会津に武田の欠片を探して・・・その6 飯盛山・滝沢本陣・松平家墓所・山本家墓所・内藤邸跡
さて、いよいよ会津最終日。
ホントは斗南藩のあったむつ市の展示を見に行こう…
と思っていたのですが、生憎その日は休館日。
どうないしようか・・・と思っていたところ、
飯盛山で白虎隊士にささげる剣舞が
披露されるとの話を聞き、飯盛山に向かいます。
会津は何度も訪れているのですが、
飯盛山は初なんですよね・・・・
け、けっこう観光地化しているんですね・・・
白虎隊記念館。後で行こう。
けっこうな登り階段。
慰霊祭をやっている様子。鎮魂の唄が聞こえます。
ドイツの方からの寄贈の碑。二次大戦後に
わざわざ会津にまで来て切り取っていったとか・・・
軍国主義の一端とみなされたんでしょうかね?くそっ。
1935年寄贈、1953年再刻復元。
剣舞が始まる前に、白虎隊士の墓前にお参りします。
戊辰殉難五十年祭とあります。
1917年に催されたそうですが・・・・
葵紋だけでなく、葵の葉の意匠が印象的です。
隊士の墓石。おひとりおひとり手を合わせました。
容保公が詠まれた弔歌の碑。
幾人の涙は石にそそぐとも
その名は世々に朽じとぞ思ふ 源容保
剣舞始まりました。まずは一礼・・・
あ、女性なんですね。ていうか新撰組?
やあっ!
剣舞の後は、神主さんがいらっしゃいましたよ。
こうして毎年祈りがささげられているんだな…
わたしも末席に加えさせていただき、
しばし鎮魂の祈りを共にさせていただきました。
続いては・・あ、白虎隊に扮した剣舞はこっちか。
いやいや見ごたえのある剣舞でした。
すっごく練習されたんでしょうね!天晴れ!
マイクの不調でせっかくの詩吟がとれなかったのが
残念至極でありますが・・・・
生き残った飯沼定吉の墓。維新後貞雄と改め、
仙台で逓信技術者として生を全うしたとのこと。
没後に故郷に顕彰碑とともに建てられたそうな・・・・
白虎隊士が見たであろう、鶴ヶ城方向の眺め。
鶴ヶ城天守が見えますね。
白虎隊自刃の経緯に関する比較的新しい解説板。
わたしはツイートで知っておりましたが、
炎上する鶴ヶ城を落城と勘違いして・・・
というのはどうやら、俗説らしく。
敵陣突撃やおとなしく帰還するなど、
激論の末に捕らえられて恥辱があっては申し訳ない、
ということで自刃という結論に達したそう。
隣で炎上を落城と見間違えた式のとなりの
ガイドさんの解説が聞こえてくるのは、聞こえないふり(汗)
もし容保公が知っていれば、どう判断を下したかな。
そのときにはそのときの価値観があるとはいえ、
そうも白虎隊を持ち上げられない気持ちがあるのも
事実だったりするんだよね・・・
殉難なのかっていうところもね。うん。
白虎隊士の像は鶴ヶ城をずっと眺めています。
白虎隊顕彰のお社。竪三つ引両は伊達・・・??
続いて、重要文化財のさざえ堂。
一本道で上って下れる不思議な構造をしています。
いざ・・・Go!であります!
大正天皇から昭和天皇、そして今上天皇まで
歴代天皇陛下も御登臨。
ずんずん。
ずんずんずん。
ここが分岐点。
下っていきます。
ふー、一巡したらご利益あるかな?
はっ・・・あの洞窟は!白虎隊が通った道・・・
いやいや行かへんって!!
水は清らかでした・・・透明度高い!
そして白虎隊記念館にも立ち寄る。
ちょっと雑多な展示の仕方ではあるが…
鶴ヶ城鬼瓦は興味深い。元治元年銘入りとか。
1864年ですから、会津戦争数年前ですよね・・・!
続いては、滝沢本陣。
ここで容保公は白虎隊に出陣を命じたのですね。
なるほど…と八重の桜のシーンが目に浮かびます。
有栖川熾仁親王殿下、三笠宮崇仁親王殿下、
秩父宮勢津子妃殿下・・・こちらも皇族方が訪問。
その他、昨年2013年から靖国神社宮司をされている
徳川康久氏や松平保定氏(現会津松平家当主保久の父上)の
サインも飾ってありましたね・・・・!!
内装は、豪農の屋敷・・という様相です。
茅葺の屋敷もやはり木造建築の構造は
見がいがあるな・・・と感じます。
生々しい弾痕。会津戦争のものだとか…1868年。
こちらにも・・まさに戦場だったんだ、
という何よりの証拠。
刃傷も・・・
その一方で、歴代藩主使用の湯殿も。
平時も藩主がお成りになっていたんですね。
屋敷で一番広い部屋。ここにお成りに
なってたのでしょうか。
奥には容保公像。伝統的な肖像画の様式ですね。
さて・・・続いては松平家墓所。
近くに萱野権兵衛墓もあるのでそちらにも。
奥津城とあることから神式だとわかりますね。
おおぅ、近藤さんのお墓も。
そういや、八重の桜で容保公が葬ってやれと
おっしゃっていたなぁ。これか。
そして先に進むと天寧寺。
萱野権兵衛さんの墓に行ったつもりが・・・
後から見ると違うような・・・(汗)
田中家・・とはあの田中土佐のお家でしょう。
代々、「玄」を名乗る方々だったんですなぁ。
そして、近藤さんのお墓。三引き両紋入り。
なんだかエピソードを知ってると目の前にした印象が
ちがいますね・・・・揮毫は容保公だそう。
側面には、近藤勇藤原昌宜とあります。
板橋にある墓には「宜昌」あるがこちらが正しいとか。
天寧寺からまた歩くことしばらく・・・・
松平家墓所までやってきました。
こ、この石垣は・・・と萌えてしまうのは
城好きの悪い癖です(笑)
墓所に続く道。
そういえば、土津神社も石畳が傷んでいたなぁ。
あちらは整備されると聞いていたけど、
どうなっているだろうか。
亀に藩主の事蹟を刻んだ碑、というのは、
土津公に倣った様式のようです。
墓石は、「會津」+官位+「源」+諱と刻まれるみたい。
會津中将源正容之墓、といった具合。
會津侍従という方もおられました。
かなり高いところに位置する歴代藩主の墓ですが、
容保公は目線の位置におわしました。
やはり明治という時代によるものでしょうか。
没する直前に正三位を贈られ、それまでの書式ではなく
正三位松平容保之墓とあり、源容保とは書かれていません。
昨年の八重の桜、容保公はどのように
ご覧になっていたのでしょうね・・・・
神式で葬る会津藩。容保公は忠誠(まさね)霊神
との霊号をお持ちです。まさにその忠誠は
孝明帝への忠誠・・・・
忠誠霊神碑。事績を記した碑を持つ
最後の会津松平家当主ですね。
容保公以後は合葬です。松平家之墓。
容保公以後も藩祖土津公以来の霊号は継承。
十一代容大さんは存誠(もちざね)霊神、
弟で十二代保男さんは海誠(わだざね)霊神。
保男さんは海軍少将にまでなった海軍軍人ですから
海誠霊神という霊号もその経歴にちなんだのでしょうね。
墓所を支える立派な石垣は切込接…と思ったら。
こちらの石は加工度がちょっと甘い。
時代が違うんだろうかな。
帰り際に、唯一仏式の保科正経墓に立ち寄ります。
法名は鳳朔院。
ここの石垣は見事な切込接でした・・・
さっきの加工度の甘い石垣はいつの頃なのでしょう?
そして、墓所を出る間際・・・歴代松平家愛馬の墓。
お馬さん大切にしたはるんや・・・
墓所前には容保公の看板。
続いて大龍寺。この日はお墓参り日でしたね。
ここには歴代山本家の皆々さまの墓が。
八重さんが1931年、高祖父の時代から
菩提寺としていた大龍寺にまとめたそうです。
時に八重さん87歳。キリスト教に目覚めた八重さんが
こうしてご先祖さまのお墓の整備のために
お寺を訪れていたのはなんだか興味深いですね。
八重さん、字上手・・・
逆光で見えにくいですが、
昭和六年九月合葬 山本権八女京都住新島八重子之建
という字が読み取れます。
さて・・・そろそろ会津を離れる時間です。
例によって(?)スーパーニッカ缶を買い込みます(笑)
まだ少し時間があることだし、いいところで飲もう!
ということで再び内藤邸へ。
池は涸れていますが、往時の内藤家の屋敷を
想像しながら・・・・酔い時間。
内藤さん、かんぱーい(笑)
さて、駅に戻りますか・・・夕陽がきれいやわ。
何気に気に入った天ぷら饅頭もぐもぐしながら・・・
楽しい会津旅終了!てかもう4ヶ月も前なんだ・・・
また会津行きたいなーっ!
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