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2014.03.16

市河家文書・真下家所蔵文書から見る山本菅助像。

最近は、なかなか平日に休みを取ることが
ままならず、かつての月1回は必ず有給休暇をとろう、
というセルフキャンペーンの実施が滞ってます(泣)

が!あまりにも魅力的な講演が、平日にあるのを知り、
これはなんとしても、何があっても行かねば・・!!
ということで、半ば強引に休みを取って豊橋へ。

フォロワーさんお勧めの豊橋カレーうどんを食す…
勢川本店さん。カレーに負けるどころか、むしろ
カレーを押さえこんじゃってるくらい
メッチャお出汁が主張しているカレーうどん。美味し☆

P1370773

そして、うどんが終わったらご飯がコンニチハ!
いいっすねー!これが豊橋式みたいですね。

P1370777

さー、会場へ・・・と思ったのですが、
ちょっと歩いていくには遠い。開始時間まで
そうも時間がないので、タクシー乗り場へいそいそと。

みかわ牛のロゴ・・徳川葵入りなんだ。
三河は確かに家康しか推せないよな・・・だったら
静岡は・・・ごにょごにょ。

P1370778

そして会場!これですこれ、これを聴きたかった!
真下家所蔵文書から見る山本勘(菅)助の実像!

P1370782

勘助ご子孫の故山本文男氏夫人から
武田家宗家の武田邦信氏への花束贈呈がありました☆

お話はまず最初に東三河戦国史愛好会代表・鈴木氏。
東三河の山本勘助家からお聴きになった
お話を紹介頂きましたよ。

■勘助以前の「山本」家

もともと山本家は吉野姓といい、今川家に仕える神主の家柄。
勘助の祖父吉野貞久は、賀茂郡に領地を与えられ、
三河照山城主として、駿河から三河にやってきます。
彼の任務は牛久保の牧野家の目付役だったそうです。

駿河に残った次男吉野貞幸も、今川氏親の命で
三河へと入り、同じく賀茂の地に住まい、
賀茂神社の神官として入植したようです。
三河の戸田、松平に対する忍びだったのかもしれません。

このあたり、今川とのかかわりを考えると
最初に勘助が今川に仕官したのも自然ですよね。

しかし、1478年に吉野貞久は三州の戦いで討ち死に、
残った貞幸が照山城に在城する間の1500年、
三河照山城にて、勘助出生します。

貞幸は後に駿河国に戻り、山本村に住まい
山本姓を称するものの、長男・藤七、次男・清七、
三男・源助とも賀茂の地に留まったようです。

長男は、山本本家として牧野家に仕え、
後に牧野家が越後長岡に移封となった際にも同行。
この山本家が後の山本五十六(ただし長岡藩家老家
高野家から山本家に養子)を生むことになります。

この源助こそ・・・後の勘助であります。
源助は、牧野家家臣の大林家の養子となるわけですが、
武者修行を終えて帰国すると、大林家に実子が生まれ・・・

というのがよく知られたくだりではありますが、
15歳に養子になるものの、大林家実子が
8歳になった際に武者修行に出る・・・
というのが「三河国二葉松」という1740年に
編纂された書物にあるそうです。

具体的に勘助の出生地まで記されているのは、
この書物ただひとつとのことで、鈴木氏は
この照山城出生説を推しておられました。

■勘助以後の「山本」家

先ほどお出ましになった山本家・・・は、
新城市黒田にお住いの山本家。

勘助には、勘蔵信供と助次郎信倶がおり、
母は、原美濃の妹(もしくは姪)だとか。

長男信供は、長篠で命を落としますが、
次男助次郎信倶が、武田滅亡後に北条家に仕えたそう。

秀吉の小田原攻略の前哨戦であった山中城の激戦で
重傷を負うものの、先祖ゆかりの駿河まで逃れ、
先祖の菩提寺・先照寺で傷を癒したそうです。

その後、父祖の領地であった黒田の地に安住を得、
今に続くのだとか・・・

長男・信供の家系も勘助の甲斐における領地であった
山梨県北杜市高根町蔵原の山本家として残るそうで、
土塁と空壕に囲まれた屋敷だそうです。

敷地には「天徳院武山道鬼居士 永禄四歳九月十日」
と刻まれた墓石があるそうです。

位置的にも、若神子城と若神子狼煙台に近く、
また信濃攻略のための棒道が付近を通っています。

信濃からの情報の結節点として、極めて重要な位置に
領地屋敷を構えていたことが伺われます。

これもまた、甲斐国プロパーではない勘助に
領地を与えるに当たって、信玄の勘助に対する信頼を
読み取ることができそうですよね。

■山本勘助の真下家文書と武田信玄

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そして、メインは山梨県立博物館の学芸員で
真下家所蔵文書について造詣の深い
海老沼真治先生からご講演を頂きました。

お年もわたしと近く、宗家からも山梨県の歴史研究の
ホープだよとご紹介されておりましたよ!

①「架空」から「実在」へ、「勘助」から「菅助」へ

ここのところ、山本勘助の実在が明らかになって
来ているわけではありますが、その経緯を軽くおさらい。

・江戸時代

一般的なイメージとしては、三河で生まれて
築城術や軍法を若い頃に諸国漫遊して修め、
今川家に仕官するも果たせず、晴信に見出されて
武田家に仕え、川中島合戦で啄木鳥戦法を
提案するも見破られ、壮絶な討ち死にを遂げる・・・
という感じでしょうかね?

・明治時代~戦後

この印象は甲陽軍鑑や江戸時代の軍記モノなんでしょうが、
明治時代には近代的な実証主義歴史学の観点で
徹底的に批判されます。

東大の草創期に活躍した田中義成博士も山県隊の一兵卒
にしかすぎないと指摘しています。
ただ、存在しない架空の人物とまでは言及していないとか。

直接の「架空説」の端緒は意外と新しく、
織田信長の研究で有名(らしい)奥野高廣博士が、
1959年に記している人物叢書「武田信玄」において、
伝説の人物と見るべき、としているそうです。

・菅助としての実在復活

これが覆されるきっかけが1969年の市河家文書の発見。
一次資料として初めて、山本勘(菅)助が見えた
ビッグニュースになったわけですね。

それでも、ただ1通の書状であり、存在が分かっただけ。
いわゆる「勘」助といわれてきた人物と同一なのか?
地位やその働きはどうだったのか?はなかなか判定は
難しかったのだそうですね。

そして、月日は流れ約40年後。群馬県で発見された
真下家文書(現在では真下家所蔵文書)が大きく勘助像を
開けることになったのです・・・!!

続いて、翌年にはそれまで知られていた
沼津山本家文書との研究が進み、勘助像が明らかに
なってきたんですね。

もともと両者とも沼津山本家で保管されていたものの
故あって一部が流出し、その流出文書を真下家で
保管されていたというのが実態のようです。

2008年以降もいくつか追加で見つかっている
文書もあり、信玄時代、勝頼時代、家康時代と
生き抜いてきた山本家の歴史が詰まっています。

その規模は、武田家家臣の家に伝わる文書としても
屈指のものであるそうです。菅助と勘助は文字は違いますが、
当時は漢字の表記ゆれは日常茶飯事で、江戸時代初めに
勘助とこの菅助を同一視している形跡もあることから、
ほぼ文書で記録されている菅助は、あの「山本勘助」と
考えてよさそう、とのことでした。

ということで、以下「菅助」に統一して、
時系列で追っていきましょう。

②書状群から浮かび上がる山本菅助

・1548年(天文17年)4月吉日付 武田晴信判物
 (真下家所蔵文書)
以下Wikisourceより。

山本菅助の伊那郡での活躍を大いに賞賛し、
黒駒の関銭から100貫文を与えるという内容です。
黒駒の関とは、甲斐国八代郡黒駒に置かれた関所。

実はこの文書、沼津山本家から流出する際に
書き写された文書があったそうなんですね・・・
それは以前から研究者の間では知られていたとか。

ですが、あまりにあまりなできばえ(汗)と
いうこともあって、参考にはされず・・・

ということで、今回のオリジナル文書の発見が
この内容に真実味を与えたということのようです。

さて、これの分析。まず伊那郡での活躍を
晴信が手放しで賞賛するのは、どういうことなのか?
それは、1548年という日付に秘密があります。

1548年(天文17年)2月14日。
家督継承以来、連戦連勝の勢いの若き晴信が
村上義清相手に大きな敗北を喫した上田原合戦です。

当然ながら、合戦はその局所的な勝敗だけでなく、
広く競合環境にある他勢力にも大きな影響を与えます。

武田の大敗北に乗じて、連勝していた武田軍に
靡いていた形勢が変わり、一気に小笠原・村上に
中小勢力が反旗を翻す恐れが出てきました。

そして影響は、伊那郡にも及んでいました。
書状の時期は4月。敗戦から2ヵ月後ということで
敗戦直後から動きがあったのでしょう。

詳細はわかりませんが、晴信から
「忠信無比類次第」と賞賛されるほどですから、
うまく伊那郡の取り込みを確保できたのでしょうね。

菅助の働きもあってか、武田軍は7月には
反撃に転じ、村上軍に勝利します。

そして、恩賞100貫文。おそらく仕えて
間もない頃であり、初の恩賞であったことでしょうが、
100貫文とは、三河の牢人上がりとしては、
破格の恩賞といえるでしょう。

しかしポイントは、銭100貫文というとこ。
さすがにいきなり土地は与えないのねというところは
慎重になっているのかなということも読み取れますね。

とはいえ、翌年(最近発見された真下家所蔵文書より)には
翌年6月には80貫文、残り20貫文も後日支給する旨の
文書が見つかっており、一度きりではなく恒常的な給金
として捉えることができそうです。

6月は、富士山の山開きで黒駒関の通行料収入が
増える時期なので、20貫文は追って・・
ということらしいです。

・1557年(弘治三年)6月23日付 武田晴信書状
(市河家文書)
Wikisourceより。

続いては、第三次川中島合戦における菅助の動き。
結局、直接的な激突はありませんでしたが、
実は水面下では激しい動きがあったのです・・・

1557年、晴信が葛山城を落とし、
飯山城に迫ると、長尾景虎も北信濃を圧迫。

長尾家と近い位置にありながら、
親武田勢力であった高井郡の市河藤若にも
兵が向けられ、武田方に援軍要請がありました。

その市河家に対し、晴信は援軍を約束するものの、
援軍が到着する前に自力で守りきったため、
結果的に武田軍の援軍が来なかったような見え方に。

北信濃を制圧した晴信にとって、市河家の離反は
なんとしても防ぎたく、信用を取り留めたい・・・!!
さぁ・・・どうする?というところで、
山本菅助の出番。

晴信の援軍到着の遅れの詫び状をもって
市河家に出向き、今後の援軍体制の説明などを
任されるのです・・・

ここで、書状の分析。
離反の危険がある勢力への説得工作。
なかなかハイレベルなミッションであるとともに
武田軍の内情に明るく、また晴信の信頼も高い
人物でないと、務まりませんよね!?

また結果、武田家側に引き続き付いていることを考えても、
市河家側から見て使者として納得できるに値する
と認められうる人物だった、と推測できます。

ただの一兵卒だったとしたら、「おい、武田なめとんのか!」
ということになるでしょうからね(苦笑)

・1558年(永禄元年)頃 武田晴信書状
(真下家所蔵文書)
以下Wikisourceより。

年代がはっきりしないのですが、晴信自筆と推定。
文書の「小山田」をどう取るかによって、
年代が変わるわけですが、小山田備中と捉えて、
1558年前後と捉えている説を採られていました。

内容的には、病を患っている宿老の小山田の様子を
見てくることと、軍事行動については小山田と
詳細に相談して進めるように、というもの。

小山田には二系統あり、宿老として考えられるのは
郡内の小山田出羽守信有。信茂の父にあたる人物。
もうひとりは、別系統の小山田備中守虎満。

虎満は、ちょうどこの頃別文書で1558年当時
病に臥せていた記述があるそうで、ここから備中守説に
なるとの推測をされていました。

永禄元年。小山田虎満・真田幸綱らがちょうど
信濃尼厳城を守備し上杉に対して備えていた時期であり、
八幡原の戦い(第四次川中島合戦)の数年前。

その中にあって、晴信から直々に軍事活動の
作戦立案の指示が菅助に下されている、
しかも、家中で一定の立場にあった真田、
小山田と交えて、という文脈から武田軍の内情と
信濃情勢に詳しい菅助像が浮かび上がりますね。

・まとめ

総じて感じられるのは、甲陽軍鑑に描かれる
軍略に長けた人物というよりも、交渉や調略に長け、
人の心理を読み解くのが上手な交渉人。
そして小山田や真田と渡り合えるある程度の身分を
武田家中にあってもっていたことは間違いないでしょう。

また、信玄の信頼の厚さをどの文書からも読み取れます。
意外と一般的な印象はそう間違ってないのかな?
という印象もありますよね。

ということと、信濃に非常に通じた人物ということで、
仮に川中島で命を落とさなかったとして、
駿河や上野に侵攻するする際にどういう働きを
したのだろうか?というifを考えちゃいます。

知行百貫文というのは、甲陽軍鑑とは異なり、
ずいぶん控えめに見えますが、当時の家臣の標準くらい。

軍事的なエピソードばかりが光る菅助。
政治的、あるいは領国経営にはあまり影響力がなかった?
というのもイメージどおりではありますが、
築城の名人との話を支えるエピソードが
なかったのは、残念。築城には長けてなかったのか、
どうだったのか・・・気になるところです。

・甲陽軍鑑における菅助の最期

少し文書からは離れ、甲陽軍鑑における最期の描写を。
三つ目の書状からは、第四次に参戦しているのは
非常に自然な流れとは思いますよね。

海津城内。馬場民部と信玄が相談、そこに菅助を呼び、
馬場と菅助でよくよく明日の動きを相談して決めよ・・・
との信玄の指示。

つまり、軍を二手に出すのは、菅助単独の発案ではなく、
馬場と菅助合意の結果、とも読めますよねという指摘。

また、討死した人物の並びからも、
一門:典厩信繁、重臣:諸角豊後に続いて、
第三位の序列で記されていることも、その地位を
甲陽軍鑑は正確に表しているのでは?との見解でした。

③文書からよみがえる山本家のその後

・ふたりの後継者
文書から判るのは、実子の二代目菅助と養子の十佐衛門尉。

山本十佐衛門尉
諱は、幸俊もしくは頼元。武田家臣・饗庭越前守利長の子。
1551年に晴信の命で菅助の養子となる。

山本菅助(二代目)
菅助を名乗っていたようで、天文22年生まれ。
ということは、1553年生まれですね。

幼少だったため、菅助死後の永禄4年からは
山本十佐衛門尉が後見しつつ、永禄11年(1568年)に
信玄の命で、晴れて二代目菅助を名乗ります。

そして、それをうかがわせるのがこの朱印状。

・1568年(永禄11年) 武田家朱印状
(真下家所蔵文書)
以下Wikisourceより。

こちらには、花押はなく武田家の朱印である
龍の印が押されています。内容としては、
次の合戦で備えるべき内容を示したもの。

しかし、あまり足跡ははっきりせず、
長篠で討死していることのみわかっているそうな。
・・・ということは、最初の講演で出てきた
山本信供と同一人物ということになりますかね。

この後、十佐衛門尉が二代目菅助の死後を以って
再度山本家の家督を継ぐことになります。

・1576年(天正4年) 武田家朱印状 軍役之次第
(真下家所蔵文書)
以下Wikisourceより。

軍役之次第とあり、鉄砲一挺、持槍一本、
長柄一本、旗指一本の計五名。
宛先が山本十佐衛門尉となっております。

この文書、長篠で討死した者が多いということで
この年に家を継いだ者が多くて、大量に発給されてるそう。
そういう文脈から、山本十佐衛門尉が山本家を
継いだということがわかるのだそうです。

また他の武田家家臣の実例から、この五名という規模が
だいたい知行百貫に相当するそう。ということは、
初代菅助の百貫がほぼ受け継がれていたようです。

武田滅亡後、山本十佐衛門尉は徳川に仕えます。
武田遺臣が家康への臣従を誓約した
天正壬午起請文においても「信玄直参衆」に
その名が見られるそうで、江戸時代にもその家名を
伝えて行ったそうです。

④最後に

生まれは諸説ある菅助ですが、
本国は三河というのは、ほぼ疑いのないところ。

高野山には、全国の供養帳・過去帳があり、
甲斐国の資料には、武田家臣の多くが記載されて
いるようですが、菅助はみつからないのだそう。

もし出てくるとすれば、三河関係ではないか・・・と。
高野山には大名ごと、国ごとに檀那場があるそう。
甲斐なら成慶院と持明院がそうですね。

いずれも信玄像・晴信像・勝頼像が奉納されている
ことで知られていますよね。

同じように高野山の三河国に関する資料を
探していくとまだまだ分かることがあるのでは・・・
と海老沼先生はおっしゃってました。
もっと新しいことが分かるといいな・・・!!

終わった後、武田家旧温会の方とばったりと。
ご宗家にも挨拶できました。なんと豊橋駅まで送ってまで
頂きまして・・・・ありがとうございました!

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