇でその当主の風格を示さんとする
軍事的な中央集権化を目指したのかもしれません。

それは当然、旧来の重臣との軋轢を生むことになるし、
媚びた一派ができることも不思議ではない。
だからこそ、あの内藤昌秀の起請文が意味を持つわけで・・・

その意味では、義信も勝頼も自分の立場は置いておいて、
武田家としてどうあるべきかを考えられていれば、
少しは未来が変わったかもしれないな、と思うわけですよ。

そして、組織論としての関心が武田信玄という人物への
関心の発端であったことを考えると、武田勝頼とは、
やはり距離を置かざるを得ない、
という感覚を新たにしました。

ということで、長篠合戦編へ・・・

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