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よみがえる小田原城 史跡整備30年。

さて、続いては小田原城の特別展。

実はその前の週にも小田原を訪れていて、
お城シンポジウムで名古屋城に感心していたのですが…
(小田原城は?笑)

その際に特別展のチケットも頂いたりなんかして、
昨年の関東城忘年会のあと、翌日に行ってきました。
・・・タイミング的にはギリギリ(汗)

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ちょっと遠回りではあるんだけど、やっぱ
馬出門から入るよね!一番城らしいルートですし。

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この日は、銅門のあたりも人は少なめ。
10時前くらいなんですけどね。

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本丸を守る常盤木門。枡形が多聞櫓で囲まれた
非常に堅固な門。

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ここの徳川葵が気になっていたのですが・・・・
名古屋城と同じく、本丸御殿が将軍の宿空間だったから
と先日拝聴。ここの枡形だけ多聞櫓で
ぐるりと囲ってるのもそういう意図かもしれませんね。

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さて、会場である天守にGo。
これも木造にできるかどうか、喧々諤々の議論中。

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以前より、やはり城に対する興味がアップしているので、
展示を見るスピードも遅い遅い(苦笑)
以下通常展示は撮影禁止なので、文章のみで・・・・

■天守雛型 … 大久保神社蔵版・東大工学部寄贈版

やはり、建物派の城好きとして気になったのは、
大久保神社蔵と東大工学部寄贈の天守雛型。

東大雛型が宝永三年(1704)の地震で倒壊した後に
再建のために造られたのに対し、大久保神社のほうは
幕末に修築案として造られたそう。

現在のRC天守の直接的なモデルは、大久保神社のほう。
二重目三重目の逓減率が高く、バランス的には
大久保神社の方がしっくりしているんですよね。
東大雛型のほうは逓減率が低いんですよ。
(徳川系に多いずんぐりむっくり)

これ、仮に木造で天守を再建したときに
ひとつ論点になるでしょうね。というのも東大雛形を
ベースに設計するか、大久保神社雛形をベースに
設計するかで、外観が大きく違ってきそうだから。

歴史に忠実という意味では、東大雛形になりそうですが、
大久保神社のほうもまったく歴史的な根拠がない
ということもないですし、特に現在のRC天守と意匠が
変わると戸惑う小田原市民も多いでしょうしね。

そして、小田原城天守の瓦が展示されてあったのですが、
大久保藤ではなく、徳川葵。常盤木門の理由と同じく
将軍のための空間と考えると合点が行きますよね。
将軍家光も天守に上ったらしいです。

そのほか、天守の瓦以外でも徳川葵の遺品がたくさん
発見されているようなのですが、芯の数がまちまち・・・

とある徳川クラスタ(笑)に芯の数と意匠が
時代によって違うことを教わりましたが、
そんな違いとからめて遺品を見ていくと、
さらに分かることがあるのかもしれないですね・・・

■近世小田原城の縄張り

小田原城全体模型で気になったのは、外郭の大手口御門、
箱根口御門、内郭の銅門いずれも高麗門+櫓門であり、
それゆえ、常盤木門の堅固さが際立つなってこと。

高麗門+櫓門ではない馬出曲輪、茶壺曲輪は
いずれも簡素な高麗門だが、いったん敵兵を曲輪に入れて
銅門枡形内から集中砲火を浴びせる設計?

城内に入れさせずに防御するタイプと
一旦城内に引き入れた上で殲滅するタイプがある…
というサイガさんのお話を思い出しながら、
模型を食い入るように見ておりました(笑)

馬出曲輪の防備の一環でもあったであろう、
二の丸唯一解体を免れた二の丸隅櫓。

大坂城乾櫓、駿府城巽櫓などと同じくL字型の櫓で、
鯱が居たかはわからないけど、居れば珍しい
三匹の鯱の現存櫓になっていたかもな・・・
残念なことに、関東大震災で濠にダイブして大破。

さて、ここからはよみがえる小田原城展。
なんと写真撮影OKでありがたい限りですぅ☆

■よみがえる小田原城展
(1)後北条氏時代

小田原城周辺の高低差が分かる地図。
なるほど・・これは城ができる地形ですよね。
高い部分にも戦国時代の北条氏の遺構が残り、
麓部分には近世の遺構が残るわけですね。

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八幡山の古い曲輪に残る障子堀。
躑躅ヶ崎館に丸馬出と三日月濠の遺構が残るのと同じく
北条の本拠にも、北条らしい遺構が残ってる。

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同じく八幡山の石垣を伴う遺構。
これも北条氏の遺構でしょうかね?
ということは、武田だけでなく北条も石垣・・・
というか石積は、城郭に活用してたんですかね?

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(2)前期大久保時代

ちょっと驚きだったのが、前期大久保時代の
玉石垣遺構の紹介。前期大久保時代というと、
徳川家康の関八州移封に伴い、大久保忠世が
小田原城に封じられ、後に息子の忠隣が継いでいますね。

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横須賀城ほどではないにせよ、かなり円い石。
後の時代にきっちりした石垣ができたことを考えると、
この玉石垣の意味がよくわからなくなってきますね…

(3)幕末明治~近代

これはけっこう有名ですかね・・・天守取り壊しの図。
小田原城天守の古写真としては、これしかないそう。
材の扱いが雑すぎて涙目・・・

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実は、小田原城天守や櫓群、廃城令を待たずして
藩自らの意思で建材を民間に払い下げたそうなんですよ。

元禄地震に宝永年間の富士山噴火。そこで天守も再建。
当然藩の財政は火の車…ということで、
早くその重荷から逃れたかったのでしょうか。

松本城天守ですと、地元の名士が保存に向けて動いたり
といった事例もありますが、小田原にはいなかったのですね。
天守を丸ごとそのままで買い取るような名士がいたら・・・
ま、そう今言っても仕方がないですけど。

ちなみに天守や櫓併せて5棟で、お値段900両。
銅門は69両。解体は1870年11月10日の契約時から
約1ヶ月で解体されたそうです。

1両を20万円と換算すると、1億8千万円か。
金持ちだったらサクッと買い上げできるなぁ。。むむ。

もうひとつ、わたしは初見だったのが、
南曲輪西二重櫓の古写真。銅門と同じく漆喰の剥がれが
著しくて見るに堪えないのですが・・・

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同じく西二重櫓の背面からの写真。

P1360279

これで四面の意匠は十分わかりますね。
内向けには千鳥破風は省略、外は漆喰剥がれが多いものの
内側は比較的きれいな状態だったようですね。

これで櫓の再建もできるかもしれないですね・・・
内部構造がわかる何らかの資料があればいいのですが。

二の丸隅櫓の関東大震災前後のBefore/After。
うーん、しょぼさが際立つ・・・

Before
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After
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(4)天守復興

天守復興は、終戦後まもなく起こったそう。

1950年から1953年にかけて石積工事が行われて
天守台の整備がまずなされます。

3年後の1956年から商工会議所中心に
「小田原城天守閣復興促進会」が設立され、
募金活動を開始をしていく一方で
翌年には小田原市も起債の許可を自治庁から得て
さらに神奈川県からの補助金も取り付けます。

1959年には、官民一体となって
「小田原城天守閣復興期成会」となって推進。

さらに「天守閣復興瓦一枚寄付運動」も59年に開始、
平瓦・丸瓦には100円、唐草瓦・巴瓦には300円。
金額にして240万円、21,366枚の寄付が集まりました。

実に天守に使われた63,440枚の約1/3が寄付で
まかなわれたことになりますね。

大阪城同様、小田原城の復興天守もかなり市民の寄付で
再建されたんですね・・・これも昭和30年代という
まだまだ苦しい時期だったと思うのですけど、
寄付金2000万以上にも上っているのだとかですよ。

寸法は微妙に違うが、初重平面、二重平面、
三重平面とも大久保神社蔵の雛型に近いものの、
天守台からの天守の高さは嘉永年間の図面に
合わせた約38m・・どっちかにせぇよと思いましたが(笑)

コンセプトとしては、総体的な意匠・構造は
東大雛型をベースとし、平面規模は大久保神社雛型、
高さは中間的なものとしたそうです。

城好き的に残念なのは、三重目の廻縁と高欄ですね。
当時は観光利用目的で据えたものですが、
木造再建となった暁にも論点のひとつとなりそうです。

着工は1959年ですから、本格的な募金活動が
まだスタートしたばかりですでに着工していたんですね。
初期天守台の発見でこの保護と天守再建をどううまく
両立するかに悩みながらも、翌年1960年5月に竣工。

それでも、当初は2月の予定で初期天守台の保護で
工期延長になってこれですから、ものすごいスピードです。

5/25の完成式典後、押すな押すなの大繁盛だった
とのことではありますが、小田原市民がどれだけ
待ちわびたかという当時の事情が分かるとともに、
今になって、補修工事をしなくてはいけない理由も見え隠れ。

(5)その語の史跡整備

その後は、常盤木門が1971年に再建されますが、
その際の文化庁による注文として、史跡内の不適当施設、
動物園や遊園地、図書館、小田原市庁舎・・・
などの移転が条件とされ、順次移転していきます。

次に展示のあったのは、1983年から進められてきた
住吉濠・住吉橋の史跡整備事業。これがまた興味深く・・・
史跡整備30年と銘打つスタートがここだったのです。

住吉濠。銅門のすぐそばの濠が住吉濠です。
なんと濠底からは北条時代の障子堀遺構が発見!

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興味深いのは、北条時代だけでなく前期大久保時代にも
障子堀があったってこと。細長く深いほうが北条時代、
正方形で浅めなのが大久保時代だとか。

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住吉濠全体の障子堀発掘状況。
北条時代も濠だったのでしょうけど、
ずいぶん様相が違っていそうですね・・・

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でも、ここの近世障子堀はけっこう深そうだよ?

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発掘調査からは胴木が出てきたりもしているんです。
やはり、小田原も石垣の城にするには、
そう地盤がいい場所でもなかったということか・・・

P1360304

江戸時代後期には、薬研濠に姿を変えていた様子で、
明治の廃城時以降、取り壊された建材の一部や
関東大震災で崩れた石垣の石などが投げ込まれていたとか…
で、1928年には完全に埋め立てられてしまうのです…

が、その石は平成の復元の際に掘り出されて、
石垣の石として復活。足らない部分は同じ安山岩系の
石を買い足して銅門枡形として積み直されています。

銅門に先立って、住吉橋の再建。
ここでの経験が銅門再建にも役立ったそうですよ。

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そして、銅門の再建。一時期皇室関係の邸宅が
あったこともあり、宮内庁に資料が残されていたそうで、
発掘調査の成果と古写真のほか、図面も残っていて
大きな再建の手がかりになったそうです。

部材加工の様子。

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門扉に銅板を貼り付ける作業。

P1360314

銅門内部・・・いつ公開してるんだろ?

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つづいて、馬出門の発掘状況。
こうして石垣の内部までよくわかる写真のは、
構造を知る上で貴重ですよね~

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栗石に名前を書いて入れるだなんて・・・
天守には瓦に、石垣には栗石に。
いいなぁ、他城でもやってほしい!!

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あと、馬屋曲輪の隅櫓台の整備の様子もありました。

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痛々しいですね・・・

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整備後。ここの櫓の古写真や絵図などは
ないんでしょうかね?

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最後・・・発掘調査の過程で出てきた
徳川葵の瓦群。上段の瓦は比較的芯の数が多く、
初期の頃なのかもしれません。

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これ、時代を特定できる手がかりになるよね、
絶対・・・徳川葵の専門家プリーズ!

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これで見終わりましたが、一応天守からの眺めも。
常盤木門がいい感じで見えますね。
多聞櫓で囲まれた堅牢な様子が一目瞭然。

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天守内でお買い物・・・・どこが小田原の買い物?
北条のお膝元で武田関係ばっかりでスミマセン(笑)

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さて・・・ここまでで午前中。
お昼お昼・・ということで、よさげなお店発見☆
北條水軍さん!

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三つ鱗紋があちこちにあって、北条好きには
たまらないかも・・・

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コースターもカッコイイ!

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あ、氏康さんお邪魔してます。一杯如何ですかな?
それがし甲斐武田の者です・・・同盟国ですよね!
三増合戦?まーまーまー、そう堅いことおっしゃらずに。

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三つ鱗を模したカタチに配されたネギトロ丼。
いや、そんじょそこらのネギトロ丼じゃないですね・・・
これは美味かった・・・また頂きたし!

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うーん、はなの舞風林火山よりこちらのほうが
いいかもしれん・・・がんばって!はなの舞!

ということで、小田原城を楽しんだ半日でした。
小田原、西にお出かけする拠点(ムーンライトながら乗るとき)
なんで、ものすごく立ち寄ってるんですけど、
小田原城久しぶりでした。

木造天守再建という点でも、これから注視したい
城のひとつですね。また来ます!

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