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克明に記録された名古屋城を訪ねて…その2 巨大城郭名古屋城。

ちょっと間が開いてしまいましたが・・・
名古屋城大天守内の展示。

P1360070

これが秀逸でしてね・・・・形状的に好きな
岡山城や地元である大坂城、そして規模が最大の
江戸城と比べると、正直そこまで思い入れは
なかったのですが、この展示で名古屋城すごいじゃないか!
と圧倒されました。そんな認識を変えてしまう展示会。

twitterで見ている限りでも、絶賛する内容が
多かったように思いますが、さもありなん・・・です。
無理してでも、名古屋に突撃してよかった!!

■縄張りの変遷

1609年11月に縄張りを開始し、翌1610年正月には
家康が名古屋に入り、最終的な縄張りが決定。
それまで縄張りには紆余曲折があったらしく、
その経緯が実に興味深いですね。

最も古いとされるなごや御城惣指図では、
本丸の空壕内に櫓を建てるという、
他では類例のない縄張りが検討されていた!
というのがわかりますね。

P1370978

さらにその空壕内の脇から大天守に入る構造や
小天守の入り口の違いだとか、
相当違った点を見つけることができます。

名古屋城普請町場請取絵図、金城録町場請取絵図、
金城温古録付属名古屋御城石垣絵図、
蓮左城極秘図・・と見ていくと、
早々に空壕の中の櫓プランは消滅しますが、
御深井丸から大天守西側に直接入る口は、
ずっと残されていたことが分かります。

時期的には、11月~翌1月の約3ヶ月間ですが、
工事が着工した1610年6月以降も
縄張りの改変はあったようですね。

現場の苦労が忍ばれますね・・・
「今言うなや!」「大御所の御意向なるぞ」
いつの時期もトップに振り回される現場、
を思うと、今も昔も・・という気はします(笑)

ということと、絵図自体の作成過程も興味深く、
尾張藩が奥村得義に指示して書き上げさせた
「金城温古録」だけでなく、陸軍管轄下にあった時期、
名古屋離宮期も含め、図面の写本が多くなされている点。

同じように陸軍管轄にあった徳川諸城と比べ、
すごく扱いが丁寧だったり・・・という気がします。

が、陸軍管轄時に二の丸御殿壊してたり、
やっぱり陸軍は碌なことしない・・・
キッチリ残すように閣議決定された後
丁寧に扱われた様子で、丁寧なのはそういうことか。

襖絵は売却されたが旧上級藩士が購入したものが残存。
わずかでも思いを馳せられるものが残っていてうれしい。

■天守を急ぎ上げよ!

次の展示は、縄張りが決まった後からの矢継ぎ早に
示される大御所家康の指示の内容が分かる書状群。

主に駿河で家康近くに仕えていた本多正純や
大久保長安、成瀬正成、安藤直次、竹腰正信、
といった駿府年寄からの書状。宛先は主に
普請奉行の中井正清。

縄張りが決まったらすぐに材木の手配指示があり、
家康から天守は住まいじゃないから、
まず建てることが先決で内すまい(内装)は無用
という明快な指示を着工前の4月に出しているんですね。

さらに6月には御殿も天守も両方手がけていると
職人の手配がうまくいかないから、
御殿は後回しにして天守をまず上げよという指示。

そして、着工1ヵ月後の7月の書状では、
6月に材木の調達報告があったから、
大御所家康から天守着工指示があったのに
今になって材木がないとはどういうことかと
厳しく詰問する内容もありまして・・・

同時に小堀遠州に何がどう足りないかを
報告せよとの指示もあったり。

もうどんだけ天守を上げること急いでいるのかと・・
という切迫した状況を肌身に感じるわけですが、
豊臣方に対する防衛線たる名古屋城にあって、
天守を重要視していた点が興味深く。

そういや大坂城築城の際にも、秀吉が真っ先に
天守を上げることを指示していたということを
ここで思い出しましたね。

縄張りは縄張りで大事なのでしょうけど、
天守の迫力と威厳、存在感が豊臣方へのある種の
抑止力になると思われていたのでしょうか。

結局、8月には五百名近い職人が集まり、
年末には天守が完成の運びとなるのです・・・

■本丸御殿

本丸御殿については、安藤重信から中井正清へ
本丸御殿の障壁画の見積もりを出すよう、
指示があった内容が興味深い。

・・・というのも、1614年の1月銘なんですが、
1615年1月には本丸御殿が完成。

起こした障壁画は1,000点以上に及ぶわけで、
毎日完成させても3点/日くらいで描く必要があり、
ものすごいスピードでシゴトをこなしていることが
わかるんですよね・・すごすぎる。

その割りには、1620年二の丸に徳川義直が
移って以降空き家状態だったそう。

それでも、意匠に手を加え続けられ、
家光の将軍宣下が京で行われた際の帰路に
名古屋に立ち寄った際にも饗応のために
慶長期の奥・中奥を破却して御成書院などを新築。

いやいや・・・・この頃はものすごい金の使いよう。
家光自身が指示を出したわけではないにせよ、
バブルというかなんというか・・いやはや。

ただ、この後長く使われることはなく、
城内にあって天守ともに封印された空間になっていく。

それでも、定期的に清掃されてはいて、
代替わりなどには藩主が天守と本丸御殿を
巡覧するのが慣わしとなっていたそうです。

奥村得義が金城温古録をまとめるに当たり、
集めた資料集である国秘録という書物に
十代藩主斉朝以降の巡覧の様子がまとめられています。

藩主の巡覧、藩士たちにとっても滅多に行けない
本丸内への立ち入り・・・でしょうから
楽しみだったりしたのだろうかななどと想像。
いや、緊張のひとときか・・・

■金城温古録

今回圧巻だったのが、奥村得義が生涯かけて
名古屋城のあらゆることを書き残した「金城温古録」。

驚くべき量とその精緻な描写。灰燼に帰したとはいえ、
江戸時代の名古屋城の様子がここまでわかるのは
彼の成果のよるところが大きいのでしょう。
史料を残してくださった奥村得義に感謝感謝ですね。

彼自身は、前半部を1860年に書き上げて藩に献上。
後半部の草稿を残して1862年に没し、
明治維新の混乱もあって、養子の奥村定が後半を
書き上げたのは実に40年後の1902年。

後半部を尾張家に献上するとともに、もう一点清書を
完成させて名古屋市役所の市史編纂所に献じたとか。

(1)石垣
石垣に関しては、天守台の構造なんかも採録されていて
天守があるにもかかわらず、どのように調べたのか・・・
他にも天守台の天守北面丑寅の隅石に字が彫ってあって、
「加藤肥後守内小代下総」とあるという紹介も。

天守台が清正配下の飯田覚兵衛(あの飯田丸五階櫓の!)が
朝鮮出兵時に石垣構築の法を学んで天守台を築いたとあり、
今になって石垣を自由に組めるのは、清正の功だ!
と奥村得義は清正絶賛しているのがおもしろいですね。

(2)鯱
北面は雄で南面が雌(初めて知った)というらしいが、
その根拠になっているのも、金城温古録。
本来はその区別はないはず・・なのだけど、
金城温古録を書き上げた当時にはすでに、
そういう言説があったのを取り入れたらしいですね。

(3)畳
金城温古録付属の御天守御畳員数図に
初重から五重目までで1762畳も必要でうち、
936畳が不足・・などと書いてありましたよ!

そもそも畳をぎっしり敷いていたと
記録にちゃんと残ってるのを初めて見たのですが、
おそらく特別サイズの畳でしょうから、
天守の広さが再認識できますね・・・!!

(4)名古屋城のたゆまぬ修理の記録
金城温古録にもありますが、その他の資料も含め、
修理に関する記述もまた興味深いんですよね・・・

宝永年間(18世紀初頭)の修理記録では、
東南隅櫓、御旗多門、干飯櫓、東一の門、東二の門が
修理された際の瓦の新作枚数516万枚。
ものすごい大量の瓦ですよね・・・
宝永4年(1707年)には地震があったそうで、
それを受けた修理のようですね。

しかし、宝暦年間の1755年にも天守の修理がありますが
何度も地震を受けつつも、致命的な倒壊に至らず
修理で済んでいるあたり、すごいな・・・と感嘆。

もちろん、修理に関して一番大きな見所は、
宝暦年間の天守の傾きを修正した天守大修理ですね。

個人蔵で最近紹介されたらしい断面図と立面図がすごい。
立面図は平地割と妻地割が揃っています。

図面だけ観ると江戸城天守に似ていて、根本構造は
江戸・大坂・名古屋で共通していたんだろうな、と。

ポイントは宝暦修理時の記録で修理前の現況を
書き記したもの、つまり慶長創建時に近い図面である、
という点。雨樋がないところがポイント。

断面図も極めて詳細な寸法が書かれてあり、
外観の様子はともかくとして、慶長創建時の様子まで
わかるなんて、名古屋城大天守すごい・・・・

宝暦の修理記録の写しや修理の手順を
時系列に示した日記だとか、天守五重目乾の間にあった
天守からみた見通し絵図と地名方角を記した資料も。

領地を天守から把握するための目的があったんでしょう。
でも、ある時期からはほとんど上られないわけで・・・
もっと活用したらいいのになぁ、などと後世の人間は
思ってしまうのですけど(笑)

修理前から柱に傾きや床のようす、全体的に西北へ
約40cm傾斜してたとかって記録や修理に際して、
どの柱をどう動かせばいいかの計画図まで・・・膨大。

度肝を抜かれたのが、宝暦の大天守修理の際の
修復の様子を描いた見渡し図。

P1370985

柱を立て直し、西北に石垣の孕みを是正するため、
廊下部分を解体し石垣を積み直して柱を引き上げたそう。
天守内にもひもをねじ掛けて、てこの原理で
引き上げるさまがうまく表現されているんですよ!

よくクレーンもない時代によく出来たな・・なんて
感想を聞くことがありますが、実際どうやって
建造したかはわからないことが多いと思います。

建造だけでなく、修理だってそう・・・なのですが、
この大天守修理はこうやってやるのか!と目からウロコ。
もちろん、やり方がわかっても大事業であることには
変わりはないわけで、すごいの一言です。

んで、ちょっと思ったのは、この方法が取れるのって、
層塔型天守だからかな?と思いましたね。

天守地階一階の廊下部分しか石垣に直接荷重がかからず、
穴蔵を備えて対称的な構造になっているからこそ、
力のかかり方が読みやすいように思います。

たとえば、岡山城天守が仮に傾いて同じ手法で
元に戻そうとすると難しそうですね・・・・
左右対称じゃないですからね。

いや・・・総じて思ったのは、名古屋城って
ものすごく丁寧に扱われ、大事にされてきたんだな、と。
灰燼には帰してしまったけど、極めて正確に
再建できる城郭建築が揃っていますよね。

江戸城も記録が多いですが、ここまでは。。。
もちろん江戸幕府の記録としては、徳川盛世録
という記録がありますが、「江戸城」にフォーカスした
記録としてどこまであるか、ですかね。

少なくとも、天守に関しては1945年まで残っていた
名古屋城と1657年に焼失した江戸城では、
雲泥の差がありますから・・・・

しかし、ほんとにいいものを見させていただきました。
さすが、尾張名古屋は城で持ちますね。

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