大和に武田の遺香を感じて・・・馬場塚。
さてさて、続いては・・・馬場塚。
この塚があるのを知ったのは、
武田神社崇敬会会報誌で取り上げられていたから。
近鉄橿原線にて、ファミリー公園前駅下車。
重要文化財中家住宅近くです。
てくてく歩いていると、馬場産業なる看板が・・・
ハッ!もしやご子孫様ですか!
けっこうこのあたりには、馬場姓が多いみたいで、
子孫が長篠合戦後に大和まで落ち延び定住し、
供養のために塚を立てたのが始まりだとか・・・
しっかし、あたりは畑だらけ、正月ですし、
ひとっこ一人おりません・・・弱ったな・・・
うろうろしていると・・・あ!馬場さんがここにも!
といったちょうど裏手にそれらしい五輪塔!
ただ裏手なので、表に廻らないと・・!
よしよし、こっちが表。
馬場美濃の子、馬場信久とありますが、
正確には甥でありまして、弟・馬場信頼の子だったはず。
ま、いずれにしても馬場家の出でありますね。
武蔵から来ましたぜ、馬場さま!
ただ、花が添えられているのは後ろで、
こちらが前のようですよ・・がくっ
非常に読みにくいですが、
前敬礼司(さきのきょうらいし)
氏勝墓
民部少輔
とあります。きょうらいしとは、通常
教来石と書きますが、当てる漢字が如何様にも
揺れる当時ならありえることではありますね。
時計回りに文字が刻んでありますので、
読んでいきましょう。
甲陽武田家臣百廿騎之大将
仕信虎公信玄公勝頼公而
有戦功後依信玄公之命改
馬場美濃守信房矣
戦于三州長篠引率七百人
初戦既得勝敵者多勢而十倍・・・
くらいまで読めました。
ここはちょうど日陰になっていて、
文字が判別しにくい・・・
ですが、こちらのサイトによると、
このようにあるそうです。
於味方勝頼公諸勢不得防而敗北
於是美濃守討死于時
天正三乙亥年五月廿一日
実は、諏訪原城にて初めて馬場氏勝という名を目にし
実は異称として伝わっていることを知りました。
教来石景政に始まり、馬場姓を賜って
信房、信春と改名しているのは知ってはいるのですが…
ひょっとすると、「勝」の字から、
勝頼の偏諱で勝頼期にも改名しているのかも。
にしても、「勝氏」ではなく「氏勝」なのは、
ちょっと気になるところではあるのだけど・・・
いずれにしても、こうして長く馬場美濃さんを
想って弔われてきた供養碑がきちんと
整備されるのはうれしいことだよね。
さて、せっかくここまで足を伸ばしたので、
中家住宅も見ておきましょうかね。
住宅というか、城ですよね・・・
思いっきり濠を巡らせてますし・・・
ここなんて、濠が丸々残ってますし!
正面。いざというときは橋を壊して・・・
どう考えても城だ☆
そして、ツイートで知った多聞山城移築門。
旧石田家住宅の門ではあるのですが、
ただ今はお手入れをする方がいないそうでして、
かなり傷んでいる様子・・痛々しい。
もともと多聞山城の城門で、多聞山城を攻め陥した
筒井順慶が「石田氏」に譲り渡した
という謂れがあります。しかし、このままでは・・・
せっかく大和まで足を伸ばしたので、
大和郡山にも寄っていきました。
大和郡山というと、柳澤氏のお膝元。
柳澤氏は武田の傍流の傍流の傍流のぼう・・しつこい!
というわけで武田のゆかりといえなくもないのです。
というのは、次記事にて。
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