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2014年2月

よみがえる小田原城 史跡整備30年。

さて、続いては小田原城の特別展。

実はその前の週にも小田原を訪れていて、
お城シンポジウムで名古屋城に感心していたのですが…
(小田原城は?笑)

その際に特別展のチケットも頂いたりなんかして、
昨年の関東城忘年会のあと、翌日に行ってきました。
・・・タイミング的にはギリギリ(汗)

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ちょっと遠回りではあるんだけど、やっぱ
馬出門から入るよね!一番城らしいルートですし。

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この日は、銅門のあたりも人は少なめ。
10時前くらいなんですけどね。

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本丸を守る常盤木門。枡形が多聞櫓で囲まれた
非常に堅固な門。

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ここの徳川葵が気になっていたのですが・・・・
名古屋城と同じく、本丸御殿が将軍の宿空間だったから
と先日拝聴。ここの枡形だけ多聞櫓で
ぐるりと囲ってるのもそういう意図かもしれませんね。

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さて、会場である天守にGo。
これも木造にできるかどうか、喧々諤々の議論中。

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以前より、やはり城に対する興味がアップしているので、
展示を見るスピードも遅い遅い(苦笑)
以下通常展示は撮影禁止なので、文章のみで・・・・

■天守雛型 … 大久保神社蔵版・東大工学部寄贈版

やはり、建物派の城好きとして気になったのは、
大久保神社蔵と東大工学部寄贈の天守雛型。

東大雛型が宝永三年(1704)の地震で倒壊した後に
再建のために造られたのに対し、大久保神社のほうは
幕末に修築案として造られたそう。

現在のRC天守の直接的なモデルは、大久保神社のほう。
二重目三重目の逓減率が高く、バランス的には
大久保神社の方がしっくりしているんですよね。
東大雛型のほうは逓減率が低いんですよ。
(徳川系に多いずんぐりむっくり)

これ、仮に木造で天守を再建したときに
ひとつ論点になるでしょうね。というのも東大雛形を
ベースに設計するか、大久保神社雛形をベースに
設計するかで、外観が大きく違ってきそうだから。

歴史に忠実という意味では、東大雛形になりそうですが、
大久保神社のほうもまったく歴史的な根拠がない
ということもないですし、特に現在のRC天守と意匠が
変わると戸惑う小田原市民も多いでしょうしね。

そして、小田原城天守の瓦が展示されてあったのですが、
大久保藤ではなく、徳川葵。常盤木門の理由と同じく
将軍のための空間と考えると合点が行きますよね。
将軍家光も天守に上ったらしいです。

そのほか、天守の瓦以外でも徳川葵の遺品がたくさん
発見されているようなのですが、芯の数がまちまち・・・

とある徳川クラスタ(笑)に芯の数と意匠が
時代によって違うことを教わりましたが、
そんな違いとからめて遺品を見ていくと、
さらに分かることがあるのかもしれないですね・・・

■近世小田原城の縄張り

小田原城全体模型で気になったのは、外郭の大手口御門、
箱根口御門、内郭の銅門いずれも高麗門+櫓門であり、
それゆえ、常盤木門の堅固さが際立つなってこと。

高麗門+櫓門ではない馬出曲輪、茶壺曲輪は
いずれも簡素な高麗門だが、いったん敵兵を曲輪に入れて
銅門枡形内から集中砲火を浴びせる設計?

城内に入れさせずに防御するタイプと
一旦城内に引き入れた上で殲滅するタイプがある…
というサイガさんのお話を思い出しながら、
模型を食い入るように見ておりました(笑)

馬出曲輪の防備の一環でもあったであろう、
二の丸唯一解体を免れた二の丸隅櫓。

大坂城乾櫓、駿府城巽櫓などと同じくL字型の櫓で、
鯱が居たかはわからないけど、居れば珍しい
三匹の鯱の現存櫓になっていたかもな・・・
残念なことに、関東大震災で濠にダイブして大破。

さて、ここからはよみがえる小田原城展。
なんと写真撮影OKでありがたい限りですぅ☆

■よみがえる小田原城展
(1)後北条氏時代

小田原城周辺の高低差が分かる地図。
なるほど・・これは城ができる地形ですよね。
高い部分にも戦国時代の北条氏の遺構が残り、
麓部分には近世の遺構が残るわけですね。

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八幡山の古い曲輪に残る障子堀。
躑躅ヶ崎館に丸馬出と三日月濠の遺構が残るのと同じく
北条の本拠にも、北条らしい遺構が残ってる。

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同じく八幡山の石垣を伴う遺構。
これも北条氏の遺構でしょうかね?
ということは、武田だけでなく北条も石垣・・・
というか石積は、城郭に活用してたんですかね?

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(2)前期大久保時代

ちょっと驚きだったのが、前期大久保時代の
玉石垣遺構の紹介。前期大久保時代というと、
徳川家康の関八州移封に伴い、大久保忠世が
小田原城に封じられ、後に息子の忠隣が継いでいますね。

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横須賀城ほどではないにせよ、かなり円い石。
後の時代にきっちりした石垣ができたことを考えると、
この玉石垣の意味がよくわからなくなってきますね…

(3)幕末明治~近代

これはけっこう有名ですかね・・・天守取り壊しの図。
小田原城天守の古写真としては、これしかないそう。
材の扱いが雑すぎて涙目・・・

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実は、小田原城天守や櫓群、廃城令を待たずして
藩自らの意思で建材を民間に払い下げたそうなんですよ。

元禄地震に宝永年間の富士山噴火。そこで天守も再建。
当然藩の財政は火の車…ということで、
早くその重荷から逃れたかったのでしょうか。

松本城天守ですと、地元の名士が保存に向けて動いたり
といった事例もありますが、小田原にはいなかったのですね。
天守を丸ごとそのままで買い取るような名士がいたら・・・
ま、そう今言っても仕方がないですけど。

ちなみに天守や櫓併せて5棟で、お値段900両。
銅門は69両。解体は1870年11月10日の契約時から
約1ヶ月で解体されたそうです。

1両を20万円と換算すると、1億8千万円か。
金持ちだったらサクッと買い上げできるなぁ。。むむ。

もうひとつ、わたしは初見だったのが、
南曲輪西二重櫓の古写真。銅門と同じく漆喰の剥がれが
著しくて見るに堪えないのですが・・・

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同じく西二重櫓の背面からの写真。

P1360279

これで四面の意匠は十分わかりますね。
内向けには千鳥破風は省略、外は漆喰剥がれが多いものの
内側は比較的きれいな状態だったようですね。

これで櫓の再建もできるかもしれないですね・・・
内部構造がわかる何らかの資料があればいいのですが。

二の丸隅櫓の関東大震災前後のBefore/After。
うーん、しょぼさが際立つ・・・

Before
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After
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(4)天守復興

天守復興は、終戦後まもなく起こったそう。

1950年から1953年にかけて石積工事が行われて
天守台の整備がまずなされます。

3年後の1956年から商工会議所中心に
「小田原城天守閣復興促進会」が設立され、
募金活動を開始をしていく一方で
翌年には小田原市も起債の許可を自治庁から得て
さらに神奈川県からの補助金も取り付けます。

1959年には、官民一体となって
「小田原城天守閣復興期成会」となって推進。

さらに「天守閣復興瓦一枚寄付運動」も59年に開始、
平瓦・丸瓦には100円、唐草瓦・巴瓦には300円。
金額にして240万円、21,366枚の寄付が集まりました。

実に天守に使われた63,440枚の約1/3が寄付で
まかなわれたことになりますね。

大阪城同様、小田原城の復興天守もかなり市民の寄付で
再建されたんですね・・・これも昭和30年代という
まだまだ苦しい時期だったと思うのですけど、
寄付金2000万以上にも上っているのだとかですよ。

寸法は微妙に違うが、初重平面、二重平面、
三重平面とも大久保神社蔵の雛型に近いものの、
天守台からの天守の高さは嘉永年間の図面に
合わせた約38m・・どっちかにせぇよと思いましたが(笑)

コンセプトとしては、総体的な意匠・構造は
東大雛型をベースとし、平面規模は大久保神社雛型、
高さは中間的なものとしたそうです。

城好き的に残念なのは、三重目の廻縁と高欄ですね。
当時は観光利用目的で据えたものですが、
木造再建となった暁にも論点のひとつとなりそうです。

着工は1959年ですから、本格的な募金活動が
まだスタートしたばかりですでに着工していたんですね。
初期天守台の発見でこの保護と天守再建をどううまく
両立するかに悩みながらも、翌年1960年5月に竣工。

それでも、当初は2月の予定で初期天守台の保護で
工期延長になってこれですから、ものすごいスピードです。

5/25の完成式典後、押すな押すなの大繁盛だった
とのことではありますが、小田原市民がどれだけ
待ちわびたかという当時の事情が分かるとともに、
今になって、補修工事をしなくてはいけない理由も見え隠れ。

(5)その語の史跡整備

その後は、常盤木門が1971年に再建されますが、
その際の文化庁による注文として、史跡内の不適当施設、
動物園や遊園地、図書館、小田原市庁舎・・・
などの移転が条件とされ、順次移転していきます。

次に展示のあったのは、1983年から進められてきた
住吉濠・住吉橋の史跡整備事業。これがまた興味深く・・・
史跡整備30年と銘打つスタートがここだったのです。

住吉濠。銅門のすぐそばの濠が住吉濠です。
なんと濠底からは北条時代の障子堀遺構が発見!

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興味深いのは、北条時代だけでなく前期大久保時代にも
障子堀があったってこと。細長く深いほうが北条時代、
正方形で浅めなのが大久保時代だとか。

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住吉濠全体の障子堀発掘状況。
北条時代も濠だったのでしょうけど、
ずいぶん様相が違っていそうですね・・・

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でも、ここの近世障子堀はけっこう深そうだよ?

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発掘調査からは胴木が出てきたりもしているんです。
やはり、小田原も石垣の城にするには、
そう地盤がいい場所でもなかったということか・・・

P1360304

江戸時代後期には、薬研濠に姿を変えていた様子で、
明治の廃城時以降、取り壊された建材の一部や
関東大震災で崩れた石垣の石などが投げ込まれていたとか…
で、1928年には完全に埋め立てられてしまうのです…

が、その石は平成の復元の際に掘り出されて、
石垣の石として復活。足らない部分は同じ安山岩系の
石を買い足して銅門枡形として積み直されています。

銅門に先立って、住吉橋の再建。
ここでの経験が銅門再建にも役立ったそうですよ。

P1360305

そして、銅門の再建。一時期皇室関係の邸宅が
あったこともあり、宮内庁に資料が残されていたそうで、
発掘調査の成果と古写真のほか、図面も残っていて
大きな再建の手がかりになったそうです。

部材加工の様子。

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門扉に銅板を貼り付ける作業。

P1360314

銅門内部・・・いつ公開してるんだろ?

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つづいて、馬出門の発掘状況。
こうして石垣の内部までよくわかる写真のは、
構造を知る上で貴重ですよね~

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栗石に名前を書いて入れるだなんて・・・
天守には瓦に、石垣には栗石に。
いいなぁ、他城でもやってほしい!!

P1360324

あと、馬屋曲輪の隅櫓台の整備の様子もありました。

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痛々しいですね・・・

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整備後。ここの櫓の古写真や絵図などは
ないんでしょうかね?

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最後・・・発掘調査の過程で出てきた
徳川葵の瓦群。上段の瓦は比較的芯の数が多く、
初期の頃なのかもしれません。

P1360334

これ、時代を特定できる手がかりになるよね、
絶対・・・徳川葵の専門家プリーズ!

P1360335

これで見終わりましたが、一応天守からの眺めも。
常盤木門がいい感じで見えますね。
多聞櫓で囲まれた堅牢な様子が一目瞭然。

P1360338

天守内でお買い物・・・・どこが小田原の買い物?
北条のお膝元で武田関係ばっかりでスミマセン(笑)

P1360340

さて・・・ここまでで午前中。
お昼お昼・・ということで、よさげなお店発見☆
北條水軍さん!

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三つ鱗紋があちこちにあって、北条好きには
たまらないかも・・・

P1360345

コースターもカッコイイ!

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あ、氏康さんお邪魔してます。一杯如何ですかな?
それがし甲斐武田の者です・・・同盟国ですよね!
三増合戦?まーまーまー、そう堅いことおっしゃらずに。

P1360346

三つ鱗を模したカタチに配されたネギトロ丼。
いや、そんじょそこらのネギトロ丼じゃないですね・・・
これは美味かった・・・また頂きたし!

P1360348

うーん、はなの舞風林火山よりこちらのほうが
いいかもしれん・・・がんばって!はなの舞!

ということで、小田原城を楽しんだ半日でした。
小田原、西にお出かけする拠点(ムーンライトながら乗るとき)
なんで、ものすごく立ち寄ってるんですけど、
小田原城久しぶりでした。

木造天守再建という点でも、これから注視したい
城のひとつですね。また来ます!

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克明に記録された名古屋城を訪ねて…その3 おまけ。

大満足の名古屋城特別展の後・・・
一瞬だけ天守最上階に上がってみる。

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が、一瞬で閉館時間・・・ま、展示が
目的だったからいいのだよ。

結局、この日は本丸御殿は見られずじまい。
ま・・・名古屋だからね。また来れるでしょう。

P1360087

名古屋城正門(旧蓮池御門)から出ます。
いい夕日だなぁ。

P1360094

大天守。また来ます!

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せいしょこさんもまたね!

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伏見通に掛かっている高架橋から。
ここから大天守がよく見えて、お気に入り。

P1360104

そして、駅前のピエール・マルコリーニで、
エスプレッソがけのコーヒー×チョコパフェで一服…

P1360106

一気に掛けると溶けちゃうので、
少しずつ少しずつ・・・苦味のあるエスプレッソ、
チョコレートの甘さを引き立てますね。

そして、ご飯は矢場とん。銀座他東京にもあるんですがね。

P1360110

名古屋メシを堪能して、帰路につきます。
名古屋ってわたしの中ではかなり近いんですよね。
京都大阪がすでにもう気軽に行けるので、
いわんや、名古屋をやという感じで。

デザイン的な面で、ちょっと好みから外れる名古屋城、
ではあるんですが、その大切にされっぷりがまばゆくて、
すごく名古屋城に対する印象が変わりましたね。
名古屋城も木造で天守が再建されればいいのですが・・・・

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克明に記録された名古屋城を訪ねて…その2 巨大城郭名古屋城。

ちょっと間が開いてしまいましたが・・・
名古屋城大天守内の展示。

P1360070

これが秀逸でしてね・・・・形状的に好きな
岡山城や地元である大坂城、そして規模が最大の
江戸城と比べると、正直そこまで思い入れは
なかったのですが、この展示で名古屋城すごいじゃないか!
と圧倒されました。そんな認識を変えてしまう展示会。

twitterで見ている限りでも、絶賛する内容が
多かったように思いますが、さもありなん・・・です。
無理してでも、名古屋に突撃してよかった!!

■縄張りの変遷

1609年11月に縄張りを開始し、翌1610年正月には
家康が名古屋に入り、最終的な縄張りが決定。
それまで縄張りには紆余曲折があったらしく、
その経緯が実に興味深いですね。

最も古いとされるなごや御城惣指図では、
本丸の空壕内に櫓を建てるという、
他では類例のない縄張りが検討されていた!
というのがわかりますね。

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さらにその空壕内の脇から大天守に入る構造や
小天守の入り口の違いだとか、
相当違った点を見つけることができます。

名古屋城普請町場請取絵図、金城録町場請取絵図、
金城温古録付属名古屋御城石垣絵図、
蓮左城極秘図・・と見ていくと、
早々に空壕の中の櫓プランは消滅しますが、
御深井丸から大天守西側に直接入る口は、
ずっと残されていたことが分かります。

時期的には、11月~翌1月の約3ヶ月間ですが、
工事が着工した1610年6月以降も
縄張りの改変はあったようですね。

現場の苦労が忍ばれますね・・・
「今言うなや!」「大御所の御意向なるぞ」
いつの時期もトップに振り回される現場、
を思うと、今も昔も・・という気はします(笑)

ということと、絵図自体の作成過程も興味深く、
尾張藩が奥村得義に指示して書き上げさせた
「金城温古録」だけでなく、陸軍管轄下にあった時期、
名古屋離宮期も含め、図面の写本が多くなされている点。

同じように陸軍管轄にあった徳川諸城と比べ、
すごく扱いが丁寧だったり・・・という気がします。

が、陸軍管轄時に二の丸御殿壊してたり、
やっぱり陸軍は碌なことしない・・・
キッチリ残すように閣議決定された後
丁寧に扱われた様子で、丁寧なのはそういうことか。

襖絵は売却されたが旧上級藩士が購入したものが残存。
わずかでも思いを馳せられるものが残っていてうれしい。

■天守を急ぎ上げよ!

次の展示は、縄張りが決まった後からの矢継ぎ早に
示される大御所家康の指示の内容が分かる書状群。

主に駿河で家康近くに仕えていた本多正純や
大久保長安、成瀬正成、安藤直次、竹腰正信、
といった駿府年寄からの書状。宛先は主に
普請奉行の中井正清。

縄張りが決まったらすぐに材木の手配指示があり、
家康から天守は住まいじゃないから、
まず建てることが先決で内すまい(内装)は無用
という明快な指示を着工前の4月に出しているんですね。

さらに6月には御殿も天守も両方手がけていると
職人の手配がうまくいかないから、
御殿は後回しにして天守をまず上げよという指示。

そして、着工1ヵ月後の7月の書状では、
6月に材木の調達報告があったから、
大御所家康から天守着工指示があったのに
今になって材木がないとはどういうことかと
厳しく詰問する内容もありまして・・・

同時に小堀遠州に何がどう足りないかを
報告せよとの指示もあったり。

もうどんだけ天守を上げること急いでいるのかと・・
という切迫した状況を肌身に感じるわけですが、
豊臣方に対する防衛線たる名古屋城にあって、
天守を重要視していた点が興味深く。

そういや大坂城築城の際にも、秀吉が真っ先に
天守を上げることを指示していたということを
ここで思い出しましたね。

縄張りは縄張りで大事なのでしょうけど、
天守の迫力と威厳、存在感が豊臣方へのある種の
抑止力になると思われていたのでしょうか。

結局、8月には五百名近い職人が集まり、
年末には天守が完成の運びとなるのです・・・

■本丸御殿

本丸御殿については、安藤重信から中井正清へ
本丸御殿の障壁画の見積もりを出すよう、
指示があった内容が興味深い。

・・・というのも、1614年の1月銘なんですが、
1615年1月には本丸御殿が完成。

起こした障壁画は1,000点以上に及ぶわけで、
毎日完成させても3点/日くらいで描く必要があり、
ものすごいスピードでシゴトをこなしていることが
わかるんですよね・・すごすぎる。

その割りには、1620年二の丸に徳川義直が
移って以降空き家状態だったそう。

それでも、意匠に手を加え続けられ、
家光の将軍宣下が京で行われた際の帰路に
名古屋に立ち寄った際にも饗応のために
慶長期の奥・中奥を破却して御成書院などを新築。

いやいや・・・・この頃はものすごい金の使いよう。
家光自身が指示を出したわけではないにせよ、
バブルというかなんというか・・いやはや。

ただ、この後長く使われることはなく、
城内にあって天守ともに封印された空間になっていく。

それでも、定期的に清掃されてはいて、
代替わりなどには藩主が天守と本丸御殿を
巡覧するのが慣わしとなっていたそうです。

奥村得義が金城温古録をまとめるに当たり、
集めた資料集である国秘録という書物に
十代藩主斉朝以降の巡覧の様子がまとめられています。

藩主の巡覧、藩士たちにとっても滅多に行けない
本丸内への立ち入り・・・でしょうから
楽しみだったりしたのだろうかななどと想像。
いや、緊張のひとときか・・・

■金城温古録

今回圧巻だったのが、奥村得義が生涯かけて
名古屋城のあらゆることを書き残した「金城温古録」。

驚くべき量とその精緻な描写。灰燼に帰したとはいえ、
江戸時代の名古屋城の様子がここまでわかるのは
彼の成果のよるところが大きいのでしょう。
史料を残してくださった奥村得義に感謝感謝ですね。

彼自身は、前半部を1860年に書き上げて藩に献上。
後半部の草稿を残して1862年に没し、
明治維新の混乱もあって、養子の奥村定が後半を
書き上げたのは実に40年後の1902年。

後半部を尾張家に献上するとともに、もう一点清書を
完成させて名古屋市役所の市史編纂所に献じたとか。

(1)石垣
石垣に関しては、天守台の構造なんかも採録されていて
天守があるにもかかわらず、どのように調べたのか・・・
他にも天守台の天守北面丑寅の隅石に字が彫ってあって、
「加藤肥後守内小代下総」とあるという紹介も。

天守台が清正配下の飯田覚兵衛(あの飯田丸五階櫓の!)が
朝鮮出兵時に石垣構築の法を学んで天守台を築いたとあり、
今になって石垣を自由に組めるのは、清正の功だ!
と奥村得義は清正絶賛しているのがおもしろいですね。

(2)鯱
北面は雄で南面が雌(初めて知った)というらしいが、
その根拠になっているのも、金城温古録。
本来はその区別はないはず・・なのだけど、
金城温古録を書き上げた当時にはすでに、
そういう言説があったのを取り入れたらしいですね。

(3)畳
金城温古録付属の御天守御畳員数図に
初重から五重目までで1762畳も必要でうち、
936畳が不足・・などと書いてありましたよ!

そもそも畳をぎっしり敷いていたと
記録にちゃんと残ってるのを初めて見たのですが、
おそらく特別サイズの畳でしょうから、
天守の広さが再認識できますね・・・!!

(4)名古屋城のたゆまぬ修理の記録
金城温古録にもありますが、その他の資料も含め、
修理に関する記述もまた興味深いんですよね・・・

宝永年間(18世紀初頭)の修理記録では、
東南隅櫓、御旗多門、干飯櫓、東一の門、東二の門が
修理された際の瓦の新作枚数516万枚。
ものすごい大量の瓦ですよね・・・
宝永4年(1707年)には地震があったそうで、
それを受けた修理のようですね。

しかし、宝暦年間の1755年にも天守の修理がありますが
何度も地震を受けつつも、致命的な倒壊に至らず
修理で済んでいるあたり、すごいな・・・と感嘆。

もちろん、修理に関して一番大きな見所は、
宝暦年間の天守の傾きを修正した天守大修理ですね。

個人蔵で最近紹介されたらしい断面図と立面図がすごい。
立面図は平地割と妻地割が揃っています。

図面だけ観ると江戸城天守に似ていて、根本構造は
江戸・大坂・名古屋で共通していたんだろうな、と。

ポイントは宝暦修理時の記録で修理前の現況を
書き記したもの、つまり慶長創建時に近い図面である、
という点。雨樋がないところがポイント。

断面図も極めて詳細な寸法が書かれてあり、
外観の様子はともかくとして、慶長創建時の様子まで
わかるなんて、名古屋城大天守すごい・・・・

宝暦の修理記録の写しや修理の手順を
時系列に示した日記だとか、天守五重目乾の間にあった
天守からみた見通し絵図と地名方角を記した資料も。

領地を天守から把握するための目的があったんでしょう。
でも、ある時期からはほとんど上られないわけで・・・
もっと活用したらいいのになぁ、などと後世の人間は
思ってしまうのですけど(笑)

修理前から柱に傾きや床のようす、全体的に西北へ
約40cm傾斜してたとかって記録や修理に際して、
どの柱をどう動かせばいいかの計画図まで・・・膨大。

度肝を抜かれたのが、宝暦の大天守修理の際の
修復の様子を描いた見渡し図。

P1370985

柱を立て直し、西北に石垣の孕みを是正するため、
廊下部分を解体し石垣を積み直して柱を引き上げたそう。
天守内にもひもをねじ掛けて、てこの原理で
引き上げるさまがうまく表現されているんですよ!

よくクレーンもない時代によく出来たな・・なんて
感想を聞くことがありますが、実際どうやって
建造したかはわからないことが多いと思います。

建造だけでなく、修理だってそう・・・なのですが、
この大天守修理はこうやってやるのか!と目からウロコ。
もちろん、やり方がわかっても大事業であることには
変わりはないわけで、すごいの一言です。

んで、ちょっと思ったのは、この方法が取れるのって、
層塔型天守だからかな?と思いましたね。

天守地階一階の廊下部分しか石垣に直接荷重がかからず、
穴蔵を備えて対称的な構造になっているからこそ、
力のかかり方が読みやすいように思います。

たとえば、岡山城天守が仮に傾いて同じ手法で
元に戻そうとすると難しそうですね・・・・
左右対称じゃないですからね。

いや・・・総じて思ったのは、名古屋城って
ものすごく丁寧に扱われ、大事にされてきたんだな、と。
灰燼には帰してしまったけど、極めて正確に
再建できる城郭建築が揃っていますよね。

江戸城も記録が多いですが、ここまでは。。。
もちろん江戸幕府の記録としては、徳川盛世録
という記録がありますが、「江戸城」にフォーカスした
記録としてどこまであるか、ですかね。

少なくとも、天守に関しては1945年まで残っていた
名古屋城と1657年に焼失した江戸城では、
雲泥の差がありますから・・・・

しかし、ほんとにいいものを見させていただきました。
さすが、尾張名古屋は城で持ちますね。

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克明に記録された名古屋城を訪ねて…その1 清洲櫓。

さて…どんどん書ける間に書いときますよ!
11月の末、twitterの城好きの皆さまの評判のよい
名古屋城の展示を見てきました…巨大城郭・名古屋城。

Nagoyajo1

いやー・・・名古屋城に対する印象が
ガラッと変わるほど、すごく印象的で有意義な展示。
このためだけに名古屋に行った価値があったと思えます。

以前は名古屋くらいなら夜行バスで行ったものですが、
やはりここ最近疲れが激しいので、新幹線・・・
新幹線だと、富士山がしっかり見られるのでいいですね!
やはり、眼前に見えたらどうしても撮っちゃう。

P1350964

さて、せいしょこさんにご挨拶して本丸へ。
熊本のせいしょこさんとそっくりね。

P1350968

参考:熊本のせいしょこさん。

kiyomasa

名古屋城正門から入ります。
江戸城と似てるなあ・・と漠然と思っていたのですが、
明治末期に江戸城蓮池御門を移築、戦災で焼失後
再建されたんですってね。そりゃ似てるはずだわ。

P1350970

ていうことはさ、江戸城に蓮池門を再建するのは
わけないことだよね・・などと考えながら、
門をくぐってまいります。

ちょうど日光の位置もばっちりでものすごく
いい条件で名古屋城大天守☆

P1350979

名古屋城大天守の在りし日の姿。
この写真すごくいいですよね・・・・本丸御殿は、
もともと現存していた意匠は簡素化されてるんだな。

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もともと天守内の展示を目当てで行ったのですが、
清洲櫓も見せてくれるっていうなら・・・
もちろん行きますよね!

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以前にも中に入ったことはあるのですが、
ここ最近の城熱の盛り上がりで、
同じ櫓を見るにも目線が違ってきたな・・・!!
と感じた次第です。興味深い。

以前も感じたことですが、かなり広いですよね・・・
一階の床面積は天守クラスといってもいいでしょうね!

P1350992

構造的には、層塔型といった感じですね。
規則正しい武者走りが配されています。

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櫓内には、石垣下の胴木の展示。
1994年の台風で石垣が崩れた際に発見。
かなり腐食が進んでますよね・・うん、よくがんばった。

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お約束の石落とし。

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窓から濠を眺める。しかし広い濠だよな・・・

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こういう草の手入れって難しいんだろうけど、
なーんか間抜けなんだよなぁ・・・

P1350996

一階から二階への階段。城郭建築では、
マジかよ・・という急な階段が当たり前だったりしますが、
こちらは比較的に人に優しい階段かも(笑)

P1350993

二層目。構造的に似た構造・・・
というのが層塔型。

P1350997

規模は大きいものの、あまり柱は太くないかな。
その点、高松城月見櫓の(櫓としては)
圧倒的な迫力はないような気も・・・うーむ。

P1360001

光がこぼれるさまっていいよね・・・・
櫓が好きなのはそういう点もある。
煌びやかな御殿もいいけど、櫓内のシンプルな美しさ。

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二階の階上を見上げると、横木の交わったところに
三階の柱が・・・みな梁の上に横木を通し、
その上に柱を立ててるんだねぇ。

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武者走りの上にはこうして横木を通してあり、
この上に柱を立てているんですよ。
これって、層塔型らしくないですよね?

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こういうところは、どこか望楼型の様式を
残しているような気もするんですよね。

すごい模様の材。年輪がすごいね・・・
くんくん・・・マツかな?(笑)

P1360014

あちらに見えるのは、ウェスティンナゴヤキャッスル。
あそこに泊まって名古屋城を見てみたいものよ・・

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そして、三階。梁はそれなりに太いんですよね。

P1360023

往時は畳が敷かれていた感じがするねぇ。
敷いてここに泊まってみたいもの(どこでも言うてる)

P1360025

あの斜め線は後世の補強かな・・・・
やっぱり皆あるものなんだな。

P1360030

最上階も武者走りが配されるタイプ。
パッと見の構造は層塔型なんですけどねぇ。

P1360034

帰り、二層目で見つけた千鳥破風を支えている臍。
これ取っちゃうと千鳥破風がばったーんと
倒れてしまう・・・らしいですよ?

P1360047

けっこう簡易的に止めてあるだけのように…
これを外したら・・・まさかねぇ・・ははは。

P1360039

あ、こっちにも・・・これ他城では見ない構造ね。
前回来たときには気づかなかったなぁ。

P1360048

さて・・・そろそろ出ますか。肝心の展示を
見る時間がなくなっちゃうよ!(笑)

にしても、清洲櫓も漆喰の剥がれているところが。
直して差し上げたいね・・・・

P1360057

印象的なのは鬼瓦。大坂城は裏紋で簡略化された葵紋だが
ここは、尾張徳川の紋。やはり本拠地なんだな、と。

P1360062

別の場所に移されている天守礎石。
そういやちゃんと見ていなかった…L字型なのね?

P1360069

これって、天守指図と合わせてみて、
名古屋城大天守の構造をちゃんと理解したい・・・!!

さ、いよいよ天守内の展示ですよ!

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行く年来る年、余市新樽で迎える年末年始。

さて、昨年末。忙しいとは言いながらも
2013年を締めようと、よく行くBarに顔出し。

やはり、Barは人とのつながりが支えているんだな、
と思いますよね。とはいえ、行けないBarも
ほかにもたくさんあって、申し訳ないのですけど…

たまたまではあるのですが、大好きな新樽熟成の
シングルカスク余市を頂き・・・やっぱり
ええなぁ・・と好みのモルトの安心感に浸ってました。

■シングルカスク余市2002 #405175 10yo 59.0%
 @NIKKA BLENDER'S BAR

Img_20131224_194433

こちらは一昨年のマイウイスキーづくりのボトル。
宮城峡の新樽熟成には、柑橘感のあるカスクも
あったのですが、余市でこういうタイプはお初でした。

優しく香るオランジェット、かすかにシナモン。
爽やかで少し甘いキンモクセイ。清々しい檜。

いわゆるウッディな感じが前面に出るのではなく、
フローラル&フルーティな新樽余市。
こういうのもええなぁ・・・

■シングルカスク余市1997 #400860 16yo 59.0%
 ニコルボトル@NIKKA BLENDER'S BAR

Img_20131224_202734

ぼやぼやしていたら、あっという間に売り切れた
悔しいカスクでしたね・・・ザラメが乗ったトースト、
僅かな渋みのあるアーモンドラテ、
メイプルシロップのかかったどら焼きなどなど。
香ばし&甘さのバランス感が心地よい。

あと、高松で買った和三盆のカステラ

もうかなり前になるのに、頂いてふと頭によぎる、
ということは自分の中でインパクトが強かったんだろうな。

こちらもウッディ感は強すぎることはなく、
少し甘めに振った感じの新樽余市でございました。

■シングルカスク余市2003 #405947 10yo 57.0%
 @Bar Virgo

Img_20131224_214421

そして、昨年のマイウイスキーづくり。
Virgoのあるじさんがちょうど10年経って、
ご自分がおつくりになった原酒の熟成が終わり、
ボトリングされたウイスキーを頂きました。

はじめはフルーティですが、ピーティというわけでもなく
ただ勢いのある新樽。チョコレート感が強くて、
徐々に香ばしさを伴って甘い香りに。

焼きたてのチョコレートケーキやリチャーした
直後の樽の香りというか・・・いやはや、
マイウイスキーのボトルを続けていただいて、
どれも個性がありつつ、すばらしい出来なので、
自分のカスクが楽しみでしょうがないですね・・!!

1回目は、2008年。わたしのウイスキー人生が
大きく変わったのがこのとき。これに参加してないと、
ウイスキーをここまで愛することはなかったでしょう。

そして、ウイスキーでつながる皆さまとも
お会いすることはなかったでしょう…というくらいに
エポックメイキングなできごとだったんですよねぇ。

2回目は、2010年。この頃はまだ2回目でも
なんとか当たったのです。もう2回目3回目は、
難しいようですけどね・・・・

このときに、今お世話になってる西銀座のバー
マスターとも知り合えたのでした。ふむ。

そして、年始からはシングルカスク余市1988。
昨年のティステイング会でこれは美味いと感心し、
一念発起して入手したのでした。

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ティスティングは会の記事を参照していただくとして…
肝臓のためにもあまりウイスキーを飲めなくなった父。
年1回、帰省するときにわたしが持ち帰るニッカウヰスキーが
唯一ウイスキーを楽しめるときなのです。

美味い美味いと見る見る減っていくカスク・・(汗)
からだのためにも、ちょっと飲みすぎでは?とヒヤヒヤ(笑)
ま、間違いなくおいしい1本ではあるのですがね。

さて、今年はニッカウヰスキー80周年。
ウイスキー観点でもわくわくできる年になるといいな!

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blog10周年・・・十年一昔。

十年一昔・・・・とは言いますが、
我がblogも本日で10周年を迎えることができました。

まだブログということばが一般的には目新しかった
2004年2月1日
にはじめました。

あまり当時は意識をしていなかったのですが、
2/1は旧正月近辺ということで、新暦正月前には
その年の振り返りはするものの、明けたら
ゆっくりと楽しんで、旧暦正月に「今年の抱負」を
考える・・・といった感じになっています。

そのめでたい日にウイスキーと牡蠣をたらふく堪能してきて、
いい気持ちになりながら、blogを書いております。
ま、それは追ってレポするといたしまして。

この10年・・・振り返ればいろんなことがあったのですが、
数週間前から何を書こうかな・・と思案していて、
思い至ったのが、興味が薄くなってきたモノについて。

ひょっとして、このblogを長く読んで
くださっている方がいらしたら、
最近、ガジェットネタがないよね・・・
と思っている方もいらっしゃるかもしれませんね。

このblogを始める頃は、PCにしてもなんにしても、
新しいガジェットを手に入れたら、
それはそれは心が躍るものでした。
それがここのところ鳴りを潜めているのですよね。

記念すべき第1号記事でもその頃はかなりマイナーだった
脱着式のWindowsタブレットを使っていたのですが…

今でこそ、タブレットが当たり前になりつつありますが、
もう10年も前にわたしは使っていたのです。
その頃からタッチが使いやすいと思ってましたが、
ようやく時代が追いついてきた感がありますね。

そして、2014年。

武田信玄公、ドラクエやFFといったRPG、
そして進化論、お城、ウイスキー・・・

今まで興味をもった対象は、その時々の関心の強さこそあれ、
ずっと持ち続けていて、関心が層を成して
積み重なっていくような・・・
そんな風に思っていたのですけれども。

自分の歴史からいえば、信玄公への関心は
もうかれこれ四半世紀にもなりますし、
ドラクエやFFとのお付き合いも同じくらいかそれ以上。

ガジェットは浪人生の頃からですので、お城や
ウイスキーに比すると古いですが、
まだそう関心を持って古いというわけでもありません。

一時期は稼ぎのうちの相当額をガジェットに
つぎ込んでいたわけなんですが・・・
それが、どうもここしばらく響いてこない。

何にもまして、ある意味普通のPCを買ってしまっている
というところにその兆候はあったようにも思うのですが・・・

CEATECなんぞは、社会人になってから皆勤賞で
見に行っているのですが、忙しいということもありながらも、
一昨年から記事にする気が起きないのもその兆候かな。

そして、もうひとつがブロガーイベント。

一時期はすごく熱心に参加していたのですが、
最近はちょっと・・・AMNさんのtwitterアカウントも
フォローはしているのですが、あまりオッ!
と思うイベントがなくってですね。

ブロガーイベント自体、一時期の隆盛からすると、
かなり落ち着いてきたというのは、
ちょくちょく目にしていたのですが・・・

イベント自体の数と言うより、自分が心躍るような、
新しい何かを知ることができる機会として、
惹かれるイベントを見かけなくなったということかも。

あと興味の向かうがままあれやこれやと参加していると
時間がなくなっちゃうということで、ここ数年、
「関心の剪定」をし始めたこととも無関係では
ないかもしれませんね。

その証拠に参加していたイベントというと、
だいたいがガジェット系かウイスキー関連。

正直なところ、ウイスキー関連はマンネリ感がありますし
(ブロガーイベントと銘打っているものは、です)
ガジェットは先に述べた通り。

城関連や信玄公関連では、決してブロガーイベントに
なるほどメジャーでもないですし、また
ある種の販促につながる・・・ものでもないですし。

とはいえ、今まで強さの違いはあったとしても、
関心はあるにはあったものなのですが、
ま、いっかな・・・と思ってしまうところが、
寂しくもあったりするな・・とふと思うコトも。

まぁ、10年もblogをやっていれば、いろいろと
関心の移ろいはあるわけで、後から振り返って、
その動きが分かるようにしておく・・・
というのもblogをしたためる理由だったりするので、
それが判るのは、興味深いことでもあるのですけどね。

そして、今年の抱負をば。

ここ数年やってきた関心の芽が伸びるままに
終わらせるのではなく、きちんきちんと剪定して
方向付けをしていこうということは、
かなりできてきたかなという印象を持っています。

ここまで書いてきたように少し寂しい面も
あるにはあるのですが、この方向性は維持しようかと。

そしてこれもここ数年の課題ですが、
単なるレポートだけに終始せず、
自らの想いを語る記事を増やしていこうと思います。
我が思いの丈をこそ語らめ。

そして、2014年に追加するひとつ。
blogに書かない旅をすること。

やっぱり、blogに書くことばかり考えているから
見えてくることもあるのですが、やはり「重い」
という面があるのも事実。

昨年は少し書かなかった(書かない予定)のことも
あるのですが、それでもまたネタとして
かなり残っていますしね・・・・

あるいは、書くにしてもしてもサラッと。
こう隅々まで網羅したいかつての潔癖症というか、
完璧主義の残滓があるので、難しいのですけど。

どれをサラッと書くか?ということも
含めてですね。うむむ。

ということで、

・興味関心を整理統合(剪定)する
・体験だけでなく想いを書く記事を増やす
・書こうとする内容に優先順位をつけて、
 書かないもしくは簡略化して書くことも選択肢にいれる

という3本を今年のblogに関する抱負としたいと思います。
今年もなにとぞ本blogをよろしくお頼み申します!

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