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武田家宗家と武田史跡を訪ねるバスの旅…その2 信玄に始まる甲斐の治水

さて、続いては信玄堤に始まる治水事業をたどります。
お昼を頂いたところで、甲斐の虎武将隊の松姫さまと合流。
たぶん信玄公誕生祭の打ち合わせかな?
この流れで後半の史跡めぐりにお越しになっていました。

んで、治水?興味あんの?と思われるかもしれませんが、
実は非常に興味があるところでして・・・・

というのは、築城も治水も土木工事であることは
間違いなく、信玄堤の構想とその実行力が
武田の築城術に連なるだろうな?
と思っているからなんですよね。

以前、堤の部分だけは行っているんですが・・・
どうやらそれだけでは信玄堤を理解したことにはならんな
とうすうす思っていたわけで、今回なるほど!
と一気にクリアになった気がします。

一応、堤の看板でも勉強したのですが、
基本は御勅使川と釜無川と交わる交点を北にずらし、
崖(高岩)で御勅使川の流れ弱めつつ、堤で受け流す・・・・
というのが基本的な考え方。

131222_2005_003

まず南へ流れる御勅使川の流れを北に変えなくては。
遡ること約8km前に石積出を何重にも形成し、
少しずつ少しずつ北に流していくのがまず第一歩。
堤を築くよりも、流れを変えるのが先…というわけです。

絵図にもこんな風に描かれています。
(江戸時代)

131222_2005_002

この御勅使川、洪水が多い「水出川」が語源とも、
また天長年間(824年~834年)に三回の大洪水があり、
その度に勅使が下向した、ということに由来するとも。
いずれにしても、名前の由来からしてものすごい暴れ川
ということはよくわかる名前ですね。

■石積出

ということで、降り立ったのは石積出二番堤。
もちろん信玄時代以降、何度も流されては再建されていて、
信玄時代のものではないですが、その考え方は
江戸時代以降も活かされています。

P1350578

P1350579

興味深かったのは、若き晴信自身が治水の重要性を
よく理解していたというだけでなく、信虎によって
甲斐がまとまったことによって、初めて甲斐上げて
大事業に取り組めた・・ということ。

信虎はやりそうにないですが(汗)信虎の手腕なくしては、
信玄堤にも取り掛かれなかったわけですね。

この堤自体は、信玄時代に築かれていたという
確固たる証拠は文書でも発掘調査によっても、
いまだ確認はされていませんが、信玄堤だけつくっても
まったく意味がない・・ということなので、
何らかの川の方向を変える取り組みはあったんだろう、
といわれているそうです。

一方、信玄堤は保坂家文書として残されている
晴信が竜王の堤防付近に住む人々を募集する文書があり、
これが晴信が築いたとされる直接的な証拠。

ちなみに、石積出と将棋頭は国指定史跡になっていて、
城館や古墳などが圧倒的な割合を占める中で
数少ない堤防史跡に指定されているそうです。

三番堤。二番堤もそうだったんですが、
実はこの高さではなく下半分が埋まってます。

P1350583

この三番提は一部を下まで残してくださっていて、
本来の高さがわかるようになっています。

P1350584

・・・ということは、この堤今は現役ではないんですね。
現役ではないからこそ、史跡になっているわけです。
一方、信玄堤は今でも現役で竜王のまちを守っていて、
史跡にはならないそう。そう「跡」じゃないですからね(笑)

このように、流れを変える堤は全部で5つあり、
ひとつ決壊しても次が次が・・連続的に堤が築かれてます。
この時代の知恵であり、また制約でもあったわけですが、
近現代になってデカくて強い堤防さえ築いていればいい、
という発想に変わってきて・・・そうあのスーパー堤防も
そんな発想を象徴しているようにも思えます。

が・・・壊れない、高い堤防をいくら築いても、
それを乗り越えてくるのが自然の脅威。

「壊れないをつくろう」という発想自体が
ある種の「人間の驕り」を含んだ産物なんだろうなぁ・・と
学芸員の方の説明を聴いて考えていました。

燃えない天守をつくろうとして、コンクリート天守を
ボコボコつくってきた歴史とどこか被るようにも・・・

閑話休題。

信玄時代に「石積」だったかどうかはわからないけど、
基本は土塁に河原の石で補強するという感じ。
城の石垣とは違って、裏込石はなさそう。

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なんやけったいなサボテンが・・・(笑)

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■枡形堤防・六科(むじな)将棋頭

次に訪れたのが、将棋頭。
将棋の駒の上の部分に似ているため、
こう呼ばれるそうなのですが・・・

石積出で北に流れを誘導した後、「く」の字の石積を
形成し南北に流れを分断。洪水の被害の元になる
南(前御勅使川)の水流を弱めるのが六科将棋頭。

一方、枡形堤防は北に流路を変更した中にあって
普段水流があまりない(耕作に役に立たない)ため、
釜無川の水を引いた徳島堰の取水口を守っている堤防。

徳島堰は御勅使川の河原をどう抜けるか・・・が
難所だったそうで、洪水のたびに流されていたのを
江戸の玉川上水の技術を暗渠化して通す一方、
取水口だけを地上に出し、この枡形堤防で
洪水から守るというしくみ。

こちらは、江戸前期にできたものですが、
将棋頭として完存している遺構です。

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ちょうど船の先端にいるような感じですね!

P1350597

航空写真で見たらこんな感じ。
左右に流れを分けています・・・なるほろ。

P1350595

こちらは明治40年(1907年)の甲州大水害後に
補修された姿であるそうですが、長くメンテナンス
され続けてきた歴史を大切にしたい・・・・
とおっしゃる学芸員さんのお話にナットク。

この水害でもはや御勅使川を南に流してはいけない・・・
ということで埋め立てられ、昭和になって
道路になったのだそうですね。

取水口。今はバルブになっています。

P1350592

以前は木々で覆われてしまい、なにここ?
と地元の方も思っていたくらい、忘れられた遺跡。
取水口は機能していたので、森の中に井戸が…
みたいな感じだったそうです。

それを今回のツアーの企画元であるNPO法人
南アルプスファームフィールドトリップさんが、
ヤギを一定期間放牧し、ヤギに草を食べて
もらおうという作戦
で、キレイになって往時の姿が
現れた・・のだそうですよ。ヤギさん感謝!

上のリンクによると、武田氏館跡も定期的な除草が
必要・・・とあって、たぶん西曲輪や味噌曲輪あたりを
指しているんだろうなと思われます。
ヤギさんが武田神社の新たなシンボルになるかも?(笑)

そして、六科将棋頭。これは信玄時代からあったと
推測される(ただし文献等では未発見)そうですけれど、
もちろんこちらも何度も補修されてきています。

航空写真で見るとわかりやすいのですが、
現在では、御勅使川の南流れ(前御勅使川)が埋め立てられ
六科将棋頭が使われなくなったため、
南側が破壊されてしまっています・・・

P1350606

残る北側の石積。石は河原石と思われる小さな石で、
積み方はちょっと谷積っぽい。江戸時代の石積は
残るはずがない・・とは思っても、甲府城の石垣と
比べることができたら、面白かっただろうな。

P1350608

この将棋頭の内側には、戦国時代から水田が広がり、
石高の少ない武田領にあって兵糧を支えていたんだなぁ…
と思うと感慨深いですね。そして今も耕作地。

P1350610

やはり裏込石はなさそう。その上に建造物を
建てることが前提になっている城の石垣とは
目的が違うからでしょうかね・・・・?

P1350611

石積を降りてみます。梯子型の土台を設け、
その上に石を積み上げるとともに、
根固めとしてもう一列伸ばしています。

P1350614

アップ。この碁盤の目状になっているところに
梯子型の木製土台が埋まっているわけです。

P1350615

ちなみに過日訪れた甲府城の石垣展示室にあった
甲府城石垣の胴木。学芸員さんにお聴きしたところ、
この技術はどうも築城術からの応用ではないかとのこと。

P1350159

胴木も軟弱地盤の上に石垣を築くための知恵で、
こちらも不均等に石が沈まないようにする仕組み。
共通性が興味深いですね。

■信玄堤

本来はこのあと、加賀美遠光邸跡に行ったのですが、
内容の連続性の都合上(汗)翌日の信玄堤。

紅葉がきれいでございました!
桜に紅葉に・・信玄堤にはこういう楽しみもありますね。

P1350700

実は1日目にも少し通ったのですが・・・
信玄堤って現在でも二重になっていてですね、
内側にあるこちらの堤防が信玄時代の堤が
そのまま残っているところなんですって☆

P1350565

お話で面白かったのが、保坂家文書以外にも
信玄堤の存在を傍証する史料があるそうでして・・・
竜王のとある古いお宅にあるという、
水路に掛けた石橋に永禄四年に掛けたとあるそう。

そして何度か修復されている釜無川に沿った信玄堤。

P1350705

ちょうど増水したあとで流されてきた木々の枝などを
聖牛が絡め取っているのがよくわかりますよね。

P1350714

聖牛ってこういうヤツね。

P1350713

コンクリートで一時期造られたときもあるそうですが、
また木に戻っています。実はコンクリート製の聖牛、
木に比べてもちろん頑丈なんですが・・・

結局自然には勝てないこともあるわけで、
耐えてくれればいいんだけど、耐え切れずに
流れて行った場合、コンクリートが堤防を傷つける
など問題があるそうで、木に戻ったそう。

そして、竹蛇籠も軽くて丈夫で見直されてるそう。
鉄だと運ぶのに大変でクレーン必須。
でも、竹蛇籠つくることができる職人が
山梨県にもはや3人しかいないとかで・・・

あれが高岩。アレにぶち当てようと
流れを変えたわけですね・・・

P1350706

高岩を穿って通しているトンネル。
実はここから釜無川の水を引き入れて、
農業用水にして使っていた頃の名残だそう。

P1350710

江戸時代の絵図にも描かれていて、
長く使われていたことがわかります・・・
信玄時代にはどうだったか、訊くの忘れました(泣)

P1350718

三社神社。甲斐の一ノ宮から三ノ宮までの神様が
集まって水防祈願祭をするそう。
竜王だけでなく、甲府盆地を守る要の地に建つ神社。

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■霞堤

さて、霞堤。こちらは完全に江戸期の堤ではありますが
地元では信玄堤と呼ばれることもあるそうで…
まぁ、信玄の目指した思いを継ぐ堤という意味では
間違っていないともいえますかね。

P1350724

これ、柵平されているわけではなく
もともとこのような低い堤防だったそうでして、
乗り越えられることを前提にいくつか配して
水流を弱めるための堤防なんですね。

P1350730

ここでもムリに自然に抗うのではなく、
農耕にインパクトがないようにどう付き合っていくか?
を考えた末のアイデアなんでしょうな。

これによって、竜王の南にも耕作地が
どんどんと広がっていくことになります。

P1350726

ただ、こうすると今度は西側が洪水の被害に
見舞われることになってしまい、
最終的には堤防をずっとつなげて、狭い範囲に
釜無川を閉じ込めてしまうようになります。

P1350727

なるほど・・・甲斐の歴史は洪水の歴史でもあるんだ、
と非常に勉強になりましたね。自分ではなかなか
こういう視点では見ないと思うし・・うん。

ということで、1日目の宴会へ・・・

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